祖父の葬式の帰りだった。十二月の、風がやたら冷たい夕方。喪服のまま実家の門をくぐって、玄関の引き戸に手をかけようとしたら、内側から先に開いた。母が立っていた。葬式には出ていない。腰が悪くて留守番していたのだ。
母は俺の顔を見て、それから小さな袋を突き出した。手のひらに乗るくらいの、白い紙の袋。表に「清め塩」と印刷されている。
「入る前に」
それだけだった。俺は袋を受け取って、破いた。中の塩がぱらぱらとこぼれて、三和土に落ちた。母が背中に回って、指でつまんだ塩をぱっとかけた。喪服の肩に白い粒が乗る。それを手で払った。落ちた塩を踏んだ。ようやく家に上がれた。
その一連の動作、たぶん三十秒もない。子どもの頃から何度も見てきたし、何度もやってきた。誰も説明してくれなかったし、こっちも聞かなかった。そういうものだと思っていた。
でもあの日、靴を脱ぎながら、ふっと妙な感じがしたんだよな。
いま俺、家に入れてもらえなかったのでは、と。
玄関の前で、家族はあなたを止める
改めて考えると、あの場面はけっこうすごい。
まず、家に帰ってきているのに、家に入れない。玄関の外で止められる。止めるのは他人じゃない。家族だ。母だったり、妻だったり、留守番していた子どもだったりする。その人がわざわざ玄関を開けて外に出てきて、こちらが敷居をまたぐより先に手を出す。
そして塩をかける。かけられる側は、両手を軽く広げて棒立ちになる。背中は自分では届かないから、かけてもらうしかない。この「かけてもらう」が作法として正しいとされているのが、ちょっと引っかかるポイントなんだよな。
全日本冠婚葬祭互助協会が出している一般的な手順でも、家で留守番していた世話役や親族が、水を入れた桶と小皿に盛った塩を玄関先に用意しておく。帰ってきた人はまず両手に水をかけてもらい、それから肩や腕や足元に塩をかけてもらって家に入る。そう説明されている。
つまり本式は、水と塩がセットだ。桶が置いてある。柄杓がある。帰ってきた人間は、まず手を洗われ、それから塩を振られる。振るのは、葬式に行っていない人間。行っていない、つまり「まだ穢れていない」側の人間だ。
言い方を変えると、こうなる。家の中にいる清い側が、外から帰ってきた汚れた側を、玄関という境界線で足止めして、処理してから中に入れている。
これ、儀礼として見ると、検疫なんだよ。
そして検疫される側は「あなたはいま、そのままでは入れない状態です」と告げられている。告げているのは家族だ。悪気はゼロだ。むしろ善意しかない。それでもやっていることは、境界での選別なんだよな。
俺があの夕方に感じた妙な感じは、たぶんそれだった。
袋を破ると、白い粉と一緒に乾燥剤が出てくる
現代の清め塩は、たいてい会葬礼状に添えられている。受付で記帳して、香典を出して、返礼品の袋を受け取る。その中に、礼状と一緒に小さな紙包みが入っている。表に「清め塩」とか「お清め」とか印刷してある。
この袋、開けたことがある人はわかると思うけど、中身がわりと即物的だ。粗塩が数グラム。それと、湿気で固まらないようにシリカゲルの乾燥剤が一緒に入っていることが多い。だから袋の裏にはたいてい「非食品」と書いてある。食べるな、料理に使うな、ということだ。
聖なる清めの塩、みたいな顔をしているわりに、規格上は食品ですらない。
余ったらどうするか。葬儀社の案内はだいたい素っ気ない。生ごみとして捨ててくださいと書いてある。庭にまいてもいいし、水に流してもいい、とも。
ちなみに、もらえなかった場合は台所の食塩でいい、というのが各社の共通見解だ。海水から作った塩が望ましいとする説明もあるけれど、最終的には「大切なのは清めようとする気持ちです」で締められる。気持ちの問題なら塩じゃなくてもいいのでは、という話になりそうだが、そこは誰も突っ込まない。
胸、背中、足元。この順番にはちゃんと理屈がある
作法には順番がある。
まず手を洗う。桶の水がなければ省略されることが多いけど、本来はここから始まる。次に胸。ひとつまみの塩を、喪服の胸元にぱっとかける。次に背中。自分では届かないので、家族に回ってもらう。一人なら肩越しに投げるようにかける。最後に足元。ここまでやったら、体についた塩を手で軽く払い落とす。
なぜ胸、背中、足元なのか。定番の説明はこうだ。これは血の巡る順番なのだ、と。心臓から出た血が体を回っていく順に清めることで、邪気が血流と一緒に体の中へ入り込まないようにする。多摩中央葬祭をはじめ、複数の葬儀社が判で押したように同じ説明をしている。心臓から血が巡る順、というのが完全に定型句になっている。
医学的にどうかという話をしても仕方がない。押さえておきたいのは、この儀礼が「邪気は体の表面についていて、放っておくと内側に入る」という身体観の上に立っていることだ。穢れは付着物なのだ。だから払える。だから、順番が要る。
そして最後に、自分の足で踏む
一番不思議な工程がこれだ。
体から払い落とした塩は、地面に落ちる。その落ちた塩を、自分の足で踏んでから玄関に入る。これで完了。
意味としては、穢れを足元で断ち切る、と説明される。落ちた塩を踏むことで完全に邪気を断ち切ることができる、というわけだ。
大阪ではこの工程が独立した名前を持っていて、「踏み塩」と呼ばれる。体に振りかけるだけでなく、必ず踏んでから家に入る。足の裏にまで塩をつけることで邪気を完全に断つ、という理屈だ。かつては遺体の保存技術が未発達だったので、家に入る前に足の裏を消毒するという衛生上の配慮もあったのだ、という説明もついてくる。
