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六十日に一度、村じゅうが眠らなかった夜――庚申待と三尸の虫、そして日本中に数万基転がっている石塔の正体

体の中に、虫が三匹いる。

そいつらはあなたが生まれた瞬間から住み着いていて、あなたが何をやったか全部見ている。金をごまかしたことも、人の女房に手を出したことも、親を怒鳴りつけたことも、全部だ。

そして六十日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の夜、あなたが寝入った隙にするりと体から抜け出して、天に昇る。天帝の前に並んで、告げ口する。こいつはこんな悪事をしました、と。天帝は帳簿をめくって、あなたの寿命から日数を削る。

だから、寝るな。

その一点だけを守るために、日本人はおよそ千二百年間、六十日に一度の徹夜を繰り返してきた。平安の貴族は管弦を鳴らして夜を明かし、鎌倉の武士は御所に集まり、江戸の百姓は隣の家に集まって酒を飲み、昭和の集落は公民館のストーブを囲んだ。

そして徹夜が終わるたび、あるいは三年十八回続けるたびに、記念の石塔を建てた。それが庚申塔だ。南関東だけで一万基を超えると推定されていて、全国では誰も正確な数を把握できていない。数万基という言い方しかできない。

あなたの町の道端にも、たぶんある。「庚申」とだけ彫られた背の低い石。青い顔をした腕が六本ある神様が、猿三匹を従えて鶏を左右に置き、足元で鬼を踏みつけ、片手で髪をつかんだ半裸の女をぶら下げている石。あれだ。

あれは全部、誰かが眠らなかった夜の領収書である。

その夜、宿の座敷で何が起きていたか

まずは近世の農村に降りてみよう。時代は江戸中期、場所は関東のどこかの村だとする。

庚申の日の前日、あるいは当日の朝、講中の家々を米集めが回る。これが「今夜だぞ」という触れの代わりになる。集めた米は今夜の宿に届く。

宿は輪番だ。家並み順にきれいに回っていくのが普通で、去年うちがやったから今年はあの家、という順番が何十年も動かない。ここに一つ厳しい掟がある。宿に当たった家に出産があると、その家は宿を飛ばして次に回さねばならない。妊娠五か月から産後一か月までが該当する。庚申様は赤不浄を嫌うからだ。

ところが死人については逆で、「死人は転がしてもやれ」と言われた。葬式の最中でも庚申はやる。血は駄目で死は構わない。この非対称が、庚申という神の性格をよく表している。

日が傾くと、講中の男たちが支度を始める。参加するのは基本的にシンショウモチ、つまり一家の主人だ。当主が来られないときは息子が代理に立つ。女は入らない。庚申様は赤不浄を嫌うという掟が効いていて、男だけの集まりだという意識が強かった。

地域によっては午後四時ごろに身を清め、風呂に入ってから出かける。下肥を扱うような仕事は当日やらない。手を洗い、口をそそいでから掛軸の前に出る。

宿の座敷では、床の間、あるいは部屋の入り口の正面に一本の掛軸が掛けられている。ほとんどの講が持っているのは青面金剛(しょうめんこんごう)の画像だ。青い肌、三つの目、逆立った髪、六本の腕。その前に団子と御神酒、それから出席者が今夜食べるのと同じ御馳走が供えられる。

全員が座ると、勤行が始まる。何を唱えるかは講によってまるで違う。

ある講の次第を見ると、懺悔文を三回、十三仏を三回、意味不明の呪文を七回、南無青面金剛童子を七回、「庚申で庚申でまいたりまいたりそわか」を七回、光明真言を七回、延命十句観音経を三回、般若心経を二回、消災呪を三回、と延々続く。別の寺の庚申講では三帰礼文から始めて般若心経三回、観音経偈、消災妙吉祥陀羅尼三回、そして最後に「おんこうしんれいこうしんれいまいたれやそわか」という庚申真言を二十一回唱える。

この「まいたれや」は弥勒菩薩のマイトレーヤだ。山伏が持ち込んだ言い回しで、庚申と弥勒を同一視する信仰がここに化石として残っている。

拝み方すら統一されていない。柏手を打つ講、合掌する講、線香をあげる講、あげない講。隣の集落と作法が違う。誰も統一しようとしなかった。それが庚申という信仰の面白さだ。

勤行が終わると座に着く。年長者順だ。ここからが本番である。

膳が出る。本来は精進料理で、飯と汁のほかに、のっぺ、がんもどき、煮しめを壺・平・皿に盛り分ける。膳椀は講の備品として代々受け継がれている場合もあれば、各自が持参する場合もある。料理をこしらえるのは近所の女たちで、家並みの揃っている講では前当番・受け当番・裏当番の三軒が段取りする。つまり女は宴には出ないが、宴を成立させているのは女の手だ。

そして食う。とにかく食う。

地域によっては「強飯(こわめし)行事」といって、参加者に大食を強要する儀礼があった。もう食えないと言っても盛られる。これは庚申様が作神(さくがみ)だという意識と繋がっている。どこの庚申講でも庚申様は作神様だと言い、農家であれば無償で加入でき、農業をやめれば講も抜ける、という慣習を持つところがあった。豊作の神に腹いっぱい食わせてもらう、その返礼として腹いっぱい食う。

食い終わったら、あとはひたすら喋る。

「一言いっても八つ」という言い回しが残っている地方がある。ちょっと話しただけでも午前二時になる、という意味だ。「話は庚申の晩にせよ」とも言った。畑の話、稲の作柄、肥料の工夫、嫁の口、田の水争い、隣村の噂、値段の話。

庚申講は信仰の場であると同時に、農業技術の研究会であり、村の寄合であり、そして無尽の場でもあった。「庚申無尽」と呼ばれる金融組織になっていた講は珍しくない。要するに、六十日に一度、村の男たちが公然と一晩じゅう集まる正当な口実だったのだ。

そのうち誰かが舟をこぎ始める。すると誰かが起こす。地域によっては、庚申の途中で地震があったら全部無効で、翌日もう一度やり直すという掟があった。中断は許されない。完全に終了させねばならない。

夜明けが近づく。一番鶏が鳴く。その声を聞いた瞬間、庚申は終わる。三尸は昇天の機会を逃した。天帝への報告は次の六十日後に持ち越しだ。あと六十日、命は削られない。男たちは膳を片付け、掛軸を巻き、それぞれの家に帰って行く。

これを、三年で十八回。十八回やり遂げたら、石を建てる。それが庚申塔だ。

体の中に三匹――設定が異様に細かい

さて、そもそもなぜ虫なのか。ここからは中国に飛ぶ。

三尸(さんし)は道教の概念である。人の体内には生まれながらにして三匹の虫が住んでいる。上尸・中尸・下尸。この三つが、それぞれ驚くほど具体的に設定されている。

上尸は頭の中、つまり脳にいる。姿は道士。色は青または黒。好むものは大食。司る病気は首から上、つまり頭痛や目の病だ。別名がやたら多くて、青姑、青古、青服、阿呵、蓋東などと呼ばれる。眉間の奥三寸の泥丸宮に宮殿を構えているという説明もある。

中尸は腹の中にいる。姿は獣。色は白、あるいは青や黄。好むものは宝貨、つまり財である。司るのは五臓の病。別名は白姑、白服、作子、彭侯。心臓の背後三寸三分に住むとされた。

下尸は足の中にいる。姿は牛の頭に人の足という異形。色は白または黒。好むものは淫欲。司るのは腰から下の病。別名は血姑、血尸、赤口、委細、蝦蟆。臍の下三寸だという。

大きさはどれも六センチほど、と説明される。三匹の総称として「彭」の一字を冠して彭踞・彭質・彭矯と呼ぶ流儀もある。上尸は目を伐ち、中尸は五臓を伐ち、下尸は胃と命を伐つ、という言い方もされた。

この配置、よく見ると気持ち悪いくらい合理的である。大食を好む虫が脳にいて、財を好む虫が腹にいて、淫欲を好む虫が下半身にいる。人間の三大欲望が、そのまま体の三か所に分割配置されている。

つまり三尸とは、あなたの欲望そのものだ。欲望が独立した生き物として腹の中で息をしていて、そいつが天に告げ口しに行く。自分の欲が自分を殺しに行く構造になっている。

なぜ告げ口するのか。理由もはっきり書いてある。宿主が死ねば三尸は自由になれるからだ。人が死ぬと三尸は体から離れて鬼となり、勝手気ままに遊行して、人が供える祭りの供物を食べて回れる。だから一刻も早く宿主に死んでほしい。監視して、報告して、寿命を削らせる。全ては解放のためだ。

同居人が自分の死を心待ちにしている。これがこの信仰の芯にある恐怖である。

減らされる日数は決まっている

三尸の告げ口がどう処理されるか、その計算方法まで書き残した本がある。東晋の葛洪が著した『抱朴子』の内篇、巻六「微旨」だ。四世紀の書物である。

そこにはこうある。天地には司過の神がいて、人が犯した罪の軽重に応じてその「算」を奪う。算が減ると人は貧しくなり、疲弊し、病気になり、しばしば憂患に遭う。算が尽きると死ぬ。奪算に該当する行いは数百種類あって、いちいち論じきれない。

そして、体の中には三尸がいる。三尸は形は無いが実は魂霊鬼神の類である。人を早死にさせたい。この尸は宿主が死ねば鬼になれて、自由に遊行し、人の祭りの供え物を享けられるからだ。ゆえに庚申の日が来るたびに天に昇って司命に告げ、その人の過失を述べる。また月の末日の夜には竈の神も天に昇って人の罪状を告げる。

そして肝心の計算式が続く。大きな罪は「紀」を奪う。紀とは三百日である。小さな罪は「算」を奪う。算とは三日である。

三百日と三日。この二段階だ。しかも判定基準まで示されている。悪い心はあったが悪い行為の跡がない者は算を奪う。悪事を働いて他人に損害を与えた者は紀を奪う。さらに、算紀がまだ尽きていないのに自分から死んだ者は、その禍が子孫にまで及ぶ。

告げ口の相手として名指しされているのは「司命」だ。天帝という言い方は日本に来てから前面に出た表現で、原型は司命という寿命管理の役職神である。後の日本では、これが閻魔大王と混ざったり、帝釈天と重ねられたりする。

この観念は『抱朴子』が発明したものではない。葛洪自身が『易内戒』『赤松子経』『河図紀命符』という先行文献を引いている。漢代の緯書『河図紀命符』には、三尸は「六甲窮日」ごとに天に昇って司命に人の罪を告げる、とあった。この「六甲窮日」がのちに庚申日と特定されていく。要するに、後漢の緯書に芽があり、四世紀に葛洪が整理し、そこから唐宋にかけて実践方法が体系化された。

