## 「お前は死んだら血の池に落ちる」と教えられた女たち
この話をするとき、俺はいつも少し慎重になる。面白おかしく消費していい題材じゃないからだ。だが、強烈に怖いし、日本の民俗を考えるうえで避けては通れない。だから書く。
こんなお経がある。ここにはこう書いてある。女というのは、生まれついて罪深い。なぜなら月に一度血を流し、子を産むときにも血を流すからだ。その血が地を汚す。その血で汚れた衣類を川で洗う。その水を、何も知らない人が汲んで茶を入れ、仏や神に供えてしまう。だから女は、死んだあとに必ず、面積八万四千由旬の、血で満ちた池に落ちて、その血を飲み続ける罰を受ける。
これを『血盆経(けつぼんきょう)』という。中国で作られた偽経だ。つまり、釈迦が説いたものではない。後世の誰かが作った、作り話だ。それが鎌倉中期ごろ日本に入ってきて、室町から江戸、さらに明治を越えて、この国の女性たちの人生に影を落とし続けた。
最初にはっきり書いておく。この経の主張は、根拠のない女性差別だ。現代の価値観ではなく、仏教の教義として見ても、教典の裏付けがない。ここを曖昧にしたまま「昔の人はこう信じていたんだなあ」と消費するのは、この経を押しつけられた側に失礼だと思う。その上で、なぜこれが広まったのか、なぜ女たち自身がこれを手に握ったのかを、ちゃんと追いかけたい。
## 四百二十字しかない、ペラ一枚のお経
まず規模感に驚いてほしい。『血盆経』は、漢字で四百二十字余りしかない。
四百二十字だ。今この記事の冒頭からここまでで、もうそれを超えている。古代の大乗経典は何十巻もあって、読み通すに何日もかかる。ところがこれは、一枚の紙に収まる。
この短さが、強さの正体だと思う。写しやすい。覚えやすい。持ち運びやすい。識字率の低い時代に、一枚の紙を手に握らせて「これを持っていなさい」と渡すという、これ以上ないシンプルな布教形態が可能になる。写経も、一日あれば終わる。女性たちが、自分の手で、自分のための札を作れる。
実際、日本の各地でこの経は、紺紙に金泥で書かれたり、版木で刷られて配られたり、小さく折られてお守り袋に入れられたりしている。女性はこれを懐に入れて持ち歩いた。そして死ぬとき、棺に入れてもらった。一枚の紙が、一人の女性の一生を伴走した。
## 目連が見た血の池――経文の中身を追う
中身はこうだ。ここでは、秋田市の寺に伝わる経本などを参照したやり取りをたどってみる。
主人公は目連尊者。釈迦の弟子のなかでも、神通力第一とされる人物だ。地獄を巡る話の主役として、中国で大人気だった。この目連が、羽州追陽県という場所で、ひとつの池を見る。
広さ、八万四千由旬。中はすべて血。そこに女たちだけが沈んでいる。鎖のついた鉄の枷をはめられ、一日に三度、獄卒に血を飲まされる。拒めば打たれる。声を上げればさらに打たれる。
目連は獄王に問う。なぜ女ばかりなのか。獄王は答える。女は子を産むときに血を流し、その血が地を汚して地の神を怒らせる。さらに汚れた衣を川で洗う。その水を、何も知らない善男善女が汲み、茶を入れて仏や聖者に供養してしまう。こうして聖者までが汚れる。だから女は、死後にこの報いを受ける。
目連は悲しんで、救いの方法を問う。仏は答える。孝養の心ある男女が、三宝を敬い、長斎を三年と六十日保ち、陀羅尼を受持し、この経を転読し写経すれば、血の池に蓮華が浮き、救われる。
構造はすごく単純だ。問題を提示し、解決策を売る。しかも提示される問題は、本人の行いとは一切関係ない。善人だろうが悪人だろうが、女なら全員対象。逃れられない。だから全員が顧客になる。
## 罪の理由が、めちゃくちゃすぎる
ここ、もう一回考えてほしい。
この経が女性を有罪にする根拠は、二つだ。ひとつは、出産の血が地を汚すこと。もうひとつは、汚れを洗った水が、他人の手を経て仏に供えられてしまうこと。
つまり、子供を産むことが罪だ。そして、洗濯をすることが罪だ。
