八月十五日の夜、長崎の中心部は音でおかしくなる。おかしくなる、というのは比喩じゃない。まともに会話ができない。スマホの通知音なんて聞こえない。目の前で誰かが叫んでいても、何を言っているのかわからない。そんな夜が、毎年ちゃんと来る。しかもそれが、葬式の続きなんだよな――死者を送る行列が、爆竹の轟音と硝煙の中を進んでいく。
## 耳栓が売り切れる盆行事というものがある
長崎の八月十五日は、コンビニとスーパーとドラッグストアの棚に耳栓が並ぶ。季節商品として並ぶ。夏だから虫よけ、じゃなくて耳栓が並ぶ。それでも足りなくて買いそびれた人がいて、翌日には耳鼻科の待合室が混むという話まで出てくる。現地を取材したあるウェブメディアの書き手は、これを「日本一うるさいお盆」と言い切っていた。実際に近くを歩くと、耳栓がないと厳しいレベルだと書いている。
で、この音の正体が爆竹だ。中国製の、赤い紙で束ねられた、連なったやつ。それを箱ごと、何箱もまとめて火をつける。地面が燃えカスで真っ赤になるくらい。県庁坂とか浜町アーケードの入口あたりが特にひどい。ひどい、というのは長崎の人にとっては褒め言葉に近い。盛大に送れたということだから。
初盆を迎えた家が、故人のための舟を作る。それを親族と近所と友人で曳いて、街を練り歩いて、指定された流し場まで運ぶ。その道中でひたすら爆竹を鳴らす。鉦を叩く。掛け声をかける。これが精霊流しだ。灯籠を静かに水に浮かべる、あの行事じゃない。まったく別の生き物である。
## 日が高いうちから、墓場のほうで音がしている
当夜を最初から追ってみる。まず、その前段がある。長崎のお盆は十三日から始まって、その時点ですでに変だ。墓地で花火をやる。
夕方、親族が墓に集まる。ゴザを敷いて、酒とつまみを広げる。そこまでは他所でもある。違うのはここからで、まだ日が高いうちは音のでかい花火をやる。爆竹、それから「やびや」と呼ばれるロケット花火、パラシュート付きのやつ。矢火矢と書いてやびや。先端に火をつけるとヒューッと矢のような音を立てて墓地の上空に飛んでいく。日が落ちてくると、手持ち花火や線香花火に切り替わる。子どもははしゃいでいる。大人は飲んでいる。斜面墓地の多い長崎では、山側の墓地一帯が提灯と火の光で埋まって、遠目には火事に見える。
地元の人に言わせると、墓地は花火をやるのに最適な場所らしい。水を張ったバケツが常備してあるし、線香に火をつけるためのロウソクもある。理屈としては通っている。通っているのが逆に怖い。長崎の子どもは正月のお年玉に対して「お盆玉」みたいなものを親戚からもらい、それを握りしめて花火屋に走る。初盆の家は花火と爆竹に三万から四万、多い家だと十万円分ほど買い込むという話もある。十万円分の爆竹って、どういう量なのか想像がつかない。
つまり十五日の夜が突然うるさくなるわけじゃない。街は二日前から鳴り続けている。十五日はその総決算なんだよな。
## 十七時、街のあちこちで舟が動きはじめる
長崎市は毎年、流し場を設けて受付時間を決めている。二〇二六年でいえば、精霊船の受付は八月十五日の十七時から二十一時終了の予定。こも包みだけは、一部の流し場でもっと早い時間から受け入れが始まる。こも包みというのは、二年目以降の家が持ち込むもので、藁で編んだ小さな菰に供物を包んだやつだ。舟を出すのは基本的に初盆の年だけ。翌年からは、この小さな包みで送る。
十七時になると、規制が始まる。長崎県警は県内二十一から二十二の区間で交通規制をかける。大波止から県警本部前までの区間は、十七時から精霊流しが終わるまで車両通行止め。路面電車も十六時から終電まで部分運休する。新地中華街と崇福寺のあいだ、それから崇福寺と蛍茶屋のあいだ。路線バスはダイヤ変更。街の交通が、舟のために止まる。
そして検問がある。警察が舟の経路の何か所かに立って、持ち込まれる花火をチェックする。打ち上げ花火、飛翔花火、それから二十一本以上つながった爆竹。これらは没収というか、一時預かりになる。二十本まではいい。二十一本からはだめ。この線引きが妙に生々しくて好きだ。誰かが実際に事故を起こした結果、この数字になったんだろうなと思わせる。
十八時を過ぎると、舟が出てくる。町内の路地から、寺の駐車場から、家の前から。全長一メートルくらいの小さいものから、十メートル近い大型船まで。長崎市のルールでは、全長十メートル、胴体七メートル、幅二・五メートル、高さ三・五メートルが上限。二メートルを超える舟には、警察署長の道路使用許可がいる。つまり大型の精霊船は、法的には道路占用物件なんだよな。死者を送る舟に許可証がついている。
