西の自宅へ帰りたい。ただそれだけの話だ。なのに今夜は西へ行けない。だから南西にある知り合いの家へ行って、そこで一泊して、翌朝あらためて自宅へ向かう。移動としては南西に行って、そこから北西に折れることになる。西へは一歩も進んでいない。よって西の神は犯していない。おしまい。
これが方違え(かたたがえ)だ。平安の貴族たちが本気でやっていた。
初めて知ったとき、正直、笑ってしまった。だってこれ、完全に抜け道じゃないか。神様がそこにいるから行けない、というのが前提のはずなのに、経路をカクカク折って「直進してませんよ」という形式さえ整えれば通してもらえる。神をだましているのか、神が案外ちょろいのか、それとも最初から「そういうルール」として設計されていたのか。しかも彼らはこれを、思いつきの言い訳としてではなく、朝廷公認の作法として、数百年にわたって、律儀に、真顔でやり続けたんだよな。
そして調べていくと笑えなくなってくる。この方角の縛りは一つや二つではない。神が何柱もいて、それぞれ別の周期で別の方角に居座り、動き、また戻ってくる。全部を真面目に守ると、一年のかなりの部分が「まっすぐ行けない日」で埋まる。回り道に費やされた夜の総量を考えると、なかなかぞっとする話になる。
その夜、牛車は西へ向かわなかった
具体的に一夜を追ってみよう。舞台は十世紀末の平安京、主人公はどこにでもいる中級以上の貴族ということにする。
夕方、内裏での勤めが終わる。帰り支度をしていると、家司(けいし)か随身が寄ってきて、こう言う。今夜は御邸の方角が塞がっております、と。塞がり(ふたがり、かたふたがり)とは、その方角に方位神が滞在している状態だ。誰がそれを知っているのかというと、まず暦が知っている。当時の貴族が持っていた具注暦(ぐちゅうれき)には日付と干支だけでなく、その日の吉凶や禁忌がびっしり書き込まれていた。加えて陰陽寮の陰陽師に確認する。個人的な事情が絡むなら、なおさら占わせる。
この時点で選択肢は三つある。一つ、方角を無視して帰る。祟りを覚悟する。二つ、帰らない。宮中に泊まるか、どこかで夜を明かす。三つ、方違えをする。作法どおりに迂回する。まともな貴族は三つめを選ぶ。
そこで方違え所を決める。ここが面白いところで、方違え先は「たまたま都合のいい方角にある、頼める相手の家」だ。親族の家、家人の家、同僚の家、あるいは寺。当時の京は牛車の速度で動く街だから、遠すぎても困る。使いを走らせ、今夜お邪魔します、と伝える。伝えるだけだ。相手に断る選択肢はほぼない。身分が上ならなおさらだ。
牛車を出す。牛車というのは、優雅そうに見えて実際にはとんでもなく遅い。人が歩くのと大差ないか、それより遅いこともある。車輪は木で、道は舗装されていない。揺れる。夏なら虫が入り、冬なら風が刺さる。前後には随身や車副(くるまぞい)がぞろぞろ付き、身分によっては十数人の行列になる。この一団が、夕闇の大路をきしきしと進んでいく。
到着した先では、突然の客のために家中がひっくり返っている。寝殿の東面を大急ぎで払い、几帳を立て、灯籠を掛け、火をともす。貴人が来るなら供人の座も要る。牛車をどこに入れるかも問題だ。寝殿造の邸には車宿(くるまやどり)という車庫があるが、行列ごと収まるかは別の話。そして何より、食事だ。急な来客に酒と肴を出さねばならない。主人は肴を探して家の中を走り回る。
夜が更ける。客は慣れない家で横になる。隣の棟からは、その家の女房たちのひそひそ声が漏れてくる。人の家に泊まるというのは、そういうことだ。そして夜明け前、まだ暗いうちに起き出して、また牛車に乗り、今度こそ自宅へ向かう。方違えは「その方角から出発した」という形式が命だから、朝を待ってから移動する。ただし冬は死ぬほど寒い。この寒さについては、あとで清少納言が実に的確な文句を言ってくれる。
こうしてようやく帰宅する。一晩と、他家一軒分の迷惑と、随身十数人の労力を消費して、彼が達成したのは「西へまっすぐ帰らなかった」という一点である。
行けないのではなく、回れば行ける
ここで踏み込んでおきたいのは、方違えの思想的なつくりだ。
方忌み(かたいみ)は、忌むべき方角そのものを禁止する。方違えは、その禁止を無効化する技術だ。禁止と回避がセットで用意されている、というのがこの体系の最大の特徴なんだよな。純粋なタブーなら「行くな」で終わる。ところが陰陽道の方位禁忌は、「まっすぐ行くと犯したことになる」という直線性の理屈で組み立てられているので、経路を折れば犯していないことになる。
つまり、この神々は移動の目的地を見張っているのではなく、移動のベクトルを見張っている。だから前夜のうちに別方向へ動いて、そこを一時的な出発点に書き換えてしまえば、翌朝の移動は別のベクトルになる。神は文句を言えない。ルールどおりだからだ。
これはずるいのか。私は最初そう思ったが、たぶん違う。むしろ「守れる形にしておく」という運用上の知恵だ。禁止が絶対だと社会が止まる。宮仕えも参内も婚姻も引っ越しも工事もできなくなる。だから逃げ道が制度に組み込まれた。逃げ道があるから、みんな禁止を守る。守っているという体裁が保たれる。この構造は現代の規則にもそっくりそのままあるので、笑いにくい。
さらに念入りなことに、方違えは重ねがけもできた。長期間ひとつの方角を塞ぐ神が相手なら、一度の方違えでは足りないとして、期間中に何度もやり直す規定があった。反対に、うまくやれば手間を減らす裏技もあった。この裏技の話がまた強烈なのだが、それは後述する。
十六日だけ天に帰る、いちばん厄介な神
方違えの主役は天一神(てんいちじん、なかがみ、中神とも書く)だ。平安期の方違えのほとんどはこの神を避けるためだったといわれる。
この神は、六十干支の己酉(つちのととり)の日に天から地上に降りてくる。そして八方をめぐる。四隅、つまり北東・南東・南西・北西にはそれぞれ六日、四方、つまり東・南・西・北にはそれぞれ五日ずつ滞在する。足し合わせると四十四日。ぐるりと回り終えたところで、癸巳(みずのとみ)の日に正北から天へ昇る。そこから十六日間は天上にいる。これを天一天上(てんいちてんじょう)という。そしてまた己酉の日に降りてくる。六十日周期のうち四十四日が地上、十六日が天上、という往復運動だ。
つまり六十日のうち四十四日は、京のどこかの方角に、この神が居座っている。その方角は塞がりであり、そちらへ向かって事を起こしたり、まっすぐ進んだりしてはならない。逆にいうと、天一天上の十六日間は、この神に関するかぎりどの方角も自由になる。ここが妙にありがたい期間で、貴族たちはこの十六日に用事を集中させた。
天一神には諸説あって、十二神将の主将だとも、地星の霊だとも、天女の化身だとも言われる。正体がぼんやりしているのに、日程だけがきっちり決まっている。この、由来が曖昧なのに運用が精密という組み合わせが、方位神のいちばん不気味なところだと思う。誰も神の顔を見たことがないのに、誰もが神の予定表を持っている。
なお、天一神が五日なり六日なりその方角に滞在するあいだ、毎晩方違えするのは現実的でないので、その方角へ遊行する初日に一度方違えしておけば、滞在期間中は問題ないとされた。ここでも運用の妥協が用意されている。徹底的に厳しくして誰も守れなくなるより、一回で済ませて全員に守らせたほうがいい、という判断だろう。
貞観七年八月二十一日、それは天皇の引っ越しから始まった
方忌みには大きく二系統ある。生まれ年の干支、いわゆる本命(ほんみょう)から個人ごとの凶方を割り出すものと、遊行神の居場所という万人共通のものだ。時系列でいうと、前者が先だ。
