玄関に魚の生首が刺さっている、という日常
子どもの頃、二月の頭に祖母の家へ行くと、門柱のところに魚の頭が刺さっていた。焼かれて黒く縮んだ鰯の頭で、目玉のところが白く濁って、口が半分開いたまま固まっている。その下に、棘だらけの濃い緑の葉。風が吹くと葉がカサカサ鳴って、頭がわずかに揺れる。誰も何も説明してくれなかった。ただ「触ったらあかん」とだけ言われた。あれは何だったのか、と大人になってから調べて、正体を知って余計に怖くなった話をしたい。
あれは柊鰯という。ひいらぎいわし、と読む。節分の日に、柊の小枝に焼いた鰯の頭を刺して、玄関や門口に飾る。日本中でやられていた、というか今もそこそこの範囲でやられている、れっきとした呪具だ。
かわいい季節の飾りとして紹介されることが多いんだけど、成り立ちを追っていくと、これは本当に「刺す」ための道具で、「臭わせる」ための道具なんだよな。柔らかい言い方を全部剥がすと、こうなる。鬼の目玉を棘で突き刺し、腐りかけの魚を焼いた悪臭で吐き気を起こさせて、家に近寄れなくする。門の前に置かれた、視覚と嗅覚への攻撃装置だ。
そもそも柊鰯って何なんだ
構造はごく単純だ。柊の枝を一本用意する。柊の葉というのはヒイラギモクセイやセイヨウヒイラギも含めて、縁がギザギザに尖っていて、しかもその尖りが硬い。うっかり素手で握ると本当に痛い。「ひいらぎ」という名前自体、疼く・ひりひりするという意味の古語「ひひらく」から来ているという説がある。その枝に、鰯の頭を刺す。生のまま刺す地域もあるが、多くは焼く。塩をきつくした鰯を火にかけて、脂が落ちて煙が上がって、あの独特の生臭さが立ちのぼるまで焼く。それを、玄関の脇に括りつけるか、戸口に挿すか、軒に吊るす。
つまり柊鰯には二種類の武器が仕込まれている。ひとつは物理攻撃、もうひとつは化学兵器だ。柊の棘は鬼の目を刺す。焼いた鰯の悪臭と煙は、鬼の鼻を潰す。ご丁寧に二重の防御なのがいい。
日本の魔除けって、お札とか注連縄とか、抽象的で上品なものが多い印象があるけど、これは違う。極めて即物的だ。攻撃対象の身体を想定していて、目と鼻という具体的な器官を狙っている。鬼には目があり、鼻がある。臭いものを嫌がり、痛いものを避ける。そういう前提が、あの小さな飾りの中に丸ごと詰まっている。
「やいかがし」――焼いて、嗅がせる
西日本ではこれを柊鰯とは呼ばない。「やいかがし」と呼ぶ。焼嗅、と書く。焼いて、嗅がせる。動詞そのままだ。地域によって「やっかがし」「やいくさし」「やきさし」と訛りが揺れる。奈良の一部では「やいくさし」の音が残っていて、これは「焼き串刺し」が縮んだものだとも言われる。
名前が語っているのは、この呪具の本質が「飾ること」じゃなくて「焼いて臭わせること」だという事実だ。見せるための飾りじゃない。嗅がせるための装置なんだよな。
面白いのは、東日本に行くと構成物が増えることだ。東京近郊では豆柄が加わる。豆柄というのは大豆を収穫したあとの茎や枝のことで、これを一緒に束ねる。豆柄は焚くとパチパチと爆ぜる。ここでも音による威嚇が足されている。棘、臭い、音。三重になっている家もあったわけだ。関東の一部では鰯ではなくニンニクや葱の根を吊るす例もあって、要するに「鬼が嫌がるくらい強烈な何か」であれば代替が効いた。魚である必然性は、実はそれほど強くない。
土佐日記に出てくる、ボラの頭
この風習、いつからあるのか。よく引き合いに出されるのが紀貫之の『土佐日記』だ。承平五年、つまり九三五年前後に書かれたとされるあの日記の中に、正月の門口の描写が出てくる。注連縄に、柊の枝と「なよし」の頭を刺してある、と。なよしというのはボラのことだ。鰯じゃない。ボラだ。しかも節分ではなく正月の飾りとして書かれている。つまり平安の段階では、対象の魚も、飾る時期も、今と違っていた。