その実践方法が「守庚申」だ。

唐末五代の『太上除三尸九虫保生経』は三尸だけでなく腹中の九虫まで図解している。伏虫、回虫、白虫、肉虫、肺虫、胃虫、鬲虫、赤虫、そしてもう一種の虫、あわせて九匹だ。それぞれが起こす病変と、駆除する薬の処方まで載っている。この本の挿絵こそが、道士の姿の上尸、獣の姿の中尸、牛頭人足の下尸というあの三枚の絵の出典である。

『太上三尸中経』にはこう書いてある。庚申の日には夜通し寝ずに守れ。もし明け方に体が疲れたら、寝床で少し伏せてもよいが、決して熟睡させるな。そうすれば尸は天帝に告げに行けない。そして有名な一節が続く。三たび庚申を守れば三尸は振え恐れ、七たび庚申を守れば三尸は永久に絶える。

唐の段成式が書いた随筆集『酉陽雑俎』にも同趣旨の記述があり、七たび庚申を守れば三尸は滅し、三たび守れば三尸は伏す、とある。つまり守庚申は、七回続ければ体内の虫を根絶できる修行だった。長期戦の除虫作業なのだ。

この「回数を積む」という発想が、後の日本で「三年十八回続けたら塔を建てる」という習慣に姿を変えて生き残ることになる。

面白いのは、当時から冷めた目で見ていた人間がいたことだ。宋の葉夢得『避暑録話』によると、唐末に朝廷の役人たちが終南山の太極観に集まって守庚申をやったとき、道士の程紫霄ひとりが反対して笑った。三尸などどこにいるものか、あれはわれわれの師匠が、悪事を恐れさせるために作った方便にすぎない、と。

千二百年前に、もうネタばらしをした人がいる。

日本上陸――清少納言が退屈していた夜

日本に入ってきた時期については、八世紀後半という見方が有力だ。皇極天皇の頃という伝えもあるが、確かな痕跡として引かれるのは円仁の『入唐求法巡礼行記』である。承和五年(八三八年)十一月二十六日の条に、その晩は中国の人がみな寝なかった、これは日本の正月庚申の夜と同じだ、という趣旨の記述がある。つまり円仁が唐に渡った時点で、日本にはすでに庚申の夜に寝ない習慣があった。

理論的な土台になったのは『老子守庚申求長生経』、いわゆる庚申経だ。三尸説と守庚申の作法を記したこの経典は、天台僧の成尋が唐に留学した際に覚書として集め、園城寺(三井寺)に送り納めた資料だとされる。これが日本の庚申信仰の原点と推定されている。

記録に残る宮中の庚申としては、清和天皇の貞観五年(八六三年)十一月一日の庚申に、宮中で宴が持たれ、音楽が奏された一節が古い。九世紀末から十世紀にかけて、これは「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」として恒例化する。参集した公卿や侍臣に酒饌が下され、碁を打ち、詩歌を作り、管弦を鳴らして夜を明かした。

中国の道教は静かに夜明かしせよと説いたのに、日本人は初手から宴会にしてしまった。眠気覚ましという建前で、飲めや歌えの饗宴が展開された。長生きが目的である点だけは一致しているが、やり方は正反対だ。

例外もいる。藤原頼通は老子の像を掲げて静かに道教の書物を読んでいたという。真面目にやっていた人もいた。だが大勢は宴会である。

そして日本文学史上もっとも有名な庚申の夜が、『枕草子』の「五月の御精進のほど」の段だ。

その夜、中宮定子の兄である藤原伊周が庚申待の趣向を整えた。夜が更けるころ、伊周は題を出して女房たちに歌を詠ませることにする。座は一斉に苦吟モードに入る。ところが清少納言だけが定子のすぐそばに侍って、歌とは関係のない話ばかりしている。

伊周が気づいて咎めると、清少納言は「中宮様から詠歌御免の許しをいただいております」と答える。伊周は驚く。なぜそんなことをお許しになったのか、他の折はともかく今宵は詠め、と迫る。清少納言はまったく聞き入れない。

やがて女房たちが歌を披露し終え、いよいよ評定に入ろうというとき、定子が走り書きの文を清少納言に投げてよこす。開くと一首。

元輔が後といはるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる。

あの歌人清原元輔の娘といわれるあなたが、今夜の歌会から外れているとはね。主君に直球で茶化された清少納言は、さすがに返さずにいられない。

その人の後といはれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし。

その元輔の子といわれない身でしたら、今宵の歌は真っ先に詠んだでしょうに。そして彼女は、父の名に遠慮する事情さえなければ、詠めと言われなくても千首でも口をついて出てくる、と言い添えたという。

この段には史実との齟齬もある。伊周を「内大臣殿」と書いているが、この時期の伊周は長徳二年の変で内大臣の官位を剥奪され大宰権帥として左遷されたのち都に戻ったばかりで、まだ正式な官職が定まっていなかった。『栄花物語』などは「前帥殿」と呼んでいる。清少納言の記憶違いか、あるいは意図的な敬称かは分からない。

ちなみに父の清原元輔にも庚申の歌がある。「いとどしくいも寝ざるらむと思ふかな、けふの今宵にあへるたなばた」。七月七日が庚申に当たった年の作だ。ただでさえ牽牛を待って寝られない七夕の夜に、寝てはいけない庚申が重なった、織姫はますます眠れまい、という趣向である。親子そろって庚申の夜に歌を残している。

武士の世になっても続いた。『吾妻鏡』の建保元年(一二一三年)三月十九日の条に、今夜御所で庚申を守る会があった、という記述がある。源実朝もきちんと守庚申をやっていたわけだ。

中世の転回――誰も拝んでいなかった夜に、本尊が置かれた

ここまでの庚申は、実は「拝む対象」がない。ただ寝ないだけだ。歌を詠み、碁を打ち、酒を飲んで夜を明かす。神も仏もいない。

これが変わるのが十五世紀後半である。

『老子守庚申求長生経』をもとに、僧侶の手で『庚申縁起』が作られる。これが庚申信仰の拠り所となる経典と位置づけられ、仏教的な庚申信仰が発生した。現存最古の庚申縁起は、永弘文書中の明応五年(一四九六年)「庚申因縁記」とされる。これらの縁起を書いたのは日蓮宗系の僧侶だったという指摘がある。

庚申縁起には、庚申待にはもともと拝礼する神仏はなかったが、室町末頃から特定の神仏を祀って三尸の昇天を防ぎ、安穏延命を祈るようになった、と正直に書いてある。信仰が後付けされた瞬間が、当事者の手で記録されているわけだ。

同じころ、石が建ち始める。

現存最古の庚申塔は、埼玉県川口市領家の実相寺にある文明三年(一四七一年)銘の庚申板碑だ。この年代から逆算して、庚申待という呼称と本尊礼拝の成立は文明年間、つまり一四六九年から一四八七年を少し遡る頃と推定されている。三重県一志の誕生寺には天文十六年(一五四七年)銘の石造阿弥陀如来立像があり、「庚申待衆八人」と刻まれている。この時点ではまだ主尊は阿弥陀だ。青面金剛が主役の座を取るのはもっと後になる。

そして庚申縁起は、庶民を口説くための売り文句をきっちり用意した。

『庚申尊縁起』に列挙された庚申の十徳は、諸病がことごとく除かれる、悪い子を生まない、寿命が延びる、人に愛される、福徳が満ちる、三毒が消える、火難水難を除く、盗人がことごとく除かれる、怨敵が退散する、臨終に正念を得る、という具合だ。長生きだけでなく、病、子、金、火事、泥棒、対人関係と、庶民の悩みを全部カバーしている。

これを広めて回ったのが修験道の山伏たちである。彼らは神も仏も区別せず礼拝したから、両部神道と親和性が高く、伊勢神道の理論に『陀羅尼集経』の大青面金剛呪法を接ぎ木して、日本独自の六臂青面金剛像を作り上げた。

青面金剛――正体不明のまま日本一有名になった石仏

その青面金剛が、庚申塔の主役である。そして、この神様の正体は今も誰にも分かっていない。

文献上の出典は『陀羅尼集経』第九の「大青面金剛呪法」だ。そこに記された姿を要約すると、こうなる。

一身四手。左の上手は三叉を持ち、下手は棒を持つ。右の上手は掌に法輪を拈り、下手は羂索を持つ。身は青色。口を大きく開き、犬の牙が上に出て、目は血のように赤く、顔に三つの眼がある。頭頂に髑髏を戴き、髪は逆立って炎の色。頭上に大蛇を纏い、両肩からそれぞれ龍が逆さに懸かって龍頭が向き合う。腰に二匹の大赤蛇、両脚と腕にもまた大赤蛇、持っている棒にも蛇が巻きつく。虎の皮を腰に巻き、髑髏の瓔珞を掛ける。両足の下にそれぞれ一匹の鬼を置く。像の左右にそれぞれ青衣の童子を作れ。髪を両角に結び、手に香炉を執る。像の右には二薬叉、一は赤く一は黄色く、刀と索を執る。像の左にも二薬叉、一は白く一は黒く、銷と叉を執る。形像はどれも甚だ怖畏すべし。

読んでいるだけで疲れるくらい過剰な造形だ。ところが日本で実際に作られた青面金剛は、この経典どおりの四臂ではなく、圧倒的に六臂が多い。法輪、弓、矢、剣、錫杖、そしてショケラを持つ。なぜ経典と違う姿が量産されたのか、これが第一の謎だ。

由来についても定説がない。唐代にインド密教のマハーカーラの図像が説明なしに中国へ伝わり、病を流行らせる悪鬼と誤伝されて「青面金剛」と名付けられた、という筋書きが語られる。もともとは疫病神、あるいは疫病を退散させる神だった。特に伝尸病(でんしびょう)の予防治癒を祈る対象だったという。

伝尸病は結核の古称である。この「尸」の字が三尸の「尸」と重なった。青面金剛は三尸を押さえ込む神として、庚申の本尊に据えられた。

伝承レベルでは、青面金剛は三尸の虫を食べてくれる、と説明される。京都の八坂庚申堂、正式には大黒山延命院金剛寺という天台宗の寺は、もともと道教の庚申待とは無関係だったが、本尊の青面金剛が三尸を食うと言われたことから庚申待の夜に拝まれる対象になり、庚申信仰発祥の地として広まった。

大阪の四天王寺庚申堂は、文武天皇の大宝元年(七〇一年)正月七日の庚申の日に青面金剛童子がこの地に出現し、当時大流行していた疫病を鎮めたと伝える。豪範僧都が疫病に苦しむ人々を救おうと一心に天へ祈ったところ、帝釈天の使いとして童子が現れ、除災無病の霊験を示した、という縁起だ。ここが日本最初の庚申尊出現の地を名乗る。

