## 殿が死んだら、家来も死ぬ。そんな時代が本当にあった
江戸時代の初め、日本のあちこちで妙なことが起きていた。大名が病気で死ぬ。すると、その家来が何人も、あとを追って自分で死ぬ。戦で負けたわけじゃない。城が落ちたわけでもない。ただ殿様が畳の上で寿命を終えた、それだけで、十人、二十人と死んでいく。これを「殉死」と呼び、腹を切る形をとることが多かったので「追腹(おいばら)」とも言った。
今の感覚だと意味が分からないよな。上司が病死したから部下も死ぬ、なんて話が通る職場は無い。でも当時はこれが「美風」だった。美しい風習だ、と本気で言われていた。しかも一過性じゃない。慶長のころに始まって、寛文の禁令が出るまで、ざっと五十年から六十年、日本の武家社会でずっと続いた。数百人単位の人間が、この理屈で死んでいる。
さらに厄介なのは、これが「命令された」わけじゃないことだ。殿様の多くはむしろ止めている。「死ぬな」と遺言した殿もいる。それでも死んだ。断れない空気があった。今回はその空気の正体を、具体的な年号と地名と名前をたどりながら追いかけていく。読み終わるころには、たぶん背筋が寒くなっていると思う。
先に言っておくけど、これは絶対に美しい話じゃない。当時の人が美しいと言い張っていただけで、内側で起きていたのは同調圧力と面子と、断れなかった人たちの詰みだ。そこを見誤ると、この風習の本当の怖さは見えてこない。
## 寛永十八年、熊本の春から話をはじめよう
舞台は肥後、いまの熊本県。寛永十八年、西暦でいうと一六四一年。肥後五十四万石の藩主・細川忠利が病に伏せていた。父は細川忠興、母はガラシャ。名門中の名門だ。忠利自身も名君として通っていて、家臣からの人望が厚かった。
春先から容体が悪化していく。城の中の空気がじわじわ変わっていくのが、記録の行間から伝わってくる。近習の者たちが夜通し詰める。医師が入れ替わり立ち替わり出入りする。そして三月、忠利は死ぬ。享年五十六。
ここからが本題だ。忠利の死を追って、十九人の家臣が腹を切った。十九人。一人二人じゃない。藩の中枢にいた者から、小姓上がりの若い者まで、次々に自ら死んでいった。しかも興味深いのは、この十九人の多くが譜代の重臣ではなく、忠利が自分で見出して引き上げた「新参」の家臣だったことだ。代々仕えてきた家柄の連中は、むしろ死ななかった。
この偏りは、殉死という現象を理解するうえでめちゃくちゃ重要なポイントになる。あとで詳しく触れるけど、殉死する人間には明確な傾向がある。殿と個人的に濃い関係にあった者、身分の低いところから抜擢された者、要するに「殿がいなくなったら自分の居場所が無くなる者」が死ぬのだ。忠義という言葉で塗りつぶされているけど、その下にはもっと生々しいものが沈んでいる。
## 「お供を」と願い出る、あの独特の順番
殉死には手順があった。手順というと変だが、いきなり勝手に死ぬわけじゃない。まず殿が生きているうちに、枕元へ行って「お供させてください」と願い出る。殿が「うむ」とうなずけば許可が下りたことになり、正式な殉死者候補になる。
この「願い出て、許される」というプロセスが、後々とんでもない意味を持ってくる。許された者は、殿の死後に堂々と死ねる。周囲も「あれは殿のお許しを得た者だ」と認める。遺族も「殉死した家」として扱われる。逆に、願い出たのに許されなかった者はどうなるか。ここが地獄なんだ。
許されなかった者は死ねない。死んだら遺言違反になる。かといって生きていれば、周りから「あいつは死ななかった」と見られる。同僚が次々に腹を切っていくなかで、自分だけ生き残る。廊下ですれ違う視線。法要の場での座る位置。誰も直接は言わない。言わないから逃げ場も無い。
記録に残る願い出の場面は、どれも短い。「お供仕りたく」と言い、殿がうなずくか、あるいは「生きて跡を助けよ」と言う。その一往復で人ひとりの生死が決まる。そして病床の殿はもう長い会話ができる状態じゃないから、たいていは目線と、かすれた一言だけだ。その一言をどう解釈するかで、後から揉める。実際に揉めた。
