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玄関に貼られた「忌中」の紙――死は何日間「伝染る」と国が法律で決めていた話

子どもの頃、通学路にその家があった。

朝、いつも通りに角を曲がったら、玄関の引き戸の上に白い紙が貼ってあった。半紙だ。太い黒の枠で囲まれていて、真ん中に墨で二文字。忌中。

その日から、その家の前を通るときだけ足が速くなった。誰に言われたわけでもない。ただ、あの紙が貼ってある家の空気だけが、他の家と違って見えた。門も塀もいつも通りなのに、家一軒まるごとが立入禁止になっているような感じがした。近所のばあさんは「あそこの前は息を止めて通れ」と言った。理由は教えてくれなかった。

で、大人になってから知った。あの感覚、気のせいじゃなかった。あの紙は本当に「立入禁止」の札だったんだよな。しかも、その立入禁止が何日続くかを、この国はかつて法律で決めていた。父母なら何日、夫なら何日、妻なら何日、と。細かすぎて笑えてくるような一覧表が、明治になっても正式に生きていた。

その話をする。

白い紙が二文字だけで、家の空気を変えてしまう

忌中札。地域によっては忌中紙とも呼ぶ。書き方は驚くほど決まっている。半紙の中央に墨で「忌中」と書き、その周囲を太い黒枠で囲む。紙の形は長方形が多いが、ひし形に傾けて貼る地域もある。名前は書かない。故人の名前も、喪主の名前も入れない。ただ二文字だけ。

この「名前を書かない」というのが、じわじわ怖い。誰が死んだかは書かないのに、この家に死があるということだけは通行人全員に告げている。個人の情報ではなく、家の状態の表示なんだよな。人ではなく、建物にかかっている札だ。

貼り方にも本来の作法があった。玄関にじかに貼るのではなく、簾を裏返して入り口に垂らし、その上に札を貼る。裏返す、というのがポイントだ。日常の面を伏せて、非日常の面を外に向ける。ひっくり返された簾は、それだけで「今この家は普段の家ではありません」という合図になる。今はさすがに簾を裏返す家はほとんどない。門扉や玄関の壁にテープで直接貼るか、黒枠の額縁に入れて掲げるか、立札や木札に紙を貼るか。葬儀社に頼めばだいたい用意してくれる。

地域によっては、二文字の下に通夜と告別式の日時、場所、出棺の時刻まで書き添える。これは後で効いてくる伏線なので覚えておいてほしい。

貼るタイミングは、亡くなった時点ですぐ、あるいは葬儀の日程と場所が決まり次第。剥がすタイミングは、ここが本当に地域でバラバラだ。教科書的には四十九日の忌明けまで。初七日まで、という地域もある。火葬が終わったら外す家もあれば、葬儀が終わったその足で剥がす家もある。

そして今は、そもそも貼らない家が圧倒的に増えた。

家の中は、もっと徹底的に「閉じて」いた

外に札が貼られている間、家の中で何が起きていたか。ここを飛ばすと、あの紙の意味が半分も伝わらない。

まず神棚だ。人が亡くなると、喪主はまず神棚に向かって、その家の者が亡くなったことを奉告する。故人が生涯にわたって神の恵みを受けたことへの感謝と、葬儀が無事に終わるようにという祈り。そこまでやってから、神棚の正面に白い半紙を一枚貼る。あるいは屏風を立てて視界ごと遮る。これが神棚封じだ。

これ、初めて見るとかなり異様な光景なんだよな。毎朝手を合わせていた場所が、白い紙でべたっと塞がれている。榊も供物もそのまま、拝礼だけをやめる。神様を追い出しているわけではなく、こちらの穢れが及ばないよう、敬意をもって距離を取る、という理屈になっている。理屈はわかる。わかるが、目の前の光景としては「封印」以外の何物でもない。

家によっては鏡に布をかけた。仏間の襖を開け放し、遺体は北枕で寝かされ、逆さ屏風を立て、枕元には一膳飯と枕団子。刃物を胸の上に置く風習も広く残っていた。線香と蝋燭は絶やさない。夜通し誰かが起きている。

さらに徹底していた地域では、火を分けた。柳田国男が集めた記録がすさまじい。喪のある家の火は悪くなる、と考えられていた。だからその家の火で煮炊きしたものを食べると、影響は食べた者にも及ぶ。これを土佐の長岡郡あたりでは火負けと呼んだ。喪家に出入りした者が病気になると「火負けした」と言い、治すための呪法まであった。棺を縛った縄の一部を黒焼きにして飲む、というのがそのひとつで、そのためにわざわざ埋葬のとき縄の端を少し外に出しておいたという。ここまでくると、もう完全に伝染病の扱いだ。

上総の君津郡の海岸では、忌中のことを「火がわり」と呼ぶ地域があった。壱岐では死者の血族だけが別火で食事をし、これを「ヒの飯」、そのために各人が持ち寄る白米一升を「ヒデエ」と言った。訃報を伝えることを「ヒを告ぐる」とすら言った。忌と火が同じ言葉になっている。

出雲の旧神門郡では、忌中は母屋の座敷を使わず、家の脇に下家を建て出してそこに住んだ。しかもその下家へは裏口からしか出入りしない。町なかで軒が並んでいる地域だと、各戸の両脇に三尺ほどの細い路があけてあって、これを「火相」と呼んだ。今では火事を防ぐための隙間だと思われているが、それにしては狭すぎる。忌の火が通るための路だったのではないか、と柳田は書いている。家と家のあいだの、あの誰も通らない細い隙間。あれが穢れの通路として空けられていたかもしれない、という話だ。夜に思い出すと寝つきが悪くなる。