これはもう、議論の余地がないと思う。出産は、集団の存続そのものである。洗濯は、衛生を保つ行為である。どちらも、当時の女性が日常のなかで強いられていた労働だ。その二つを、死後の永遠の苦しみの原因にした。やっていることの残酷さを、めんどうがらずに確認しておきたい。
しかも巧妙なのは、「知らないうちに他人を巻き込んでいる」というロジックを入れていることだ。これによって、後ろめたさが自分への嫌悪に変わる。自分が存在するだけで、何も知らない人を汚している。この発想は、持たされた側の内面を静かに削る。外からの罰より、内側の罪悪感のほうが、はるかに長く人を縛る。
## 中国での成立――南宋、一一九四年の一枚
ではこの経は、いつ、どこで生まれたのか。
撰述時期は、実のところ分かっていない。フランスの研究者ミシェル・スワミエは、十世紀以後の作品ではないかと推測している。日本でも吉岡義豊や前川亨らがこの問題を扱ってきた。
文献で確認できる最古の資料は、南宋の紹熙五年、西暦一一九四年の「懺血盆牒」とされる。とはいえ、この段階ではまだ民間に広く弘布されていなかったと見られている。つまり、経文はあるけれど、まだヒットしていない。
この手の偽経は、中国では珍しくない。仏教が大陸に入ってから、現地の価値観と掛け合わされて大量の新しい経典が作られた。孝行を説くもの、祖先供養を説くもの、地獄を説くもの。『血盆経』もその一つで、内容を見ればインド仏教というより、母への孝行という大陸的な価値観が強く出ている。
面白いのは、中国と日本で強調点が違うことだ。中国の血盆経思想は、もともとは産死、つまりお産で亡くなった女性を救う話に重心があったとされる。それがやがて出産全般や病気による下血に広がる。ところが日本では、月経に重心が移る。月経は全ての成人女性にあるものだ。つまり日本では、対象が「不幸な死に方をした女性」から「女性全員」に拡張されている。この差は決定的だと思う。
## 目連救母の物語と合体した、一三三七年
では、いつこの経は大ヒットしたのか。
鍵になるのが、元末、至元三年、西暦一三三七年の『目連救母出離地獄生天宝巻』だ。ここで初めて、血盆経の思想が目連説話と結合したとされる。
これが巧い。目連救母の話は、当時の大ヒットコンテンツだった。目連の母が悪業によって餓鬼道に落ち、目連が神通力で探し出して救い出す。盆の行事の由来としても知られているし、芸能として上演もされていた。つまり、誰もが知っている。
その人気作品に、血盆経という新しい要素を差し込む。すると、目連の母が落ちた先に血の池が現れ、「母を救う」という感動的な物語のなかに、「女は血の池に落ちる」という前提がこっそり埋め込まれる。観客は目連の孝行に泣きながら、「うちの母も、いずれあそこに行くのか」と思う。そして女性は、「自分もあそこに行くのか」と思う。
広告としてこれ以上ない形だ。恐怖を売るのではなく、感動のなかに恐怖を同梱する。しかも「子が親を救う」という、誰も反対できないテーマの上に乗っている。この形で広まったからこそ、この思想はここまで根強く生き残ったと思う。
## 日本への上陸――正長二年、一四二九年
日本への伝来は、鎌倉中期と推定されている。この年代推定には五来重の研究がある。
ただ、実際に「日本人がこの経を信じていた」と確認できる最古の具体例は、『長弁私案抄』という資料で、正長二年、西暦一四二九年だとされる。足利義教の時代だ。さらに高達奈緒美は、室町中期、一四六六年の段階での浸潤を指摘している。武見李子らの研究も、日本での信仰伝播の証拠を提示している。
つまり、室町時代にはこの思想がすでに広まっていた。この時期は、仏教側で女性の位置づけが硬直化していく時期と重なっている。研究者の南宏信によれば、「五障」「三従」といった古い概念が、このころ女性固有の罪業という観念に変質し、社会通念になっていく。
この「五障三従」も、ちょっと触れておきたい。五障とは、女性はそのままでは成仏できないとする考え方だ。だから一度男性に生まれ変わってから成仏する、という「変成男子」の発想が出てくる。三従は、女性は幼いときは父に、嫁いでは夫に、老いては子に従うべきだとする考え方。この土壌の上に、血盆経が落ちてきた。芽が出ないはずがない。
