大阪市西淀川区。塚本の駅から歩いて十分ほど。マンションと町工場と自転車がひしめく、どこにでもある住宅街の真ん中に、その神社はある。野里住吉神社。参道は短い。境内も広くない。平日の昼間に前を通っても、たぶん何も起きていない。
ただし二月二十日だけは別だ。
この日、七人の少女が選ばれる。年齢はおおむね小学生以下。着飾らせて、番号を振って、一番から七番まで順に並べる。親は正装する。父親は裃に脇差、母親は着物。そして親子で盃を交わす。神職が立ち会うその盃には名前がついている。「別れの盃」という。
別れ、である。
その後、少女たちは行列を組んで神社へ運ばれる。運ばれる、という言い方をあえてする。彼女たちの前後には唐櫃が担がれ、七つの桶に詰めた供え物が続く。桶の中には煮た大根と豆腐、串柿、小豆、餅、そして鯉と鮒と鯰が入っている。神前に着くと、七人は七つの桶の前に一人ずつ座らされる。桶と少女は、そこで一緒に神に供えられる。
供えられる。これも比喩ではない。神社と大阪府がそう説明している。
これが一夜官女祭だ。大阪府指定の無形民俗文化財で、少なくとも三百年以上続いている。そして由緒書きにははっきり書いてある。この祭は、村が娘を人身御供に差し出していた記憶を、そのまま形にして残したものだ、と。
「泣き村」と呼ばれていた土地の話から始めたい
いまの西淀川区野里のあたりには、かつて中津川という川が流れていた。淀川から分かれて、うねうねと蛇行しながら伝法のほうへ抜けて大阪湾に注ぐ大きな川だ。野里の村はその右岸に張りついていた。神社の東側にいまも小高くなった土地が残っていて、それが旧中津川の右岸堤防の名残だとされる。境内に立って足元を見れば、この村が川と地続きだったことがわかる。
川と地続きというのは、恵みと同時に地獄と地続きということでもある。
野里は水に殺され続けた村だった。堤防が切れる。田が沈む。家が流れる。水が引いたあとには疫病が来る。それが何年おきかで繰り返される。
明治十八年の淀川大洪水では大阪府全体の世帯の二割が最大四メートル浸水し、大正六年の「大塚切れ」では西淀川区一帯が泥の海になった。堤防も統計もある近代でこれだ。それ以前の野里が川に何を思っていたか、想像するのは難しくない。
近隣の村人たちはこの村のことを「泣き村」と呼んだという。悪口ではあるだろうが、たぶん半分は同情だったんじゃないかと思う。あそこはまた泣いてる、と。
村人はこの水を、暴れる龍だと思った。境内の奥にはかつて池があって、その名を龍の池といった。
神託が下りた夜のこと
由緒はこう伝える。
打ち続く風水害と悪疫に、村はもう立ち行かなくなった。古老たちが集まって、どうすればいいのかを占った。すると託宣が下りた。この村を救うためには、毎年定まった日に一人の子女を神に捧げよ、と。
そこで村人は総意でそれを実行した。総意、である。誰か一人の悪党が言い出したのではなく、村みんなで決めた。それが由緒書きの書き方だ。
やり方はこうだった。矢を放つ。あるいは占いで矢を打ち込む。白い羽の矢が刺さった家の娘が、その年の贄になる。娘は着飾らされ、唐櫃に入れられ、旧暦一月二十日の丑三つ時に神社まで運ばれて、龍の池のほとりに置き去りにされる。供え物と一緒に。そして村人は逃げ帰る。
翌朝、恐る恐る池のそばまで戻ってみると、供え物は食い荒らされ、娘はどこにもいない。
その年、川は氾濫しなかった。作物も実った。村人は、神が満足したのだと思った。
これが六年続いた。
作家の杉岡幸徳さんが書いているこのくだりの、村人が「恐怖に打ち震えながら」矢を放ったという一行が、個人的にはいちばんきつい。差し出す側も怖いのだ。当たり前だけど。矢が自分の家の屋根に刺さるかもしれないのだから。
「白羽の矢が立つ」という言い回しがある。いまは大抜擢の意味で使われている。社長候補として白羽の矢が立った、みたいに。でも辞書を引くと、もともとの意味がちゃんと書いてある。人身御供を求める神が、望む少女の家の屋根に人知れず印の矢を立てる、という俗説から来た言葉だ、と。
江戸中期の浮世草子『鬼一法眼虎の巻』には「親方唐津屋の家の棟へ白羽の矢が立ちましたを」という用例がある。つまりこの言葉は、選ばれることが死を意味した時代の記憶をそのまま抱えたまま、意味だけ裏返って現代を生きている。
野里の伝承は、その言葉の元の意味のほうを、まだ手放していない。
七年目に来た男
七年目の準備をしていたときだった。一人の武士が村を通りかかった。
村人から事情を聞いた武士は言った。神は人を救うものであって、人間を犠牲にすることは神の思し召しではない。そう言うと、その武士は娘の身代わりに自分から唐櫃の中へ入った。
村人は、鯉と鮒と鯰、村で作った餅と酒、小豆、干し柿、白味噌で味をつけた豆腐、大根、菜種菜を添えて、その唐櫃を神社へ運び、いつものように置いて帰った。
翌朝。唐櫃は壊れていた。まわりは血に染まっていた。武士の姿はない。点々と続く血の跡をたどっていくと、それは隣の申村、いまの此花区伝法町のあたりまで続いていて、その先に、深手を負って絶命した大きな狒々が転がっていた。
この武士こそ、当時武者修行中だった岩見重太郎である。
村はその後、安泰の日々を送るようになった。この出来事を後世に長く伝えるため、同じ形式で、同じ一月二十日に、村の災厄除けの祭を行うことにした。それが今日まで続いている。