そして訪問者の側にも作法があった。喪家の火で作ったものは食べない。だから葬儀の食事を作る家を別に決めた。土佐の長岡郡では、死の報せが伝わるとまず隣近所が弔問に来て、それから「別火家」というものを定める。死者の家は穢れているから、その火を避けるために別の家を集会所に指定して、そこで飲食する。隣近所の香典は各戸同額で、それを別火家に持ち寄って酒肴を整え、埋葬が済んだらそこで飲み食いし、喪家には目録だけを渡す。紀州の有田郡では、会葬者に出す食事を調理する家を「精進宿」と呼んだ。

つまり、忌中の家というのは、生活のインフラごと隔離された家だった。玄関の白い紙は、その隔離の外側からの表示に過ぎない。中ではもっと徹底したことが起きていた。

死は「うつる」ものだった――延喜式が決めた伝染日数

なぜここまでするのか。答えははっきりしている。死は伝染するものだと、この国は長いあいだ本気で考えていたからだ。

しかもその伝染ルールは、思いつきの俗信ではなく、法令の施行細則に書き込まれていた。

平安時代中期に編まれた延喜式。その巻三、臨時祭のところに触穢応忌の条というのがある。何に触れたら何日忌み慎むか、という規定だ。人の死は三十日。ただし起算は死んだ日ではなく葬った日から。人の出産は七日。牛馬羊犬鶏豚といった六畜の死は五日、その産は三日。その肉を食べたら三日。それより古い弘仁式の逸文にも同じ骨格があって、そちらには弔問と見舞いも三日と入っている。人の見舞いに行くだけで三日間の謹慎対象だ。

面白いのは、この観念が古代からの自然な感情ではないという点だ。十二世紀のある貴族が「穢の事は律令に載らず、式より出ず」と書き残している。穢れは律令本体には書いていない、施行細則である式から出てきたのだ、と。つまり九世紀半ばに役所が文書で定義したことで生まれた、かなり人工的な概念なんだよな。誰かが「死は汚い」と自然に感じたから制度になったのではなく、制度が先にあって、人がそれに従って感じるようになった。順序が逆だ。

で、ここからが本題。延喜式には甲乙触穢の条というのがある。穢れがどう伝染するかの規則だ。

穢れの発生源を甲とする。乙が甲のところに入って着座すると、乙が穢れる。しかもこのとき、乙と同席していた人間まで全員穢れる。次に丙が乙のところに入った場合、穢れるのは丙ただ一人で、丙と同席していた人にはうつらない。ただし逆に、乙のほうから丙のところに入っていった場合は、丙と同席していた人までまとめて穢れる。そして丁が丙のところに入っても、もう穢れない。ここでようやく連鎖が止まる。

読み返してほしい。感染の何次接触までを対象とするか、能動的に行ったか受動的に来られたかで範囲が変わるか、が条文になっている。行った側と来られた側で扱いが違うというのは、居所礼という考え方によるものだと当時の貴族が説明している。自分の意思で相手のところへ出向いたのなら、それは交流の意思表示だから責任も重い、というわけだ。

これ、完全に感染症の疫学だ。しかも二〇二〇年代の我々が散々見せられた濃厚接触者の定義と、構造がほぼ同じなんだよな。一次接触者は同席者まで巻き込む、二次接触者は本人限り、三次で打ち止め。平安の官人たちは、目に見えないものの伝播モデルを千百年前に文書化していた。

現実の運用も容赦なかった。長保元年、内裏の東北の対の下にいた子どもを犬がくわえて持ってきた。八、九歳ほど。あちこち食われた跡があったが、体が残っている以上は五体不具穢とするのは難しいということで、三十日の死穢と判定された。寛弘八年には、内裏の北の対の北で人の頭が見つかり、これを死穢とすべきか藤原道長が相談を受けている。道長は五体不具穢であり七日の穢だと判断し、春日祭ほかの祭が延期された。文正元年には、御所の女房が便所で子を産み流してそのまま捨て置き、翌月の掃除で人夫に見つかって発覚し、三十日の天下触穢とされた。天下触穢。国全体が謹慎するということだ。

穢れは役所を止める。祭を止める。国家機能を止める。だからこそ、誰が穢れているかを正確に把握し、隔離する必要があった。玄関に貼る白い紙は、その名残の末端なんだよな。

綱吉が定めた、悲しみの日数表

さて、ここから「国が法律で決めていた」の本丸に入る。

服忌令。ぶっきりょう、あるいはぶっきれい。近親者が死んだときに何日間喪に服すかを、続柄ごとに定めた法令だ。

原型は中世の伊勢神宮などの神社で作られたものだとされる。律令の喪葬令と仮寧令を組み合わせて、喪に服する者に与えられる休暇である「仮」を、死穢を忌む期間としての「忌」に読み替えたものだった。白川家や吉田家といった神道を家職とする家でも、同じような規則が定められていた。

これを幕府の公式法令にしたのが五代将軍徳川綱吉だ。貞享元年二月三十日、西暦でいえば一六八四年四月十四日。儒者の林鳳岡、木下順庵、神道家の吉川惟足らの参画のもとで制定された。以後、元禄六年までに五度の追加補充があり、八代吉宗の元文元年九月十五日、一七三六年十月十九日に公布された改定服忌令をもって確定版となった。この元文の改定服忌令が、明治維新まで武家と庶民の基準として機能する。

綱吉というと生類憐みの令の人という印象が強いが、あれと服忌令は同じ思想の畑から生えている。研究者の根崎光男は、天和三年に綱吉の子の徳松が五歳で病死しており、その頃から死と血の穢れを意識した政策として服忌令の制定が進んでいた、子の死が綱吉の思考のなかで生類憐みの観念を助長していったのではないか、と見ている。息子を失った将軍が、死の穢れを制度で管理しようとした。そう並べると、あの法令群の陰気さの出どころが少し見えてくる。

服忌令の運用も念が入っていた。忌の期間中は門を閉じて出仕せず、魚肉を食べず、髭も髪も剃らず、神社への参詣もやめる。徳川実紀の貞享元年二月三十日の記事にそう出ている。門を閉じる。まさに玄関の話だ。