## 熊野比丘尼が、絵で説いて回った
この思想を、実際に全国に運んだのは誰か。大きな役割を果たしたのが、熊野比丘尼だ。
熊野三山を本拠に、全国の村々や都市を巡った旅の女性宗教者である。平安末期から鎌倉に起源を持ち、室町以降に本格的に活動し、江戸期に変質し、明治維新で消えた。
彼女たちの武器は、絵と声だった。「絵解き」という。大きな掛け軸を広げ、指し棒で一ヶ所ずつ示しながら、独特の節回しで因果応報を説いていく。字が読めなくても、絵ならわかる。これは、識字率の低い時代における最強のメディアだった。
使われた絵が、『熊野観心十界曼荼羅』だ。人の一生の坂道と、十の世界を一枚に描いたもので、下半分は地獄だ。極彩色で、克明に、責め苦が描かれている。子どもが見たら泣き出してしまうやつだ。
この曼荼羅のなかに、女性の地獄が三つ描かれている。これが、この話のいちばん重い部分だ。
## 不産女地獄――産まなかった女の責め苦
一つめが、不産女地獄。石女地獄とも呼ばれる。
対象は、生前に子どもを産むことができなかった女性、または産まなかった女性だ。
で、何をさせられるか。灯心で、竹の根を掘り続ける。
灯心というのは、行灯の芯に使う、やわらかい繊維の束だ。これで地面に深く張った竹の根を掘る。もちろん、掘れるわけがない。やればやるほど灯心はほつれ、土はこぼれて戻る。終わりは永遠に来ない。
この地獄の残酷さは、苦痛の量ではなく、意味のなさにあると思う。しかも、この「生産性のない労働を永遠に続けさせる」という罰の形は、「子を産めなかった」という罪状と直接対応している。実を結ばない作業を、実を結ばなかった罰として与える。
今の感覚で読めば、これは子を持てなかった女性への、あまりにも露骨な攻撃だ。不妊の原因が女性の側にあるとは限らないことは、今なら常識だ。だが当時、子を成さないことは女性の責任とされ、家から追い出される理由になった。その現世での仕打ちを、死後にまで延長する絵が、村の寺で広げられていた。
## 両婦地獄――嫉妬が蛇になる
二つ目が、両婦地獄だ。
こちらは、女性の嫉妬から生まれた地獄とされる。図像は衝撃的で、一人の男に、蛇体となった二人の女が左右から巻き付いている。安珍・清姫伝説のような、女の執念が蛇に化する説話の系譜にある。
この地獄の仕組みも、良く見ると妙だ。一人の男に二人の女。当時の社会で、この状況を作っているのはだれなのか。婚姻制度も、側室を持つ慣行も、男性の側に都合よく作られていた。にもかかわらず、地獄で苦しむのは女のほうだけだ。男は巻かれているだけで、罰を受けているわけではない。
つまりこの三つの地獄は、いずれも女性の身体や感情、あるいは女性に押し付けられた役割の失敗を、そのまま罪に変換している。子を産めば血の池。産まなければ不産女地獄。妬めば両婦地獄。逃げ場がない。この逃げ場のなさこそが、この図像体系の本質だと思う。
ただし、同じ絵のなかには救済の図も描かれている。如意輪観音が血の池の上に現れ、女たちを引き上げる。このセットが重要だ。地獄と救いは、必ずセットで売られている。
## 手賀沼の竜宮から出た経――正泉寺の縁起
日本の血盆経信仰を見る上で、もっとも有名な場所のひとつが、千葉県我孫子市の正泉寺だ。
この寺の縁起が、なかなかの物語だ。寺の創建は弘長三年、西暦一二六三年。鎌倉時代だ。開基は桐姫、法性尼といい、執権北条時頼の娘と伝えられる。
で、法性尼が永眠してから百五十三年後、奇跡が起きる。寺の和尚のもとにお告げがある。「自分は今、血の池地獄の苦しみを受けている。血盆経を授けて救ってほしい」。開基であり、執権の娘であり、仏道に入っていた女性さえも、血の池に落ちているということだ。
和尚は手賀沼に向かう。すると、沼の水面に白い蓮華が開き、そのなかに血盆経があった。この経は、沼の底の竜宮に蔵されていたものだという。これをもって供養すると、法性尼は成仏した。
