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泣き女――米一升で葬式に泣き叫んだ女たちの、消えた声

村のはずれの道に、白い列がのびている。

先頭は松明だ。昼間なのに火を焚いている。そのうしろに天蓋を担いだ男、位牌を抱えた男、水桶、香炉、紙で作った花。棺は担がれて、ゆっくり揺れながら進む。足音だけが続く。誰も喋らない。喋ってはいけない場面だからだ。

そこへ、声が入る。

女の声だ。ひとりじゃない。三人か、四人。最初は喉の奥で押し殺したような、しゃくりあげる音。ヒッ、ヒッ、と息を吸う音が混じる。列が村の境を越えたあたりで、その音が急に開く。ワーッと割れる。アーッと伸びる。言葉になっているようで、なっていない。死んだ人の名前らしきものが混じる。もっといい着物を着せたかった、という文句が聞こえる。田を分けてやれなかった、と聞こえる。それを節をつけて、ほとんど歌うように投げ出す。

遺族は泣いていない。というより、泣けていない。三日ほど眠っていない喪主の顔は乾いている。泣くのは、この女たちの仕事だ。

墓場に着く。土が掘ってある。棺が下ろされる瞬間、声は最高潮になる。地面に手をついて崩れる者もいる。そして、埋め終わって、坊さんの読経が止まると、女たちの声はピタリと止む。まるでスイッチだ。さっきまで髪を振り乱していた女が、手ぬぐいで顔を拭いて、隣の女と何か話しながら帰っていく。世間話だ。

これが、日本にあった。しかも昭和の初めまで、地図に落とせるだけで三十五か所以上。

泣くのが仕事、というのは比喩じゃなかった

泣き女。哭き女、泣女、泣き屋。地方によっては泣手、泣人。呼び方はいくらでもある。葬式で、遺族のかわりに声をあげて泣くことを引き受けた女たちのことだ。

まず断っておくと、これは妖怪じゃない。ネットだとバンシーやら口裂け女やらと同じ棚に並べられていることがあって、だから「泣き女という怪異がいて」みたいな導入で語られるんだけど、違う。生身の人間がやっていた実在の職能だ。米をもらって、味噌をもらって、その分だけ泣いた。

その「その分だけ」というのが、この話でいちばん背筋が寒くなるところなんだよな。報酬は米で払われるのが一般的で、量に応じて泣き方のグレードが決まっていた。ブリタニカ国際大百科事典の記述だと、一升泣き、二升泣き、と段階があったという。五合泣きという言い方も広く伝わっている。五合なら五合ぶん。一升なら一升ぶん。米が増えれば声が大きくなり、泣く時間が延び、文句のバリエーションが増える。

つまり、悲しみに定価がついていた。

高知県のあたりには、この商売をからかう言い回しが残っている。泣味噌三匁、善く泣きや五匁。三匁の味噌ならこの程度、うまく泣いたら五匁だぞ、という。当時の人だってこの職業がどこか滑稽だということには気づいていたわけだ。それでも呼んだ。呼ばないと葬式が成立しないと思われていたからだ。

そしてもうひとつ。この仕事はほぼ全部、女がやった。

江戸幕府の役人が全国アンケートを取ったら、それが出てきた

文献にどう残っているか、という話をする。ここが一番おもしろい層だ。

江戸時代後期、屋代弘賢という幕府の書物方の役人がいた。生没年は一七五八年から一八四一年。この人が何をやったかというと、全国の諸藩に対して、その土地の風俗習慣についての質問状を送りつけた。今でいう全国アンケート調査だ。集まった回答は諸国風俗問答状と呼ばれ、民俗学の資料としてとんでもない価値を持っている。

その回答のひとつ、越後長岡領からの答えの中に、泣き女が出てくる。

悲泣をたすくるによく声をあげて泣く者をやとふて、泣かしむる事。こう書かれている。悲しみの泣きをたすけるために、声の出る者を雇って泣かせる、と。そしてその報酬の区分として、三升泣き、一升泣き、といった言い方があったことも記されている。淡路国からの回答では、泣き婆という呼称で報告が来ている。

ここが肝心で、これは怪談じゃなくて行政記録なんだよな。役人が真面目に聞いて、村の側が真面目に答えている。二百年前の日本の役所の書類に、泣く女を雇う値段の話が載っている。

さらに時代を遡ると、話は神話まで行く。

日本最古の泣き女は、雉だった

古事記の上巻、葦原中国平定のくだり。天若日子という神が死ぬ場面がある。

そこで喪屋が作られる。喪屋というのは、遺体を納めて葬儀を行う仮の建物のことだ。そして、その葬儀の役割分担が名指しで書かれている。河雁を岐佐理持に、鷺を掃持に、翠鳥を御食人に、雀を碓女に、そして雉を哭女に定めた。役を決めて、八日八夜のあいだ遊んだ、とある。