初例とされるのが、貞観七年(八六五年)八月二十一日の一件である。清和天皇が東宮から内裏へ移ろうとしたところ、陰陽寮が上奏した。天皇の本命は庚午(かのえうま)である。東宮から内裏へ向かう方角は乾(いぬい、北西)であり、これは絶命に当たる。ゆえに避けられるべきである、と。結果、天皇はいったん太政官曹司庁に入った。まっすぐ行かず、迂回した。
この記録が方違えの初例とされている。ここで注目したいのは、最初の一例が天皇の移動だったという点だ。庶民の迷信が上に流れ込んだのではなく、朝廷の公式機関である陰陽寮が上奏し、天皇が従い、公的な記録に残った。方違えは最初から国家の作法として始まっている。
その後、遊行神による方忌みのほうが主流になっていく。天一神を忌む慣行は八六〇年ごろに始まったとされ、平安中期には貴族社会に完全に定着した。文学作品にあらわれるのもこの頃からだ。もっと古い言及を探すと、『古今和歌集』(延喜五年から十四年、九〇五年から九一四年ごろ成立)の雑上に「方たがへに人の家にまかれりける時に」という詞書があり、これがかなり早い用例になる。歌の詞書に説明抜きで出てくるということは、読者に説明不要なくらい浸透していた、ということでもある。
太白、大将軍、王相――塞がりはどんどん増えていった
方違えの対象になる方位神は、天一神だけではない。まとめて眺めると、その多さに気が遠くなる。
太白(たいはく)は金星の神格で、毎日方角が変わる。四方と四隅に一日ずつ滞在し、九日目には地に入り、十日目に天に昇る。ひとひめぐり、ひとよめぐりとも呼ばれた。十日で一巡するから、毎日どこかしらが塞がっている計算になる。
大将軍(だいしょうぐん、たいしょうぐん)はさらに凶悪だ。これも金星に関わる星神で、軍事を司る。三年ごとに居を変えるため、その方角は三年間ずっと塞がったままになる。これを三年塞がり(さんねんふさがり)という。三年だ。引っ越しも建築も、その方角に対しては三年待つことになる。ただし救済措置として遊行日が定められていて、五日単位で本来の座を離れる期間があり、その間は凶事がないとされた。『暦林問答集』(応永二十一年、一四一四年成立)は、大将軍の方角で礎を据えたり柱を立てたり棟を上げたり、修造・移徙(わたまし)・嫁娶・塗籠・掘井・築垣・出軍・葬埋・起土をすると大凶だと書く。生活のほぼ全部が入っている。『和漢三才図会』には、この禁を破ると三年のうちに死に絶えるとまで書かれた。
王相(おうそう)は王と相の二神で、それぞれ一か月半ずつ同じ方角にいる。しかも連続して来るので、結果として一つの方角が三か月塞がる。季節と結びついた月塞がりの禁忌だ。
さらに八将神(はっしょうじん)という括りがある。大歳(太歳)、大将軍、大陰、歳刑、歳破、歳殺、黄幡、豹尾の八神で、それぞれ年ごとに十二支の方位を移動し、それぞれ得意な災いを持っている。歳殺神は結婚と出産に凶、歳刑神は農作に凶、といった具合だ。中世になると、これらは祇園の牛頭天王(ごずてんのう)の子とされるようになる。
こんなものを全部律儀に照合していたら、どの方角にも何かがいる日が普通に出てくる。実際、彼らはそういう日を「八方塞がり」と呼んだ。この言葉、いま我々が「どうにもならない状況」の意味で使っている慣用句だが、もとは文字どおり八方向すべてに神が詰まっている暦の状態を指していたんだよな。語源を知ると、あの言葉のうんざり感が急にリアルになる。
金神七殺――家族七人が死ぬ、足りなければ隣から
方位神のなかでも、飛び抜けて恐ろしいのが金神(こんじん)だ。
金神は陰陽五行の金気の精である。金気は刀剣であり、秋であり、殺伐である。木々の葉を落とし、命を刈り取る性質だ。この神が滞在する方角に向かって土木工事をしたり、家を建てたり、引っ越したり、旅立ったり、嫁を取ったりすると、恐ろしいことになる。
その恐ろしさの名前が、金神七殺(こんじんしちさつ)だ。この方角を犯すと、家族七人が死ぬ。そして家族が七人に満たない場合には、足りない分が隣家の人間で補われる。
初めてこの規定を読んだとき、私は思わず二度読み返した。人数が足りなければ隣から取る、という発想が異常だ。祟りに定員があり、その定員を満たすまで殺す。しかも被害が家の外にはみ出す。これはもう、方位というより取り立てである。
出典としてよく挙がるのが『ホキ内伝』だ。ほきないでん、と読む。南北朝期に成立したとされる陰陽道の書で、安倍晴明に仮託されている。同書は金神を「巨旦大王の精魂なり」と説く。巨旦大王というのは、牛頭天王の説話に出てくる、宿を貸すことを断った悪役だ。牛頭天王に退治されたその魂が七つに分かれて世を漂い、人を殺して回る。だから金神は恐ろしいのだ、という理屈になっている。文中には、この方角に向かえば家内七人が死に、その数がなければ隣家の人が加えられる、と明記されている。
金神の居場所は年の干支で決まる。甲と己の年は午未申酉、乙と庚の年は辰巳戌亥、丙と辛の年は子丑寅卯、丁と壬の年は寅卯戌亥、戊と癸の年は子丑申酉、といった具合だ。一年間ずっと同じ方角にいるから、これも長期の塞がりになる。異説もあって、『和漢三才図会』は季節ごとに位置が変わる回り金神の説を載せる。天金神と地金神を分け、地金神のほうが災いが重いとする書もある。説がばらけているということは、それだけ広く語られたということでもある。
記録の上では、『中右記』の永久二年(一一一四年)の記事に、金神を忌んで方違えをした習俗が見える。『本朝世紀』『百練抄』『玉海』にも同様の記事がある。
そして金神信仰は、近世に思いがけない展開を見せる。金神の祟りを恐れる信仰が特に強かった岡山あたりで、幕末、川手文治郎という人物が現れる。彼は金神七殺の祟りとされる不幸で家族を何人も失い、自身も四十二歳の厄年に瀕死の大病を患った。そこから彼は、金神をまるごと捉え直す。土地の主人である神の留守を狙うような真似をすれば祟るのは当たり前で、塞がりの土地こそ神に許しを得て使わせていただけばよい。金神は昔からある神であり、自分を神として立てる人間を待っていたのだ、と。彼はのちに赤沢文治、金光大神と名乗り、金光教を開いた。根本神の名は天地金乃神である。祟り神が救いの神へ反転した瞬間だ。同じ時期、彼の実兄にあたる香取繁右衛門も金神の祟りで転居を繰り返した末に香取金光教を開いている。出口なおの大本も初期に金光教の影響を受け、艮(うしとら)の金神による世の立替えを説いた。
七人殺す神が、百数十年後には救済の神になっている。恐怖が信仰に転化するときの、あの気味の悪いダイナミズムが、ここにはっきり見える。
竈と門と井戸と庭を、季節ごとに移動する神
方位神の話をするなら、土公神(どくじん、どこうしん)も外せない。この神は土を司る。
土公神が変わっているのは、方角ではなく家の中の場所を移動することだ。『和名類聚抄』(承平年間、九三四年ごろ成立)にすでに土公として見え、春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされる。『ホキ内伝』もこの説を受け継ぐ。そして、その季節にその場所の土を動かす工事をすると、怒りを買って祟られる。
春に竈をいじるな、夏に門を直すな、秋に井戸を掘るな、冬に庭に手を入れるな。当時の家は土間に土や石の竈があり、井戸は生活の中心で、門は家の顔だ。つまり家の修繕という、生きていれば必ず必要になる作業のほとんどが、季節ごとにどこかしら封じられる。年に四回、家の中に立入禁止区域が巡回してくるようなものだ。
土公神が地中にいる期間は土を犯してはならない、という別系統の禁忌もあり、これが土用(どよう)と結びつく。土用は五行の土気を季節の変わり目に配当したもので、立春・立夏・立秋・立冬の前それぞれ十八日ほど。この間は動土や穴掘りが忌まれた。ただし土用に入る前に着工していれば続行してよいとか、間日(まび)には障りがないとか、抜け道はここにもきちんと用意されている。抜け道の用意は、この体系の一貫した作法なんだよな。