そしてこの法令は、理念上は将軍自身をも対象としていた。将軍は東照大権現に対して、大名や旗本や御家人は将軍に対して、陪臣はそれぞれの主君に対して、死者による穢れを及ぼしてはならない。穢れを上に届かせない、という縦のラインで組み上げられている。だから諸藩もそのまま、あるいは一部を変えて施行した。服忌令は喪の作法であると同時に、封建的な身分秩序を維持する仕組みでもあった。

親族は尊卑と親疎によって六段階に区分され、この六段階に入る者が「親類」と定義された。誰が親戚で誰が他人かを、国が喪の日数で線引きしていたわけだ。

父母は五十日、夫は三十日、妻は二十日

で、その日数だ。

服忌令には二本の物差しがある。「忌」と「服」。忌は死の穢れがある期間で、謹慎して神事から遠ざかる。服は哀悼の意を表して喪服を着け、慎ましく暮らす期間。忌のほうが短くて厳しく、服のほうが長くて緩い。今でいう忌中と喪中に対応する。

もっとも重いのが父母で、忌が五十日、服が十三か月。実の父母だけでなく、離縁した父母、遺産相続や分地配当があった養父母、嫡孫が家を継いだ場合の祖父母も同じ扱いだ。

その次が忌三十日、服百五十日の層。遺産相続のなかった養父母、夫の父母、父方の祖父母がここに入る。

さらに下が忌二十日、服九十日の層。嫡子、養子、母方の祖父母、父方の曾祖父母、父方の伯叔父姑、兄弟姉妹、承祖しなかった嫡孫。

忌十日、服三十日の層には、嫡母、継父母、末子、遺産相続をしない養子、異父兄弟姉妹、母方の伯叔父姑、父方の高祖父母。

一番軽い層が忌三日、服七日。末孫、息子方の曾孫と玄孫、従兄弟姉妹、甥姪。甥や姪の死で三日。従兄弟の死で三日。

さて、夫婦だ。

夫を亡くした妻は、忌三十日、服十三か月。

妻を亡くした夫は、忌二十日、服九十日。

これが、この記事で一番言いたかったところだ。同じ夫婦の死別なのに、日数が違う。妻は夫のために一年以上喪に服し、夫は妻のために三か月で済む。忌にしても、三十日と二十日で十日の差がある。

しかも父母は五十日で、夫は三十日だ。つまり「妻から見て夫の死」は「子から見て親の死」より軽い扱いになっている。妻の死に至っては、兄弟姉妹の死や母方の祖父母の死と同じ層に置かれている。自分の妻が死んだ悲しみは、いとこのおじさんが死んだ悲しみの、だいたい七倍くらい、という計算だ。国がそう決めた。

念のため書いておくが、これを「昔の日本は情が深かった」みたいな話に回収してはいけない。この表が測っていたのは悲しみの深さではない。家という単位のなかでの序列だ。血筋を継ぐ者ほど重く、外から入ってきた者ほど軽い。父方は重く、母方は軽い。夫は重く、妻は軽い。嫡子は重く、末子は軽い。家父長制の設計図を、そのまま日数に翻訳したものが服忌令の一覧表なんだよな。

実際、この法令は親族の互助義務とセットで運用されていた。六段階に入る者は互いに助け合うべきものとされていた。誰と助け合うべきかを、喪の日数で定義したわけだ。悲しむ日数の表は、そのまま家族の権力構造の表だった。

だから、あの一覧表を見て「細かくて面白い」で止めるのはもったいないし、危うい。あれは、誰の死をどれだけ重く扱ってよいかを国が指定した表だ。妻の死を軽く数える制度のもとで暮らすということが、どういうことか。今の感覚で読めば読むほど、玄関の白い紙よりよほど背筋が寒くなる。

明治七年十月十七日、国は「武家の制でいく」と布告した

ここで多くの人が意外に思うところ。この日数表、明治になってちゃんと廃止された、と思うだろう。逆だ。明治政府は、わざわざ整理して統一した。

明治維新後、服忌については二つの制度が並立していた。公家は律令以来の「京家の制」を使い、武家は江戸幕府の服忌令を使っていた。同じ国のなかに二つの物差しがある状態だ。

明治七年十月十七日、太政官布告第百八号が出る。文面はごく短い。服忌の件については追って改めて仰せ出されることもあるだろうが、さしあたり京家の制と武家の制の両様になっているのは法律上不都合があるので、今から京家の制を廃止する、という趣旨だ。

法律上不都合。この一言が実に明治らしい。近代国家をつくるにあたって、喪の日数が地域や身分で二本立てなのは事務処理上まずい、という話なんだよな。穢れがどうこうという議論はしていない。制度としての整合性の話をしている。そして統一先に選ばれたのが、公家の伝統ではなく、綱吉と吉宗が固めた武家の服忌令のほうだった。

翌明治八年一月には、京都府が「では実務ではどの本を使えばいいのか」と太政官に伺いを立てている。回答は、元文年間に改正された服忌令の冊子を用いよ、という内容だった。近代の官庁が、江戸中期の法令集を実務マニュアルとして使い続けたわけだ。

これによって、父母五十日、夫三十日、妻二十日という数字が、明治政府の公式基準になった。官吏に適用され、戦前まで通例として生きた。

法的な効力が崩れるのは民法の制定によってだ。親族の定義と範囲が近代法で規定されたことで、親族関係と服喪期間を結びつけていた服忌令の枠組みは意味を失い、法律としては有名無実化していった。それでも制度としては残り続け、皇室については明治四十二年に皇室服喪令が定められ、これが正式に廃止されたのは昭和二十二年五月二日。戦後の法体系の整理のなかで、ようやく喪の日数を定めた法令が姿を消した。

言い換えると、日本が法律で「あなたは何日悲しむべきか」を決めるのをやめたのは、まだ八十年も経っていない。玄関の白い紙は、その法律の最後の可視化された端っこだったわけだ。

