焼かれるのはかなわん、熱いやんか
先に数字を置いておく。日本の火葬率は九九・九パーセントを超えている。厚生労働省の衛生行政報告例をたどると、二〇二一年度に行われた火葬は百五十一万二千五百十一件。同じ年、土葬は四百六十二件しかない。率に直せば九九・九七パーセントだ。世界を見渡しても、韓国が八九・六五、イギリスが七八・四六、イタリアに至っては三三・二二という水準で、日本の突出ぶりは異常と言っていい。火葬大国、というより火葬一択国家である。
だから多くの人は、日本の土葬はとっくに絶滅したと思っている。ところがそうじゃない。ほんの数年前まで、村ぐるみで遺体を土に埋めていた場所が確かにあった。しかもそれは山奥の孤島でも辺境でもなく、近鉄奈良駅からバスで一時間ほど東へ行った、茶畑のきれいな山あいだ。
二〇一七年の秋、京都府南山城村の高尾という地区で、九十歳を越えた男性が亡くなった。本人の遺言に従って、遺体は焼かれなかった。棺は縦長の直方体で、故人は膝を折り、あぐらをかいた姿勢で中に納められている。座棺という。昼ごろに一番鉦が鳴り、村人が喪家に集まる。二番鉦で導師の勤行が始まる。三番鉦がカンカンカンと鳴り響いたら、それが出棺の合図だ。棺の前後に葬列が組まれ、行列は埋葬地へ向かって歩き出した。
ルポライターの高橋繁行が三十年かけて聞き書きを続け、二〇二一年に『土葬の村』としてまとめた記録の、まさに冒頭にあたる場面である。この本の帯には「現存する最後といっていい土葬の村の記録」と刷ってある。誇張ではないと思う。同じ著者が二〇一九年冬に再訪したとき、土葬はいくつかの村から忽然と消えていた。千年続いたものが、十数年で蒸発したのだ。
なぜ土葬を続けるのか、と五十代の村人が尋ねられて答えた言葉が、たまらなくいい。「焼かれるのはかなわん。熱いやんか」。おどけた口調のあとに、こう続く。「死んだら故郷の土に還りたい。それだけや」。
遺族の最初の仕事は、故人の膝を折っておくこと
土葬の村で人が死ぬと、まず隣組の組頭が陣頭指揮を執る。葬儀社は出てこない。段取りを組むのも、道具を作るのも、穴を掘るのも、全部が村人の手だ。
そして遺族に真っ先に言い渡される仕事がある。故人の膝を折っておくこと。これを聞いた瞬間、背中が少し冷たくなる人は多いんじゃないか。死後硬直が始まってしまうと、もう座棺には入らないからだ。だから体がまだやわらかいうちに、膝を胸のほうへ抱えさせておく。愛する人の膝を、間に合ううちに折る。これが遺族の最初の務めだった。
座棺というのは、要するに桶である。棺桶という言葉自体が、桶型の棺に由来している。鎌倉時代以降、円筒を立てたような桶型が主流になり、江戸時代の庶民の棺はだいたいこれだった。竹の箍で締めた粗末なものは早桶と呼ばれた。死んでから急いで作るから早桶なんだよな。生前に用意するものじゃない、という感覚が日本にはあった。中国では逆に、親のために立派な棺を早く作るのが親孝行だったというから、この差は面白い。
座棺が選ばれた理由はきわめて実利的だ。土葬では墓穴を掘らなければならない。座らせて納めれば、穴は一回り小さくて済む。重機なんてない時代、掘る土の量が減るというのは死活問題である。共同墓地の面積を節約できるという利点もあった。逆に火葬が主流になると、火の回りがよく、炉の開口部も小さくできる寝棺のほうが有利になる。棺の形は思想じゃなくて、その土地の土と炉が決めていた。
納棺の前には湯灌がある。南山城村では、寝室から納戸に移した遺体のまわりに屏風を立てまわし、その内側で近親の女性数名がひそかに行った。地方によっては、あぐらをかかせた遺体を直径八十センチほどの専用の木の盥に入れて洗った。滋賀の余呉湖のあたりにその盥が残っていたという。長浜市の伊吹山のふもとでは、盥に十文字に縄をかけ、その上に故人を座らせて洗った。伊吹山の修験道の影響だと言われている。血のつながりの濃い男性数名で行う土地もあったから、湯灌は必ずしも女の仕事ではない。
湯灌にはもうひとつ、身も蓋もない実用的な意味があった。温めると死後硬直の進行が緩む。つまり、棺に入れやすくなる。清めであり、同時に作業でもあった。
そして剃髪。南山城村で最後の導師を務めた住職によれば、昔は湯灌の前に死者の髪を全部剃って丸坊主にした。寺の僧が行い、それによって故人が死後に出家したことになる。落語の「三年目」は、この習俗を知らないと落ちがわからない。死ぬ間際に幽霊になって会いに来ると約束した妻が、三年経ってようやく現れる。湯灌のときに丸坊主にされたので、髪が伸びるまで出るに出られなかった、という噺だ。笑い話の底に、剃刀の冷たさが沈んでいる。
六尺と呼ばれた男たちが、朝から二メートルの穴を掘る
葬式の日、朝いちばんに動くのは穴掘り役だ。南山城村では三人から四人が持ち回りで選ばれ、二メートルほどの深さの穴を掘る。掘り終わったら、葬列が到着するのをそこで待つ。
この役目には全国にいろんな呼び名がある。茨城では陸尺、六尺、六道。栃木の湯津上のあたりでは、棺を担ぐ者を陸尺、墓穴を掘る者を床立てと呼び分けていた。埼玉のある村の記録では「葬式の立役者、つまり一番重要視される役は穴掘り」とまで書かれている。葬式の行事はすべて穴掘りの意見を聞いて進める。予定の時刻に間に合うかどうか、絶えず穴掘りの仕事の都合に伺いを立てる、と。
六尺という呼称の由来は、およそ一・八メートル、つまり六尺の深さまで掘ったからだと説明されることが多い。北海道の帯広で昭和十年代に青年団として穴掘りをやったという人の証言では、六尺から七尺くらい掘った、三尺も掘ると水が出てくるがそれをさらに掘り進めた、とある。三尺で水が湧く土地で、腰まで泥に浸かりながら人ひとり分の縦穴を掘る。想像するだけで腕が痛くなる。
この役は忌まれると同時に、異様に厚遇された。遺体と長時間関わるので穢れを多く被る、と考えられていたからだ。だから終わったあとは一番風呂に入れてもらい、酒でもてなされ、供養の膳では正座、つまり上座に座らせた。埼玉の記録には、作業中に焚火をしてやり、酒や菓子を運んでねぎらい、親戚や施主から寸志として金一封を贈るのが例だった、とある。豆腐を食わせる土地、告別式が始まると山盛りの飯を食わせる土地、いろいろだ。
そして基本的に男の仕事だった。理由として語られるのは、女が穢れを被ると子宝に恵まれなくなるから、という説明である。現代の目からすれば受け入れがたい理屈だが、そういう理屈で村の分担が回っていたのは事実として押さえておきたい。逆に言えば、その理屈があったからこそ、穴掘りは「損な役」ではなく「重い役」として遇された。忌避と敬意が同じコインの裏表になっている。ここが土葬という制度のいちばん人間くさいところだと思う。