いずれにせよ、この「踏む」で一連の動作は終わる。手を洗い、胸に振り、背中に振り、足元に振り、払い、踏む。所要三十秒。この三十秒のあいだ、あなたは家の外にいる。
話は黄泉の国から始まる
じゃあ、そもそもなぜ塩なのか。
大元は神話だ。神社本庁の説明が一番すっきりしている。古事記や日本書紀に、黄泉の国から戻ったイザナギノミコトが、自らの体についた黄泉の国の穢れを祓うため、海水で禊祓を行ったことが記されている。これが日本における「清める」の原点だとされる。
物語のあらすじはこうだ。イザナギは、死んだ妻イザナミを取り戻しに黄泉の国へ行く。約束を破って妻の姿を見てしまう。腐乱していた。逃げ帰る。追われる。ようやく地上に戻ったイザナギは、日向の橘の小門の阿波岐原というところで、体を洗う。水ではなく、海の水で。
この禊の最中に、たくさんの神が生まれる。祓われた穢れそのものからも神が生まれ、最後に左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれる。日本神話の中心にいる三柱が、死の穢れを洗い流す場面から出てくるわけだ。
ここがけっこう効いている。日本の神話では「清める」が創世のエンジンになっている。
だから塩の力は、殺菌とか防腐とかいう実用の話より前に、まず神話の話なのだ。海の水は死の国のにおいを落とせる。そう信じられていた。
海に入るのが本式で、塩はその代用品だった
ここが個人的に一番グッとくるところなんだけど、清め塩というのは、本来「海に入ること」の省略形なんだよな。
海水を浴びて身を清めることを、潮垢離という。塩垢離とも書く。垢離というのは、神仏に祈願するために心身を水で浄める行のことだ。川でやれば水垢離、海でやれば潮垢離、温泉でやれば湯垢離になる。
これは空想の風習じゃない。記録がある。建仁元年、西暦一二〇一年の『後鳥羽院熊野御幸記』に「此の宿所に於て塩垢離かく」という記述が出てくる。この記録をつけていたのは、あの藤原定家だ。後鳥羽院の熊野詣に随行した定家は、前日から体調が悪かったにもかかわらず、先達に強く言われて潮垢離を取らされている。日記に恨めしそうに書いている。八百年以上前の、実在する男の実際の記録だ。
熊野詣の道中では、この潮垢離が重要な儀式だった。和歌山県田辺市の「出立浜」と呼ばれる浜がその場所で、平安から鎌倉にかけての貴族の日記には「浴塩水」「塩水祓」「潮御浴御祓」といった表現が見える。田辺から先は山に入って海と離れる。だからここで最後に海に浸かる。地形が変わって元の浜は児童公園になってしまったが、二〇一八年に扇ヶ浜に潮垢離場が作られて、いまでも海水で垢離を体験できるようになっている。
つまり本来は、全身を海に沈めるのが清めだった。それが、海のない土地では無理だ。冬も無理だ。年寄りには無理だ。そこで、海水を煮詰めた結晶を体に振りかけることで代用するようになった。塩イコール海、という置き換えだ。
こう考えると、玄関先の三十秒はずいぶん縮んでいる。八百年前は海に飛び込んでいた。いまは指でつまんでぱっとやる。儀礼の圧縮率がすごい。
「穢」は九二七年の法律に、はっきり書いてある
ここからが本題かもしれない。
死が穢れである、というのを、なんとなくの気分の話だと思っている人が多い。違う。制度だ。条文がある。
『延喜式』という法令集がある。平安時代中期に編纂された、律令の施行細則だ。延長五年、西暦九二七年に完成した。この巻三、臨時祭の部分に、穢に関する規定がずらりと並んでいる。
なかでも有名なのが触穢応忌条だ。穢に触れたら何日間慎まなければならないかが、種類別に定められている。人の死は三十日。ただし葬儀の日から起算する。人の出産は七日。六畜、つまり牛馬羊犬鶏豚の死は五日。六畜の産は三日、ただし鶏は対象外。肉を食べたら三日。神祇官は常に肉食を忌み、他の役所も祭祀にあたるときは忌むこと。
読んでいるとだんだん笑えてくるのだが、これは笑い事ではない。公務員の服務規程なのだ。この期間、当該人物は神事に携われない。宮中に参内できない。仕事にならない。
さらにえげつないのが甲乙触穢条だ。穢れの伝染ルートが定義されている。
穢れの発生源を甲とする。乙が甲のところに入って着座した場合、乙だけでなく乙と同じ場所にいる人間も穢れとみなす。次に丙が乙のところに入った場合は、丙ただ一人が穢れで、丙の同居人は穢れない。ただし乙のほうが丙のところに入った場合は、丙の同居人も穢れとみなす。丁が丙のところに入っても、それはもう穢れではない。
甲乙丙丁の四段階で、感染力が減衰していく。しかも「着座」が感染条件だ。同じ場所に座ったかどうか。
これはもう完全に感染症のモデルだ。千百年前の日本の役所が、目に見えないものの伝播経路を条文化していた。
平安の役人は、穢れの伝染ルートを本気で計算していた
条文があるということは、運用があるということだ。そして運用があるということは、トラブルがあるということだ。
『小右記』という、藤原実資が書いた日記がある。天元五年、西暦九八二年の正月十七日条に、こんな話が記録されている。
右衛門府の厨町、つまり役所付属の炊事場のあるエリアで、死体が見つかった。発見は巳の刻、午前九時から十一時ごろ。ところがその前の辰の刻に、その厨町から役人の詰所へ食事が運ばれていて、詰所の役人はもう食べてしまっていた。
さあ、これは穢か。