鳥たちが葬儀の係を務めている。掃除係がいて、飯炊き係がいて、臼をつく女がいて、そして泣く係がいる。それが雉だ。日本の文献に登場する最古級の泣き女は、鳥である。

ここで見逃せないのが最後の「遊」だ。八日八夜、遊んだ。現代語の遊びとはニュアンスが違って、これは祭祀や葬礼における歌舞のことを指す。つまり葬式は八日間続く音楽と踊りのイベントだった。静かに手を合わせて終わり、じゃない。音を出し続けることそのものが儀礼だった。泣き女はその音の一部だったわけだ。

日本書紀のほうにも、哭女を生業にしていたらしい女の記録が出てくる。朝廷の殯宮の儀礼でも、呪文めいたものを唱えながら泣く役の存在が伝わっている。神話の中だけの話じゃなく、実務として宮廷にいたということになる。

殯という、死を認めないための長すぎる時間

泣き女を理解するには、殯を知っておく必要がある。

殯というのは、死んでから埋葬するまでのあいだ、遺体を仮に安置しておく期間と、そこで行われる一連の儀礼のことだ。貴人の場合、これが年単位に及ぶこともあった。三年殯にした、という記録すらある。

何のためか。ひとつは、本当に死んだのかを確かめるため。医学的な死亡判定なんてない時代だ。息が止まっても、戻ってくるかもしれない。だから待つ。呼びかけ続ける。

もうひとつは、遺された側が死を受け入れるための時間の確保だ。いきなり埋めない。何日も何ヶ月も、死者のそばで飲み食いし、歌い、泣く。そのあいだに、生者の側の心が追いつく。

三世紀の中国の史書、魏志倭人伝にも倭人の葬送が書かれている。死ぬと十日あまり喪に留め、その間肉を食べず、喪主は哭泣し、ほかの者は歌舞し飲酒する、と。

喪主は声をあげて泣き、周りは歌って踊って酒を飲む。三世紀の日本列島の葬式は、そういうものだった。この哭泣と歌舞がセットになっている構造は、あとで出てくる南島の哭きうたに、そのまま生き残ることになる。

三十五か所の地図

じゃあ、日本のどこにいたのか。

日本大百科全書によれば、近年まで行われていて地名を特定できるものが三十五例ほど。全国に散在しているが、いくらか海岸部に多い、とされている。この海岸部に多いというのが引っかかるポイントで、後でまた触れる。

具体的な地名を並べると、長崎県の壱岐島。同じく五島。伊豆諸島の新島、三宅島、八丈島。伊豆の下田。琉球弧では奄美大島。八重山諸島。越前丹生郡越廼村、いまの福井市域。高知県の長岡地方。岩手県の平泉。新潟県の佐渡相川。岡山県の久米町。京都府の与謝郡。大阪の一部。

北から南までまんべんなく、しかも島と海沿いに偏っている。

呼び名も土地ごとにばらばらだ。八重山ではカドヌ人、泣キチテ、ナキィピトゥ。北海道のアイヌの葬儀では泣き女郎と呼ばれる役があったと伝わる。淡路では泣き婆。

同じ習俗が全国で同時発生したのか、それとも中心があって広がったのか。これは民俗学の永遠の論争で、決着していない。ただ、島と海岸に濃く残っているという分布の偏りは、少なくとも新しい流行として広まったものではないことを示している。新しいものは普通、都市から広がって田舎に届く。泣き女は逆だ。真ん中で先に消えて、端っこに残った。つまり古いんだよな。

奄美と沖縄には、泣くための歌があった

本土の泣き女がだいたい泣く行為だったのに対して、南島ではこれが完全に音楽になっている。

哭きうた。あるいは葬送歌。研究者の酒井正子が一九九〇年代以降、南西諸島でこれを追い続けてきた。奄美、沖縄本島、八重山、そして韓国の珍島まで足を運んで、音源と映像で記録している。著書のタイトルもそのまま哭きうたの民俗誌だ。

何が特異かというと、即興だという点。決まった歌詞を暗記して歌うんじゃない。死んだその人に対して、その場で言葉を作って歌う。あんたはこういう人だった。あのときこうしてくれた。なぜ先に行ってしまった。これから私はどうすればいい。それを節に乗せて、泣きながら投げ出す。

だから同じ歌は二度と存在しない。故人ごとに、その一回のために作られて、その一回で消える。

構造としては、旋律の骨格は共通していて、そこに言葉を流し込んでいく形になる。歌い手は泣きながら歌うから、声は途中で潰れるし、震えるし、言葉にならなくなる区間もある。それでいい。むしろそれが正しい。整った歌唱は求められていない。

徳之島の葬歌についても酒井の調査があって、島の民俗音楽文化の中に葬送の歌がどう位置づけられていたかが記録されている。奄美には一方で、人を呪い殺すためのサカ歌のような、歌の呪力を前提にした伝承もある。歌が人を殺せると本気で信じられていた文化圏では、歌が死者を送り出せると信じられているのも当然だ。同じコインの裏表なんだよな。