忌と喪はまったくの別物だという話

ここを混同している人が本当に多い。自分も長いこと混同していた。

忌中と喪中は、期間が違うだけの同じものではない。目的からして違う。

忌は、死の穢れがある期間だ。だから神社に行かない、神棚を封じる、祝い事を避ける。故人の霊を鎮めることに専念する期間で、本来は外部との接触を断つ。仏式なら四十九日法要で明ける。神道なら五十日祭で明ける。

服、つまり喪中は、忌が明けたあとの期間だ。穢れは去っている。ただ故人を偲んで、派手なことは慎む。神社に参ってもいい。神棚も普通に拝んでいい。目安は一年祭、つまり一周忌まで。

神社本庁の説明もこの線ではっきりしている。地域に慣例があるならそれに従う。特になければ、五十日祭までが忌、一年祭までが服。忌の五十日を過ぎれば、原則として神社の参拝も家の神棚のおまつりも再開して差し支えない、と。

忌明けには清祓の儀を行い、神棚に貼った白紙を外す。神職に忌明け祓いを頼むのが正式とされる。これ以上の不幸が重ならないように、家内が安全でありますように、という区切りの儀式だ。地域によっては、忌が明けたあとに氏神様へお参りに行くことを「晴れ参り」と呼んだ。晴れ、という言葉がいい。ずっと曇っていたものが、ようやく晴れる。

仏教のほうの四十九日は理屈が違う。人が死んでから四十九日間、魂はまだこの世を彷徨っていて、極楽へ行けるかどうかの審判が続いている。だから遺族は七日ごとに法要を営み、故人が無事に成仏できるように祈る。四十九日法要で魂は住み慣れた家を離れて旅立つ。忌中が終わり、遺族は日常に戻る。

穢れが晴れるのが五十日で、魂が出発するのが四十九日。まったく別の理屈なのに、日本の家庭ではこれが混ざったまま運用されている。葬儀は仏式でやって、神社参拝は神道の忌に従って控える。神仏習合の国の、いかにも実務的な折衷だ。

なお、浄土真宗は死を穢れとみなさない。亡くなった人はただちに仏になる、という立場だから、そもそも忌の期間が存在しない。だから玄関に貼る紙も「忌中」ではなく「還浄」と書く地域がある。浄土へ還った、という意味だ。同じ玄関の同じ位置に貼られる同じ大きさの紙なのに、書いてある二文字で世界観がまるごと入れ替わる。キリスト教にも忌中や喪中の概念はないので、札そのものを掲げない。

鳥居をくぐるな、の本当の意味

忌中の禁忌でいちばん有名なのが、神社に行くなというやつだ。そしていちばん誤解されている。

よく「鳥居をくぐらなければいい」という抜け道が語られる。鳥居の脇から入る、裏参道から入る。これは完全に間違いだ、と神社側ははっきり言っている。鳥居や注連縄は神域と人の世を分ける結界であって、問題は結界を越えることであって、くぐる動作ではない。境内に入らないこと。それが本来の意味だ。脇から入っても神域に入っていることに変わりはないから、神様に失礼にあたる。

そして、この禁忌は追い出しではない。忌中とは、自分のほうから距離を保つ期間だという説明のされ方をする。穢れといっても道徳的な汚れではなく、気枯れ、つまり生命の力が失われた状態を指す。大切な人を亡くした人間は、気が枯れている。その状態で聖域に踏み込むのは礼を失する。神様に来るなと言われているのではなく、気力が戻るまで待ちましょう、という話だ。

とはいえ現場はもっと柔軟で、祖父母クラスだと「五日から十日程度、神社として強要するものではない」と言う神職もいる。七五三やお宮参りが忌中と重なった場合、鳥居の外でまず祓いを受けてから境内に入る対応を取る神社もある。仏教は死を穢れと考えないから、寺で祈祷を受けるという逃げ道もある。

面白い話がひとつある。ある神社の記事に、知人が参拝しようとした直前に訃報が入って参拝を取りやめた、という例が載っていた。その人は後に「縁起が悪いから、あの神社にはもう行っていない」と語ったという。だが神道的に見ればこれは真逆で、結界が穢れの侵入を自然に防いだ、極めて正常な働きだった、と書かれていた。この読み替えの鮮やかさよ。同じ出来事が、立つ位置ひとつで「祟り」にも「守り」にもなる。

地域で全然ちがう――四十九日まで貼る家、火葬の日に剥がす家

忌中札の話に戻る。この慣習、全国一律ではまったくない。

掲示期間からして地域差が大きい。教科書的には四十九日まで。だが初七日で外す地域があり、火葬が済んだら外す地域があり、通夜と葬儀が終わったその日のうちに剥がす家もある。

貼るかどうかも地域次第だ。首都圏ではほぼ絶滅した。住宅事情から、亡くなってから一度も自宅に戻らずに斎場へ直行するケースも増えている。戻ってこない家の玄関に忌中と貼っても意味がない。一方で、住民の結びつきが強い地方では今も当たり前に貼る。沖縄の地方では今もよく見かけると、供養の業者が書いている。九州の葬儀社は「最近見かけなくなったと思いませんか」という書き出しでブログを書いていた。同じ国のなかで、絶滅した地域と現役の地域が並存している。

札の文言もひとつではない。すでに書いた浄土真宗系の「還浄」がある。単に「忌」の一文字だけを書く地域もある。忌中札とは別に、通夜と葬儀の案内を書いた訃報紙を貼る風習を持つ地域もある。

貼る以外の方法もあった。地域によっては、家の入り口を竹で塞いだ。縄を張った。これは札より露骨だ。紙で告知するのではなく、物理的に通行を遮る。忌中札の本質が何だったのか、この竹と縄を見ると一発でわかる。あれは告知板ではなく、封鎖の標識だったんだよな。

