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十二年に一度、島の女が神になる――久高島イザイホーが途絶えた日

沖縄本島の南東、知念半島の先から船で十五分ほどの海に、細長い島が浮かんでいる。久高島。長さ三キロちょっと、周囲八キロ、いちばん高いところで標高十七メートルという、地図で見たら爪の先みたいな島だ。ここに、十二年に一度だけ、島の女が神になる祭りがあった。

イザイホーという。

「あった」と過去形で書くのがつらいんだけど、事実そうなんだよな。最後に行われたのが一九七八年。それから四十八年、一度も開かれていない。そして今年、二〇二六年は丙午。まさに午年で、本来ならイザイホーの年だ。旧暦十一月十五日は新暦だと十二月の下旬にあたる。つまり今年の暮れ、あの島では四日間の祭りが始まるはずだった。

でも、たぶん始まらない。

この記事では、その途絶えた祭りが具体的に何をやっていたのか、なぜ途絶えたのか、そして途絶えたあとに島で何が起きたのかを、できるだけ細かく追いかけていく。正直に言うと、調べれば調べるほど背筋が寒くなる話がいくつも出てくる。覚悟して読んでほしい。

誰の土地でもない島で、女は神になり、男は海に出た

まず久高島がどういう場所なのかを押さえておかないと、この祭りの異様さが伝わらない。

この島、土地の私有がほぼ存在しない。公有地や電力会社の所有地なんかを除いて、島の土地は自治会である「字」の名義で登記されている。いわゆる総有ってやつだ。琉球王朝時代の地割制度が、日本でここだけ生き残ったと言われている。島の人が家を建てるときは字から土地を借りる。島を出るときは字に返す。売れない。相続で切り分けることもできない。

これがどれだけ異常か、想像してみてほしい。日本のどこにいても、土地は誰かの名前になっている。ところが久高島では、土地は「みんなのもの」であり、突き詰めれば「神のもの」なんだよな。島の人が自分たちの島を「神の島」と呼ぶのは、観光キャッチコピーじゃなくて、法的な登記の話にまで貫かれた事実なわけだ。

そのうえで、この島の伝説がまた強い。琉球の創世神アマミキヨが天から降りてきて国づくりを始めた最初の場所が、島の北端のカベール岬、島の言葉でハビャーンだとされている。一七一三年の『琉球国由来記』には、島の東岸にある伊敷浜、イシキ浜に流れ着いた壺の中に五穀の種子が入っていた、という記述が残る。要するに、琉球に穀物がもたらされた発祥地でもあるわけだ。

だから琉球王国の国王は、聞得大君を連れてわざわざ海を渡って久高島まで礼拝に来ていた。あまりに危険で大変なので、のちに本島側の斎場御嶽から久高島を遥拝する形に切り替わったという。国王がそこまでする島だった。

島の中央部にはフボー御嶽、クボー御嶽とも呼ばれる森があって、これが琉球七御嶽のひとつとされる島最高の聖域だ。男子禁制で、現在は男女問わず全面立ち入り禁止になっている。入口のところまでしか行けない。

そしてこの島には、はっきりした役割分担があった。女は神人、カミンチュになる。男は海人、ウミンチュになる。男は舟に乗って海に出て、女は陸に残って祈る。男が生きて帰ってくるように祈るのは、母であり妻であり姉妹である女の仕事だった。その「祈る資格」を女に与えるための、島全体をあげた就任式――それがイザイホーなんだよな。

神になれるのは「島で生まれ、島の男に嫁いだ女」だけだった

ここからが厳しい。

イザイホーに参加できるのは、久高島で生まれ育ち、久高島出身の男性と結婚し、その年に三十歳から四十一歳になる女性だけ。この条件を満たす女性は、原則として全員が受ける。逆に言えば、ひとつでも外れたら一生受けられない。

島で生まれても、本島の男と結婚したらダメ。島の男と結婚しても、生まれが島でなければダメ。ここを聞いた瞬間に、ああこれは滅びるな、と誰でも思うだろう。実際そのとおりになった。

なぜ三十歳からなのかというと、この島の女性には年齢階梯制がある。イザイホーを経て神女の仲間入りをした三十歳から四十一歳がナンチュ。四十二歳から五十三歳くらいがヤジクで、祭りの世話役をやる。そこからシュリユリタ、ウンサクーと上がっていって、六十一歳から七十歳がタムトゥ。ここでようやく冠をつけることが許される。そして七十歳でテーヤク、つまり退役する。

三十で神になって、七十まで四十年間働き続ける。これが久高島の女の一生だった。証言のなかに「三十才から七十才までの四十年間、長かった」という言葉があるんだけど、そりゃそうだよなと思う。

神職の頂点には久高ノロと外間ノロという二人のノロがいた。ノロは琉球王朝が五百年ほど前に土地を給する官人として任命した女性神職で、久高島では通称ヌルと呼ばれる。この二人が島の祭祀の総責任者だ。男性側にも神役はいて、ノロに配される男性神職者が根人、ニーチュ。竜宮神を司る六十歳過ぎの男性神職者がソールイガナシー。ほかに掟神と呼ばれる役や、ノロの世話役のウメーギ、ナンチュを先導するイティティグゥルーという神女もいた。イティティグゥルーはシム門中から出ることになっていた。

つまりイザイホーというのは、女性個人の宗教体験である以前に、島の全世帯・全門中が役割を割り振られてやる巨大な共同作業だったわけだ。この「役が全部埋まらないと成立しない」という構造が、あとで致命傷になる。

一日目の夕暮れ、白い女たちが叫びながら走り出した

ここから祭りの中身に入る。旧暦十一月十五日から四日間、島の北側にある久高御殿庭、ウドゥンミャーが主舞台になる。

初日の早朝、まず何が行われるかというと、祖母の霊が入った香炉の継承式だ。

これがイザイホーの核心だと思う。久高島には、死んだ祖母の霊が孫娘に還ってくるという転生の観念がある。だからイザイホーで女が受け取るのは、抽象的な「霊力」じゃない。自分の祖母そのものだ。香炉という具体的な物体に宿った、顔も声も知っている祖母の霊を、孫娘が正式に引き受ける。