## 十九人という数字の重さ
細川忠利に殉死した十九人は、熊本の妙解寺、いまの北岡自然公園にあたる細川家墓所のあたりに葬られた。歴代藩主の墓域と、その周りに殉死者たちの墓が並ぶ。国の史跡に指定されている場所で、いまも行ける。
十九という数字を、ちょっと想像してみてほしい。藩の家臣団のなかで、同じ時期に十九人が一斉に消えるということは、部署がまるごと空になるようなものだ。実務が止まる。引き継ぎもない。しかも死んだのは殿と直接やりとりしていた層、つまり藩政の最前線にいた人材だ。新藩主の細川光尚からすれば、就任した瞬間に側近が全滅しているわけで、たまったものじゃない。
記録を読むと、殉死は連鎖する性質を持っていたことが分かる。一人目が腹を切ると、二人目が「あの人が死んだのに自分が生きているのは」と考える。二人目が死ぬと三人目が同じことを考える。ドミノなんだ。しかも「殉死した家臣に、さらにその家来が殉死する」という二段構えのケースまである。陪臣の殉死、いわゆる又追腹というやつだ。これが起きると死者数は一気に膨らむ。
殉死が止まらない構造的な理由がここにある。誰かが始めたら、止める方法が無い。止めれば「臆病者」だ。武士にとって臆病者呼ばわりは、当時の価値観では社会的な死に近い。だから死ぬ。死ぬから次が死ぬ。
## 阿部弥一右衛門だけが、うなずいてもらえなかった
熊本の話にはもうひとつ、後世まで語り継がれる続きがある。阿部弥一右衛門という重臣がいた。彼も忠利に殉死を願い出た。ところが忠利はうなずかなかった、という伝承がある。「生きて新しい藩主を助けよ」と言われたとされる。
もっとも、史実の記録では弥一右衛門は忠利の死の直後、寛永十八年の四月に殉死したと記されている。つまり「許されずに生き恥をさらした」という筋書きは、後世の物語で足された脚色の可能性が高い。この話が有名になったのは、森鴎外が書いた小説の影響が大きく、鴎外はさらに古い『阿部茶事談』という記録を下敷きにしている。
ただ、脚色だからといって無意味ではない。むしろ逆だ。「許されなかった男が周囲から白い目で見られ、追い詰められて腹を切る」という筋書きを、江戸から明治にかけての人々がリアリティのある話として受け入れたということは、その状況が実際にあり得るものとして共有されていたわけだ。物語は嘘でも、その物語が成立する土壌は本物だった。
実際、この空気は各地の記録に痕跡がある。殉死しなかった家臣が、その後の藩内でどう扱われたか。露骨な処罰は無い。無いからこそ、じわじわ効く。役職が回ってこない。縁談がまとまらない。そういう静かな締め上げが、たぶん一番怖い。
## 二年後、屋敷に立てこもった一族
細川忠利の死から二年。寛永二十年、一六四三年に、熊本で凄惨な事件が起きる。阿部一族の討伐だ。
きっかけは法要の場だった。先代忠利の法事で、阿部家の当主・権兵衛が自分の髻を切り落とした。これは尋常な行為じゃない。抗議であり、決別の表明だ。藩は権兵衛を捕らえ、武士の作法とは異なる形で処断した。縛り首だ。武士にとってこれは死そのものより重い辱めにあたる。
それを聞いた阿部一族は屋敷に立てこもった。藩は討ち手を差し向ける。一族はことごとく討ち取られた。一族全滅である。殉死をめぐる感情の行き違いが、二年かけて発酵して、屋敷ひとつが血で終わった。
この事件が示しているのは、殉死という制度が単なる「忠義の発露」なんかじゃなく、藩内の序列と面子をめぐるきわめて政治的な装置だったということだ。誰が死んで誰が死ななかったか。誰が殉死者の遺族として遇されたか。それは家の格に直結した。だから遺された者は、その扱いに命を懸けて反発する。忠義の物語の裏側で動いていたのは、家の存続をめぐる冷たい計算と、傷つけられた誇りだった。
## 始まりは慶長十二年、家康の四男の死
じゃあ、この風習はいつ始まったのか。実は意外と新しい。
一般に、病死した主君に家臣が追腹を切る形の殉死の「最初」とされるのが、慶長十二年、一六〇七年の松平忠吉の死だ。忠吉は徳川家康の四男で、関ヶ原では先陣を切った武将として知られる。清洲五十二万石の当主だったが、二十八歳の若さで病死した。このとき家臣が殉死したことが、以後の流行の起点として語られる。