由緒書きは、そう締めくくられている。神社の境内に立つ説明板に、ほぼこの通りの文章が書かれている。
正直に言うと、私はこの由緒の「同じ形式で」という一句がずっと引っかかっている。人身御供はやめた。でもやり方は変えなかった。娘を選ぶのも、着飾らせるのも、親と別れの盃を交わすのも、唐櫃を担ぐのも、神前に置くのも、全部そのまま残した。やめたのは、置き去りにして帰る部分だけだ。
三百年以上、村はその一手前で止まり続けている。
前日の台所で起きていること
祭は二月二十日だが、実質的には十九日から始まっている。
この日、氏子総代会の面々が神饌をつくる。神に供える食事だ。中身は決まっていて、白蒸し、鏡餅、小餅、串柿、大根煮、白菜煮、小豆煮、豆腐の白味噌煮。ここに川魚が添えられる。鯉は二枚おろし、鮒は生のまま、鯰は白味噌煮。生きた魚を持ってきて、その場でさばく。
大阪府神社庁の説明によれば、この調製の間は女人禁制だ。台所に女は入れない。娘を捧げる祭の食事は、男だけの手で作られる。
出来上がった神饌は七つの桶に分けて納められる。夏越桶という。元禄十五年、西暦でいうと一七〇二年に作られた檜製の楕円形の曲げ物桶が七台、いまも神社に保存されている。現在使われているのは昭和五十七年に作られた複製のほうだ。この元禄十五年の墨書こそが、この祭を三百年以上遡らせている物証だ。二〇二〇年の祭は数えて三百十八回目とされている。
桶の中央には「龍の首」と呼ばれる紅白の御幣が立てられ、そのまわりを「御花」と呼ばれる御幣が囲む。龍の首。名前がまた強い。あの暴れ川の首を刈って桶に立てているようにも見えるし、龍に捧げる首のようにも見える。
そして、ここに一つだけ例外がある。七人のうち一番目の子は特別扱いで、「贄」と呼ばれる。この子の桶にだけ、魚が入らない。
別れの盃
祭当日、神職と氏子たちは神社を出て「当矢」へ向かう。当矢と書いて「とうや」と読む。その年の当番の家、神事のための宿だ。かつては地区の有力者の家が務めた。少女たちはそこで待っている。
まず祓いがある。それから宮司が七人に「官女の証」を渡す。落とさないように胸元に入れておくように、と説明される。小さな子どもたちが、言われたとおり着物の合わせに証を差し込む。
そして別れの盃だ。
娘と親が向かい合って盃を交わす。神に差し出す娘と、差し出す親の、最後の盃という設定である。取材でこの場に立ち会った書き手は、切なくなった、と書いている。当然だと思う。子どもは意味をどこまで分かっているのか分からないが、親のほうは分かっている。何の再現をやらされているのか。
盃のあと、肴としてゴボウの煮物が配られる。突然取材に来た見ず知らずの人間にも配られたという。この祭を続けている人たちは、面白がって続けているわけでも、意味を忘れて続けているわけでもない。そして官女たちに玉串が配られ、これを持って神社へ向かう。
白い行列
行列の順番はだいたい決まっている。
先頭に道中を差配する役。一番官女の父親が侍役を務め、裃をつけ、脇差を帯びて娘に付き添う。母親は着物。少女たちが一番から七番まで順に続き、そのあいだに神饌の桶を担いだ随行員が入る。そして唐櫃。近年は地元の高校生が担ぎ手をやっている。最後に神職。
唐櫃の中に、実際に人は入らない。中身は幣帛、つまり布だ。それでも唐櫃は担がれる。空の箱を、娘たちの行列と一緒に神社まで運ぶ。
本来は当矢から神社まで町を練り歩く。旧暦一月二十日の丑三つ時が本来の刻限で、この祭はもともと夜の祭だった。白い装束の子どもたちが真夜中の村を運ばれていったわけだ。現在は二十日の午後に行われている。夜が主体だった行事が昼に移ったのは、担い手の生活のためである。ちなみに、いまの日付が二月二十日なのは明治四十年からで、それ以前は旧暦の一月二十日にやっていた。
拝殿の中で何が起きているか
本殿での神事は撮影禁止だ。だから写真は出回らない。ただ、進行をメモして書き残した参拝者がいる。二〇二五年にこの祭を初めて見に行った、神社を巡るのが趣味だという書き手の記録が詳しい。
まず祓詞と修祓。七人の官女が、それぞれ供えの桶の前に座る。祭主が一礼し、祝詞を奏上する。この祝詞が、聞いたことがないほどゆっくりだったという。低い声で、能の謡のような調子で、長い。幣帛を奉る儀があり、長い二本の竹の先に紙垂をつけたものが振られる。楽太鼓が打たれる。どんどんどーん、どんどんとーん、と。
そして鈴による清めがある。参列者が清められ、拝殿の外で見ている見物人まで清められる。
そこでこの書き手はあることに気づいた。
官女だけが清められない。
七人の少女は、清めの対象に入っていない。彼はこう解釈した。人身御供なのだからもう清められているし、捧げられた以上は神の所有物になっているのだから、いまさら清める必要がないのだ、と。
同じことが玉串でも起きる。玉串奉奠のとき、官女は自分では捧げない。神職が七人から玉串を集めて、代理でまとめて奉納する。捧げられる側の人間は、捧げる側の所作をしない。そういう筋が通っている。
日経新聞が二〇二一年に伝えた、もっと生々しい決まりもある。神事の際、一番目の「贄」の子が脱いだ履物は、すぐに隠されるのだ。
魚が入らない桶。清められない体。隠される履物。
いずれも、この子はもう戻ってこない、ということを暗示するために設けられた作法だと説明されている。三百年以上、誰も死んでいないのに、誰も戻ってこないことになっている。