剥がすのは誰か、という点にも土地ごとの決まりがある。忌明けの行事として取り除き、地方によっては神主に頼んで祓い清めてもらう。紙を剥がす作業そのものが儀式になっている。裏返した簾を元に戻し、神棚の白紙を外し、玄関の札を取る。この三つが揃って、ようやく家が日常に戻る。

聞き書き、三つ

剥がされない札

これは知り合いの、そのまた知り合いから回ってきた話だ。

北関東の、駅から車で二十分ほどの住宅地。角地に古い平屋があって、その玄関に忌中の札が貼られたのは、ある年の梅雨どきだったという。近所の人は「あの家のおばあちゃんが亡くなったんだな」と思った。実際そうだった。通夜も葬儀も、地元の斎場でつつがなく行われた。

問題はそのあとだ。札が剥がされなかった。

四十九日を過ぎても貼ってある。半年経っても貼ってある。雨で墨がにじみ、黒枠が溶けて、半紙が波打って灰色になっていく。それでも貼ってある。誰かが剥がしに来る様子もない。息子夫婦は遠方に住んでいて、家は空き家になっていた。近所の人は、あの家の前を通るたびにその紙を見た。見るたびに、少しずつ薄くなっていく二文字を確認してしまう。

一年ほど経ったころ、その一帯を担当していた新聞屋が言い出した。あの家のポストに新聞を入れると、翌朝にはなくなっている、と。契約は葬儀の直後に止めたはずなのに、なぜか配達員は毎朝入れてしまう。順路のなかで、あの家だけ手が勝手に動く。何度確認しても、配達リストからは消えているのに。

じゃあ剥がしてしまえばいい、と言い出した者がいた。もっともだ。もっともなのに、誰も剥がしに行かなかった。他人の家の忌中札を勝手に剥がす。文字にするとただの片付けなのに、いざやろうとすると手が止まる。あれは「まだ忌が明けていません」という宣言であって、それを他人が取り去るというのは、要するに他人の家の忌を勝手に明けさせる行為だ。そんな権限、誰にもない。

結局その札は、家が取り壊されるまで貼られたままだったという。壊す日、業者が真っ先に剥がした。何も起きなかった。ただ、話をしてくれた人は最後にこう言った。あの一年、あの通りだけ夕方が早かった気がする、と。

泊まっていった人

もうひとつ、東北の農村部で聞いた話。

昔は葬式を家でやった。近所の人が総出で手伝い、台所は別の家を借りて、男衆は棺を担ぎ、女衆は握り飯を作る。人の出入りが猛烈に多い。誰が誰の親戚なのか、途中から誰も把握できなくなる。

ある家の通夜の晩、線香番をしていた親戚の男が、深夜二時ごろに座敷を見回した。数を数える癖があったらしい。壁際に座って舟をこいでいる人が、記憶より一人多い。

数え直した。やっぱり一人多い。喪服を着た年配の男で、こちらに背を向けて、遺影のほうを向いて正座している。誰だろうと思ったが、通夜の晩に見知らぬ弔問客がいるのは珍しくない。声をかけるのも野暮だ、と思ってそのままにした。

朝になったら、その人はいなかった。誰に聞いても、そんな人は知らないと言う。喪主も知らない。近所の世話役も知らない。

その世話役の婆さんが、話を聞いてこう言ったそうだ。この辺じゃ「忌をもらいに来る」というのがあってな、と。よその家の忌に紛れ込んで、自分のところの忌を軽くしてもらう。そういうものが来ることがある。だから昔は玄関に札を貼って、ここは忌中だとはっきり書いておいたんだ、と。

それだと逆じゃないか、と男は言った。書いておいたら、かえって寄ってくるだろう。

婆さんは笑った。書いておかないと、ここが忌中の家だと知らないまま入ってきて、うっかり居ついてしまう。看板は追い返すためじゃない、間違って入られないためのものだ、と。

この理屈、本気で考えると相当おそろしい。あの札は人間に向けて出されていたとは限らない、という話になる。

貼る夢

三つめは、活字になっているものを紹介したい。

実話怪談の書き手である若本衣織の作品集に「忌中札」という一篇がある。あらすじだけ触れると、自分の家の玄関に忌中札を貼る、という奇妙な夢の話だ。夢のなかで、貼る。それだけの行為なのに、夢は意外な結末につながっていく。読んだ人が「悪夢に取り残された話」と評していて、その表現がやけに残る。

この話が刺さるのは、忌中札という道具の性質を突いているからだと思う。あれは、内側にいる人間が自分の手で外に向かって貼るものだ。誰かが貼りに来るのではない。家の者が、家の者の死を、自分の手で紙に書いて、自分の家の玄関に貼る。他人の死を告知しているようでいて、実際には自分たちの状態を自分たちで宣言している。

だから夢のなかで自分がそれを貼っているという構図が、ぞっとするほどうまい。誰の忌なのか。この家で、これから誰が死ぬのか。貼っている自分は、何を知っていて貼っているのか。

息を止めろ、親指を隠せ

冒頭に書いた、忌中の家の前では息を止めろ、という言い伝え。これ、地域差はあるが日本各地で似た形が採集されている。息を止める、走って通り過ぎる、振り返らない、その家の水を飲まない。柳田が集めた別火や火負けの信仰と一直線につながっている。穢れは呼吸で入る、飲食で入る、火で入る。だから止める、避ける、分ける。

近縁の俗信でいちばん有名なのが、霊柩車を見たら親指を隠せ、だろう。今では「親を守るため」と説明されることが多いが、民俗学の調査ではこれは後付けだとされている。もともとは、親指の爪のあいだから魂魄が出入りするという観念があった。江戸期の随筆である松屋筆記に、畏れるべきことがあれば親指を握り隠す、と書かれている。小山田与清の記述だ。

