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名を告げた瞬間、あなたは相手のものになる――諱を隠しつづけた日本人と、名を呼ぶことの呪術

初対面の相手に「お名前は?」と聞かれる。誰でも毎日やっているやりとりだ。だがこの何気ない問いが、かつてこの国では、とんでもなく重い意味を持っていた。名を聞くのは求婚だった。名を明かすのは服従だった。そして名を知られるのは、呪われる準備が整うということだった。

日本人はおよそ千年以上にわたって、自分の本当の名前を隠しつづけてきた。隠すために、通称を作った。官職を名乗った。太郎だの次郎だのと番号で呼び合った。女は名前そのものを記録から消された。あの紫式部でさえ、本名がわかっていない。冗談みたいな話だが、事実だ。

なぜそこまでしたのか。答えは身も蓋もない。名前を知られると、支配されるからだ。

「いみな」と読む漢字が、そもそも「忌む」の親戚だという事実

諱と書いて「いみな」と読む。この読み方が、もう答えを言ってしまっている。「忌み名」だ。口に出すのがはばかられる名、という意味である。

漢字の成り立ちからしてそうなんだよな。「諱」という字は「言」と「韋」でできている。韋には「そむく、さける」という意味がある。つまり「言うのを避ける」。中国では古く、貴人や死者を本名で呼ぶことを避けた。そこから転じて、避けられる対象そのもの、つまり実名を「諱」と呼ぶようになった。

本来は区別があった。生きているうちの名は「名」、死んでからの名は「諱」。ところが時代が下るにつれてこの区別はぐずぐずになり、生きている人間の実名まで諱と呼ぶようになる。日本の辞書類が示す用例では、『万葉集』巻二十の題詞に「諱は邑婆と曰ふ」とあるのが古い例で、『増鏡』には「後鳥羽院と申しおはしましき。御いみな尊成」とある。院号で呼んでおいて、諱はそっと添える。この呼吸が、まさに実名を扱う作法そのものだ。

では諱を口に出さないなら、普段は何と呼ぶのか。そこで出てくるのが「字」である。中国ではこちらが日常の呼び名だった。陶淵明の諱は潜、淵明は字だ。伍子胥の諱は員。杜甫は工部という官名で杜工部と呼ばれた。日本でも荻生徂徠は茂卿という字を持っていたし、平清盛は太政大臣の唐名で「平相国」、徳川家康は内大臣だから「徳川内府」と呼ばれた。

要するに、この文化圏では「本名は表に出さないもの」という前提が共有されていた。そしてこの前提を、法学者の穂積陳重が「実名敬避俗」という名前で定義した。大正八年に帝国学士院の論文集で「諱に関する疑」として発表され、大正十五年に『実名敬避俗研究』として改題再刊されたものだ。のちに『忌み名の研究』の題で文庫にもなっている。実名を敬って避ける習俗、という意味である。

なぜ呼んだだけで無礼になるのか、その理屈が怖い

礼儀の問題だと思っている人が多い。半分は当たっているが、根っこはもっと物騒だ。

漢字文化圏では、ある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついていると考えられていた。名は記号ではなく、その人の魂の一部だった。だから名を口にできる者は、その霊的人格を握れる。支配できる。だから諱で呼びかけることが許されたのは、親と主君だけだった。それ以外の人間がやったら、極めて無礼どころか、宣戦布告に近い。

中国の逸話にわかりやすいのがある。都の督軍という役人が薛悌と論争になった際、腹を立てて薛悌を名前で怒鳴りつけた。すると高堂隆という人物が剣の柄に手をかけて督軍を叱った。下臣の前で主君を名前で呼ぶなら、道義としては討ち果たすことになっている、と。督軍は真っ青になり、薛悌が慌てて止めに入った。名前を呼んだだけで斬られかけているのである。

穂積陳重は、この種の名前のタブーが漢字文化圏だけの話ではないことに気づいた。ジェームズ・フレイザーが一八九〇年に初版を出した『金枝篇』などを独自に調べ上げ、個人名を秘密にする習俗が世界各地に存在することを突き止めたと述べている。フレイザーは呪術を「類感呪術」と「感染呪術」に分けたが、名前というのはその両方にまたがる厄介な代物だ。名は本人に似ている(類感)し、本人から出てきたもの(感染)でもある。呪いの回路としては、これ以上ないほど使い勝手がいい。

万葉集のいちばん最初の歌は、ナンパの顔をした支配宣言だった

日本で名前の呪力を考えるとき、必ず引かれるのが『万葉集』の巻頭歌だ。雄略天皇、つまり大泊瀬稚武天皇の御製とされる長歌である。

籠もよ、み籠持ち、掘串もよ、み掘串持ち、この岡に菜摘ます児、家聞かな、名告らさね。そらみつ大和の国は、おしなべて我こそ居れ、しきなべて我こそませ。我こそは告らめ、家をも名をも。

学校では「丘で菜を摘む娘に天皇が一目惚れして求婚した歌」と習う。それでいい。ただ、なぜ求婚が「名前を教えてくれ」という形をとるのかを考えると、背筋が寒くなる。

古代において、男が女に「家」と「名」を尋ねることは、そのまま求婚を意味した。そして女が名を教えることは、承諾を意味した。なぜなら名を明かすというのは、自分の魂の在り処を相手に預ける行為だったからだ。だから他人に名を知られることを女は忌んだ。名を知ってよい他人は、夫に限られた。名を聞き出すことが、そのまま結婚の成立だった。

この歌が面白いのは、娘がすぐには答えない点だ。だから天皇は自分から名乗りに転じる。しかもその名乗りが「大和の国はすべて私が治めている」である。求婚のはずが、いつのまにか統治宣言になっている。奈良県立の万葉関連の解説や、上野誠による読みでは、新春の若菜摘みは豊作を祈る農耕儀礼であり、大王がそこに出座して名告りを行うことが毎年の行事だったのではないかとされる。土地を代表する娘を妻とし、その土地の食物を食べる。それが統治を目に見える形にする儀礼だった、というわけだ。