奏上を受けた円融天皇の裁定がこうだ。穢は、初めて見た時に穢とするのである。詰所の食事は辰の刻に運ばれ、死体を見たのは巳の刻だ。だから、これは穢ではない飯とする。ただし厨町が穢に触れたことは明白なので、今後は厨の食事および行き来する人は詰所に参ってはならない。
見た瞬間から穢になる。見る前は穢じゃない。この、観測が事象を確定させるという発想、なかなかすごくないか。
そして二日後、また問題が起きる。穢だと判明した後の飯が別の場所へ運ばれ、そこで官人が食べて詰所に戻ってきた。穢が伝染した。天皇は担当者を叱責し、穢に触れた官人は詰所に参ってはならないと通達し、宮中の諸門に「神事に関わる者は参入してはならない」という札を立てさせている。千年前の宮中の門に、いまでいう立入禁止の貼り紙が出ていたわけだ。
そもそも穢れは、九世紀半ばに人工的に作られた
ここが、この話のなかで一番伝えたい部分かもしれない。
十二世紀のある貴族が、こう書き残している。「穢の事は律令に載らず、式より出ず」。穢のことは律令には書いていない、式から出たものだ、と。
つまり当時の知識人自身が、穢という概念は後から施行細則に書き込まれたものだと認識していた。
歴史学者の片岡耕平は、この一節を手がかりに、穢観念は九世紀半ばに式に規定されることで生まれた歴史的所産だと論じている。人間が出産や死に対して抱く普遍的な感情から自然発生したものではない。だから死や出産が穢とされたのも必然ではなく、選抜には理由があったはずだ、と。
この立場をとれば、穢は「日本人が昔から持っていた本能的な感覚」ではなくなる。九世紀半ばに、天皇と神々との関係を規定するための行動規範として、人工的に作り出された制度になる。
そして十一世紀半ばから十二世紀半ばにかけて、貴族たちが自発的に穢に触れにいくようになる。葬儀を取り仕切り、忌に籠り、追善供養をする。それが遺産分配や家の継承と結びついていく。さらに鎌倉後期から南北朝期にかけて、差別として固定化していく。
そして俺たちは、九世紀の宮廷が作った服務規程の残骸を、令和の玄関先で三十秒だけ再演している。
なぜ塩なのか。遺体を塩漬けにしていた記憶
神話の話とは別に、もっと身も蓋もない起源説がある。
浄土真宗本願寺派の正宣寺が公開している解説が、この点についてやたら容赦ない。要するにこうだ。塩鮭は塩辛いものほど長持ちすると、古い時代から人々は知っていた。この効果を用いたのが清め塩の原理である。死体を塩漬けにすれば腐敗を防げるという実利が、まじないとして残った。それが現代では、会葬者に向かって投げたり、小袋に入れて配ったりするようになった、と。
真宗コアの解説はもっと直截だ。本来は死体にふりかけるべき塩なのに、今日では葬儀の参列者に向けるものへと、清め塩のとらえ方が変わってしまった、と書いている。
これ、けっこう衝撃的な指摘だと思う。塩は本来、遺体にかけるものだった。それが、遺体と接触した生者にかけるものへスライドした。対象がずれた。
腐敗への恐怖。これが根っこにある。そして腐敗を止める唯一の技術が、塩だった。
明治三十八年から平成九年まで、塩は国のものだった
ついでにもう一つ、実在の制度の話をしておきたい。
日本では長いあいだ、塩は自由に売り買いできる商品ではなかった。塩専売法。明治三十八年法律第十一号、西暦一九〇五年の施行だ。第一条にこうある。政府は塩の専売権を有す。政府が許可した者でなければ製造できない。政府から売り渡された塩でなければ、所有も所持も譲渡も質入れも消費もできない。
戦後は日本専売公社が担い、この体制は九十年以上続いた。塩専売法が廃止されて塩事業法が施行されたのが平成九年、一九九七年四月一日。ようやく塩の取引が原則自由化された。財務省の資料に、明治三十八年以来九十年余り続いた塩専売制度は廃止された、とはっきり書いてある。
つまり、いま俺たちがスーパーで好きな粗塩を選んで買えるのは、平成九年以降の話だ。それ以前、清め塩に使われていた塩は、国が管理していた塩だった。
このことを踏まえると、玄関先の一つまみの意味が少し変わってくる。塩はずっと貴重品であり、統制品だった。それを葬式の帰りに何グラムか捨てるように振りかけるという行為は、いまの感覚よりずっと「もったいない」ことだったはずだ。
もったいないことをするからこそ、儀礼として効く。安いものを使ったら効かない。呪術というのはだいたいそういうものだ。
「私たちは清め塩を使いません」と書かれた紙
さて、ここからが裏側の話だ。
葬儀の会葬礼状に、こういう一枚が入っていることがある。タイトルは「私たちは清め塩を使いません」。
浄土真宗本願寺派の天真寺が紹介している実物の文面を、要点だけ追ってみる。魔を祓うためにお棺の上に刃物をのせたり、火葬場の行き帰りで道を変えたり、家に帰ればお清めと称して死の穢れを清めるために塩を撒くなど、葬儀の時には仏教の教えとは無縁のいろいろな迷信が行われる。それらは各地の習慣やしきたりとして何の疑問もなく行われているが、それが亡き人を限りなく貶めていく行為だと気が付いている人は少ないようだ、と。
そして核心の一文が続く。しかしこの塩でいったい何を清めようというのか。清めというからには、何かの穢れを除くという意味があるのだろう。そうだとすると、葬儀は穢れた行為であり、亡き人は穢れたものということになってしまう、と。