土公神は工事の話だから、方違えとも直結する。禁忌の方角で造作をすると忌みが生じるので、他所に宿してその忌みを移す。それも方違えと呼ばれた。忌みを場所ごと引っ越しさせる、という発想だ。
鎌倉時代の実例が『吾妻鏡』に残っている。仁治二年(一二四一年)、多摩川の水を武蔵野の水田へ引く工事にあたって、土公神の禁忌があるというので、第四代将軍藤原頼経が秋田城介義景の武蔵野鶴見別荘へ方違えをした。将軍が土木工事のために別荘へ泊まりに行っている。前例のない珍しいことだった、と記録されている。方違えが貴族の風習から武家へ流れ込んでいく、その途中の一コマだ。
清少納言はまじで怒っていた
さて、当時の人間がこの習俗をどう感じていたか。ありがたいことに、平安を代表する毒舌家が二か所で証言を残している。『枕草子』の清少納言だ。
一つめは「すさまじきもの」の段。すさまじ、というのは興ざめだ、しらける、という意味だ。彼女はそこに並べていく。昼に吠える犬。春の網代。三月四月の紅梅の衣。牛が死んだ牛飼い。赤子が死んだ産屋。火を起こさない炭櫃と地火炉。博士が続けて女の子ばかり産ませたこと。そして、方違えに行ったのに、饗(あるじ)をしない所。まして節分などは、いとすさまじ。
つまり、方違えで人の家に泊まりに行ったのに、飯が出ない、というのが彼女にとって最上級の興ざめなのである。ここには当時の常識が透けて見える。方違えの客が来たら、ちゃんともてなすのが当然だった。急な来客に酒と肴を出すのが礼儀だった。だから出ないと腹が立つ。しかも「まして節分などは」と念を押している。節分は特に大勢が方違えをする日で、それだけ「ごちそうが出て当然」という期待値が高かったのだろう。
しかしよく考えてほしい。泊まりに来るほうが勝手に決めて、勝手にやって来て、飯が出ないと文句を言っている。泊められる側からしたら、たまったものではない。あの家は方違えのくせに何も出さないらしいよ、という評判まで立つのだ。方違えは、京の貴族社会全体で回していた相互扶助であり、同時に相互負担でもあった。断れない、逃げられない、そして評判が立つ。
二つめの証言は、二九八段の「節分違へなどして夜深く帰る」だ。清少納言はこう書く。節分の方違えなどをして夜更けに帰るのは、寒いことがどうしようもなく、おとがい(あご)なども全部落ちてしまいそうなのを、やっとのことで家にたどり着いて火桶を引き寄せたら、火が大きくて少しも黒くなっている所がなく見事に燃えているのを、細かい灰の中から掘り起こしたのは、たいそう面白い。
あごが落ちる、という表現に彼女の限界が出ている。立春の前夜だ。旧暦でいえば真冬の底である。暖房のない牛車で、夜明け前の暗い京の大路を延々と揺られて帰る。手も足も感覚がない。そこへ帰り着いて火鉢の熾火に手をかざす瞬間の、あの生き返る感じ。この段のいいところは、文句を言いながら最後は火のうれしさで着地しているところだ。うんざりしていたのは間違いないが、彼女はうんざりしたまま毎年やっていた。
そして彼女はこの段のあと、炭の置き方が気に入らないという話に脱線していく。この人、本当に細かい。
光源氏は方違えを口実に、人妻の寝所へ忍び込んだ
『源氏物語』の「帚木」巻には、文学史上もっとも有名な方違えが出てくる。しかもその使われ方が、真面目に方違えを調べてきた人間の気持ちをきれいに裏切ってくれる。
十七歳の源氏は、五月雨の一夜を宮中の物忌みで過ごし、雨夜の品定めをやったあと、久しぶりに左大臣邸へ帰る。妻の葵の上は不機嫌だ。そこへ暗くなるころ、報告が入る。今宵、中神が内裏からはこちらの方角は塞がっておりました、と。
源氏の反応がいい。そうだ、いつもは忌む方角だった。二条院も同じ方角だから、どこへ方違えしようか。とても気分が悪いのに、と言って、そのまま横になってしまう。周囲の女房たちが、それはいけません、と口々に諫める。方違えをサボることは許されない。
そこへ供の者が耳寄りな話を出す。紀伊守として親しくお仕えしている者の、中川あたりにある家が、最近川の水を堰き入れて涼しい木蔭でございます、と。源氏は言う。それはよさそうだ。気分が悪いから、牛車のまま引き入れられるような所を、と。
ここで語り手が、なかなか意地の悪い注釈を入れる。お忍びの方違え所なら何か所もあるだろうが、久しぶりに訪れたのに方塞がりだからといって、期待を裏切って他所へ行ったと思われるのは気の毒だと源氏は思われたのだろう、と。要するに、妻の実家に対する体裁の問題だ。
紀伊守は困る。父の伊予守の家で忌みごとがあり、女房たちが移ってきているところで手狭ですので、失礼なことでもございましては、とこぼす。それを聞いた源氏の返答が、もう完全に狙っている。その人が近いのこそ嬉しいだろう。女っ気のない旅寝はなんとなく恐ろしい心地がするだろうに。ただその几帳の後ろに寝るだけで、と。
そして急に出発する。左大臣にも詳しくは伝えない。供にも気心の知れた者だけを連れていく。仰々しくない所を、とわざわざ注文をつける。紀伊守の家では「そんなに急に」と当惑するが、誰も聞き入れない。寝殿の東面をすっかり払わせて、急ごしらえの御座所をこしらえる。遣水の配置がなかなか趣深く、田舎家風の柴垣があり、前栽が植えてあり、風が涼しく、虫の声がして、蛍が飛び交っている。
供人たちは渡殿の下の泉のそばで酒を飲む。主人の紀伊守は肴を探して走り回る。そのあいだ源氏は、西面から漏れてくる女たちの声に耳を澄ましている。噂話の内容は、どうやら自分のことらしい。紀伊守が灯籠を掛け足し、果物ぐらいのものを出す。
そして夜、源氏は眠れないふりをして起き出し、北の襖障子の向こうに人の気配があるのを確かめ、そこに忍び込む。相手は伊予守の後妻、のちに空蝉と呼ばれる女だ。人違いでございましょう、と息の下で言う彼女に、源氏は間違えるはずのない心の導きを、と言い、そのまま押し切る。
明け方、鶏が鳴く。供人が起き出して、眠たそうに口々に言う。紀伊守も起きてきて、女性などの方違えならともかく、暗いうちからお急ぎにならなくても、と言っているのが聞こえる。この一言が私は好きだ。方違えは夜明け前に出るのが作法だが、実務的には「別に急がなくても」と思われていたわけだ。作法と現実のあいだにある、この生活のたるみが実にいい。
要するにこの巻において、方違えは宗教的禁忌としてではなく、貴族が普段は行かない中流の家に合法的に泊まり込むための装置として機能している。源氏はこのあと、都合のよい方違えの日を待って再訪する。方違えを理由にすれば不自然でない、という前提が完全に共有されているのだ。禁忌が口実に転化している。人間はいつの時代も、こうやって制度を使う。
なお、「手習」巻にも方違えは出てくる。僧都が長谷寺参詣の帰りに、病んだ母尼を小野の家へ連れ戻すはずが、天一神の方塞がりのために宇治院へ移した、という話だ。こちらは病人を抱えての方違えで、笑いごとではない。
兼家は「方が塞がっている」と言って来なかった
もう一つ、生々しいのが『蜻蛉日記』だ。天延三年(九七五年)前後の成立、作者は藤原道綱母。夫は摂政太政大臣まで昇る藤原兼家である。
この日記の主題は、来ない夫への恨みだ。そして方角の禁忌は、この恨みの中でとても特殊な役割を果たす。作者は書いている。翌日を思っていたら、また南が塞がっていた、と。兼家の邸から見て彼女の邸は南にある。南が塞がれば、兼家は来られない。少なくとも、来られないと言える。
研究者たちは日記の記述を暦と突き合わせて、この塞がりが天一神によるものか太白神によるものかを特定しようとしてきた。日付と干支と方位を照合していくと、日記の記述が暦とよく合うことがわかる。作者は正確に暦を把握していた。そして兼家の来訪をある程度予測できていた。彼女にとって方忌みは、夫がいつ来るか来ないかを事前に知るためのカレンダーでもあったわけだ。