栃木には「馬の口」というさらに奇妙な役もあった。人に見られないようにして葬列より先に墓地へ行き、墓穴のまわりを左回りに三度まわって帰ってくる。悪魔がいるかいないかを改めに行くのだという。さらしの袋に米を一升入れて持って行き、その米は持ち帰って三十五日の供養におはぎにする。仏様が三十五日目に剣の山を登るとき滑らないように、生前愛用していた草履の裏にべったり塗り付けた。誰が考えたんだ、この段取り。
一番鉦から野辺送りが始まる
さて、行列だ。ここが土葬の村のクライマックスにあたる。
野辺送りというのは、遺体を埋葬地まで葬列を組んで運ぶ儀式のことだ。野辺とは埋葬地のこと。昔は夜にやることが多かった土地も多い。奈良市の大保町では、先頭の者が大きな松明を持ち、紅蓮の炎から黒い煙を出しながら歩いた。昼間の葬式でも松明を焚くのは、火に魔除けの力があるとされたからだ。道を清める。煩悩を焼く。現世と来世の橋を架ける。理屈はいくつも語られるが、要するに、この行列の先頭には火がなければならなかった。
南山城村の葬列では、先頭を長老が歩く。悪霊を叩き出すために、カンカンカンと鐘を打ちながら墓地まで歩き続ける。この音がずっと鳴っている、というのが野辺送りの体感を決定づけていたはずだ。
続いて「四つモチ」の役。木の棒の前後に木箱を吊るし、その中に餅を二個ずつ、合わせて四つ入れて担ぐ。子どもが担うことが多かった。法界弁当とも呼ぶ。法界は仏法の及ぶ世界という意味で、要するに西方極楽浄土までの長旅で死者が食べる弁当である。
その後ろに、位牌を持った黒装束の喪主夫人。次いで「亡者の膳」を運ぶ役が続く。これは死者の枕元に置いてあった枕膳で、当座の昼弁当にあたる。長旅用の餅と、当座の昼飯が別々に用意されている。この細かさ。
そして引導を渡す導師。そのすぐ後ろを、二人に担がれた座棺が進む。ここでひとつ、聞くたびに胸のあたりが妙にざわつく作法がある。棺の中の死者の向きは、進行方向とは逆に向けてある。自分の家が見えるように、である。家から遠ざかっていく道の途中、死者だけが家のほうを向いて運ばれていく。
棺の上には天蓋がかざされる。天蓋を持つのは喪主で、死者と同じ白装束だ。理由は、死者になりすまして死の穢れを一身に引き受けるため。天蓋そのものにも、死者を天日から遮って穢れを日常から隠すという意味があった。葬列は神社の前を避けて通る。聖域に穢れを近づけないためだ。
行列のしんがりには四本幟。「諸行無常」「是生滅法」「生滅滅已」「寂滅為楽」と書いてある。涅槃経の句だ。無常だ、生じたものは滅する、生滅が滅し終わって、寂滅こそが楽である。この四つの句が風にはためきながら山道を進んでいく。
地域によって隊列はかなり違う。一般的には、松明か高灯籠を持った者が先頭に立ち、次に籠持ちが続く。籠の中には小銭や紅白の紙吹雪が入っていて、通り道に撒きながら歩く。撒くことで魂を鎮め、穢れを祓い、地域に災いが起きないようにする。その後ろに旗、紙で作った蓮華花、枕飯や水桶や香炉を持つ膳持ち、大勢の僧、導師、位牌持ち、天蓋持ち、棺、近親の女性、一般参列者と続いた。紙華、飯、水、香炉、位牌、天蓋の六つを持つ者は葬列六役と呼ばれ、これに先頭の松明を加えて七役と呼ぶ土地もある。栃木の記録には十三仏の掛軸、生花、手燭、金剛杖、洒水、霊膳、縁の綱、墓標といった役がずらりと並んでいて、血縁の濃い順に棺に近い位置を割り当てられていた。役付けは帳場の者が読み上げる。誰がどこを歩くかで、その家における自分の位置が村中に開示されるわけだ。
出棺のときにも作法が積み重なる。棺は玄関を通さず縁側から下ろす。門前で死者が使っていた茶碗を叩き割る。藁を一束燃やす。竹をコの字に組んだ仮門をくぐらせ、通ったあとで門は燃やしてしまう。棺を左に三回まわす。全部、死者が帰り道を見つけられないようにするための呪だ。方向感覚を狂わせる。出口を消す。愛した人に対して、村ぐるみで道を隠す。この矛盾こそが弔いだったんだと思う。
音と匂いのことも書いておきたい。鐘が鳴り続け、鉦が鳴り、鳴り物として太鼓が墓に着くまで打ち鳴らされる土地もあった。松明からは黒い煙と樹脂の匂いが立つ。線香。土。掘り返したばかりの穴からは、湿った鉄のような、粘土のような匂いが上がってくる。山道の傾斜で棺が少し傾く。担ぎ手の草鞋が土を噛む。そういう情報の全部が、参列した人間の体に刻まれた。
「前」と書かれた紙を、西へ回す
墓地に着く。ここからの十数分が、土葬という葬法のいちばん濃い部分だ。
墓地の入口で、座棺は蓮華台と呼ばれる石の棺台の上に置かれる。奥のほうに、朝から掘られた穴が口を開けている。棺台の周囲を時計回りに三周してから台に据える土地もあった。
導師が穴の前に立つ。手には神前で使う幣のような、四本の白い紙の花。四花という。死花とも書く。釈迦が入滅したとき、沙羅双樹の花までが悲しんで枯れたという故事に由来する。導師はこれを手で回し、墓穴の東西南北の四方へ投げ、経を唱える。地神から墓地を借りる、あるいは買い取るという意味で、地取りの作法とも呼ばれた。土地の神に断りを入れてから、人ひとり分の土を借りる。
座棺の正面には「前」と書いた紙が貼ってある。導師の合図で、墓掘り役の村人がその「前」が西を向くように棺の向きを変える。あぐらをかいた死者が、西方極楽浄土を拝む姿勢になるように。そして棺は、二メートルの穴へ沈んでいく。
縄を握った手に体重がかかる。深い穴の底で棺の底板が土に当たる、どすん、という鈍い音。そこから土がかけられる。最初のひと鍬は施主が入れる土地が多い。福井の美浜のあたりでは、施主が少し土を入れることをメイドマイ、ウメドベエと呼んだ。その先は手伝いの者が埋めていく。乾いた土が桶の蓋に当たる音は、最初はばらばらと軽く、量が増えるにつれてどさどさと重くなり、最後は土が土に落ちる音に変わる。この音の変化を聞いたことのある世代が、いま八十代より上に集中している。
埋め終わったら土を踏みしめ、土饅頭の形に盛る。墓標を立てる。奈良の一部では、そのまわりを「四十九院」という四十九本の塔婆の井垣で囲った。獣の侵入を阻み、同時に死霊を封じ込める意味を持つとされ、古代のもがりの葬に由来するとも言われる。
そのうえに石を置く。ここが重要だ。石を置く理由は、しばしば「死者が出てこないように」と語られるが、それだけではない。もっと直接的な理由がある。獣だ。かつての日本には狼がいたし、野犬も猿もカラスもいた。土の下の匂いを嗅ぎ当てて掘り返す動物から、遺体を守らなければならない。だから人力で固めた土の上に、獣が動かせない大きさの石を乗せた。墓穴のまわりに竹や枝を立てまわす「犬よけ」の風習も各地にある。群馬の嬬恋村の田代地区では、埋めた上に丸石を山と積み上げ、その上にガンブタを置き、四方に縄を張った。理由は「墓をあばく山犬をよけるため」だとはっきり記録されている。