ここが重要なところで、柊鰯は「柊に魚の頭を刺す」という骨格だけが古く、中身は時代と土地で入れ替わってきた。ボラが鰯になったのは、鰯のほうが安く手に入り、焼いたときの臭いが圧倒的に強かったからだろう。鰯という字は魚偏に弱いと書く。傷みが早く、身分の低い食べ物とされていた。そんな卑しい魚だからこそ、穢れを引き受けさせるのにちょうどよかった、という見方もある。上等なものは魔除けにならない。臭くて、安くて、すぐ腐るもの。そういうものが門の外で身代わりになってくれる。
追儺のはじまり――慶雲三年、疫病の年
柊鰯の背景には、もっと大きな行事がある。追儺だ。ついな、と読む。別名を鬼やらい、あるいは儺やらい。これがなければ節分は生まれていない。
日本での最古の記録は『続日本紀』にある。慶雲三年、西暦で言えば七〇六年。文武天皇の御代だ。この年、諸国で疫病が大流行して、たくさんの人が死んだ。その対応として、十二月の晦日に土牛と大儺を造らせた、と記されている。土で牛を作り、大がかりな儺の儀式を行った。
ここが日本における追儺のスタート地点だ。つまり最初から、これは疫病対策だった。目に見えない病気を、目に見える鬼という形にして、儀式で外へ追い出す。祭りではなく、防疫だったんだよな。
元は中国の宮中行事だ。あちらでは「大儺」と呼ばれ、『論語』にも「儺」の字が出てくる。古くは年に三度やっていた時代もあって、これを三時儺という。隋の頃には春・秋・冬の三回だったという記述がある。それが日本に入ってきて、大晦日の一回に集約された。年が変わる境目、一年で最も境界が薄くなる夜に、溜まりに溜まった疫気をまとめて外へ叩き出す。理屈は通っている。
四つの目を持つ男、方相氏
追儺の主役は鬼じゃない。方相氏という役だ。ほうそうし、と読む。この男の姿がとにかく異様なんだよな。
頭にかぶるのは四つの目を持つ方形の仮面。黄金に塗られた四つの目が正面を睨んでいる。体には熊の皮をまとう。手には戈と大楯。真っ赤な衣に黒い上着という記述もある。この装束で内裏を歩き回る。従うのは侲子と呼ばれる少年たちで、二十人前後。彼らも赤い頭巾に赤い衣を着けて、方相氏の後ろに列を作る。
手順はだいたいこうだ。まず陰陽師が祭文を読み上げる。疫鬼よ、四方の彼方へ去れ、去らなければ神の兵に食われるぞ、といった趣旨の文言だ。読み終わると方相氏が楯を戈で三度打ち鳴らす。ガン、ガン、ガンと、木の音が夜の内裏に響く。侲子たちがそれに合わせて声を上げる。そして行列は内裏の四方の門を巡り、鬼を追い立てていく。最後に鬼は宮城の外へ逐い出される。この一連が、鬼やらいだ。
想像してほしい。旧暦十二月の晦日、つまり冬の一番深いところ。灯りは松明と篝火だけ。その暗がりを、四つ目の面をつけて熊の皮を着た男が、楯を打ち鳴らしながら歩いてくる。子どもたちが叫びながらついてくる。今の感覚で言えば、これ自体がホラーの映像だ。追い払う側のほうが、どう見ても怖い。
そして方相氏は、追われる側になった
ここからが、この話の一番ぞっとする部分だ。
九世紀の頃を境に、方相氏の立ち位置が反転する。鬼を追っていた男が、追われる鬼になった。もともと方相氏に向かって矢を射るわけがない。彼は味方だ。ところが儀式の中で使われる桃の弓と葦の矢の使われ方が変わっていき、いつの間にか、その矢が方相氏に向けられるようになる。四つ目の異形は、疫鬼そのものだと見なされた。『公事根源』などの後世の書物では、方相氏をはっきり「鬼」として記述している。
なぜこんな逆転が起きたのか。一番わかりやすい説明は、単純に「見た目が鬼すぎた」というものだ。儀式の意味を知らない後代の人間、あるいは中下級の参列者から見れば、四つ目で熊皮で武器を持った異形が一番の化け物に見える。誰かを追い出す祭りで、一番異形な奴が追い出される役になるのは、感覚として自然だ。
もうひとつは、方相氏という役を担ったのが大舎人寮の下級官人であり、しかも葬送の際に棺の前を歩いて悪霊を祓う役目も兼ねていたという事実だ。死に近い仕事をする者は、いつの間にか死の側の存在として扱われる。祓う者が、祓われる者になる。