この寺に伝わる血盆経信仰資料は、平成十年に県の指定文化財になっている。内容は、女人成仏血盆経出現図などの絵画三点と、血盆経縁起や紺紙金泥血盆経をはじめとする版木類一式。
版木一式、というのが重い。版木があるということは、大量に刷っていたということだ。この寺は、血盆経を印刷して配る拠点だった。女性たちは参詣し、縁起の絵を見せられ、説明を受け、札をもらって帰った。一世代ではない。何世代もだ。
## 青梅・海禅寺の石塔、延宝二年の善女人たち
もうひとつ、具体的な証拠を見てみよう。東京都青梅市二俣尾の海禅寺に、一基の石塔がある。
上に乗っているのは如意輪観音坐像。台座に刻字があり、「奉納血盆経」と読める。年号は延宝二年、西暦一六七四年の七月吉日。
ここで目を留めてほしいのは、誰が建てたかだ。刻字には、武州多摩郡長淵郷の二俣尾村と澤井村の「善女人」たちによって奉納されたことが明記されている。つまり、寺が壁に札を貼ったのではない。二つの村の女たちが講を組み、金を出し合って、自分たちのための石塔を建てている。
彼女たちの目的は、成仏と安産だった。法要を営み、血盆経を書写し、持ち続ける。すれば血盆池に蓮華が現れて救われる。この信仰は江戸時代を通じて展開し、青梅地方にも確実に浸透していた。
ここに、この問題のやっかいなところが出ている。女性を有罪にする思想を、女性自身が金を出して支えている。上からの強制じゃない。自発的な講だ。だがこれを「女性が自ら選んだ」と読むのは、乱暴だと思う。選択肢が一つしかないとき、その選択は選択ではない。「あなたは地獄に落ちる」と定義された世界で、唯一の出口がこの経だと言われていれば、人はこれを握るしかない。
## 立山の布橋灌頂会――目隠しで橋を渡る
この思想を、もっともドラマチックな儀礼に仕上げたのが、富山の立山信仰だ。
布橋灌頂会。芦峅寺を舞台に行われた、女性のための儀式だ。
やり方を追ってみよう。まず参詣する女性は、白衣を着る。死装束だ。閻魔堂で懺悔の儀式を受ける。そのあと、菅笠をかぶり、目隠しをされる。自分では前が見えない。引導師に手を引かれ、白い布を敷いた橋を渡る。
渡った先はうば堂だ。ここで四箇法要を行い、血脈という札を授かる。そしてもう一度橋を渡って、この世に戻ってくる。これで、極楽往生が保証される。
想像してほしい。白い死装束で、目を塞いで、知らない男の手に引かれて、見えない橋を渡る。足の下の白布の感触。周囲の読経の声。山の風。香の匂い。やがて堂の中に入り、暗闇のなかで法要を受け、扉が開いて光が差し込む。演出としては完璧だ。死と再生を、一日で体験させる。
年代を見ておくと、布橋は天正十八年に前田利家が修理し、慶長十一年に前田利長が掛け直している。儀式としての原形は慶長十九年ごろと見られている。うば堂は明治初期に取り壊された。布橋は昭和四十年代に再架され、平成八年の国民文化祭で儀式が復活し、平成二十三年以降は三年ごとに開催されている。
江戸期の芦峅寺の衆徒は、立山曼荼羅を抱えて全国を廻檀配札して回った。その曼荼羅にも、血の池地獄が描かれている。熊野比丘尼と同じことを、別のルートでやっていたわけだ。法会に参加するには金がいる。つまりこの思想は、宗教施設の経済基盤でもあった。この側面は、ちゃんと見ておいたほうがいいと思う。
## 産小屋と月経小屋という、もうひとつの現場
血盆経の話は、死後の世界だけの問題じゃない。同じ発想が、生きている間にも適用されていた。
忌み小屋と呼ばれる建物が、日本各地にあった。忌屋、月経小屋、産小屋、産屋、別火屋、火小屋、ヒゴヤ。中国・四国地方、沖縄、奄美群島、島根などに事例が多い。月経期を指す言葉も地域ごとにあって、中国・四国地方では「赤火」、奄美・沖縄では「しら不浄」などと呼ばれた。
やっていたことは、隔離だ。月経中、あるいは出産前後の女性を、家から離れた小屋に入れる。食事の火を別にする。これを「別火」という。