同じ慶長十二年には、家康の次男・結城秀康も越前で死んでいる。閏四月八日、享年三十四。『当代記』には病名をうかがわせる記述があり、衰弱死とされる。この秀康の死に際しても、万石クラスの重臣が後を追ったと伝わる。つまり一六〇七年という一年に、徳川一門の若い当主が二人続けて病死し、両方で殉死が起きた。ここが導火線だ。
面白いのは、これが「復活」ではなく「発明」に近いことだ。古代には殉葬の記録がある。『魏志』倭人伝には卑弥呼の墓に百人規模の奴婢が葬られたとあり、『日本書紀』には垂仁天皇の代に殉死の残酷さゆえこれを禁じ、代わりに埴輪を立てたという有名な話がある。だがそれと江戸初期の追腹は、直接つながっていない。あいだが空きすぎている。
## 戦国時代には、実はほとんど無かった
ここが一番の意外ポイントかもしれない。戦国時代、あれだけ人が死んだ時代に、「病死した主君への殉死」はほとんど例が無いのだ。
戦国の武士が死ぬのは戦場だ。城が落ちれば城主とともに自害する。負け戦で主君が討たれれば、そばにいた者も討たれる。これは殉死というより、単に一緒に滅ぼされているだけだ。あるいは追い詰められた末の集団自害。どちらも「戦闘の帰結」であって、平時の儀礼じゃない。
ところが江戸に入って戦が消えると、武士は戦場で死ねなくなる。手柄を立てる場が無い。この状態で「自分は主君に命を捧げる存在だ」ということをどう証明するか。答えが、平時の追腹だった。戦が無くなったからこそ殉死が流行った。これは相当に皮肉な話だ。
つまり殉死は、古い野蛮の名残じゃない。平和になった社会が新しく生み出した儀式なんだ。武士がアイデンティティを失いかけた時期に、自分の存在価値を一発で証明できる手段として発明された。しかも一度発明されると、やらない者が減点されるようになる。ルールが後から人を縛りはじめる、よくあるパターンだ。
## 政宗の墓の隣に並ぶ、二十基の小さな塔
仙台に瑞鳳殿という霊屋がある。伊達政宗の墓所だ。経ヶ峯という山の上にあって、豪奢な建物で知られるが、その脇にひっそり並んでいるものがある。宝篋印塔だ。殉死者の供養塔である。
政宗が死んだのは寛永十三年、一六三六年。仙台藩の記録では、このとき二十人が殉死した。内訳は直臣が十五人、そして陪臣が五人。陪臣というのは、殉死した直臣にさらに仕えていた家来のことだ。つまり「殿が死んだから死んだ人」に対して、「あの人が死んだから死んだ人」がさらに五人いた、ということになる。
名前が伝わる者には石田将監、茂庭采女らがいる。いずれも政宗の側近として厚遇されていた者たちで、辞世を残して死んだ。彼らの供養塔が、主君の霊屋のすぐ横に並んでいる。
この光景、実際に立ってみると相当に効く。豪華絢爛な霊屋があって、その脇に同じ形の小さな石塔がずらっと並ぶ。石ひとつが人ひとりだ。しかも自分から死んだ人間ばかりだ。政宗は伊達者の代名詞みたいな武将で、逸話も派手なものが多いけれど、その最期の脇にはこういう風景がある。忘れられがちだが、これも政宗の死の一部だ。
## 佐賀・高傳寺の碑に刻まれた、四代ぶんの名簿
殉死の規模を一望できる場所が、佐賀市本庄町にある。高傳寺という鍋島家の菩提寺だ。ここに殉死者共同の碑が立っていて、歴代当主ごとの殉死者が法名とともに列記されている。名簿だ。
中身を並べると、こうなる。元和四年、一六一八年六月四日に八十一歳で死んだ鍋島直茂に十二人。寛永十二年、一六三五年一月二十八日に二十三歳で死んだ鍋島忠直に五人、江副金兵衛らの名が伝わる。正保二年、一六四五年二月十一日に七十五歳で死んだ鍋島茂賢に二十二人。そして明暦三年、一六五七年三月二十四日に七十八歳で死んだ鍋島勝茂には、二十六人。
二十六人。江戸時代の殉死としては最多級だ。しかも勝茂は七十八歳、当時としては大往生である。若死にでも横死でもない。長生きして畳の上で亡くなった殿に、二十六人がついていった。