この反転は、日本の鬼観の根っこにある気がする。鬼というのは最初から鬼だったんじゃない。何かを守る役目を負っていた者が、役目ごと外側へ押し出されて鬼にされる。柊鰯が刺しているのは、もしかしたらそういう存在の目なのかもしれないんだよな。
桃の弓、葦の矢が方向を変えた
細かい話をすると、追儺で使われる武器には意味がある。桃は中国以来の辟邪の木で、鬼を祓う力があるとされた。葦もまた、境界に生える植物として呪力を持つ。この桃の弓と葦の矢を、群臣が持って射る。当初はおそらく四方の闇に向けて、つまり「鬼のいる方角」に向けて射ていた。それが、いつからか場の中央にいる異形、つまり方相氏に向かうようになる。矢の向きがくるりと変わる。その一点で、彼の運命が変わった。宮中の追儺は鎌倉以降だんだん衰えて、江戸期には完全に行われなくなる。方相氏という役は、鬼にされたまま歴史から退場した。
豆はいつから飛び始めたのか
現代の節分といえば豆撒きだ。ところが追儺の記録に豆は出てこない。方相氏も侲子も、豆なんか撒いていない。彼らが使うのは戈と楯と、桃の弓と葦の矢だ。豆はどこから来たのか。
はっきりした発生時期は分かっていない。ただ、南北朝の頃には既に豆を打つ行為が確認できる。有名な記録が『臥雲日件録』で、文安四年、西暦一四四七年の十二月二十二日の条だ。翌日が立春なので、日暮れに家の各部屋で豆を撒き、「鬼は外、福は内」の四字を唱えた、という趣旨のことが漢文で書かれている。この時点でもう掛け声が今と同じなのが凄い。五百七十年以上、我々は同じ四文字を叫び続けている。
文安四年十二月二十二日の記録
この記述の面白さは、場所が「家毎室」であることだ。宮中の大がかりな行列ではなく、家の中の部屋ごとにやっている。追儺は宮廷の儀式として衰えていく一方で、庶民の家の中に降りてきて、小さく分裂して生き延びた。方相氏の戈は、家の主が握る一掴みの炒り豆になった。侲子の隊列は、はしゃぐ子どもたちになった。壮麗な国家儀礼が、台所の炒り豆に縮んだ。この縮小のしかたが、逆にしぶとい。行事は規模を落としたほうが長生きする。
「魔滅」と「魔の目」――語呂合わせの呪術
なぜ豆なのか。ここには複数の説明が絡み合っている。
ひとつは語呂だ。豆はマメ。これを「魔滅」と当てる。魔を滅する。もうひとつは「魔の目」。鬼の目、つまり魔の目に豆をぶつけて潰す。この二つの読みが同時に流通していて、どっちが先かも決着していない。ただ「魔の目」の読みは柊鰯と完全に接続する。柊の棘も鬼の目を刺す。豆も鬼の目を潰す。節分という日は、徹頭徹尾、鬼の目玉を狙う日なんだよな。この執拗さは何なんだと思う。
民間伝承には、鞍馬の奥に出た鬼の目に炒り豆を投げつけて退治した、という話が残っている地域がある。京の都を荒らす鬼が現れたとき、毘沙門天のお告げに従って豆をぶつけたところ、鬼の目に命中して退散した、というやつだ。話の骨格が「目に当たった」で成立している。なぜ豆かの答えは、豆が小さく硬く、狙って投げれば目に入るからだ。米や麦じゃ軽すぎる。石じゃ家が壊れる。ちょうど良い凶器としての大豆。
もうひとつ実務的な理由として、必ず「炒った豆」を使うという決まりがある。生の豆だと、撒いたあとに芽が出るからだ。魔を封じたはずの豆から芽が出るのは縁起が悪い、というより、追い出したものが根を張って戻ってくることになる。だから火を通して殺す。この「二度と芽吹かないよう処理する」という発想、ちょっと怖くないか。
なぜ年の数だけ食うのか
撒いたあと、自分の年の数だけ豆を食べる。あるいは年の数プラス一粒。この「プラス一」は数え年に合わせるとも、来年の分の無病息災を先取りするとも言われる。
意味としては、豆に宿らせた力を体内に取り込む、という話になる。魔を滅する力の粒を、生きてきた年数分だけ飲み込む。だが別の見方をすると、これは自分の年齢を毎年きっちり数え直す儀式でもある。子どもの頃は嬉しい。八粒、九粒と増えていくのが誇らしい。三十を超えたあたりから急に虚しくなる。四十粒の炒り豆というのは、はっきり言って多い。顎が疲れる。歳を取るというのがこんなに物理的に面倒なことなのか、と口の中で思い知らされる。うまくできてるなと思う。年齢を「重い」と感じさせる装置になっている。