つまり親指は、邪悪なものが体に入ってくる侵入口だと考えられていた。だから隠す。霊柩車に限った話ではなく、疫病、夜道、狐、猛犬、烏、要するに何か怖いものや不安な状況に出くわしたときに全国で行われていた仕草だった。大正期に霊柩自動車が登場して都市で見かける機会が増えたから、「霊柩車に出合ったら」という言い方が生まれたに過ぎない。それ以前は「葬列に出合ったら」だった。そこに「親」の字が入っているせいで、親のためにやる呪いだと解釈が書き換わっていった。学校教育を通じて「親指」という呼び名が全国に広まったことも影響しているらしい。

面白いのは、まったく逆の俗信もあることだ。霊柩車を見ると縁起がいい、その日一日いいことがある、勝運に恵まれる、という言い伝えが各地にある。あの世との調和的なつながりから来ているという解釈もある。同じ現象に対して、避けるべき穢れという読みと、あやかるべき力という読みが、同じ国に並んで存在している。

忌中札に息を止めて通り過ぎることも、たぶん同じ地層にある。息を止める人間は、あの紙が単なる告知だとは思っていない。あそこから何かが出てくると思っている。

忌中札が消えた本当の理由は、防犯だった

ここが個人的にいちばん呆れた、というか、感心したところだ。

千年以上かけて積み上がった穢れの観念が、令和の玄関から消えた最大の理由は、信仰の衰退ではない。空き巣なんだよな。

考えてみれば当たり前だ。忌中札を貼るということは、この家では近日中に通夜と葬儀があります、と宣言することだ。地域によっては日時と場所まで書き添える。裏を返せば、何月何日の何時から何時まで、この家には誰もいません、と告知していることになる。

しかもその家には現金がある。香典だ。通夜で受け取った香典が、告別式のあいだ家に置かれていることがある。葬儀費用として現金を用意している家もある。泥棒からすれば、留守の日時と現金の所在が同時にわかる、これ以上ないほど親切な看板だ。

実際に事件になっている。京都府警が捜査を終えた常習累犯窃盗の事件では、平成二十三年から数年にわたって十二都府県で計四十五件、被害額はおよそ四千六百万円相当。このうち約二十件が、地元紙のお悔やみ欄を確認したうえで葬儀中の留守を狙った犯行だった。有名人の自宅が、亡くなった翌日に何者かに侵入された事例も報じられている。この手口には、おくやみ泥棒という呼び名まで付いた。近年では、葬儀会社の社員が葬送供養で留守になった民家に侵入して逮捕された事件もある。

情報源は忌中札だけではない。新聞のお悔やみ欄、地域情報誌、回覧板、町内の掲示板。訃報を共有する仕組みそのものが、そっくりそのまま留守の情報になってしまう。だから防犯の観点からは、自宅が無人になる時間帯に札を貼らないほうがいい、という指導が普通にされるようになった。貴重品は斎場に持ち込み、留守番を頼む。地域によっては隣組が留守居を引き受ける。留守居係の仕事には、弔問客への式場案内、香典や弔電の預かり、電話応対、中陰壇の設置と管理までが含まれる。

さらに、もう少し世知辛い理由もある。札を長く貼っておくと、墓地、墓石、返礼品、遺品整理といった業者からの営業が続く、という話だ。あの白い紙は、業者にとっては見込み客のサインでもある。穢れを告げる呪符が、営業リストの入口になっている。

理由を並べると、近所付き合いの希薄化、携帯電話やメールや交流サイトによる連絡手段の発達、家族葬の普及で近隣に知らせない選択が増えたこと、自宅ではなく斎場で葬儀を行うようになったこと、そして防犯。どれも信仰の話ではない。生活様式の変化だけで、千年の慣習が玄関から剥がされた。

ネットは何を言っているか

この話題、ネット上ではだいたい三つの反応に割れる。

ひとつめは、懐かしさ系。昭和の住宅街ではよく見た、通学路で怖かった、婆さんに息を止めろと言われた、という体験の共有。この層がいちばん厚い。四十代以上には見た記憶がある人が多く、二十代以下にはほぼ通じない。断絶の線が意外なほどはっきりしている。

ふたつめは、制度史への驚き系。服忌令の日数表が画像で回ってくるたびに、妻と夫で日数が違うことに反応が集まる。ここは健全な反応だと思う。ただ、「昔の日本はひどい」で止まるパターンも多くて、もったいない。あれは日本固有の悪意というより、中国の五服制度を下敷きにした家父長制の運用ルールで、東アジアに広く似た構造がある。日本の独自性はむしろ、そこに穢れの日数計算を接ぎ木したところだ。

みっつめが、いわゆる考察界隈。ここでよく見る説を検証しておきたい。

まず、忌中札は「疫病で死んだ家を隔離するための保健所的な仕組みだった」という説。魅力的だが根拠は薄い。忌中札の作法は死因を区別しない。老衰でも事故でも同じ二文字を貼る。伝染病対策なら死因で扱いを変えるはずだ。ただ、まったくの的外れでもない。柳田が記録した別火の徹底ぶりを見ると、結果として感染症の抑制に働いた場面はあっただろう。意図と効果を分けて考えるのが公平なところだと思う。

もうひとつ、「四十九日という期間は仏教が決めた」という説明。半分正しくて半分違う。四十九日の中陰の観念は仏教のもので間違いない。だが忌中の五十日は神道の五十日祭に対応していて、こちらは服忌令の父母五十日と地続きだ。そしてその五十日の出どころは、延喜式の死穢三十日ではなく、律令以来の服喪規定と武家の慣習の折衷にある。四十九と五十が一日違いで並んでいるのは偶然に近い。複数の系統の数字が、たまたま隣り合ったまま同居しているだけだ。