四天王寺の庚申堂は諸国庚申の本寺とされ、今も六十日に一度の庚申まいりが大阪市の無形民俗文化財になっている。本堂の南向かいには三猿を祀る三猿堂があり、縁日には三猿堂前に「お猿御加持所」が設けられる。病に勝る、魔も去る、という語呂合わせの加持だ。

八坂庚申堂の名物は「こんにゃく焚き」である。平安期の浄蔵貴所が庚申尊の霊示を受け、こんにゃくで人々の病を治したのが始まりとされ、祈祷して切ったこんにゃくを焚いて参拝者に振る舞う。三切れのこんにゃくを北に向かって無言で食べると一年の無事が約束される。北を向いて無言で三切れ、というのは大阪の庚申堂の風習とも通じる。

境内に鈴なりになっている色とりどりの「くくり猿」は、欲のままに動く猿の手足を縛った姿だ。欲をひとつ我慢して青面金剛に納めると願いが叶う、という理屈になっている。三尸のうち欲を好む虫を縛る、という発想の観光化された末裔である。

東京の柴又帝釈天、経栄山題経寺の場合はまた別の経路だ。

江戸中期に行方不明になっていた日蓮聖人親刻と伝わる帝釈天の板本尊が、安永八年(一七七九年)の春、本堂改修中に梁の上から発見された。その吉日が庚申の日だった。第九世日敬上人は略縁起に、出てきた板は長さ二尺五寸、幅一尺五寸、厚さ五分、見た目に似合わずやたら重く、堅く、煤に汚れて判別できなかったが、水で清めたところ片面は日蓮聖人真刻の病即消滅本尊、片面は帝釈天王の像だった、と記している。

以後、庚申の日が縁日になった。明治初期の風俗誌はこう書き残している。帝釈天はインドのバラモン教の神で、のちに仏法守護の神になったもので、中国の風俗から出た庚申とは何の関係もない、しかしこの御本尊が庚申の日に出現したので、以来庚申の日を縁日として東京方面から暗い田圃道を三々五々連れ立って参り、知る人も知らぬ人も途中で会えば必ず互いにお早うお早うと挨拶していく、と。

葛飾の田園に提灯の灯が数珠つなぎに続いた。道すがら売られた草だんごが、今も残っている。

日本三庚申といえば四天王寺、八坂、それに江戸の入谷庚申堂を数えるのが江戸期の言い方で、浅草寺を挙げる数え方、豊田市の金谷三光寺庚申堂を入れる数え方もある。どれが正しいという話ではなく、各地が名乗った結果である。

ショケラという最大の謎

青面金剛の左手が髪をつかんで、だらんとぶら下げているもの。半裸の女人像だ。これを「ショケラ」と呼ぶ。

そして、これが庚申研究における最大の泥沼である。

まず言葉のほうから見よう。元禄年間の書物『庚申伝』には「ショウキラハ虫ノコト也、一説三尸ノコトト云」とある。ショケラは虫のことだ、一説には三尸のことだという、と。江戸期にはショケラ、ショウキラ、シシャ虫、シャ虫、シシ虫といった呼び名で、体内の虫を指す語として流通していた。

妖怪画にも登場する。佐脇嵩之の『百怪図巻』や鳥山石燕の『画図百鬼夜行』には「しやうけら」として、屋根の天窓から中を覗き込む異形が描かれている。庚申の夜に寝ている者を見張り、鋭い爪で罰する監視者だ。

福井県三方郡美浜町麻生には、こんな呪言が伝わっていた。徹夜せずに寝る場合、寝る前に床の中で三度これを唱えなければならない。

ショケラよ、ショケラ、ねたかと思つてみにきたか、ねたれどねぬぞ、まだ目はねぬぞ。

寝たと思って見に来たか、寝たけれど寝てないぞ、まだ目は寝ていないぞ。完全な子供のいいわけである。しかし当人たちは真剣だ。

この呪言の解釈も二説あって、一つはショケラは庚申さんの弟子で、この晩に人々が寝るかどうか監視しているので、本当は夜明かしが一番よいがこの呪言を唱えれば寝ても寝ないのと同じ効果がある、というもの。もう一つは、ショケラは人を病気にするなどさまざまな悪事を働くものなので、庚申さんが暴れ出さないよう頭髪をつかんで押さえ込んでいるのだ、というものだ。

この第二の説を根拠に、民俗学者の窪徳忠は昭和三十六年の『庚申信仰の研究』で、青面金剛が髪をつかんでぶら下げている女人像はショケラ、すなわち三尸虫であり、この図像は三尸退治を意味すると論じた。ショケラ=三尸虫、女人像=ショケラ、ゆえに女人像=三尸退治の図。三段論法だ。

ところが同じ庚申懇話会の小花波平六がこれに猛反発する。女人像が俗にショケラと呼ばれる証拠がない、少なくとも関東地方には事例がない、ショケラが三尸を指すのは明らかだがショケラと女人像は別物であり、女人像は三尸とは無関係だ、と各地の講演で説いて回った。

結果として、この半裸女人像を何と呼べばいいのかすら分からなくなり、混乱が続いた。ショケラについてはその呼び名も起源も意味も何ひとつ分かっていない、というのが現在の定説である。身も蓋もない言い方が定着してしまった。

近年これを再整理したのが大畠洋一だ。

奈良金輪院の豊臣時代の本尊掛軸には、青面金剛の眷属である四夜叉のひとりがショケラ(女人)をぶら下げている図があり、これが最古のショケラと見られる。江戸初期の奈良金輪院『庚申縁起』には、生まれたその日から病悩苦悩さまざまな災患を起こす霊魂鬼神が身に付き添って身心を苦しめる、人の力ではこれを避けられない、庚申の日を司る青面金剛薬叉明王は大忿怒の形を現し、無数億の眷属を具して、人の身を煩わす霊魂鬼神の類をことごとく滅ぼし平らげ、微細に降伏させる、とある。ここでいう霊魂鬼神とは三尸虫のことだ。

では、なぜ女の姿なのか。大畠は仏像の系譜に商羯羅天(しょうからてん)と商羯羅天妃を見つける。ヒンドゥーのシヴァ神、すなわち大自在天の別名だ。シヴァは仏教にとって宿敵であり、髪をつかんで吊るされたり踏みつけられたりする姿が仏像によく見られる。

三尸虫としてのショケラから、ショケラを征伐する青面金剛へ。そして商羯羅天妃を征伐する姿へ。この流れで奈良金輪院の僧侶が女人像を創造し、掛軸にした、というのが大畠説である。ショケラという語自体が「しゃく虫」から「しゃけら」への誤読を経て商羯羅に通じた、という語源説も添えられている。

大分県国東市の十王堂庚申塔の解説では、青面金剛の第一左手が握るショケラを、あっさり「妊婦」と書いている。地域によって解釈が全然違う。

髪をつかまれてぶら下がる半裸の女が、ある土地では三尸の化身であり、ある土地では妊婦であり、ある土地では邪教の神妃であり、ある土地では庚申の夜に交わることを戒める見せしめとして「青面金剛が禁忌を破らせないよう女を取り上げている」と説明される。誰も正解を知らないまま、二百年以上にわたって石工たちは彫り続けた。

三猿はいつ、なぜセットになったのか

もう一つの謎が三猿である。見ざる、聞かざる、言わざる。

理屈は分かりやすい。三尸に見られない、聞かれない、言われないように、目と耳と口をふさぐ。あるいは、庚申の「申」が「さる」だからだ。あるいは、山王信仰の神使が猿だからだ。理由が三つもあると、それは理由が分かっていないということでもある。

教えの源流としては『論語』が挙げられる。「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」。礼にあらざるものは見るな、聞くな、言うな、動くな。これが八世紀頃、天台宗系の留学僧を通じて日本に伝わったとされる。四つ目の「動くな」が落ちて三つになった。ちなみにタイなどでは性的不道徳を戒める四番目の猿が加わった四猿が伝わっているという。モチーフ自体は古代エジプトやアンコール・ワットにも見られ、シルクロード経由で中国から日本へ到達したという見方もある。

いつ庚申とくっついたのか。ここは石が答えてくれる。

三猿を刻んだ庚申塔が初めて現れるのは承応二年(一六五三年)で、以降は連続して三猿庚申塔が造立される。したがって習合はこの年をやや遡る頃だ。縁起の系統からも同じ結論が出る。室町時代成立の庚申因縁記系統の縁起には三猿が出てこない。三猿が取り上げられるのは江戸時代成立の青面金剛化記系統の縁起である。掛軸や大津絵でも、初期のものには三猿が描かれていない。

塔、縁起、文献、掛軸、すべてを突き合わせると、庚申と三猿の習合は江戸初期、おそらく寛永末年の一六四〇年代頃と推測される。

天台宗と比叡山日吉大社の関係を通じて山王信仰が庚申信仰と習合した結果だ、という説明はよくなされる。室町後期から建ち始める庚申塔や碑に「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが目立ってくるのも同じ流れだ。もともと猿が庚申の使いとされ、三猿そのものを神体とした庚申堂もあったのが、やがて青面金剛が本尊の座を取り、三猿は脇に降格した。庚申塔も最初は三猿だけだったのが、青面金剛の足元に添えられる形になった。

なお、日光東照宮神厩舎の三猿は江戸初期の左甚五郎作と伝わり、明治期に海外へ紹介されて世界一有名な三猿になった。昭和八年(一九三三年)には僧の藤井日達がガンディーに三猿像を贈り、ガンディーは「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と民衆に説いた。庚申の石塔から始まったモチーフが、インド独立運動のスローガンになった。

さらにひねくれた説として、南方熊楠のものがある。青面金剛はインドの『ラーマーヤナ』説話のヴィシュヌ神の転化であり、三猿はハヌマーンの変形だ、というのだ。真偽はともかく、猿つながりで一気にインドまで飛ばす発想が熊楠らしい。

塔の上に彫られたものを、ひとつずつ

庚申塔の典型的な構図を読み解いておこう。

一番上の左右に日輪と月輪が置かれる。日が陽、月が陰だ。庚申待が夜通しの行事であること、そして日待・月待という近い習俗と混ざったことの反映と見られる。

中央に青面金剛。六臂が主流だが、四臂も二臂も八臂もある。合掌した二手を胸前に置き、残り四手に法具を持つ形が多い。合掌六手、と呼ばれる。

足元には邪鬼。災いを調伏する青面金剛のシンボルとして、一匹または二匹踏まれている。

その下に三猿。三匹が横一列に並ぶ型、中央だけ正面向きで両端が横向きになる型、三角形に配置する型がある。邪気を払う桃を持つ猿、羽織を着た猿、御幣を持つ猿もいる。

左右に鶏が一羽ずつ。二鶏だ。暁を告げる鳥だからで、庚申待は一番鶏で終わるからだ。もうひとつ「申の翌日は酉だから」という説明もあり、これはこれで身も蓋もなくて味わい深い。