地域によっては、食べる代わりに豆を紙に包んで川に流したり、辻に捨てたりする。歳の数の豆に自分の厄を移して、身体の外へ出す。食う地域と、捨てる地域。真逆に見えて、どちらも「豆に年齢を数えさせる」という点では同じことをやっている。
大豆じゃない地域がある
節分の豆といえば炒り大豆、と思っている人は多いが、北海道と東北、それに新潟あたりでは殻付きの落花生を撒く。これがけっこうな比率で定着していて、スーパーでも節分コーナーに落花生が山積みになる。鹿児島や宮崎の一部でも落花生を使う。
理由は極めて実用的だ。雪だ。庭や玄関先に大豆を撒くと、雪の中に沈んで二度と見つからない。落花生なら殻が大きくて目立つし、拾って殻を剥けば中身は清潔なまま食べられる。掃除も楽だ。合理性で伝統が上書きされた例なんだけど、こうなると「魔滅」の語呂も「鬼の目を潰す」の物理も消える。落花生は魔滅ではないし、目に当てるにはでかすぎる。呪術としての意味は死んで、行事としての形だけが残る。
北海道では甘納豆状の豆を撒く家もある。撒いた豆を子どもが拾って食べる前提だから、最初から甘いものにしてしまう。これはもう完全にイベントだ。ただ、そういう形骸化を笑う気にはならない。形骸化しても続いているという事実のほうが、意味が正しく保存されているより強い。意味は忘れられても、動作は残る。動作が残っていれば、いつかまた誰かが意味を発掘する。
「鬼は外」を言わない家々
さて、ここからが本題だ。日本には「鬼は外」と言わない家が、けっこうな数ある。
鬼を祖先に持つ家
最も分かりやすいのが、鬼を祖先とする伝承を持つ家だ。群馬県藤岡市の鬼石地区は、地名からしてそうだ。ここは鬼が投げた石が落ちた土地という由来を持っていて、鬼は追い払う対象ではない。だから掛け声は「福は内、鬼は内」になる。鬼を追い出した他所の土地から流れてきた鬼を、受け入れる。追い出す祭りの日に、追い出された者を迎え入れる集落があるというのが、いい。
栃木の鬼怒川温泉でも「鬼も内」と言う。宮城県村田町では「鬼は内、福も内」。福島県二本松市に至っては「福は内、おにー外」と唱える。これは旧丹羽藩の殿様の名が丹羽だったため「おにわそと」が「お丹羽、外」に聞こえてしまうのを避けた結果だという。茨城県つくば市の鬼ケ窪では「あっちはあっち、こっちはこっち、鬼ヶ窪の年越しだ」という、もはや掛け声ですらない中立宣言をする。
名字に鬼がいる人たち
もっと切実なのは、名字に鬼の字が入っている家だ。鬼頭さん、鬼沢さん、九鬼さん、鬼塚さん。この人たちが「鬼は外」と叫ぶと、自分の家を追い出すことになる。だから言わない。「福は内」だけを繰り返すか、別の口上に差し替える。
これ、想像すると相当に妙な光景なんだよな。日本中が「鬼は外」と叫んでいる夜に、その一軒だけが「福は内、福は内」とだけ言い続けている。子どもが「なんでうちは鬼は外って言わないの」と聞く。親が「うちは鬼やから」と答える。答えを聞いた子どもが、その意味を本当に理解するのは何年か先だ。自分の家の名前に、追い出される側の字が入っているという事実。それを飲み込んで生きる。
鬼を祀る寺社たち
寺社にも「鬼は外」を禁句にしているところが少なくない。千葉の成田山新勝寺は「福は内」だけを唱える。本尊の不動明王の前では鬼さえも改心するのだから、追い出す必要がない、という理屈だ。名古屋の大須観音も同じく「福は内」のみ。
埼玉県嵐山町の鬼鎮神社は「福は内、鬼は内、悪魔外」。奈良の元興寺は「福は内、鬼は内」。新宿歌舞伎町の稲荷鬼王神社も「福は内、鬼は内」。奈良県天川村の天河神社は「鬼は内、福は内」と、鬼を先に呼ぶ。吉野の金峯山寺蔵王堂は「福は内、鬼も内」で、ここでは追い出された全国の鬼を集めて改心させるという趣旨の法要が行われる。