生前に父よ母よ、兄弟よ友よと呼び、親しんできた方を、亡くなった途端に穢れたものとして清めていくことは、なんとも無残であり、悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。
これが会葬礼状に入っている。つまり、葬式に来た人全員に配られている。
真宗大谷派、東本願寺の側もほぼ同じ主張をしている。真宗会館の問答では、もしそれが死の穢れを清めるという意味であれば、亡き人は穢れたものとなり、葬儀自体も穢れた行為となってしまう、と書く。大阪教区の「銀杏通信」はもっと強い言葉だ。生前親しくしてきた人を亡くなるやとたんに穢れたものとして扱い、自分は穢れのないもののように思ってお清めをするとは、何と身勝手な行為ではありませんか、と書いている。
さらに大谷派は、清め塩だけを問題にしているわけではない。守り刀、一膳飯、出棺の際に棺を三回まわすこと、故人が使っていた茶碗を割ること、火葬場の行き帰りの道を変えること、日本酒を「お清め」と称して飲むこと。これらをまとめて迷信として否定している。
浄土真宗では往生即成仏と考える。阿弥陀如来のはたらきによって、亡くなった人はただちに浄土に生まれて仏になる。だから死出の旅路の装束も要らないし、霊も認めない。中陰の供養をしなければ成仏できないという考えも取らない。穢れも祟りも排除する。この体系の中では、清め塩は単に不要というだけでなく、故人に対して失礼にあたる、ということになる。
この主張、賛成するかどうかは別として、筋は一本通っている。
門徒もの知らず、と笑われてきた人たち
浄土真宗の門徒は、昔から「門徒もの知らず」と揶揄されてきた。しきたりを知らない、常識がない、という嘲りだ。
ただ、これは本来「門徒もの忌み知らず」だったのだ、という説がある。もの忌みを知らない、つまり迷信や俗信にとらわれない生き方を指す言葉だったのが、途中で誤って伝わって「もの知らず」になったのだ、と。
真宗の側からすれば、これは悪口ではなく褒め言葉になる。日取りを気にしない。占いを気にしない。友引に葬式をやってもいい。茶碗を割らない。塩を使わない。
面白いのは、明治以前の浄土真宗はそもそも葬儀に塩を使っていなかったという証言が残っていることだ。ある宗教誌の記録によると、葬儀社の人間が真宗の僧侶に確認したところ、こう返ってきたという。浄土真宗は明治以前、葬儀に塩は使わなかった。それがその後の風潮で、門徒でありながらそうしたことを知らずに塩を使う人が増えたので、元の形に戻そうとする動きがある、と。
つまり真宗にとっての清め塩廃止は、新しい主張ではなく、復古なのだ。
二〇〇六年、京都府宮津市で起きたこと
ここで、実際に社会問題になった事例を一つ。
京都府宮津市が、清め塩をやめようという趣旨の啓発を行ったことがある。これが二〇〇六年、平成十八年四月二十九日付の産経新聞に報じられて、全国から批判を浴びた。
批判の中身は主に二点だった。行政は慣習に口を出すべきではない、というもの。そして、清め塩を否定するのは特定の宗教の教義に基づく行動であり、市のやり方は政教分離に反する、というもの。
清め塩を人権問題と結びつけて「差別」とする考え方は、主に浄土真宗や部落解放同盟に見られる思想である。だから特定宗教や政治団体の思想を市民に押し付けるものだ、と批判された。これが騒動の整理だ。
そして結果としては、産経新聞が問題提起をしたにもかかわらず、宮津市で清め塩の風習が復活することはなく、そのまま消滅した。
この結末が、なんともいえない。批判は起きた。理屈としては「行政がやるのはおかしい」で正しかったかもしれない。でも風習は戻らなかった。一度「これは差別かもしれない」と言葉にされてしまった作法は、もう元のように無邪気にはやれない。
同じような啓発は他の自治体でも行われている。福岡県小郡市の人権啓発資料には、清め塩をまくことについてどう思うかという設問があり、おかしいのでなくすべき、おかしいが仕方がない、おかしいとは思わない、という選択肢が並ぶ。資料本文は、根拠のないならわしやしきたりは人の心を惑わし正しく物事を判断する力を削いでしまう、それによって差別が温存・助長されてきたことも事実だ、と述べている。
行政文書に、玄関先の塩が載っている。これはもう、単なる家庭内の風習ではない。
土俵と塩の、地続きの話
その小郡市の資料が、清め塩の話から地続きで別の話題に移っているのが目を引く。
かつて大相撲の大阪場所で、当時の大阪府知事が自ら土俵に上がって優勝力士を表彰したいと表明したところ、日本相撲協会が「日本の伝統文化」を理由にこれを断ったという出来事があった。資料はこれを、清め塩と同じく「ケガレ」という考えが原因になっていると位置づける。
死、血、産。この三つが「三大不浄」として恐れられてきた。清め塩は、これらのケガレを祓うために生まれた。そして相撲の土俵も、古来の神事を発祥とする神聖な場所だから、血や産にかかわるとされた側は上がれない。
同じ根から、玄関の塩と土俵の線が伸びている、という整理だ。
この整理に納得するかどうかは人によって割れると思う。ただ、指摘そのものは無視できない。清め塩というのは「誰かを外に置く」ための技術でもあるからだ。玄関の外に置く。土俵の外に置く。動作としては同じだ。
そしてもう一つ、葬送に関わる職業への偏見という論点がある。近代以降の研究では、幕末から明治にかけて葬儀の商業化・分業化が進み、葬送業従事者への差別意識も基本的には減少に向かったとされる。一方で、零細業者や死体処理従事者への差別が集中し残存したことが課題として挙げられている。
