子どもの頃、歯が抜けたときに親か祖父母から「上の歯は縁の下へ、下の歯は屋根へ投げなさい」と言われた覚えはないだろうか。あれ、なんで投げるのか真面目に考えたことはあるか。実はこの俗信、「丈夫な歯が生えますように」という可愛らしい願いだけでは完全には説明がつかない。世界中の同じような風習を並べていくと、もっと古い層が見えてくる。今日は、その話をする。
## 「上の歯は縁の下、下の歯は屋根」——順番を間違えるとまずいらしい
まず基本形から。日本でもっとも広く知られているのは、上顎の歯が抜けたら床下・縁の下へ、下顎の歯が抜けたら屋根の上へ放り投げる、というやり方だ。これを逆にやるとダメだとされる。なぜダメなのか。理屈ははっきりしていて、歯は「抜けた歯が行った方向」に向かって伸びると信じられていたからだ。下の歯は上に向かって生えないと困る。だから屋根という高いところに投げる。上の歯は下に向かって生えないと困る。だから床下という低いところに放り込む。引っ張りロジックである。抜けた歯が、これから生えてくる歯を呼んでいる。この発想の前提には、抜けてもなおその歯は体と繋がっている、という感覚がある。ここ、後で重要になるので覚えておいてほしい。この俗信、作法が地域で完全に反転するケースもあるのだが、日本国内に限っては「上は下へ、下は上へ」が圧倒的に多数派だ。日本歯科医師会系の普及情報でもこの形が標準として紹介されている。
## 抜けた瞬間の情景——鉄の味と、家族が急に集まってくる感じ
実際の場面を思い出してみてほしい。五歳から六歳、下の前歯がぐらぐらしはじめる。最初は指で押すと少し動くぐらい。それが一週間もすると、舌で押すとクニュクニュと前後に倒れる。食事中に気になって仕方がない。味噌汁を飲むとしみる。で、ある日、リンゴをかじるか、パンを食べるか、あるいは単にいじりすぎて、すっと抜ける。痛くはない。ただ口の中にいきなり硬い異物が浮いていて、次の瞬間に鉄の味が広がる。血だ。抜けたところはフニャフニャしていて、舌を入れると地面がないプールのような不安な感覚がする。ここからが面白い。子どもが「抜けた」と叫ぶと、家中が集まってくるのだ。普段はテレビを見ている父親も、台所にいた母親も、別の部屋にいた祖母も。そして口を開けと言われ、抜けた歯をティッシュに包まれ、「これは下の歯だから屋根だね」という会話がはじまる。この、「歯が一本抜けただけで家族が全員集まる」という過剰な反応。子どもはそれを覚えている。大人になってから思うのだ、あれは祝いでもあり、もしかして自分の体の一部が外に出たことに対する、大人のちょっとした緊張でもあったのではないかと。
## 「ネズミの歯と替えてくれ」と、子どもに言わせる意味
投げるとき、たいていは何かを唱えさせられる。これがこの俗信の本体だといっていい。もっとも広く知られているのはネズミを呼ぶタイプで、「ネズミの歯と替えてくれ」「ネズミの歯より丈夫になれ」「ネズミの歯のように生えろ」といった言い回しになる。もうひとつの大きな系統が鬼を持ち出すタイプで、「鬼の歯と替えろ」「鬼の歯より先に生えろ」となる。ちょっと待ってほしい。この二つ、改めて読むとなかなかのことを言っている。ネズミに向かって「替えてくれ」と頼むというのは、こちらの歯を渡す代わりに向こうの歯をもらうという取引の申し入れだ。鬼に向かって「先に生えろ」と叫ぶのは、鬼との競争を宣言している。どちらにしても、歯が抜けたというイベントは「人間以外の何かとの交渉の場」として扱われている。子どもは意味を分からないまま、屋根に向かって鬼とネズミの名前を叫ばされていたわけだ。実際、大人になってから自分の唱え言葉を思い出して「あれ、よく考えたらやばいな」となる人は多い。
## なぜネズミなのか——齧歯類の歯は一生伸び続ける
ここは実はめちゃくちゃ合理的だ。ネズミをはじめとする齧歯類の前歯は伸び続ける。伸びすぎないように常に硬いものを齧って削っているくらいで、削らなければ口が閉じなくなる。つまりネズミは、昔の人から見れば「永遠に歯が丈夫で、何でも齧り切る動物」だった。家の柱も俵も食い物の袋も齧られる。実害としては非常に迷惑だが、歯の性能という一点に限ってはリスペクトの対象である。だから子どもの歯をネズミに払い下げて、代わりにあの歯をもらう。ロシアにも同じ発想の風習があって、抜けた歯をネズミの巣穴に入れるとされている。理由はまったく同じで、齧歯類の歯は一生丈夫だからだ。ユーラシア大陸のあちこちで、人類は同じことを考えていたことになる。この「良い性質を持つ動物にあやかってもらう」という発想は、民俗の世界では類感呪術と呼ばれるやつで、似たものは似たものを呼ぶという考え方に基づいている。子供にとってはネズミは嫌なやつだが、歯に関しては師匠なのである。