## 舳先には家紋、船橋には遺影、帆には南無阿弥陀仏
舟をちゃんと見ると、構造が決まっている。舳先の「みよし」と呼ばれる部分に、家紋と苗字が入る。船橋には位牌と遺影と供花。帆には仏画か、あるいは「南無阿弥陀仏」の名号が書かれている。国史大辞典の記述によれば、長崎の精霊舟には「浄土丸」「阿弥陀丸」といった船名がつけられることもあったという。行き先を船名に書いてしまう発想がすごい。
材質は木が主流だけど、強化段ボールも普通に使われる。チガヤを編んだものもある。西海のあたりではチガヤの舟が根強い。照明は電球で、バッテリーを積んで点ける。大型船だと発電機を積む。つまり舟は電気を積んでいる。
近年は「変わり精霊船」というのがあって、故人の趣味や職業に合わせた形にする。ヨット型、バス型、漁船型、キャラクター。生前バスの運転手だった人にはバスの舟。この自由さが、長崎の精霊流しをただの宗教行事から遠ざけている部分でもある。
自作する家もあるけど、仏具店や人形店が舟を売っている。二〇二六年向けのキットだと、板紙船と白木船で、いちばん小さいものが二万円台から。特に小さいサイズは七百グラム程度で、女性ひとりでも運べるという触れ込みだ。室内で組み立てて飾りつけができるから、初盆参りに来た親戚に見せる家も多いらしい。受注生産なので七月末までに注文しろと書いてある。死者を送る舟に納期がある。当たり前なんだけど、字面がきつい。
町内会や職場、寺の檀家などが合同で出す「もやい船」もある。ひとりで舟を出せない家、担ぎ手が集まらない家は、これに乗る。
## 十九時、音の壁にぶつかる
行列には順番がある。先頭は喪主で、家紋入りの提灯を持つ。その後ろに印灯籠を持った若い衆。鉦を鳴らす係。そして白い法被の大人たちが舟を曳く。担ぐと書かれることが多いけど、実際は車輪をつけて曳くのが普通だ。十メートル級の舟を担げるわけがない。
鉦の音は「チャンコン、チャンコン」と表現される。金属を叩く高い音。それに乗せて「ドーイ、ドーイ」という掛け声が入る。この掛け声、意味は南無阿弥陀仏だとされている。長崎の観光関係の資料でも、ドーイドーイは南無阿弥陀仏を意味すると説明されている。念仏が何百年か曳きずり回されて、二音節まですり減った音、ということになる。実際に聞くと念仏には全然聞こえない。地響きみたいな、ドーイ、ドーイ、という低い唸りだ。
で、その上に爆竹が乗る。乗るというか、全部を潰す。近づくと鉦も掛け声も聞こえなくなる。破裂音が連続すると、音として認識できなくなって、圧力になる。胸の内側を叩かれる感じ。硝煙が路面から立ち上って、街灯の光の中で白く濁る。硫黄と火薬の匂いが鼻の奥に張りつく。目が痛い。足元は爆竹の赤い紙くずで埋まって、歩くと紙が靴にまとわりつく。
サンダルで行くと火傷する。現地レポートでも靴下とスニーカーを勧めている。飛んできた燃えかすが足の甲に落ちるからだ。
この煙の中を、提灯を灯した舟が進んでくる。煙で輪郭がぼやける。舟の上に飾られた遺影が、爆竹の閃光で一瞬だけはっきり見えて、また煙に消える。これが精霊流しの一番おかしな絵面だと思う。故人の顔写真が、硝煙の中で明滅している。
## 二十一時、大波止で舟が壊される
行列は流し場に向かう。長崎市中心部の代表的な流し場は大波止だ。思案橋から県庁坂を経て大波止へ、というのがよく知られたコース取りになる。
そして流し場に着いた舟は、海に出ない。壊される。
流し場には重機が置いてある。ショベルカーだ。家族はまず、盆提灯を外す。遺影を外す。位牌を外す。飾った花を外す。故人の思い出の品を外す。それらは持ち帰る。骨組みだけになった舟を、係員が受け取る。曳き手たちが合掌する。そこから重機が入る。
木と段ボールと竹でできた舟は、あっけなく潰れる。数秒だ。何週間もかけて作って、何時間もかけて街を曳いて、最後は数秒で平らになる。現地を取材した書き手が、この場面で涙が出たと書いていた。飾りが外されていく段階で、本当に別れが来たと感じるらしい。
壊された舟は、粗大ごみとして処理される。長崎市は精霊流しの直後、八月十七日から二十六日まで東工場への粗大ごみの直接搬入を停止する。処理場が精霊船で埋まるからだ。年に一度、市のごみ処理能力が死者の舟で飽和する。
佐世保市の場合はもっと露骨で、会場に持ち込まない舟については、八十センチ以下に裁断して「燃やせるもの」「燃やせないもの」に分別し、クリーンセンターに持ち込むか指定ごみ袋で出せと案内している。自宅で舟を解体して分別する初盆の家。これも令和の供養の形なんだよな。