ここが切ない。塞がりの日は、期待しなくて済む日だ。塞がりでない日は、期待していい日だ。だから方角の吉凶を調べることが、そのまま心の準備になる。そして、塞がりでない日に来なかったとき、言い訳は消える。神のせいにできなくなる。
さらに読み進めると、兼家がどうも方を犯してまで訪れてきた形跡のある日がある。二十八日、南塞がりを承知で彼女の部屋に上がっている。研究者はここを、兼家が勘違いしたのか、それとも承知でわざと来たのか、と論じる。承知で来たとするなら、彼にとってその日は方角の禁忌を破ってでも来る価値のある用件だった、ということになる。用件というのは、彼女が引き取ったばかりの養女の話だ。
一方で、兼家が物忌みに入ってしまって来られない、という記述もある。物忌み(ものいみ)は方違えの兄弟のような習俗で、悪夢を見たり怪異があったりしたときに陰陽師に占わせ、指示された期間、家に籠もって謹慎する。門を閉ざし、簾に「物忌」と書いた柳の木札や紙札を掛け、自分も冠や袖に札をつける。人の出入りも手紙も禁じる。日本大百科全書によれば、公家の物忌み日数は年間一か月ほどに及んだという。
つまり彼女は、方塞がりと物忌みという二種類の「来ない理由」に囲まれて暮らしていた。どちらも神と暦の言葉で語られ、どちらも反論できない。夫の不在に、常に正当な説明がついてまわる。これはこれで、なかなかの地獄だ。石山寺に籠もった彼女を迎えに来た兼家が、物忌み中だからと牛車から降りずに、子の道綱に言葉を伝えさせた、という話も伝わっている。禁忌が夫婦の距離をそのまま形にしてしまっている。
実資は、神が留守のあいだに屋根を葺いた
『小右記』は藤原実資の日記だ。全六十一巻、漢文。小野宮右大臣だからこの名がある。実資は道長より九歳年上の知識人で、有職故実にうるさく、賢人右府と呼ばれた。この人の日記は、平安中期の陰陽道禁忌がどう運用されていたかの実況中継になっている。
面白い逸話がある。天一神が天に上っている天一天上の期間、この神に関するかぎり障りとなる方角はない。実資はその期間を狙って、寝殿の檜皮を葺かせた。要するに、大家が長期出張に出た隙に工事を入れたようなものだ。しかもこの人は、故実に厳しいことで知られた保守派である。その保守派が、堂々と抜け道を使う。抜け道は不正ではなく、制度の一部だったのだとよくわかる。
『小右記』にはこんな記述も見える。寛和三年(九八七年)正月七日、実資が院を退出したあと、藤原有国が来て言った。今日は御物忌です。ところが陰陽家が覆推(ふくすい、再判定)して申したところでは「軽い」ということでした。そこで紫宸殿に出御されます、と。
ここが実に人間くさい。物忌みには重い軽いがあり、重ければ完全に門を閉ざすが、軽ければ訪問者も手紙も受け入れた。そして重い軽いを決めるのは陰陽師である。もう一度占わせたら「軽い」という答えが出たので予定どおり出御する、というのは、はっきり言って結論ありきの再判定の匂いがする。『小右記』には逆に「今明は物忌なり。覆推の云ふやう、重してへり。全て門を閉ず」という記述もあるので、軽重の判定が本当に守られていたこともわかる。ただし万寿元年(一〇二四年)十月二十四日、実資は物忌が重いと判定されたにもかかわらず閉門していない。朝廷の仏事の責任者を務めていて、準備の人や手紙の出入りが激しく、門を閉ざせなかったからだといわれる。
仕事が忙しくて禁忌を守れない。千年前の記録に、こんなに現代的な言い訳が残っていることに、私はちょっと感動してしまった。
道長の『御堂関白記』にも方角の記録がある。一条天皇の譲位にあたって陰陽師たちが吉日吉時を勘申し、東三条第に移ってから朱雀院へ移り、それから内裏へ参入するのがよい、と申し上げている。理由は、大将軍と王相の方角を忌むためである。天皇の移動という国家的な行事の日程が、方位神の居場所を避けるために組み立てられている。三段階の移動である。これも一種の壮大な方違えだ。
「今日からここが自宅です」と神に宣言する裏技
さて、先ほど後述すると言った裏技の話をしよう。これが方違えの歴史で、いちばん人間の狡猾さを感じさせる部分だ。
長期滞在型の神、つまり大将軍や金神や王相の場合、一度方違えしただけでは有効ではないとされた。期間中、何度も方違えをやり直さなければならない。ただし規定には差がある。自宅からの移動、自宅への移動、自宅での造作については、遊行の初日に一度、その後も数日間は毎日、さらに一定期間ごとにもう一度、と念入りだ。一方、自宅以外の場所から自宅以外の場所への移動なら、初日に一度と、一定期間ごと、つまり大将軍なら四十五日、王相なら十五日に一度で済む。
自宅が絡むと重く、絡まないと軽い。ならば、と誰かが考えた。本来の自宅ではない場所を「自宅」ということにしてしまえばいい、と。
やり方はこうだ。神が遊行する日の前日の夕方に、自宅以外の、方角的に問題のない場所へ移動する。そこで一晩過ごす。そして方位神に対して、ここが自分の自宅である、と宣言する。以後、そこが自宅ということになる。本当の自宅は「自宅以外の場所」に格下げされる。これで、方違えは四十五日か十五日に一度で済むようになる。
神への申告制である。しかも自己申告である。誰も監査しない。
この宣言のために一夜を明かす場所として、貴族たちがよく使ったのが寺だった。理由は想像がつく。個人宅だと相手に迷惑がかかるし、清少納言のように「饗をしなかった」と言われかねない。寺なら制度として人を泊められるし、宿泊のたびに布施が落ちる。
そして、ここからが皮肉なところだ。平安後期にこの方式の方違えが流行すると、京の寺はどんどん立派になっていった。方位神から逃げるための宣言の場として大量の貴族が押し寄せ、その布施で伽藍が整備されていったのである。大将軍と金神と王相が遊行するのは春分の日だったので、春分と、そこから十五日ごとの日、つまり二十四節気の節目には、京のあちこちで貴族の大移動が見られたという。
節気ごとに、都じゅうの貴族が牛車で寺へ向かう。想像すると壮観だし、同時に相当ばかばかしい。宗教的な情熱ではなく、方角のルール処理のために、都市の交通が定期的に一斉移動する。方位禁忌は、平安京という都市の人流を実際に動かしていた。
晴明が踏んだ、あの千鳥足
方角の話をしてきたが、陰陽師の側にも対抗手段があった。反閇(へんばい)である。
反閇は、陰陽師が呪文を唱えながら大地を踏みしめ、千鳥足に歩む呪法だ。悪い方角を踏み破る意味がある、といわれる。三足、五足、九足など、踏む数によっていくつかの型がある。天皇や将軍や貴族が外出するときに、その先立ちとして行われた。
記録上もっとも早い例とされるのは、貞観十四年(八七二年)以降に作られた朝廷の儀式書『儀式』巻第八「相撲節儀」にある一節で、中務丞が内舎人らを率いて相撲司へ向かい、陰陽師が相撲人らを率いて反閇す、とある。菅原道真の『菅家文草』巻七「左相撲司標所記」には陰陽寮が勘文を出すことが記され、承和十三年(八四六年)とあるので、九世紀には相撲節と陰陽寮に関係があったことがわかる。
十世紀になると、新築の家に初めて移る移徙(わたまし)の際に反閇が行われるようになる。天暦四年(九五〇年)、村上天皇の女御安子の出産にあたって、産所の藤原遠規宅から父師輔の中御門家へ移るとき、門を出ようとするあいだに陰陽助平野茂樹に反閇の事を行なわせた、と『御産部類記』にある。天徳四年(九六〇年)、内裏焼亡後に村上天皇が職御曹司から冷泉院へ遷るときには、天文博士の賀茂保憲が反閇を務めた。『日本紀略』の記録だ。