与那国島にも葬送歌が伝わっていて、これを扱った研究がある。風に哭く、というタイトルがついている。この島の歌がどう歌われたかを追った仕事だ。

南島の哭きうたが本土の泣き女と決定的に違うのは、必ずしも雇われた専門職とは限らないことだ。近しい女たち、姉妹、叔母、隣家の女が歌う。金銭のやりとりが介在しない場合も多い。じゃあ職能じゃないのかというと、そうでもなくて、村には必ず「あの人は上手い」という女がいた。上手い人が呼ばれ、上手い人が先導し、周りがそれに合わせて泣く。プロとアマの境界が溶けている状態だ。

糸満の路地を、着物をかぶった女たちが歩いていく

沖縄では、この習俗の記憶がかなり最近まで生きていた。というか、形を変えていまも残っている。

沖縄県糸満市の糸満。町端区に西新地ン門と呼ばれる路地がある。ここが墓へ向かう道だった。沖縄タイムスが取材した地元の高齢者たちの証言は、生々しい。

宮城夏枝さんは、取材当時八十八歳。自分が十歳から十四、五歳のころ、白いとんがり帽子のようなものをかぶって列に付いていった、と語っている。子どもも参加していた。そして、その墓参りは葬式の日だけじゃない。四十九日まで、週に一度は同じ格好で墓へ通った。

上原喜久江さん、当時八十三歳。幼いころ、着物をかぶって泣く女性たちの列を見た記憶がある、と。

玉城チヨさん、当時九十一歳。女の子も帽子のようなものをかぶって一緒に歩いた、と証言している。

かぶっていたのはバサージン。芭蕉布の着物だ。それを頭からかぶって歩く。顔が隠れる。誰が誰だか分からなくなる。この顔を隠すという要素が、たぶん本質的に効いている。

そして、いちばん怖い証言がこれだ。金城健さん、当時八十四歳。泣き方についてこう語っている。家の門を出ると泣きやみ、墓が近づくとしくしく泣き始め、わーんわーんと大声になる。

門を出た瞬間に泣きやむ。墓が近づくと再起動する。完全に制御されている。感情の発露じゃなくて、演目だ。どこで泣き始めてどこで泣き止むかが決まっている。三味線の合いの手と同じで、入るべきタイミングがある。

そしてこの記事がいいのは、現在形で終わっているところだ。いまは着物をかぶるかわりに、晴れていても傘を差す。そして泣くお年寄りは、今でもいる。

消えたわけじゃない。装備が変わっただけだ。

十歳の少女が、七週にわたって列に組み込まれる

いまの糸満の証言は、短く切り取るとただの風景描写になってしまう。だがあれを一人分の記憶として並べ直すと、まるで質感が変わる。

宮城夏枝さんの話をもう一度たどってみる。十歳の少女が、白いとんがり帽子のようなものをかぶらされる。理由は説明されない。かぶれと言われるからかぶる。そして大人の女たちのうしろについて、路地を歩く。頭からかぶった布のせいで視界は狭い。足元と、前を歩く人の裾しか見えない。前の女が泣き出す。すると隣の女も泣き出す。少女は泣いていない。何が起きているのかよく分かっていない。でも列は進む。墓に着いて、また戻ってくる。

それが葬式の日で終わらないというのが、この証言の恐ろしいところだ。四十九日まで、週に一度、同じ格好で同じ道を歩く。七回。少なくとも七回。十歳の子どもが、七週にわたって、顔を隠して泣く女たちの列に組み込まれる。

この経験が身体に刻む「弔いとはこういう音がするものだ」という感覚は、たぶん一生消えない。実際、この人は八十を超えてなお、そのときの服装と頻度を正確に覚えている。理屈じゃなくて、身体が覚えている種類の記憶だ。玉城チヨさんも、女の子も帽子のようなものをかぶって一緒に歩いた、と証言している。子どもは見学者じゃなかった。最初から人員だった。

金城健さんの証言は、もう一段深い。家の門を出ると泣きやみ、墓が近づくとしくしく泣き始め、わーんわーんと大声になる。この一文には、少なくとも三つの局面がある。門の内側、道中、そして墓の近く。彼はこれを子どものときに見て、大人になっても、老人になっても覚えていた。

なぜ覚えていたか。たぶん、不自然だったからだ。泣いていた女が、門を出た瞬間に普通の顔になる。あの切り替わりを見てしまった子どもは、大人が悲しんでいるという光景を二度と素直には受け取れない。同時にこうも思ったはずだ。じゃあ、あれは何だったのか。嘘だったのか。それとも、嘘であることに意味があったのか。この問いを八十四歳まで持ち歩いた人の証言だと思うと、たった一行がずいぶん重い。

上原喜久江さんが語ったのは、もっと視覚的な記憶だ。着物をかぶって泣く女性たちの列を、幼いころに見た。見た、というだけの証言なんだけど、これがいい。彼女はその列の中にいない。外から見ている。路地の脇か、家の窓か。芭蕉布をかぶった女たちがぞろぞろ通っていく。顔は見えない。声だけが聞こえる。子どもの位置から見上げたら、あれはほとんど行列する布の塊だ。人間の形をしていて、人間の顔がなくて、泣き声だけを発しながら通り過ぎていく。