さらに丁寧な塔になると、両脇に二童子が香炉を持って侍し、最下部に四薬叉が配される。

北総の印旛・手賀沼周辺には、大畠洋一が「生首持ち型青面金剛」と名付けた特徴的な一群がある。主尊の目がアーモンド形で、右手に鈴状または人間の頭部らしき袋状のものを持ち、宝輪を持つ手が直角に水平に伸び、迫力のない邪鬼がうずくまる。石田年子の報告では、この型が周辺に百十八基あり、造立は享保三年(一七一八年)から宝暦十二年(一七六二年)の四十四年間に限定される。同期間の全青面金剛像塔の二十五パーセントを占め、印西市だけで四十基以上ある。

石工の流派が地域と時代を区切って刻んだ、いわば方言だ。

石の数を数える――日本列島の庚申塔センサス

では、実際どれだけあるのか。

正確な全国総数は誰も持っていない。だが地域ごとの悉皆調査の数字を積み上げていくと、その膨大さが見えてくる。

東京都は多摩地方の分布だけで千三百基を超え、区部と島部を合わせると三千基ほどが現存すると推定される。千葉県は県教育委員会の調査により県内およそ二千八百基が把握されている。神奈川県は近年の調査で六千七十七基が確認されており、うち造立年が判明しているのが五千三百五基。埼玉県は全県の集計こそ出ていないが、七市十五町村だけで約千九百基が数えられている。

これらを足しただけで、南関東に少なくとも一万基が散在すると推定できる。

市町村単位に降りると精度が上がる。

鎌倉市は現地確認で三百八基。うち像を伴うものが七十七基で、内訳は青面金剛像六十五、阿弥陀如来八、観音菩薩二、地蔵菩薩一、天狗一。文字塔が二百二十五基で、「庚申」系が百六十二、「青面金剛」系が三十五、「猿田彦」系が十一、「堅牢地神」が五、「帝釈天」が四、「虚空蔵菩薩」が一、「南無妙法蓮華経」が一、そしてなぜか「鎌倉権五郎景政」が一基、「閻魔王」が一基ある。

形態別では自然石が九十六基で最多、次いで駒型七十二、笠塔婆型と舟型が各三十一、尖頭角柱二十六、板状駒型二十三、角柱平頭十四、頂猿角柱八、板碑型三。年代が判明している二百二十四基を六十年の庚申年で区切ると、一六八〇年から一七三九年が四十九基、一七四〇年から一七九九年が三十二基、一八〇〇年から一八五九年が九十三基、一八六〇年から一九一九年が二十八基。最大のピークは一八〇〇年からの六十年間で、一八六〇年一年分の十五基を加えると百八基に達する。

幕末の緊張と信心が比例している。

埼玉県越谷市は庚申信仰関係の石造遺物が合計四百四基。庚申塔三百六十一、地蔵庚申三、弥陀庚申一、猿田彦大神二十三、塞神九、板碑八という内訳だ。十六世紀後半の板碑七基に庚申の銘があり、十七世紀前半はゼロ、十七世紀後半から本格化する。

造立を十年刻みで見ると山が二つあり、一つは正徳元年から享保十五年の二十年間で四十四基、もう一つは寛政三年から同十二年の十年間で三十六基。十八世紀前半は青面金剛刻像塔が多く、日月・三猿・二鶏まで彫り込んだ丁寧な作りが目立つ。ところが寛政期になると青面金剛十三基に対して文字塔二十三基と逆転する。

ここで庚申塔は「像を彫るもの」から「字を彫るもの」へ決定的に転換した。

九州に飛ぶと様相が変わる。国東半島は全国屈指の庚申塔密集地帯で、九州では約七百八十基とも、個人の踏査記録では千百二十八基とも言われる。豊後高田市内だけで約二百六十基。国東市国見町では百八基が四つの谷筋にほぼ均等に散らばっている。国見町最古は竹田津岡の元禄十二年(一六九九年)刻像塔で、宝永元年(一七〇四年)から宝暦十三年(一七六三年)までの六十年に有銘塔の三分の二が集中する。最新は野田岡田社の「猿田彦命」「明治三年」銘の文字塔だ。野田堀池組の刻像塔は塔身だけで百六十一センチ、笠と二段の基礎を合わせた総高が二百八十五センチという半島最大級の堂々たる代物である。

熊本県の人吉球磨地方も濃い。約六百基が確認されていて、しかも古い。球磨郡錦町迫の庚申塔は天文三年(一五三四年)、あさぎり町須恵の平等寺は天文四年(一五三五年)。国東半島最古が永禄十一年(一五六八年)だから、球磨盆地のほうが三十年以上早い。地元では庚申を「かないさん」と親しみを込めて呼ぶ。山江村西川内には「庚申橋(かないさんばし)」という名の橋まである。

関西は逆に少ない。庚申信仰の中心的な寺社がある京都や大阪でこそ庚申塔の建立は比較的少ないという、皮肉な逆転が起きている。寛政八年(一七九六年)の時点で、庚申塔は近畿地方でも珍しいものとなっていた、という記述がある。信仰の本場ほど石を建てない。

沖縄など南西諸島には庚申塔がない。ただし庚申信仰そのものが無いわけではなく、鹿児島県大島郡喜界町では本尊が「オコウシンサマ」と呼ばれ、位牌のようなものだった。講の当日は子供が本尊を迎えに行き、ヤドに安置して供物を供え、講中の者がヤドへ行って拝む。石ではなく位牌、そして子供が神を迎えに行く。同じ庚申でも作法がまるで違う。

そして庚申塔は過去の遺物ではない。

昭和五十五年(一九八〇年)は六十年に一度の庚申年で、この年だけで全国に約千基が新造された。当初の集計では一都十二県で六百五十七基、うち長野県が四百四十九基で圧倒的な首位。後の追跡調査で一都十九県九百七十一基まで把握が伸びた。長野県上伊那地方の熱の入りようは凄まじく、二市四町四村で三百六十六基が建てられている。

武蔵野市八幡町の延命寺では、境内にある元禄九年塔と元文四年塔をそれぞれ忠実に模造した昭和庚申年塔が二基建てられた。日月、合掌六手の青面金剛、一鬼、三猿の浮彫りに加えて、元の塔に刻まれている「奉供養庚申待為講中二世安楽也」「元文四己未十一月十七日」という銘文まで写している。三百年前の石を三百年後にコピーしたわけだ。

さらに、平成に入ってからも四十基が造立されている。確認されている最新は千葉県八千代市佐山の平成十四年塔。正面上部に日月、中央に「庚申塔」の主銘、側面に「為結婚五十周年記念」と刻まれ、平成十四年四月二十二日の庚申日に建てられた。

金婚式の記念に庚申塔を建てる人がいる。文明三年から数えて五百三十年以上、この石は途切れずに建てられ続けている。

変わり種もある。埼玉県越谷市相模町の大聖寺には天保六年(一八三五年)の「百庚申」がある。百基の小型庚申塔を一か所にまとめて建てることで、一基よりも多くの功徳を得ようという発想だ。現在九十七基が残る。天保九年には百庚申の主基として青面金剛像塔と石猿二基が加えられた。世話人四名、石工は越ヶ宿の小嶋長兵衛。千葉県鎌ケ谷市の八幡神社境内には天保十二年から十三年にかけての百庚申があり、青面金剛像塔十基の間に「庚申塔」文字塔が九基ずつ挟まって合計百基が並ぶ。

主銘のバリエーションも際限がない。庚申塚、庚申墳、庚申宮、庚申灯、庚申尊、庚申佛、庚申神、庚申大神、千庚申、萬庚申。

女だけで建てた塔もある。越谷市には四百基以上の庚申塔があるが、女性だけで建てたと明らかに分かるものは六基しか確認されていない。西円寺の「青面金剛」文字庚申塔には「女人講中」「拾七人」と刻まれている。庚申待が男社会の行事だったことを、この六基が逆から証明している。享保十五年(一七三〇年)の登戸報土院の塔には「女中三拾人」とある。

女は基本的に締め出されていたが、締め出された側は締め出された側で自前の講を作って石を建てた。

「庚申の夜に孕んだ子は盗人になる」

ここからが、この信仰の一番おそろしい部分だ。

庚申の夜には、男女が交わってはならない。破ると、その夜にできた子は盗人になる。

この禁忌は日本全国に広がっていて、しかも異様に具体的な形で語られる。

室町期の辞書『下学集』にはこう書いてある。この夜は盗賊が事を行うのに利がある、だから諸人は眠らずに夜を守るのだ、ある説にいわく、この夜に夫婦が淫を行えばその孕むところの子は必ず盗となる、ゆえに夫婦が慎むところの夜である、と。

近世の女性向け教訓書『女庭訓大倭嚢』はもっと露骨だ。庚申の日に男女が睦み合えば二人とも大毒で、年を寄らせ命を短くし、病者になる、もしその夜に子種が定まったなら、その子は一生の病者か、盗人か、大悪人である、昔から例に違わぬ禍だから、よくよくお慎みください、と。

子を脅すのではなく、親を脅す。

だから村の男たちは庚申の夜、宿に集まって朝まで喋り続けた。埼玉県熊谷市小八林の言い伝えははっきりしている。庚申の晩に孕んだ子は盗人になるという悪い言い伝えがあり、この晩は夫婦和合ができないよう、一晩中寝ないで話し合って過ごしたのだ、と。

徹夜の理由が「三尸を昇天させないため」から「夫婦を同じ布団に入れないため」へ、こっそりすり替わっている。

岐阜県吉城郡坂下村、現在の飛騨市宮川町では、庚申様は養蚕の守護神と思われていて、御神体は手が六本ある猿だとされた。そして庚申の夜に孕んだ子は盗人になると言われ、この夜だけは夜這いをしなかった。この日は寝てもいけないので酉の刻までは起きていた。夜這いの慣習がある村で、庚申の夜だけは全員が自粛する。年に六回、村全体に発令される禁欲日だ。

和歌山県には昭和五十二年の記録として、庚申の晩に生まれた子は盗人になる、という俗信が採録されている。孕んだ夜ではなく生まれた日にずれている。紀州の田舎では、庚申の夜に交われば猿に似て手癖の悪い子を生む、と信じられていた。猿が「手長」だから、という連想である。

そして、この禁忌には必ずと言っていいほど固有名詞が添えられる。石川五右衛門だ。

あの大泥棒は、両親が庚申の夜の禁忌を破って身籠もった子である、という話がまことしやかに伝わった。文禄三年(一五九四年)に釜煎りにされたとされる稀代の盗賊の出自を、たった一夜のタブー破りに求める。この物語の効き目は絶大だっただろう。うちの子が五右衛門になったらどうする、と言われたら、農民は黙って夜を明かすしかない。