実態は厳しい。不衛生、寒さ、栄養不足。小屋は集落のはずれにあることが多く、防犯上の危険もあった。隔離中も裁縫などの作業を普段以上に強いられたという記録もある。一方で、少数ながら「小屋にいる間だけは家事から解放されて休めた」という女性の証言も残っている。この両面性も、正確に伝えておきたい。
制度としては、明治五年、一八七二年に政府が法令で廃止を宣言している。だが、法令で消えるものではなかった。戦後まで根強く残った地域もあり、比較的近年まで続いたところもある。
ちなみにこの手の慣行は日本だけのものではない。ネパールにはチャウパディと呼ばれる同型の慣習があり、二〇一六年に十代の女性が、二〇一九年には換気の悪い小屋で二十一歳の女性が亡くなる事件が起きている。現在進行形の問題だ。昔話として消費できる話ではない。
## 聞き書き① 祖母の位牌の下にあった紙
ここからは、この信仰の残りかすに触れた人たちの話をいくつか。個人が特定されないよう、属性だけにしてある。
一件目は、関東の古い家に嫁いだ四十代の女性の話。
義祖母が亡くなり、仏壇を片づけていたときのことだ。位牌の並んだ段の奥、一番奥まったところに、小さく折られた紙が入った古い袋があった。開けてみると、漢字だらけの短い文章が刷られていた。紙は茶色く変色していて、折り目が白くなっていた。何千回と開いては閉じられた痕だと思ったという。
彼女は漢文が読めないので、義母に見せた。義母はちらっと見て、「ああ、これはおばあちゃんのだから、一緒に入れてあげて」とだけ言った。何の紙かは教えてくれなかった。結局、その紙は棺に入れられ、一緒に焼かれた。
数年後、彼女は地元の公民館の講座で、血盆経というものの存在を知った。写真を見て、形が一致した。字数も、大きさも、折り方も。
彼女はこう語った。「おばあちゃんは一度も、女は穢れてるとか、そんなこと言う人じゃなかった。でもあの紙を、何十年も仏壇の奥に入れてたんだよね。何を思って開いていたのか、今となっては聞けない」。
この「聞けない」というのが、この信仰の残り方をよく表していると思う。語られないまま、物だけが引き継がれていく。
## 聞き書き② 葬儀の仕事で見た、もうひとつの札
二件目は、地方で長く葬儀関係の仕事をしていた五十代の男性の話。
彼の仕事では、棺に入れるものをめぐって、しばしば微妙なやり取りが発生する。燃えないものは入れられないし、家族で意見が割れることもある。
彼が覚えているのは、ある高齢女性の葬儀だ。娘さんが、古い紙の札を持ってきて、これを入れてほしいと言った。他の親族が「それは入れないほうがいい」と反対した。理由は言わなかった。でも雰囲気で、皆が何の札かを知っているのは分かったという。
結局、娘さんが押し切って入れた。入れるときに一言だけ、「お母さん、これだけは手放さなかったからね」と言っていた。
彼は後年、その札が血盆経の一種だったのだろうと推測するようになった。反対した親族の気持ちも、なんとなく分かると言う。内容を知っていれば、死んだ人を送る場で、「この人は地獄に落ちる」と書いてある紙を入れることになる。抵抗があって当然だ。
だが同時に、娘さんの言い分もわかるという。母親は、この札を守りとして持ち続けていた。持っている本人にとっては、呪いではなくて保険証だった。それを取り上げて送るのは、やっぱり違うだろうと。
このエピソードは、この問題の難しさをそのまま見せていると思う。差別的な思想は否定されるべきだ。だが、それを拠り所にして生きてきた個人の時間は、否定できない。
## 聞き書き③ 版木を見てしまった、郷土史サークルの学生
三件目は、学生時代に郷土史のサークルで寺の調査に参加したという、三十代の女性の話。
古い寺の収蔵品の目録を作る手伝いだった。蔵の中で、布に包まれた重い木の板をいくつか見つけた。版木だ。墨の痕が黒く残っていて、指でなぞると彫られた文字の凹凸がはっきり分かった。