一九二七年生まれで一九六六年に受けた女性は、この瞬間について「祖母の霊をもらうので緊張した」と語っている。一九三七年生まれの女性は「おばあさんからの霊を受けるという重役のため恐れを感じていた。恐くもあった」と言う。楽しみとか光栄とかの前に、まず恐い。それが本物の感覚なんだと思う。

そして初日の夕刻。ここからが有名な場面だ。

午後七時過ぎ、白装束の神女たちが両ノロの家に集まっている。ムトゥティルルという神謡を歌う。歌い終わると、掛け声を上げながら庭先へ一斉に飛び出す。夜だ。島には街灯なんてほとんどない時代の話だ。白い衣の集団が、暗い島の道を叫びながら走る。

走り込む先は御殿庭の神アシャギ、ハンアシャギと呼ばれる拝殿だ。ナンチュたちは髪を洗ったまま結わずに垂らし、白衣をまとっている。先輩の神女たちは髪を巻き上げ、白鉢巻を締め、ウフジンという祭礼用の白大衣を着ている。

そして「エーファイ、エーファイ」と連呼しながら、拝殿の周りを回る。一九七八年の記録映像では七つ橋渡りを五回繰り返したとされ、別の記述では七回旋回したとある。回数については資料によって食い違いがあって、これは後で詳しく触れる。

全員がアシャギの中に入ると、扉が閉ざされる。

ここで外部の人間は締め出される。中で何が起きているかは、外からは見えない。

七つ橋で転ぶ女は、何かを隠している

この初日の場面には、島でいちばん有名な禁忌がくっついている。七つ橋だ。

神アシャギの前に、木の枝や幹を組んで作った橋が架けられる。材料はハマイヌビワ、オオバギ、オオハマボウといった島の木だ。地面すれすれの、幅の狭い、頼りない橋。この橋をナンチュたちが渡って、イザイ山の中に建てられた七つ屋という仮小屋へ入っていく。

で、この橋には言い伝えがある。

躓いてはいけない。落ちてはいけない。もし躓いたり落ちたりする女がいたら、それは浮気をしたか、何か後ろ暗いことをしているからだ、と。

一九二三年生まれで一九五四年にイザイホーを受けた女性は、はっきりこう語っている。「不義理をしていたら七つ橋を渡るときに落とされる」。落ちる、ではなく、落とされる。神が落とすんだ。

考えてみてほしい。島全体が見ている。夫も、義理の親も、幼馴染も、姑も見ている。そのなかで、自分の潔白を身体ひとつで証明しなければならない。しかも暗い。しかも裸足だ。一九四〇年生まれで一九七八年に受けた女性は「ナンチュのときは裸足だった」と証言している。

一九四一年生まれで一九七八年に受けた女性は、こう言っている。「久高島で生まれ久高で結婚した人しか出られない、浮気している人は出来ないから誇らしい気持。晴れ姿」。同じ女性が同時に「失敗したらどうしようとも思った」とも言う。誇りと恐怖が完全に同じ場所にある。

外から見ると残酷な仕組みに見えるかもしれない。でも島の人にとっては、これは女を貶める装置じゃなくて、女を保証する装置だったんだと思う。橋を渡りきった女は、島の全員の前で「この人は正しい」と証明されたことになる。証明されたから、祈る資格を持つ。

イザイ山の七つ屋で、三晩

橋を渡ったナンチュたちが入るのが、イザイ山だ。

イザイ山というのは、久高御殿庭のハンアシャギの奥にある森のことで、独立した山ではない。この森の中に、祭りのためだけの仮小屋、七つ屋が建てられる。材料はやはり島の木で、ハマイヌビワ、オオバギ、オオハマボウ、リュウキュウガキ、モクタチバナといったものを組み、床にはリュウキュウチクやクバ、ビロウの葉を敷き、壁にはススキやモンパノキを使ったという。祭りが終われば全部壊して捨てる、一回きりの建物だ。

ここに、ナンチュたちは三晩籠る。

日本大百科全書はイザイホーの主眼をここに置いている。三十歳から四十一歳の女が、十五日から三晩、村の祭場の後ろにあるイザイ山の仮小屋にこもる。これがこの祭りの本体だ、と。

籠っている間、外の家々から食事が届けられる。一九三七年生まれの女性は、子どものころ母親のイザイホーのときに「お茶やお弁当をイザイヤマに届けに行っておもしろかった。それぞれのお家から色々と沢山のものが届けられていて」と回想している。一九三二年生まれで一九七八年に受けた別の女性も「イザイヤマにはたくさんのご馳走が届いて楽しかった」と語る。

暗い森の中の小屋に、島じゅうから料理が運び込まれてくる。三晩。外に出ず、身内以外の男には会わず、ただ籠る。

一九二七年生まれで一九六六年に受けた女性は、この森について忘れられない言い方をしている。「イザイヤマでは神様がいらして本当に神々しかった。神様はいらっしゃいますよ」。

インタビューを受けたのが二〇一七年、彼女は九十歳前後だ。半世紀たっても現在形で「いらっしゃいますよ」と言う。この一言の重さが、この祭りのすべてを説明していると思う。

洗い髪を垂らす二日目、朱を差される三日目

二日目の午前は、ハシララリアシビ。頭垂れ遊び、洗い髪たれ遊びとも書く。七つ屋から御殿庭に出てきたナンチュたちが、髪を垂らしたまま踊る。神に憑かれた状態を表しているとも、まだ完全な神女になっていない未完成の状態を示しているとも言われる。「遊び」というのは沖縄の言葉では神事のことで、ふざけるという意味じゃない。神と一緒に遊ぶ、つまり神をもてなす行為を指す。

三日目の午前は、朱付け。シュリイキという。ナンチュの額や顔に朱が付けられる。これが神女としての印になる。

この日にはスジという餅も作られる。一九六六年にはモチ米をついて作ったが、一九七八年には白玉粉を練ったものになっていた、という細かい記録が残っている。それを適当にちぎって九つに分け、そのうち八個を同じ大きさにしてイザイゲーショウというデイゴ材の椀に立て、残り一個を大きめに作ってアダカ、ナガミボチョウジの葉に乗せて八個の上に置く。