死は穢れだという前提を口に出して確認する儀礼が生きているかぎり、死を扱う仕事の人はどうしても割を食う。いまでは葬儀社の人が真っ先に「うちは清め塩を配っていません」と言うようになったのは、たぶん偶然ではない。
一九九〇年代以降、葬儀社の袋から塩が消えた
流れとしては、こうだ。
まず浄土真宗が声を上げた。清め塩は仏教の教義に由来しない、廃止すべきだ、と。福岡の葬儀社の解説によれば、浄土真宗が最初に清め塩に反対して、その後ほかの宗派も賛同するようになったのがきっかけだ、という。
そこに、遺族側の実感が乗る。大切な家族の死が穢れである、と考えるのは、率直に言ってつらい。この感情は宗派を問わない。だから真宗以外の家でも「うちは塩はいいです」と言う人が増えた。
そして葬儀社が動いた。返礼品に塩を入れるのをやめる。会館の出口に置かない。希望する人にだけ渡す。実務的にも、非食品の小袋を人数分用意するのは手間だし、クレームの種にもなる。やめる理由のほうが多い。
いま、複数の葬儀社が同じことを書いている。福岡の葬儀社ははっきり、最近では葬儀屋さんも配ってはいない、どうしても必要な場合は言ってもらえれば準備しています、と書く。真宗の僧侶も、最近は清め塩を配布する葬儀社は少なくなってきた、と書いている。二〇一三年の時点で、鹿児島の真宗関係者が「最近では、お葬式にお参りしても、清め塩の小袋を見かけることもなくなりました」と書いている。
四十年前の会葬礼状にはほぼ確実に入っていたものが、いまはほぼ確実に入っていない。一世代で消えた。
ただし、完全には消えていない。地域によっては会場の出口に塩がまいてあって、踏んで出るようになっているところもある。家によっては、いまでも玄関に小皿と桶を用意する。母のように。
広島の西では、そもそも誰も出さない
地域差の話をしよう。ここがかなり面白い。
まず広島県。県西部、いわゆる安芸地方は「安芸門徒」と呼ばれる熱心な浄土真宗門徒の土地だ。呉市、江田島市、東広島市だけで百四十を超える真宗寺院があるという。
この地域の葬儀では、清め塩は使わない。地元の葬儀社が正面から書いている。仏教では死を穢れと扱わないため、清め塩は必要ないとしている。この地域では浄土真宗の教えを大切にする気持ちが強かったこと、故人に対して穢れとする行為が失礼にあたることから、行わなくなった、と。
ところが同じ広島県でも、県東部の備後地方はまた別だ。真言宗や天台宗の密教系、曹洞宗や臨済宗の禅宗系も盛んで、古い葬送習慣がよく残っている。出棺の際に棺を回す「棺回し」が農村部に残り、出棺前に力をつけるための「立ち飯」を食べる。同じ県の中で、東と西で葬式の景色が違う。
茨城では、塩と一緒に鰹節を口に入れる
茨城県、とくに県北地域には、独特のお清めがある。塩だけじゃない。鰹節を使う。
式場に塩と鰹節が用意されていて、式場を出るときに塩を体にかけ、さらに鰹節を口にする。ここが変わっているのは、多くの地域では自宅の敷居をまたぐ前にお清めをするのに対して、県北では会場を出る時点でやってしまうところだ。穢れの検疫ラインが、家の玄関ではなく葬儀会場の出口に引かれている。
鰹節を口に含む場合もあれば、塩と一緒に体にかける場合もあって、地域によって作法はさまざまらしい。由来としては、神道の祭壇に供える神饌の中に鰹節が含まれることから、お清めの意味を帯びたのだろう、という説が有力とされている。全国的には塩だけが残ったが、茨城では鰹節も一緒に残り続けた、というわけだ。
石川県の一部では、清めの塩と一緒に米の糠をかける地域がある。ほかにも、米や生米を食べる、味噌、大豆、魚、鰹節、餅、団子を食べてお清めとする土地がある。塩というのは数ある清めの物質のうちの一つに過ぎず、たまたま全国区になっただけだ、という見方もできる。
玄関の三角の塩は、まったく別の話だ
ここで、よくある勘違いを一つ潰しておきたい。
葬式でもらった塩を、玄関先で三角錐に盛って置いておくもんだと思っている人が、けっこういる。あれは違う。まったく別の風習だ。
三角に盛るほうは「盛り塩」で、こちらは中国由来と言われる。日本の盛り塩の風習自体は奈良・平安時代にはすでにあったとされているが、有名な起源譚は中国の故事だ。
『晋書』の巻三十一、胡貴嬪の伝に出てくる話。西晋の初代皇帝、司馬炎、武帝は、呉を滅ぼして三国時代を終わらせたあと、政治に飽きて遊興に耽るようになった。後宮の女性はほぼ一万人に達しようとしていた。そこで武帝は羊に引かせた車に乗り、羊の行くにまかせて、車が止まった部屋の女性と夜を過ごすことにした。
これに対して、胡国出身の胡貴嬪という女性が一計を案じる。羊の好きな塩水をそそいだ竹の葉を、自分の門前に挿しておいた。羊はその竹を食べに来て、彼女の部屋の前で止まる。これで一時期、武帝の寵愛を独り占めした。他の女性たちもこれに気づいて、競って門前に竹葉を挿すようになった。これが「挿竹灑塩」の故事だ。
日本で流布しているのは変奏版だ。皇帝が乗っていたのは牛車で、牛が塩を舐めて動かなくなるので、その家に立ち寄らざるを得なかった、というバージョン。だから小料理屋が入り口に塩を盛るのは、客を呼び寄せるおまじないなのだ、と。
ただし、この中国由来説には昔から疑問も呈されている。皇帝が乗っていたのは羊車であって牛車ではないので、平安貴族の牛車と混ざった俗説ではないかというのが一点。そもそも日本には古来、神事や葬送に塩を用いる独自の習俗があったのだから、そこから広まったと考えるほうが自然だ、というのがもう一点。