福井の美浜町宮代では、埋め終わると三個の自然石を置いた。平らな石には団子を供え、周囲に幡や竹を挿す。これをオドシと言った。魔除けの鎌を吊るす人もいたという。石の下には土、土の下には桶、桶の中には膝を抱えた人。この層構造が、日本の墓の原型である。
空の柄杓で、空の盥に水を注ぐ
埋葬が終われば、帰り道だ。ところが帰り道にも作法がある。というより、帰り道の作法こそがいちばん奇妙で、いちばん怖い。
南山城村には、野帰りの作法というものが残っていた。墓から戻ってきた喪主夫人が、玄関前で、空の柄杓で空の盥に水を注ぐ真似をする。手順はこうだ。喪主夫人が家に近づくと、家で待ち構えていた別の近親女性が台所へ走り、柄杓で水瓶の水を汲む真似をする。空の柄杓を持って玄関に走り出て、喪主夫人に渡す。受け取った喪主夫人は、その空の柄杓で目の前の盥に水を入れる動作をする。これを三回繰り返して、ようやく家の中へ入る。
水は一滴も動いていない。それなのに、三回、水を注ぐ。『南山城村史』はこれを「家の内から外へ死霊を送り出そうとする霊送りの儀礼ではないか」と記している。誰もいない相手と、水のない水で交わす無言劇。土葬の作法の中で、私はこれがいちばん怖い。
似た趣旨の作法は各地にある。埋葬地から帰るときは後ろを振り返ってはいけない。家に入る前に必ず塩で手を清める。塩や味噌を口にする土地もある。兵庫県宍粟郡の村では、野帰りした遺族が玄関の盆に置かれた生米と塩から米を掴み、少しずつ噛みながら家に入った。報告した民俗学者は、死者に引っ張られようとしているのを生米の力で断絶させようとしたのだ、と結論している。
そのあと、村人は喪家の風呂に入り、膳につく。穴掘り役が上座だ。この膳は「斎」と呼ばれ、弔い独特の非日常な心の高ぶりを消すために「シモ消し」という名の酒が振る舞われた。名前がいいよな。高ぶった気持ちを下げるための酒。土葬という一日は、こうしてようやく閉じる。
明治六年、政府は本気で火葬を禁止した
ここで制度の話に移る。日本の火葬率が世界最高になった道筋は、一直線じゃない。むしろ一度、盛大に逆走している。
明治六年、西暦一八七三年の七月十八日。太政官布告第二百五十三号によって、火葬が全面的に禁止された。理由は衛生でも土地でもなく、思想である。明治新政府の神道国教化政策、その中核にいた平田国学の流れをくむ神祇官僚たちが、幕藩体制下で国教的な扱いを受けてきた仏教を圧迫するために、仏教の葬法である火葬を問題視した。廃仏毀釈と同じ流れだ。当時の議論を記した文書には、遺体の火葬は仏教の教えに出たもので、野蛮な風習を残し、惨たらしいことこの上ない、といった趣旨の言葉が並んでいる。
きっかけ自体は小さかった。東京の市街地にあった火葬場の煤煙と臭気が近隣に害を与える、だから移転させよう、という程度の話である。それが火葬そのものを禁止すべきだという主張に膨れ上がり、本当に布告になってしまった。事前に土葬用墓地の用地が足りるかどうかも一応調べ、枯渇の恐れは低いという結論が出ていた。
結果はご想像のとおりだ。都市部で墓地がすぐに足りなくなった。埋葬を断る墓地が現れ、葬儀費用が高騰した。東京府では朱引内の従来の墓地への埋葬を禁じ、九か所の墓地を定めて整備したが、追いつかない。そして明治八年、一八七五年五月二十三日、太政官布告第八十九号によって火葬禁止令は解除される。布告から廃止まで六百七十四日。二年ももたなかった。
面白いのは、禁止を「差し支えない」と回答していた東京府自身が、解除の伺いを出していることだ。無理な政策だったと役所の側が認めたわけである。解除の際の太政官の指令には、葬儀のようなものは人民の情を強いて抑制すべきものではない、という趣旨の言葉がある。廃仏の理念より、現実の土のほうが強かった。
その後、火葬は宗教論争の場から離れ、煙の害の抑制と伝染病予防の文脈で語られるようになる。明治十年にコレラが流行すると、内務省は虎列刺病予防法心得を定め、伝染病死者の火葬が命じられるようになった。地方の土葬地帯にも火葬場が設けられていく。思想で禁じられ、病で推進された。日本の火葬はそういう来歴を持っている。
三十一パーセントから九九・九パーセントまで、百年の坂
数字を並べてみる。ここは押さえておく価値がある。
内務省が明治十九年から公表している統計のうち、埋葬に関するデータは大正二年、一九一三年から載っている。その一九一三年の火葬率が三十一パーセント。一九一五年で三十六・二パーセント。大正十四年、一九二五年でも四十三・二パーセントだから、この頃はまだ土葬が多数派である。
火葬が土葬を初めて上回るのは昭和九年、一九三四年で五十二パーセント。一九四二年で五十七パーセント。戦後の一九五〇年でも五十四パーセントにとどまる。つまり終戦から数年経っても、日本人の半分近くは土に埋められていた。
ここから先が速い。一九六〇年に六十三・一パーセント、一九六五年に七十一・八パーセント、一九七〇年に七十九・二パーセント、一九七五年に八十六・五パーセント、一九八〇年に九十一・一パーセント、一九八五年に九十四・五パーセント、一九九〇年に九十七・一パーセント、一九九五年に九十八・三パーセント、二〇〇〇年に九十九・一パーセント。二〇一〇年で九十九・九パーセント、二〇一五年には統計上ほぼ百パーセントの九十九・九九パーセントに達した。九割を超えたのが一九七九年以降というのが、たぶん多くの人の感覚とずれている。昭和五十年代というのは、そんなに昔じゃない。
地域差もすさまじかった。一九一三年の府県別火葬率を見ると、富山県や石川県が九十七パーセントを上回ってほぼ百パーセントに近いのに対し、宮崎県、鹿児島県、沖縄県は一パーセントを下回る。同じ国の中で、片方は全員焼き、片方はほぼ全員埋めていた。一九六五年の時点でも富山県の百パーセントから山梨県の二十二・〇パーセントまで開きがあり、一九八七年の調査でも茨城県、山梨県、長野県、滋賀県、高知県は七十パーセント台にとどまっていた。
こうして見ると、土葬の村が奈良盆地東側の山あいに残ったのは、奇跡というより地理だ。火葬場が近くになかった。山があった。先祖の墓と仏壇を守る後継者が、都市に出ずに近場にいた。条件が重なったから、千年の作法が二〇一〇年代まで生き延びた。
法律は土葬を禁じていない、という地味に重要な話
ここは誤解が多いところだから丁寧に書く。日本の法律は土葬を禁止していない。
根拠は墓地、埋葬等に関する法律、通称は墓埋法、昭和二十三年法律第四十八号だ。第二条は「この法律で埋葬とは、死体を土中に葬ることをいう」と定義している。つまり法律用語としての「埋葬」は土葬のことを指す。火葬は「死体を葬るために、これを焼くこと」と別に定義されている。そして第四条は「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない」。禁じているのは墓地以外での埋葬であって、埋葬そのものではない。