このスジを作るのは、ナンチュのイキー、つまり兄弟の妻だ。作った餅を膳に乗せ、イキーがトゥバシル、戸柱の神に供えて拝んでから、御殿庭に運ぶ。

つまり、女が神になる祭りなんだけど、その裏では兄弟とその妻が総動員されている。一世帯につき何人分もの仕事が発生する。島の人口が減るというのは、この「裏方の手」が消えるということでもあるわけだ。

四日目、ハブイを被って島を練り歩き、桶を回す

そして最終日。ここが最高潮になる。

まずイザイ花が配られる。赤と黄と白の色紙で作った花で、赤が太陽、白が月、黄が地の神を象徴しているとされる。外間根神ら女性の神役は白い鉢巻の額に二つ差す。男性の神役は左耳に一つ。ニープトイという役の人はメガネの柄に差し、ソールイガナシーは帽子の帯に差し込んで固定する。全員が同じ花を身につけることで、この日ばかりは全員が神の側に立つ。

そしてナンチュたちが被るのがハブイだ。

ハブイはトウツルモドキという蔓植物で、御嶽から採ってきたものを冠のように頭に被る。琉球石灰岩の土地に多く生える蔓で、他のものを覆い尽くすように登っていき、葉先が細く伸びて巻きひげになる。研究者はこの姿に龍のイメージを見る。

そのハブイに、アダカ、ナガミボチョウジの葉を二枚、両耳のあたりに差す。この植物の葉は十字対生、つまり上から見ると卍のように交差して付く。祭祀植物を調べた琉球大学の報告は、この十字対生の形が神と交流するための象徴として選ばれた可能性を指摘している。

全員が髪を結い上げ、白鉢巻を締め、イザイ花を額に二本差す。外間ノロを先頭に、ノロ、掟神、ナンチュ四人、ヤジク十五人という順で列を作る。

そして家回り、アサンマーイが始まる。

「エーファイ、エーファイ」と唱えながら、両ノロの家と四人のナンチュの家を回っていく。各家では表座敷でイキーが待っていて、座敷の中央にはススキを束ねたタモトが置かれ、その上にナンチュが座る。ノロが座敷に上がり、オモロが歌われる。歌が続いている間に、ナンチュとイキーがサルマーユ、おかゆをやりとりする。交換が終わると、ノロがナンチュのハブイとアダカの葉を取り、鉢巻を外して盆に乗せる。

ここで一度、冠が外される。

でも終わりじゃない。ナンチュたちはマーデーラという場所にある、島のジク、軸と呼ばれる変形十字路のところで、外したハブイとアダカを頭に被り直す。そして手にクバ、ビロウの扇を持つ。

向かう先は外間殿。島の中心祭場だ。

庭にはミキの入った大きな容器が置かれ、その上にクバの葉が乗せられ、かき混ぜるためのマーニ、クロツグの棒が添えられている。この容器を中心に、神女たちが三重の円陣を作る。そしてティルルに合わせて踊る。これが桶回り、グウキマーイだ。

さらにアリクヤーの綱引きが行われる。ブリタニカ国際大百科事典は、最終日に綱引きをしてニライカナイの神を迎える、と説明している。海の彼方から神を呼び寄せる。呼び寄せて、新しい神女たちを見せる。

祭りが終わると、ハブイとアダカの葉はイザイ山の西側の出入口付近に捨てられる。七つ屋も壊される。すべては消える。ただし女たちの中には、祖母の霊と、祈る資格が残る。

四日間の本祭のあとには直会が続き、さらに旧暦の暮れにはフバワクという結願行事が控えている。一九七八年の記録では、十二月二十七日から二十八日にかけて行われた。さきほどの一九四〇年生まれの女性はこれについて「特にフバワクはみんなびしょ濡れだった。でも、みんな一生懸命だから、何も感じずに行った」と語っている。

資料によって回数も日数も食い違うのは、なぜか

ここでちょっと立ち止まりたい。

イザイホーについて調べていると、すぐに気づくことがある。資料によって書いてあることが違うんだよな。

期間からして違う。四日間と書く資料があり、五日間と書く資料があり、六日間と書く資料もある。世界大百科事典は五日間、日本大百科全書とブリタニカは四日間、久高島に関する記述では六日間としているものもある。琉球新報の二〇一四年の記事は五日間としている。

初日の旋回についても、七つ橋渡りを五回繰り返したという記録と、拝殿を七回旋回したという記述の両方がある。

これは誰かが間違えているというより、そもそも「どこからどこまでを一つの祭りと数えるか」が人によって違うからだ。御願立という一か月前の準備から数えるのか、本祭四日だけを数えるのか、直会まで含めるのか、フバワクまで含めるのか。祭りというのは境界が曖昧なものだ。

そして、もっと厄介なのが、時代によって中身そのものが変わっていったことだ。

一九五四年、戦後初のイザイホーが行われた甲午の年。沖縄戦から十年も経っていない。この時は「古式を忘れた若者がいたり、一時は迷信だとして、中止説もあった」と記録されている。祭りを続けるかどうか、島の中で揉めていたわけだ。

一九六六年の丙午。ちょうど六十年前、今年と同じ丙午だ。この年は状況がかなり違った。時勢が落ち着き、行政も関心を寄せ、メディアが大きく取り上げるようになった。島の人たちもそれに呼応するような意気込みがあった、と記録されている。新たに加わるナンチュは二十八人。神役の顔ぶれもほぼ揃っていた。この年が、記録に残るイザイホーの最盛期だ。

一九七八年の戊午。もう衰退がはっきり見えている。ナンチュ候補は八人に激減していた。

同じ名前の祭りでも、一九五四年と一九六六年と一九七八年では、中身も規模も意味も違う。「イザイホーとはこういう祭りである」と一言で言い切れないのは、そういうことなんだよな。

誰がカメラを向けたのか――記録の歴史そのものが物語になっている

イザイホーは、日本の民俗行事のなかでも異様なほど濃く記録された祭りだ。そしてその記録の歴史が、そのまま島の受難の歴史にもなっている。

國學院大學の齋藤ミチ子による報告によれば、故・櫻井満は一九六六年に初めてイザイホーを観察し、プリント約七十五枚、スライド八十三枚を残した。一九七八年にはプリント約百十枚。このときは「古典と民俗の会」のメンバー十数名で島を訪れ、齋藤自身も同道した。翌一九七九年には参加者による共著『神の島の祭りイザイホー』が出されている。