最後に官女が台座から下り、祭主の一拝で終わる。そのあと参加者は直会でゴンタクロウ汁というものを飲む。桶に立っていた紅白の「龍の首」は、厄除け招福を願って七人の官女に渡される。差し出された子が、最後に厄除けの品を持って帰るのだ。
乙女塚の前で
境内の片隅に、乙女塚がある。
娘たちが運ばれた場所は、かつて社殿の裏手にあった龍の池だった。年月が経って池は埋め立てられ、形だけが残った。その跡地に、往時を偲ぶために塚が建てられた。それが乙女塚だ。そばには供養のためだろう、お地蔵さんも置かれている。
いま塚の前に立っても水の気配はない。周囲は市街地で、聞こえるのは車の音だ。ただ、境内の東側の地面が不自然に盛り上がっているのを見つけたら、それが川だった跡である。
江戸の本には、なんと書いてあるのか
ここからが本題かもしれない。この祭は文献にどう記録されてきたか。
いちばん有名な初出は『摂津名所図会』だ。俳諧師の秋里籬島が文章を書き、絵師の竹原春朝斎が挿絵を描いた、全九巻十二冊の大部な地誌である。寛政八年、つまり一七九六年に後半部が、二年後の寛政十年、一七九八年に前半部が刊行された。立項された名所は千三百以上、挿絵は三百十二図。当時のベストセラー的なガイドブックで、大田南畝あたりも自作のネタに使っている。
その『摂津名所図会』に、こう出てくる。
住吉の例祭の時、この里の民家より十二三ばかりの女子に衣装を改め神供を備う、これを野里の一夜官女という。むかし御手村一双の地にして、例祭厳重なり。今はその形ばかりを行う。
十八世紀の終わりの時点で、すでに「今はその形ばかりを行う」と書かれているのだ。昔は厳重だったが、いまは形だけだ、と。つまり江戸の中期には、この祭はもう完全に儀式化していた。人身御供の記憶を演じるだけの行事になっていた。
幕末の浮世絵『花暦浪花自慢』にも「野里一夜官女」が題材として描かれていて、長年この祭を記録撮影している人は、その絵といまの祭が「ほとんど変わらないことに驚かされる」と書いている。百五十年やそこらでは、この祭は形を崩していない。
そしてもう一つ、『摂陽落穂集』という文化年間から文政年間、おおよそ一八〇四年から一八三〇年頃の記録にも、この祭は載っている。江戸期の近隣ではそれなりに知られた行事で、人身御供の作法が神事として伝えられている、という認識がすでに共有されていたわけだ。
文化五年の帳面が明かす、村の内側
もう一つ、かなり重い記録がある。文化五年の『御供一件記』という帳面だ。
これによると、当時この神事は厳重な宮座制度で運営されていた。宮座は老若二座、合計二十四人で組織される。祭礼の少し前に、当矢一軒、上臈家七軒、年行司その他の諸役を決める。当矢は神事のための宿を出す家。上臈家七軒は、七人の官女と侍を出す家。年行司は前年の当矢が務めて、行事の監督と世話役をやる。
つまり「白羽の矢」で決まっていたはずの家は、実際には宮座の内部で毎年きっちり割り振られていた。占いではなく、村の格と順番で決まっていた。ちなみにこの祭では官女は「一夜官女」とも「一時上臈」とも呼ばれる。上臈というのは高位の女官のことだ。
この宮座は昭和のはじめに廃止された。代わって三十三人の宮座講が組織されたが、これも昭和二十五年に解散する。以後は氏子総代が古式を継承して今日に至っている。
だから現在、この祭を支えているのは強制力のある座ではない。有志の集まりだ。長年各地の祭を見て歩いているある書き手は、二〇二五年の祭を見た感想として、宮座のような強制力がないなかでこれほどの行事が継承されているのは驚くべきことだ、と書いている。
岩見重太郎という、あとから接がれた枝
さて、狒々を退治した男の話をしよう。
岩見重太郎。講談の世界では超のつく有名人だ。筑前の小早川家に仕えた剣術指南役・岩見重左衛門の次男として生まれ、父を同僚の広瀬軍蔵に殺され、仇を討つために諸国を巡る。旅の途中で山賊を斬り、化け物を斬り、天正十八年に丹後の天橋立でついに仇を討ち果たす。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となって薄田隼人正兼相と名を改め、豊臣秀吉に仕える。これが講談の筋書きだ。そして薄田兼相のほうは、実在の武将である。
慶長十九年の大坂冬の陣で、兼相は博労ヶ淵の砦を守る大将だった。ところが徳川方の攻撃を受けたその日、彼は前夜から遊里に泊まり込んでいて砦にいなかった。主将不在の砦はあっけなく落ちる。この一件で兼相は「橙武者」と呼ばれることになった。『大坂陣山口休庵咄』にその理由が記されている。橙は大きくて柑類の中でも色はいいが、正月の飾り以外に何の役にも立たない、と。
翌年の夏の陣、道明寺の戦いで、兼相は汚名返上をかけて突っ込む。『難波戦記』によれば、渋皮色の鎧に星兜、十文字の槍、黒毛の馬に黒鞍、紅の鞦。三尺三寸の太刀を帯びて先頭を駆けた。十騎ほどを討ち取ったが、押し寄せる東軍に囲まれて戦死した。
問題は、この実在の薄田兼相と、伝説の岩見重太郎が、いつどうやって同一人物にされたのかということだ。
百科事典類は揃って慎重だ。同一視する説があるが信用はできない、確かではない、不明、と書いている。岩見重太郎自体が架空の人物ではないかという説もある。
