三月四日の朝、母が急いでいた理由
子どもの頃、三月四日の朝になると家の中の空気が変わった。前日までは楽しげに七段飾りを眺めていた母が、朝食を片づけるといきなり新聞紙を広げて、無言で人形を降ろし始める。手つきが早い。三人官女の持ち物を小さな袋に入れ、右大臣の弓を外し、面を柔らかい紙で包む。
「なんで今日なの」と聞くと、母は手を止めずに「遅くなると嫁に行けなくなるから」と答えた。冗談のトーンではなかった。
この言い伝え、改めて考えると相当に妙だ。なぜ人形をしまうタイミングが、その子の結婚に影響するのか。両者に何の因果関係があるのか。しかもこの話は日本全国で知られていて、今でも人形屋のコラムが定期的に否定しなければいけないほど強固に根づいている。
追っていくと、この迷信の下にはもっと古い、もっと実用的で、もっと不気味な仕組みが埋まっている。雛人形は、もともと飾るものじゃなかった。捨てるものだったんだよな。
「片付けが遅れると婚期が遅れる」の異様さ
まずこの命題の変なところを整理しておきたい。
一つめ、ペナルティが重い。飾り付けを一日サボっただけで、人生が何年も狂うということになる。二つめ、対象が女の子に限定されている。五月人形を片付けないと男の子がどうなるという話は、一応存在するが圧倒的にマイナーだ。三つめ、懲罰の中身が「結婚できない」であること。病気になるとか、事故に遭うとかではなく、婚期。人形の片付けと婚姻を結びつける回路が、どこかにあるはずなんだ。
四つ目が一番気になる。この言い伝えは、比較的新しい。江戸期の雛関係の風俗書に、この手の記述がはっきり出てこない。雛人形自体は江戸期に大流行しているのにだ。つまりこれは、雛人形が十分に高価で、十分に大がかりで、十分に「片付けるのが面倒なもの」になったあとで生まれた可能性が高い。
七段飾りを一人でしまったことがある人なら分かると思うが、あれは本当に面倒だ。道具の数が多い、部品が小さい、壊れやすい、箱に入れる順番を間違えると入らない。
だから一番やさしい説明は「子どもに片付けをさせるための脅し文句」だ。しつけ説。これは今でも主流の説で、実際多くの人形店もこの説を採用している。「整理整頓ができないと良い奥さんになれない」という、今聞くとなかなかの価値観の教訓を、人形を人質にして叩き込む。
だがこれだけでは説明がつかない部分がある。なぜ「婚期」なのか。なぜ人形なのか。そこに答えるには、千年前まで遡る必要がある。
そもそも雛人形は遊び道具じゃなかった
雛祭りという行事の正体を先に言ってしまうと、これは祭りではなく祓えだ。祝う行事ではなく、落とす行事。子どもの無事を祝うのではなく、子どもについた汚れを別の何かに移して、その別の何かを捨てる。これが骨格だ。
だからオリジナルの雛は、紙でできていた。あるいは草や布。安っぽくて、すぐ壊れて、水に浸けば溶けてなくなるものだ。高価な絹や螺鈿や金箔を使って、一生使えるように作るなんて、もともとの発想からすれば完全に逆だ。
今の雛人形は、捨てるための道具が、捨てられない価格と価値を持ってしまった姿なんだ。この矛盾が、あとで全部の怪談の根っこになる。
上巳――三月最初の巳の日
三月三日はもともと三月三日ではなかった。上巳、じょうし、と読む。三月の最初の巳の日を意味する。中国の行事で、この日に水辺へ出て身を清め、一年の災いを洗い流す。春の初め、冬の間に溜まったものを吐き出すタイミングとして選ばれた日だ。
これが日本に入ってきて、宮廷行事になる。十三世紀の頃に三月三日に固定され、五節句のひとつとして定着した。平安貴族はこの日に川へ出て、酒を飲み、歌を詠んだ。曲水の宴というやつだ。流れる水に盃を浮かべて、自分の前を通り過ぎるまでに一首詠む。
雅だけど、この宴の前に必ず祓えが入る。祭文が読まれ、参列者は自分の穢れを何かに移して、水に流す。飲むのはそのあとだ。楽しい行事の前半には、必ず不気味な手続きがある。
曲水の宴と、水辺の祓え