写真家では比嘉康雄の名前が外せない。沖縄の祭祀を撮り続け、久高島を「日本人の魂の原郷」と位置づけた仕事は、この島の名前を全国に知らしめた。映像では野村岳也の作品もある。

そして決定的なのが、一九七八年の映像記録だ。

一九七三年、シカゴで開かれた世界民族学・人類学大会で「緊急人類学」のアピールが出された。消えかけている文化を今のうちに記録しろ、という呼びかけだ。これを受けて下中記念財団の下中邦彦理事長が沖縄での映像制作を決断し、東京シネマ新社の岡田一男に話が行った。谷川健一と比嘉康雄に相談するよう指示され、そこから久高島のイザイホー記録が動き出す。

撮影は十六ミリカラーフィルム、カメラ四台による同期録音。スタッフは十数名。約五十日間の島滞在。撮影された素材は延べ十七時間に及ぶ。同期録音でここまで完全に記録された日本の民俗行事は他に例がない。

ただ、撮影までの道のりは平坦じゃなかった。一九七七年の準備段階で分かったのは、島の人たちは晴れ着姿を撮られるのはともかく、普段着の日常を撮られることへの抵抗が意外に強いということだった。最終的に久高ノロ家から許可が出たが、岡田は伝承技術の流出を懸念して公開を慎重にすることを口頭で約束している。

そして岡田自身が後年語っているのが、これだ。撮影の当時、まさかこれが最後の記録になるとは、まったく予期していなかった。

十二年後にまた来ればいい。誰もがそう思っていた。

その十七時間のフィルムは、その後長く保管されてきたが、ビネガーシンドロームによる劣化の危機に直面した。二〇二一年にクラウドファンディングが立ち上がり、目標六百万円を達成し、全撮影フィルムの高精細デジタル化が実現した。神謡には原音のカタカナ表記と現代語訳の字幕が付けられた。二〇二二年にデジタル・リメーク版が完成し、各地で上映されている。東京文化財研究所の無形文化遺産部にも映像アーカイブが構築された。

祭りは消えたが、映像は残った。皮肉と言えば皮肉なんだけど、この「残ってしまった」ことが、あとで島の人たちにとって別の重さになっていく。

岡本太郎が踏み越えた線

記録の話をするなら、避けて通れない事件がある。

一九六六年のイザイホーには、岡本太郎が取材に入っていた。彼は一九五九年に初めて沖縄を訪れ、この土地に強く惹かれていた。久高島に来たのは二度目だった。

そこで彼は、二つの線を越えた。

ひとつは、祭りの最中に男子禁制のクボー御嶽に入ったこと。もうひとつが、島の風葬の場に入り、木の棺を開けて中の死者を写真に撮り、それを『週刊朝日』に掲載したことだ。

久高島には風葬の習俗があった。遺体を洞や岩陰に安置して自然に還す。数年後に洗骨して壺に納める。島の人にとって、そこは死者が神になっていく途中の場所であり、生きている人間が軽々しく入る場所ではなかった。

その一部始終が週刊誌のページになって全国に流れた。

島がどれだけ傷ついたかは、その後の反応を見れば分かる。この件は島で「後生の事件」、グソーの事件と呼ばれ、風葬という習俗そのものが廃止される契機になったと言われている。風葬の場はコンクリートで覆われた。

岡本太郎という人が沖縄を心から愛していたことは、残された文章や写真を読めば分かる。彼のドキュメンタリー映画を見た人は、あれは愛だったと言うだろう。実際にそうなんだと思う。

でも、愛していれば何をしてもいいわけじゃない。ある論者はこの件を「豊かなる文明が貧しい文明に対しての冒涜」と厳しく評した。島民全体の同意はなかったのだから、と。

ここは慎重に言いたい。岡本太郎を悪魔化するのは違うと思う。ただ、この一件が示しているのは、外部の人間が「素晴らしいものを記録したい」という善意で動いたときにこそ、いちばん深く聖域を傷つけうるという構造だ。カメラは中立じゃない。そして、傷ついた側は五十年経っても覚えている。

今も久高島では、フボー御嶽は通年立ち入り禁止だ。祭祀のある日はカベール岬にも入れない。海浜の石や砂、サンゴのかけら、木の葉に至るまで、島の自然物はいっさい持ち帰り禁止と明記されている。これらは観光客への嫌がらせでも、雰囲気づくりでもない。踏み越えられた歴史があるからこそ引かれている線だ。行くなら、絶対に守ってほしい。

二十八人、八人、そしてゼロ

さて、いよいよ核心だ。なぜ途絶えたのか。

数字を並べると残酷なくらいはっきりする。

一九四二年のイザイホーでナンチュになった女性は三十人。一九六六年は二十八人。ここまでは十分に成立する規模だ。ところが一九七八年は八人。そして一九九〇年、ゼロ。

十二年で二十八人が八人になり、次の十二年でゼロになった。

理由は単純だ。島に若い女がいない。いや、正確に言うと「島で生まれ、島に残り、島の男と結婚した若い女」がいない。

久高島には高校がない。中学を出れば本島に出る。出た先で就職して、出た先で結婚する。これは全国の離島が抱えている話とまったく同じだ。特別なことは何もない。ただ、久高島の場合は、この普通の過疎が、そのまま祭祀の絶滅に直結した。参加資格が厳格すぎたからだ。

島の人口は、二〇一五年の国勢調査で二百六人、二〇二〇年で百九十一人。近年は二百三十人前後で推移している。地元紙は二〇六〇年には島の若者がゼロになるという推計を報じた。仕事があっても住めない事情がある、と。