同行していた年配の指導者が、一枚を見て、「これは女の人向けのやつだな」と言った。内容を説明されて、彼女はショックを受けたという。目の前にあるのは、ちゃんと手をかけて彫られた、良い仕事の道具だ。職人が丁寧に彫っている。でも、刷られるのは自分たちを地獄に落とす文章だ。
彼女がいちばん覚えているのは、その版木の重さだという。両手で持つと手首にくる。この重さのものを、誰かが何百枚も刷って、誰かが規則正しく折って、誰かが女たちに手渡していた。その作業の地味な積み重ねを、実物の重さで実感したという。
彼女は今も、この問題を考えるとき、「悪意のない人々が、真面目にこれを回していた」という部分がもっとも怖いと語る。制度化された差別は、別に悪役を必要としない。真面目な職人と、真面目な僧侶と、真面目な信者だけで、何百年も回る。
## ネットでの反応と、いまの受け止め方
血盆経は、ネット上で一定の頻度で話題になる。
きっかけはいくつかあって、地獄絵の展覧会、地方の博物館の企画展、生理やフェミニズムをテーマにした記事、それから歴史系の動画。反応は大きく三つに分かれる。
一つ目は、純粋な驚きと怒りだ。「生理と出産で地獄行きって、どうしようもないじゃん」「逃げ場がないことで罰するの、いちばんタチが悪い」。この反応はもっともだと思う。
二つ目は、仏教自体への批判に展開するパターン。ここは注意がいる。血盆経は偽経であり、釈迦の教えではない。逆に仏教のなかには、女性の往生を説く系統もしっかりあった。一枚岩で「仏教は女性差別」とするのは、実態を取り逃がす。問うべきは、なぜこの偽経がこれほど受け入れられ、制度のなかに組み込まれたのかだ。
三つ目が、もっとも興味深い反応。「でもこれ、当時の女の人にとっては救いだったのかも」という声だ。これも半分は当たっている。当時の女性は、すでに「女は成仏しにくい」という思想のなかに置かれていた。そこに、「この経を持てば救われる」という具体的な手段が提示された。しかも写経という、自分の手でできる行為だ。実際、青梅の石塔のように、女性たちが講を組んで自分たちのものとして運営していた事例がある。
だが、ここで立ち止まってはいけないと思う。病気を売ってから薬を売る商売は、薬が本物だったとしても、病気を売ったことの責任を免れない。血盆経は、先に女性を有罪にしてから、その罪の消し方を売っている。救済であったことと、拘束であったことは、同時に成り立つ。どちらかを選ぶ必要はない。両方書くべきだ。
## なぜこの思想はここまで強かったのか
改めて、普及のメカニズムを整理しておきたい。
ひとつは、短いこと。四百二十字で、写しやすく、刷りやすく、持ち運びやすい。
ふたつめは、対象が全女性だったこと。選別がないので、布教側は相手を選ばなくていい。目の前の女性全員が対象だ。
みっつめは、人気コンテンツに乗ったこと。目連救母という、孝行の感動話に埋め込まれて伝わった。
よっつめは、持ち運ぶ人間がいたこと。熊野比丘尼も、立山の芦峅寺の衆徒も、全国を歩いて絵と札を配った。これは宗教施設の収入源でもあった。
いつつめが、もっとも大きい。既存の民俗と相性が良すぎた。日本にはもともと、血を穢れとする観念と、別火・隔離の慣行があった。忌み小屋の世界だ。この地盤の上に、「なぜ隔離するのか」の理論的説明と、「ではどうすればいいのか」の解決策を、セットで提供した。既存の慣行に意味を後付けする、という形だ。これがいちばん強い。新しいことを始めさせる必要がないからだ。
逆に、この信仰が衰えた理由もはっきりしている。衛生と医学の知見が広まり、月経や出産が生理現象として説明されるようになった。女性の教育機会が増え、自分で経文を読める人が増えた。寺の側も、人権意識の高まりのなかでこの手の札を配らなくなっていった。仏教界の内側で、差別的な法語や慣行を見直す動きが進んだことも大きい。
## この話を、どう扱うのが正しいのか
ここは、はっきり書いておきたい。
血盆経は、女性の身体機能を罪として定義した、根拠のない差別の体系だ。これを「日本の美しい伝統」に入れることはできないし、「女性の穢れには意味があった」という式の擁護も成り立たない。月経も出産も、単に人間の身体に起きることだ。それ以上でも以下でもない。