そして安倍晴明が登場する。一条天皇が凝華舎から清涼殿へ遷御するとき、晴明が反閇を奉仕し、そののちに遷御した。『小右記』寛弘二年(一〇〇五年)三月八日条には、中宮彰子が大原野社に参られるにあたって、晴明が反閇を奉った、とある。藤原行成の『権記』長保二年(一〇〇〇年)十月十一日条には、御輿がまだ南階の前に到らないうちに晴明朝臣が反閇を奉仕した、とあり、注記として、応和の例では陰陽寮が供奉して散供したが、このたびは晴明が「道の傑出者」であるのでこの事に供奉するのだ、と書かれている。
道の傑出者。この呼び名だけで晴明の格がわかる。本来は陰陽寮という役所が組織として行う儀礼を、晴明個人の卓越を理由に彼一人にやらせている。彼は官職としては陰陽頭になっていないのに、位階は陰陽頭より上だった。制度の外側に立つ権威を、生きているうちに獲得していた人だ。
反閇の作法は、隋唐の五行家説である『玉女反閇局法』を典拠とする。遁甲式占にもとづき、反閇局という場を設け、玉女を神格として、その局の中を禹歩する。土御門(安倍)家に伝わる秘法では、反閇のときに灯をともし、水、米、大豆、胡麻、粟、麦、酒、生牛乳などを用意して散供(さんぐ)を行う。大中小の三種があって、大は弓、中は太刀、小は笏を持って行う。天門呪、地戸呪、玉女呪、刀禁呪、四縦五横呪といった呪文を唱え、禹歩を行い、終わったところで禹歩立留呪を唱える。天鼓を打つ、つまり叩歯(こうし)といって歯を噛み合わせる道教由来の所作も入る。
これは歴史と民俗の記録として書いている。手順書のつもりはないし、真似しても意味はない。ただ、こういう精密な段取りが実在の家に文書として伝えられ、天皇や中宮の外出のたびに実演されていた、という事実そのものが、当時の方角観の重さを物語っている。方角が怖いから、方角を踏み破る技術が要る。需要が技術を生んだのだ。
禹という王が引きずった足
反閇の中核である禹歩(うほ)は、日本製ではない。中国の道教由来だ。
名前の由来は、夏王朝の始祖とされる禹王である。治水のために天下を歩き回った結果、ついに足が不自由になった。片足を引きずるようにして歩くようになった。これが禹歩の始まりだ、と伝えられる。『帝王世紀』は、禹が偏枯を病み、足が相い過ぎなかった、今に至るまで巫が禹歩と称するのはこれである、と書く。
足を引きずる歩き方が呪術になる、というのが実に不気味でいい。健常な歩行ではない歩行、日常ではない身体の運び。そこに力が宿ると考えられた。
具体的な歩型は『抱朴子』の「登渉」篇に記されている。まず正しく立つ。右足が前、左足が後ろ。次に左足を進め、次に右足を進め、左足を右足に引きつける。これで一歩。次に右足を前に出し、次に左足を前に出し、右足を左足に引きつける。これで二歩。次に左足を進め、次に右足を進め、左足を右足に引きつける。これで三歩。ここで禹歩の法は終わる。
要点は「二歩めを一歩めより前に出さず、三歩めを二歩めの足で踏み出す」という運びだ。左右の足を並べては次へ、を繰り返す。前へ進んでいるのに、まっすぐ進んでいない。この歩き方の跡は、既済の卦の形になるという。九つの足跡が交錯しながら重なり続け、一歩の距離は七尺、合計二丈一尺になる、と書かれている。
そして『抱朴子』はこう断言する。天下のすべての術を行うには、禹歩を知らねばならぬ。単に遁甲の術だけのことではない、と。歩き方が全呪術の基礎だという主張だ。
さらに古い例もある。先秦時代の『日書』、睡虎地秦墓竹簡と天水放馬灘秦簡の両方に禹歩が出てくる。内容は旅立ちの前に旅の無事を祈る儀式で、門を出て禹歩し、呪文を唱え、地面を五つに区切って中央の土を懐に入れる、という手順だ。「先んじて禹の為に道を除す」という文句がある。禹は旅の神であり、山川の神主であり、治水者だった。だから旅の安全、入山の安全、水の制御が禹歩の効能として結びついた。
つまり禹歩は、そもそも「移動の危険を処理する技術」だったわけだ。日本の陰陽道が、これを方角の禁忌を破るための呪法として採用したのは、実に筋が通っている。危ない方角へ踏み出すときに、危ない歩き方で踏み出す。
そして反閇は日本で思わぬ余生を得る。鎌倉幕府では将軍の身固(みがため)を九人の陰陽師が奉仕し、鶴岡八幡宮参詣の際には廊の車寄せの戸でこれを勤めたという。中世に神楽が芸能化していくと、反閇は猿楽に取り込まれた。能の「翁」、歌舞伎や文楽の「三番叟」、「道成寺」の乱拍子。いまでもこれらの芸能では「踊る」「舞う」とは言わず「踏む」と表現する。相撲の四股にも同じ発想の影が指摘される。日吉大社の大戸開き神事では、いまも神職が反閇を踏む。
千年以上前に、足の悪い伝説の王の歩き方を真似したところから始まった所作が、舞台の上と神事の場に残り続けている。呪法が芸能になるという道筋は、方位神が祟り神から救済神になるのと同じくらい、日本の宗教文化らしい変換だと思う。
一年の三分の一が回り道――本当か、数えてみる
さて、この記事の題に掲げた「一年の三分の一」だが、この数字はどこまで真面目に受け取っていいものか。私はここを避けて通りたくない。
まず、方位禁忌の全体像を体系的に明らかにした古典的研究がある。ベルナール・フランクの『方忌みと方違え』だ。原著は一九五八年、日仏会館の紀要に発表され、著者自身が改訂増補した原稿の邦訳が一九八九年に岩波書店から出た。訳は斎藤広信。この本は六十干支の周期表、和漢の方位盤、二十四気の対照まで付録に備えていて、方違えの研究としては最もまとまったものとされる。フランクによれば、方忌みには鬼門のような恒久的なもの、絶命のように一生のうち何年か忌むもの、遊行神の巡行による一時的なものの三種がある。文学に出てくるのは主に三つめだ。
さて計算だ。天一神だけ見ても、六十日のうち四十四日は地上にいる。つまり約七三パーセントの日について、八方のどこか一つが塞がっている。太白神は十日周期で毎日方角が変わるから、実質毎日どこかが塞がる。大将軍は三年間ずっと一方向を塞ぐ。王相は三か月連続で一方向を塞ぐ。金神は一年間同じ方角にいる。八将神を数えれば、さらに方角は埋まる。
だから「一年のうち、何かしらの方角が塞がっている日」の割合を取れば、ほぼ一年じゅうということになる。これは多すぎて意味のない数字だ。
意味があるのは、「実際に方違えという行動を強いられた日数」だろう。ここは大幅に減る。理由はいくつもある。まず、塞がりが自分の移動経路と関係なければ何もしなくていい。北が塞がっていても、今日は南へ行くだけなら問題ない。次に、天一神なら遊行初日に一度方違えすれば滞在期間中は有効とされた。さらに長期滞在型の神には、先ほどの「ここが自宅です」宣言という強力な省力化がある。四十五日に一度で済むならば、年に八回程度だ。
そして「宿泊の禁忌」という限定も効く。フランクの整理によれば、忌みの一般的な形は塞がりの方向での宿泊禁止であって、日中にその方向へ動くこと自体はできる。ただし宿泊は避けねばならない。つまり日帰りなら通れる。ここは重要だ。禁忌の中心は「その方角で夜を過ごすこと」にあった。
これらを踏まえると、貴族の日常が回り道で埋め尽くされていた、というのはやや盛った話になる。むしろ実態は、暦を睨みながら日程を組み、必要なところだけ方違えで処理し、あとは通常運転、という現実的な運用だったはずだ。物忌みの日数が年に一か月ほどというデータと合わせても、非日常が日常を圧迫していたというより、非日常を日常に組み込む技術が発達していた、と見るのが妥当だろう。
ではなぜ「一年の三分の一」という感覚が生まれるのか。三つ理由がある。一つ、方忌み・方違え・物忌み・触穢・凶日・厄年をぜんぶ足すと、確かに相当な日数になる。二つ、記録に残るのは異常事態のほうだから、日記や物語を読むと禁忌だらけに見える。三つ、実際に春分や節気の節目には都全体が一斉に動くという、目に見える大移動があった。日常はふつうでも、年に何度か町ぐるみで移動するイベントがあれば、印象は強烈になる。