南方熊楠はさらに具体的な例を挙げている。明和二年(一七六五年)に刑せられた巨盗、真刀徳次郎はこの夜に孕まれた由、と。実在の大盗賊が処刑されるたびに、あいつは庚申の子だ、という噂が付けられていったわけだ。都市伝説の生成現場そのものである。

もっと面白いのは、この禁忌が反転することだ。

庚申の「申」が「猿」に通じ、猿は手が長い。手が長い者は盗む。ゆえに庚申の子は盗人。ところが同時に、庚申を信じれば盗難を免れるとも言われた。盗賊を捕らえるにはこの神に祈り、縄でその像を縛る。神様を盗人に見立てて縛り上げて白状させる、という荒っぽい呪法だ。

盗難の多い土地では庚申に祈って盗品を求め、盗人のほうも気味が悪くなって品を返した例が多い、と熊楠は書いている。田舎の旅宿がたいてい庚申講の元締めを勤めたのも、盗難の多い宿は商売にならないからだ。街道沿いに庚申塚を立てるのも、主として盗難を減らし道中の安全を願ってのことだった。

盗人を生む神が、盗難除けの神でもある。同じ一つの塔が、加害と防御の両方を担っている。

なぜこんな禁忌が生まれたのか。ひとつの解釈として、庚申を日本固有の祖霊祭の一形態と見る視点がある。先祖祭の代表である新嘗祭は前一か月の潔斎が厳重で、その夜は男女が別々の家に寝た。『万葉集』巻十四には「誰そ此の屋の戸押そぶる」と、新嘗の夜に夫を他所へやって妻ひとりが忌み籠もって祖霊を祀っている家の戸を、不埒者が押し揺すっている情景を詠んだ歌がある。

庚申の夜のタブーは、この祖先祭の潔斎の名残だ、という読み方である。実際、庚申縁起にも「庚申祭の前夜より肉食五辛を断ち、精進潔白にし重不浄の行をなさず」とあり、この「不浄の行」つまり男女同会の禁止がとりわけ厳しかった。

禁忌は隣村で全部違う

庚申の作法は地域差の塊だ。ひとつずつ見ていく価値がある。

栃木県の旧湯津上村では、庚申様を「こうしんさま」「おごしんさま」「かのえさま」などと呼び、ほぼ全村にわたって講があった。数軒の講もあれば三十軒を超える講もある。「庚申の日にはきたないことをするな」という掟があり、参加者は肥出しなどをせず、必ず風呂に入ってから出向いた。

「寒ざるは拝むな」という禁忌もあり、庚申日が寒の内に当たってしまうときは、十二日前の申の日に繰り上げて済ませる。これを「前ざる」「前ざら」と呼んだ。さらに、途中で地震があるともう一度やり直し。地震で中断したら翌日同じことをやり直して完全に終了させねばならない。

十二年に一回は「まるめ庚申」といって盛大に祝い、庚申塚を築く講もあった。塚を築くと神主に祓ってもらい、紅白の餅をまいて祝う。塚の大きさは高さ五十センチ・直径一メートル程度のものから、高さ一メートル・直径三メートルのものまで様々だ。庚申塔には塞の神、つまり道祖神的な意味も含まれるとされ、六十年ごとに建立するならわしがあった。

秋田市の上新城地域では、集落の入り口ごとに庚申塔が置かれている。ここでは庚申塔が塞の神として村の辻を守る役目を担っていた。三尸を防ぐ塔が、いつのまにか村境の門番になっている。

隠岐島では十二月八日を庚申の誕生日、あるいは降臨の日と呼ぶ。対岸の岡山県や鳥取県でも六月と十二月の八日を「八日待」として庚申を祀った。六十日周期とは別の暦で庚申が動いている。飯島吉晴は、清の儒者が説いた「庚申は更新の日」という指摘を引いて、三尸説とは別に庚申には心を改める日としての意味があったとする説を唱えており、隠岐や山陰の八日待もこの更新の観念から解釈しうると整理している。

静岡県島田市の伊久美白井集落では、五世帯しか住んでいない山あいの集落で、今も庚申さんが祀られている。公会堂に青面金剛の庚申画像を掛け、礼拝した後、ストーブを囲んで飲食しながらよもやま話をする。五世帯が当番制で回している。昭和三十五年八月の集中豪雨で住居が埋没する災害を経験した集落で、神仏崇拝と隣人愛が強く、助け合いの心が年配者から若者へ引き継がれているという。庚申が災害の記憶と結びついて残っている例だ。

福島県三島町では、大石田と高清水地区だけに近年まで庚申講が残っていた。本尊は青面金剛で、掛軸は今も某家に保管されている。宿となった家に集まり、夕食を共にして住職と念仏を唱えた。

福島県のある集落では、講を組織していたのが七軒で、その家の「子どもたち」が二か月に一度、庚申の日の夕方に金を持って宿に集まった。輪番の宿は青面金剛の掛軸を床の間に飾り、団子と酒を供えて簡単に祓いをした後、団子や「ちいちのまんま」と呼ばれる味ご飯を食べて夜遅くまで楽しく過ごした。大人ではなく子供の講だ。庚申は場所によって、子供組の行事にもなっていた。

長野のある地区では、庚申の掛軸を前に祈り、令和七年十一月に最後の講が解散した。かつて五つあった庚申講が、これでゼロになった。

記録三題――消えていく夜を最後に見た人たち

ここからは、実際に残された三つの記録を、それぞれじっくり読んでみたい。

ひとつ目。愛知県豊川市、北金屋庚申講「大黨組」の最後の集まり。二〇二六年五月十日のことだ。

この講がいつ始まったのかは、ろうそく台をしまう木箱の蓋裏に書かれた墨書から逆算できる。少なくとも享保十二年(一七二七年)には講があったことが確認できる。あと一年待てば三百年になるところだった。

曽祖父の代から入っているという川村明弘さんによると、昔の大黨組の講には五十人から七十人が集まった。所属は三十世帯前後で、事実上の世襲制だ。六十日に一度の庚申の夜、男だけが集まって酒を酌み交わし、一晩中語り合った。会場は輪番で講員の家。午後四時頃に身を清め、六時頃から集まって、大人の社交場として情報交換をしていたという。

かつては会場担当の家が賄いも作っていたが、やがて日中に仕出し弁当を取るようになり、さらに料理店での開催へと変わっていった。徹夜が短縮され、家庭料理が仕出しになり、仕出しが外食になる。三百年かけて、行事は少しずつ体から離れていった。

最後の日、市内の懐石料理店に集まったのは七人。最高齢は九十一歳が二人。うち一人は五歳の頃から父に連れられて講に出ていた、と語った。八十六年間、庚申の夜に通い続けたということだ。

この日も「消えるまで帰れない」という長い線香に火を付け、ろうそくを灯し、般若心経などを唱えた。乾杯の発声で会食が始まり、二時間にわたって戦後の街の変遷などの昔話に花が咲いた。大黨組には、この日も使った仏具と青面金剛の掛軸が残る。同月二十二日に全員で奈良県を訪ね、お精抜きをしてもらって、三百年の活動を終えた。

ふたつ目。広島県庄原市実留町の話だ。庚申懇話会の会誌『庚申』第四十号(昭和四十年)に窪徳忠が「庄原市に伝わる庚申の説話」として報告している。

傾斜地にある庚申塔が不便なので、平らな場所に移そう、という話になった。移転の作業は無事に済んだ。ところがその後、移転の仕事を手伝った人が二人続けて死んだ。さらに、もともと庚申塔があった場所の下にあった家の家族が病気になった。人々は塔を元の場所に戻した。

理屈としては、たかが石を数メートル動かしただけだ。だが村の側の論理では、石は「そこに在ること」に意味がある。動かした人間が死に、動かされた石の下にいた家が病む。だから戻す。

この判断の速さと躊躇のなさが怖い。誰も検証しない。検証する前に戻すのだ。そしてその判断が正しかったかどうかも、永遠に分からないまま伝承だけが残る。

似た話はいくらでもある。新潟県柏崎市佐藤ケ池の記録では、孫右衛門という家の長男が、庚申塔の前で自分の孫に放尿させた。すると長男は病気に取り憑かれ、口が曲がってしまった。孫右衛門は山伏のお告げに従って庚申塔を供養し、不敬を詫びた。すると長男は元気になった。

神奈川県相模原市緑区の記録では、ある場所で首吊りが二件続いたのは、庚申塔の屋根が背後の木に食い込んで宙吊りになっていることの祟りだ、と言う人がいた。石の屋根が宙に浮いている状態と、人が首を吊る状態が、形として重ねられている。

三つ目。栃木県旧湯津上村の庚申講の一夜の記録だ。これは村誌に残された民俗調査の記述である。

もとは六十日ごとの庚申の日に必ず開かれていた。今も続けている講中もあるが、春庚申と秋庚申に分けて年二回、あるいは年一回に減らした講中も多い。出席するのはシンショウモチ、代理でも息子。集会場は当番の家で「宿」と呼び、家並み順に回る。米を集める行為が触れの代わりになる。

庚申講には必ず一本ずつ掛軸があり、そのほとんどが青面金剛像を描いたものだ。掛軸への拝み方は講中ごとにまちまちで、柏手を打つところ、合掌するところ、線香をあげるところとあげないところが、近い地域の中でも入り混じっている。拝み終わると年長者順の座に着く。

調査の時点でどの講も午後七時頃に始まって十時頃に終わっていたが、以前は泊まりがけで朝までやっていた。かつては参加者が大食を強要される強飯行事もあった。最近は刺身や煮魚などのなまぐさ物も自由に使うが、本来は精進料理のみだった。

たった一枚の掛軸と、家並み順の輪番と、米を集めて回る足音。これだけの装置で、村は六十日ごとに全員の顔を確認していた。

研究者たちは何を言い争ってきたか

庚申は民俗学の一大テーマだ。そして、なかなか結論が出ない。

最大の功労者は窪徳忠だろう。一九一三年生まれ、二〇一〇年没。『庚申信仰』(一九五六年)、『庚申信仰の研究 日中宗教文化交渉史』(一九六一年)、『庚申信仰の研究 年譜篇』(一九六三年)、『庚申信仰の研究 島嶼篇』(一九六九年)と、庚申だけで何冊も書いている。論文「三尸説と日本の庚申信仰」(一九六〇年)、「庚申信仰と北斗信仰」(一九五七年)、「高野山内の庚申信仰」(一九六四年)と守備範囲も広い。