なぜ水辺なのか。ここが重要だ。水は境界だからだ。こちら側とあちら側を分ける線であり、同時に、こちらの不要なものをあちらへ運んでくれる運搬装置でもある。川に流せば、それはもう戻ってこない。海に出る。見えなくなる。
日本の祓えの多くが水を使うのは、この「二度と戻ってこない」という確信が持てるからなんだよな。土に埋めると、掘り返される可能性がある。焚くと、焼けた何かが残る。だが川は、流したら終わりだ。
この前提の上に、雛祭りの原形が組み上がっている。今、川に何かを流すと下流の人が困るし、河川法にも引っかかるかもしれない。当時はそんなことを考えない。下流にも人が住んでいることを知っていても、自分の厄は自分の家から出したい。この利己さこそが、祓えという技術の本質だ。
撫で物という技術
穢れを移す具体的な手順を、撫で物という。なでもの。形代ともいう。
やり方は今でも神社で体験できる。白い紙を人の形に切ったものを渡される。それで自分の体を撫でる。痛いところ、悪いところを入念にさする。最後に、その紙に息を三度吹きかける。これで完了。自分の中の悪いものが、紙の人形に移ったことになる。あとは神社がこれを集めて、川に流すか焚く。
この「撫でる」という動作が、改めて考えるとなかなかのものだ。自分の身体に人形を押しつけて、こすりつける。目に見えない何かを、物理的な接触で移動させようとしている。病気も厄も、粘っこい液体みたいなものとしてイメージされている。拭けば取れる。拭き取った布は、もう使えない。
この感覚を踏まえると、人形を飾りっぱなしにすることの不気味さが見えてくる。あれは使用済みの雑巾なんだ。
天児と這子――顔のある棒と、顔のない布
雛人形の直接の先祖とされるのが、天児と這子だ。
天児は「あまがつ」と読む。丸い竹や木の棒をT字に組み合わせ、そのてっぺんに白い絹を丸めて頭を作る。そこに目と鼻と口、それから髪の毛を描く。後には赤ん坊の産着のような着物を着せる。這子は「ほうこ」。白い絹の中に綿を詰めただけの、顔の描かれていない人形だ。四つんばいになって這っているような形をしているので這子と呼ばれる。
この二つを、子どもの枕元に置く。三歳になるまで、ずっと。子どもに降りかかるはずの災いを、代わりに引き受けさせる。平安の貴族の家ではこれが当たり前に行われていた。つまり、赤ん坊の寝ている横に、常に二体の人形が置かれていた。ひとつは顔があり、ひとつは顔がない。夜中に目を覚ましてそれを見たら、相当に心臓に悪いと思う。
源氏物語に出てくる厄除けの人形
『源氏物語』の中にもこの人形は出てくる。第十九巻「薄雲」で、紫の上が姫君のために厄除けの天児を作る場面がある。作るのは母親代わりの女性で、自分の手で、子どもの身代わりになるものを編む。
もうひとつ、よく引かれるのが「須磨」の巻だ。光源氏が須磨に落ちている頃、三月上巳の日に海辺へ出て、祓をする。陰陽師を呼んで、穢れを移した人形を船に乗せて海に流す。その直後に暴風雨が来る。雷が落ちて、住まいが壊れる。人形を流した直後に、自然が猫をかぶったように荒れる。この場面の不気味さはなかなかだ。流したものが、何かを呼んだようにも読める。
流し雛――川へ流すという処理
この「人形に穢れを移して水に流す」行為が、形を整えて残ったのが流し雛だ。
基本的な手順はどこも似ている。小さな紙雛を作る。桟俵という、藁の両端の丸い蓋の部分を切り取った丸い布団のようなものに乗せる。雛あられや菱餅、桃の花を一緒に置く。これを川に放す。子どもが、しゃがんで手を合わせる。桟俵はゆっくり回りながら下流へ流れていき、やがて見えなくなる。
キレイな行事として写真に撮られるが、やっていることは厄の投棄だ。自分の子の病気や不幸を、人の形をしたものに押しつけて、水に投げる。流される側の気持ちを考えると、なかなか残酷な行事でもある。人形は何も悪くない。ただ、人の形をしていたという理由で、代わりに流される。
鳥取県用瀬町の桟俵
流し雛で一番有名なのは、鳥取市用瀬町だ。「流しびなの里」を名乗っていて、毎年旧暦の三月三日に千代川の川辺で行われる。付近の人々が桟俵に紙雛を乗せて、一斉に川へ放つ。川の面が小さな丸い船で埋まる。