第三条は死亡または死産後二十四時間を経過した後でなければ埋葬も火葬も行えないと定め、第五条は市町村長の許可を要求している。第八条に基づいて交付されるのが埋葬許可証だ。墓地や火葬場の経営には第十条により都道府県知事の許可がいる。第十九条では、公衆衛生その他公共の福祉の見地から必要があるとき、知事が使用の制限や禁止を命じられるとしている。
では、なぜ日本で土葬がほぼ不可能なのか。答えは二段構えだ。ひとつは自治体の条例。東京二十三区をはじめ都市部の多くは条例で土葬を禁じている。全日本墓園協会が関東の各市の条例を調べた報告を見ると、浦安市、山武市、市川市、成田市、柏市などでは、墓地の経営者はその墓地に埋葬をさせてはならないという規定を置いている。墓埋法の定義に照らせば、これは土葬の禁止そのものだ。もうひとつは墓地管理者の判断。埼玉県本庄市が公開している問答形式の説明は、この点をはっきり書いている。土葬は墓埋法で禁止しておらず、墓地の管理者が受け入れを判断し、認めることで可能である、と。市町村がやるのは死亡届の受理と埋火葬許可証の交付までで、土葬にするかどうかは墓地側の裁量だ、と。
つまり土葬は、違法ではないが、事実上ほぼ受け入れ先がない。二〇二五年にはファクトチェック機関が「日本で土葬すると死体遺棄で法律違反」という拡散情報を不正確と判定している。当然ながら、自分の家の庭に埋めれば第四条違反であり、そちらは犯罪になる。合法か違法かではなく、どこでなら受け入れてもらえるか、という問題なのだ。
埋める墓と、拝む墓が別々にあった
土葬とセットで理解しておきたいのが両墓制である。ひとりの死者に対して墓をふたつ作る。遺体を埋める場所を埋め墓、石塔を建てて拝む場所を詣り墓という。呼び名は土地によってさまざまで、イケバカ、ステバカ、サンマイ、ラントウバなどと呼ばれた。近畿地方を中心に分布し、関東にも点在する。柳田国男はこれを葬地と祭地という言い方で捉え、両墓制という語自体は柳田のもとで山村調査にあたった大間知篤三が使い始めたとされる。
埋め墓は人里離れた山林や海岸に置かれることが多い。墓標を立てないところ、自然石を置くところ、木の角柱を立てるところ、卒塔婆だけのところ、いろいろある。集落の共同墓地であることが多く、家ごとの区画が決まっていない土地では、空いた場所を掘る。掘っていると前の誰かの骨が出てくる。掘る側も遺族もあまり気にしなかった、と福井の記録にはある。出てきた骨は棺と一緒にまた埋めた。
詣り墓のほうは集落の近く、寺の境内などに置かれ、石塔が緊密に並ぶ。遺骨も遺体もない。三十三回忌や五十回忌の節目に、サンマイの土を少しだけ運んで魂を移す、という土地もあった。
なぜ分けたのか。ここは考察の分かれ目で、いまも決着していない。柳田は、埋め墓では個人の埋葬位置が曖昧だったりわからなかったりする例を挙げ、死穢と魂の問題から埋め墓は墓と認識されておらず、詣り墓こそが本来の墓だと考えた。大間知は、死穢を畏れる古い習慣がまずあり、そこへ死者供養のための石塔文化が受容されて両墓制が生まれた、と見た。関西学院大学の島村恭則は、埋葬地には死のケガレやそれが凝固した凶癘魂があって怖いから行かないのだ、と説明している。
一方で、近年やや優勢になっているのはもっと世俗的な説明だ。室町後期から江戸中期にかけて、供養のために石塔を建てる風習が庶民に広がった。ところが村の共同墓地に各家が石塔を建て始めると、土地を占有されて次の埋葬ができなくなる。だから埋める場所と祀る場所を分けたのではないか、というものである。穢れという心性の話と、土地利用という実務の話。どちらか一方ではなく、両方が同時に働いたと考えるのがいちばん収まりがいいと思う。
両墓制は土葬を前提とした制度なので、火葬が普及すると役割を終える。大阪府阪南市では昭和三十五年、一九六〇年に火葬場ができてから、火葬して墓石を建ててそこに参るという形が定着したという。福井県美浜町では昭和四十年、一九六五年あたりまで両墓制が続いた。そして美浜町宮代の埋め墓は、高速道路の建設用地になって消えた。土葬の記憶は、道路の下に眠っている。
四十九日に、墓をあばく村があった
土葬の風習の中でも、聞いて絶句するのがお棺割りである。三重県の島ヶ原にあった。
葬式から四十九日後、埋葬した棺桶を掘り返して割り、故人の顔を拝み、また埋め戻す。文字にすると数行だが、実際にやっていた老住職の証言を読むと足がすくむ。
四十九日法要の朝、親族はめいめい鍬を持って墓に集まり、埋めた土を掘り返していく。掘り進むうちに、目当ての棺よりも前に埋葬された人の白骨が二体、三体と出てくる。頭蓋骨はそっと取り出し、地面に並べ置く。さらに掘って二メートルほど下がると、白い棺が姿を現す。棺は納棺のあとに蓋を釘打ちしてあるから、当然開かない。そこで親族が鉈で蓋を叩き割る。カンカンカン、という乾いた音。住職の耳に今も残っている、という。蓋が割れると、まだ完全に白骨化していない顔が覗く。髭や髪が伸びていることもある。
顔を拝んだら、棺の中に土を入れ始める。棺の内側の隙間が完全に土で埋まると、今度は穴全体に土を入れ、地上まで埋まったら土を踏みしめる。よけてあった石塔を、その上に戻す。掘り出した白骨は粗末に扱えない。「これはばあさんや」と頭をなでながら、丁重に横に並べ置いて手を合わせた。
なぜこんなことをしたのか。理由がまた身も蓋もない。島ヶ原、とくに寺のある地域は土質がやわらかい。埋葬後に石塔を建てても、数年もすると目に見えて墓が傾く。埋めた棺が朽ち、中の遺体も朽ち、棺の中の空洞が押し潰されて、地面がへこむからだ。四十九日に墓をあばくのは、そうなる前に空洞を土で埋めてしまうためだった。島ヶ原は土地が狭く両墓制ではなかったので、埋葬地の陥没は先祖代々の石塔の倒壊に直結する重大な問題だった。
つまりお棺割りは、怪奇趣味でも猟奇でもなく、地盤沈下対策の土木工事である。だが同時に、遺族はそこで故人の顔をもう一度見ることになる。四十九日という、仏教が死者の行き先が決まるとする節目に、実際の顔を見る。土木と信仰が完全に一体化した儀礼だ。
そして興味深いことに、島ヶ原から土葬が消えたのは昭和五十年代半ば。土葬の村が集中するエリアにありながら、比較的早く消えた。この作法の凄絶さゆえだろう、と高橋は書いている。作法が重すぎると、制度は先に折れる。
骨を洗う島の作法は、まったく別の理屈で動いていた
同じ「掘り返す」でも、南西諸島のそれは意味が違う。洗骨である。