なぜ二人がくっつけられたのか。近年よく指摘されるのは、物語の都合という説明だ。史実の兼相には「橙武者」という致命的な汚点がある。民衆が彼を英雄として愛するには、その汚名を洗い流す何かが要る。そこで、出自不明の豪傑・岩見重太郎の武勇伝を「若き日の兼相」として接続する。すると、彼はもともとこれほどの豪傑だったのだ、冬の陣の失態は一時の過ちに過ぎない、という読み替えが可能になる。狒々退治は、失敗した英雄を救済するための後づけの過去だったのではないか、というわけだ。
そう考えると、野里の伝承に岩見重太郎の名が入り込んだのも後世の脚色だという見方が自然になる。講談の全国区スターが、地元の由緒に招かれたのだ。
しかも岩見重太郎の狒々退治は、野里だけの話ではない。信濃の風越山でも、信州松本在の吉田村でも、彼は同じことをやっている。生贄を要求する山の神がいる村に立ち寄り、人を犠牲にする神などいるものか、と言って辛櫃に入り、現れた化け物と戦って倒す。台詞までほぼ同じだ。全国巡業のレパートリーである。信濃版の化け物は頭が猿で体は獅子、尾は大蛇のようだったとされ、重太郎は毒を受けて倒れ、三日間戦ったという伝えまである。野里版のほうが簡潔で、その分こわい。
血の跡はどこまで続いたか。異説をいくつか
野里の伝承にも、細部の揺れがいくつもある。ここが面白い。
まず、退治された相手が違う。多くの伝承では狒々だが、大蛇とする伝えもある。日経の記事は「邪神(大蛇、狒々)」と両論併記していた。狒々は猿の大型版のような妖怪で、山に棲み、顔は人に似て唇が長く、全身が毛に覆われていて、無類の女好きで女をさらうとされる。大蛇のほうは、言うまでもなく川そのものの姿だ。
次に、時刻が違う。丑三つ時とする伝承が多いが、境内の説明板には「一月二十日五ツ時」とある。五ツ時なら夜八時前後で、丑三つ時の午前二時とはだいぶ違う。
娘の年齢も揺れる。『摂津名所図会』は「十二三ばかりの女子」と書いている。現在の官女は小学生以下だ。
神託を下したのが誰かも揺れる。古老が占ったとする伝承、占い師を呼んだとする伝承、単に託宣があったとする伝承がある。占い師を呼んだ版を採用すると、話は一気にきな臭くなる。二〇二五年に祭を見たあの書き手は、狒々というのは要するに人間、山賊の類ではないか、そして人身御供を神託した占い師もグルだった可能性があるのでは、と書いている。読んでぞっとした。妖怪の話だったはずのものが、詐欺と誘拐の話に変わる。
そして、娘がどこへ消えたかについても異説がある。ある取材者はこう書いていた。乙女塚のあった場所は龍の池と呼ばれていた。昔、龍は暴れ川を指すこともある。神社の両脇はかつて川だった。とすると、唐櫃に入れられた娘は置き去りにされたのではなく、生きたまま川に流されたのではないか。取材の中で、そういう見方を語る声も聞かれた、と。
人柱、という言葉が頭をよぎる。
司馬遼太郎が書いた、化け物の出てこない野里
この祭には有名な文学作品がある。司馬遼太郎の短編『一夜官女』だ。一九六二年刊行の短編集の表題作になっている。
主人公は播州姫路の医家に嫁いだ武家の女だ。夫は公然と妾を作り、その妾を本妻にしたがっている。嫌気がさした女は紀州橋本の実家へ戻る途中、摂津の野里という鄙びた村で一泊することになる。宿に入る前、彼女は一人の牢人と目が合う。
そこへ村の旦那衆がやってきて、住吉明神の祭のため一夜の贄になってほしいと頼み込む。女は快諾するのだが、その前に言い放つ台詞が最高で、わたくしは処女ではありませぬ、と断ろうとするのだ。旦那衆は困る。一夜官女は祭の夜に社殿に籠る役である。
女が一人で布団に入ろうとすると、そこには先客がいた。昼間目が合った、あの牢人だ。二人は契りを交わす。数年後、医家と縁が切れた女は、戦の気配が近づく大坂城でその牢人と再会する。互いに名を名乗らないまま別れる。男は薄田兼相として道明寺で討死する。
つまり司馬は、化け物を出さなかった。この短編では人身御供はすでに完全に形式化していて、社殿に一晩籠るだけの役になっている。狒々もいない。血の跡もない。あるのは、一夜だけの、名前も明かさない男女の話だ。
で、人身御供は本当にあったのか
ここが最大の論点だ。
結論から言うと、野里で少女が実際に殺されていたという証拠は、何も出ていない。
そもそも日本の人身御供伝説一般について、学問の側はずっと懐疑的だった。日本の神話学・民俗学の草創期に柳田国男と並ぶ仕事をした高木敏雄は、一九一〇年代から人身御供の伝説を体系的に分類したが、彼自身は日本国内に人身御供の実在があったことにきわめて懐疑的だった。
高木の突っ込みが鋭い。彼は『日本神話伝説の研究』の中でこう言っている。普通、神前に供えたものは、生贄でも果物でも調理したものでも、必ず下げられて信者の口に入るか、川に流されるか、火で焼かれる。もし肉体を持たない神の祭壇に人を供えるとしたら、その人を殺す役目の者のことも考えねばならない。殺す儀式のことも考えてみねばならない。殺したあとの死骸の始末は、さらに重要な問題として考えてもらわねばならない。
要するに、毎年一人ずつ人間を供えるなら、毎年誰かが殺す係をやり、毎年死体が出る。その痕跡はどこへ行ったのか、と。
一方で高木は、伝説がその土地で事実として信じられていること自体は重視した。信じられていることと、あったことは別だが、信じられていること自体は本物である。