このとき地元では、桟俵を流したあとに振り返ってはいけないという言い伝えがあるという。振り返ると、流したはずのものが戻ってくる。この手の「振り返るな」ルールは日本の厄落とし儀礼に広く見られるもので、イザナギの黄泉の神話と同じ構造をしている。境界を越えたものは、見ない。見てはいけない。
和歌山・淡嶋神社の雛流し
もっと壮絶なのが、和歌山市加太の淡嶋神社だ。ここは全国約千社ある淡嶋神社の総本社で、神として少彦名命と神功皇后を祀る。婦人病平癒と安産の神として、昔から女性の信仰を集めてきた。
毎年三月三日の雛流し神事では、全国から寄せられた約五千体の雛人形が本殿の前に並べられる。祝詞が奉上されたあと、人形は白木の船に乗せられて、加太の海へ押し出される。五千体だ。船にひしめくように詰め込まれた雛人形が、顔を並べて海へ出ていく。海岸から見ていると、波に揺られて人形が一斉に首を振る。参拝者が一番ザワッとするのはこの瞬間だという。
なお現在では、流した人形は沖合で別の船が回収し、境内に戻してお焚き上げする。環境への配慮だ。ところがこれ、民俗的に見るとなかなか微妙なことをやっている。一度境界の向こうへ送ったものを、後から拾いに行っていることになるからだ。拾うなら、あの五千体はどこまで行って戻ってきたのか。
奈良・吉野川、兵庫・たつの、埼玉・岩槻
流し雛をやっている地域は他にもある。奈良の吉野川流し雛、兵庫県たつの市の龍野ひな流し、それから人形のまちとして知られる埼玉県岩槻の流しびな。岩槻の場合は人形の産地でもあるので、作る側と流す側が同じ土地にいるという面白い状態になっている。
付け加えておくと、人形を船に乗せて流すという現在の形式自体は、意外なほど新しい。昭和三十七年、一九六二年からだという記録がある。つまり我々が「古くからの伝統行事」と思って見ているあの光景の多くは、戦後の観光・保存の文脈で再構成されたものだ。だからといってニセモノと切り捨てるのは早い。基となった「人形に穢れを移して水へ」という回路は、本当に千年前からあるものなのだから。
流さなくなった雛、飾られる雛
ではどの段階で、雛は流されなくなったのか。
鍵は江戸期だ。平和になり、町人の経済力が上がり、人形を作る技術が進んだ。寛永雛、享保雛、古京雛、次郎左衛門雛と、時代ごとに意匠を凝らした雛が登場する。享保雛に至っては二五センチを超える大型のものが作られ、幕府が厳しい大きさ制限を出すほど過熱した。
こうなると、流せない。水に投げるには高すぎる。だから飾る。毎年出して、毎年しまう。本来なら一度使って捨てるはずの身代わりが、家に居座り始める。ここにノイズが入る。厄を引き受ける役目のものが、引き受けたまま家に居続ける。引き受けたものは、どこへも行かない。
「早く片付けないと良くない」という感覚の一番古い層は、たぶんここにある。人形は穢れを受け取っている。受け取ったものを目の前に置いておくのは、良くない。早く箱にしまって、見えないところにやれ。つまりこの迷信の本体は「婚期」ではなく、「見えないところにしまえ」だったと見るのが、一番経路が通っている。
では、なぜ「片付け」が結婚と結びついたのか
ここからが本題だ。主要な説をひとつずつ見ていく。
まず、厄が戻ってくる説。一番民俗的に筋が通っているのがこれだ。雛人形は形代の子孫だから、子どもの厄を引き受けている。三月三日を過ぎても飾りっぱなしにしておくと、せっかく引き受けてもらった厄が、子どものほうへ戻ってしまう。容器が満杯になって溢れる、というイメージだろう。だから、使ったらすぐに引っ込める。
この説の強さは、人形の起源と完全に整合することだ。弱さは、これだと懲罰が「婚期が遅れる」になる理由が説明できないことだ。厄が戻ってくるなら、病気になるとか怪我をするとかのはずで、婚姻に限定されるのは不自然だ。
次が、しつけの方便説。現代の定説である。人形の片付けは大変だ。この面倒な作業を娘にやらせるために、親が「ちゃんとしないと嫁に行けないよ」と脅した。これなら「婚期」という懲罰の内容も完全に説明できる。当時の女性にとって結婚は人生最大の関心事であり、最大の不安であり、最大のレバレッジだった。