こういう記憶がのちに妖怪の造形になっていくんだろうな、と思わせる。実在の職能が、目撃者の記憶の中で少しずつ怪異に近づいていく現場を、この短い証言は捉えている。

こうした聞き書きが取られたのは、ぎりぎりのタイミングだった。証言者はみな八十代から九十代。次の世代には、この光景を直接見た記憶がない。あと十年遅かったら、この四人の話は残っていない。

泣き声で魂を呼び戻せると、本気で思われていた

じゃあ、なぜ他人に泣かせるのか。ここが民俗学の核心だ。

説はいくつかある。どれか一つが正解というより、たぶん全部が同時に効いている。

まず、魂呼ばい。日本葬祭アカデミー教務研究室の解説などでも整理されているとおり、日本には死の直後に死者の名を大声で叫ぶ習俗が全国にあった。屋根に上って西に向かって呼ぶ。和歌山では屋根瓦をわざわざ剥がして、階下に寝ている死者に向かって直接呼ぶ。隠岐の島では屋根に開けた穴から細引きを垂らして、死者の髪に結びつけて呼ぶ。千葉では井戸の底に向かって叫ぶ。

全部、呼べば戻るかもしれない、という前提の上に立っている。医学的な死亡確認がない世界では、これは迷信じゃなくて最後の実務なんだよな。声が届く可能性がゼロだと証明できない以上、やらないという選択肢はない。

そうすると、泣き女は「よく通る声で叫ぶことができる技術者」ということになる。家族の声はもう枯れている。だから声のプロを呼ぶ。合理的だ。

次に、鎮魂と魔除け。死んだばかりの魂は荒ぶっていると考えられていた。特に若い死、事故死、恨みを残した死。それを鎮めるには、こちらから大きな音を出す必要がある。中国や台湾の葬式で爆竹を鳴らすのと同じ発想だ。泣き声もまた、悪いものを寄せつけないための音だった。

三つ目、穢れの肩代わり。死は穢れであり、それに触れる者は穢れる。遺族はどうしても触れざるを得ないが、その一部を外部の人間に負わせる。泣き女は、悲しみを代行しているように見えて、実は穢れを引き受ける役でもあった。だからこの職能は、しばしば社会的に低く見られる立場の人が担った。泣味噌三匁、みたいなからかいの言葉が生まれる下地はそこにある。

四つ目、単純に、共同体への見せ物としての機能。あの家の葬式は立派だった、と言われるかどうか。中国では泣き女の人数が家の名誉に直結して、かつては五十人から六十人を動員することもあったという。泣き声の量が、そのまま故人の徳と家の格を表す指標になっていた。日本の一升泣き二升泣きも、根っこは同じだ。

五つ目、これがいちばん優しい説明だと思うんだけど、遺族を泣かせるための呼び水。越後長岡領の回答にあった「悲泣をたすくるに」という言い方が、まさにそれを言っている。助ける、なんだよな。人は本当にショックを受けているとき、泣けない。誰かが先に泣き崩れて、その声を聞いて、ようやくつられて泣ける。泣き女は感情のスターターだった。

世界中、どこでも同じことをやっていた

この習俗は日本のローカルな奇習じゃない。むしろ世界標準だ。

中国。儒教の礼記に定められた哭礼と結びついて語られることが多い。ただ注意が必要なのは、この習俗自体は儒教成立以前から存在していたという点だ。儒教が発明したんじゃなくて、もともとあったものを儒教が制度に取り込んだ。順番が逆なんだよな。現代でも農村部を中心に職業として生きていて、一回の相場は二百元前後、日本円で三千円程度と言われる。ただし拘束時間は十分二十分だから、時給に直すと悪くない。テレビでは年収一千万円超のスター泣き女が取り上げられたこともある。演技力と話術で単価が決まる、完全に実力主義の世界だ。

朝鮮半島。哭婢、コクピと呼ばれる存在がいた。儒教の論理はこうだ。実の子は悲しみが深すぎて声を上げて泣くことができない。だから兄弟や親族が代わりに声を上げる。この「深すぎて泣けない」という前提が制度化されている。そこから一歩進んで、他人を雇うようになる。韓国では三年喪の慣習もほぼ消滅し、火葬率は一九七一年に七パーセントだったものが二〇〇〇年代には五割を超えた。九七年末に始まった経済危機が、墓を買う余裕を人々から奪った、という分析もある。

台湾。孝女白琴と呼ばれるスタイルがある。白い喪服をまとって棺に取りすがり、拡声器で泣き叫ぶ。これがさらに派手になると、電子花車、つまり派手なネオン装飾のトラックに乗った芸能一座が葬列に加わる。ミニスカートのマーチングバンドが行進することもある。日本人が見ると仰天するけど、賑やかさこそが弔いだという文化圏では、これがまっとうな敬意の表現だ。

古代エジプト。壁画に泣き女が描かれている。彼女たちは女神イシスとネフティスを演じた。神話の中で殺されたオシリスを嘆いた二柱の女神を、生身の女が再演する。旧約聖書にも、嘆きの女を呼べという趣旨の記述がある。