そして女だけの問題じゃなかった。男の神役も足りなくなっていた。これが一九七八年に露骨に出る。

一九七八年――根人がいないまま始まった最後の祭り

最後のイザイホーがどれだけギリギリだったか、当時の新聞の見出しが物語っている。

一九七八年六月十日、琉球新報「イザイホー開催危ぶまれる」。二日後の六月十二日、同じく琉球新報「イザイホー実現の見通し 久高根人が誕生」。

何が起きていたかというと、本来この祭りで中心的な役を担うべき根人が不在だった。そこで急遽、久高根人を立てるという変則的な形で当座を凌いだんだよな。齋藤ミチ子の報告は、写真を比較しながらこの異常事態を指摘している。一九六六年に正規の役を果たした外間根人は貫袴という正式な装束を着けていた。ところが一九七八年の久高根人は、白装束の着流しだった。

装束が違う。つまり、本来の姿ではないと、写真を見れば分かってしまう。

それでも祭りは行われた。しかも、島外からの見学者と報道関係者は「島の人口をゆうに凌ぐ」規模で押し寄せた。二百人ちょっとの島に、それ以上の外来者が来たわけだ。カメラを構える人間の圧力は一段と厳しくなった、と記録されている。

にもかかわらず、と齋藤は書く。祭儀が変則した側面を補って余りあるほどに、カミンチュはもとより島を上げて対応し、終始伝承に則って厳粛に行われた、と。

八人のナンチュ。代役の根人。押し寄せる群衆。それでも島は、四日間を最後までやり切った。

このときの女性たちの言葉が残っている。一九三二年生まれの女性は「人前に出ての儀式なので、着物が乱れたり、帯が外れたりしないようにと緊張した」と語る。何百人ものレンズの前で、着物の裾を気にしながら、祖母の霊を受け取っていたわけだ。

一九九〇年、島が静かに壊れた日

十二年後の一九九〇年、庚午の年。

条件は最悪だった。久高ノロは既に亡くなっていた。外間ノロは闘病中。根人は不在。そして新しいナンチュの候補者はゼロ。

外間ノロの最終的な決断と区長の同意によって、イザイホーの中止が決まった。

ここからが、この記事でいちばん語りたい部分だ。

中止が決まったあと、島の人々の精神的な動揺は、予想した以上のものだったと記録されている。とりわけサーダカ、つまり霊威が及びやすい資質を持つ人ほど、体調に不調をきたすという現象が見られた、と。

十二年に一度必ず来ていたものが来ない。それだけのことで、人が実際に体調を崩す。信じるか信じないかという話じゃなくて、実際に島でそういうことが起きた、という記録なんだよな。

そしてこの年、ある事件が起きる。

シム門中のウクリガミと呼ばれる女性五人が、独断で儀式を行った。齋藤の報告はこれを「イザイホーもどき」と記している。

五人はまずムトドクロを拝み、久高ノロドンノチ、外間ノロドンノチを拝んだ。そして深夜、ウドンミャーのカミアシャギへ、ちょうど神がおられると思われる頃合いを見計らって行った。

アシャギの前に、七つ橋があるとみなした。

そこには何もない。橋は架けられていない。祭りは中止されている。それでも五人は、そこに橋があるものとして、エーファイを唱えながら、七度、行きつ戻りつを繰り返した。

真っ暗な庭で、五十代六十代の女たちが、存在しない橋を七回往復する。

これをやった動機について、報告はこう書いている。イザイホー中止という事態のウクリガミたちへの精神的ダメージは深く、身体に変調をきたし、止むに止まれずとった行動であったという。

つまり、彼女たちは苦しかったんだ。祈りたくて、でも祈る場がなくて、だったら自分たちで作るしかないと思い詰めた。

しかしノロの意向を無視して独断で突如行ったという点で、この行為は島の人々の顰蹙を買った。

そして、ここからが本当に怖い。

その後十年も経たないうちに、実行した五人のうち四人が亡くなった。

これを「神の批判」と受け止めている人々は少なくない、と報告は記している。

五分の四。年齢を考えれば統計的にありえない話ではない。実際、五十代六十代の女性五人のうち四人が十年以内に亡くなる確率は、決してゼロじゃない。合理的に説明できる。

でも、島の人間はそう受け取らなかった。そりゃそうだよなと思う。目の前で、順番を守らなかった人たちが、順番に消えていったんだから。

二〇〇二年、そして二〇一四年――「終わった」が定着していく

二〇〇二年、壬午の年。二度目の不開催。

このときの島の空気は、一九九〇年とはまるで違っていたと記録されている。イザイホー不行も二度目とあって、今やカミンチュも平静に対応するさまが見届けられた、と。一九九〇年のような島内の沈んだ雰囲気とは打って変わって、平穏な明るさともいえる空気に満ちていた。イザイホーのない現実が、すっかり定着した様相を呈していた、と。

象徴的なエピソードが記されている。本来なら静かに過ごすべき聖なる期間だとして家で落ち着いている人がいる一方で、かつてイザイホーの期間中は立ち入りが禁忌とされていた地帯で、平然と農作業に励むカミンチュもいた。しかもその人は、かつてタマガエの役を務めた人物だった。

同じ日に、同じ島で、まったく違う態度が並存している。これが「祭りが終わる」ということの実際の姿だ。誰かが宣言して終わるんじゃない。少しずつ、それぞれの人の中で、別々のペースで終わっていく。

一方で、この年には島の若い有志が、かつてここで由緒ある祭りが行われていたとして、島外からミュージシャンを招いた音楽イベントを久高島交流宿泊センターで開いている。参加者は施設に滞在する留学生徒とその父兄が中心で、島の人たちの参加は少なかったという。

失われた祭りを「かつてここにあったもの」として観光的に語り直す動きと、島の人がそれに乗らない距離感。この一行が、いろんなことを語っている気がする。

二〇一四年、甲午。三度目の不開催が決まった。この年は七月上旬の神人会議で正式に中止が決定され、琉球新報が報じている。理由はノロの不在と、儀式の主役となるナンチュの不足。

当時の内間文義区長のコメントが胸に刺さる。イザイホー経験者から、直接受け継ぐことができる機会は今回が最後かもしれない。後継者がいないことで中止になるのは残念で仕方がない、と。

二〇一四年の時点で「今回が最後かもしれない」と言われていた。一九七八年に実際に受けた最年少の女性が三十歳だったとして、二〇一四年には六十六歳。二〇二六年の今年は七十八歳になる。