彼の立場は明快で、日本の庚申信仰は中国道教の三尸説が渡来したもので、その受容と変容の過程を日中の宗教文化交渉史として捉えるべきだ、というものだ。

これに対して柳田国男は、庚申を外来のものと見ることに一貫して抵抗した。『石神問答』以来の関心を持ち続け、戦後の『年中行事覚書』では「我々の祖先が庚申の晩に祭っていた神様は結局はもう不明になっているという他はない」「庚申さんが青面金剛などというような妙な外来の神でなかったとすると」といった書き方をしている。

一生を費やしても青面金剛の本質に迫れなかった、という評価もあれば、柳田は最初から外来説を認めたくなかったのだ、という読み方もできる。日本固有の祖霊祭や作神信仰が土台にあって、そこに道教の三尸説が後から乗っかっただけだ、という見立てだ。

実際、この見立てには強い根拠がある。

庶民の庚申講は、後の時代になるほど豊作祈願の色が濃くなる。どこの講でも庚申様は作神様だと言う。神道側の本尊とされた猿田彦神は「大田神」とも呼ばれて田の神とされ、日本人の固有信仰では田の神は冬に山の神となり春に田に降りてくる。猿は山の神の化身として山王とも呼ばれる。だから「猿田彦」という神名は山の神と田の神の二面性を表していて、豊作祈願の庚申講の神にふさわしい。

庚申の仏教化も猿田彦の神道化も、職業的な僧侶や神官の考えたことで、民衆のほうは一貫して庚申を豊作の神と信じていた。その豊作も、庚申講で供養する先祖のおかげだと信じていた。だから庚申講には念仏がつきもので、庚申塔には「申待供養」「庚申供養」という供養の文字が入ることが多い。そういう読み解きになる。

猿田彦との習合には言葉遊びも絡んでいる。「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたこと、そして猿田彦が塞の神と同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読めたこと。この二段構えの語呂合わせが決定打になった。江戸後期には山崎闇斎が説いた神道的庚申信仰が広まり、猿田彦大神を祀るようになる。伊勢市の猿田彦神社がその本元とされる。南方熊楠にいたっては、猿田彦と庚申が同一神であることは平安朝にはすでに信じられていた、とまで書いている。

飯島吉晴の「更新」説は先に触れた。清の儒者が庚申は更新の日と述べたことを引き、三尸説とは別系統の、心を改める日という意味が庚申にはあったのではないか、という提起だ。隠岐島や山陰の八日待という、六十日周期から外れた庚申行事の存在が、この説を後押しする。

石塔の側からは、清水長輝の『庚申塔の研究』が定番だ。東京付近を中心とした庚申塔の変遷を四期に分ける。第一期は板碑時代で、室町から安土桃山にかけて庚申板碑が建てられた時期。第二期は混乱期で、元和から延宝にかけて、種々の主尊を刻んだ塔が乱立した時期。第三期は青面金剛時代で、天和から天明にかけて、青面金剛が主尊の王座を占めた全盛期。第四期は文字塔時代で、寛政以降、文字だけの庚申塔が大量に作られた時代。この四区分は今も有効に機能している。

近世庚申塔の形態を計量的に分析した研究もある。東京二十三区、埼玉県吉川市・上尾市・北川辺町・都幾川村・妻沼町、東京都八王子市・飯能市・青梅市など総計二千四百六十基を対象に、紀年銘と型式を照合して十年単位でセリエーショングラフを描いたものだ。

東京二十三区では板状駒型が三百五十四基(二十二・四パーセント)で最多、次いで舟型二百八十六基(十八・一パーセント)、笠付型二百七十二基(十七・二パーセント)、駒型二百六十八基(十七・〇パーセント)、板碑型百七十五基(十一・一パーセント)。二十三区の最古は足立区正覚院の元和九年(一六二三年)の弥陀三尊来迎像塔で、これは板碑型だ。

分析の結論として、江戸で流行した型式が周辺地域へ順に伝播していく過程が確認でき、しかも江戸に先行する型式は周辺のどこにも存在しない。石造物が商品として流通していたことの証拠であり、江戸地廻り経済圏の確立が従来言われていた元禄から享保期よりも早い可能性を示唆する、という指摘まで出ている。庚申塔が経済史の資料になっているわけだ。

そして忘れてはいけないのが、この分野を支えてきたのが在野の研究者たちだったことだ。庚申懇話会の会誌『庚申』は通巻八十号を超え、全国から報告が寄せられた。石川博司、多田治昭、清水長輝、小花波平六、大畠洋一、鷹取昭。神奈川県の庚申塔を悉皆調査した『神奈川県の庚申塔辞典』のように、一人か二人の人間が生涯をかけて県内全部の石を数え上げた仕事が、この分野を成り立たせている。

庚申は、アカデミアと市井の郷土史家が肩を並べて数を数え続けてきた、珍しい研究領域である。

そして信仰は殺された

これだけ根を張った信仰が、なぜ消えたのか。

明治政府が殺した。まずそう言っていい。

慶応四年(一八六八年)三月、神仏判然令が出る。仏像を神体としている神社は仏像を取り払え、本地仏・鰐口・梵鐘・仏具の類は早々に取り除け、という命令だ。翌四月には別当・社僧に還俗を命じる。これが各地で暴走して廃仏毀釈になった。

庚申は神仏習合の塊である。青面金剛という仏教尊格と、猿田彦という神道の神が、同じ掛軸の裏表で祀られている。分離しろと言われても、分離できる構造をしていない。

続いて修験道が禁止される。明治五年の修験宗廃止令だ。庚申講を組織し、庚申縁起を読み聞かせ、庚申真言を教えて回っていたのは山伏である。その山伏が制度ごと消された。羽黒山は明治六年、吉野山と英彦山は明治七年に神道化された。文久三年に二百五十九戸あった羽黒の坊家は、明治五年の壬申戸籍の時点で百四十七戸まで減り、十年余りで百十二戸が消えている。登拝道沿いの石仏が破壊され、道者小屋が閉鎖された。

庚申を広める職業的な担い手が、地上から消えた。

同時に、神霊の憑依や託宣、性神信仰などが低俗な迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。政府は庚申信仰を迷信と位置づけ、街道筋に置かれたものを中心に庚申塔の撤去を進めた。

それでも講は生き延びた。石も残った。むしろ明治以降のほうが神仏混淆が徹底している例が多い。禁じられた側は、看板を掛け替えて生き延びた。

庚申塔の「庚申」の文字を「塞神」に改刻した例まである。越谷市の東方・見田方地域、かつての忍藩領には、そうやって改刻されたと見られる塞神塔が集中している。取り締まりをかわすために、石の字を彫り直した人がいるのだ。

決定的だったのは、明治ではなく高度経済成長だった。

街道の拡張整備工事によって、残存していた庚申塔のほとんどが撤去または移転させられた。文化財として保護される制度が整う前に、古い石造物はまず「邪魔物」として扱われた。かつて畦道の脇にあった道祖神や庚申塔が、道路拡張で数メートル動かされるということが全国で起きた。その記録が公文書に残っていることは稀だ。

そして信仰そのものも、生活の変化に押し流された。徹夜だったものが、一番鶏が鳴くまででよいことになり、次に前夜半までとなり、ついには一時間ほどで解散する講が現れた。長野県のある地区の講は、掛軸を前に祈るだけの短い集まりになり、そして解散した。愛知県豊川市の講は、家庭の賄いから仕出し弁当を経て料理店へ移り、そして終わった。

現在も残っているのは、寺社の境内や私有地に移されたもの、あるいはもともと交通量が少ない街道脇にあって開発の手を免れたものだ。田舎町へ行けば、道の交差する箇所や集落の入り口に「庚申」と彫られた石を、今も全国で見ることができる。

「動かすと祟る」は現代の噂として生き続けている

ここで話は現代に戻る。

庚申塔にまつわる噂で、今もっとも流通しているのは「動かすと祟る」だ。ネット上の怪談まとめや心霊系の掲示板では、道路工事で庚申塔を撤去したら作業員が事故に遭った、という話が定型として繰り返される。

宮崎県日向地方の話として、畑を広げるときに土地の境にあった庚申塔を撤去したら、施工主が謎の高熱にうなされ、作業員のひとりが工事現場で事故死し、村人が塔の神が怒ったと言って元の場所に戻す儀式をやった、という語りが流通している。

この手の話は、庄原市の伝承の直系子孫だ。構造がまったく同じである。動かす、人が死ぬ、戻す。産業機械と工期とヘルメットが登場するだけで、骨格は昭和四十年に採録された話と変わらない。

もう少し薄い形の噂もある。「地元の庚申塔がいつのまにか位置を変えている」というやつだ。数十年前と位置が違う、毎年少しずつ動いている気がする。

これを丁寧に追いかけると、たいていの場合は江戸から明治にかけての道路整備や神社の統廃合、あるいは戦後の農地改革と道路拡張で、実際に人の手で動かされた記録に行き当たる。ただし工事記録は残っておらず、住民の記憶にも残っていない。記録の不在が伝説を生む、というパターンだ。

加えて、地盤沈下で傾く、雨水で根元の土が流出して沈み込む、寒冷地なら凍結融解のサイクルで地面が膨張収縮する、苔や木の根が基礎を浸食する、といった物理的要因も実際にある。石は本当に少しずつ動く。ただ、それは神の意志ではない。

現場のほうも、この噂の存在をよく分かっている。

二〇二一年三月、横浜市戸塚区の日之出橋交差点近くで、環状三号線の街路整備工事に伴って庚申塔と日之出地蔵が百メートルほど離れた場所に遷座された。地元有志が式典を行い、街路整備後も影響を受けない位置を選んで移した。どちらにも「文政十年」の刻銘があり、江戸後期から代々地域住民が守ってきたものだ。有志の一人はこう語っている。疫病から自分たちの村を守ろうという気持ちは江戸時代も今も同じだ、と。

長野県飯田市座光寺では、リニア中央新幹線関連の国道拡幅で墓地が移転対象になり、元禄七年(一六九四年)に湯沢仁左衛門ほか十名によって建てられた地区最古の庚申塔が、約一キロ東の造成された墓地へ移された。

つまり現代の日本では、庚申塔を動かすときには、きちんと式をやる。神社を移すときの遷座祭や御霊遷しと同じ発想だ。信じているかどうかとは別の次元で、手順として定着している。祟りの噂は、その手順を守らせるための保険として機能している。

怪談の題材としても現役だ。

怪談社の取材をもとにした実話怪談集には、道路沿いの一軒家の敷地に立つ古い庚申塔の話が収められている。建立から二百年ほど、側面に地名が彫られていて道標を兼ねている珍しい塔だ。

地元の男性いわく、この道路は交通量が多いせいで死亡事故が多いが、そのほとんどが頭を強打しての即死で、ほかにほとんど傷がない。戦時中、自分の姉もそこで軍のトラックに轢かれて死んだが、やはり頭を強く打っただけだった。そして戦後十年ほど経った頃、街頭テレビを見ていた住人たちが、庚申塔の前で青白い人魂がいくつも踊るように回っているのを目撃し、視線に気づいたのか人魂は墓地の方向へ飛んで行った、という。