つまりこの歌は、恋の歌のふりをした主権の誇示である。名を問い、名を告げる。その往復が、そのまま支配と服従の交換になっている。万葉集の編纂者がこの歌を巻頭に据えた理由については古くから議論があり、折口信夫は雄略天皇の激烈な気性を鎮魂する目的だったのではないかとも述べているし、田辺幸雄は「若やかな主権の誇示」と読んだ。どの説を採るにしても、名告りが政治だったという点は動かない。

なお、この歌の読み下しそのものに異議を唱えた人もいる。古田武彦は、「しきなべて」と読まれている箇所は写本にはすべて「告」と書かれており、本居宣長がそれを「吉」に書き換えたのだと指摘した。原文どおりに読めば「告名経て」、つまり「名を名乗り終わって」となり、この人物は先に自分から礼儀正しく名乗った男になる、という読みだ。定説とは言いがたいが、名告りの順序ひとつでこの歌の性格が丸ごと変わってしまうという事実は、覚えておいて損がない。名前をめぐる歌は、それだけ繊細に組み上がっている。

一ノ谷で、十六歳の少年は名乗らなかった――あるいは名乗った

名前を明かすか明かさないかが、命そのものと直結する場面がある。『平家物語』の敦盛最期だ。

寿永三年の一ノ谷の合戦。源氏方の熊谷次郎直実が、海へ逃れようとする若武者を呼び止める。組み伏せて首を取ろうと兜を押し上げると、まだ十六か十七の少年だった。薄化粧をして歯を黒く染めている。直実には同い年ほどの息子がいた。刀が止まる。

琵琶法師が語り伝えた覚一本では、直実が「いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまゐらせん」と問う。助けたい一心で名を尋ねている。ところが少年は「汝は誰そ」と問い返し、直実が名乗ると、こう言い放つ。「さては汝にあふてはなのるまじゐぞ。汝がためにはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取って人に問へ。見知らふずるぞ」。お前ごときに名乗る気はない、首を取って誰かに聞け、と。この最後まで名を明かさない態度が、古くから立派だと称賛されてきた。

ところが、である。現在の研究では『平家物語』の原型に近いのは延慶本ではないかという説が有力で、その延慶本では敦盛はあっさり名乗っているのだ。「我は太政入道の弟、修理大夫経盛の末子、大夫敦盛とて生年十六歳になるぞ。早切れ」。しかもその心境が生々しい。名乗っても討たれる、名乗らなくても討たれる、どうせ討たれる身なら、ここまで情をかけてくれた相手に名乗ってやろう、というのである。延慶本で頑として名乗らないのは、清盛の孫にあたる平師盛のほうだ。「おのれにあひて名乗るまじきぞ。のちに人に問へ」と言い捨てる。

同じ場面の別バージョンが、名乗る話と名乗らない話に分かれている。これは単なる異同ではない。名を明かすという行為が、当時どれほど重い賭けだったかの証拠だ。名乗れば首の価値が上がり、相手の手柄になる。名乗らなければ、名もなき死体として海辺に転がるだけになる。誇りを取るか、無名を取るか。その選択が物語ごとに揺れているのである。

やあやあ我こそは、が生まれたのは意外と実務的な理由だった

戦場の名乗りといえば「やあやあ我こそは、何某の住人、何某なり」である。名を隠す文化のはずなのに、戦場ではやたらと名乗る。矛盾しているようで、していない。

名乗りが盛んになるのは平安時代末期ごろからだ。理由は身も蓋もなく、恩賞である。誰が誰を討ち取ったかを明らかにしなければ、論功行賞ができない。討った相手が大物であるほど恩賞が増えるのだから、討たれる側の名前も、討つ側の名前も、周囲に聞こえるように宣言しておく必要があった。『蒙古襲来絵詞』や『八幡ノ蒙古記』には、先駆けの前に味方同士で名乗り合い、互いを恩賞の証人にしている様子が描かれている。名乗りは呪術であると同時に、書類仕事でもあったわけだ。

だから名乗りには駆け引きが生まれる。『平家物語』巻九「盛俊最期」では、平盛俊に押さえ込まれて首を取られかけた猪俣小平六範綱が、名のわからぬ相手の首では大した戦功にならないだろうと持ちかけて名乗り合いを提案し、言葉巧みに時間を稼いで逆に討ち取ってしまう。名前を餌にした騙し討ちである。名乗りが利益に直結していたからこそ、こういう詐術が成立する。

勝ち名乗りの傑作もある。巻十一「弓流」で、平氏方の藤原景清が源氏方の美尾屋十郎を取り逃がしかけ、引きちぎった兜の一部を長刀に刺し掲げてこう叫んだ。「遠からんものは音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、これこそ京童の呼ぶなる上総の悪七兵衛景清よ」。もはや名乗りというより、自分の名を武器として振り回している。

この作法は、鎌倉時代までがピークだった。戦の規模が小さく、日取りを決めて両軍そろってから始めるような時代だからこそ成立した。源義経の奇襲、元寇での蒙古軍の集団戦法、そして戦国期の鉄砲と大軍。距離が遠くなり人数が増えれば、名乗りなど誰にも聞こえない。証明の役目は首級や耳へと移り、名乗りは実戦から消えていった。ただし完全には死んでいない。歌舞伎で様式化され、時代劇に引き継がれ、そして仮面ライダーやスーパー戦隊、プリキュアの変身後の口上として生き残っている。英語圏向けにローカライズされた際、「名乗り」に相当する単語がないので点呼を意味するロールコールが当てられたという話は、この文化がどれだけ日本ローカルなものかを逆に教えてくれる。

紫式部の本名を、いまだに誰も知らない

日本の名前隠しがどれほど徹底していたか。いちばん残酷な形で出ているのが女性の名前だ。

紫式部は本名ではない。清少納言も本名ではない。和泉式部も赤染衛門も、みんな女房名という宮中での通り名である。清少納言は父の清原元輔が少納言だったことにちなむ女房名「少納言」に、清原氏出身であることを示す「清」を添えたもの。紫式部の「藤式部」は、父の藤原為時の官職に由来する説と、同母兄弟の藤原惟規の官職に由来する説がある。「紫」のほうは後世のあだ名で、『源氏物語』の紫の上に由来すると考えられている。