ちなみに同じ回路の脅し文句は日本中にある。食べ残しをすると目がつぶれる、夜に爪を切ると親の死に目に会えない、食べてすぐ寝ると牛になる。どれも子どもの行動を管理するための、因果関係ゼロの脅しだ。雛人形の話もその一枚だと考えれば、すっきりする。
ただ、脅しの方便だとしても、なぜ雛人形が選ばれたのか。他にも片付けさせたいものは山ほどある。雛人形には、もともと「早くしまえ」という圧力が付属していたとしか思えない。つまり厄の説としつけの説は対立しない。厄の論理が先にあり、そこにしつけの目的が乗っかった。
三つめは、「片付く」の語呂説。もっと単純な話だ。日本語では娘が結婚することを「片付く」という。今でも年配の人が「うちの娘もやっと片付いてね」という言い方をする。人形を早く片付けると、娘も早く片付く。遅く片付けると、娘も遅くなる。同音による類感呪術だ。
これは面白いし、日本の俗信は本当にこの手の語呂でできていることが多い。節分の豆が「魔滅」なのと同じロジックだ。さらに雛人形の主役は婚礼の模造であるという点も乗ってくる。飾ることは婚礼をやることだから、早く飾れば早く嫁に行ける。人形の婚礼をだらだら続けると、本人の婚礼もだらだらする。
四つめは、明治以降の俗説だという説。一番ドライな読みだ。江戸期の雛関係の記録にこの言い伝えが見当たらない以上、明治から大正、あるいは昭和初期に口伝えで広まったと見る。この時期はちょうど、良妻賢母教育が学校で強化され、女性の結婚年齢への圧力が社会的に制度化されていった頃だ。
この時期にはもうひとつ事情がある。雛人形がマス商品になった。百貨店が売り、広告を打ち、この日に飾りこの日にしまいましょうという作法を宣伝する。作法が商品に付属すると、それは全国均一のルールになる。地域ごとにバラバラだった慣習が、一本の線に揃えられる。恵方巻がコンビニで全国化したのと、構造は同じなんだよな。
啓蟄という締め切り
実際のところ、いつしまえばいいのか。よく言われるのが啓蟄の日だ。けいちつ。二十四節気のひとつで、土の中の虫が動き出す頃をさす。三月五日前後にあたる。つまり三月三日の二日後ぐらいが目安ということになる。
この啓蟄基準は、実はかなり新しいもので、民俗的な根拠は弱い。春分の日までにしまえばいいという基準もある。もっと現実的な基準もあって、人形屋が口を揃えて言うのは「日付より天気を見ろ」だ。雨の日や湿度の高い日にしまうと、箱の中でカビが生える。絹がシミになる。面が割れる。人形の顔は胡粉を塗り重ねて作ってあるので、湿気には本当に弱い。
ところで、この「湿気で顔が変わる」という事実が、実は人形怪談の重要な供給源だったりする。胡粉の層が湿気を吸って、ひびが入る。入り方によっては、口元がゆがんだり、目の近くに線が入って涙のように見えたりする。一年ぶりに箱を開けて、去年と顔が違うと感じる。この体験をした人は、かなり多いと思う。
四月三日まで飾る地域
全国一律ではないというのも大事な点だ。東北や北陸、それから長野の一部などでは、旧暦や月遅れで雛祭りをする。つまり四月三日まで飾る。もっと長い地域だと、旧暦の三月三日に合わせるので四月の下旬まで飾ることになる。
この地域の人たちは、婚期が一ヶ月遅れているのか。もちろんそんなことはない。この一点だけで、「早く片付けないと婚期が遅れる」は全国規模のルールではないことが分かる。もし本当に呪術として機能しているなら、旧暦地域は全滅しているはずだ。俗信というのは、自分の土地のカレンダーを基準にしか作動しない。
捨てられない人形という問題
さて、現代の一番生々しい問題に入る。雛人形は、捨てられない。
実家の押し入れに、何年も開けていない桐箱がある。中には自分の、あるいは母の、あるいは祖母の雛人形が入っている。飾る場所も飾る相手もいない。だが捨てられない。ゴミ袋に入れて出すという選択肢が、どうしても取れない。