高木の枠組みは、人身御供を大きく二種類に分けている。一つは、村の外にいる邪神への犠牲。八岐大蛇や猿神に娘を差し出すタイプで、これは英雄が来て退治して終わる。もう一つは、村の内側の神、つまり鎮守の神への犠牲。こちらは毎年決まった日に、決まった作法で行われる恒例の祭祀になる。
野里の祭が面白いのは、この両方が一つの中に同居していることだ。狒々退治は明らかに前者の型で、しかも岩見重太郎という全国区の英雄まで連れてきている。ところが実際の神事の作法、当矢、宮座、七つの桶、決められた神饌、女人禁制の調理場は、完全に後者の型なのだ。前者は物語、後者は制度。二つは別の出自を持っていて、どこかで縫い合わされたと考えるのが素直だと思う。
「贄」は娘ではなく、そこに置かれた飯だったのでは
もっとも刺激的な説明は、民俗学者の六車由実さんが二〇〇三年の『神、人を喰う――人身御供の民俗学』などで展開した議論だ。
六車さんは、近畿地方の宮座のもとで行われる頭屋儀礼を丁寧に洗って、あることに気づいた。この地域には、供物を運搬して神前に供進する女性を人身御供に擬する祭が非常に多いのだ。
つまり、こうだ。もともとその祭で人身御供に見立てられていたのは、娘そのものではなく、娘が運ぶ供え物だった可能性がある。神饌のほうが本体で、それを運ぶ女性はいわば運搬役だった。ところが宮座組織のもとで男性中心の頭屋儀礼が確立していくにつれて、祭の中心から女性が排除されていく。そのとき、居場所を失った女性の役割が「人身御供に擬される役」として残った、という筋書きだ。
そして六車さんが実際に史料でその変化を追えたのが、兵庫県西宮市小松の岡太神社で行われている「一時上臈」という祭だった。追跡に使われた史料が、なんと『摂陽落穂集』である。野里の一夜官女祭が載っているのと同じ本だ。
岡太神社では、供物を供える女性の役割が失われたあと、代わりに人形が登場する。人形御供という。男女の人形を象った御幣を神饌とともに奉納し、直会でそれを食べる。人が神に食われるのではなく、人が神を食うのだ。六車さんの本の題が『神、人を喰う』であるのは、この反転を含んでいる。
この説に立つと、野里の一番官女の桶にだけ魚が入らないという奇妙な決まりも、別の光の当たり方をしてくる。魚が抜けているのは、その分の贄がすでにそこにいるからだ、という説明が成り立つ。少女自身が桶に不足している一品として数えられている。これは怖い。だが同時に、そこに置かれているのは「食べ物としての人」であって「殺される人」ではない、という読み方も同時に成り立つ。
もっとも六車さんは、供犠の背後にある暴力を消し去ろうとはしていない。民俗学や考古学が長らく封印してきた人身御供譚の始源にひそむ血なまぐささを、歴史のリアルとして読み直そうとした人だ。人身御供譚は暴力を排除する物語なのか、という問いを、彼女は本の最後まで手放していない。
西宮にそっくりな祭が残っている
さっき出てきた岡太神社の一時上臈は、野里と並べて見るととにかく面白い。
場所は西宮市小松南町。旧鳴尾のあたりで、こちらも武庫川のほとりだ。創建は寛平五年、八九三年と伝える。祭は毎年十月十一日。南北二つの講に分かれた氏子が一年任期の頭屋を輪番で務め、祭の前々日に紅白の紙で宝冠状に飾った御幣を十八本作る。北講の幣は女、南講の幣は男とされる。当日は、餅、柿、柚、柘榴、栗などの供物を入れた唐櫃の上に藁の輪を置いて幣を立て、頭屋から神社まで運ぶ。行列は、手桶を持って笹で道を払う少年、頭屋の主人、神官、伶人、巫女、幣を載せた唐櫃という順で進む。
唐櫃。頭屋。行列。紅白の御幣。そして少女。正確には、かつては巫女的な少女が供物を奉ったが、当地ではその役が少年の露払いに変わり、少女は「一時上臈」という名前の中にだけ残った。
西宮市の郷土資料館の学芸員が調査した結果として紹介されたのが、この祭を「一時上臈」と呼んだ記録は古い時代にはなく、大阪の野里住吉神社の「一夜官女」というよく似た祭の影響を受けているのではないか、という見立てだった。
つまり野里の一夜官女は、周辺の祭の呼び名を引っ張るくらいの知名度があったわけだ。江戸期の摂津において、これはそこそこのブランドだった。
なお岡太神社の奉納行列も、新住民の流入でコミュニティが薄くなり、さらに阪神・淡路大震災が決定打になって、平成九年を最後に行われなくなった。講は解散して保存会になった。野里より一足先に、行列の部分だけが消えた。
諏訪の少年、光前寺の犬、淀川の人柱
似た話は、日本中に転がっている。
諏訪大社上社の御頭祭は、旧暦三月の酉の日に行われる大祭で、かつては頭郷と呼ばれる諏訪郡内十六か村が輪番で少年を一人出した。この少年を神使という。祭の前三十日間、精進屋に籠って潔斎する。当日は御杖柱を背負わされ、馬に乗せられ、松明の中を出発する。そして、この童子は二度と帰ってこなかった、という言い伝えがある。
御頭屋の前には御贄柱という柱が立てられ、鳥居型に組んだその柱に五十キロを超える鹿肉が串刺しで掛けられた。祭の場には鹿の頭を載せた俎板が五枚並び、鹿の頭は七十余りという記述もある。
そして明治以前の記録の中に、この柱に神使を縛り付けて置く、これ犠牲に備うるの意なり、という一文が出てくる。人を縛り付ける柱。だが諏訪の神事を丹念に調べている人たちは、この記述には混同がある、御贄柱と御杖柱は別物だ、江戸時代の記録にも「生贄にては之無し」とはっきり書かれている、と指摘している。