倉本一宏が指摘しているように、彼女の正式な呼称は「藤原為時の女」であり、本名は不明である。藤原実資の日記『小右記』に「藤原為時の女」として出てくるからこそ実在が確認できる、というレベルの話だ。ちなみに和泉式部は藤原道長の『御堂関白記』に「江式部」として出てくるが、清少納言は同時代の一次史料にまったく名前が見えないため、実在が百パーセント確実とは言えないとまで言われている。

なぜ残らないのか。当時、女子の諱を公にすることは忌避されていたからだ。宮中の歌合の記録にも女性の実名は記されない。系図の上にすら実名を見ることは稀だった。成人後に「何子」という諱が付けられた可能性はあるが、それはごく近い身内にしか知らされない。倉本は、彰子や同僚の女房たちも紫式部の諱を知らなかったのではないか、位階を授かって位記が作られでもしなければ本人も周囲も諱を意識しなかったはずだ、とまで書いている。

角田文衛が『御堂関白記』の記事から「藤原香子」という掌侍を紫式部に比定した説は有名だが、疑問視する研究者が多い。多くの研究者が解明に取り組んできたにもかかわらず、いまだに確定していない。千年前のベストセラー作家の名前が、わからない。国家が戸籍で全員の名前を管理していた奈良時代には『続日本紀』に女性の名がたくさん出てくるのに、平安後期になるとぷつりと消える。榎村寛之が指摘するように、この時代は女性の存在そのものが記録上で希薄になっていく。

名を隠す文化は、敬意の表明であると同時に、記録からの抹消装置でもあった。ここは正直に見ておいたほうがいい。呪術的な理由で始まった慣行が、社会構造と結びついた瞬間、片方の性別の存在ごと薄めてしまったのである。

天平勝宝九歳、天皇の名前が法律で禁止された

日本が中国から輸入したもののなかで、いちばん不気味なのが避諱だ。

中国では、皇帝とその祖先の諱は徹底的に避けられた。詔勅以下の公文書に一切使えない。同じ字を使った臣下や地名や官職名は改名させられる。漢字の最終画をわざと欠く。あらゆる手を尽くして使用を認めない。漢の初代皇帝である劉邦の諱が「邦」だったため、漢代には「邦」の字がまったく使えなくなり、以後は「国」の字を使うのが一般化した。戦国時代に「相邦」と呼ばれていた役職は「相国」に改称された。国という漢字が中国語で今の位置を占めているのは、皇帝の名前を避けた結果だと言われると、なかなか呆れる。

皇帝だけではない。自分の親の名も避諱の対象になった。杜甫は膨大な数の詩を残したが、父の名である「閑」の字を全作品で一度も使っていない。一生をかけて、たった一字を避けつづけたのである。

日本もこれを輸入した。天平勝宝九歳、西暦七五七年の五月、天皇と皇后の名、そして藤原鎌足と藤原不比等の名を姓名に用いることが禁じられた。これによって姓の「首」と「史」は別の字に改められている。首は聖武天皇の名、史は不比等の名だったからだ。常陸国の「白壁郡」は光仁天皇の名が白壁だったため改名させられ、大伴氏は淳和天皇の名が大伴だったために改名した。地名と氏族名が、天皇の名前ひとつで書き換わっている。

ただし、日本の受容はどこか中途半端だった。ここが面白いところだ。『礼記』の曲礼上には「礼不諱嫌名、二名不偏諱」とある。似た音の名まで忌む必要はないし、名が二文字なら各々を忌むことはない、という規定である。孔子の母は徴在といったが、孔子は「在」を使うときは「徴」を使わず、「徴」を使うときは「在」を使わなかった、と『礼記』檀弓下にある。中国ではこの規定を超えて嫌名まで避けるほど過熱したが、日本ではそこまで徹底しなかった。屋代弘賢以来、日本では父祖の避諱を行う風習がなかったというのが通説になっているように、ある人物の諱と同じ漢字を使うこと自体がその人物の霊的人格を侵害する、という観念は、中国や朝鮮ほど強くなかったのである。

一字をやる、という支配の方法

日本が中国と決定的に違ったのは、避諱の逆をやったことだ。避けるのではなく、配る。

通字という習慣がある。家に代々受け継がれる特定の一字を諱に入れるやり方で、平家の「盛」、源氏の「義」がよく知られている。武家では二字の諱の上を「父字」、下を「母字」と呼んだ。これは避諱とは真逆の発想だ。同じ字を共有することで、一族の正統な後継者であることを明示する。

さらに強烈なのが偏諱授与、いわゆる一字拝領である。主君が自分の諱の一字を家臣に与える。鎌倉時代には四代将軍藤原頼経から北条時頼へ、六代将軍宗尊親王から北条時宗へというように下の字につく例もあったが、時代が下るにつれて主君へのはばかりから、受ける側の上の字になるのがほとんどになった。

室町時代には、重臣の嫡子が元服する際に烏帽子親となった主君が偏諱を与えることが広く行われた。畠山満家、細川勝元といった守護大名から赤松満政のような近臣まで、足利将軍の一字を拝領している。この授受は文書に残された。一字書出、あるいは一字状と呼ばれるもので、与える一字と年月日と主君の署名花押、そして宛所が記されただけの、そっけない文書である。将軍足利義晴が自筆で「晴」の一字だけを書いた折紙が現存している。紙一枚に一文字。それが家格の証明書になる。

偏諱を与えるということは、直接的な主従関係の証明だった。だから原則として、主君は自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることはできない。有馬晴純が少弐氏との被官関係を残したまま将軍足利義晴から偏諱を授与されたことが後日問題になった例が、『大舘常興日記』の天文八年七月八日条と同九年二月八日条に残っている。名前の一字が、外交問題になっているのである。