## さだまさしのあの歌が、全国に誤解をばらまいた
さて、ここが本題のひとつだ。多くの日本人は精霊流しを「静かで、しめやかで、悲しい行事」だと思っている。灯りが水面をゆっくり流れていく、あれだと思っている。
原因ははっきりしている。一九七四年四月に発表された、グレープの二枚目のシングル「精霊流し」だ。長崎出身のさだまさしが書いた。発売直後は売れなかったが、東海地方のラジオ番組で繰り返しかけられたことをきっかけに全国に広がり、その年の日本レコード大賞作詩賞を取った。
この歌のモチーフは、さだまさしの母方の従兄が水難事故で亡くなったときの精霊流しの記憶だとされている。実話が元になっている。そして曲調は静かで、詞は徹底的に内向きだ。爆竹の「ば」の字も出てこない。
歌が悪いわけじゃない。名曲だ。ただ、あの曲だけを聴いて長崎に来た人が県庁坂で音の壁にぶつかると、価値観がひっくり返る。大手の旅行口コミサイトにも「初めての方は要注意」というタイトルの投稿があるくらいで、音の大きさに言及するレビューが繰り返し投稿されている。総合評価そのものは四点台と高いのに、感想の多くが「とにかく音がでかい」なんだよな。
ここで面白いのは、歌と現実のどちらかが嘘だという話にならない点だ。さだまさしが描いたのは、遺族の内側の静けさだ。爆竹の轟音の中に立っていても、舟を曳いている当人の頭の中は、たぶんあの曲の速度で流れている。外はうるさい。中は静かだ。その二重構造こそがこの行事の本体で、歌はそのうちの片方だけを、正確に切り取っただけなんだと思う。
## 享保の変わり者と、唐人屋敷で燃えた舟
起源の話をする。これがまた、きれいに一本にまとまらない。
文献としてよく引かれるのが『長崎名勝図絵』だ。饒田喩義と野口淵蔵の手による長崎の地誌で、成立は文政初年、六巻十七冊。市中を南辺之部、西辺之部、北辺之部、市中之部に分けて記述している。この中に、享保年間、つまり一七一六年から一七三六年ごろの記述として、ある物好きな男が小舟に供物を積んで流した、という話が出てくる。それを他の人が真似して広まった、というのが精霊流し起源説のひとつだ。
同じ時期の話として、長崎の儒者である盧草拙が絡む説もある。表記は蘆草拙とも書かれる。当時、供物を菰に包んでそのまま流していたのを見て、これでは霊に対して失礼ではないかと言い、藁で小舟を作らせた、という筋書きだ。京都芸術大学の卒業研究でこの説が整理されている。要するに「包んで捨てる」から「船に乗せて送る」への格上げが起源だという話で、供養における体裁の問題が行事を生んだことになる。
もうひとつが中国由来説。江戸時代、長崎の唐人屋敷に住んでいた中国人たちが、屋敷内で亡くなった同胞の霊を送るために行っていた「彩舟流し」の影響だという説だ。彩舟流しには小流しと大流しがあったとされ、小流しでは四メートルほどの舟を作り、その年に亡くなった人々を供養して海に流したという。故郷に帰れずに異国で死んだ人間を、舟に乗せて海の向こうへ返す。動機がわかりやすすぎて、こっちが本命な気がしてくる。
そして爆竹。これは間違いなく中国由来だ。中国の年中行事では爆竹は魔除けである。悪いものを音で追い払う。長崎市自身が公式の回答文書の中で、爆竹は中国発祥の魔除けの意味を持ち、精霊船が通る道を清めるために鳴らすものだと説明している。つまりあの轟音には、行政のお墨付きの理屈がある。
さらに大枠として、日本各地にあった万灯流しや、菰に包んだ供物を川に流す風習が、長崎という特殊な港町で独自に変異したという説もある。たぶん全部が少しずつ正しい。中国の葬送儀礼と、日本の盆の送り火と、港町の見栄と、そのへんが二百年か三百年かけて煮詰まった結果があの舟だ。
## 佐世保は爆竹禁止、島原は「ナマイドー」、御船町は川で燃やす
精霊流しは長崎市だけのものじゃない。ここが面白いところで、少し移動すると別物になる。
佐世保市では、中央公園に置場を三か所設けて受け入れる。菰、二メートル未満の舟、二メートル以上の大型船で場所を分ける。出船時間の目安も分かれていて、菰と小型は十六時以降、大型船は十九時以降が推奨されている。そして注意事項に、はっきりこう書いてある。爆竹と花火の使用は禁止。舟を回すのも禁止。台車は持ち帰れ。同じ長崎県内で、同じ日に、片方は市街地で箱ごと爆竹を焚き、片方は爆竹を禁じている。伝統というのは、行政単位でこれくらい平気で割れる。
島原市の精霊流しは、造りからして違う。麦藁と竹だけで組んだ簡素な舟に、切子灯籠を乗せる。派手な飾りはない。ろうそくに火が入ると、質素なぶん凄みが出る。担ぎ手の掛け声は「ナマイドー」だ。これも南無阿弥陀仏の崩れた形だと言われている。長崎市の「ドーイ、ドーイ」と、島原の「ナマイドー」――同じ言葉の、別の壊れ方だ。同じ念仏が、山ひとつ越えただけで別の音に摩耗している。そして島原の舟は、最後に有明海へ実際に浮かべられて、沖へ流れていく。島原市はこれを市最大の行事と位置づけている。