なぜ取れないのか。一つは顔があるからだ。人の形をしていて、目があって、こちらを見ている。ゴミ袋の中でこちらを見ているものを、集積所に置いて、回転板のついた車に放り込ませる。想像するだけで嫌な気分になる。もう一つは、前述の論理がどこかに残っているからだ。これは自分の身代わりだった。自分の厄を引き受けてくれていた。それを雑に捨てると、引き受けてもらった分が戻ってくるのではないか。
ネットのアンケートでは、雛人形の処分について「供養に出した」が最多で、次いで「まだ家にある」、その次に「親戚に譲った」が来る。「普通にゴミに出した」は少数派だ。そしてその少数派の人も、多くは「顔を白い布で包んでから出した」とか「塩を振ってから出した」と書いている。完全に事務的に処理できる人は、ほとんどいない。
淡嶋神社の境内で起きること
行き場を失った人形が集まる場所の代表が、先にも出した和歌山の淡嶋神社だ。
ここの境内を初めて見た人は、まず絶句する。本殿の周囲、回廊、供養堂の前、あらゆる場所に人形が並んでいる。しかも乱雑に積まれているのではなく、規則正しく、こちらを向いて並べられている。日本人形、市松人形、雛人形、五月人形、招き猫、ぬいぐるみ、外国の民族仮面まである。全国から送られてくるので、数は常に増え続ける。
供養堂の前には「下着を納める方は格子の中へ投げ入れてください」という注意書きがある。これは淡島神が婦人病にご利益を持つことに由来していて、病を身につけていた下着に移し、それを奉納するという発想だ。ここでも同じことが行われている。自分の悪いものを何かに移して、境界の向こうへ送る。人形も下着も、同じ回路の上にある。
境内の人形の中に、髪が伸び続けるものがあるという噂が古くからある。神社側が公式に認めているわけではないが、この手の噂はこういう場所には必ず発生する。何千という人形が一方向を向いて並んでいる空間で、何も起きないはずがないと人は思う。
髪が伸びる人形――お菊人形の全再話
日本の人形怪談の中で、最も有名で、最も詳しい経緯が分かっているのが、北海道のお菊人形だ。雛人形ではないが、「人形をしまえなかった場合に何が起きるか」の極限例として、この話は外せない。時系列を丁寧に追い直してみる。
大正七年、札幌狸小路
大正七年、西暦一九一八年。十七歳の鈴木永吉という青年が、札幌の狸小路を歩いていた。彼には三歳の妹がいた。名前は菊子。土産を何にしようかと店先を見ていて、おかっぱ頭の日本人形を選んだ。高さは三十センチ弱。平凡な、どこにでもある日本人形だ。
菊子はこの人形をひどく気に入った。寝るときも離さない。食事のときも横に置く。外へ行くときも持っていく。人形を守り袋のように扱う幼児は珍しくないし、当時の家庭ではもっと普通の光景だったはずだ。
菊子の死と、忘れられた人形
翌年、菊子が風邪をひいた。当時の北海道で、幼児の風邪は珍しくも何ともない。だが悪化した。あっという間に悪化して、菊子は死んだ。五歳だったという。
ここからがこの話の根幹だ。家族は、菊子の棺にあの人形を入れるのを忘れた。忘れた、というのが重要だ。意図的に手元に残したのではない。あれだけ手放さなかった人形を、一番大事なときに入れ忘れた。針の穴みたいな手違いだが、この一点で人形は行き場を失う。
人形は、菊子の遺骨と一緒に仏壇に飾られた。家族は毎日手を合わせた。しばらくして、母親が気づいた。人形の髪が、長い。買ったときはおかっぱだったはずの髪が、肩のあたりまで伸びている。見間違いだろうと思っても、日に日に長くなる。家族は「菊子の霊が乗り移った」と信じるようになった。
樺太へ渡る家族、預けられた人形
昭和十三年、一九三八年。鈴木家は樺太へ移住することになった。人形を連れていくわけにもいかない。そこで、北海道のある寺に預けていった。この時点では、あくまで一時預かりのつもりだったという。
しかし戦争が来る。樺太は失われ、引揚げがあり、永吉は戦後に北海道へ戻ってくる。寺を訪ねた彼は、人形の髪がさらに伸びているのを見た。彼は人形を持ち帰らなかった。菊子の霊が宿ったものとして、そのまま寺に納め、永代供養を頼んだ。