具体例を並べると、この制度の生々しさがよくわかる。徳川家康は天文二十四年に今川義元のもとで元服し、義元の一字をもらって「元信」と名乗った。改めて今川の配下になったという意味だ。のちに祖父・松平清康の勇名を慕って「元康」と改める。そして永禄三年の桶狭間で義元が討たれ、今川から独立を決めると、永禄六年、ついに「家康」と改名する。「元」を捨てたのだ。これは今川氏からの自立を明確にする行為であり、ほぼ同時期に、義元に倣っていた花押の形まで変えている。名前の一字を捨てることが、独立宣言だったのである。

上杉謙信も同じだ。景虎から政虎、政虎から輝虎へ。誰の庇護と権威を受けているかが、そのまま名前に刻まれていく。戦国武将の名前は履歴書というより、政治関係の証書だった。

ちなみに、諱で呼ぶことが常に無礼というわけでもなかった。ここが日本のややこしいところで、戦国時代には官職名ではなくあえて諱で呼び、さらに敬称をつけず呼び捨てにすることが最上級の敬意を表す事例もあった。西国の戦国大名の書札礼を継承した豊臣政権下では、「実名」を書くことが尊敬を示すものとして扱われていた。ルールは一枚岩ではない。時代と地域と集団によって、名前の作法はまるで違っていたのである。

鐘に刻まれた四文字が、大坂の陣を呼んだ

そして、名前をめぐる事件のなかでもっとも有名なやつがやってくる。慶長十九年、方広寺鐘銘事件だ。

豊臣秀頼が方広寺の大仏と大仏殿を再建し、梵鐘が完成した。銘文を書いたのは、片桐且元が選んだ南禅寺の文英清韓である。その銘文のなかに「国家安康」「君臣豊楽」という句があった。

家康は八月、五山の僧や林羅山にこの銘文を解読させた。徳川方の言い分はこうだ。「国家安康」は家康の諱である「家」と「康」を「安」の字で分断しており、家康の身体を切断する呪詛である。「君臣豊楽」は豊臣を君主として楽しむという意味であり、天下簒奪の野望を示している。林羅山は「国家安康ト書申候、是ハ御諱ヲ犯シ申候、無礼不法ノ至、其上御諱ノ字ノ中ヲキリ申候沙汰之限ノ事」と断じた。さらに羅山は序文の「右僕射源朝臣」まで「源を射る」と読み替えてみせた。これはさすがに強引で、徳富蘇峰が「曲学世に阿る」と非難したのも無理はない。

だが、ここで終わらないのが面白いところだ。清韓本人は呪詛の意図を否定し、「隠し題」という漢詩文の修辞技法で家康の名をわざと織り込んだのだと弁明した。全ては家康の名を尊重するためだ、と。実際、方広寺と同じく秀頼の寄進で造立された東寺金堂の棟札には「国家太平 臣民快楽」という類似の文言がある。つまり「家康」の文字は偶然入ったのではなく、意図的に入れられた。清韓は自分でそう告白しているのである。

そして五山僧たちの答申がまた微妙だ。呪詛の意図までは認めない。しかし諱を犯したこと、とりわけ諱を分割したことについては、全員が批判した。天龍寺の令彰は「御所様ノ御名乗、聊爾ニ被書」と書き、南禅寺の宗最は「相公御名乗之二字書分候儀、古今無之」と書いた。前代未聞である、と。一方で相国寺の瑞保は「武家御法度之儀者不存候、於五山、其人之儀ヲ書申候ニ、諱相除書不申候法度御座候事」と付記している。武家のしきたりは知らないが、五山では人物について書くときに諱を除く法度などない、と。

同じ京都の禅宗寺院のあいだですら、諱を避けるかどうかの常識が食い違っていたのだ。ここは重要だと思う。「日本人は諱を避けた」と一括りに語ると、この温度差が消えてしまう。

近年の研究、たとえば笠谷和比古や呉座勇一の見解では、徳川方の一方的な言いがかりとは言い切れないとされる。当時の武家社会において、目上の者の諱を無断で公的な鐘に刻むこと自体が著しい敬意の欠如であり、慶祝の意図なら事前に断りを入れるべき筋合いのものだった、というのだ。豊臣方の文化的失策と、徳川方の政治的増幅。その両方が組み合わさって、大坂の陣の口実が完成した。名前の扱いを間違えたせいで、ひとつの政権が滅んだのである。

寺が、人の名前を神の前に「籠める」という制度

呉座勇一が『応仁の乱』で紹介して知られるようになったのが、「名字を籠める」という中世の作法だ。相手の諱を利用して呪詛するのである。これが個人の逆恨みではなく、寺院の制度だったという点が、いちばん怖い。

萩原大輔が『史林』誌上で紹介した宝珠院現蔵の文書群には、十センチ角ほどの紙片が二十二枚ほど含まれている。これらは東大寺法華堂の執金剛神に対して、何らかの違反を犯した者への宗教的制裁を訴えるために作られたものだ。紙片は三種類に分けられる。日付も差出人も書かれていないもの、日付だけあるもの、日付も差出人もあるもの。前二者は「籠名札」、最後は「調伏札」と呼び分けられている。

手順はこうだ。東大寺法華堂の僧が、制裁対象の名前を長方形の小さな紙に書く。それを執金剛神の前に「籠める」。すると、その名の人物は寺の敵であるという決定が下される。決められた期間内に必要な行動が取られなければ、今度は新たに調伏札が作られ、同じく神前に籠められ、より重い制裁である呪詛が発動する。

つまり、名前を書いて神の前に置くという行為が、公式の司法手続きとして運用されていたのである。しかも二段構えだ。まず名を籠めて「敵」認定し、それでも従わなければ呪詛に進む。名前を取り除けば敵認定は解除される。中世大和の寺院社会では、これが寺法の体系のなかにきちんと位置づけられていた。

名前が呪いの部品になるというのは、要するにこういうことだ。個人の恨みが密室で行う怪しげな儀式ではなく、組織が公然と運用する制裁システム。だからこそ、自分の諱をむやみに他人に渡してはいけなかった。渡した瞬間、いつでも札に書ける状態になるからである。