沖縄では風葬、奄美では土葬したあと、数年後に日を選んで骨を取り出し、洗って再び墓に納める。死の直後の葬儀が一次葬、時間を置いて遺骨に処置を施すのが二次葬。これを複葬という。洗骨はマタダビ、チュラクスンとも呼ばれた。前者は二度目の葬式、後者は美しくするという意味だ。
作法は細かい。旧暦の七夕にあてることが多く、この日なら墓を開けても障りがないとされた。墓前に天幕や傘で日陰を作り、直射日光が骨に当たらないよう気を配る。血縁の濃い者から順に箸で骨を拾い、水や酒で洗う。多くの土地で女性の仕事だった。まず頭蓋骨を洗って白紙で覆い、白布で包んで近縁者が胸に抱く。他の骨を洗い終わるまでそうして待つ。厨子甕には手足の骨から入れ、最後に頭蓋骨を乗せる。夫婦なら、このとき同じ甕に合葬される。
骨を取り出したとき完全に骨化していれば「上等」で、死者が思い残すことなくあの世へ行った証拠とされた。骨化が不十分なら「よくない」、この世に思い残しがある、と言われた。骨の状態が、死者の心の状態として読まれていたわけだ。
洗骨は「死霊を浄化して祖霊化するための儀礼」と位置づけられている。怖いから掘るのではない。祖先にするために掘る。ここが本土の両墓制と決定的に違うところだ。
一方で、洗骨は行政に規制され続けた歴史も持つ。明治三十七年、一九〇四年四月二十一日の県令達「墓地及埋葬取締規則施行細則」では、洗骨する際に警察署や駐在所への届出を義務づけ、四月から十月までの期間は禁止と定めている。暑い時期に遺体を扱うのを避けるためだ。昭和九年頃の新聞にも「初夏から秋にかけて洗骨は法度です」という記事がある。ただし取り締まりは徹底されず、明治三十六年の統計では処罰を受けたのは八名だけ。見せしめ的な運用だったらしい。
戦後、洗骨を担う女性の負担が大きすぎるという理由で、女性団体から批判が起きた。大宜味村喜如嘉では、終戦直後にマラリアが流行して死者が急増し、一次葬から二次葬までの期間が一年程度しか取れず、骨と肉の分離が不十分な遺体を洗わざるを得ない状況が生まれた。「嫌な思い」「気持ち悪い」という声が強まり、火葬場設置運動が始まる。ところが今度は「焼かれるのが怖い」「獣を焼くようだ」という反対が起きて難航した。一九五一年十二月にようやく火葬場が設置される。焼くのが怖いのか、洗うのが辛いのか。どちらを選んでも人間は苦しい。
語り継がれた話、その一。猫が跨ぐと死人が立つ
さて、怪談の時間だ。土葬とセットで語られてきた話には、こわいだけでなく、なぜそれが語られたのかを考えると背筋が伸びるものが多い。
山梨県大月市七保町の民俗調査に、こういう記述がある。通夜のことをヨトミという。この時、猫が死人を跨ぐとよくないといって、死体のそばに鎌などの刃物を置く。甲府市中道町の右左口では、死者の上にマモノヨケあるいはネコヨケと呼ぶ刃物を乗せ、六枚屏風で死者を囲った。猫は魔性のもので、猫が死体を跨ぐと死体が狂ったり起き上がったりするから、それを防ぐためだという。秋田県上小阿仁村でも、死体のそばに刃のあるものを置く。雷が鳴って死体がさらわれたり、猫の魂が入って死体が起き上がったりするのを防ぐ魔除けだ、と。
この猫が化けたものが火車である。宮崎県では、通夜のあいだ誰かが四六時中遺体に付き添った。見張りを立てていないと火車が来て遺骸を盗んでいくからだ。通夜のあいだ猫は籠に閉じ込めて室内に入れない。大分県三重町では、猫が死体の上を跳び越すと死人が起き上がる、カシャが出るのだ、と語られた。愛媛県八幡浜市では棺の上に剃刀を置くと火車に奪われないという。宮崎県の旧西郷村では、出棺の前に「火車には食わせん」と二回唱えた。山梨県の旧上九一色村のあたりでは、火車が住むといわれる寺の付近で葬式を二回に分け、最初の葬式では棺桶に石を詰めておいて、火車を騙したという。
死体が起き上がる。この恐怖には根拠がある。土葬の時代、遺体は焼かれず、そのままの形で家にあり、そのままの形で土の下にあった。腐敗の過程で体は膨れ、体液が動き、四肢の位置が微妙に変わる。ガスで腹が張れば、布団の下の形が変わる。それを見た人間が「動いた」と思うのは、むしろ自然な反応だ。刃物を置くという行為は、その恐怖を「魔」という名前のついた外部のせいにして、対処可能なものに変換する装置だった。名前がついていない恐怖より、猫のせいだと決まっている恐怖のほうが、まだ夜を越せる。
語り継がれた話、その二。棺の中から声がした
香川県の旧琴南町美合、いまのまんのう町で採られた聞き書きに、こんな話がある。
ある家に死人が出た。棺桶に入れて役場まで行くと、棺の中から声がした。死人が生き返ったのである。本人が言うには、どこか遠いところを先へ歩いて行っていたら、後ろから名前を呼ばれたので戻って来たのだという。しかしその人は、その十日ほどあとに再び息を引き取った。
淡々とした話だが、震えがくる。役場まで行く、というのは埋火葬の許可を取りに行く道中ということだ。制度の手続きと、生死の境界が、道の上でぶつかっている。
似た話は全国にある。島根県隠岐の調査には、女の人が産死したときは屋根に穴をあけて細引を垂らし、産婦の髪に結んで別の端を口に当てて屋根の上から呼べば蘇生する、という俗信が記録されている。呼べば戻る、という感覚が広く共有されていた。
ここで押さえておきたいのは、これが単なる迷信ではなかったということだ。死亡の確認手段が乏しかった時代、生きたまま埋葬される恐怖は世界共通だった。十九世紀のヨーロッパではタフォフォビア、生き埋め恐怖症という言葉が生まれ、棺から地上へ管や鐘を伸ばす「安全な棺」が次々に設計された。一八二〇年代のドイツには、まだ誰も入っていない墓の上に組み立てる携帯式の装置まであった。合図の鐘と覗き窓がついていて、墓番が交替で腐敗の兆候が出ていないかを見て回る。腐敗が始まっていれば床板が開いて遺体が墓に落ち、箱は別の場所で再利用される。一八九六年にはロンドンで、早すぎる埋葬を防ぐための協会まで設立された。
そして誰ひとり、安全な棺によって助かった記録はない。恐怖のほうが、事実よりずっと大きかったのだ。
日本の場合、土葬は死後二十四時間を経過してからと法律で定められた。この二十四時間という条文自体が、かつての恐怖の化石みたいなものだと私は思っている。
語り継がれた話、その三。向きが変わっていた
土葬の村をめぐる話でいちばん有名なのは、掘り返したら向きが変わっていた、という類のものだ。
きちんと西を向けて埋めたはずの座棺が、数年後に改葬のために掘り出してみると、正面が別の方角を向いている。あるいは、あぐらの姿勢が崩れて片側に傾いている。髪や髭が伸びている。爪が伸びている。だから死者はまだ動いていた、あの人は成仏していない――そんな語り口で伝えられてきた。