この判断が、この話の一番切ないところだ。妹の霊が宿っていると信じているのに、連れて帰らない。もう一度、人形を置いていく。二度目の置き去りだ。一度目は棺に入れ忘れ、二度目は寺に預けっ放し。髪が伸びるのが何の信号なのかは分からないが、少なくとも「まだここにいる」という主張には見える。
検証と、今も続く供養
人形は現在も寺にある。ガラスケースに入れられ、定期的に髪を切り揃えられている。切っても伸びる、というのが伝えられる内容だ。大学の研究室に鑑定を依頼したという話もあり、髪は人間の幼児のものだったという結果が伝えられている。もっとも、日本人形の髪はもともと人毛を使うことがあるので、この結果自体は怪異の証拠にはならない。
合理的な説明としてよく挙がるのは、髪を植え付けている頭部の接着部分が温度や湿度の変化で緩み、自重で髪が引き出されていくというものだ。北海道の寺という環境は、冬の乾燥と寒暖差が激しい。数十年単位で見れば、数センチの変化はありえる。この反論はかなり強い。
だが、反論が強いからといって話は弱まらない。この怪談の核心は髪ではない。棺に入れ忘れた、という一行だ。入れ忘れたものは、どこへも行けない。後から供養しても、一度閉じた棺は開かない。雛人形を押し入れに残している人がこの話を聞いてゾッとするのは、自分も同じことをしているからだ。
体験談その一:深夜二時の笛と太鼓
ここからは、集めた体験談をいくつか。
一つ目は、幼少期を墓地の隣の古い借家で過ごしたという女性の話。五つか六つの頃だという。
最初の異変は、深夜二時に起きた。体が妙に熱くなって目が覚める。寝返りを打とうとして、金縛りになっていることに気づく。指一本動かない。その状態で、隣家の方角から音が聞こえてくる。笛と太鼓だ。ヒューロロロロ、ドン、ドン。雅楽のような、ゆっくりした拍。午前二時に楽器を演奏する人間がいるはずがない。だが音は何分も続く。
彼女はあとになって、隣家に友達の家があり、そこに雛人形が飾られていたことを思い出す。五人囃子。笛を持つ子、太鼓を持つ子、鼓を持つ子、謡い手。あの音はあの五人が鳴らしていたのではないかと、彼女は今でも思っている。
二度目は、やはり深夜二時だった。同じように体が熱くなって目が覚め、同じように金縛りになっている。今度は音ではなかった。自分の頭の上、棚に飾られていた日本人形の首が、直角に下を向いていた。人形の首は普通、そこまで曲がらない。九十度だ。その顔が、真下の自分を直視している。
彼女は叫べなかった。どれくらいそうしていたか分からないが、やがて腕が動き始めて金縛りが解けた。朝になって見ると、人形の首は元通り真っ直ぐになっていた。母に何度訴えても信じてもらえなかったが、何回目かに母が気味悪がり、結局その人形は供養に出された。供養に出してから、金縛りは止んだ。
体験談その二:蔵の雛壇
二つ目。北関東の旧家に嫁いだ女性から聞いた話だ。
その家には土蔵があった。一階は農具と漬物樽。二階に上がるのは、年に一度だけだと言われた。二月の末に、雛人形を降ろすために上がる。
初めて上がった年、彼女は驚いた。雛人形の箱が、十セット以上あったのだ。しかもすべて別の年代のもので、一番古いのは明治のものだと義母は言った。子が生まれるたびに新しい雛を買う。使わなくなったものも捨てない。だから溜まる。
降ろすのは一セットだけで、残りは蔵の中に置いたままだ。ところが義母は、降ろさない箱も全部一度蓋を開けるという。「年に一度は顔を見せてやらないといかん」と。十セット分の箱を、一つずつ開けては閉める。蔵の二階は窓が小さく、不完全な光の中で、何十という白い顔が順に露出しては閉じられていく。
一年目に彼女が驚いたのは、ある箱の女雛の顔が、別の箱の男雛のほうを向いていたことだった。蓋を開けたとき、顔が真上を向いていない。首だけが横を向いている。義母に言うと、義母は見もせずに「入れ方が悪いとそうなる」と言って、すぐに蓋を閉めた。その後も毎年、同じ箱の同じ女雛が、同じ方向を向いていたという。
体験談その三:燃やす前の夜
三つ目。これは人形供養に出す前の夜の話として、複数のバリエーションを聞く。