時間切れ、という言葉が、これほど文字通りに当てはまる話も少ない。

神女たちは何を語ったか

二〇一七年、園田学園女子大学の山本恭子が、イザイホーを実際に受けた久高島の女性たちに聞き取りを行っている。全員がすでにテーヤク、つまり退役した後だ。この記録に残された言葉が、あまりにも生々しい。三つ、じっくり紹介したい。

ひとつめ。一九三〇年生まれ、一九六六年に受けた女性の話だ。

彼女はイザイホーを受けたくなかった。理由ははっきりしている。店をやっていたからだ。店主として一生懸命に商店を切り盛りしていて、店は繁盛していた。イザイホーに入れば四十年間、神行事に縛られる。時間に遅れることも許されない。商売どころじゃなくなる。だから断ろうと思った。

そして、イザイホーには出ないと言った。

その直後、彼女は転んで足を怪我した。

神様から罰が当たったと思って、出ることにした――彼女はそう語っている。

その後の四十年は、やはり大変だったらしい。店を四回も建て替えて大きくするのに一生懸命だったので、神行事は大変だった、と。商売と信仰の板挟みで、ずっと走り続けた人生だ。

それでも最後にこう言う。今になっては、子どもたちのことも祈ることができて、みんな健康にこられたので、良かったと思っている、と。

断ろうとして転んだ。その一回の転倒が、彼女の四十年を決めた。因果関係なんて証明できない。ただ足を滑らせただけかもしれない。でも彼女はそこに神を見た。そしてその解釈のもとに、四十年を生き切った。

ふたつめ。一九三九年生まれ、一九七八年の最後のイザイホーで受けた女性の話だ。

彼女は、イザイホーの前年に夫を亡くしている。海人だった夫だ。残されたのは四人の子ども。

そんな状態でイザイホーどころじゃない。彼女は、入らないと言った。

すると叱られた。誰にかは記録されていないが、島の年長者だろう。亡くなった旦那のことよりも子どもたちのことを考えて、入らないといけない、と叱られたという。

死んだ夫を悼む時間より、生きている子どものために祈る資格を取れ。そういう理屈だ。冷たいようでいて、極めて実際的な励ましでもある。

そして彼女は言う。でも、そのおかげで、みんなに助けてもらえた、と。

これがイザイホーのもうひとつの機能なんだと思う。神女組織というのは、島の女たちの相互扶助のネットワークでもあった。夫を失った女を放り出さない仕組みが、宗教の形をとって存在していた。だから「入らないといけない」と叱ることが、優しさになりうる。

同じ女性が、最後にこう語っている。今は根人もいない、後継ぎもいないのでイザイホーが出来なくなった。残念です、と。

みっつめ。一九三二年生まれ、こちらも一九七八年に受けた女性の話だ。

彼女は四歳のときに久高島の祖母に引き取られて育てられた。祖母から行事の踊りを教わりながら大きくなったという。イザイホーの日のために、四歳から準備していたようなものだ。

だから当日は、緊張した。人前に出ての儀式だから、着物が乱れたり帯が外れたりしないようにと。

それでも、楽しかったと繰り返している。イザイ山にはたくさんのご馳走が届いて楽しかった。朝、暗いうちにシャワーを浴びて支度して出て行くことが楽しかった。

七十歳のテーヤクのときの描写がいい。お祝いだから、ニガナを料理してモンパノキの葉に乗せて食べた。楽しかった。スジを餅のように作り替えてみんなに配って、終わったことを伝えた、と。

そして、彼女はこう言う。

今でもみんなの健康を祈る。そうすると気持が整頓できて落ち着く。心は十七才、十八才です。久高の友達や育ててもらった祖父母が一番。イザイホーが次々あれば良いのになぁと思う。

八十代半ばの女性が「心は十七才、十八才です」と言う。そして「イザイホーが次々あれば良いのになぁ」と言う。

この人にとって、イザイホーは過去じゃない。ずっと続いていてほしかった未来なんだよな。

ほかにも忘れがたい言葉がいくつもある。一九二九年生まれの女性は「普通の人間と違うようになる気がした」「自分の祈りが通じるようになる。一人前の人間になった気持で嬉しかった。神様になったと感じた」と語る。一九四〇年生まれの女性は、イザイホーを終えたあとに隣近所の人から「女として一人前になったねと言われ、その一言が嬉しかった」と語る。一九二五年生まれの女性は、三十歳のときに台風で海人の夫を亡くし、民宿を営んで六人の子を育てながらイザイホーに入った。その理由を「久高に生まれてイザイホーに入らないと良くないと思い、また、子どもたちのためにイザイホーに入った」と説明している。

そして、こう続けるんだ。みんな一緒、神様も一緒に笑った、と。

「呼ばれる島」と、持ち帰ってはいけない砂

ここまでが島の側の話だ。ここからは、島の外の話をする。

現在、久高島をネットで検索すると、まず出てくるのはイザイホーの解説じゃない。「行ってはいけない」「呼ばれる人だけが行ける島」「砂を持ち帰ると体調不良になる」といった、スピリチュアル系の見出しだ。

いわゆる「呼ばれる」論はこんな感じで語られる。人生の転機にいる人、原点に戻りたいと感じている人、久高島という名前が何度も目に入る人、静けさを求めている人。そういう人が島に呼ばれるのだ、と。

不思議体験の類型もほぼ決まっている。フボー御嶽の入口で空気がひんやりした。カベール岬やイシキ浜で涙が出た。体調が悪かったのに島で気分が良くなった。

そして最強の噂が、砂や石を持ち帰ると祟られるという話だ。持ち帰った人が体調を崩した、事故に遭った、悪夢を見た、送り返したら治った――このパターンの体験談は無数に転がっている。

これについては、はっきり書いておきたいことがある。

「持ち帰ると体調不良になる」という話の出典をたどると、行き着くのは個人の体験談とネット上の言い伝えだ。医学的な因果関係は確認されていない。ある解説記事もそう明記している。

ただし、そこから「じゃあ持ち帰ってもいいんだ」という結論を出すのは、完全な間違いだ。

久高島の公式な案内には、こう書かれている。島の動植物をはじめ海浜の石や砂、サンゴのかけらなどの全ての自然物は、久高島の大切な財産です。決して持ち帰らないでください、と。