極めつけは京都府福知山市の大原神社と、神奈川県川崎市の千蔵寺だ。前者は「鬼は内、福は外」、後者は「福は外、鬼は内」。完全に逆転している。福を外に出して、鬼を内に入れる。東京台東区の真源寺、いわゆる入谷の鬼子母神は「福は内、悪魔外」と唱える。鬼子母神は鬼の字を持つ神なので、鬼を外へは出せない。
埼玉県秩父の三峯神社に至っては、豆を撒くたびに参列者が「ごもっともさま」と合いの手を入れる。何がごもっともなのか。おそらく神の言うことに全面同意しますという意味なのだが、鬼を追う夜に全員で「ごもっとも」と唱和している画は、笑うより先に少し不気味だ。
恵方巻という新しい呪術
近年の節分といえば恵方巻を無視できない。あれは何なのか。
発祥は大阪の船場あたりとされる。研究者の見解では、もともとは商家の旦那衆が花街で遊女相手に太巻きを使った戯れをしていたのが原型で、それが明治の末には一般家庭にも広がり始めていた、という筋書きだ。上品な起源ではない。
商業的に押し出されたのは昭和七年、一九三二年だ。大阪鮓商組合後援会が「幸運巻寿司」という名前でビラを発行した。その年の恵方を向いて、無言で一本の巻寿司を丸かぶりすれば幸運に恵まれる、と書いてある。昭和十五年、一九四〇年にも同組合が再びビラを撒いている。この時点で「怪しげな風習が、本物であるかのような装いを得た」と評されている。一九七〇年代後半になると、大阪の海苔組合や厚焼組合がスーパーの依頼でビラを作り始める。海苔を売りたい人たちが、海苔を食べる理由を配って歩いた。
決定打は一九八九年だ。広島県の一部のコンビニが太巻きを売り出した。この時に「恵方巻」という名前が使われたとされる。一九九八年に全国展開が本格化して、二〇一六年には六百六十万本以上が売れた。三十年足らずで、全国の年中行事になった。
ここで面白いのは、恵方巻の「無言で食べる」というルールだ。これは呪術の文法として完全に正しい。喋ってはいけない、途中で止めてはいけない、決まった方角を向かなければいけない。制約が多いほど呪術は本物っぽく見える。作られた伝統が本物になるための条件を、恵方巻はきちんと満たしている。研究者も、将来的にはこれは確実に伝統になるだろうと述べている。我々は伝統が生まれる瞬間を、コンビニの棚の前で目撃したわけだ。
柊鰯はいつ出して、いつ下ろすのか
話を柊鰯に戻す。あれ、いつ飾るのか。実は決まっていない。
最も多いのが節分当日の夜、豆を撒く前後に飾るやり方だ。次に多いのが小正月の翌日、つまり一月十五日か十六日から節分まで飾り続けるやり方。地域によっては立春から二月いっぱい、あるいは一年中ずっと飾りっぱなしにする家もある。奈良市内では今も多くの家が実践していて、二月の住宅街を歩くと、玄関先に黒く縮んだ鰯の頭がずらりと並んでいる光景に出くわす。知らずに歩くと、ちょっとした異界だ。
下ろす時期も同様にばらつく。節分の翌朝という家、二月いっぱいという家、次の節分まで置きっぱなしという家。置きっぱなしの家では、一年かけて鰯の頭が完全に干からび、色が抜けて灰色になり、最後には骨だけになる。それでも下ろさない。骨になっても番人は番人だ、という理屈らしい。
処分の作法――塩を三度振る
下ろした柊鰯をどうするか。ここに作法がある。
一番よく言われるのが、半紙など白い紙の上に載せて、左、中、右の順に塩を振るやり方だ。この左中右の順序は神事の清め方に準じている。塩を振って清めたあと、他のゴミと混ぜないように新しい袋を用意して捨てる。混ぜてはいけない、という部分が肝で、鬼と渡り合った道具を生ゴミと同列に扱うのは危ないという感覚がある。
もっと丁寧なやり方は、神社に持っていって焚き上げてもらうことだ。どんど焼きの火に入れる地域もある。あるいは玄関先の土に埋める。埋める場合、門柱の脇に穴を掘って、頭を家の外側に向けて埋める。家の外を向いたまま、地中で番を続けさせる。この作法を守っている家がまだある。
やってはいけないとされるのが、無造作に生ゴミに放り込むこと、それから半端に燃やすことだ。鬼を寄せ付けなかった呪具を粗末に扱うと、それまで押し留めていたものが緩む。一年間玄関で立ち続けた番人を、最後にぞんざいに扱うな、ということなんだろう。