信濃といえば、光前寺の早太郎の話もある。旅の僧が村に立ち寄ると、白羽の矢が立った家の娘を神に差し出さねばならないと聞かされる。様子をうかがっていると化け物が現れ、「早太郎に聞かせるな」と口走る。僧が探し当てた早太郎は、光前寺の犬だった。娘の代わりに送り込むと、翌朝、大猿が死んでいた。
この型は各地にあり、磐田では「しっぺい太郎」、七尾では「しゅけん」という狼になる。高木敏雄はこれを早太郎童話として一括した。野里の岩見重太郎は、この早太郎の位置に人間の武士が入ったバージョンだ。
そして、地元・淀川にも人柱の話がある。仁徳天皇が淀川左岸に茨田堤を築こうとしたとき、どうしても切れる難所が二か所あった。天皇の夢に神が現れ、武蔵の人・強頸と河内の人・茨田連衫子を捧げよと告げる。強頸は川に沈んで死に、その難所は完成した。衫子は瓢箪を川に投げ入れ、これが沈まなければ偽りの神託だと言い放つ。瓢箪は沈まず流れ去り、衫子は助かって堤も完成した。
『古事記』『日本書紀』に載るこの話は、日本最古の治水工事の記録であると同時に、人柱を拒んだ男の記録でもある。淀川という川は、その水を鎮めるのに人が要ると千数百年言われ続けてきた。
見てきた人たちの話
ここからは、実際にこの祭を見た人たちの声を並べたい。
一人目は、二月十九日から二十日にかけて毎年この神社に通い、記録撮影を続けている人だ。この人は単なる撮影者ではなくて、十九日の神饌づくりに氏子総代会の面々と一緒に参加している。生きた鯉と鮒と鯰をさばくところから関わっているわけだ。
この人は、幕末の浮世絵『花暦浪花自慢』の「野里一夜官女」を見て、いまの祭とほとんど変わらないことに驚いた、と書いている。二〇二三年の時点では、コロナ禍で三年間ほとんど中止が続いていることを心配して、官女役を務める小学生以下の七人の女児が参加してくれるかどうかが心配だ、と正直に書いていた。そして二〇二五年、五年ぶりに七人の官女が揃った。その報告の文章には、安堵がにじんでいる。
二人目は、二〇二五年に初めて見に行った参拝者だ。彼は事前情報から儀式の開始時刻を逆算して現地に着いたのだが、時間が変更されていて二時間以上待つはめになった。境内をぶらついていると、官女に選ばれた子どもたちが暇を持て余して出入りしているのが見えた。
ここで彼は妙だと思う。生贄である官女が、捧げられる場所にすでにいるのはおかしい。本来は神社から当矢へ迎えに行くところから始まるはずだ。理由はすぐ判明した。コロナ禍からの再開で当矢を神社の参集殿にしてしまったので、迎えに行く行程がなくなっていたのだ。参集殿の入口には篝火が掲げられていた。炎の形に切った布を風で揺らして明かりを当てた、作り物の篝火だった。
彼は進行を全部メモしていて、官女だけが清められないこと、官女が玉串を自分で捧げないことに気づいた。彼の記事にはもうひとつ、印象的な希望が書いてある。官女が綺羅びやかな衣装なのはいい、ただ両親には喪服を着ていてほしい、と。もっとも彼はすぐに、この祭を葬儀のようにしたら存続に関わるかもしれないから、いまのままひっそりやってもらうのがいい、と自分で引っ込めている。この自制がいい。
三人目は、二〇二〇年に取材で入った書き手だ。当矢での祓い、官女の証の受け渡し、別れの盃と、順に見ていく。そして肴のゴボウの煮物が配られる。突然訪ねてきた取材者にも配られた。甘くやわらかいゴボウを食べながら、この人はまとめ役を含めてどの人も優しいこと、悲しい歴史をきちんと理解して残そうという土地の姿を感じたと書いている。記事の結びも良かった。英雄を称える祭ではなく、村の悲しい伝説を内包した静かな祭だ、大阪に生きる民俗学がここにあった、と。
四人目は、少し毛色が違う。二〇一七年一月、淀川の清掃活動に来たシニアのグループが、活動の前に野里住吉神社に立ち寄って、社務所で宮司から一夜官女祭の説明を受けた。彼らのレポートには、宮司から聞いたという興味深い話が残っている。この神社はもともと農業の神である稲荷社だったのではないかと言われていて、鬼門避けと水害避けのために住吉大社を勧請したらしい、というのだ。
そして、この地域には静の祭である一夜官女祭と、三台の地車と太鼓を打ち鳴らす動の夏祭りがあり、動と静の対照でバランスを保ってきた、風水害のときには住民の一致団結が必要だったから、という説明も受けている。話を聞いたあと、彼らは花川干潟で一時間半ゴミを拾った。レポートの一行が効いている。川が怒らぬよう願いを込めて清掃した、と。
数百年、この村の人間がやっていることは根本的に変わっていない。川を怒らせないようにしているのだ。
ネットはこの祭をどう見ているか
近年、この祭はネット上でしばしば「日本の怖い祭」の文脈で紹介される。
大手メディアの見出しからしてそうだ。ほんとうは怖い日本の祭り、ヒヒに捧げられた少女のいけにえ。想像するとゾッとする、今も残る一夜官女祭に秘められた人身御供の悲しい伝承。昔は少女を神への生贄に。そして議論ではだいたい二つの立場がぶつかる。
一方は、これは実際にあった蛮行の記憶であり、村は本当に娘を殺していた、という読み方。乙女塚があること、龍の池があったこと、履物を隠す作法、魚を入れない桶といった生々しいディテールが、その根拠として挙げられる。娘は置き去りにされたのではなく川に流されたのではないか、という前述の推測も、この側から出てくる。人柱という枠で理解しようとする発想だ。