五島、松浦、西海でも、いまだに実際に川面や海上へ浮かべる形が残っている。長崎市が「流さない流し」になった一方で、周縁部では流しが生きている。
熊本の御船町にも精霊流しがある。日付が違って八月十六日。十九時から合同慰霊祭があり、十九時三十分ごろから流しが始まる。御船川の新橋から五庵橋まで、およそ三百メートルにわたって舟を流す。しかも川の中で燃やす。舟が水面を流れながら燃えている絵は、長崎市街の爆竹とはまったく違う怖さがある。三百年の歴史があるとされ、熊本の三大精霊流しのひとつに数えられている。
佐賀市にもあった。八月十五日の夕刻、複数の河川で行われていた。だが二〇〇九年、地域の高齢化による担い手不足で中止になった。行事は爆竹では死なない。人がいなくなると死ぬ。島原でも若い担ぎ手が足りず、ボランティアを募集した年があり、集まったのは六名だったという記録がある。
## 灯籠流しのほうも、思ったほど静かな話じゃない
精霊流しと混同されがちな灯籠流しについても、ちゃんと押さえておく。
灯籠流しは中国起源とされる。華南地方には中元節に「放活燈」という風習があって、色紙で蓮華燈を作り、夜に灯をともして路傍に置いたり、水面に浮かべたりした。日本では盆の送り火の一種として定着し、夏祭りや花火大会と合同で行われることが多くなった。
有名なのが広島の「とうろう流し」だ。八月六日、原爆の日の夜。元安川の水面が灯籠で埋まる、あの光景。始まりは一九四七年から四八年ごろとされる。原爆で家族を失った遺族や市民が、追善と供養のために手作りの灯籠を川に流した。誰かが主催したわけじゃなく、勝手に始まった。一九五五年ごろから商店街が事業として運営を引き継ぎ、流灯船を出す形になり、一九九九年からは市民ボランティアも関わるようになった。
数の推移が生々しい。一九六一年から六二年ごろは、三日間で二万から三万個が流されていた。いまは五千から六千個ほど。減った。人が減ったのか、方法が変わったのか、両方だろう。かつては四国まで流れ着いた灯籠もあったという記録がある。広島から流した灯籠が、瀬戸内を渡って四国の浜に上がる。これを聞いた瞬間に背中が寒くなる人は、この行事の芯を掴んでいる。
一九九六年に元安川沿いに親水テラスが整備され、一般の人が直接手で灯籠を流せるようになった。それまでは岸から見ているしかなかった。手で水に置ける、というのは大きい。触れる供養と、見るだけの供養は、たぶん別の体験だ。
京都の嵐山灯籠流しは、昭和二十二年、一九四七年に嵯峨仏徒連盟が始めたものだ。戦没者と祖先の霊を慰めるため、と記録されている。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに残る回答にもそう書かれている。供養名を記した紙の灯籠に火を入れて桂川に流す。渡月橋近くの臨川寺前で法要が営まれる。八月十六日で、五山送り火の鳥居形と同じ夜だ。山に火が点り、川に灯が流れる。上と下で同時に送っている。
奈良には、春日大社の中元万燈籠がある。八月十四日と十五日、境内の約三千基の燈籠に火が入る。こちらは水に流さない。石燈籠と釣燈籠に灯すだけだ。同じ盆の灯りでも、流す文化と灯す文化が並んでいる。
## 川が汚れるから拾う、という矛盾したやさしさ
ここからが現代の話で、個人的にはこの部分が一番不気味だと思っている。
一九七〇年代、海と川の汚染が社会問題になって、灯籠をそのまま流すことをやめる地域が出てきた。一九七二年に琵琶湖で中止、一九七三年に静岡市の巴川で中止。以後、数量制限、環境配慮素材への切り替え、そして下流での回収というやり方が広がった。
いまの広島のとうろう流しも、流された灯籠は環境と漁業への配慮から下流で引き上げて処分される。つまり、灯籠は流れない。数百メートル流れて、網で止められて、拾われて、ごみになる。
長崎の精霊船も同じで、明治四年、一八七一年に精霊船を海へ流すことが禁止された。それ以来、長崎市街の精霊船は海に出ない。流し場で解体される。「流し」という名前だけが残って、流す行為だけが消えた。
これをどう受け取るかは人による。理屈ではわかる。プラスチックとロウとバッテリーの塊を海に流したら、それは投棄だ。漁業者にとっては迷惑でしかない。誰も反論できない。