イスラム圏。雇われた女たちが、独特の甲高い声を長く伸ばして響かせる。面白いのは、この声が葬式だけじゃなく、結婚式や割礼式でも上げられることだ。悲しみ専用の音じゃない。人生の節目に鳴らす音、通過儀礼のサイレンなんだよな。

ロシア。プロの泣き女がいた。葬儀で泣き嘆く声が大きいほど、故人の魂は早く安らぎに辿り着けると信じられていた。一団を組んで、順番に、あるいは声色を変えながら詩や歌を披露する。呼ばれるのは葬式だけじゃなく、徴兵で村を出る若者を送るときや、結婚式、災害のときにも呼ばれた。身分の変わり目にはとにかく泣く。農民もツァーリも使った。ピョートル大帝が異教的だとして公式に禁止したが、それでも農村では生き延びた。

ベトナム。埋葬が済むまで、常に誰かが泣いていなければならないとされた。無音の時間を作らない。これは南島の哭きうたが夜通し続けられるのと構造が同じだ。

アイルランドの、消えてしまった声

そして、アイルランド。ここが個人的にいちばん胸に来る。

キーニング。もとはゲール語のカイニャという語で、泣く、嘆くという意味だ。これを主導する女はベン・ハンチャ、つまり嘆きの女と呼ばれた。

構造がはっきりしている。まず死者への呼びかけ。次に嘆きの本体。そして最後に、ゴルと呼ばれる号泣のパート。歌詞は決まっていない。基本となる短い旋律の型を反復しながら、感情の赴くままに即興する。周りの参列者は、泣き女の声に合わせて体を揺すり、膝をつく。

奄美の哭きうたと、ほぼ同じことをやっている。地球の反対側で。

歴史は古い。七世紀から十二世紀の文献に、すでに大量の言及がある。十二世紀にはウェールズ出身の聖職者ギラルドゥス・カンブレンシスが、アイルランドで見た嘆きの様子を書き残していて、参列者が二組に分かれて交互に嘆く形式だったと記録している。一七九一年にはウィリアム・ビューフォードが詳細な記述を残した。

そして、消えた。十八世紀以降じわじわ衰退し、二十世紀半ばにはほぼ完全に絶滅した。一九〇五年に行われたアラン・マクドナルド神父の葬儀が、ヘブリディーズ諸島における最後のキーニングだったと言われている。

ぎりぎりのところで、録音が残った。一九五〇年代、民俗音楽の採集で知られるアラン・ローマックスが、キティ・ニ・ガラハーという歌い手のキーニングを録音している。名歌手ショーソウ・オヘーニーは、この歌い方を祖母から習ったと語っていて、その音源も残っている。

つまり、人類がやっていた最古級の音のひとつが、テープに間に合った。ぎりぎりで。

ちなみに日本語のネット記事で「イギリスのバンシー」という説明をよく見かけるが、あれは正確じゃない。バンシーはアイルランド語のベン・シー、妖精の女という意味で、アイルランドとスコットランド・ゲール語圏の伝承だ。イギリスと括るのは雑すぎる。しかも順序を考えると、先にあったのは生身の泣き女のほうで、あの世から死を予告して泣く妖精のほうが後付けである可能性が高い。現実の職能が神話に昇格したパターンだ。妖怪が先じゃない。人間が先なんだよな。

日本の葬式は、いつから静かになったのか

さて、日本だ。あれだけ全国にいた泣き女は、どこへ行ったのか。

ひとつの手がかりが、柳田国男の涕泣史談だ。一九四〇年、昭和十五年の夏に行われた講演がもとになっている。戦争の真っ最中に、この人は「日本人はどう泣いてきたか」という講演をやっている。それだけでもう最高なんだが、内容が鋭い。

柳田はまず、泣くという行為を二つに割る。声をあげて泣くことと、涙をこぼすこと。これは別種のものだ、と。そして、もともと日本人の泣きは圧倒的に前者、声のほうだったと指摘する。泣くとは、鳴らすことだった。

ところが中世以降、社会は泣くことを卑しむようになる。柳田の見立てでは、あまりに便利な表現手段だったせいで濫用され、価値が下がった。泣けば通ると思われた結果、泣くやつは卑しいという規範が生まれた。そして武士の倫理がそこに乗る。泣くな。堪えろ。声を出すな。

この規範が明治以降の国民教育で全国に配られる。学校で、軍隊で、職場で。感情を露わにするのは未開である、という西洋近代への引け目もそこに混ざる。外国人に見られて恥ずかしい儀礼、というリストに泣き女は入ってしまった。

同時に、葬式のハードウェアそのものが変わっていく。

野辺送りが消える。棺を担いで歩く行列は、昭和三十年代ごろまでは全国で普通に見られた。位牌持ち、飯持ち、水桶持ち、香炉持ち、紙華持ち、天蓋持ち。葬列六役と呼ばれる役割分担があり、村の人間が総出で務めた。松明が先導し、四華花が揺れた。それが霊柩車の普及で消滅する。行列がなくなれば、行列に付いて泣く役も要らない。