いずれにせよ、盛り塩は本来「客を呼ぶ」ための呪術だ。千客万来、商売繁盛の祈願。魔除けの意味が乗ってきたのは後のことだ。日本の盛り塩は、清めの塩と、人寄せの縁起担ぎと、神への供物と、複数の系統がねじれて混ざっている。
だから、葬式でもらった塩を玄関に三角に盛るのは、意味としては二つの真逆の呪術を接続していることになる。追い払うための塩で、呼び寄せている。まあ、なんというか、怖いといえば怖い。
力士が一日四十五キロまく、あの塩
塩の話でもう一つ外せないのが相撲だ。
大相撲で力士が土俵にまく塩は、正式に「清めの塩」と呼ばれる。力塩、波の花とも言う。あれは験担ぎではなく、神道の儀式だ。土俵は単なる競技スペースではなく神聖な場所であり、一番一番が小さな神事に近いものとして扱われている。前の取組から積み重なった穢れを土俵から祓い、これから上がる自分の体も清める。
量がすごい。日本相撲協会の説明として広く引用されている数字によると、一日約四十五キログラム、十五日間の一場所で六百五十キロ以上。竹籠に盛られた塩は一山およそ五キロだという。東京場所では伯方の塩が使われていて、市販品とまったく同じものを毎場所買い上げている。
ちなみに塩をまけるのは十両以上の力士だけだ。その下の幕下、三段目、序二段、序ノ口は塩をまかない。早い時間帯の取組を見に行っても塩は舞わない。験担ぎを忘れているからではなく、制度上まけないからだ。
本場所が始まる前には「土俵祭」という儀式がある。行司が、ここでは審判というより神職に近い役割を担うわけだが、塩とともに昆布、するめ、栗、米などを土俵の中央に埋めて、場所全体のために土俵を祓い清める。「土俵には金が埋まっている」という言い回しは、実際には供物が埋まっていることに由来する。
そして取組中に力士が自力で立てないような怪我をしたとき、呼出が土俵に塩をまく。血が出たときも同じだ。血は穢れだから、その場で祓う。
玄関先の一つまみと、国技館の四十五キロは、同じ思想でできている。
塩をまき忘れた夜のこと
ここからは、聞いた話をいくつか。
一つめ。ある男が、伯父の葬式から帰ってきた。マンションの七階。エレベーターを降りて、鍵を開けて、そのまま部屋に入った。塩は返礼品の袋に入っていたのだが、疲れていたし、そもそも面倒だったので、袋ごとダイニングテーブルに置いてシャワーを浴びた。
その夜、廊下で音がしたという。廊下といっても、玄関から部屋までの二メートルほどの短い通路だ。何かを引きずるような音がした、と本人は言っている。起きて見に行ったが何もない。ドアチェーンはかかっている。戻って寝た。また音がした。今度は近い。
三回目に起きたとき、彼はテーブルの上の袋を思い出した。袋を破って、玄関の三和土に塩を全部ぶちまけた。それで音は止んだ。翌朝、三和土は白い粉だらけで、掃除機が塩で詰まった。
彼はいまでも「あれは疲れていたからだ」と言う。ただ、それ以来、葬式の帰りは必ず玄関の外で塩をやる。理屈じゃないんだよ、と。
この手の話の九割はここで終わる。理屈じゃない、で終わる。そこが一番怖い。
一人暮らしの部屋で、自分の背中に手が届かない
二つめ。これは女性から聞いた。
彼女は当時二十代半ばで、一人暮らしだった。同僚の父親の葬儀に出て、夜に帰宅した。返礼品に塩が入っていたので、律儀に玄関の外でやろうと思った。ところが、そこで手が止まった。
胸はいい。足元もいい。背中が、どうしても届かない。
作法では背中は誰かにかけてもらうことになっている。かけてくれる人がいない。彼女は共用廊下で、喪服のまま、肩越しに塩を投げるような動作を何度かやってみた。うまくいかない。ぱらぱらと廊下に散るだけだ。
その、廊下に散った塩を見下ろしているとき、急に泣きそうになったという。理由はうまく言えない、と彼女は言った。ただ、この作法は一人でやるようにできていないんだな、と思ったら、なんかもうダメだった、と。
清め塩は、二人以上いることを前提にした儀礼だ。帰ってくる人と、迎える人。穢れた側と、まだ穢れていない側。この二人が玄関で向き合って初めて成立する。一人暮らしだと、片方の役をやる人間がいない。
日本の葬送習俗の多くは、家に誰かが残っていることを前提にしている。留守番がいる。桶を用意する人がいる。玄関を開けてくれる人がいる。その前提が崩れた社会で、作法だけが残っている。彼女が泣きそうになったのは、たぶん幽霊が出たより怖い話だ。
「うちは真宗だから」と言われた孫の話
三つめ。これは怪談ではなく、目撃談に近い。
ある人が、祖母の葬式のあとで、玄関先で塩を出そうとした。子どものころ、そうするものだと教わったからだ。すると、喪主だった伯父に止められた。
「うちは真宗だから、それはせん」
え、と思ったという。この家、俺が子どものころは絶対やってたぞ、と。実際、祖父の葬式のときは玄関に小皿が置いてあったし、塩をかけられた記憶がはっきりある。
伯父の説明はこうだった。前はやってたけど、住職に言われてやめた。おばあちゃんを穢れ扱いするのはおかしいだろう、と。
その人は、伯父の言い分に納得しつつ、少しだけ落ち着かない気持ちになったという。理屈は完全に正しい。祖母は穢れていない。塩なんか要らない。でも、玄関の外で立ち止まるあの三十秒がなくなると、葬式帰りの自分が、そのままの勢いで日常に突っ込んでいく感じがした。切り替えのボタンが消えた感じ、と表現していた。