注目したいのは、忠直のケースだ。二十三歳で死んだ若い当主に五人が殉死している。この五人は、二十三歳の当主に人生を懸けていた側近だろう。仕えて数年で、殿が死んで、自分も死ぬ。しかも佐賀藩は四代にわたって毎回これをやっている。当主が代わるたびに、その周辺人材がまとめて消える。藩の運営から見たら大災害だ。それでも止まらなかった。
## 三十六人が申し出て、一人も許されなかった日
同じ高傳寺の碑には、もうひとつ強烈な記録が残っている。寛文元年、一六六一年七月七日、鍋島直弘が四十四歳で死んだとき、殉死を申し出た者が三十六人いた。三十六人。だが、この三十六人は誰ひとり許されなかった。
この年、何が起きていたか。同じ寛文元年の七月、水戸では徳川光圀が、父・頼房への殉死願いを一切許さないという判断を下している。同じ年の閏八月には、会津の保科正之が藩の家訓に殉死禁止を書き込んでいる。つまり寛文元年というのは、殉死に対する空気が上のほうから一斉に変わりはじめた年なんだ。
佐賀の三十六人は、その転換点にちょうどぶつかった。もし直弘の死があと十年早ければ、たぶん何人かは死んでいた。逆に十年遅ければ、そもそも申し出る発想すら無かったかもしれない。時代の境目に立ってしまった三十六人が、全員生き残った。
この三十六人がその後どういう気持ちで生きたのか、記録は多くを語らない。ただ、彼らの名前が碑に「申し出た者」として刻まれたということ自体が、当時の価値観をよく表している。死ななかったのに名前が残る。申し出たという事実に価値があった、ということだ。
## 義腹・論腹・商腹――当時の人による身も蓋もない分類
ここで面白い話をしよう。殉死を美風だ美風だと言っていた当の江戸時代の人間が、実はきっちり冷めた分類をしていた。『明良洪範』という書物に出てくる三分類だ。
まず「義腹」。これは本物。主君への純粋な思いから死ぬやつ。次に「論腹」。他の連中が死ぬから自分も死なないと理屈が通らない、という理由で死ぬやつ。同調圧力の産物だ。そして三つめが「商腹」。これがえげつない。殉死することで子孫の栄達を買う、つまり商売として死ぬやつ、という意味だ。
当時の人がこの三分類を持っていたということは、「あいつのは義腹じゃなくて商腹だろ」みたいな会話が実際にあったわけだ。人が死んでいる横で、その動機を値踏みしている。美風の裏側で、こういう身も蓋もない目線が同時に走っていた。
そして考えてみると、この分類は殉死者本人にとって残酷なプレッシャーでもある。死ぬだけじゃ足りない。「義腹だ」と認定されないと意味が無い。だから死に方まで人目を意識することになる。辞世の質、当日の落ち着き、周囲への挨拶。全部が採点対象だ。死んでもなお評価される。逃げ場が無いにも程がある。
## 「商腹」は本当に割に合ったのか
じゃあ商腹は儲かったのか。子孫は本当に出世したのか。ここに近年の研究の一番シビアな指摘がある。
山本博文の研究をはじめとする検証によると、殉死者の家族がその後に加増を受けたり、目立って栄達したりしたケースは、ほとんど見当たらない。つまり商腹という投資は、投資として成立していなかった可能性が高い。
もちろん「殉死した家」というブランドは残る。藩の記録に名が残り、法要で丁重に扱われる。だが石高は増えない。役職も回らない。むしろ、一家の稼ぎ頭が消えたぶん、実務的には家が弱る。しかも殉死したのは殿の個人的な側近が多いから、次の殿とのパイプは無い。跡取りは新体制でゼロから信頼を築かなきゃならない。冷静に見れば、家にとってマイナスだ。
この検算が突きつけてくるのは、殉死が合理的な打算では説明しきれない、ということだ。打算だったなら、割に合わないと分かった時点で減るはずだ。でも減らなかった。何が人を動かしていたのか。研究者が指摘するのは、忠義でも打算でもない、もっと非合理で衝動的な情念だ。死を恐れないという意地を、周囲に見せつけたい。その一点。
殉死者に下級家臣や小姓が多いのも、この線で説明がつく。取るに足らない身分の者が、藩の歴史に自分の名を刻める唯一の方法が、これだった。身分秩序を一瞬だけ逆転させる自己主張。ものすごく歪んだ形の承認欲求だ。