ある家では、祖母の雛人形を供養に出すことになった。下見に行った寺で、供養の前にやっておくといいこととして三つ教わったという。額に小さな白い紙を貼るか、白布で目を覆うこと。名前を呼んで礼を言うこと。そして、道具類を人形と一緒に入れてやること。道具を取り上げて人形だけ燃やすのは良くないという。
前日の夜、家族は人形に白布をかけて座敷に並べた。内裏雛とお雛様、官女、五人囃子、随臣、仕丁。全部で十五人。白布をかけても、輪郭はしっかり分かる。白い布の下に丸い頭があって、肩があって、ちゃんと並んでいる。
その夜、家の人は一人ずつ別々に、座敷で音がしたと言った。カタン、という丸いものが倒れる音。見に行くと、何も倒れていない。三人とも、見に行った時には何も倒れていなかったと言う。翌朝、人形を箱に戻して寺へ運んだ。お焚き上げの日には家族は行かなかった。行かないほうがいいと寺に言われたからだという。
なぜ行かないほうがいいのか。この問いに対して、人形供養を行う寺の中には「供養は役目を終えさせる儀式だから、持ち主が見ていると離れにくくなる」という説明をするところがある。楽になる説明だと思う。だが同時に、こちらが見ていないところで何が起きているのかを想像する余地を残す説明でもある。
人形を燃やすときの作法
作法をもう少し整理しておく。地域や寺社によって違うが、共通する項目がいくつかある。
目を覆うというのは広く言われる。白い紙や布を使う。意味としては、人形にこれから起きることを見せない、という意味と、人形の目と目が合うのを避ける、という意味の両方が語られる。塩を振るのも一般的だ。人形を包む布の上から、左・中・右の順に振る。名前がある場合は呼ぶ。名前を呼べば、その人形は別の人形と区別される。別の何かが代わりに連れていかれる事態を避けられる、という発想だ。
道具を一緒に、というのは実務的な意味もある。屏風や雪洞を手元に残しておくと、あとで「これだけでも子にやろうか」となって、人形のない道具だけの雛壇ができ上がる。これが気味悪い。雪洞と屏風と白酒の徳利だけが並んで、座るべき人形がいない。人形は焼かれ、道具だけが残る。このアンバランスを、寺は嫌う。
逆にやってはいけないとされるのは、一体だけ残してあとを処分することだ。一対の内裏雛のうち片方だけを手元に置く、というのは、古い人は強く嫌がった。対になっているものを引き離す。引き離されたものは、相方を探す。この回路で、多くの人形怪談が作られてきた。
掲示板の反応と主要な説
ネットの反応を見ていると、このテーマでは大きく三つの派に分かれる。
一つ目は完全否定派。「人形屋も民俗学者も根拠なしと言ってる、完全な俗説だ」という立場。これは実際正しい。先に見た通り、江戸期の記録には見当たらないし、旧暦でやる地域との矛盾も説明できない。
二つ目は厄説支持派。「俗説の中身は嫌だが、人形が形代だったのは事実だから、飾りっぱなしは良くない」という中間の立場。この派が一番多い印象がある。婚期の部分は信じないが、何となく早めにしまう。
三つ目が、オカルト界隈で盛り上がる「逆説」だ。これは「早く片付けろは、厄を人形に残したまま封印するための手順だった」という読みだ。本来なら流して外へ出すはずのものを、流せなくなったので、代わりに桐箱に入れて押し入れの奥に封じる。雛人形の保管というのは封印なのだという。この読みに立つと、一年に一度の雛祭りは、封印を解いて中身を出し、また封じる作業になる。
反証もしっかりある。主なものは、雛人形の実態が早くから「祭られるもの」に変質しており、形代としての機能は江戸期には既に弱まっていたというものだ。雛人形は威信を示す財産であり、嫁入り道具であり、見せる道具だった。厄の容器としてガチガチに扱われていたなら、あんなに高い金をかけない、と。
この反証も強い。ただ、この手の議論でいつも見落とされるのは、人の信仰は矛盾を平気で抱えるということだ。同じ人間が、高い雛人形を自慢して、同時に早くしまわないと不吉だと思う。道理は通っていないが、実際に人はそうやっている。
なぜこれが怖いのか