藁と釘と、そして名前

日本の呪いの代表格である丑の刻参りも、突き詰めれば名前の話だ。

人形を使った呪詛は古い。『日本書紀』の用明天皇二年、西暦五八七年の四月条には、中臣勝海連が家に兵を集め、太子彦人皇子の像を作って「まじなう」と記されている。像を刺す描写はまだないが、人形を媒体とした呪いはこの時期からあった。法律も早くから対応している。大宝律令に巫蠱を禁じる条があり、養老律令の賊盗律には厭魅を禁じる規定がある。憎悪の対象がいて、人形や呪符を作ってその人を殺そうとした者は、未遂でも罰する。実際に死ねば殺人として扱う。呪いは法的な犯罪だった。

事件も残っている。神亀六年の長屋王の変の直後には、聖武天皇が厭魅を禁じる勅令を出した。宝亀三年には井上内親王が巫蠱の罪で皇后の位を廃されている。長徳二年、藤原伊周と隆家が花山法皇に矢を射かけた長徳の変では、東三条院の御悩が呪詛によるものだという噂が広まり、寝殿の下から厭物が掘り出されたという噂まで立った。最終的に伊周は、花山法皇を射たこと、女院を呪詛したこと、私に大元帥法を行ったことの三つの罪状で大宰権帥に左遷される。呪詛が政治闘争の武器であり、政治闘争の口実でもあったのだ。

では丑の刻参りはいつ完成したのか。国学院の研究や民俗学の整理によれば、これは複数の要素が長い時間をかけて合流した結果である。もともと「丑の時参り」は、丑の刻に神仏へ祈願する参詣一般を指す言葉だった。貴船神社には、貴船明神が降臨した丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に参詣すると心願成就するという伝承があり、そこから呪詛の場へと転じたと考えられている。

そこに宇治の橋姫伝説が合流する。鎌倉時代後期成立の屋代本『平家物語』「剣巻」に見える橋姫は、妬む相手を取り殺すために鬼神となることを貴船に願い、二十一日間宇治川に浸かれという神託を受ける。室町時代の謡曲『鉄輪』では、この橋姫が安倍晴明と結びつく。ここで効いてくるのが晴明の役回りだ。晴明は茅の人形を作り、そのなかに「夫婦の名字」を籠めて祈祷する。呪う側ではなく、祓う側が名前を使っているのである。

藁人形が登場するのは意外と遅い。鳥山石燕が安永八年に刊行した『今昔画図続百鬼』の「丑時参」には、胸に鏡を隠し、頭に三つの灯を点じ、丑三つの頃に神社に詣でて杉の梢に釘を打つ、と書かれている。人形は出てこない。藁人形に釘を打つと明記される最も古い例は、一七八三年の狂歌集『万載狂歌集』だとされる。つまり我々が知っている丑の刻参りの完成形は、江戸時代後期の産物なのだ。

そしてどのバージョンにも共通して残るのが、名前である。人形に相手の髪や爪や名前を込める。これは依代の発想で、対象者の一部を封じ込めることで人形と本人を同一化する。部分が全体を呼び寄せるという民俗学の原理そのものだ。髪も爪も、そう簡単には手に入らない。だが名前は、口から漏れる。だから名前が狙われる。

現代でも「呪いには相手の名前と生年月日が要る」という言い方をよく聞く。あれは占術と呪術がごちゃまぜになった俗説だが、根っこの発想は千年変わっていない。個人を個人たらしめる印を握れば、その個人に手が届く。ちなみに現在の日本で御神木に五寸釘を打てば器物損壊罪の射程に入り、夜間に神社に立ち入れば建造物侵入の問題になる。呪いの成否以前に、法律のほうが先に反応する。

わざと汚い名前をつけろ、という真逆の知恵

名前が魂と直結しているという前提を共有すると、まったく逆方向の対策も生まれる。魔に狙われないよう、あえてひどい名前をつけるのだ。

奈良時代前期の記録には、角田文衛が僻邪のためと指摘した「久曾売」「小屎売」といった名が見える。汚物の名である。渡辺三男は、童名に「くそ」や「こけ」といった不潔なものをあえて付けることで病魔を避けようとしたのだと説明している。子を死なせた経験のある親や、厄年に生まれた子の場合には「捨」の字を付けた。不用の子として生育に期待をかけない、捨てたことにする。そうすれば病魔の関心をそらせる、という理屈だ。

アイヌ社会にはさらに徹底した例がある。生まれたばかりの子どもには特定の名を付けず、糞、糞の塊、小さな古糞といった意味の呼び名で呼んだ。きれいなものを好むとされる病魔に魂を取られないよう、あえて嫌われて息災を願う信仰である。六、七歳ころになって初めて、子どもの特徴やエピソードにちなんだ本式の命名がなされた。しかも亡くなった人の名を含め、他人と同じ名を付けてはならないというタブーがあり、大和民族と違って祖先の名を継承する文化がない。同じ列島でも、名前の作法はここまで違う。

拾い親という習俗もこれと地続きだ。厄年や病後など、親の側に悪い条件があるとき、生まれた子を一度形式的に捨てて親子の関係を断ち、あらかじめ頼んでおいた家にすぐ拾ってもらう。そして拾い親に命名を依頼する。このとき「捨」や「外」の字を付けることが多かったという。豊臣秀吉が淀殿とのあいだの子である鶴松に「棄丸」という幼名を付け、秀頼に「拾」と名付けたのは、この俗信によるものだ。徳川吉宗も一度捨てられ、刺田比古神社が拾い育てたと伝わる。

この習俗が昭和まで生きていた証言がある。鳥取県の広報担当者が書き残した話だ。茨城県北部に「ステオ」さんという人がいた。祖父の弟である。ずっと変わった名前だと思っていたが、亡くなったあと墓地の木碑を見て驚いた。「捨男」と書くのだ。まるでいらない子として名付けられたような印象を受けたが、祖母に聞くと、親が厄年のときに生まれた子に「捨男」と名付けると丈夫に育つと言われており、珍しい名前ではないという。後日あらためて墓碑を確認すると、確かに同じ名前がいくつも見つかった。近代どころか、戦後まで残っていたのである。名前は呪いを呼ぶ穴でもあり、呪いを逸らす盾でもあった。