私自身は、こう考えている。彼らは一年の三分の一を回り道に費やしたのではない。一年じゅう、回り道の必要があるかどうかを気にして生きていた。実際に牛車を出した夜は限られていても、暦を開いて方角を確かめる作業は毎日あった。費やされたのは移動時間ではなく、注意力だ。そのほうが、たぶん重い。
三国のどこでもない丘
方違えは、やがて簡略化と大衆化の道をたどる。その象徴が、大阪府堺市堺区にある方違神社(ほうちがいじんじゃ)だ。地元では「ほうちがいさん」と呼ばれている。
この神社の理屈が、私は大好きだ。境内地は摂津・河内・和泉の三国の境にあたる。だから三国山、三国丘と呼ばれた。『万葉集』に「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」と歌われた地でもある。そして堺という地名自体が、この「境」に由来する。
三国の境である。ということは、どの国にも属さない。どの国にも属さないということは、方位がない。方位のない清らかな地である。ゆえに、その土を踏めば、それだけで自然と方違えになる。
これは屁理屈である。しかし見事な屁理屈だ。方角の吉凶を計算するのは難しい。暦の知識が要る。陰陽師に頼れば金がかかる。ところがここに来れば、計算不要で方違えが成立する。『摂陽落穂集』には「此宮河内にあらす和泉にあらす摂津にあらす打除の地なるゆへ國外にて無東西といふ」と記されている。東西がない、と言い切っている。
授与されるのは御砂と粽(ちまき)だ。ただしこの粽は食べる粽ではない。菰(こも)の葉で埴土を包んで粽の形にした御守である。神功皇后が三韓からの凱旋の途中、この地で菰の葉に埴土を包んだ粽を作り、方災除けを祈願した、という故事に由来する。神社の紋も粽だ。毎年五月三十一日には粽祭が行われ、故事にならって粽が神前に奉納される。
古くは奈良時代に人馬往来の要衝として栄え、平安時代には熊野詣の通過地点だったため、参詣者が旅の安全を祈った。現在も、普請、転宅、旅行に際して御神札、御砂、粽を受け、方除の祈祷を望む人が全国から訪れる。引っ越し、海外旅行、転勤、新居購入を控えた人が来る。祈祷は予約不要で、平日の九日、十九日、二十九日は祈祷休日、ただし土日祝と大安は無休だという。
京都では、洛南鳥羽の城南宮が同じ役割を担った。禁忌の方向に造作したり転宅したりするとき、境内の土を持ち帰って撒けば祟りを避けられる、という信仰だ。これがいわゆるお砂取りである。
こうして、方違えの意味はまったく変わってしまった。もとは、前夜に別の方角の家に泊まって経路を折る、という手間のかかる作法だった。それが、特定の神社に参って土をもらってくる、という一回きりの行為に置き換わった。神への申告制が、御守の購入に変わった。合理化といえば合理化だ。だが、あの精密な方角計算が持っていた奇妙な緊張感は、ここで完全に失われている。
ちなみに江戸時代には、方違えがさらに形式化して、枕だけを移動させる風習が生まれたという。枕である。人ではなく枕。ここまで来ると、もはや何と何が違えられているのかもよくわからない。
江戸の茶の間に、方位が降りてきた
方位禁忌が本格的に庶民のものになるのは近世だ。
平安後期以降、暦は暦道を継承した賀茂氏が書写する漢文の具注暦として、公家や武家の知識層に共有されるのが基本だった。方位の知識は限られた層のものだったわけだ。ところが遅くとも鎌倉前半には、具注暦をもとに仮名で書かれた仮名暦が出回りはじめる。仮名暦は貴族社会の外へ広まっていく。
そして近世、大雑書(おおざっしょ)という大衆向けの日用書が大量に出版される。わかっている範囲で最初に刊行されたのは寛永九年(一六三二年)版で、内容は平安以来の陰陽道や宿曜道の系統を引く。八卦、方位、干支、納音、十二直、星宿、七曜による日の吉凶、さまざまな禁忌やまじない、男女の相性。江戸前期は万年暦や三世相といった陰陽・天文・暦系のものが中心だったが、後期には家相、人相、相性、命名を取り込みはじめ、幕末には日取りや夢判じまで含む雑多な易占書になっていく。天保年間に出た『天保新選永代大雑書萬暦大成』などが代表格だ。明治の初めには、大雑書は一家に一冊置かれているほど広く流通していたという。
この過程で起きたのは、暦占の脱専門化だ。かつては陰陽師という専門家が、依頼者の事情を聞き、複数の要素を勘案して判断していた。ところが大雑書はそれをカタログにしてしまう。針灸の日、門出の日、その日その方角の吉凶が、あらゆる文脈を排して一覧できる形で並ぶ。誰でも引ける。専門家が要らなくなる。
そしてここに、金神七殺のような強烈な話が乗る。修験者や祈祷師が西日本を中心に金神信仰を広め、家を建てるときに金神の方角に呪符を埋める金神除け、稲荷などに祀り込める金神封じが行われるようになる。岡山県あたりでは金神を屋敷神として祀る家が少なくなかった。
平安の貴族が抱えていた高度に体系的な方角の学問が、江戸の民家の茶の間で、生活の吉凶を判じる実用書に化けた。難易度は下がり、恐怖の解像度は上がった。誰でも扱えるようになった代わりに、誰も全体像を知らなくなった。この構図は、現代の情報環境ととてもよく似ている。
明治五年十一月九日、暦から吉凶が消えた
そして近代が来る。
明治五年(一八七二年)十一月九日、改暦の詔書と太政官布告第三三七号が出た。太陰暦を廃して太陽暦を行う。一年を三百六十五日とし、十二か月に分け、四年ごとに閏年を置く。一日を二十四時間とする。そして旧暦の明治五年十二月三日を、新暦の明治六年一月一日とする。
発表から実施まで二十三日しかない。郵便制度も開設されたばかりで、全国に伝達する時間もない。庶民どころか官吏にとっても寝耳に水だった。しかも当時すでに天保暦による明治六年暦が刷られて出回りはじめており、頒暦を担っていた業者は大損害を被った。
なぜそんな無茶をしたのか。改暦を推した大隈重信は後年、原因は財政問題だったと告白している。明治政府は新政策の連発で火の車だった。ところが旧暦の明治六年には閏六月がある。明治四年に月給制を採用していたから、このままでは十三か月分の給料を払わねばならない。太陽暦にすれば閏月は消える。おまけに二日しかない十二月分も払わないことにして、合計二か月分を節約した。
近代化の大義名分の裏で、給料二か月分を浮かせるために千年以上続いた暦が一夜にして切り替えられた。歴史というのは、たいてい格好悪い理由で動く。
そして、話はここからだ。改暦以後の太陽暦は、一切の迷信的暦注を排除した。政府が刊行する本暦・略本暦の内容は科学的なものに限られ、旧暦の併記は明治四十二年暦まで続いたものの、いわゆる暦注は掲載されなかった。方位神も、吉凶も、禁忌も、公式の暦から消えた。国家は方角の神々と縁を切ったのだ。
同じころ、陰陽師の家もその歴史を閉じている。安倍晴雄は事実上最後の陰陽頭だった。彼は明治維新前後、京の貴族たちに対して自分と部下を測量推歩の職務に就かせるよう訴える申請を出し、新政府から編暦を許可されたが、明治二年に没した。幼い子の和丸が跡を継いだものの、翌明治三年には編暦業務が別組織へ移った。安倍晴明から数えて八百五十年、陰陽師の家系と暦の関係はここで終わった。
ところが、消えなかった。民間には吉凶付きの暦注に対する強い需要があった。取り締まりの目をかいくぐって発行される非合法な暦、通称お化け暦が横行した。そして干支の祭り、六曜、九星といった要素が、新たに民間暦へ書き込まれていく。いま我々がカレンダーで見る大安や仏滅は、この過程で定着したものだ。国家が公式の暦から吉凶を消した結果、吉凶は民間で独自に増殖した。禁じられたことで、むしろ管理を離れて自由になった。