## 官兵衛が死ぬ前の三十日、家臣を罵り続けた理由
殉死を防ごうとした側の話もしておこう。これがまた強烈なんだ。
黒田官兵衛、つまり黒田如水。彼は「主のために追腹を切るということぐらいつまらぬことはない」という持論の持ち主だった。死後の世界まで一緒に行けるわけじゃないし、有能な家臣を失うのは家の損失でしかない、という徹底した現実主義だ。
で、官兵衛が取った手段が異様だった。自分の死期を悟ってから、およそ三十日間、それまで大事に育ててきた家臣たちをひどく罵り続けたのだ。理不尽に怒鳴りつけ、ののしり、人が変わったようにふるまった。家臣たちは困惑して、「殿が乱心なさったのでは」と息子の長政に相談に行く。長政が父にもう少し寛容にと頼むと、官兵衛は小声で明かした。これはお前のためにやっているのだ、と。自分が家臣たちに嫌われて、一日も早く長政の代になればいいと思わせるためだ、と。
最期の三十日間を、自分の名誉を捨てるために使った。家臣に嫌われて死ぬことを選んだ。そこまでしないと殉死は止められないと、官兵衛は分かっていたわけだ。逆に言えば、それだけこの風習の引力が強かったということでもある。
禁止令や説得では止まらない。人望があればあるほど死者が出る。だから人望そのものを壊すしかない。この解決策のいびつさが、殉死という現象の異常さを何より雄弁に語っている。
## 秀忠が死んだ翌日、老中がひとり消えた
殉死は下級家臣のものだけじゃなかった。幕府の中枢でも起きている。
寛永九年、一六三二年一月二十四日、二代将軍・徳川秀忠が死去する。その翌日、一月二十五日、老中の森川重俊が自害した。老中というのは幕政のトップクラスだ。将軍が死んだ翌日に、政権中枢の一人が消える。
重俊の動機について記録は複数の解釈を伝えている。秀忠から厚い寵愛を受けていたこと。そしてもうひとつ、彼が秀忠と徳川忠長に近い立場だったため、後継者である家光の代になったら改易されるのではないかと恐れた、という見立てだ。
この二つ目の解釈が生々しい。つまり、政治的に詰んだ人間の逃げ道として殉死が機能していた可能性がある。負け組になる前に、忠義の物語のなかで死ぬ。そうすれば家は残る。実際、森川家は長男の重政が継いで存続した。
殉死を「純粋な忠誠」の一語で理解しようとすると、こういうケースを取りこぼす。追い詰められた者にとって、殉死は名誉ある撤退でもあった。もちろん死ぬのだから撤退でも何でもないのだが、当時の価値観のなかでは、それが最も体面を保てる終わり方だった。
## 家光の死で、老中がふたり消えた
さらに極端なのが、三代将軍・徳川家光の死だ。慶安四年、一六五一年四月二十日、家光が死去する。このとき殉死した幕閣の顔ぶれが、とんでもない。
堀田正盛。老中で、佐倉十一万石の大名だ。阿部重次。同じく老中で、岩槻五万石。大名格の老中が二人、同時に消えた。ほかに内田正信、三枝守恵の名が伝わる。記録によって四人とも五人とも数えられる。彼らの墓は現龍院墓地にあり、日光の妙道院には供養塔がある。
十一万石の大名が主君の死を追って自ら死ぬ。これは藩ひとつが跡目相続の危機に直面するということだ。しかも同時に二つ。幕府の中枢が空くうえに、地方の統治にも穴が空く。
この事態が幕府に与えた衝撃は大きかったと考えられている。家光の死のときに幼い家綱が四代将軍になり、幕政は不安定だった。そこに老中の殉死が重なった。同じ年には由井正雪の乱も起きている。世の中が揺れているときに、統治のトップ層が忠義のために自ら消えていく。政権を運営する側からすれば、これはもう美風じゃない。ただの損害だ。
幕府が本気で殉死を潰しにかかる決断をしたのは、この経験があったからだと見るのが自然だろう。
## 寛文三年、幕府がついに「不義無益」と言い切る
寛文三年、一六六三年五月。四代将軍・家綱の名において、幕府は殉死の禁止を諸大名に伝えた。武家諸法度の趣旨を伝達する場で、口頭で申し渡されたとされる。使われた言葉が強烈だ。「不義無益」。義に外れており、何の役にも立たない、という全否定である。