自宅葬が消える。座敷に祭壇を組み、近所の女たちが台所に入り、通夜には人が泊まり込んだ。あれが斎場に移る。一九六七年、吉田茂の国葬が日本武道館で行われ、生花祭壇という様式が世に知られる。八十年代以降、祭壇は花で作るものになっていく。一九九六年には葬祭ディレクターの技能審査制度が始まり、葬儀は村の共同作業からサービス業になった。

そして家が縮む。一世帯あたりの人数は、一九五三年の五人から二〇一八年には二・四四人まで落ちた。単身世帯は八十年代半ばの一八パーセント台から、二七パーセント台へ。一九九五年前後に家族葬という言葉が広まり、二〇〇八年のリーマンショックで縮小に拍車がかかる。

会館の一室、椅子席、司会者のマイク、時間どおりの進行。この空間で、誰かが床に崩れ落ちてワーッと泣いたらどうなるか。周りが困る。ただそれだけの理由で、泣き女は要らなくなった。

音を出す儀礼から、音を出さない儀礼へ。日本の葬式は、そう転換したんだよな。

泣き女はスクリーンの中に逃げ込んだ

現実から消えた職能は、たいてい映像に残る。

二〇〇四年に日本公開された中国映画、涙女。リウ・ビンジェン監督の作品だ。主人公のグイは北京で不法に暮らしていたが、故郷へ送り返される。そこで彼女は、葬式で泣く仕事に出会う。もともと声が大きく、感情の押し出しが強い女だった。その資質がそのまま商品になる。やがて売れっ子の哭き女になっていく。

この映画が容赦ないのは終盤だ。彼女自身が夫を失う。そのあと、他人の葬式で、彼女は仕事のつもりで泣き始めて、途中から本気で泣いてしまう。演技と本物の境界が壊れる。金をもらって泣くという行為が、どこかで必ず本人を食い破るという話になっている。

これは実際の泣き女たちが直面した問題でもあったはずだ。毎日のように他人の死に立ち会い、他人の人生を語り、他人のために声を潰す。その蓄積がどこへ行くのか。誰も彼女たちのためには泣いてくれない。

日本の映像作品でも、時代劇や民俗ホラーの背景として泣き女が使われることがある。行列の中で顔を隠して泣いている女が実は、みたいな使い方だ。分かりやすい不気味さがあるから、演出装置としては便利なんだろう。ただ、それは元の職能をだいぶ痩せさせた形でもある。

令和の泣き女は、代行サービスの中にいる

で、現代日本に泣き女はいないのか。

いる、と言っていいと思う。名前が変わっただけだ。

いまは冠婚葬祭の代理出席を請け負う会社がある。葬儀への代理参列、弔問の代行、親族役の派遣。全国対応をうたっているところもある。会社の同僚として、遠縁の親戚として、必要な人数を必要な役で送り込む。もちろん彼らは泣き叫ばない。むしろ静かに、目立たず、そこにいることが仕事だ。

でも構造は完全に同じなんだよな。葬式に必要な人の情の量が足りないとき、外から買って補う。人数が足りないから買う、というのは、悲しみが足りないから買う、と本質的に何が違うのか。米一升で泣かせていた村と、料金表で親戚を呼ぶ現代と、どっちがグロテスクかは正直よく分からない。

お墓参り代行というサービスもある。行けない人のかわりに墓を掃除し、花を供え、写真を送ってくれる。糸満の女たちが四十九日まで週に一度、芭蕉布をかぶって墓へ通ったあの習俗の、現代版の外注だ。頻度も、代行という構造も、ほとんど変わっていない。

さらに言えば、泣くことそのものを目的にしたイベント、みんなで集まって映画や手紙で泣く催しが、涙活なんて呼ばれて成立している。泣く場所を意図的に用意しないと泣けない社会になった、ということでもある。泣き女は、泣く許可を出す人でもあった。あの声が響いているあいだは、泣いていい時間だった。いまはその合図がない。

ネットの言うことは、だいたい半分しか合っていない

この話題、ネットでは定番的に語られる。だが定番の説明にはいくつか怪しい点があるので、潰しておく。

よく見るのが「日本人は静かに悲しむ文化だから、泣き女は根付かなかった」という説明だ。葬儀社系のコラムに頻出する。これははっきり事実と食い違う。日本大百科全書が地名を特定できるだけで三十五例を挙げていて、江戸期の行政アンケートにも料金体系ごと載っていて、古事記にも日本書紀にも出てくる。根付かなかったんじゃない。根付いていたものが近代に剥がされたんだ。順序が逆になっている。

次に儒教起源説。これも半分しか合っていない。礼記の哭礼が制度としての枠を与えたのは事実だが、中国においてすら儒教成立以前からこの習俗はあったとされている。しかもエジプト、中東、アイルランド、ロシア、ベトナムと、儒教が一ミリも届いていない土地に同じものがある。儒教はハンドルを握ったが、エンジンを作ったわけじゃない。