体験談その一:祖母の家の門柱
ある人から聞いた話だ。仮に彼をNとしておく。Nの母方の実家は奈良の旧市街にあって、明治の建物がそのまま残っている家だった。毎年二月になると、祖母が台所で鰯を焼く。換気扇を回さない。わざと家中に臭いを充満させるのだと言っていた。焼き上がった頭を柊の枝に刺して、門柱の右側の、決まった位置の釘に括りつける。
ある年、Nが小学四年の頃、彼はその釘の位置がおかしいことに気づいた。門柱の石に、釘穴が縦に十いくつも並んでいたのだ。毎年同じ場所に打ち直しているのではなく、少しずつ位置が下がっている。上から順に、古い穴、新しい穴。祖母に聞くと、「毎年ちょっとずつ下げてんの。上まで行ったらまた下から」と答えた。なぜ動かすのかと重ねて聞くと、祖母は少し黙って、「同じとこに刺しとったら覚えられるやろ」と言った。誰に覚えられるのか、Nは聞けなかった。
その晩、Nは寝つけずに二階の窓から門を見ていた。街灯の光で、柊鰯の影が門柱に細長く伸びている。風もないのに、影の魚の頭の部分だけが小さく上下していたという。目を凝らそうとして、彼は視線を外した。翌朝見に行くと、鰯の頭はきちんと括りつけられたまま動いていなかった。ただ、下の地面に、鱗が数枚落ちていた。焼いた鰯の頭に、あんなに鱗は残っていなかったはずだ、とNは言う。
体験談その二:転勤族の団地で
別の話。九州から関東の団地に引っ越してきた家庭の娘さんが語ったものだ。彼女の家は代々、節分に柊鰯を出す家だった。引っ越した先は五階建ての古い公団で、玄関は共用廊下に面している。母親はそこに、九州でやっていた通りに柊鰯を吊るした。
翌日、ドアに紙が貼ってあった。「臭いので撤去してください」とだけ書かれた、パソコンで打った紙だった。母親は謝りに回ろうとしたが、誰が貼ったのか分からない。結局その年は取り外した。翌年、母親は玄関の内側、靴箱の上に柊鰯を置いた。外に出せないなら中に置くしかない、と。
その年の二月、家の中で妙なことが続いたという。夜中に玄関のドアノブがガチャガチャ鳴る。覗き穴から見ても誰もいない。廊下の電球が二度切れた。母親は「外に出しとかんかったから、中に入ってきたもんが出られへんくなった」と言い出した。三年目からは、母親は柊鰯を作らなくなった。代わりに、豆を撒くときだけ玄関のドアを大きく開け放つようになった。開けっ放しの玄関から冷たい風が入ってくるのが嫌で、娘さんは毎年その数分間だけ自室にこもっていたそうだ。
体験談その三:猫と、なくなった頭
三つめ。これは笑い話として語られることが多いが、語る本人はあまり笑っていない。
山陰のある家では、節分の柊鰯を庭の木戸に取りつけていた。ところが毎年、朝になると鰯の頭がなくなっている。柊の枝だけが残って、刺さっていた部分に細かい骨が引っかかっている。野良猫だろう、というのが家族の見解だった。実際、その辺りには野良猫が多かった。
ある年、家の祖父が「今年は見ておく」と言い出して、深夜に縁側で張り込んだ。午前二時頃、彼は木戸のほうで音を聞いた。カリカリ、というよりも、ゴリ、ゴリ、という硬いものを削るような音だったという。懐中電灯を向けると、木戸の下に何もいない。ただ、柊の枝が大きく揺れていて、鰯の頭は既になくなっていた。地面に猫の足跡はなく、代わりに、湿った土の上に細長く擦った跡が一本、木戸から生垣のほうへ続いていた。引きずったような跡だ。
祖父はその後、柊鰯を木戸ではなく、家の中から見える位置、玄関の内側の柱に打ち替えた。すると頭は取られなくなった。ただし、その年から玄関の柱に、毎年冬になると小さな染みが浮くようになったという。拭いても春には消え、次の冬にまた出る。家族はそれを「鰯の脂だ」ということにして、誰も深く追及しなかった。
掲示板が語る「柊鰯こわい」