死んでから、もう一度名前がつけられる

生きているうちの名前をこれだけ隠すなら、死んだあとはどうなるのか。もうひとつ名前がつく。諡だ。

「おくりな」と読み、贈り名を意味する。漢字文化圏では、帝王や重臣の死後に、生前の事績への評価に基づいて名を奉る。中国の戦国時代に成立した『逸周書』の一篇「諡法解」が諡法について定めた最初の記述とされ、長く選定の基準になった。ここで押さえておきたいのは、帝王の諡号は次の帝王と礼部の官僚が共に選ぶという点だ。つまり当代の皇帝は、自分の諡を知ることが絶対にできない。自分の最終的な名前を、自分では決められないのである。魏の曹叡が悪い諡を避けるために生前に自ら明帝の諡号と烈祖の廟号を定めた例が唯一あるが、当然ながら大批判を浴びた。

日本ではこれが独特に展開した。奈良時代から平安初期にかけては和風諡号と漢風諡号が併用され、元明天皇は漢風諡号を元明天皇、和風諡号を「日本根子天津御代豊国成姫」といった。鎌倉時代成立の『日本書紀』注釈書『釈日本紀』に引かれた「私記」には、書紀の天皇の諡号は淡海三船の撰である、という師説が記されている。そのため神武から持統まで、および神功皇后の諡号は三船が一括して撰進したと想像されている。歴代の名前がまとめて後付けされたわけだ。

やがて漢風諡号は途絶え、代わって追号が主流になる。これは在所や陵墓の名を取るだけの、褒めも貶しもしない呼び名だ。平城、嵯峨、淳和はいずれも追号である。冷泉院以後、天皇の追号は院号とされた。自分で自分の追号を決めた天皇も十五人いて、白河院を初めとして後嵯峨院、後醍醐天皇、後水尾院などが遺詔で指定している。漢風諡号が復活するのは江戸後期の光格天皇からで、野村朋弘が『諡 天皇の呼び名』で整理しているとおり、日本の天皇家に贈られた漢風諡号はすべて生前の事績を称える美諡だった。

そして庶民のレベルでは、死後に別の名がつく習俗が仏教と結びついて戒名になった。僧侶の受戒が、俗人の葬式で死者に授戒して名を与える儀礼として取り入れられた結果である。現代の位牌に俗名ではなく戒名を記すのも、諱を口にしない文化の末裔だ。生前の名は隠され、死後の名で呼ばれる。この国では、名前は一度きりのものではなかった。

明治五年、日本人は名前を一つに減らされた

ここまで見てきた世界は、明治にまとめて破壊される。

まず前提を確認しておきたい。江戸時代の武士や庶民にとって、諱に相当する「名乗」は、ほとんど使い道のない名前だった。尾脇秀和が『氏名の誕生』で丁寧に描いているとおり、当時の人名は「名前」と「姓名」がまったくの別物だった。普段使うのは通称であり、名乗を書くのは公的な書状に花押の上に記す「名乗書判」くらいのものである。庶民の宗門人別帳に諱は記載されない。大名ですら『略武鑑』では省かれる。下級武士では父や祖父の名乗がわからないという例が多く、『寛政重修諸家譜』では経歴や仮名が詳細に書かれているのに名乗が「某」とされている例が頻発する。

つまり、諱を隠していたというより、そもそも誰も使っていなかったし、覚えてもいなかったのだ。ここは、実名敬避俗をロマンチックに語りすぎないための重要な補正だと思う。公家の間では諱が本来の名前だという認識が残っていたが、武家や庶民層ではその認識はかなり希薄だった。

その世界に、新政府が制度を叩き込む。明治三年九月十九日、太政官布告第六百八号によって平民の苗字公称が許可された。発議したのは細川潤次郎で、のちに「天賦固有の権利を同等に持ち居りながら、人為の階級に拠りて、平民ばかりには名前のみを呼ばせて、苗字をいはせぬ」のは圧制だと述懐している。

続いて明治四年に戸籍法が公布され、翌年から施行された。政府はこの戸籍を通じて、氏と名によって国民全員を把握しようとした。そして明治五年五月七日、太政官布告第百四十九号。「従来通称・名乗両様用来候輩、自今一名タルヘキ事」。通称と実名を両方使っている者は、これからは一つだけ名乗れ、という命令である。一人一名主義だ。同年八月二十四日には第二百三十五号で、華族から平民まで苗字も名も屋号も改称を禁じた。改名の自由が、法制上から消えた。

さらに明治八年二月十三日、太政官布告第二十二号、いわゆる苗字必称義務令。「自今必苗字相唱可申。尤祖先以来苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字ヲ設ケ候様可致」。必ず苗字を名乗れ、わからない者は新しく作れ、である。きっかけは陸軍省だった。同年一月十四日の伺いで、辺境の小民には苗字を持たない者がいて徴兵事務に差し支えがある、と訴えている。徴兵のために、国民全員に苗字が要る。これが本音だ。

現場は当然、大混乱した。寺に頼み込んで苗字をつけてもらう者、役場総がかりで全世帯の苗字を作った村。戸籍係に「適当につけてくれ」と頼んだ結果「適藤」になった者。先祖が戦で手柄を立てたと言い張って「手柄」になった者。「うちは古い家柄だ」と言われた戸籍係が「古代はどうだ」「もっと古い」「太古は」「もっと古い」というやりとりの末に「太古前」になった者。前の人と同じでいいと言って「左同」になった者。二人組が店主につけてもらった苗字を役場に着くまでに忘れてしまい、「二人が、二人が」と口ごもっていたら両名とも「二人」という苗字にされ、あとで「ふひと」と読むと教えられた者。笑い話のようだが、江戸時代の苗字は三万種だったのが現在は十二万種あり、増えた九万種は明治期に創出されたものだとされる。日本人の苗字の四分の三は、この混乱から生まれている。