それでも人は、いまも砂を撒く
現代である。
京都市伏見区の城南宮は、平安遷都のときに都の南に創建され、方除の大社と仰がれてきた。いまも引っ越し、工事、家相の心配を除く祈祷に全国から人が来る。授与されるものを見ると、この信仰がどれほど具体的に運用されているかがわかる。
新築工事なら、清めの御砂を敷地の四隅と中央に撒く。方除御札は、表が工事現場の中央を向くように、長さ二メートルほどの竹の先を割って挟んで立てる。鎮め物はコンクリートの基礎枠ができた時点で建物の中央あたりを掘り下げ、箱に記された文字を方位に合わせて埋める。上棟御札は屋根と天井の空間に納める。工事が完成すればお礼参りをして、新しい御砂を撒き、屋内用の方除御札を新居の柱や壁に祀る。
転宅の場合はもっと簡単だ。新居の敷地の四隅に清めの御砂を撒く。マンションやビルの事務所なら、自室の入口とベランダの両端の四か所に撒く。時間がたてば掃き集めて土のところに返す。そして方除御札を、移動した方角に表を向けて、新居の柱や壁に貼る。
ベランダの両端に砂を撒く。この一文に、私はなぜかぐっときてしまった。寝殿造でも牛車でもない。マンションのベランダである。それでも四隅は四隅として扱われ、移動した方角は記憶され、札はそちらを向く。平安の方位観の骨格が、鉄筋コンクリートの部屋の中でそのまま動いている。
そして占いの世界では、方違えという言葉そのものが現役だ。九星気学では、生年月日から本命星を割り出し、年盤や月盤の巡りで吉方位と凶方位を判定する。凶方位への引っ越しを避けられないときの対処法として、いまも三つが紹介される。一つは方違え。いったん吉方位の場所に移り、そこから新居へ移る。仮住まいが難しければ、実家やホテルなど凶方位でない場所に一泊してから入居する。それも無理なら、新居へ向かう道順を別の方位に回り道してから向かう。
一泊してから入居する。道順を回り道する。千年前とまったく同じである。伝言ゲームの果てに骨格だけが残った、というより、骨格が強すぎて壊れなかったというべきだろう。
もう一つ、寝床違え(ねどこたがえ)というものがある。凶方位に引っ越してしまったあと、いまの寝室から見て吉方位の方向へ寝床を移す。部屋を変えられなければベッドや布団の位置を変える。江戸期の「枕だけ移す」方違えが、形を変えて生きているようにも見える。
そして神社の方位除け、八方除け。全国の神社で受け付けている。城南宮では、四方と四隅の八方に天地を加えた十方をお守りくださる十方円満の御利益がある、として、家庭円満や人間関係の円満を願う参拝も増えているという。方角の神が、対人関係の神へ拡張されている。信仰というのは、こうやって生き延びるものらしい。
ネットは、方違えをどう笑い、どう擁護したか
近年、方違えが一般に話題になったのは、平安中期を舞台にした大河ドラマの放送が大きい。安倍晴明が竹に囲まれた場所で独特の足取りをする場面が放送され、あれは何だという疑問が広がり、反閇という語が一気に知られるようになった。
考察の界隈で交わされた議論を眺めていると、大きく三つの立場に整理できる。
一つめは、単純におかしがる立場だ。行けない方角が多すぎて「どこにも行けないのでは」「かいくぐるために方違えしてたのか」という反応。これはたいてい正しい。当時の禁忌の総量を並べれば、誰でもそう思う。ある古典ブログの書き手は、方角神と方塞がりを一通り列挙したあとで、これら全てを考慮していたら行けるところなんてあるのか、と率直に書いていた。健全な感想だと思う。
二つめは、迷信として切り捨てず、当時の合理性として読む立場だ。原因不明の病気、火事、死。それらに対して、時間と方角という秩序で説明を与え、次に何を避けるべきかを学ぶ枠組みとして機能した、という見方である。金神を扱った民俗の解説には、これは迷信として片づけるだけでは足りない、という一節がある。禁忌が説明装置であり、行動指針であり、不安の受け皿だった、という理解だ。
三つめは、逆に描き方への違和感を述べる立場だ。ある歴史系ブログの書き手は、ドラマが怪異や迷信を直接的に描きすぎるのが気になる、平安京に魑魅魍魎が跋扈していたというのはそう信じた人たちの感じ方であって、それを現代の解釈と映像技術で直接描写しないほうがいいのではないか、と書いていた。これは鋭い。方位神を映像として出してしまうと、それは「実在した怪異」になってしまう。当時の人にとってのリアリティは、見えないものを見えないまま怖がることだったはずだ、という批判である。
反証として押さえておきたい点もいくつかある。まず、方違えが平安人の生活を麻痺させていたという印象は、先に検討したとおり誇張されやすい。彼らはちゃんと運用していた。次に、安倍晴明が方違えや反閇のすべてを取り仕切っていたような描かれ方も実態とは違う。晴明は数多くいた陰陽師の一人であり、しかも当時の貴族社会は賀茂光栄を「一道之長」と呼んで賀茂陰陽道の筆頭と認めていた。晴明の伝説的な地位は、後世に子孫が顕彰した結果でもある。さらにいえば、貴族が相談していたのは陰陽師だけではない。神祇官、南都北嶺の寺院、祈祷師、医師と、助言者は競合していた。方角のことは陰陽師、というのは後世の整理にすぎない。
そしてもう一つ。陰陽道の家業は賀茂保憲の代に分けられた。彼は暦道を子の光栄に、天文道を弟子の安倍晴明に継がせた。この分割によって、暦は賀茂家、天文は安倍家という体制ができ、のちに幸徳井家と土御門家として明治まで続く。方角の禁忌を生み出す暦は賀茂の系統から出ていたわけで、その意味では、方違えの真の元締めは晴明ではなく賀茂の家だった、といったほうが正確なのかもしれない。
なぜ怖いのか、なぜいまも気にするのか
ここまで書いてきて、私がいちばん考え込んでいるのはこの点だ。方角の何が、そんなに怖いのか。
一つには、方角が逃げ場のない属性だからだと思う。日付の禁忌なら待てば済む。物の禁忌なら触らなければ済む。ところが方角は、動く以上どこかへ向かうしかない。何もしないという選択肢がない。家にいても、家は必ずどこかの方角にある。方角の禁忌は、存在そのものに課税してくる。
二つめは、証明できないからだ。金神の方角を犯して家を建てた。三年後に家族が病んだ。因果関係は証明できないが、否定もできない。方位の祟りは、必ず事後的に発動する。越えた瞬間ではなく、越えたあとに起こった不幸が神の存在を証明する。反証不可能な体系ほど、人の心には強く食い込む。
三つめは、これがいちばん大きいと思うのだが、方角には「後から自分を責める材料」としての機能がある。引っ越しのあとに体調を崩す人はいる。転職して環境が合わないこともある。そのとき、あの方角がまずかったのではないか、と考える回路が用意されていると、人は必ずそこへ行く。原因不明の不調ほど、名前のついた原因を欲しがるからだ。
だからこそ、私はこの記事で不安をあおる書き方はしたくない。あなたの引っ越しが凶方位だったから不幸になった、という物語は、いくらでも作れる。作れてしまうことが問題なのだ。そこにつけ込んで高額な鑑定や祈祷へ誘導する商売が成立するのも、この構造ゆえだ。方角の怖さの正体は、神ではなく、人が自分の不運に理由をつけたがるという性質のほうにある。
その上で、方違えという習俗自体には、私はかなり好意的だ。理由は二つある。
一つは、あの「回り道すれば通れる」という抜け道の思想だ。あれは禁忌を絶対化しなかった知恵である。禁忌は必要だが、禁忌に生活を殺させない。だから抜け道を制度の内側に用意しておく。神をだますのではなく、神との交渉手続きを整えておく。あの発想は、けっこう成熟していると思う。