ネットの怪談まとめや過去ログを漁っていると、柊鰯そのものを怖がる書き込みが定期的に出てくる。多いのは「実家に帰ったら玄関に魚の頭が刺さっていて絶叫した」という、単純に見た目が怖いパターン。次に多いのが「近所の一軒だけ、一年中出しっぱなしの家がある」という報告だ。この「一年中出しっぱなし」系の書き込みは、なぜか妙に生々しい。夏になっても骨だけの頭が残っている、というディテールが付くと途端に嫌な感じになる。
もうひとつ、考察界隈で繰り返し出てくるのが「柊鰯は本当に鬼除けなのか」という疑問だ。臭いもので魔を退ける呪術は世界中にあるが、日本の場合、臭いものはむしろ「境界に置いて、そこで止める」という発想に近い。つまり柊鰯は鬼を追い返しているのではなく、鬼を門のところに引き止めているのではないか、という説がある。餌で足止めしている、という読み方だ。鰯は供物であって武器ではない。門の前に一晩中、鬼が座って魚をしゃぶっている。中に入ってこないのは、追い払われたからではなく、そこに食べるものがあるから。この読み替えをした瞬間に、柊鰯は一気に不気味になる。
反証としてよく挙がるのは、柊の棘の存在だ。純粋な供物なら棘のある枝に刺す必要がない。棘は明確に攻撃の意思を示している、と。ただ、これに対しては「棘は鬼を刺すためではなく、鬼が頭を持ち去るのを防ぐための固定具だ」という再反論も出ている。持っていかせない。その場で食わせる。門の前に留め置く。どちらの説を取るかで、あの飾りの意味は正反対になる。
一本だたらを防ぐ吉野の柊
地域独自の用法も面白い。奈良県吉野町では、柊鰯は鬼のためではなく、一本だたらのために飾られるという伝承がある。一本だたらは一つ目で一本足の妖怪で、山道で人を襲うとされる。特に十二月二十日は「果ての二十日」と呼ばれ、この日は一本だたらが出るので山に入ってはならないと言われてきた。柊の棘は、その一つしかない目を刺すために使われる。
目が二つある鬼より、目が一つの妖怪のほうが、柊の棘に対しては圧倒的に脆い。片目を潰されたら終わりだからだ。同じ道具が、土地の妖怪に合わせて用途を変える。魔除けというのは、その土地に何が出るかで最適化される道具なんだよな。奈良の南部を車で走っていると、二月にはまだ柊鰯を出している家がある。あれが鬼のためなのか一本だたらのためなのか、家の人に聞いてみたい気持ちと、聞いてはいけない気がする気持ちが半々になる。
現代のトラブル――豆の誤嚥と近所迷惑
呪術の話ばかりしていても仕方ないので、現実的なトラブルにも触れておく。
節分の豆は、五歳以下の子どもには食べさせるなというのが今の公式見解だ。消費者庁は毎年一月末になると注意喚起を出している。硬い豆やナッツ類は気管に入りやすく、しかも入ったあとで砕けて広がるため、取り出すのが難しい。気管支炎や肺炎を起こす例もある。誤嚥した豆は水分を吸って膨らむので、時間が経つほど厄介になる。新潟県などの自治体も同様の呼びかけを毎年行っている。実際に節分の時期に救急搬送される幼児は毎年出ている。
年の数だけ豆を食べる、という習慣も高齢者にとっては危ない。歯が弱っていたり、嚥下機能が落ちていたりする状態で、硬い炒り豆を八十粒近く食べるのは無理がある。福茶といって、豆を湯に浸して柔らかくして飲む形にする地域があるが、あれは合理的な回避策だ。
近所迷惑の話も現代的だ。マンションの共用廊下に柊鰯を吊るして苦情が来る、というのは実際によくある。撒いた豆をベランダから落として下の階のバルコニーに散らかす、というのもある。撒いた豆をそのままにしておくと鳩や鼠が寄る。「撒いたら拾う」というのは呪術的な意味以前に、衛生管理の要請でもある。
なぜこれが怖いのか
柊鰯が怖いのは、それが「かわいい季節の飾り」の顔をして、実際には身体への攻撃を前提にした呪具だからだ。飾りというのは普通、美しいものや縁起の良いものを掲げる。門松は生命力、注連縄は結界、鏡餅は依代。どれも抽象的で、綺麗だ。柊鰯だけが、焼いた動物の頭部を晒している。しかも目玉が付いたままだ。