千年以上かけて何重にも積み上がっていた名前の層が、わずか数年で削り取られ、氏と名の二つだけが残った。魂の名も、呼び名も、役職の名も、隠居してからの号も、全部いらない。国家が管理できる識別子が一つあればいい。合理的だ。そして、ぞっとするほど味気ない。

それでも我々は、いまだに本名を隠している

さて、現代の話をしよう。

平成二十三年版の情報通信白書に、面白い数字が載っている。ソーシャルメディア利用時に実名をネット全体へ開示している人の割合は十二パーセント程度。ところが、ソーシャルメディア上の友人などに限定しての開示率は四十パーセント近くに跳ね上がる。この乖離が、調べられた項目のなかで最大だった。ネット上の掲示板では、現実の自分と結びつかないハンドルネームの利用率が六十八パーセントを超える。ブログやツイッターでも過半数。ブログやSNSを公開しようとする場合、実名を選ぶ人は二パーセント台しかいない、という別の調査もある。

我々は、公家でも武士でもないのに、通称と実名を使い分けている。ハンドルネームは仮名であり、字であり、女房名だ。ネット上で「本名バレ」「特定」が恐怖の対象になるのは、それが物理的な危険につながるからでもあるが、感覚としては、もっと古い層に触れている気がしてならない。名前を握られたら、逃げられない。あの感覚だ。

研究者の整理では、ネットの匿名性は「本人への到達性」と「リンク可能性」の二軸で捉えられる。同じ名前を使い続ければ、本名がわからなくても同一人物だと識別される。これを仮名と呼び、その都度名前を変えて同一人物と判別できない状態を匿名と呼ぶ。実に武家的な話ではないか。太郎、次郎という仮名で識別されつつ、名乗は誰も知らない。江戸時代の人名の構造そのものである。

創作の世界でも、名前の呪術はまったく古びていない。『千と千尋の神隠し』で千尋は湯婆婆に名前を奪われ、「千」にされる。名前を取り戻すことが、そのまま自分を取り戻すことになる。あの映画の中核にあるのは、名を握られた者は支配されるという、まさに実名敬避俗の論理だ。

『呪術廻戦』の「縛り」も名前と情報の話として読める。自分の術式を敵に明かすと、その情報を渡すリスクを代償として術の出力が上がる。手の内を晒すことが力になる。これは名乗りの構造そのものだ。戦場で名乗ることは相手に情報を渡す行為だが、同時に自分の存在を天下に主張する行為でもあった。誇りとリスクの交換。八百年前の武士がやっていた取引を、現代の少年漫画がルール化して再発明している。

ネット上の考察界隈では、こうした話がよく「日本人は昔から名前を呪いだと考えていた」という形で流通する。だいたい合っているのだが、注意したほうがいい反証もある。本居宣長は、諱とは中国から入ってきた「漢意」であって日本古来の風習ではない、日本では古来、名前とはむしろ美称だったと論じた。実名敬避の風俗は日本にはなかった、という立場だ。これに対して穂積陳重は、宣長が名前を美称と認識したのは、『古事記』『日本書紀』に記録された神や天皇の名前について実名の多くが忘れ去られ、副称や尊号だけが伝わった結果ではないかと反論した。イザナギ・イザナミの神名も、国産みのために互いを誘ったことから呼んだものだとすれば、それは後から奉られた尊号であって実名ではない、と。

近年の研究ではさらに別の角度からの指摘もある。江戸時代の思想史を追った研究では、当時の学者たちの理解として「諱は死者への哀しみの感情に基づく」という説が有力だったことが示されている。悲しみが名を呼ぶことを禁じるのだ、という理屈だ。宣長はこれに対し、柿本人麻呂の歌を引きながら、死者への悲しみはむしろ名を呼びたい衝動を生むはずだと反論した。感情のままに表さないのは「漢意」であり、「真心」を覆い隠す悪しき習俗だ、と。呪術の話が、いつのまにか人間の悲しみの話になっている。名前をめぐる議論の面白さは、こういうところにある。

結局、名前の何がそんなに怖いのか

理屈を整理してみる。

名前が怖いのは、それが唯一、本人から切り離しても機能してしまう本人の一部だからだ。髪も爪も血も、本人から取らなければ手に入らない。だが名前は、本人が口を開けば漏れる。他人が呼べば空気中に散る。書けば紙の上に残る。切り離しても劣化しない。複製できる。持ち運べる。呪いの材料として、これほど扱いやすいものはない。

しかも名前は、当人の同意なしに使える。呼ばれる側は拒否できない。誰かが自分の名を呼んでいるかどうか、自分では確かめようがない。中世の東大寺法華堂で、自分の名を書いた紙片が執金剛神の前に置かれていたとして、名を書かれた本人はそれを知りようがない。丑の刻参りが「見られたら効力が失せる」とされたのは、逆に言えば、見られない限り一方的に進行するということだ。この一方向性が、名前という装置のいちばん不気味なところだと思う。

そしてもう一つ。名前は関係の位置を固定する。誰が誰を何と呼ぶかで、上下が決まる。親と主君だけが諱で呼べる、という規則は、裏を返せば、呼び方を見れば序列が全部わかるということだ。中世の書札礼が、宛名を官位で書くか諱で書くか通称で書くか、「殿」の字をどれだけ崩すか、日付より上に書くか下に書くかで身分秩序を表現していたのも同じ理屈である。弘安八年の『弘安礼節』以来、この体系は延々と精緻化されていった。名前は、人間関係の座標そのものだった。

だから人は名前を隠した。魂を守るためであり、序列の網に絡め取られないためであり、そして単純に、誰かに握られたくなかったからだ。

面白いのは、この感覚が明治の制度改革を生き延びたことだ。会社で上司を「部長」と役職で呼ぶ。学校で教師を「先生」と呼ぶ。天皇を諱で呼ばない。位牌には俗名ではなく戒名を刻む。ネットではハンドルネームを使い、本名がバレることを恐れる。誰も呪いを信じていないのに、作法だけが残っている。

いや、本当に信じていないのだろうか。自分の名前をフルネームで検索したことがある人なら、あの妙な落ち着かなさを知っているはずだ。自分の名前が、自分の知らないところに置かれている。その気持ち悪さは、千年前に諱を隠した人々が感じていたものと、たぶん地続きだ。