ただ、行為の意味は完全に変わっている。もともとこの行事は、死者をこちら側から向こう側へ「送る」ものだった。国史大辞典の記述にもあるように、祖霊は山の彼方、あるいは海の彼方の世界にいると考えられていた。だから水に浮かべて、水平線の向こうへ返す。境界を越えさせるのが要点だった。
いまは越えさせない。数百メートル先で回収する。舟は重機で潰す。灯籠は網で掬う。送ったふりをして、その場で回収して、燃えるごみと燃えないごみに分ける。
死者は、どこへ行ったんだろう――誰も、その答えを持っていない。
これが、この行事を現代のオカルトとして見たときの最大の不気味さだと思う。儀礼の形式だけが残って、儀礼が果たしていた機能が抜けている。抜けた穴に何が入っているのか、誰も検証していない。
## 検問と、二十一本の線引きと、毎年出る火事
事故の話にも触れておく。危険な行事だからだ。
二〇二二年には、走行中の路面電車の直前に爆竹を撒き散らすという危険行為が起きている。二〇二三年には、爆竹の火花が燃え移った火災が三か所で発生した。うち一件は精霊船そのものが燃えた。死者を送る舟が、送っている最中に燃える。
長崎市のルールは年々細かくなっている。やびや、つまりロケット花火や連発式花火の使用禁止。花火の取扱者以外は花火に触るな。責任者は青、花火取扱者は赤のたすきを必ず着けろ。流し場の中では全ての花火が禁止。舟を回すな、海に流すな、道路や歩道にごみを捨てるな。読んでいると、これは供養の作法というより工事現場の安全基準なんだよな。
京都芸術大学の研究でも、危険行為の増加が課題として挙げられている。爆竹や花火の意味を知らない若者が、舟を出す立場でもないのに爆竹を鳴らす。段ボール箱ごと爆竹に点火する。観客のいる方向に爆竹を投げる。書かれている事例が具体的すぎて、実際に見た人が書いたんだとわかる。
二〇二三年には、ある動画投稿者が車内から歩道へ爆竹を投げ込む映像を公開し、市民が長崎市に苦情を寄せる事態も起きた。市の回答が興味深くて、精霊流しは宗教的風習であって「主催者がない行事」だと明記している。関係機関が協力する形で成立しているだけで、責任を負う運営主体が存在しない。だから止められない。誰も主催していない十五万人規模の行事が、毎年勝手に発生している。この構造自体がちょっと怪談じみている。
## 耳栓を忘れた男、十五年ぶりの帰省、三秒で潰れた舟
ここからは、現地で毎年繰り返し語られる類の話を三つ。取材記録や口コミに繰り返し現れる、典型的な形として読んでほしい。
耳栓を忘れた男の話がある。県外から出張のついでに寄った人で、八月十五日の長崎に泊まれば涼しげな行事が見られると思っていた。ホテルで浴衣に着替えて、下駄で出た。県庁坂に着いた時点で異変に気づいたが、人の流れに押されて引き返せなかった。目の前で誰かが箱ごと爆竹に火をつけた瞬間、耳が「聞こえない」ではなく「痛い」に変わったという。両手で耳を塞いだが、掌の隙間から圧が入ってくる。下駄の指のあいだに燃えかすが飛び込んで、跳ねながら壁際に逃げた。翌朝、片耳の詰まりが取れず、耳鼻科に行ったら「昨日ですか」と看護師に即答されたそうだ。この時期、そういう患者が普通に来るということらしい。地元の店で耳栓が季節商品として積まれている理由が、身体でわかったと本人は言っている。
十五年ぶりに帰省した女性の話も、毎年どこかで聞く。祖母の初盆で、親族が舟を出すことになった。子どものころは怖くて泣いた記憶しかなくて、正直あの音が今も嫌いだった。それでも法被を着せられて、曳き綱を握らされた。街に出て、鉦が鳴りはじめて、ドーイ、ドーイと声を出した。最初は恥ずかしくて口だけ動かしていたが、三十分もすると勝手に喉から出るようになった。爆竹が鳴りだしても、不思議とうるさく感じない。外の音がぜんぶ遠くなって、綱を持った手の感触と、自分の足音だけが残ったという。あとで叔父に言ったら、「そうなるように鳴らしよるとよ」と返された。うるさくすることで内側の静けさを作る装置なんだと、そのとき初めて理解したと語っている。さだまさしの歌が正しかったと気づいたのは、爆竹の真下だった、という締めがいい。
三つ目は、大波止の流し場で泣いた曳き手の話。友人の父親の舟を、有志十数人で曳いた。工程は二週間。材木を切って、骨を組んで、遺影の額を選んで、造花を挿した。当日、街を練り歩くあいだは正直楽しかったらしい。祭りだと思っていた。汗だくで、声を張って、笑っていた。流し場に着いて、係員に誘導されて、遺族が飾りを外しはじめたところで空気が変わった。提灯が外される。花が抜かれる。遺影が外される。骨組みだけの舟が、急にただの木の枠に見えた。全員が黙って合掌して、重機が入った。三秒だったという。二週間かけて作ったものが三秒で平らになる音を、彼はいまでもたまに思い出す。その夜、家に帰るまで誰も一言も喋らなかった。行きの賑やかさと帰りの無言が、同じ夜の中にあることが受け入れられなかった、と。