もう一つは、方違えが本質的に「他人の家に泊まる」制度だったという点だ。方角のせいで、貴族たちは互いの家に転がり込み、突然の客を迎え、酒と肴を出し、文句を言い、噂を立てた。清少納言が饗のない家に腹を立てるのも、光源氏が方違え先で人妻の寝所に忍び込むのも、あれは方違えが人と人を強制的に接触させる装置だったからだ。凶方位という抽象的な理由で、具体的な誰かの家の几帳の向こうに寝る。そこで人生が動く。
現代の方位除けには、それがない。御砂を撒き、御札を貼り、祈祷を受ける。全部、自分と神の一対一だ。誰の家にも泊まらない。誰にも迷惑をかけない。清潔で、完結していて、他人が出てこない。方違えの千年は、共同体を巻き込む儀礼が個人の安心のサービスに変わっていく歴史でもある。
そして、方角を気にする心そのものは、まったく消えていない。引っ越しの前に吉方位を調べる人はいまも大勢いる。占いアプリで方位を確認する人もいる。神社で八方除けを受ける人もいる。彼らのしていることは、暦を開いて塞がりを確かめていた千年前の貴族と、本質的に同じだ。移動は不可逆で、住む場所は選び直せず、選択の結果は長く残る。だから人は、選ぶ前に何かに確認したくなる。
天一神はもういない。誰も六十干支で神の居場所を計算していない。それでも我々は、大きな移動を前にすると、どこかに向かって「これでいいですか」と尋ねたくなる。尋ねる相手の名前が変わっただけだ。
つまりこれは、平安京の交通規制だった
ここからは腰を据えて、この習俗を一段引いた場所から見直したい。
方違えという制度を長く眺めていて、いちばん腑に落ちたのは、これが「移動の許可制」だったという理解だ。平安京は、都市としてはかなり整然としている。碁盤の目に大路小路が走り、住所は条坊で特定でき、誰がどこに住んでいるかがわかる。その明晰な空間に、目に見えない時間割が重ねられていた。天一神は六十日周期で、太白神は十日周期で、王相は一か月半で、大将軍は三年で、金神は一年で、それぞれ別のリズムを刻む。この複数の周期が重なり合って、都市の上に日ごとに変化する通行禁止のパターンを描く。貴族たちは毎朝、そのパターンを暦で確認してから一日を始めた。都市計画に組み込まれた、動的な交通規制だったといってもいい。
そう捉えると、方違えの機能が見えてくる。規制があれば、迂回路が必要になる。方違えは迂回路であり、その申請手続きだった。前夜に別方向へ移動して一泊するというのは、要するに出発地点の付け替えである。神に対して、私の起点はここです、と申告し直す。だから翌朝の移動は別のベクトルとして計上される。この「起点の付け替え」という発想が、方違えのすべてを説明する。長期滞在型の神に対して「ここが今日から私の自宅です」と宣言する裏技も、堺の方違神社が「方位のない土地」を根拠に無条件の方違え成立を謳うのも、江戸の枕だけ移す簡略法も、現代の一泊してから入居する方式も、全部、起点をずらすという一点で貫かれている。千年かけて手段は簡略化したが、原理は一ミリも動いていない。
数字と条件分岐で書かれた祟りは、恐怖というより仕様書だ
この習俗を追いながらずっと考えていたのは、恐怖と作法の関係だ。私は最初、方位神への恐怖が先にあって、方違えという作法が後から生まれたのだと思っていた。だが調べていくと、順序が逆に見えてくる場面が何度もある。貞観七年の清和天皇の例では、陰陽寮が先に上奏し、それを受けて迂回が行われている。恐怖の表明ではなく、専門機関の判断だ。金神七殺の「七人殺す、足りなければ隣家から」という規定も、恐怖の描写というより、規定として異様に精密である。恐怖なら、もっと曖昧で、もっと感情的なはずだ。数字と条件分岐で書かれた祟りは、恐怖というより仕様書だ。
つまりこの体系は、恐怖を煽るために作られたというより、恐怖を処理可能な形式に落とし込むために作られている。世の中には理由のわからない不幸がある。子が死に、家が焼け、病が長引く。それらに対して、方角という座標と、暦という時間軸と、神という主体を与えて、原因を特定できる形にする。特定できれば、対処もできる。対処できれば、次から回避できる。回避できないときは、方違えという迂回路がある。それでも不安なら、反閇を踏んでもらえばいい。それでもだめなら、御砂を撒く。不安に対して、常に次の一手が用意されている。これは巨大な不安管理システムだ。
守っても損しない。破れば七人死ぬ。計算するまでもない
そして、このシステムには誰も逆らわなくてよかった、という点が地味に効いている。方違えを守ったからといって、誰も損をしない。多少面倒で、多少寒くて、他人の家に泊まるだけだ。守らなかったときのコストは、家族七人の死である。期待値の計算をするまでもない。だから全員が守る。全員が守るから、社会の常識になる。常識になるから、方違えを理由に外出することが不自然でなくなり、光源氏はそれを口実に人妻の家へ行き、藤原兼家はそれを口実に妻の家へ行かない。制度は、必ず制度が想定していない使われ方をされる。
監督官庁を失って、方位はかえって野放しになった
明治五年の改暦で、国家はこのシステムを公式に手放した。暦注は消え、陰陽師の家業は終わり、方位神は行政の外へ出た。だが手放されたシステムは死ななかった。むしろ管理者を失って、大雑書へ、六曜へ、九星気学へ、風水へ、占いアプリへと、次々に宿主を替えながら生き延びている。監督官庁がなくなったぶん、いまのほうがよほど無秩序に増殖しているともいえる。平安の陰陽師は、少なくとも一貫した理論体系のなかで判断していた。いまの方位論は、複数の流派の言い分がぶつかり合い、同じ引っ越しについて占い師ごとに違う答えが出る。それでも人は調べる。調べずにはいられない。
面倒でも何かできるなら、人は落ち着ける
この記事を通して伝えたかったのは、平安貴族が変な迷信に縛られていた、という話ではない。むしろその逆だ。彼らは、不確実性に名前をつけ、日程表に落とし込み、逃げ道を制度化するという、かなり高度なことをやっていた。牛車を出して夜中に他人の家へ向かうあの面倒な作法は、不安を行動に変換するための手続きだった。そして手続きがあるかぎり、人は不安に飲まれずに済む。何もできないことがいちばん怖いのであって、面倒でも何かできるなら、人は落ち着ける。
だから、いま引っ越しの方位を調べている人を、私は笑わない。ただ一つだけ言っておきたいことがある。方位が悪いから不幸になる、という話は、順番が逆になりやすい。不幸が起きたあとに、方位が悪かったことにされるのだ。金神を犯したから病んだのではなく、病んだから金神のせいにされた。そう考えれば、方位を確認する行為は、これから起こる災いを防ぐためではなく、これから起こる不安を先に処理するための儀式だとわかる。処理できたなら、それで十分だ。もし方位が悪いと言われて眠れなくなるなら、それは方位のせいではなく、確認という行為が不安を増幅する側に回ってしまったということで、そのときは調べるのをやめたほうがいい。
方角をなくしてしまえばいい、という最終回答
千年前の彼らが最終的にたどり着いたのは、精密な計算ではなく、「その土を踏めば方違えになる」という、どこの国にも属さない丘だった。全部の方角を消してしまえば、どこへ行っても構わない。あれは投げやりな解決に見えて、実はいちばん賢い解決だったのかもしれない。方角の呪縛から逃れる方法は、正しい方角を見つけることではなく、方角そのものを一度なくしてしまうことなのだ。堺の三国の境に立っていた人たちは、たぶんそれを直感でわかっていた。
そして今日も、どこかのマンションのベランダの両端に、白い砂が撒かれている。撒いた人はきっと、天一神の名前も、四十四日と十六日の周期も知らない。それでいい。手続きは、意味を忘れても機能する。人間が千年やめられなかったのは、方角を信じることではなく、何かをしてから動き出すという、その段取りのほうだったのだと思う。