「昔の人は迷信深かった」で片づけると、いちばん肝心な部分が落ちる

ここまで諱と実名敬避俗をめぐる歴史を追ってきたが、最後に全体を貫く構造をもう一段深く掘っておきたい。というのも、この話は「昔の人は迷信深かった」で片づけると、いちばん重要な部分を取り落とすからだ。

まず押さえるべきは、名前をめぐる制度が一貫していなかったという事実である。日本の実名敬避俗は、中国から輸入された避諱の制度と、それ以前から列島にあったらしい名の忌避感覚と、武家社会が発明した偏諱授与という真逆の作法が、層を成して重なったものだ。だから場面によってルールが正反対になる。天平勝宝九歳には天皇の名の字を使うことが法で禁じられたのに、鎌倉以降の武家では主君の名の字をもらうことが最高の栄誉になった。避けるのと配るのが、同じ「名前には力がある」という前提から出ている。ここを混同すると、話がわからなくなる。方広寺の鐘銘に五山の僧たちが困惑したのも、まさにこの重層性のせいだ。武家の作法では諱を書くこと自体が問題になるが、禅林の作法では諱を除く決まりなどない。相国寺の瑞保がわざわざそう付記したのは、彼らが単一のルールブックを持っていなかったことの証拠である。同じ時代の同じ京都で、名前の作法は分裂していた。

次に、この習俗が誰にとっての制度だったのかを見ておきたい。公家にとって諱は本来の名前であり、実際に記録され、呼称にも使われた。武家と庶民にとっては、ほとんど使い道のない飾りだった。尾脇秀和が明らかにしたとおり、江戸時代の庶民にとっての「名前」は通称のことであり、それは身分や立場が変わるたびに改まるものだった。八文字屋佐兵衛が翌年には大坂屋喜兵衛になり、三文字屋仁右衛門が武家奉公で中尾嘉内になる。一生同じ名前で通す男など、むしろいなかった。名前は個人の内面を表すものではなく、社会的な位置を示す標識だったのだ。「親が思いを込めてつけてくれた、かけがえのない名前」という感覚は、近代に発生した意識であって、伝統でも何でもない。この転倒はよく覚えておきたい。我々が「名前は魂だ」と感じるとき、そこには古代の呪術感覚と、近代の個人主義とが、たまたま同じ方向を向いて重なっているのである。

そして、実名敬避俗が生んだ最大の副作用について、もう一度触れておく必要がある。女性の名前の消滅だ。奈良時代には戸籍が機能していたから、政府はすべての人の実名を把握していた。『続日本紀』には女性の名前がたくさん出てくる。ところが平安後期になると、女性の実名は系図の上からも消える。宮中の歌合の記録にも書かれない。紫式部も清少納言も和泉式部も赤染衛門も、女房名しか残っていない。生没年すらわからない。これは「敬って避けた」結果であると同時に、記録する価値のない存在として扱われた結果でもある。敬避と黙殺は、実務上は区別がつかない。名を隠すという行為が敬意なのか排除なのかは、隠される側の権力の有無で決まってしまう。ここは美談にしてはいけないところだと思う。中世後期になって庶民の女性が「ねね」「やや」「とら」といった童名のまま記録に残りはじめるのは、彼女たちがより独立した存在として扱われるようになった証でもあった。名前が記録されることは、存在が承認されることと同じだったのだ。

呪術としての名前についても、整理しておこう。名前を使った呪詛が民俗の記録に大量に残っているのは事実である。だがその実態は、我々が想像するような「効く技術」というより、社会的な圧力装置に近い。東大寺法華堂の籠名札は寺法の体系に組み込まれた制裁であり、名を籠めたという事実が相手に伝わることで機能した。丑の刻参りも、江戸時代の狂歌や小咄で盛んにパロディ化されている。つまり皆が知っている共有知識だった。誰かが自分を呪っていると認識することで自己暗示にかかるという説明が現代ではよくなされるが、この説明は「他人に見られたら効力が失せる」という伝承の核心を説明しきれていない、という指摘もある。呪いは秘密でなければならないのに、同時に社会に広く知られていなければ意味がない。この矛盾こそが、呪詛という文化の本質だったのかもしれない。いずれにせよ、ここで紹介したものはすべて歴史と民俗の記録であって、実行の手引きではない。現代の日本で御神木に釘を打てば、呪いが成就する前に法律が動く。

最後に、なぜこの話が現代でもこれほど刺さるのかを考えたい。理由は単純で、我々がいま生きている環境が、史上もっとも名前が漏れやすい環境だからだ。検索すれば出る。タグ付けされれば残る。一度紐づけられた名前は、こちらの意思と無関係に流通しつづける。ハンドルネームを何度変えても、書き癖や交友関係から同定される。かつて諱を隠した人々が恐れていたのは、名を握られることによる支配だった。現代人が恐れているのは、名を紐づけられることによる追跡である。恐怖の形は違うようでいて、構造はまったく同じだ。自分に関する情報が、自分の管理を離れて他人の手元にあるという状態。それをどう呼ぶかの違いにすぎない。

千年前の人々は、この不安に対して「呼ばない」という技術で対処した。呼ぶ権利を親と主君だけに限定し、それ以外の全員は通称で処理する。徹底した情報遮断である。我々にはもうその技術がない。代わりに我々が持っているのは、複数のアカウントと使い分けと、それでも漏れるという諦めだ。

名前は、いまも呪いである。ただしその呪いは、神仏の力によってではなく、検索インデックスとスクリーンショットによって発動する。呼ばれた名前が消えないという意味では、むしろ古代より状況は悪い。諱を隠しつづけた日本人は、たぶん我々のことを心底気の毒に思うだろう。あるいは、よくもまあそんな危険な世界で平気で暮らせるものだ、と呆れるかもしれない。

だから、次に誰かに「お名前は?」と聞かれたとき、ほんの一瞬でいいから躊躇してみてほしい。その躊躇には、千年分の理由がある。

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