三つめ、「喪中は一年」という常識にも異論がある。ある神社は自社の解説で、戦後の混乱期に「喪が明けるのは一年経ってから」という俗説がまかり通るようになった、喪中につきというハガキはこの俗説によるもので根拠がない、とはっきり書いている。制度としての服は父母で十三か月だったのだから一年説にも根拠はあるのだが、それを親等に関係なく全部に適用して一年としているのは確かに雑だ。忌は最長五十日で十分であり、その後は故人を祖霊として祀る心構えのほうが大事だ、という主張には説得力がある。

考察として個人的に一番腑に落ちたのは、忌中札は「告知」ではなく「境界の宣言」だった、という読みだ。竹で入り口を塞ぐ、縄を張る、簾を裏返す。この系譜に並べたとき、紙に二文字書いて貼るという行為が、結界を張る作業の簡略版であることがはっきりする。神棚に貼る白紙と、玄関に貼る白紙は、方向が違うだけで同じ道具だ。神棚のほうは内側の聖域を守るために貼り、玄関のほうは外の世界を守るために貼る。家という容器の内と外に、白い紙で二重の蓋をしていた。

忌引き休暇という、生きている化石

服忌令は法律としては消えた。だが日数の表は消えていない。姿を変えて、今もあなたの職場の就業規則のなかにいる。

国家公務員の場合、人事院規則十五の十四の別表に、忌引の日数が親族ごとに定められている。配偶者は七日。父母も七日。子は五日。祖父母は三日で、ただし職員が代襲相続し、かつ祭具等の承継を受ける場合は七日。孫は一日。兄弟姉妹は三日。おじまたはおばは一日で、代襲相続かつ祭具承継の場合は七日。父母の配偶者または配偶者の父母は三日、ただし職員と生計を一にしていた場合は七日。子の配偶者または配偶者の子は一日、生計を一にしていた場合は五日。祖父母や兄弟姉妹の配偶者はおおむね一日で、生計を一にしていた場合に三日。

読んでいて既視感がないだろうか。父方と母方、実と義、生計を一にしていたかどうか、家を継いだかどうか。区分の切り口が、元文の改定服忌令とそっくりなんだよな。

もちろん現代の規則は男女で差をつけていない。配偶者は夫でも妻でも七日だ。ここは戦後の家族法とともにきちんと直された。地方公務員は自治体ごとの条例と規則によるので、東京都職員のように配偶者十日と国より手厚いところもある。

それでも、祭具等の承継を受ける場合には日数が増える、という条文が現役で動いているのは相当なものだ。祭具の承継。仏壇と位牌と墓を誰が引き継ぐか。それによって休める日数が変わる。家を継ぐ者の忌は重い、という服忌令の思想が、条文の形をとって令和の役所に生きている。

そして忌引は連続した日数で数える。途中に土日祝が入っても、原則としてその日数に含まれる。散らして取ることはできない。この「連続していなければならない」という縛りも、実は忌の思想そのものだ。忌は日数を積み上げるものではなく、状態が続く期間だからだ。穢れは分割払いできない。

喪中はがきという、比較的新しい風習

もうひとつ、現代に残った忌の痕跡が喪中はがきだ。

これ、意外なほど新しい。年賀状という習慣自体が、明治の郵便制度の確立と葉書の発行によって一般に広まったものだ。それ以前の年始の挨拶は訪問や書状だった。喪中はがきが広まったのも明治期で、皇室の大喪の際に官吏などが年賀を欠礼する旨を出したのが始まりとされている。つまり、上から下へ広まった作法だ。

作法もそれなりに固い。前文は省略し、誰がいつ何歳で亡くなったかを書き、近況報告は書かない。文字は薄墨、十一月から十二月上旬に届くように出す。範囲は二親等までが慣習とされるが明確な決まりはない。連名で出す場合、故人の続柄は夫から見て書く。妻の実父なら義父になる。この一点にも、家を単位とする発想がまだ残っている。

そして前に触れた通り、「一年間は喪中」という前提には根拠が薄いという批判がある。忌が明けたなら初詣に行ってもいいし年賀状を出してもいい、という立場の神社もある。年末に喪中はがきを刷りながら、自分が何の期間を守っているのかを説明できる人は、たぶんそんなに多くない。制度が消えて作法だけが残ると、こういうことになる。

なぜ、あの紙は怖かったのか

ここまで書いてきて、子どもの頃に感じたあの怖さの正体が、だいたい見えてきた。

第一に、あの札は人ではなく場所に貼られている。普通の禁止表示は行為を止める。立入禁止、駐車禁止、火気厳禁。だが忌中札は行為を禁じていない。ただ状態を告げている。この家は今こういう状態です、と。何をしてはいけないかは書いていないのに、見た者は勝手に自分の行動を制限する。命令していないのに従わせる表示は、命令する表示より不気味だ。

第二に、期限が書いていない。四十九日までなのか、初七日までなのか、火葬までなのか、通行人には判断できない。いつ終わるかわからない状態表示が、目の前の家に貼られている。剥がされない札の話が怖いのは、この構造をむき出しにするからだ。しかも二文字しか情報がない。誰が死んだかも、いつ死んだかも書いていない。情報が足りないところを、見た人間が想像で埋める。子どもの想像力にとって、これほど都合のいい空白はない。

第三に、あれは内側の人間が自分で書いて自分で貼ったものだ。役所が来て貼るのでも、寺が来て貼るのでもない。家族が、自分の家の死を、自分の手で墨で書いて、通りに向けて掲げる。この自己申告の性質が、独特の生々しさを生む。

第四に、そして最大の理由。あの紙の後ろには、実際に千年分の制度がある。延喜式の触穢の条文があり、綱吉の服忌令があり、明治七年の太政官布告があり、人事院規則の別表がある。日数を数え、続柄で重さを変え、伝染の範囲を定義した文書の山が、あの半紙一枚の裏に積み上がっている。子どもは条文を知らない。だが、その場に流れている「これは決まりごとだ」という空気は正確に読み取る。決まりごとの背後には必ず、それを破ったときに何かが起きるという前提があるからだ。