雛人形の話が怖いのは、人形自体の見た目のせいだけじゃない。供養に出すときのあの不安の正体は、「自分の代わりに何かを引き受けさせていた」という記憶が、理屈ではなく体のどこかに残っていることだと思う。
考えてみれば、雛人形はシステムとして完結していない。本来の手順は、穢れを移して、流す。二ステップだ。ところが現代の雛人形は、一ステップ目しかやらない。移して、保管する。取り出して、また移して、また保管する。一度も投棄されない。十年、二十年と続けたあと、あの桐箱の中には何が入っているのか。この問いに、誰も答えない。
広まった理由も分かりやすい。この手の言い伝えは、否定するのにコストがかかる。人形を遅くしまって別に何も起きなかったとしても、それを証明するには何十年もかかる。逆に、結婚が遅い女性が一人いれば、周囲の誰かが必ず「そういえばあそこの家は雛を下げるのが遅かった」と言い出す。検証できない上に、後付けの説明として便利すぎる。この二つの条件を満たしている俗信は、絶対に消えない。
三つの層でできた、ひとつの迷信
全体を並べ直すと、この話は三つの層でできている。
一番下の層は、上巳の祓えだ。中国から入ってきて、十三世紀に三月三日に固定された行事。ここでの人形は道具だ。紙であり、草であり、使い捨てだ。撫でて、息を吹きかけて、川へ投げる。天児と這子が赤ん坊の枕元に置かれ、三歳まで災いを引き受ける。『源氏物語』の紫の上も、須磨の光源氏も、同じことをやっている。この層でのルールは単純だ。使ったら、手元に置かない。
二層目は、江戸期の豪華化だ。寛永雛、享保雛、古京雛、次郎左衛門雛。幕府が大きさ制限令を出すほどにエスカレートした雛人形は、もはや水に投げられない。ここでシステムが壊れる。厄を引き受ける役目のものが、引き受けたまま家に居座る。流さない代わりに、しまう。しまう行為が、流す行為の代替になる。だから「早くしまえ」という圧力が生まれる。この推論は、記録で裏付けられているわけではないが、一番回路が自然につながる。
三層目が、明治以降の俗説化だ。良妻賢母という価値観、女性の適齢期という社会的圧力、百貨店による商品化と作法の全国均一化。この三つが揃ったところで、「早くしまえ」に「婚期」という懲罰が、「片付く」の語呂を介して接続される。厄の論理と、しつけの都合と、言葉遊びの三つが同時に刺さって、一本の矢になった。これがこの迷信の正体だと思う。
しかし、この三層を全部剥がしても、残るものがある。押し入れの奥にある、開けられない桐箱だ。何百万という数の雛人形が、今この瞬間も日本中の押し入れと天井裏と土蔵の中で、蓋の下に入っている。彼らは、役目を終えていない。本来の手順なら、とっくに川に流されているはずのものが、百年、二百年と封じられたまま待機している。
淡嶋神社の境内は、そのことの可視化だ。全国から、しまい込めなくなった人形が集まってくる。三月三日には五千体が並べられ、祝詞のあと白木の船で海へ出ていく。百年前ならこれで終わりだった。今は沖合で回収して、境内で焚く。境界の向こうへ送って、途中で拾い上げて、こちら側で燃やす。合理的だし、現代にはこうするしかない。ただこの一手間を知ってしまうと、あの五千体が本当に向こう側に届いたのかどうか、少し分からなくなる。
お菊人形の話に戻ると、あれは結局、「正しいタイミングで送り損ねた人形」の話だった。大正七年に札幌で買われ、翌年菊子が死に、棺に入れ忘れられ、仏壇で髪を伸ばし始め、昭和十三年に寺へ預けられ、戦後に回収されないまま今に至る。入れ忘れた、という一行がすべての発端だ。人形というのは、行き先を指定されなかったときに一番面倒なことになる。
だから、母が三月四日の朝に無言で人形を降ろしていたのは、もしかしたら婚期の話ではなかったのかもしれない。彼女も自分の母から同じことを言われ、意味を知らないまま手だけが覚えていた。意味は失われても、手順は体に残る。三月四日の朝になると、日本中の家で、誰かが新聞紙を広げて、小さな顔を一つずつ紙に包んでいる。包むとき、人は必ず、一瞬だけ目を見る。