三つ目。泣き女はバンシーだ、という混同。さっき書いたとおり、バンシーはアイルランド伝承の妖精で、しかも生身の泣き女のほうが先行している可能性が高い。人間の職能を妖怪の一種として説明するのは、順番として逆立ちしている。

四つ目。中国や韓国では今も普通にいる、という言い方。中国の農村部には確かに残っているが、韓国では大幅に減っていて、都市部の葬儀場ではまず見ない。韓国ドラマや時代劇で見た印象がそのまま現在形として語られている面がある。

そして考察界隈でわりと人気があるのが、泣き女はシャーマンの成れの果てだ、という筋の説だ。巫女、イタコ、ユタといった、女性が霊的な媒介者を務める系譜の末端に泣き女を置く見方で、これは実際、日本葬祭アカデミーの解説などでも触れられている。女性の霊性を重んじる観念のもとで、号泣が呪術的な行為として機能したという整理だ。魅力的だし、たぶん一部は当たっている。ただ、これを押し込みすぎると、報酬が米何升で決まっていたという生々しい労働の側面が見えなくなる。彼女たちは神秘の担い手であると同時に、確実に日雇いの働き手でもあった。両方だ。どっちかにすると嘘になる。

なぜ、これが怖いのか

最後に、この話がなぜ後を引くのかを考えたい。

幽霊が出てくるわけじゃない。呪いもない。祟りもない。それでも泣き女の話には、実話怪談より深いところを刺す感触がある。

理由のひとつは、感情が外注可能だという事実そのものだ。悲しみは人間の内側から自然に湧いてくるもので、演じられるものじゃない。その前提を、この習俗は真っ向から否定してくる。しかも数百年、世界中で。悲しみは量として計測でき、値段がつき、外から調達できる。その事実は、自分の感情の出どころも実はよく分からないんじゃないか、という不安に直結する。

もうひとつは、あのスイッチだ。門を出ると泣きやみ、墓が近づくとしくしく泣き始め、わーんわーんと大声になる。この制御の完璧さ。人間があそこまで自在に号泣を出し入れできるという事実は、逆に言えば、本気で泣いている人間の涙と見分けがつかないということでもある。葬式で泣いているあの人は本当に悲しいのか。自分は本当に悲しいのか。判定する方法がない。

三つ目は、消え方だ。禁止されて消えたんじゃない。誰も反対しないまま、いつのまにか呼ばれなくなって、呼び方を知っている人が死んで、終わった。アイルランドのキーニングは録音が間に合った。奄美と沖縄の哭きうたも、酒井正子たちの仕事で記録が残った。だが本土の泣き女の声は、まともな録音がほとんど残らないまま消えている。どんな節回しだったのか、どんな文句を並べたのか、正確なところは誰も再現できない。

数千年続いた音が、記録装置が普及したまさにその時代に、すれ違うようにして消えた。

そして四つ目。これがいちばん効く。彼女たちがいなくなったあと、その役を誰も引き継いでいないことだ。葬式で最初に泣き崩れる係。あの人が泣いたから自分も泣いていいと分かる、あの合図。いまの葬儀会館には、それがない。だから多くの人が、身内の葬式で一度も泣けないまま火葬場まで行って、何ヶ月かあとにスーパーの惣菜売り場でいきなり泣くことになる。

泣き女が消えて、泣けなくなった。

そういう話なんだよな、たぶんこれは。

彼女たちは感情労働者ではなく、音響技師だった

もう一度、最初の葬列に戻ってみる。

あの場面で本当に起きていたことは、悲しみの表現じゃない。音による境界の管理だ。村の中と外、生者の側と死者の側、日常と非日常。そのあいだには目に見える線がない。だから音で線を引く。松明の火と、鉦の音と、女たちの泣き声。この三つが揃ったところが葬列であり、そこから外は日常だった。

金城健さんの証言にあった「門を出ると泣きやむ」というのは、まさにその線の話だ。門の内側は家の領域で、そこではまだ泣かない。道に出ると、公道は共同体の空間だから、静かに移動する。そして墓が近づくと、あの世との境界に接近するから、音を最大にする。全部、場所に対応している。感情の起伏じゃなくて、地理なんだよな。

これに気づくと、泣き女は感情労働者というより、音響技師に近い存在に見えてくる。彼女たちは自分の悲しみを提供していたんじゃない。適切な場所で適切な周波数を鳴らす技能を提供していた。だから米で払える。技能には値段がつくからだ。

そう考えると、この職能が女に集中していた理由も少し違って見える。よく言われるのは「女は感情表現が豊かだから」という説明で、ロシアの泣き女の記事などにもその趣旨のことが書かれている。だが、それだけでは弱い。もっと実務的な理由があったはずだ。

ひとつは声域。男の低い声より、女の高い声のほうが遠くまで通る。屋外の葬列で、風の中で、山の斜面で聞かせるなら高音のほうが圧倒的に有利だ。魂呼ばいで屋根に上って叫ぶ場合も同じで、届く声が要る。