それまで美風と呼ばれていたものを、いきなり不義と断じた。この転換のスピードがすごい。同じ時期に、大名の妻子を人質として江戸に置く大名証人制度も廃止されている。この二つは併せて「寛文の二大美事」と呼ばれた。戦国から続く遺風を一掃して、文治政治へ舵を切るという明確な意思表示だ。
そして寛文の禁令には、決定的に巧い仕掛けがあった。罰せられるのは殉死した本人ではない。死んだ本人はもう罰しようがないからだ。罰せられるのは、殉死者を出した「主君の側」つまり後継者と家である。
これが効いた。それまで殉死は、遺された家にとって名誉だった。それが一転して、家の危機になる。跡取りにしてみれば、家臣に死なれたら自分の落ち度になる。だから必死に止める。止めるインセンティブが初めて生まれたわけだ。個人の倫理観に訴えるのではなく、組織の利害構造を書き換えた。冷酷だけど、これ以上なく効果的なやり方だった。
天和三年、一六八三年には、武家諸法度の天和令のなかに殉死禁止が明文として組み込まれる。口頭の申し渡しから条文へ。これで制度的に完成した。
## それでも止まらなかった――寛文八年、宇都宮の春
禁令が出たからといって、人の心はすぐには変わらない。禁止から五年後、それを証明する事件が下野国で起きる。
寛文八年二月十九日、西暦では一六六八年三月三十一日。宇都宮藩主の奥平忠昌が、江戸の汐留にあった藩邸で病死した。跡を継ぐ立場だった長男の奥平昌能が、忠昌の寵臣だった杉浦右衛門兵衛を詰問する。その結果、杉浦は切腹した。
何を詰問したのか。伝わるところでは、「なぜ殉死しないのか」という趣旨だったとされる。禁令が出て五年、幕府が明確に禁じているにもかかわらず、跡継ぎのほうが家臣に死を促す形になってしまった。杉浦は死んだ。
幕府の対応は速かった。奥平家は禁令違反として処分され、宇都宮から出羽山形へ転封となる。しかも減封を伴う厳しいものだった。大名家がひとつ、殉死ひとつで領地を失った。
この処分は見せしめとして絶大な効果を持った。以後、大名家は殉死を全力で防ぐようになる。忠義の美風だなんて言っていられない。家が消えるのだから。ここで初めて、殉死は本当に止まりはじめた。
## 追腹一件は、そのまま仇討ちへ転がっていく
奥平家の悲劇には、まだ続きがある。忠昌の死から十四日後、宇都宮の興禅寺で刃傷事件が起きた。法要の場で家臣同士が斬り合ったのだ。殉死をめぐる感情のもつれが、そのまま暴力に転化した。
この刃傷事件が種になって、数年後、江戸で有名な仇討ちが起きる。寛文十二年、一六七二年の浄瑠璃坂の仇討だ。討たれた側の遺児たちが、長い準備期間を経て、江戸市中で相手を討つ。この事件は当時の江戸を騒然とさせ、後の忠臣蔵、つまり赤穂事件の際にも先例として参照されたと言われている。
つまり、こういう連鎖になる。殉死の風習がある。禁令が出る。それでも殉死を促す者がいる。家臣が死ぬ。遺恨が生まれる。刃傷が起きる。仇討ちが起きる。大名家が潰れる。一連の出来事を「追腹一件」と呼ぶ。
ひとりの殿が病死したところから、これだけの死者と、藩の転封と、江戸を騒がせた仇討ち事件までが数珠つなぎになる。殉死という風習が、どれだけ社会に負荷をかけていたかがよく分かる。
## 桑名の記録に残る、名前と石高
数字だけだと実感が湧きにくいので、もっと小さいスケールの記録を見てみよう。伊勢の桑名藩には、殉死者の名前と石高がきちんと残っている。
慶安四年、一六五一年に藩主・松平定綱が死んだとき。組頭で五百石の樋口助右衛門が、翌年正月九日、江戸の霊岸寺中長専院で殉死した。三百石取りの福本伊織は、翌年正月十七日に、わざわざ改宗したうえで殉死したと伝わる。改宗してまで、というところに執念を感じる。
明暦三年、一六五七年に松平定良が死んだときには、多賀主馬、堀田五郎右衛門、長瀬四郎左衛門らが殉死した。堀田五郎右衛門は三百石で召し抱えられ、使番、郡代、物頭を歴任した実務家だ。長瀬四郎左衛門は知行二百石の用人役で、「年来の御厚恩」を忘れないために死んだと記されている。