庚申塔は魔除けだから事故は起きないはずだ、という一般論に対して、いや事故はあるがほとんど傷がなくて死ぬ、と地元の人が返す。この妙な言い回しが生々しい。守っていないわけではない。ただ、守り方が人間の期待とずれている。

なぜ庚申なのか――裁判の前夜という時間割

ここからは、少し踏み込んで考えてみたい。まず、庚申という日の選定そのものについてだ。

なぜ庚申なのか。六十干支のうち五十七番目のこの日が、なぜ告げ口の日に選ばれたのか。

『淮南子』の天文訓によれば、庚と申はどちらも五行の「金」に属する。金が二つ重なる日だ。そして金は刑を意味する。刑が執行されるのは辛酉の日である。辛酉の前日が庚申だ。つまり庚申とは、判決の前日、審理の日にあたる。北極大帝が諸門を開いて鬼神の訴訟を許し、人々の善悪を聞いて賞罰の判断を行う日、という説明がある。

三尸が報告を持ってくるのは、まさにその審理の場だ。翌日には刑が執行される。

この時間割を理解すると、庚申の夜の緊張感が一段深くなる。あなたは裁判の前夜にいる。証人は自分の体の中にいて、明日の朝には法廷に立つ。あなたにできるのは、証人を家から出さないことだけだ。だから寝ない。ドアを見張る。夜が明けて酉の日になれば、証言のない裁判が空振りに終わる。そしてまた六十日後、同じ夜が来る。

日本ではこの構造が緩んだ。天帝は帝釈天と重ねられ、閻魔大王とも混ざり、司命という官職名は消えた。刑の執行日という発想も薄れた。代わりに前面に出たのが、青面金剛が三尸を食う、押さえ込むという物理的な対処だ。

中国の守庚申が「証拠を出させない」戦術だったのに対し、日本の庚申待は「証人を殺してもらう」戦術に変わった。より暴力的で、より他力本願である。

青面金剛が左手で髪をつかんでぶら下げているあの女人像は、まさにその実行シーンだ。裁判の前夜に、証人が用心棒に首根っこを掴まれている絵を、二百年にわたって石に彫り続けた。よく考えると、なかなかの図である。

三猿の理屈は、実は通っていない

三猿の位置づけについても、もう一歩踏み込みたい。

三猿の解釈で通俗的に一番よく語られるのは「三尸に見せない、聞かせない、言わせない」だ。だがこの説明は、実は論理的におかしい。

三尸は体内にいて、庚申の夜より前からずっと監視している。その晩だけ目と耳と口を塞いだところで手遅れだ。しかも三猿は自分の目と耳と口を塞いでいるのであって、三尸のそれを塞いでいるわけではない。

だから解釈は二方向に分岐する。ひとつは、三猿は三尸そのもので、告げ口させないために封じている姿だという読み。もうひとつは、三猿は人間の側の心得であって、庚申の夜は礼にあらざるものを見ず聞かず言わずに慎ましく過ごせ、という戒めだという読み。前者は道教的、後者は儒教的だ。そして石を彫った側は、たぶんどちらでもよかった。

もっと即物的な説明もある。「申=さる」だからだ。庚申の申は十二支の申であり、動物では猿にあたる。日本人は語呂合わせに弱い。塞の神を「幸神」と書いて「こうしん」と読ませ、庚申と同一視するのと同じ回路だ。この語呂合わせが山王信仰の神使としての猿と共鳴して、庚申の脇には猿を置くという型が定着した。理屈より先に、絵として決まってしまった可能性が高い。

そう考えると、承応二年という三猿庚申塔の初出年が重い。庚申縁起の系統でも、青面金剛化記系の江戸期縁起になって初めて三猿が登場する。掛軸や大津絵の初期作品にも三猿はいない。

つまり三猿は、庚申信仰の本体ではなく、江戸初期に後付けされた装飾だ。それが今や庚申の代名詞になり、日光東照宮を経て世界に輸出され、ガンディーの説法にまで使われた。装飾が本体を食った例である。

もうひとつ、二鶏の存在も掘り下げる価値がある。

鶏が置かれる理由として、暁を告げる鳥だから、という説明が一般的だ。庚申待は一番鶏で解放される。鶏の声は「終わった」という合図であり、庚申の夜を耐え抜いた人間にとって、これほど嬉しい音はない。三重県の資料はこの鶏を「庚申待ちの望んだ希望の鶏」と表現している。待ちわびた希望の鳥だ。

もうひとつの説明が「申の翌日は酉だから」というもので、こちらは徹底して即物的である。庚申の日が終われば辛酉の日が来る。申の次は酉。だから猿の隣に鶏を置いた。暦の並びをそのまま図像にしただけ、という説だ。この説の乾いた感じが、私はけっこう好きだ。深遠な宗教的意味などなく、カレンダーを絵にしただけかもしれない。

そして日月。日輪と月輪が塔の上部に対で置かれる。日が陽、月が陰という陰陽の理屈がまず来る。だがそれ以上に、日待・月待という近い習俗との混淆が大きい。

日待は日の出を拝む集まり、月待は特定の月齢の夜に月の出を拝む集まりで、十九夜待、二十三夜待、二十六夜待などがある。宗教的な講の集会を総称して日待と呼ぶ地方もあり、自治的な村の寄合を日待と称した地方もある。要するに、庚申待も日待も月待も、村人が夜に集まる口実という点では同類だった。だから図像も混ざる。庚申塔の上部にある日と月は、庚申が「夜の集会」という大きなジャンルの一員であることを示す紋章のようなものだ。

村の夜は、二重構造になっていた

越谷市の女人講の話も、もう少し丁寧に見ておきたい。

四百基以上ある庚申塔のうち、女性だけで建てたと確定できるのは六基。一方で月待塔のほうは女人講が主流だ。十九夜塔、二十三夜塔には「女人講中」「女人念仏講」の銘が普通に見つかる。

つまり近世の村では、庚申待は男の夜、月待は女の夜、という棲み分けが成立していた。男は六十日に一度、女は月に一度か二度。集まる名目も、拝む対象も違う。十九夜の主尊は一般に如意輪観音で、子安信仰と結びついて安産祈願の色が濃い。庚申が作神と長寿と盗難除けなら、月待は子と産だ。

この対比を並べると、村の夜が二重構造になっていたことが見えてくる。男たちが庚申の宿で朝まで喋っているとき、女たちは料理を作って送り出し、別の夜に自分たちの講を開いていた。

そして庚申の最大の禁忌が「その夜に交わるな」だったことを思い出すと、この制度は男女を物理的に引き離す装置でもあった。年に六回、村の夫婦は強制的に別々に夜を過ごす。妊娠のタイミングにすら、暦が介入していたことになる。

「庚申の子は盗人」という俗信は、その介入を正当化するための脅し文句だった。では、なぜ「盗人」なのか。病気でも早死にでもなく、なぜ盗みなのか。

熊楠が指摘した「猿は手が長い」という連想がひとつ。もうひとつは『下学集』の記述だ。この夜は盗賊が事を行うのに利がある、と書いてある。

庚申の夜、村じゅうの家から男が出払って一軒に集まっている。家は女子供だけになる。しかも全員が起きているのは宿の座敷だけで、他の家は静まりかえっている。泥棒にとって、これほど都合のいい夜はない。

実際に庚申の夜を狙った窃盗があったのだろう。だからこそ庚申は盗難除けの神にもなった。田舎の旅宿が庚申講の元締めを務めたのも、旅人の荷が狙われては商売にならないからだ。街道沿いに庚申塚を建てたのも、盗難を減らして道中の安全を図るためだった。

つまり「盗人」というキーワードは、庚申の夜の現実的なリスクから来ている。それが「この夜に孕んだ子は盗人になる」という因果の話に変換され、さらに石川五右衛門や真刀徳次郎という実在の大盗賊の出生譚として肉付けされた。恐怖の再生産としては、実に効率がいい。

宗教行事という鎧をまとった飲み会

ここで少し立ち止まって、この信仰が持っていた「言い訳としての機能」を評価しておきたい。

庚申の夜は寝てはいけない。だから村じゅうの男が集まって朝まで飲み食いする。この構図を、逆から読んでみる。

江戸時代の農村で、男たちが夜通し酒を飲んで遊ぶ口実が他にあっただろうか。庚申待は、宗教行事という鎧をまとった飲み会だった。名目上は精進料理で肉も魚も断つ。だが記録を見れば、近年は刺身や煮魚も自由に使うようになった、と書いてある。掟は必ず緩む。掛軸を拝んで念仏を唱える時間は数十分、残りの数時間は世間話だ。それでも誰も文句を言えない。庚申様の御用だからだ。

同じことが平安の宮中でも起きていた。中国の道教は静かに夜明かしせよと説いた。ところが日本人は最初から碁を打ち、詩を作り、管弦を鳴らし、酒饌を配った。眠気覚ましという建前で宴会にしてしまった。

清少納言が退屈そうに歌会をサボっている『枕草子』の一段は、庚申待がすでに完全な社交イベントになっていたことの証拠である。三尸の話など誰もしていない。伊周が題を出し、女房が苦吟し、定子が茶々を入れる。信仰の痕跡はどこにもない。

そして江戸の宮中では、延宝四年(一六七六年)の医師・黒川道祐『日次紀事』正月巻に、庚申の夜ごとに青面金剛に酒や菓子を供え、殿中の男女が飲食して遊興する、と記される。

「殿中の男女」だ。庚申の夜に男女を分けるという民間の厳しい禁忌は、宮中では機能していない。同じ庚申が、階層によってまったく違う顔をしている。

このズレは見逃せない。庚申信仰には最初から一貫した教義がなかった。中国の道教書には長生法として書かれ、平安貴族には夜遊びの口実として受容され、室町の僧侶が本尊と縁起を後付けし、山伏が十の御利益を並べて売り歩き、農村では作神と祖霊祭と寄合と無尽が混ざり、明治には迷信として弾圧され、現代では観光寺のくくり猿と心霊スポットの噂になっている。

同じ「庚申」という語で呼ばれているだけで、実質はまったく別物が何層も積み重なっている。

だからこそ、研究者たちは決着をつけられなかったのだと思う。窪徳忠が言うように中国道教の三尸説が原型なのは間違いない。だが柳田国男が抵抗したように、農村の庚申講の実態は三尸とはほとんど関係ない祖霊祭であり作神信仰だった。どちらも正しい。層が違うだけだ。