これはかなり本質を突いていると思う。清め塩は、穢れを祓う装置であると同時に、モードを切り替える装置でもあった。喪服のまま、玄関の外で数秒止まる。そこで葬式が終わって、家が始まる。この区切りを塩が担っていた。
塩を捨てるのは正しい。ただ、区切りの機能まで一緒に捨てていいのかは、別の問題として残る。
ネットで一番荒れるのは、いつも同じ一点
この話題、ネット上ではもう二十年くらい同じ場所で燃え続けている。
賛成側はシンプルだ。死は穢れではない。親しかった人を死んだ途端に穢れ扱いするのは失礼どころか残酷だ。仏教の教義に照らせば根拠がないし、科学的根拠もない。やめてよい。
反対側もシンプルだ。文化に理屈を持ち込むな。誰も本気で死者を汚いと思ってやっているわけではない。区切りとしてやっているだけだ。それを差別だと言われるほうが心外だ。行政が家庭の慣習に介入するな。
宮津市の件で噴出したのが、まさにこの後者だった。特定の宗教や政治団体の思想を市民に強制するな、という批判。この批判は、清め塩の起源論とはまったく別のレイヤーで成立している。つまり「清め塩には差別的な根がある」という指摘が正しいかどうかと、「だから行政がやめさせていい」が正しいかどうかは、別の問題だ。この分離ができていない議論が多いから、毎回同じところで殴り合いになる。
考察界隈でよく出る面白い論点も並べておきたい。
一つめ。そもそも清め塩は江戸時代の庶民の葬儀では一般的ではなかった、という指摘がある。村中総出でやる「ムラ葬」では、一般会葬者という概念自体が薄かったし、葬儀に関わった村人も清め塩を使わなかった。穢れが認識されていなかったのではなく、対抗手段が別に用意されていたからだ。葬儀の前後に米をたくさん食べ、酒を飲み、一座に会して共食する。読経念仏を含めた宗教儀礼そのものがケガレへの対抗力とされていた。近親者はさらにコモリやモノイミで身を慎んだ。
この指摘が正しいとすると、いま俺たちが「昔からの伝統」だと思っている玄関先の小袋は、そこまで古くない。会葬者が大量に来る近代的な葬儀と、葬儀社という業態と、返礼品というパッケージが揃って初めて成立する様式だ。つまり相当に近代の産物である可能性が高い。
二つめ。「気枯れ」語源説への疑いがある。清め塩の解説記事の八割くらいが、穢れとは「気枯れ」であり気が枯れた状態を指す、汚れという意味ではない、と書く。とても優しい説明で、聞くとホッとする。ただ、この解釈は戦後の民俗学が示した見方であって、古代からそう理解されていた証拠ではない。研究史のほうでは、ケガレの語源論も客観的な根拠を示す必要があると課題視されている。「穢とは気枯れである」は、穢れの差別性をやわらげる現代的な言い換えとして機能している面がある。
三つめ。そもそも清めているのは何なのか問題。葬儀業界の解説には「この清めの塩で祓うのは故人の霊ではない、人の死に際して寄り付いてきた邪気を祓うのだ」という説明がよく出てくる。真宗からの批判をかわすための後付けだ、という見方がある。実際、大阪の葬儀社の代表は自社の記事の中で、葬儀場には様々な霊がいるからそれを祓うためという説明は本来の神道の考え方とも少し異なる後付けの俗信と捉えてよい、と正直に書いている。業界の中の人が言っているのがすごい。
それでも、なぜこれが怖いのか
理屈をひととおり並べたうえで、最後に感覚の話をしたい。
清め塩の怖さは、幽霊が出るところにはない。玄関の外で足を止められるところにある。
考えてみてほしい。あなたは家族の葬式に行ってきた。悲しい。疲れている。早く着替えたい。それなのに、家の中の人が出てきて、あなたが敷居をまたぐのを止める。そして白い粉を振りかける。
このとき、あなたと家の中の人のあいだには、はっきりと線が引かれている。あなたは向こう側にいる人だ。まだ、こちら側ではない。塩を振られて、払って、踏んで、ようやく戻ってこられる。
これは優しさでもある。戻ってこい、という手続きだからだ。あなたを迎え入れるために、わざわざ玄関を開けて出てきてくれている。追い返しているのではない。通してくれている。
でも同時に、あなたが一時的に「通せない状態」にされたことも事実だ。誰が決めたわけでもない。母は何も考えていない。ただ、母の母がそうしていたから、そうしている。九世紀の宮廷が作った服務規程が、千百年かけて薄まりながら、令和の三和土まで届いている。
そして肝心の、穢れの中身が誰にも説明できない。何が付いているのか。どこから付いたのか。祓ったらどこへ行くのか。誰も答えられない。踏んだ塩は、翌朝ほうきで掃かれて、そのへんに捨てられる。
見えないものを、見えないまま処理して、見えないまま捨てている。この、全工程が空白のまま完結する感じが、俺は一番怖い。
六つの層が重なって、あの三十秒になっている
ここまで書いてきて、あらためて全体を並べ直すと、清め塩という三十秒の作法は、少なくとも六つの層が重なってできていることがわかる。
一番下の層は、神話だ。黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、日向の橘の小門の阿波岐原で海水を浴びる。この場面から日本の「清める」が始まり、その禊のさなかにアマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれる。日本神話は、死の汚れを洗い落とす作業の副産物として最高神を生んでいる。海に入るのが本式で、塩をまくのは略式だ。八百年前の熊野詣では、藤原定家が体調不良を押して潮垢離をさせられている。全身を海に沈める行から指で一つまみ振るまで、儀礼はひたすら縮み続けてきた。