五百石、三百石、二百石。中堅どころだ。藩の実務を回していた層である。使番も郡代も物頭も、いなくなったら誰かが代わりをやらなきゃいけない仕事だ。
そして桑名の記録は最後にこう締めくくられる。寛文三年に将軍家綱が殉死を禁じたため、定良の次の定重の代からは殉死者はいなくなった、と。ひとつの藩の視点から見ると、殉死の時代の終わりはこれくらいあっさりしている。ずっと続くと思われていた美風が、一枚の申し渡しで消えた。
ちなみに江戸時代を通じての最後の殉死とされるのは、延宝八年、一六八〇年に将軍家綱が死去した際の堀田正信の自害だ。彼は家光に殉死した堀田正盛の子である。親子二代で殉死したことになる。ここで江戸の殉死は完全に幕を下ろした。
## 明治四十五年九月十三日、午後八時ごろ
殉死は江戸で終わった。はずだった。ところが二百三十年以上たって、それは日本中を揺さぶる形で戻ってくる。
明治四十五年、大正元年、一九一二年九月十三日。この日は明治天皇の大葬が行われた日だった。午後八時ごろ、東京の自宅で、陸軍大将の乃木希典と妻の静子が自ら命を絶った。
乃木は「遺言条々」と題する書き置きを残していた。そこには、この度の自刃は西南戦争のとき連隊旗を奪われた罪を償うものである、という趣旨が記されていた。三十五年間ずっと抱えていたものを、明治天皇の死をきっかけに清算した、ということになる。遺書には、書かれていないことは妻の静に尋ねよ、という一節もあった。そのため静子はもともと死ぬ予定ではなかったのではないか、と推測されている。実際には静子が先に絶命し、乃木がそれを見届けてから自らも果てた。検視は警視庁の警察医員・岩田凡平が行い、詳細な報告書を残している。
この事件が明治末の日本社会に与えた衝撃は、ちょっと想像を絶する。文明開化から四十年以上、西洋化を進めてきた国のど真ん中で、いきなり江戸初期の風習が甦った。称賛する声と、時代錯誤だと批判する声が真っ二つに割れた。この賛否が当時の文学者たちを直撃し、森鴎外は事件の直後から歴史小説を書きはじめる。『阿部一族』もその流れのなかにある。
さらに時代が下って、昭和六十四年、一九八九年の昭和天皇の崩御に際しても、後を追ったとされるケースが複数記録されている。一月七日に和歌山県で八十七歳の男性、一月九日に茨城県で元海軍少尉の七十六歳男性、一月十三日に福岡県で三十八歳の男性、三月四日に東京都で元陸軍中尉の六十六歳男性。制度としての殉死は三百年以上前に消えたのに、心性のほうは完全には消えなかった、ということになる。
言うまでもないが、これはどの時代のどのケースであっても、称えるべきものではない。追い詰められた人が死を選ぶことを、忠義や美学の言葉で包んでしまう回路そのものが、この風習の一番の毒だった。
## なぜ断れなかったのか――「一分」という厄介な言葉
最後に、この風習の核心を言葉にしておきたい。なぜ人は断れなかったのか。
武士の世界には「一分(いちぶん)」という概念がある。自分の面目、自分という人間の値打ち、くらいの意味だ。一分が立つ、一分が立たない、という言い方をする。そして殉死は、この一分を証明する最短ルートだった。
身分が低くても、手柄が無くても、腹を切れば一分が立つ。逆に、周りが切っているのに切らなければ、一分が潰れる。潰れた一分は取り返しがつかない。この一点だけで、人は死ねてしまった。忠義でもなく、打算でもなく、恩でもない。「ここで死ななかったら自分が自分でなくなる」という、それだけの理由。
近年の研究が殉死者に下級家臣や小姓を多く見出し、そこに「かぶき者」的な心性、つまり死を恐れないという意地を見せつける究極の自己主張を読み取ったのは、この構造を捉えたからだ。取るに足らない身分の者が、藩の歴史に自分を刻み込む唯一の手段。そう考えると、殉死は忠誠の裏返しですらなく、承認をめぐる歪んだ闘争だったことになる。