ショケラ論争も同じ構造をしている。窪徳忠が福井の伝承から「女人像=三尸退治」を導き、小花波平六が「関東に例がない」と反論した。両方とも事実を言っている。ただ、庚申は地域ごとに違う層を持っているから、関西の初期層に由来する呼称が福井に残り、関東の後期層には無い、ということがふつうに起こりうる。

この「決着しなさ」こそが、庚申信仰の本質だと思う。誰も統制しなかった。総本山も無ければ教団も無く、教義を検定する権威も無かった。四天王寺庚申堂が諸国庚申の本寺を名乗り、八坂庚申堂が発祥の地を名乗り、柴又帝釈天が「うちの本尊は庚申の日に出てきた」と主張しても、誰も調停しない。日本三庚申を名乗る寺が四つも五つもあっても平気だ。それぞれの村が、それぞれの理屈で、それぞれの石を建てた。

その結果が、あの数万基である。

考えてみてほしい。国家事業でもなく、大教団の布教でもなく、名も残らない村の男たちが、米を持ち寄り、三年十八回の徹夜をやり遂げ、その記念に金を出し合って石工に彫らせた。それが五百年以上にわたって、北は東北から南は九州まで、途切れることなく続いた。ひとつの石が数人から数十人の意志の集積だとすれば、数万基の背後には数十万人から数百万人がいる。

庚申塔は、日本列島で最も大規模な、そして最も無名の集団表現である。

なぜ怖いのか

ここまで書いてきて、この信仰の恐ろしさがどこにあるのか、はっきりしてきた。

第一に、監視者が体内にいる。外から見られているなら逃げられる。壁を作れる。だが三尸は生まれたときからあなたの脳と腹と足に住んでいる。逃げ場がない。しかも大食を好み、財を好み、淫欲を好む。あなたの欲望と同じものを好む。つまりこいつらは、あなたが何をやりたいと思ったかまで知っている。行為だけでなく、動機まで把握されている。

第二に、こいつらはあなたの死を望んでいる。単なる監視者ではない。あなたが死ねば解放されるという、明確な利害を持っている。同居人にして敵。しかも切り離せない。修行者は三尸を斬ることを目指したが、そのために七回の徹夜が必要だった。七回の徹夜、つまり四百二十日にわたる警戒期間である。

第三に、罰の単位が数値化されている。大罪は三百日、小罪は三日。この明確さが怖い。曖昧な「地獄に堕ちる」ではない。三日ずつ減っていく。しかも該当行為は数百種類あって列挙しきれない。『抱朴子』が挙げた悪事の一覧はほとんど呪詛のように長く、井戸をまたぐ、竈をまたぐ、月末に歌う、月初めに泣く、といった些細なことまで含まれる。日常のあらゆる動作が減算対象になりうる。

第四に、対抗手段が「寝ない」しかない。祈祷でも供物でもなく、生理現象への抵抗だ。しかも六十日に一度、生涯にわたって。人生を八十年とすれば、庚申の夜は約四百八十回めぐってくる。四百八十回の徹夜を求められる信仰である。

第五に、集団で強制される。ひとりで寝ずに頑張るのではない。村の男全員が集められ、輪番で家を提供させられ、米を出させられ、朝まで顔を突き合わせる。誰が来なかったか、誰が舟をこいだかは全員が知っている。監視者は腹の中だけでなく、座敷にも並んでいる。

第六に、逃れる方法がインチキ臭い。福井の呪言を思い出してほしい。寝たれど寝ぬぞ、まだ目は寝ぬぞ。三度唱えれば寝ても大丈夫。神様は騙せる、という前提でこの信仰は運用されていた。三尸は騙せる程度の相手だと分かっていながら、それでも六十日ごとに徹夜し続けた。この矛盾こそが人間くさい。

なぜ千年続いたのか

そして最後の問いだ。なぜこんな面倒くさいものが千二百年も続いたのか。

答えは、恐怖ではなく便利さだと思う。

庚申待は、六十日に一度、村の成人男性が全員集まる正当な口実だった。江戸時代の農村に、他にそんな装置があっただろうか。年中行事は季節に縛られるし、祭りは年に一度か二度だ。だが庚申は暦が自動的に決めてくれる。誰の都合でもない。天の運行が決めた日だから、誰も文句を言えない。しかも「寝てはいけない」という条件がついているから、一晩まるごと使える。

その一晩で何が処理されたか。農業技術の情報交換。作柄の相談。水利の調整。縁談。金の融通、いわゆる庚申無尽。村の揉め事の内々の調停。若い者への口伝。要するに、村落共同体を維持するための実務が、すべてこの夜に押し込まれていた。信仰は、その実務に正当性を与える外装だった。

だから信仰の中身は驚くほど適当でよかった。本尊が青面金剛でも猿田彦でも帝釈天でも地蔵でも阿弥陀でも構わない。鎌倉には「鎌倉権五郎景政」を刻んだ庚申塔まである。唱える経文も講ごとにバラバラ、拝み方すら隣の集落と違う。統一しようという意志が最初から無い。それは中身がどうでもよかったからだ。大事なのは、六十日に一度、全員が同じ部屋に集まることだった。

同時に、この信仰は個人にとってのセーフティネットでもあった。

庚申の十徳を思い出そう。病が治る、悪い子が生まれない、長生きする、人に愛される、金が貯まる、火事と水害を免れる、泥棒に遭わない、敵が退散する、安らかに死ねる。近世の庶民が抱えていた不安のほとんどをカバーしている。しかも参加コストは、米を少しと、年に六回の徹夜だけだ。生命保険と火災保険と防犯と縁結びと医療をまとめて六十日分の会費で買える。合理的ですらある。

そしてもうひとつ。庚申待は、罪の帳簿をリセットする儀式でもあった。

三尸は六十日分の悪事を報告しに行く。それを阻止すれば、その六十日はチャラになる。だからこの夜、人々は自分の六十日を振り返らざるを得ない。何をやったか、何を後ろめたく思っているか。心を改める日、更新の日という飯島吉晴の解釈は、この点で腑に落ちる。定期的に自分の行いを棚卸しして、それをなかったことにする。宗教というより、精神衛生の装置だ。

だから、この行事はほとんど何も信じなくても回った。三尸なんて誰も見たことがない。程紫霄が唐末に笑い飛ばしたように、あんなものは悪事を恐れさせるための方便だと、賢い人間はずっと前から気づいていた。

それでも千二百年続いた。信じていたからではなく、便利だったからだ。そして便利でなくなった瞬間、つまり村落共同体が解体し、情報が別の経路で流れ、金融が銀行になり、娯楽がテレビになった瞬間、あっさり消えた。明治政府の弾圧よりも、高度経済成長のほうが効いたのは、そういうことだ。

三尸を信じていない人が、それでも石を建てる

昭和五十五年の庚申年に全国で約千基が新造されたという事実も、この文脈で見ると印象が変わる。

一九八〇年だ。テレビが各家庭にあり、高度成長が終わり、村落共同体が解体しきった後の年である。それでも長野県だけで四百四十九基、上伊那地方の二市四町四村で三百六十六基が建てられた。武蔵野市の延命寺では、元禄九年と元文四年の古塔をそっくり模写した塔を二基建て、銘文まで写した。そして平成十四年にも、千葉県八千代市で結婚五十周年の記念に庚申塔が建てられている。

彼らは三尸を信じていただろうか。まず信じていない。それでも建てた。なぜか。

たぶん、続けることそのものが目的になっていたからだ。六十年に一度の庚申年が来た。前の庚申年にも、その前の庚申年にも、うちの村は塔を建てた。だから今回も建てる。信仰の内容ではなく、継承の事実だけが受け継がれている。

庚申とは、そういう形で生き残った。中身が空洞になっても、器だけは残る。そして器を守るために、また石を建てる。

そう考えると、二〇二六年五月に豊川の講が三百年目前で終わったこと、二〇二五年十一月に長野の集落から最後の庚申講が消えたことの意味も、はっきりしてくる。

三尸への恐怖が消えたから終わったのではない。恐怖はとっくの昔に消えていた。終わったのは、続ける人がいなくなったからだ。九十一歳が二人。五歳の頃から父に連れられて通った男が、八十六年目に線香が消えるのを見届けた。奈良まで行って、掛軸のお精を抜いてもらった。

抜かれた掛軸は、ただの絵になる。青い顔をした六本腕の神と、三匹の猿。あれはもう何も守らない。

でも石は残る。石は誰も抜けない。撤去されようが移設されようが、道路の脇に押し込められようが、寺の隅に十数基まとめて並べられようが、石は残る。そして工事のたびに、誰かが「これ動かして大丈夫か」と言い出す。式をやったほうがいいんじゃないか、と。宮崎の畑の話が持ち出され、庄原の移転の話が持ち出され、作業員が死んだ死んでないという噂が現場に流れる。

そうやって、庚申は祟りの噂として二十一世紀を生き延びている。

信仰としては死んだが、恐怖としては生きている。これはこれで、なかなか見事な生存戦略だ。三尸だってそうだ。宿主が死んでも、鬼になって遊行し、人の供物を食べて生き続ける。庚申信仰そのものが、まるで三尸のように振る舞っている。本体が滅んだあと、その残骸が自由に歩き回って、我々の噂話を食べている。

道端の、日本でいちばん地味な戦勝記念碑

残されたのは石だけである。

数万基。誰も数えきれない量の石が、道端に、寺の隅に、宅地の脇に、区画整理でまとめられた一角に、今も立っている。どれも、誰かが眠らなかった夜の記念碑だ。

三年十八回。米を持って隣の家に行き、掛軸に手を合わせ、精進料理を食べ、朝まで喋り、一番鶏で解散する。それを十八回やり遂げた人たちが、金を出し合って石工に彫らせた。そこには「庚申」の二文字か、あるいは青い顔をした六本腕の神と、三匹の猿と、二羽の鶏と、日と月と、踏みつけられた鬼と、髪をつかまれた女が彫られている。

その石が言っているのは、たったひとつのことだ。

俺たちは、あの夜、寝なかった。

最後にひとつだけ。

もし今夜が庚申の夜だったとして、あなたが徹夜する気があるかどうかは、正直どうでもいい。ただ、道端で「庚申」と彫られた石を見つけたら、少し立ち止まってみてほしい。その石の側面には、たいてい年号と、建てた人たちの名前か「講中」の二文字が刻まれている。摩滅していて読めないことも多い。

読めなくていい。彫られているのは、ある村の男たちが三年間、六十日ごとに集まって、朝まで喋り続けたという事実だ。稲の話をして、値段の話をして、隣村の噂をして、誰かの舟をこぐ頭を小突いて、鶏が鳴くまで起きていた。腹の中の虫を出さないために。あるいは、そういうことにして。

それを十八回。彼らはやり遂げた。だから石がある。

道端のあの石は、日本でいちばん地味な戦勝記念碑だ。

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