なぜ今も残っているのか、という問いにも同じところから答えが出る。理屈が消えても、形式は残る。神棚に白紙を貼る意味を説明できなくても、貼らないと落ち着かない。喪中はがきの根拠を知らなくても、出さないと気持ち悪い。忌引の日数が誰の思想で決まったか知らなくても、規定通りに休む。

そして玄関の札だけが、防犯という現実的な理由で消えた。信仰が薄れたから消えたのではない。泥棒が来るから消えた。千年の呪符を剥がしたのは、神でも仏でも近代合理主義でもなく、空き巣だった。この身も蓋もなさこそが、いちばん現代的で、いちばん怖い結末だと思う。

白い紙一枚は、国が死を数えていたことの縮図だった

改めて整理し直すと、この一枚の紙の周りで起きていたことは、日本という国が死をどう管理しようとしたかの縮図になっている。

出発点は、死が個人の出来事ではなかったことだ。近代以前の共同体において、誰かが死ぬというのは、その家の私事ではなく村全体の状態変化だった。死んだ家では火を分け、食事を分け、母屋を使わず、裏口から出入りする。近隣は別火家や精進宿に集まって煮炊きし、喪家には目録だけを渡す。甲州の南巨摩郡では、縁のない者まで村香典を一戸いくらと決めて出した。死は、村の会計と労働配分を動かす事件だった。だから玄関に表示が要る。あれは家族の悲しみを伝える札ではなく、共同体に対する業務連絡でもあった。忌中札が告知板に変質したと説明されるとき、変質したというより、もともと持っていた二つの機能のうち呪術的なほうが先に落ちた、と言うほうが正確だと思う。

次に、制度が観念を作った順序を見落とさないでおきたい。穢の観念は律令本体ではなく施行細則である式から出てきた、と平安の貴族自身が書き残していた。つまり、死は汚いという感情が先にあって法になったのではなく、九世紀半ばの役所が定義した分類が、その後の人々の感じ方を規定していった。この順序は、服忌令でも繰り返されている。綱吉と吉宗が固めた続柄別の日数表は、当時の人々の悲しみの実態を測って作られたものではない。武家社会の身分秩序を、喪という形式に投影したものだ。父方は重く母方は軽い、家を継ぐ者は重く継がない者は軽い、夫は重く妻は軽い。そう定義された表を数世代にわたって運用すれば、人はその通りに感じるようになる。感情が制度を作ったのではなく、制度が感情の相場を作った。これは過去の話として片づけられない。忌引の日数が親族ごとに違うという現在の規定も、無自覚に「この人の死はこの程度の悲しみ」という相場を提示し続けている。

そのうえで、明治七年の布告の冷たさを改めて味わっておきたい。京家の制と武家の制が両立しているのは法律上不都合がある、だから京家の制を廃する。喪の日数を統一する理由が、穢れでも孝でも礼でもなく事務の不都合だ。近代国家は宗教的な観念に対してこういう態度を取る。中身を否定するのではなく、様式を一本化して管理可能にする。そして統一先に選ばれたのは、より古い公家の伝統ではなく、実務的に整備されていた武家の法だった。伝統は古さではなく運用のしやすさで選別される。翌年に京都府が実務用の冊子を問い合わせ、元文年間の改正版を使えと回答されている事実が、それをよく表している。断絶したように見える近代化が、末端の事務ではべったり地続きだったわけだ。

伝染のモデルについても、もう一歩踏み込んでおきたい。甲乙丙丁の規定は迷信の細則ではなく、社会的接触の責任配分の設計だ。自分の意思で接触しにいった者と、来られてしまった者とで巻き込まれる範囲が変わる。これを居所礼という考えで説明していたことを思うと、あれは穢れの物理法則ではなく行為の帰責の法だったとわかる。感染ではなく、関与の程度を数えている。だから丁で止まる。無限に伝染するモデルでは社会が回らなくなるから、三次接触を境界にした。合理的な線引きなんだよな。千年後に我々が濃厚接触者の定義でやったことと、発想も苦労も驚くほど似ている。

そして現代への接続。この慣習が消えた過程には、信じるか信じないかという次元の話がほとんど関与していない。人は穢れを信じなくなったから札を剥がしたのではなく、貼る意味がなくなり、貼る危険が上回ったから剥がした。慣習というのはたいてい、そうやって終わる。誰も否定しないまま、必要がなくなって静かに消える。

それでも残っているものがある。神棚に白い紙を貼る手つき。忌明けまで神社を避ける躊躇。喪中はがきを刷る年末の面倒くささ。忌引で休んだ日数を数える職場の事務。そして、玄関に貼られた白い二文字を見たときに反射的に足が速くなるあの感覚。制度は消えても身体の作法は残るし、身体の作法が残っているかぎり、それを説明する物語は何度でも再生産される。息を止めて通れ、と言った近所の婆さんも、たぶん理由は知らなかった。知らないまま、正確に伝えていた。

最後にひとつだけ。この記事を書きながら、いちばん長く手が止まったのは怪談のところではなく、夫三十日と妻二十日を並べた段落だった。この十日の差は、実在した文書の実在した数字だ。誰かの妻が死んだとき、その夫は二十日で日常に戻ってよいと国が定めていた。逆に夫が死んだとき、妻は十三か月喪服を着ていることを求められた。数字にすると呆気ないが、これは何万という家庭で実際に運用された基準だ。今の目で見れば正当化しようのない差別で、そこを曖昧にしたまま「日本の美しい伝統」として語り直すのは、たぶん一番やってはいけないことだと思う。制度が壊れたのは正しかった。壊れた制度の残骸として、玄関の白い紙や忌引の日数表を眺めるくらいが、ちょうどいい距離なんだろう。

あの二文字が怖かったのは、幽霊のせいじゃない。あそこに、人の死を数える国家の目線が貼ってあったからだ。

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