## ネットが見つけた「静かじゃない精霊流し」
ここ十年ほどで、精霊流しのイメージはネット経由で急速に更新された。動画が回るからだ。爆竹の轟音は、テキストではまったく伝わらないのに、スマホの録音だと否応なく伝わる。県庁坂で撮られた縦動画が毎年八月に拡散して、その都度「歌のイメージと違いすぎる」というコメントが並ぶ。
長崎市長までがみずから発信して、八月十五日の夜、長崎のまちは爆竹の爆音と煙に包まれる、県外の方は驚かれるがこれも長崎の魅力だ、という趣旨のことを述べている。行政のトップが「驚かれる」と先回りして言う時点で、ギャップが完全に自覚されている。
考察界隈でよく見るのは、いくつかのパターンだ。ひとつは「爆竹は後付けの観光演出ではないか」という説。これは弱い。爆竹の由来を中国の魔除けに求める説明は長崎市の公式見解にも入っているし、彩舟流しとの関係を含めて江戸期の唐人屋敷まで遡る筋が通っている。観光振興が始まるはるか前から鳴っている。
もうひとつは「昔はもっと静かだったのに、近年うるさくなった」という説。これは半分当たっている。爆竹の量そのものは、火薬類の入手性が変わった戦後に増えている可能性が高い。ただし「静かだった」という感覚の根拠は、往々にして一九七四年のあの歌なんだよな。歌の記憶を過去の実態と取り違えている。文献に残る精霊流しは、江戸期の時点ですでに派手さで知られていた。
三つ目は「歌のせいで長崎が迷惑している」という説。これも実態と違う。地元では、あの歌によって精霊流しという言葉が全国区になったこと自体は肯定的に受け止められている。むしろ困っているのは、歌のイメージのまま来て、危険な服装で最前列に立つ観光客のほうだ。
そして四つ目、これが一番よくできた考察だと思うのだが、「爆竹は死者のためではなく、生者のためだ」という読み。悲しみを表に出すのが難しい場面で、音が代わりに叫んでくれる。泣くかわりに鳴らす。泣き声をかき消す装置として機能している。民俗学の裏づけがあるわけではない。ただ、当事者の証言はことごとくこの説と噛み合う。
## 「お盆に海へ行くな」と、送った舟が戻ってくること
ここで禁忌の話をつなげておく。お盆に海に入るな、川で泳ぐな、という言い伝えは全国どこにでもある。理由として最もよく語られるのが、この時期は霊が帰ってきていて、その中には縁のない霊も混じっているから足を引っ張られる、というものだ。実際、多くの人が「足を引かれると聞いた」という形でこれを記憶している。
背景には、七夕信仰とお盆が結びついた歴史があると民俗の専門家は説明している。七夕の水神信仰が盆の仏事と結びつき、亡くなった人は海の彼方の水神の世界にいる、と考えられるようになった。水辺は境界だ。あちら側とこちら側が接している場所。だから盆の水辺には近づくな、という話になる。
自然条件の説明も明快で、お盆のころは遠方の台風によるうねりが海岸に届く。台風が遠いと現地の天気は良いから、油断する。土用波と離岸流に、水温低下とクラゲが重なる。専門家は、先人は水の危険性を肌感覚で知っていたのだろう、と述べている。禁忌は経験則の圧縮ファイルなんだよな。
で、ここに精霊流しを重ねると、変な気持ちになる。盆の水辺は危ない。近づくな。行けば引かれる。それなのに、盆のいちばん大事な夜に、街中の人間が舟を持って水際に集まっていく。集まるどころか、水と陸の境目に舟を並べる。
流したものが戻ってくる、という話は、水に流す供養にはだいたい付いてくる。流した灯籠が風で押し返されて岸に戻ってくると縁起が悪い、と言う地域がある。押し返された灯籠を、拾って流し直す人もいれば、拾わずに放っておく人もいる。理屈でいえば、風向きと潮の問題でしかない。それでも、送ったはずのものが自分の足元に戻ってくる光景は、誰にとっても気分がいいものではない。
そして現代の灯籠流しは、制度としてそれを毎回やっている。下流で回収する。戻ってきているわけではないが、行かせていない。長崎の精霊船に至っては、水に浮かべる前に潰す。かつて「戻ってきたら不吉」と恐れられていた状態を、行政と環境配慮によって標準仕様にしてしまった。
## 生きたまま流された舟のこと
もうひとつ、水に流すという発想の極端な形に触れておく。補陀落渡海だ。