ここには全部、説明がつく。まず座棺は土圧を受ける。二メートルの土が上に載れば、木の桶は数年で歪み、朽ち、片側から潰れる。潰れれば中身も傾く。土質が柔らかい土地なら、地下水の流れで棺がわずかに動くことすらある。島ヶ原でお棺割りをしていた理由がまさにそれで、棺の空洞が押し潰されて墓地がへこむ、という現象は村人にとって既知の常識だった。
髪や髭が伸びるのも、実際には伸びていない。死後、皮膚が乾いて収縮するため、毛が地上に出ている長さが相対的に増える。だから「伸びた」ように見える。民俗学者のパウル・バーバーは、ヨーロッパの吸血鬼伝承を検証して、掘り返された遺体の位置が変わっていたという証言の多くは腐敗過程の正常な変化の誤認であり、早すぎた埋葬の統計は過大に見積もられてきた、と論じている。
じゃあ怖くないのかというと、話は逆だ。私はこの説明を知ってから、むしろ怖くなった。だって、動いていたのは事実なんだから。腐敗も、収縮も、土圧も、全部が現実に起きている物理現象で、それが人ひとりぶんの体の上で、何年もかけて進行していた。誰も見ていない土の下で。霊が動かしたのではない。時間が動かしたのだ。土葬というのは、時間が体に何をするかを、遺族が数年後に自分の目で確かめる制度なんだよな。火葬はその工程を一時間に圧縮して、すべてを白い骨に変えてしまう。どっちが怖いか、私はもう決められない。
野焼きの匂いを覚えている人が、まだ生きている
もうひとつ、体験談を紹介したい。土葬ではなく野焼き火葬の記憶だ。
医学者の仲野徹が『土葬の村』の書評で書いている。小学校一年生のとき、母方の祖母が亡くなった。墓地に屋根だけの小屋があって、そこでの野焼きだった。棺桶にみんなで藁で火をつけ、そのあと祖父の家に戻った。風向きが悪かったのだろう、何百メートルか離れた小屋から、家へ強烈な臭いが漂ってきた。髪の毛や爪を焼いたときの臭いを何千倍、いや何万倍にもしたような感じだった。祖父、つまり亡くなった祖母の夫が、濡れタオルを覆面のようにして「くそうてたまらん」と文句を言っていた。幼心に「おじいちゃん、さすがにそれはあかんのとちゃうの、うちの人を焼いてるのに」と思ったのをよく覚えている――と。
場所は大阪の河内地区。うんと田舎ではない。昭和三十年代の最後には、まだそんな風景があった。
この証言のすごいところは、悲しみと臭さが同居していることだと思う。弔いを美化しない。祖父は妻を焼く煙に文句を言い、孫はそれを不謹慎だと思う。その全部が家族の記憶になる。葬儀会館の空調の効いたホールでは、こういう記憶は絶対に生まれない。
奈良市田原地区の老住職の言葉が、ここに重なる。二十歳で結婚し、七十年間も田んぼや畑を耕してきたおばあさんを、葬儀会館で急いで送るのはどうしてもなじめない。長い間村で生きてきた人を一瞬で送るのは、私にはなじめません。「みんなで無駄をいっぱいして故人を送ることが供養になるのです」。
無駄をいっぱいする。これが土葬の本質を突いた表現だと思う。手作りの葬具、四つの餅、空の柄杓、三度まわる棺。効率だけで測れば全部が無駄だ。その無駄の総量が、そのまま故人への手間になっていた。
ネットは土葬をどう受け取ったか
二〇二一年二月に『土葬の村』が出たあと、書評やレビューには独特の温度が並んだ。「世紀の奇書」という見出しがつき、「読みながら何度もヒッと声が出てしまいました」という感想が書かれ、「結構衝撃の内容が多くて」と続く。怖い、でも読みたい、という感情の混ざり方が、そのまま数字になったような反応だった。
同時に、冷静な批判もあった。ある書評子は、著者が民俗学者ではなくルポライターであるため習俗の「分析」がほとんどなく、解釈は読者に委ねられている、と指摘している。もう少し突っ込んだ解説がほしかった、という感想は複数見かける。これは正当な指摘だと思う。あの本の価値は分析ではなく採集にある。消えかけの現物を掬い上げたことに尽きる。
ネット上の議論で繰り返し出てくる論点も整理しておく。ひとつめは「両墓制は穢れ思想の産物か、土地利用の産物か」。これは前に書いたとおり、心性説と実務説が並立していて、近年は石塔の占有を防ぐためという実務説が優勢だ。ただし実務説だけでは、埋め墓には参らないという行動の説明がつかない。両方いる。
ふたつめは「土葬は不衛生か」。これは感覚と実証がずれている典型例で、この記事の後半で触れる。
みっつめが厄介で、「土葬は日本の伝統だから守るべき」対「土葬は日本の伝統じゃないから受け入れるな」という、真っ二つの言説が同じ土俵で戦っている。前者は土葬の村の記録を根拠に持ち出し、後者は火葬率九九・九パーセントを根拠に持ち出す。どちらも数字としては正しい。歴史のどの断面を切り取るかで、日本の「伝統」はいくらでも姿を変える。伝統という言葉を武器にする議論の弱さが、ここに集中して現れている。
僧侶でジャーナリストの鵜飼秀徳が九州のムスリム墓地について書いた記事には、「郷に入れば郷に従って火葬を受け入れるべきだ」「多くの日本人にとって土葬墓は忌み地であり、近隣の土地は瑕疵物件となる」といった反響が多く寄せられたという。その同じ記事で鵜飼は、福沢諭吉が明治三十四年に土葬されており、七十六年後の昭和五十二年に改葬のため掘り返したところ、地下四メートルで白骨化せず着物のまま原形をとどめていた話を紹介している。棺の中が冷たい伏流水で満たされ、屍蝋化していたのだという。東京都心の地下に、生身のまま眠っている人はいまも少なくない。忌み地という言葉を使うなら、東京はほとんど全部が忌み地になる。
土葬墓地をめぐって、いま各地で起きていること
現代の土葬の話をしないと、この記事は終われない。
大分県日出町。平成三十年、二〇一八年十二月、別府ムスリム協会が土葬墓地を開設したいと町に相談に来た。イスラム教では火葬が禁忌とされる。九州には土葬できる墓地がひとつもなかった。翌年三月に協議書が提出され、令和二年には近隣住民への説明会が計五回開かれた。しかし同年八月、高平区と目刈区が反対の陳情書を提出。十二月には町議会がその陳情を採択する。
その後、事態は一度好転する。令和三年十一月、高平区のほうから建設予定地を区内の町有地に変更してはどうかという提案があり、協会が同意した。令和五年五月、高平区と協会は協定を締結する。内容は、高平地区内で既存墓地を拡張せず新規墓地も設置しないこと、年に一度墓地の地下の水質検査を行い結果を区長と町に提出すること、埋葬した区画には二十年間次の遺体を埋葬しないこと、などだ。町有地約四千九百五十平方メートルに七十九区画を整備し、地下約二メートルに埋葬する計画だった。町は「条例の要件を満たせば許可せざるを得ない」という立場で手続きを進めた。