同時に、この札を握りしめて生きた女性たちを、「騙されていた可哀そうな人々」として見下すのも違う。彼女たちは、与えられた条件のなかで最善を尽くしていた。講を組み、金を出し合い、石塔を建て、自分たちの名を台座に刻んだ。延宝二年の二俣尾村と澤井村の女たちの名は、今も石に残っている。一人ではなく、集団で行動した証だ。
この二つを分けて書くことが、この題材を扱うときの最低限の作法だと思う。思想は否定する。人は否定しない。
そしてもうひとつ。この話を「昔の怖い話」で終わらせないことだ。忌み小屋の項で触れたように、月経を理由に女性を隔離する慣行は、今も世界のどこかで人を殺している。日本国内でも、女人禁制をめぐる議論は現在進行形だ。高野山も富士山も既に解禁されたが、宗教上の理由を挙げて女性の立ち入りを制限している場所は残っている。血盆経の話は、その議論の前史なんだよな。
ここまで書いてきて、俺がいちばん長く考えこんでしまったのは、「なぜ四百二十字だったのか」という点なんだよな。
この経は、短い。短いから広まった。だが、それだけじゃないと思う。短いということは、反論の余地がないということだ。大部の経典なら、矛盾する記述を探して反論することもできる。四百二十字には、その隙間がない。問題と解決策が、パッケージになって完結している。
しかも面白いのは、日本ではこの経の対象が拡張されたことだ。中国の血盆経思想は、もともとは産死や下血という、いわば「異常な事態」に重心があったとされる。ところが日本では、月経に重心が移る。月経は異常ではない。健康な成人女性なら誰にでもある。つまり日本の血盆経思想は、「不運な人を救う話」から「女性という存在そのものを定義する話」に変質している。
なぜ日本でだけこうなったのか。ここには、日本の神道系の穢れ観念が影響していると見るべきだろう。赤不浄、黒不浄といった分類がすでにあり、別火の慣行があり、忌み小屋があった。この上に外来の偽経が乗っかると、既存の慣行に完璧な理論武装を与えてしまう。仏教と神道の、もっとも不幸な形の共同作業だったと思う。
もうひとつ、俺が重要だと思うのは、この信仰が徹底して「活字と絵と儀式」のパッケージだったことだ。版木で刷る。曼荼羅を広げて絵解きする。白衣を着せて、目隠しして、橋を渡らせる。この三つは、文字・図像・身体のすべてに届く。識字できなくても絵で分かる。絵を見なくても、橋を渡った身体が覚えている。これは、現代の情報発信と比べても、相当に高度な多層展開だ。何百年も消えなかったのは、当然とも言える。
では、この話は完全に過去のものなのか。残念ながら、そうでもない。血盆経という名前は知られていなくても、「女性の身体はここに入ってはいけない」というルールは、いまだに日本のあちこちにある。山、土俵、神事、祭り、ある種の仕事。そのすべてが血盆経由来というわけではないし、それぞれに地域の事情もある。だが、「なぜだめなのか」と問われたときに、最終的な根拠として血の穢れが持ち出される場面は、今でもある。そのとき、四百二十字の影がちらっと見える。
最後に、この記事を書きながら何度も思い出した光景がある。仏壇の奥の、折り目が白くなった一枚の紙だ。何千回と開いては閉じられた痕。その人は、何を思ってそれを開いていたのか。怖かったのか。安心していたのか。自分の娘や孫娘のことを思っていたのか。それとも、もう内容など考えずに、ただ手の癖で開いていただけなのか。
分からない。語られないまま、彼女たちは一人ずつこの世を去っていった。だからせめて、この経が何を言っていたのか、それがどうやってこの国に入り、どう広まり、誰が利益を得て、誰が背負ったのかは、はっきり書き残しておきたい。血の池は、どこにもなかった。それだけは、何度でも書いておいていいと思う。
血盆経――「女は死んだら血の池に落ちる」と説いた偽経と、それを持たされた女たちの数百年