もう一方は、そもそも人身御供の実在が学問的にほぼ支持されていない、という反論。高木敏雄以来の懐疑論に加えて、六車由実さんの「供物のほうが本体だった」説、それに『摂津名所図会』が十八世紀末の時点ですでに「今はその形ばかり」と書いていること、宮座の帳面を見れば白羽の矢どころか毎年きちんと割り振られていたことが分かること。証拠として出せる材料はむしろこちら側に多い。
そして地元と神社の立場は、実はどちらとも少し違う。宮司の鎌田義昭さんは日経の取材にこう答えている。この地は川の氾濫で何度も壊滅的な打撃を受けたことがあり、一夜官女祭はそうした歴史を伝えていく意義がある、と。
つまり神社は、狒々がいたかどうかを争っていない。伝えるべき核は水害の記憶のほうだ、と言っている。同じ記事で日経の編集委員は、後世に脚色された可能性のある部分を除いて祭の歴史を遡ると、村人が恐れ逃れたいと苦しんでいたものの正体は、うねるように急に襲いかかってきた中津川の洪水だったようだ、と書いている。
これがいちばん腑に落ちる。狒々は洪水の顔だ。人をさらう毛むくじゃらの怪物という形をとらないと、当時の人はあの水を語れなかった。名前をつけて、姿を与えて、退治される相手の形にしてやらないと、川はあまりにも理不尽すぎた。
そして、その名前のついた怪物を斬ってくれる誰かが必要だった。だから講談の英雄が呼ばれた。狒々退治譚は、恐怖の解決編なのだ。
七人が揃わない年
最後に、いまの話をする。この祭は現在、かなりしんどい局面にある。
まずコロナ禍が直撃した。二〇二一年から数年間、官女が参加する行事は省略され、神饌の調理と非公開の神事だけが続けられた。撮影に通っていた人は二〇二三年の時点で、三年間ほとんど中止が続いていて伝統の継承が心配だ、特に官女役の七人の女児が参加してくれるか心配だ、と書いている。
二〇二五年、五年ぶりに七人が揃って行列が復活した。ただし本来の形ではない。当矢から神社までの往復ではなく、神社の周りを半周するだけ。親と官女の別れの儀式も、当矢ではなく神社の社務所で行われた。桶も、本来は七人がそれぞれ神饌とともに練り歩くところを、行列に出したのは一台だけだった。関係者は、今後徐々に旧に復していくつもりだと語っている。
コロナ以前から問題はあった。当矢はもともと地域の有力者の家が務めるものだったが、多くの人が集まれる部屋を持つ家がなくなり、近年は姫里会館や歌島コミュニティ会館といった区の施設が使われている。そして二月二十日は曜日を選ばない。平日なら親が仕事を休む必要がある。
歌島地区の氏子総代の一人、渡辺剛さんの言葉が現実そのものだ。官女の親は付き添いで行事に参加する、平日に休まねばならない祭りを負担に感じる人が増え、官女選びも簡単ではなくなってきた、と。
さらに厳しいのは、地元の人自身がこの祭を知らないという問題だ。祭の記録を残すことに尽力した故・池永悦治さんから教えを受け、野里地区の伝統行事のガイドをしている井川聡江さんはこう語っている。一夜官女祭の由来や伝承を知らない住民は意外に多く、見たことがないという人もいる、若い人たちにもっと地域の歴史を知ってもらい、伝えていけるようにしたい、と。
野里は完全な市街地だ。氏子区域は旧野里町と、歌島・姫里の一部ずつ。三地区が交代で担ってきたが、そもそも住んでいる人がどんどん入れ替わる。中津川はとうに埋め立てられ、昭和四十二年には最後の姿も消えた。水害の記憶を体で持っている人は、もういない。
宮座は昭和二十五年に解散した。以後、この祭を支えているのは義務ではなく意思だけだ。誰も強制されていない。それでも毎年二月十九日に生きた魚をさばく人がいて、二十日に娘を出す親がいる。
なぜこの祭は怖くて、なぜ続くのか
この祭が怖いのは、化け物が出るからではない。むしろ逆だ。いちばん怖いのは、村が娘を差し出す側だったという一点である。
狒々は外から来た。だが娘を選び、着飾らせ、箱に入れ、運び、置いて帰ったのは村の人間だ。しかも村人の総意で、と由緒書きは書く。悪意ではなく、善意で、共同体を守るために、毎年一人を出した。この構造は、妖怪よりずっと現実に近い。だから怖い。
二つ目に怖いのは、その手順が省略されずに残っていることだ。もし人身御供がなかったのなら、村はやってもいない罪の作法を三百年演じ続けていることになる。もしあったのなら、自分たちがやったことを三百年再演し続けていることになる。どちらにしても異常で、しかも人はどちらとも決めないまま続けている。
三つ目。細部が容赦ない。魚の入らない桶。隠される履物。清められない七人。玉串を自分で捧げられない子ども。空の唐櫃。これらは全部、この子はもう帰らない、という一点を表現するためだけに設計された作法だ。誰かが、帰らないことを表現しようと本気で考えて作った。その執念のほうが狒々より怖い。
では、なぜ続くのか。
たぶん、この祭が村にとって敗北の記憶ではなく、解決の記憶だからだと思う。物語の中で、この村は最後に勝っている。武士が来て、狒々は死に、村は安泰になった。人身御供は終わった。だから祭は悲劇の再演であると同時に、その悲劇が終わったことの毎年の確認でもある。今年もあの子は帰ってくる。今年も誰も箱に入らない。