決着したかに見えた。ところが令和六年、二〇二四年八月二十五日の町長選で、計画に反対してきた元町議の安部徹也が、三選を目指した現職に約一・八倍の票差をつけて初当選する。安部は当選翌日、町有地の売却は許可しない考えを表明。九月五日の就任時にも「反対の姿勢を貫く」と述べた。町は同年十月十七日、協会に売却できない旨を説明した。町のサイトには「選挙の結果から、日出町には土葬墓地は必要ないという民意が示されたと考えています」と書かれている。四年以上かけて積み上げた合意が、選挙で消えた。
反対の理由の中心は水質だった。予定地から約五百五十メートルの位置に、隣接する杵築市山香町下切地区の水源がある。ただし町の説明資料は、キリスト教とイスラム教の土葬墓地全国十三か所に問い合わせたところ水質汚染の問題は発生していないこと、予定地に隣接する大分トラピスト修道院では三十年以上前から土葬が行われており毎年の水質検査で汚染が確認されていないことを明記している。安部町長は「水源への影響がないという科学的な証明がない」と述べた。悪魔の証明を要求する形になっているのが、この件のいちばん苦い部分だ。
似た構図は他にもある。茨城県桜川市では、市の条例が当時は住民説明会の開催を義務づけておらず、協力する仏教寺院が市と直接交渉して二〇二三年九月に墓地造成の許可を得た。しかし計画を知った住民から反対が起こり、二〇二四年三月に事業者側が許可の取り下げを願い出て撤回された。十年ほど前には栃木県足利市でも同様の計画が頓挫している。
一方で、静かに続いてきた場所もある。山梨県甲州市、旧塩山の曹洞宗寺院である文殊院の隣に、日本初とされるイスラーム霊園がある。最初の埋葬は一九六二年、昭和三十七年だ。当時の住職が、宗派を超えた交流の延長でこれを受け入れた。この地域では昭和五十年代半ば、一九八〇年代初頭までは四割ほどが土葬だったという記録があり、地域の人たちに土葬そのものへの抵抗感がなかった。日本ムスリム協会から埋葬の連絡が入ると、住職が檀家に「今度、ムスリムの埋葬があるそうです」と声をかけ、土葬経験者たちが手伝った。
現住職が語る両者の違いが面白い。日本の土葬もムスリムの土葬も大差ない。長さ約百九十センチ、幅約九十センチの棺に合わせて、縦二メートル、幅一メートル、深さ百三十から百五十センチほどの穴を掘る。日本の場合はそのまま棺を安置して土をかぶせる。ムスリムの土葬では、カファンという白い布に包まれた遺体を棺から出して直接地面に寝かせ、遺体に土がかからないように棺をひっくり返してかぶせ、その上に蓋を乗せて土を下ろす。イスラムの埋葬では遺体の正面に空間が必要とされるので、棺で隙間を作るわけだ。最後の審判の結果を伝える天使が来たとき、上半身を起こして声を聞くための空間だという。違うのは棺をひっくり返す作業だけ。手伝った檀家は「日本の土葬と親戚みたいだ」と言ったそうだ。
二〇二二年八月時点で、日本でイスラム教徒が埋葬できる霊園は十か所ほどとされる。北海道余市町、茨城県常総市と小美玉市、埼玉県本庄市、東京都府中市の多磨霊園、山梨県甲州市、静岡市の清水霊園、京都府南山城村、神戸市立外国人墓地、和歌山県橋本市。研究者の推計では日本のムスリム人口は二十万人を超える。単純に足し算すれば、足りるわけがない。
日本人向けの動きもある。二〇〇一年、市民グループの「土葬の会」が発足した。本部は山梨県南巨摩郡富士川町。会長の山野井英俊は、土葬ができないと思われてきたのは法律のせいではなく、霊園管理側が作った使用規則のせいだと指摘している。山梨県北杜市の風の丘霊園に土葬区画を確保し、実施例は十件ほど。南アルプス市の普済寺天空霊園にも区画を設けた。分譲価格は一メートル掛ける二メートルの個人区画の永代使用料が二十万円、二メートル四方の一般区画が三十万円。会員は全国に約六十名。山野井は「土葬に立ち会ってみると、死から目をそらさず死者を送る絶好の機会になります」と語っている。
なぜ土葬はこんなに怖いのか
ここまで書いてきて、自分でもはっきりしてきたことがある。土葬が怖い理由は、幽霊じゃない。
第一に、体が残る。火葬は一時間ほどですべてを骨に変え、白い破片として容器に収める。もはやそれは人の形をしていない。ところが土葬では、人の形をしたものが人の形のまま、地面のすぐ下にある。二メートル。ビル一階分もない。歩いている足の下に、膝を抱えた人がいる。この距離感が生理的にきつい。
第二に、時間が可視化される。四十九日に掘れば、髭が伸びたように見える顔がある。数年後に掘れば、傾いた棺と混じり合った骨がある。腐敗は止まらない。人が土に還るという言い回しは詩的だが、実際には非常に具体的な化学変化であり、その途中経過を見る機会が制度として組み込まれていた。人間は自分が物質であることを直視するのが苦手だ。土葬はそれを強制する。
第三に、手が汚れる。火葬は工程を職員に外注できる。土葬は違う。膝を折るのは遺族だ。穴を掘るのは隣の家の男だ。土をかけるのは施主だ。棺の蓋を鉈で割るのも親族だ。誰も代わってくれない。死者の重さが、そのまま腕の筋肉にかかる。
第四に、共同体に逃げ場がない。誰がどの役をやるかは、血の濃さで決まり、村中に読み上げられる。忌避される役と厚遇される役がセットになっている。死ぬということが、村の人間関係を丸ごと再確認する行事だった。うっとうしいし、逃げられない。
そして最後に、怖いから作法が増える。刃物を置く。塩を撒く。生米を噛む。空の柄杓で水を注ぐ。三度まわる。仮門を燃やす。茶碗を割る。これらは全部、恐怖に手順を与えるための装置だ。手順があれば、人は震えながらでも動ける。土葬の村の膨大な作法は、恐怖の量に比例して増えていったんだと思う。
そして、なぜ消えたのか
消滅の理由は、意外なほど散文的だ。
いちばん大きいのは人手である。土葬にかかる手間は火葬とは段違いで、力仕事が多い。二メートルの穴を掘る男が三、四人。棺を担ぐ者。葬具を作る者。膳を用意する女たち。二十人から三十人の葬列。これを毎回、村で集める必要がある。過疎と高齢化で縁故関係が疎遠になると、必要な人手が集まらない。集まらなければ実施できない。実施できなければ、次の世代は誰も手順を覚えない。そして風習は集団的に忘却される。合理化のスピードは、この一点で決定的だった。
制度面では火葬場の整備が効いた。大正時代から地方公共団体が火葬場の設営に積極的になり、土葬より火葬のほうが費用も人手も少なくて済むようになった。高度経済成長期には処理能力の高い火葬場が全国に整った。つまり火葬は「選ばれた」というより、「安くて楽なほうに水が流れた」に近い。
そして葬儀の外注化。自宅葬から会館葬への移行が、野辺送りの物理的な土台を消した。墓地は家の近くにあるのが普通だったが、火葬場は市町村に一か所というのが多い。歩いて行ける距離であるほうが珍しい。だから遺体は霊柩車で運ばれ、葬列は組めなくなった。千葉県芝山町のように、現在も野辺送りの形を残す地域はある。ただし歩く距離はせいぜい数十メートル、遺骨を持って駐車場まで、といった規模だ。それでも家族親族で送るという思想は継承されている。