祟るから禁止なんじゃない。島の財産だから禁止なんだ。

同じように、御嶽や拝所は「私たちが大切に護ってきた心の拠り所」だから立ち入りが制限されている。フボー御嶽は通年立ち入り禁止で、それ以外にも時期によって禁じられる場所がある。イシキ浜は遊泳一切禁止。遊泳できるのはメーギ浜だけで、そこにも監視員はいない。集落を水着や上半身裸で歩くのもダメ。畑や敷地に無断で入るのもダメ。絶滅危惧種のヤシガニを捕るのもダメ。

これは呪いの話じゃなくて、人が暮らしている場所のマナーの話なんだよな。二百人ちょっとの人が実際に生活している集落を、他人の家の庭を歩くみたいな気持ちで歩けるかどうか。それだけのことだ。

考察界隈が言うことと、たぶん言い過ぎていること

イザイホーが途絶えた理由については、ネット上でいろんな説が語られている。整理してみる。

いちばんよく見るのが、「岡本太郎の事件が祟りを呼んで祭りを終わらせた」という筋書きだ。一九六六年に御嶽と風葬墓を侵し、その十二年後の一九七八年が最後になった。だから因果関係がある、と。

これはドラマとしては強い。でも、正直かなり無理がある。一九七八年のイザイホーが縮小したのは、ナンチュ候補が八人しかいなかったからで、その八人しかいない原因は中学卒業後に島を出る若者の増加、つまり高度経済成長期以降の日本中で起きた人口移動だ。一九四二年に三十人だったナンチュは、岡本太郎が来る前から減り始めていた。

もうひとつよく見るのが、「島が観光地化されたせいで神が去った」という説。これも半分は当たっていて、半分は違うと思う。確かに一九七八年には島の人口を超える見学者が押し寄せ、聖域にレンズが向けられた。祭りが「見られるもの」に変質したのは事実だ。でも、島の祭祀組織を実際に殺したのは観光客じゃなくて、高校の不在と就職先の不在だ。カメラは傷を深くしたが、傷そのものを作ったわけじゃない。

三つめが、「イザイホーもどき事件の四人の死は神罰だった」という説。これはさっき書いたとおり、統計的には十分ありうる話だ。ただ、島の人がそう受け取ったこと自体は事実であり、その受け取り方こそが久高島の信仰の実態を示している。神罰があったかどうかより、神罰があると解釈する共同体がまだそこにあった、という事実のほうが重い。

四つめ。「復活させればいいじゃないか」という声。これがいちばん厄介だ。

外から見れば、資格要件を緩めればいい話に見える。島出身で本島に住んでいる女性も参加可能にする。島外の男性と結婚した人も認める。そうすれば人数は揃う。実際、そういう提案が語られたこともある。

でも、これはたぶん本質を外している。イザイホーの中身は、祖母の霊が入った香炉を孫娘が受け継ぐことだ。島の門中と系譜が生きていなければ、継ぐべき香炉が存在しない。同時に、祭りを回すには根人がいて、掟神がいて、ソールイガナシーがいて、イキーとその妻が餅を作り、各家が食事を運ぶ体制がなければならない。ナンチュだけ揃えても、それは祭りの形をした何か別のものになる。

そして何より、それを決めるのは島の人だ。外野が「もったいない」と言うのは自由だが、久高島の人たちは一九九〇年と二〇〇二年と二〇一四年、三度にわたって自分たちで判断を下してきた。その判断は尊重されるべきだと思う。

一方で、島の外に残っているものもある。十七時間のフィルム。高精細にデジタル化された映像。カタカナで書き起こされた神謡と現代語訳。全国の映画館で上映され続ける記録映画。誰かが「復活」と言うとき、それが「もう一度やらせろ」なのか、「せめて理解したい」なのかで、意味はまったく違ってくる。

なぜこの話は、こんなに怖いのか

最後に、この話がなぜ人の心をつかむのかを考えたい。

怪談の怖さって、たいてい「異常なものが日常に侵入してくる」ことから来る。幽霊が出る、呪いがかかる、何かが追いかけてくる。

イザイホーの怖さは逆だ。ここでは、異常なものが日常から立ち去っていく。

十二年に一度、必ず来ていたものが来ない。橋は架けられず、七つ屋は建てられず、暗い庭を白い集団が走ることもない。何も起きない。何も起きないことが、この話の恐怖の中身なんだよな。

しかもその「何も起きない」は、劇的な破壊によってもたらされたんじゃない。戦争でも、災害でも、弾圧でもない。中学を出た子が高校に行くために島を出て、そこで就職して、そこで結婚した。ただそれだけだ。誰も悪くない。誰も間違っていない。それでも六百年続いたと言われるものが止まった。

止まったあとの光景がまた効いてくる。島にはかつてナナツガーと呼ばれる七つの儀礼用の井戸があった。人の誕生と死に関わるミーガー、禊ぎに使うヤグルガー、そしてイザイホーのときにだけ使ったイザイガー。一九七八年八月に島に水道が敷設され、生活用水が確保された。それ以来、井戸は使われなくなった。海際の井戸へ降りるコンクリートの階段は、損傷したまま放置されている。

島の臍にあたり、天に通じる場所として神聖視されてきたハンチャタイも、荒れるにまかされた。

祭りは、禁止されて消えたんじゃない。水道が来て、消えた。

これがたぶん、いちばん怖い。

そしてもうひとつ。この祭りが語り継がれるのは、失われたものが「単なる伝統行事」じゃなかったからだ。イザイホーが女に与えていたのは、祈る資格だった。自分の家族のために、自分の名前で、直接神に願う権利。それを持たない女は「久高に生まれてイザイホーに入らないと何も分からない」と言われる世界だった。

裏返せば、それを持てば「一人前の人間になった」と感じられた。「神様になったと感じた」と言えた。近所の人から「女として一人前になったね」と言われて、その一言が嬉しかったと、四十年後にまだ覚えている。

そういうものが、なくなった。

代わりに何が残ったかというと、それでも彼女たちは毎朝お茶を入れている。家族とイザイホーの神様のためにお茶を供え、家族の健康と安全を願い、干支の日にあたる家族には特別に祈る。旧暦の一日と十五日には香炉に香を立てて拝む。祭りが途絶えて三十年、四十年経っても、それだけは続いている。