考えてみれば、二月二十日は毎年、春が来る直前だ。旧暦の一月二十日、まだ川が動き出す前。今年もまた水が来るかもしれないと村中が身構える季節である。その時期に、いちばん恐ろしい形で恐怖を演じきって、そして誰も死なずに終わる。祭が済めば春が来る。
自分の子どもを、一日だけ神に差し出してみせる。そして日が落ちる前に連れて帰る。無事を祈るという行為を、これ以上強く言い切る方法はそうそうない。
野里の人たちが三百年やめられなかったのは、たぶんそういうことなんじゃないかと思う。
三つの地層が重なって、この祭になっている
改めて全体を見渡すと、一夜官女祭という行事は、実は三つのまったく違う時代の層が重なった地層のようなものだと分かってくる。
いちばん下の層は、宮座の層だ。文化五年の『御供一件記』が見せてくれた通り、この祭の骨格は近畿地方に濃密に分布する頭屋制の祭祀そのものである。老若二座二十四人。当矢一軒、上臈家七軒、年行司。決められた神饌、決められた桶の数、決められた調理法、女人禁制の台所。これは物語ではなく制度だ。誰が今年どの役をやるか、誰が誰に何を渡すか、村の格と順番をきっちり可視化するための装置である。
人身御供の物語を抜きにしても、この構造だけで祭は成立する。実際、六車由実さんが指摘したように、近畿の頭屋儀礼には供物を運ぶ女性を人身御供に擬する祭が数多くあり、西宮の岡太神社ではその女性の役割が消えたあとに人形御供が登場した。野里は、その女性の役割が消えずに残った稀な例なのかもしれない。だとすれば一夜官女祭の本当の希少性は、恐ろしさではなく、消えなかったことのほうにある。
真ん中の層は、水の層だ。中津川。蛇行して伝法へ抜けていた大河。堤防が切れ、田が沈み、疫病が来る。近隣から「泣き村」と呼ばれるほどの土地。この層こそが、宮司の鎌田義昭さんが伝えていく意義があると言った部分であり、日経の編集委員が脚色を剥がした先に見つけた核だ。
龍の池という名前も、桶に立てる「龍の首」という御幣の名も、悪神を大蛇に喩える語り口も、すべてこの層から出ている。人間は、理不尽な自然に必ず顔を与える。顔がないと祈れないからだ。中津川は昭和四十二年に埋め立てられて完全に消えたが、消えたのは水だけで、水が作った祈りの形式は残った。祭は、なくなった川の化石である。
いちばん上の層が、講談の層だ。岩見重太郎。天橋立の仇討ちと狒々退治で全国区になった、実在すら疑われている英雄。この層は明らかに後から来ている。信濃でも同じ台詞を吐いて同じ箱に入っている男が、なぜ摂津の野里にもいるのか。答えは単純で、その物語が強かったからだ。
強い物語は地域を渡り歩く。そして地元の由緒は、それを喜んで受け入れる。なぜなら、それによって話に結末がつくからだ。物語が完結しないと、祭は「毎年娘を差し出している村」の話のままになってしまう。重太郎が来て初めて、この祭は「差し出すのをやめた村」の話になれる。実在の薄田兼相にとって岩見重太郎伝説が「橙武者」の汚名を洗う救済装置だったのと同じように、野里にとっても岩見重太郎は救済装置だった。彼が来なければ、村はいつまでも加害者のままだ。
空の箱を、三百年担ぎ続けている
人身御供が実際にあったのかという問いについては、正直に言って、答えは出ないと思う。
高木敏雄が指摘した通り、毎年殺すなら殺す係と死体の始末が必ず要る。その痕跡はない。『摂津名所図会』は十八世紀末の時点で「今はその形ばかり」と書き、それより前の史料は見つかっていない。宮座の帳面を開けば、白羽の矢ではなく輪番だったことが分かる。証拠の重みは、なかった側に傾く。
だが同時に、あったと信じられ続けてきたこと自体は、まぎれもない歴史的事実だ。高木自身が言ったように、民間伝説はその土地では必ず事実として信じられる。野里の人たちは、自分たちの先祖が娘を差し出したと信じたうえで、その記憶を三百年抱え続けてきた。その罪悪感の総量は本物である。実際に人が死んだかどうかとは別に、村が「殺したかもしれない」と思い続けてきたことの重さは、誰にも減らせない。
そしてこの祭は、悲しみを正確に演じたうえで、その悲しみが過去のものであることを毎年確認する装置になっている。だから当事者たちは明るくていい。ゴボウの煮物を見物人に配ってしまうくらいの明るさで、ちょうどいいのだ。
そして現在。二〇二五年、五年ぶりに七人が揃った。行列は神社の周りを半周するだけで、別れの盃は社務所で行われ、桶は一台しか出なかった。関係者は徐々に旧に復すと語っている。一方で、平日に休めない親が増え、当矢を出せる家がなくなり、由来を知らない住民が意外に多い。宮座は昭和二十五年に解散していて、この祭を続ける義務は誰にもない。
それでも二月十九日には男たちが集まって生きた鯉と鮒と鯰をさばき、二十日には七人の子どもが桶の前に座る。西宮の岡太神社では行列が平成九年に途絶えた。野里はまだ歩いている。半周でも、歩いている。
最後にひとつ、どうしても書いておきたいことがある。この祭のいちばん静かな怖さは、唐櫃が空だという点にある。中身は幣帛、つまり布だ。人は入らない。それでも唐櫃は毎年担がれ、少女たちと並んで神社まで運ばれる。
あの箱は、入るはずだった誰かのかたちをした空白そのものだ。村はその空白を捨てなかった。埋めもしなかった。空のまま、三百年以上担ぎ続けている。都会の住宅街を、高校生に担がれて、その空白がいまも通っていく。淀川の北で二月二十日の午後にだけ現れるその光景は、たぶん日本のどこにも代わりがない。