二番目の層は、制度だ。延喜式、九二七年。人の死は三十日、産は七日、六畜の死は五日。穢れは甲乙丙丁と展転し、着座によって伝染する。これは信仰というより行政手続きだ。そして見逃せないのは、当時の貴族自身が「穢の事は律令に載らず、式より出ず」と書き残していることだ。穢は九世紀半ばに人工的に作られた歴史的所産だという見方が、いまの研究では有力になっている。死は穢れだという感覚は、日本人の魂に刻まれた本能ではなく、平安の宮廷が神事を維持するために設計したルールだった可能性が高い。この一点を押さえるかどうかで、玄関の塩の見え方はまるで変わる。
三番目の層は、実務だ。土葬の時代、遺体の腐敗は現実の脅威で、塩は唯一の防腐技術だった。真宗の寺が指摘するように、本来は遺体にかけるべき塩が、いつのまにか遺体に接触した生者にかけるものへスライドした。対象が入れ替わった呪術だけが残った。ここに、明治三十八年から平成九年まで続いた塩専売制度が重なる。塩は長らく国が握る統制品だった。貴重で、公的で、生命維持に不可欠。呪術の道具としてこれ以上ない条件が揃っている。
四番目の層は、宗教間の論争だ。浄土真宗は往生即成仏を説く教義上、死を穢れとしない。だから清め塩は不要どころか故人への侮辱にあたるとして、本願寺派も大谷派も明確に否定してきた。「私たちは清め塩を使いません」と刷った紙を会葬礼状に入れる。守り刀も、一膳飯も、棺を三回まわすのも、茶碗を割るのも、まとめて迷信として退ける。この主張は筋が通っていて、しかも遺族の実感に強く訴える。大切な家族の死を穢れと呼ばれてうれしい人はいない。だから宗派の壁を越えて広がった。一方で、明治以前の真宗はそもそも塩を使っていなかったという証言もあり、真宗にとってこれは新説ではなく復古だった。「門徒もの知らず」は本来「門徒もの忌み知らず」の訛りだという説も、この文脈で読むと意味が変わる。
五番目の層は、人権と行政だ。二〇〇六年、京都府宮津市の清め塩啓発が産経新聞で報じられ、行政が慣習に介入するな、政教分離に反する、という批判が全国から起きた。にもかかわらず、宮津市で清め塩の風習は復活しないまま消えた。福岡県小郡市の人権啓発資料も、清め塩を意識調査の項目に載せ、土俵に女性が上がれなかった一件と同じ根から来ていると整理している。清め塩は、いつのまにか玄関先の話ではなく、公共の議論の対象になった。ここで押さえておきたいのは、差別的な根があるという指摘の当否と、だから行政がやめさせてよいの当否は別問題だということだ。この二つを混ぜると議論は必ず壊れる。
六番目の層は、生活だ。そしてたぶん、これが決定打になっている。清め塩は二人以上で行う儀礼として設計されている。帰ってくる人と、家で待つ人。桶に水を張り、小皿に塩を盛り、玄関を開けて外へ出て、届かない背中に手を回す人が要る。単身世帯が増え、家族葬が主流になった現在、この二人組が成立しにくい。作法が滅びるとき、信仰より先に、その作法を支えていた家の形が滅びている。
揺らいでいるのは、塩じゃない
そして残るのが、機能の空白だ。
清め塩には、穢れを祓うという建前の下に、モードを切り替えるという実効があった。喪服のまま玄関の外で数秒立ち止まる。そこで葬式が終わり、日常が始まる。心理的にはかなり有能な装置だった。教義的には不要でも、実用としては効いていた。塩を捨てるのは筋が通っている。だが区切りまで一緒に捨てると、葬式帰りの人間はブレーキなしで日常に戻ることになる。
だから、この習俗をどう扱うかという問いは、たぶん「清め塩をやるかやらないか」ではない。死者を穢れと呼ばずに、それでも玄関の外で一度立ち止まる方法があるか、という問いだ。手を洗うでもいい。真宗の寺が言うように、帰宅してから仏壇に手を合わせ、改めて故人を思うのでもいい。区切りだけを残して、選別だけを外す。理屈の上ではそれが一番きれいな着地に見える。
ただ、俺は同時にこうも思う。あの母の、玄関を開けて先回りする動作には、理屈では説明しきれない優しさがあった。塩をかけているのではなく、早く入りなさい、と言うために出てきているように見えた。千百年前の宮廷が作った規程が、伝言ゲームの果てにたどり着いた先が、寒い夕方に息子を待つ母の手つきだったというのは、悪くない着地じゃないか。
穢れの正体は誰も説明できない。祓われたものがどこへ行くのかも誰も知らない。踏まれた塩は翌朝ほうきで掃かれて捨てられる。全工程が空白のまま完結する。それが怖い。だが同時に、その空白があったから、この作法は千年生き延びた。中身が空だからこそ、誰でも、どんな信仰でも、どんな家でも運用できた。
いま、その空っぽの器がようやく割れかけている。割れた理由は信心の衰えではなく、たぶん、玄関の内側に立って待つ人がいなくなったことだ。塩の袋が返礼品から消えるより先に、その人が消えた。
祖父の葬式の日、母は玄関の内側で待っていた。あの立ち位置には、千年分の理屈が詰まっていた。母はたぶん何も知らない。俺も、あの日は何も知らなかった。
次に葬式から帰るとき、玄関の前で一度立ち止まってみてほしい。塩はなくてもいい。ただ、そこに誰かが立っていた千年のことを、三十秒だけ考えてみる価値はある。