もうひとつは、葬送における性別の分業。棺を担ぐ、穴を掘る、火をつけるといった重い実務は男が握っていた。すると音の担当が女に回るのは、単純に手が空いているのが女だったからでもある。

そしてもうひとつ、より重い理由として、死の穢れに触れる仕事の配分がある。共同体の中で、汚れ役を誰が引き受けるかという配分の問題だ。泣き女への揶揄や蔑みが記録に残っているのは、この配分が公平でなかった証拠でもある。泣味噌三匁という言葉を面白がる前に、そこは押さえておきたい。

海に向かって呼ぶための声だった、のかもしれない

分布が海岸部と島に偏っているという日本大百科全書の指摘も、もう少し掘る価値がある。

素直に読めば「古い習俗が周縁に残った」で終わるが、海という条件そのものが効いていた可能性がある。海辺の村には、遺体の戻らない死が構造的に多い。船が沈む。漁に出たまま帰らない。そういう死の場合、通常の葬送が成立しない。棺に入れるものがないからだ。

そこで何が代替物になるかというと、声だ。遺体がなくても、名前を呼ぶことはできる。海に向かって呼ぶことはできる。魂呼ばいが井戸の底や屋根の穴といった、向こう側に通じる穴を必要としたのと同じ論理で、海はそれ自体が巨大な穴として機能する。

泣き女が海沿いに濃く残ったのは、そこに呼ばなければならない不在の死者が多かったからだ、という読みは十分に成り立つ。実際、南島の哭きうたには海難死をめぐる歌が多い。与那国の葬送歌を扱った研究に風に哭くという題がついているのも、偶然じゃない気がする。風と海に向かって声を投げることが、あの島々における弔いの原型だった。

もうひとつ深掘りしておきたいのが、即興性だ。奄美・沖縄の哭きうたも、アイルランドのキーニングも、旋律の型だけ共有して歌詞はその場で作る。この設計は、実は非常に合理的だ。死者は毎回違う人間だから、既製の歌詞では嘘になる。かといって完全な自由詩では、悲しみの真っ只中にいる人間には作れない。だから枠だけ用意して、中身を空にしておく。悲しみのフォーマットだ。

これがあると、言葉にならない状態の人間でも、とりあえず音を出せる。出しているうちに言葉が出てくる。出てきた言葉が自分でも予想していなかったものだったりする。そこで初めて、自分が何を失ったのかが本人に分かる。哭きうたは追悼であると同時に、遺族自身への発見の装置だった。

現代の葬儀にこれに相当するものがあるかというと、たぶん弔辞がいちばん近い。ただし弔辞は原稿を書いてから読むので、発見の機能はほとんど死んでいる。整った文章を落ち着いて読み上げる形式は、感情が言葉を追い越す事故を許さない。

誰も一人では、身内を送れない

そして、いちばん考えたいのが「代行」という発想の連続性だ。

米一升で泣かせた村と、代理参列を発注する現代を、断絶として見るか連続として見るか。私は連続だと思う。

人間の葬送は最初から、必要な要素を外部から調達して組み立てる共同作業だった。棺を作る人、穴を掘る人、経を読む人、飯を炊く人、そして泣く人。誰も一人で身内を送れない。送れないという前提の上に、儀礼という仕組みが乗っている。

近代がやったのは、その中から「泣く人」だけを不自然なものとして切り出して、恥じ入って捨てたことだ。坊さんへのお布施は誰も外注と呼ばないのに、泣き女は外注と呼ばれて笑われた。この線引きは実はかなり恣意的で、たぶん近代の感情観、つまり感情は個人の内面から自然に湧くべきもので演出は不誠実である、という後付けの倫理が働いている。

だが儀礼というのは本来そういうものじゃない。決まった型を、決まった順番で、決まった人が実行する。そこに本心があるかどうかは、二の次だった。むしろ本心が追いつかない人間のために、型が先に用意されていた。

だからこの話の結論めいたものを置くなら、こうなる。泣き女が消えたのは、日本人が上品になったからでも、感情が枯れたからでもない。感情を「自分の内側から出てくる正しいもの」として扱うことにした結果、外から供給する仕組みを持てなくなっただけだ。そして人間の悲しみは、残念ながらそんなに素直に内側から出てこない。出てこないまま、行き場を失って、何年も後にどうでもいい場面で噴き出す。あの女たちの声は、それを防ぐための装置だった。うるさくて、大げさで、金で買えて、そして必要だった。

奄美の集落で、沖縄の路地で、アイルランドの海辺で、同じことをやっていた女たちがいる。互いに一度も会わず、言葉も通じず、それでも同じ構造の音を鳴らしていた。人類はどうやら、死者を送るには声が要ると独立に何度も発見している。そしてそのたびに、声を出す役を誰かに割り振っている。いま私たちがその役を持っていないというのは、歴史的に見ればかなり異常な状態なのかもしれない。

沖縄タイムスの記事の最後にあった一文を、もう一度思い出しておきたい。着物をかぶるかわりに、晴れていても傘を差す。そして泣くお年寄りは、今でもいる。

まだ完全には終わっていない。まだ、傘の下で誰かが泣いている。

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