火葬場のない与那国島では、いまも葬制の選択が可能だ。ただし島での年間死亡者数は十五人程度で、医療施設の整った沖縄本島や石垣島で亡くなることが多い。儀礼を簡素化するために石垣島に移送して火葬する例も増えている。制度が禁じたわけではなく、生活の動線が葬法を決めていく。
奈良県のある集落では、二〇一〇年頃までほぼ百パーセントが土葬だった。それが数年で急減した。高橋が二〇一九年冬に再訪したとき、いくつかの村では土葬が忽然と姿を消していたという。千年が、十年で終わる。私たちはその終わりのすぐ後ろに立っている。
物理と、心性と、制度。三つの層は別々の速さで動く
改めて全体を通して眺めると、日本の土葬をめぐる話は三つの層が重なってできている。ひとつめは物理の層だ。二メートルの穴、三尺で湧く水、土圧で潰れる桶、乾いて縮む皮膚、押し潰される空洞、傾く石塔。ここには霊も信仰も一切関与していない。人体という有機物が、土という環境の中でどう変化するかという、ただそれだけの現象がある。四十九日に墓をあばくお棺割りが地盤沈下対策だったこと、埋めた上に石を置くのが狼や野犬から遺体を守るためだったこと、座棺が使われたのが墓穴を小さく済ませるためだったこと。土葬の風習として語られてきたものの多くは、掘り下げると土木と生物学に着地する。ここを押さえずに怪談だけ受け取ると、話は必ず薄くなる。
ふたつめが心性の層だ。物理現象は説明を必要とする。腐敗で位置が変わった遺体を見た人間は、それを「動いた」と受け取る。動いたのなら、動かした者がいるはずだ。そこに火車が呼び出され、猫が魔性を帯び、刃物が枕元に置かれる。恐怖に名前を与え、名前に対処法を与える。この変換作業こそが民俗と呼ばれるものの正体で、だから作法は土地ごとにばらばらでありながら、遠く離れた土地で驚くほど一致したりもする。柳田国男が『葬送習俗語彙』の序で、葬儀はその肝要な部分が甚だしく保守的であり、村と村との間に著しい違いがあると同時に、意外な遠方の土地にも争うべからざる一致がある、と書いたのは、この構造を言い当てている。空の柄杓で空の盥に水を注ぐという南山城村の作法は、その極北だと思う。実体のない動作を三回繰り返す。中身がないからこそ、儀礼としては完成している。
みっつめが制度の層である。明治六年七月十八日の太政官布告第二百五十三号で火葬が禁じられ、明治八年五月二十三日の第八十九号で解かれるまでの六百七十四日。この短い逆走が、日本の葬法史をいちばん象徴していると私は思う。国家が思想で葬法を決めようとして、土地が足りないという現実に二年ももたずに負けた。以後、火葬は伝染病予防と都市化の文脈で推進され、大正二年に三十一パーセントだった火葬率は、昭和九年に五十二パーセントで土葬を逆転し、一九七九年以降に九割を超え、二〇一五年には九九・九九パーセントに達した。二〇二一年度の土葬はわずか四百六十二件。この百年の坂は、宗教的な回心の記録ではなく、火葬場の整備と人件費と道路事情の記録である。
そして現在、この三つの層が別々の速度で動いていることが、あちこちで軋みを生んでいる。制度の層では、墓地、埋葬等に関する法律は昭和二十三年の制定以来、土葬を一度も禁じていない。第二条は埋葬を「死体を土中に葬ること」と定義し、第四条が禁じているのは墓地以外での埋葬だけだ。にもかかわらず心性の層では、土葬は「日本人がやらないこと」になってしまった。都市部の条例が土葬を封じ、墓地管理者の使用規則が受け入れを拒み、法律上は可能な行為が事実上不可能になっている。この乖離が最も鋭く露出したのが、大分県日出町の一件だった。四年以上の対話と、水質検査と埋葬間隔まで盛り込んだ協定書と、条例基準への適合判断。その全部が、ひとつの町長選で無効になった。手続きの正しさは、感情の前で驚くほど無力である。
同時に、この件を「差別か否か」の一語で片づけるのも雑だと思う。反対住民の中には、宗教差別は許されないと認識しているし土葬墓地の公共性も理解したい、でもやっぱり自分の家の近所には建ててほしくない、と語った人がいる。この言葉には自己矛盾の自覚がある。ゴミ処理場や発電所と同じ、いわゆる自分の裏庭には要らないという心理だ。そして厄介なことに、日本人自身がついこの間まで土葬をしていた地域でこそ、受け入れはスムーズだった。山梨県甲州市の文殊院が一九六二年に日本初のイスラーム霊園を隣に迎えられたのは、当時その地域に土葬経験者が大勢いて、土葬という行為そのものに抵抗感がなかったからだ。手伝った檀家は「日本の土葬と親戚みたいだ」と言った。つまり土葬への忌避感は、宗教の違いから生まれたのではなく、火葬率が九九・九パーセントになった二十年ほどの間に、日本社会が新しく獲得した感情なのである。伝統が拒んでいるのではない。伝統を失ったことが拒んでいる。
最後に、なぜこの話がこれほど人を引きつけるのかを書いておきたい。土葬は、死を圧縮しない方法だった。火葬は一時間ですべてを終わらせる。骨になった時点で、人の形は消え、変化も止まる。ところが土葬では、埋めた日から数十年にわたって、地面の下で工程が続く。四十九日に掘れば途中経過が見え、数年後に掘れば別の段階が見え、両墓制の村では三十三回忌や五十回忌に埋め墓の土をひと握り運んで、ようやく魂が石塔へ移る。死は一点ではなく、長い坂だった。その坂を、村中の人間が交替で担いだ。膝を折る手、穴を掘る腕、棺を担ぐ肩、土をかける鍬、鐘を打ち続ける腕。全部が誰かの体だ。
いま私たちは、死の処理をほぼ完全に外注している。それは楽だし、衛生的だし、誰の腰も痛めない。ただ、外注した分だけ、死者は速やかに視界から消える。土葬の話に触れたときに感じるあの居心地の悪さは、たぶん怪談への恐怖じゃなくて、自分が何を手放したのかを一瞬だけ思い出してしまう感覚に近い。焼かれるのはかなわん、熱いやんか。あの村人の言葉は冗談の形をしているが、あそこには、死んだあとの自分の体をまだ自分のこととして考えている人間の手触りがある。土に還りたい、それだけや。そこまではっきり言える人は、いまどれくらいいるだろうか。
千年続いた作法は、たぶんもう戻らない。戻すべきだとも思わない。ただ、二メートルの穴を朝から掘っていた男たちがいたこと、空の柄杓で三度水を注いだ女性がいたこと、鉈で棺の蓋を割る音を一生忘れられなかった住職がいたことは、記録として残しておく価値がある。日本人が死者に対してどれだけ手間をかけていたか。その総量を知っておくだけで、自分の番が来たときの景色は少し変わるはずだ。