もうひとつ、追儺の逆転劇が背後にあるのが効いている。鬼を追っていた方相氏が、いつの間にか鬼にされた。この構造を知ってしまうと、玄関先で番をしている鰯の頭が、いつか自分のほうを向くんじゃないかという気がしてくる。魔を祓う道具は、魔と接触し続けることで、少しずつ魔の側に染まっていく。一年間ずっと外を睨んでいた頭は、翌年には何を睨んでいるのか。
広まった理由は、たぶん単純だ。材料が安く、誰でも作れて、効果が「臭い」という形で目に見える。難しい教義も、専門の宗教者も要らない。鰯を焼いた家は臭う。臭う家は、守られている。これほど分かりやすい安心の可視化はない。呪術が長く生き延びるための条件を、柊鰯は全部持っている。
一三〇〇年ぶんの地層が、玄関先に刺さっている
改めて全体を並べ直すと、節分という日は、日本の魔除け思想が地層のように積み重なった断面になっている。
一番下に、七〇六年の疫病がある。慶雲三年の冬、人が次々に死んでいく状況の中で、朝廷は土で牛を作り、大がかりな儺を行った。目に見えない病を、目に見える鬼という形に翻訳して、境界の外へ叩き出す。この「翻訳」こそが節分の発明であって、以後千三百年、我々はその翻訳の作法を繰り返している。ウイルスも細菌も知らない時代の対処法が、形だけ残って今も毎年再演されている。
その上の層に、方相氏の逆転がある。四つ目の面をつけ、熊皮をまとい、戈と楯を持って鬼を追った男が、九世紀を境に追われる鬼にされた。この一件は単なる歴史の余談ではなく、日本の「鬼」という概念の作られ方そのものを露出させている。鬼とは外部から来る敵ではない。内部にいて、汚れ仕事を引き受けていた者が、役目ごと外へ押し出された結果として生まれる。葬列の先頭を歩き、悪霊を祓っていた下級官人が、いつしか祓われる側に回る。この構造を知ってしまうと、豆を撒く行為が急に気まずくなる。我々が毎年外へ追い出しているのは、去年まで我々を守っていた誰かかもしれない。
さらに上に、柊鰯の層がある。承平年間の『土佐日記』ではボラの頭だった。正月の飾りだった。それが鰯になり、節分に移動し、西日本では「焼嗅」という動詞そのものの名前で呼ばれるようになった。東日本では豆柄が加わり、音の要素が足された。素材も時期も名前も入れ替わりながら、「棘のある枝に、臭う頭を刺して門に置く」という骨格だけが千年生き延びた。文化というのは意味ではなく形で伝わる。意味は毎世代作り直されるが、形は勝手に残る。柊鰯は、その見本のような存在だ。
そして最も新しい層に、恵方巻がある。昭和七年の大阪鮓商組合のビラから始まり、一九八九年に広島のコンビニで名前を得て、一九九八年に全国化した。まだ百年経っていない。だが「恵方を向く」「無言で食べる」「途中で止めない」という制約の三点セットは、古い呪術の文法を完璧に踏襲している。作られた伝統だと知られていてなお、毎年数百万本が売れる。伝統が本物かどうかは、起源の古さではなく、制約の強さで決まるのかもしれない。制約を守らされる感覚こそが、人に「これは呪術だ」と思わせる。
最後に、「鬼は外」を言わない家々のことをもう一度考えたい。鬼石、鬼怒川、鬼ケ窪。鬼頭、鬼沢、九鬼。成田山、元興寺、天河神社、金峯山寺、稲荷鬼王神社、鬼鎮神社、大原神社、千蔵寺、真源寺。これだけの土地と家と寺社が、鬼を追い出すことを拒否している。日本中が同じ夜に同じ言葉を叫ぶ中で、彼らだけが別の言葉を選ぶ。この不揃いさが、日本の民俗の一番面白いところだ。全国一律の行事に見えて、内側は矛盾だらけになっている。ある土地では追い出される者が、隣の土地では迎え入れられる。
柊鰯の話に戻れば、あの門口の頭が本当に何を見張っているのか、結局のところ誰も知らない。鬼を追い返しているのか、鬼を足止めしているのか。守っているのか、呼んでいるのか。分からないまま、毎年二月になると誰かが鰯を焼いて、柊に刺して、門に括りつける。分からないまま続けられるという点で、これはたぶん、日本で最も純粋な呪術のかたちなんだよな。二月の夕方、住宅街を歩いていて、焦げた魚の臭いがしたら、少し足を止めて門柱を見てほしい。黒く縮んだ小さな頭が、こちらではなく、道の向こう側をじっと睨んでいるはずだ。