怖いのは、この構造が武士の世界に固有のものじゃないことだ。「みんながやっているのに自分だけやらないわけにはいかない」という圧力。「降りたら人としての値打ちが下がる」という感覚。形を変えて、いくらでも身のまわりにある。殉死が怖いのは、腹を切るからじゃない。断れない構造が、あまりに見覚えのある形をしているからだ。
## 五十六年で積み上がった、三つの層
ここまで年号と地名と名前を並べてきたが、あらためて全体を俯瞰すると、殉死という現象には三つの層が重なっていることが見えてくる。整理しておきたい。
第一の層は、時間の層だ。殉死には明確な始まりと終わりがある。慶長十二年、一六〇七年の松平忠吉と結城秀康の死が起点で、寛文三年、一六六三年の禁令が終わりの合図。ぴったり五十六年間の流行だ。そして注目すべきは、この五十六年が「戦が完全に終わった時期」と重なることだ。関ヶ原が慶長五年、大坂の陣が慶長二十年から元和元年。武士から戦場が奪われた直後に殉死が始まり、武士が官僚として定着したころに終わっている。殉死は戦国の残り火ではなく、平和が生んだ副産物だった。この一点を押さえるだけで、この風習の見え方はまるで変わる。
第二の層は、身分の層だ。殉死者の分布を見ると、はっきり偏りがある。細川忠利の十九人は新参が中心だった。伊達政宗の二十人には陪臣が五人含まれていた。桑名では二百石から五百石の中堅層。研究が指摘するとおり、大身の重臣はむしろ止める側に回ることが多かった。要するに、家柄で保証されている者は死なず、殿との個人的な関係だけで立っている者が死んだ。殿がいなくなれば消えてしまう立場の人間が、消える前に自分で幕を引いた、と読むこともできる。もちろん堀田正盛や阿部重次のような十一万石、五万石クラスの例外もあるが、彼らには彼らの政治的な事情があった。忠義という言葉は、これらすべてを同じ色に塗りつぶしてしまう。塗りつぶされた下を見ないと、何も分からない。
第三の層は、評価の層だ。江戸時代の人自身が、殉死を義腹・論腹・商腹と冷めた目で分類していた。美風だと言いながら、内心では「あれは商腹だろう」と値踏みしていた。ここに、この風習の一番いびつなところがある。死ぬだけでは足りず、死に方の純度まで採点される。そして後世の検算によれば、商腹という投資は割に合っていなかった。遺族が加増された例はほとんど無い。つまり、誰も得をしていない。殿は側近を失い、藩は人材を失い、遺族は稼ぎ手を失い、本人は命を失った。全員が損をする儀式が、五十六年間まわり続けた。
それでも回った理由を、幕府はよく理解していた。だから寛文の禁令は、殉死する側ではなく、殉死者を出した家のほうを罰した。個人の倫理を説教しても無駄だと分かっていたのだ。名誉だったものを、家の危機に変えてしまう。この設計の冷徹さは見事というほかない。そして実際、奥平家が宇都宮から出羽山形へ飛ばされた寛文八年の一件を境に、殉死はほぼ止まる。人の心を変えたのではなく、割に合わなくしただけで止まった。
だが心性そのものは残った。それを証明したのが明治四十五年九月十三日の乃木希典であり、昭和六十四年に記録された複数のケースだった。制度が消えても、「ここで降りたら自分が自分でなくなる」という感覚は消えない。むしろこれは、武士だけの話ではまったくない。
殉死の記録を読んでいて一番ぞっとするのは、血の描写ではない。願い出て、うなずいてもらえなかった者たちの、その後の沈黙だ。彼らを罰した法律は無い。命じた者もいない。ただ、誰も何も言わないまま、居場所だけが静かに無くなっていく。三十六人が申し出て全員断られた寛文元年の佐賀に、その後どんな空気が流れたのか。記録は語らない。語られないところにこそ、この風習の本体があったのだと思う。
殉死を「武士道の華」みたいな言い方で片付ける文章を見かけることがある。あれは違う。華でも美学でもない。断れない構造に押し込まれた人間が、断れないまま消えていっただけの話だ。その構造は、名前と形を変えて、いまも普通に稼働している。だからこの話は、遠い昔のホラーとして読み流すには、少しばかり近すぎるのだ。
殉死・追腹――殿が死んだら家来も死ぬ、その百年間に何が起きていたのか