観音の浄土である補陀落山を目指して、僧が船で海に出る。事実上は自発的な入水儀礼である。記録に残る最古のものは八六八年、貞観十年、紀伊国熊野の慶龍上人によるものとされる。実施のピークは十六世紀で、確認される五十七件のうち二十七件がこの時期に集中する。最後は一九〇九年、明治四十二年、高知県足摺岬の天俊上人。近代に入ってからも行われている。
渡海船は、和船の上に屋形を置き、大きな白帆を張った。四方に鳥居を立て、周りに卒塔婆を並べた。屋形には窓も扉もない。乗り込んだあと、外から釘を打ちつけて塞ぐ。多くは餓死するか、そのまま沈む。確実に沈めるために重しを付けたり、船に穴を開けたりした例もある。
精霊船と渡海船は、直接の系譜としてつながってはいない。ただ、発想の骨格は同じだ。舟に乗せて、水平線の向こうへ送り出せば、彼岸に着く。届く先が浄土であるという確信が共有されていたから、こういうことができた。
八月十五日の長崎で、提灯を積んだ舟が街を進んでいくのを見ながら、この話を思い出すとちょっとくらくらする。あの舟の意匠、帆に書かれた南無阿弥陀仏、四方に立つ飾り、それらはかつて人間を乗せて実際に沖へ出た舟の記憶を、たしかに引き継いでいる。いまは誰も乗らない。遺影が乗る。そして海には出ない。
## なぜ、この行事は怖いのか
怖さの正体を整理しておきたい。まず単純に、物理的に危険だからだ。火薬が至近距離で爆ぜている。火傷する。難聴になる。毎年火事が出る。警察が検問を張って花火を没収している。危険なものは怖い。それはそう。
だがそれ以上に怖いのは、この行事の情動の構造だと思う。人間が悲しんでいるのに、その悲しみが轟音と煙と笑い声の形で出てくる。悲嘆と祝祭が同じ動作の中に同居している。普通の文化では、この二つはきっちり分けられる。葬式では笑わない。祭りでは泣かない。長崎の八月十五日は、その分離が壊れている。壊れているというより、最初からくっついている。
初めて見る人が受ける衝撃は、たぶん音そのものより、この情動の非対称性に対するものだ。目の前で人が泣いている。同じ列の三人先で人が笑っている。舟の上には死んだ人の顔がある。地面は爆竹の紙で真っ赤で、硝煙で目が痛い。処理できない。処理できないものを人は怖いと感じる。
そして、送り先が失われているという構造的な問題がある。この行事はもともと、境界を越えさせるための装置だった。海の彼方へ、山の彼方へ、浄土へ。だから水に浮かべた。いまは浮かべない。数百メートルで回収し、重機で潰し、燃えるごみと燃えないごみに分けて、翌週に工場へ運ぶ。動作は完璧に残っていて、目的地だけが消えている。
宛先のない手紙を――それも一通や二通ではなく――毎年十五万人が本気で書いている。そう考えると、この行事のいちばん怖い部分は爆竹じゃないことがわかる。
## なぜ、それでも続いているのか
にもかかわらず、この行事はしぶとい。長崎市内で流される精霊船は、平成二十七年の時点で約千三百隻。佐世保や島原を含めた長崎県内全体では約三千三百隻。予想人出は約十五万五千人。二〇一〇年には十八万六千人が関わったという記録もある。街の人口を考えれば、異常な参加率だ。
続いている理由のひとつは、これが「行事」ではなく「その家の事情」だからだと思う。初盆というのは選べない。去年、家族が死んだ家だけが舟を出す。だから毎年、必ず新しい参加者が発生する。祭りの担い手不足とは違う原理で人が供給される。誰も参加したくて参加していない。順番が回ってきただけだ。
もうひとつは、共同作業としての強度だ。舟は一人では作れないし、曳けない。町内が出てくる。親戚が帰ってくる。会社の同僚が来る。もやい船という合同の仕組みまで用意されている。人が集まらない家のために、地域や寺が受け皿を作っている。喪失を、個人の内側に閉じ込めない仕組みが、制度として残っている。都市部の葬送がどんどん小さく静かになっていく時代に、これは相当に貴重な形だと思う。
そして音だ。うるさいことに意味がある。悲しみを声にできない人間の代わりに、火薬が叫ぶ。曳き手が「そうなるように鳴らしよる」と言ったのは、たぶん本質を突いている。爆竹を鳴らしているあいだ、人は考えなくていい。何も聞こえない数十秒が、遺族にとっては休息になる。
もちろん、危ういバランスの上にある。佐賀市のように担い手不足で消えた例もあるし、島原ではボランティア六名という年もあった。危険行為が増えれば規制はきつくなる。動画目当ての来訪者が増えれば、遺族の場が見世物になる。行くなら耳栓をして、火のそばに立たず、燃えやすい服と素足を避けて、遺族の列を邪魔しない。これは観光のマナーというより、単に怪我をしないための最低条件だ。爆竹は玩具じゃないし、この夜の水辺は本当に危ない。