祭りは終わった。でも、祭りが与えたものは、まだ終わっていない。

今年は丙午。六十年前、二十八人のナンチュが誕生したのと同じ干支の年だ。今年の暮れ、久高島の御殿庭に橋が架かる気配は、今のところない。

けれど島の家々では、たぶん今朝もお茶が供えられている。

あれは信仰であると同時に、完璧に回っていた社会制度だった

ここまで書いてきて、どうしても言い足りないことがあるので、もう少し踏み込んで書く。

イザイホーという祭りを調べるとき、多くの人はまず「儀式の内容」に目を奪われる。暗い夜に白装束の女たちが叫びながら走る絵面は強烈だし、七つ橋で転べば不貞がばれるという禁忌はキャッチーだ。トウツルモドキの冠に卍字型に葉を挿すという細部に至っては、これを人間が考えて何百年も続けてきたという事実自体がちょっと信じがたい。だが、この祭りの本当に異様な点は、そういう見た目の派手さじゃない。この祭りが、宗教であると同時に、完璧に機能していた社会制度だったという点にある。

考えてみてほしい。三十歳になった島の女は全員、自動的に神になる。選抜も試験もない。才能も関係ない。生まれと結婚という条件さえ満たせば、全員が神女になる。これは日本の他の祭祀ではまず見ない構造だ。普通、神職や巫女というのは選ばれた少数がなるものだし、選ばれた人には特別な資質が求められる。ところが久高島では、条件を満たす女は例外なく通過する。神になることが、成人式であり、資格試験であり、社会保障の加入手続きでもあった。だから夫を亡くしたばかりの女が「入らない」と言えば、周囲は叱ってでも入れようとする。入らなければ、その人は島の相互扶助の網の外に落ちてしまうからだ。祈る資格を持たない女は、島の中で名前を持たないのと同じことになる。

この構造がある以上、祭りの消滅は信仰の消滅では終わらない。制度の消滅だ。三十歳で全員が同じ役割に組み込まれ、四十年かけて階段を上り、七十歳で退役する。その間に女たちは互いを見張り、互いを支え、互いの家族を祈り合う。この四十年計画の人生設計そのものが、一九七八年で最後の入口を閉じたわけだ。一九七八年に三十歳だった女性は、二〇一八年に七十歳になってテーヤクを迎えた。制度としてのイザイホーは、実はその時点で完全に終了している。今、島でイザイホーの当事者として語れる女性は全員が退役後の身であり、現役の神女はいない。だから二〇一四年に区長が「直接受け継ぐことができる機会は今回が最後かもしれない」と言ったのは、感傷でも比喩でもなく、極めて事務的な現実認識だった。

もう一点、掘り下げておきたいのが記録という行為の両義性だ。イザイホーは、日本の民俗行事のなかで異例なほど手厚く記録された。写真家が撮り、研究者が観察記録を残し、十六ミリのカメラ四台が同期録音で十七時間を回した。デジタル化もされた。神謡は一語ずつ書き起こされ、現代語訳がついた。文化財としては、これ以上ないほど恵まれた保存状態にある。しかしその記録の充実そのものが、島にとっては一九七八年の異常な人口密度と引き換えだった。島の人口を超える見学者と報道陣が押し寄せ、変則的な形で祭りを回している最中にレンズが並んだ。そして一九六六年には、記録しようとした人間が男子禁制の御嶽に入り、風葬の棺を開けて全国誌に載せた。記録は保存であると同時に侵入であり、その両方が同じ人間の同じ情熱から出てくる。ここを直視しないで「貴重な映像が残ってよかった」とだけ言うのは、たぶん誠実じゃない。

そのうえで、では外部の人間に何ができるのかを考えると、答えはかなり地味なところに落ち着く。復活を求めることでもなければ、聖地を訪ねて何かを感じ取ることでもない。島が明示している線を、面倒くさがらずに守ることだ。フボー御嶽に入らない。祭祀のある日にカベール岬へ行かない。砂も石もサンゴも木の葉も持ち帰らない。イシキ浜で泳がない。集落を水着で歩かない。畑に入らない。拝所にカメラを向ける前に、そこが誰かの心の拠り所であることを思い出す。この程度のことしかできないし、この程度のことすら守られなかった歴史があるから、線がここまで細かく引かれている。

最後に、この話がなぜこれほど尾を引くのかについて、もう一度だけ書いておきたい。イザイホーの記録を読んでいて何度も立ち止まるのは、女たちの言葉に恨みや悲壮感がほとんど混じっていないことだ。四十年間縛られた。裸足で歩かされた。遅刻は許されなかった。雨でもびしょ濡れでやった。よく怒られた。それでも彼女たちは「ありがとうございました」と言って聞いたと語り、テーヤクの日には「頑張ったんだねー」「卒業した」と晴れやかに振り返る。そして今でも毎朝お茶を供え、旧暦の一日と十五日に香を立てる。誰も見ていないのに続けている。祭りが公式に終わってから三十六年、最後の開催から数えれば四十八年、島の台所ではまだイザイホーが続いているわけだ。

存在しない橋を七度往復した五人の女たちの話に戻る。あれを愚行と呼ぶのは簡単だし、実際に島では顰蹙を買った。だが彼女たちがやろうとしたことは、要するに、祭りがなくなっても祈りは止められないという一点に尽きる。制度が消え、ノロが死に、根人が絶え、候補者がゼロになっても、身体のほうが先に「あの日が来たはずだ」と反応してしまう。その反応を抑えきれずに、暗い庭で何もない空間を渡った。その四人が十年以内に亡くなったことを神罰と読むか偶然と読むかは、たぶん読む人の立場によって決まる。ただどちらに読むにせよ、あの夜の光景が示しているのは、久高島の女たちにとってイザイホーが趣味でも伝統芸能でもなく、身体に刻まれた時計そのものだったという事実だ。十二年周期で鳴るはずのアラームが、鳴らないまま、まだ体の中で動き続けている。それを思うと、この祭りが「終わった」と言い切れる日はまだ来ていない気がしてならない。

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