それでも、来年の八月十五日にもまた鳴る――間違いなく鳴る。去年誰かが死んだ家がある限り、鳴る。
## 三つの層が重なった夜を、一枚の絵として見る
改めて、この行事の全体像を一枚の絵として見直しておきたい。長崎の精霊流しは、三つの異質な層が重なった、かなり特殊な構造物だ。一番下の層に、日本列島に広くあった盆の送り火と水辺の供養がある。菰に包んだ供物を川に流す、あの素朴な形。国史大辞典の記述にあるとおり、祖霊は山や海の彼方にいるとされ、火とともに水面から送り出すのが本来の姿だった。享保のころ、長崎の儒者が「包んで流すのは失礼ではないか」と言って藁の小舟を作らせたという話は、この層のうえに二番目の層が乗る瞬間を記録している。体裁の問題、つまり見栄だ。死者をどう送ったかが、生きている者の格として見られはじめる。ここから舟は装飾に向かって走り出す。三番目の層が中国だ。唐人屋敷で行われた彩舟流しと、魔除けとしての爆竹。異国で死んだ者を舟で故郷へ返すという発想と、悪いものを音で払うという発想。この三層が二百年から三百年かけて煮詰まった結果が、いまの県庁坂の光景になる。だからあの夜のうるささには、素朴信仰と見栄と異文化が全部入っている。ひとつでも欠けたら、あの音にはならない。
そのうえで、近代がやったことを冷静に見ると、事態はかなり奇妙だ。一八七一年、明治四年に精霊船を海へ流すことが禁止された。一九七〇年代には環境問題を理由に、灯籠流しの各地で流すこと自体が中止され、以後は下流での回収という方式が標準になった。琵琶湖で一九七二年、静岡市の巴川で一九七三年。広島の元安川では、流された灯籠は環境と漁業への配慮から下流で引き上げられる。長崎の精霊船は流し場で重機に潰され、粗大ごみとして処理される。処理量が多すぎて、市はお盆明けの十日間ほど工場への直接搬入を止める。佐世保市に至っては、持ち込まない舟は八十センチ以下に裁断して分別しろと案内している。行為として見れば、これはもう送り出しではない。回収であり、廃棄処理だ。それでも人々は毎年、真剣にやる。ここに、現代の日本人の死生観がむき出しになっていると思う。信じているわけではない。でもやめない。境界の向こう側があると本気で信じている人は多くないのに、境界に向かう動作だけは手放さない。宛先が消えても手紙は書く。むしろ、宛先がないと知りながら書く手紙のほうが、切実さの純度は高いのかもしれない。
地域差の話も、もう一度確認しておきたい。同じ長崎県内で、佐世保市は会場で爆竹と花火を全面的に禁じている。長崎市は箱ごと焚くのを許容し、警察が二十一本以上つながった爆竹を検問で預かるという細かい線引きで運用している。島原市は麦藁と竹の簡素な舟に切子灯籠を乗せ、「ナマイドー」の掛け声で有明海へ実際に浮かべる。熊本の御船町では八月十六日、御船川の三百メートル区間を舟が流れ、そのまま川の中で燃える。佐賀市の精霊流しは二〇〇九年、高齢化による担い手不足で消えた。この分布を眺めていると、伝統というものが単一の実体ではないことがよくわかる。同じ名前で呼ばれている行事が、隣の市では別の生き物になっている。そして、消えるときは呆気ない。爆竹の規制でも、環境問題でも、批判でもなく、単に人がいなくなることで消える。島原でボランティアを募って六名しか集まらなかったという記録が、いちばん怖い数字かもしれない。
最後に、なぜこれを怖い話として扱うのが正しいのかを書いておく。この行事の中心には、処理不能な感情の同居がある。轟音と沈黙、祝祭と葬送、笑いと涙が、同じ列の中に並んでいる。一九七四年に発表されたあの歌が全国に広めたのは、そのうちの内側の静けさだけだった。だから外から来た人間は音に殴られて驚く。だが地元の人間に言わせれば、両方とも本当なんだよな。外がうるさいから、中が静かでいられる。爆竹が鳴っているあいだ、遺族は何も考えなくていい。声を上げなくていい。泣いても誰にも聞こえない。あの音は、悲しみを隠すための煙幕として、たぶん最も効率のいい発明のひとつだ。そして煙幕が晴れた流し場で、飾りが一つずつ外され、骨組みだけになった舟が数秒で潰される。あの落差に立ち会った人間が、口を揃えて「そこで泣いた」と言う理由は、そこにある。うるさいから怖いのではない。うるさくしなければ立っていられない何かが、あの街の八月十五日には毎年生まれ続けている。それが千三百隻ぶん、県内では三千三百隻ぶん、同時に街を進んでいく。これを怪談と呼ばずに何と呼べばいいのか、俺にはわからない。行くなら耳栓を持っていってほしい。そして、火のそばには立たないでほしい。あの夜は、生きている人間にとっても、本気で危ないので。