## 上下を逆にするロジック——歯は「呼ばれた方向」に伸びる
もう少し上下の話をしておきたい。この俗信の面白さは、単なる願掛けではなく、明確な「物理モデル」を持っているところだ。歯は、抜けた古い歯に向かって伸びる。だから古い歯をゴール地点に置いておけば、新しい歯はそこを目指して真っすぐ伸びてくる。曲がらない。乱ぐい歯にならない。これは歯並びへの不安が直接反映された発想で、実際唱え言葉にも「まっすぐ生えろ」系のものが多い。昔の人も歯並びは気になっていたのだ。ところがこの上下の規則、国をまたぐと平気で反転する。台湾では日本と逆で、上の歯を屋根へ、下の歯を土に埋めるという形が報告されている。中国も地域差が大きくて、北のほうでは上下とも屋根に投げる、南のほうでは日本と同じように上下を分ける、という整理がある。つまりこの「物理モデル」は普遍的な真理ではなく、後から付けられた説明なのだろう。先に「抜けた歯はちゃんとしたやり方で処理しなければならない」という強迫があって、その手順の中身は土地ごとに埋められていった。そう見ると、この俗信の核心は上下ではないことになる。
## いつからやってるのか、そして記録の残らなさ
この風習の起源を調べようとすると、すぐに壁にぶつかる。なにしろ、家の中で、子どもと親の間だけで完結する小さな行為だ。祭りでもなければ儀礼でもない。役所に届け出るわけでもないし、寺が記録するわけでもない。だから、古い文献にはだいたい出てこない。体系的に拾われたのは、近代以降の民俗採集になってからだ。各地の郷土史や民俗調査報告の「俗信」の項に、抜けた歯の扱いと唱え言葉が短い一行で記されている、というパターンが圧倒的に多い。逆に言えば、その程度には全国どこでもやっていたということだ。ここから推測できることはひとつある。この俗信は、上から降ってきた制度ではない。家の中で、親から子へだけで伝わってきた。だから地域差がめちゃくちゃ大きいし、同じ都道府県でも家によって違う。日本の歯の文化としては、他に「歯固め」の行事や、江戸期の「歯抜き師」の存在などいろいろ記録があるのだが、乳歯を投げる行為だけは、どこの家でもやっているがもっとも記録されないという奇妙な位置にいる。
## 地域差(一)——関東の「鬼の歯と替えろ」系
地域差をひとつずつ見ていこう。まず関東だが、ここは鬼を持ち出すパターンとネズミを持ち出すパターンが混在している。「鬼の歯と替えろ」「鬼の歯より先に生えろ」というタイプは、鬼の丈夫さをひたすら羨望するというより、もう少し射程の長い発想を含んでいるように見える。鬼を小道具に使って、成長の競争に勝てというのだ。この形は、子どもの育ちを怖いものとの神経戦として把握している。千葉や埼玉の農村部では、抜けた歯を投げる際に、ちゃんと屋根の向こう側まで飛ばさないとダメだというルールを語る人もいる。屋根の途中に引っかかると、新しい歯も途中で止まる、という理屈だそうだ。これはなかなか不安を煽るルールで、子どもにとっては一発勝負である。実際、「屋根の途中に当たって落ちちゃって、泣きそうになった」という回想はインターネット上にいくらでも見つかる。大人の側も心得ていて、届かないと見るとこっそり拾ってもう一度投げさせたり、さっさと自分で投げてしまったりしたらしい。儀礼の体裁を保つためのフォローである。
## 地域差(二)——東北・北陸と、屋根の高さ問題
雪国ではこの俗信に実務上の問題が発生する。屋根の勾配が急で、しかも雪が乗っている。投げても滑って戻ってくる。あるいは雪の中に埋まる。これをどう扱うかで、地域ごとの工夫が見えてくる。春になって雪が溶ければ歯は雨樋に落ちるだろうから、それでも良しとする家もあるし、雪のない季節まで歯を取っておく家もある。この「取っておく」が実は重要で、後で触れる「乳歯を保管する」現代のスタイルの先駆けになっている。また、屋根に上がるのが危険な地域では、屋根の代わりに高い木の上や小屋の上を使うこともあったという。ポイントは「自分より高いところに行けばいい」というところにあり、屋根という場所に本質があるわけではない。逆に上の歯の行き先も、縁の下がなければ土間だったり、座敷の下だったり、床下収納だったりする。効いているのは「低いところ」というベクトルだけなんだよな。こうやって見ていくと、俗信というのは意外と柔軟だと分かる。本質だけ守って、あとは現地の事情でいくらでも改造される。
## 地域差(三)——関西と中国・四国の言い回し
関西圏では、唱え言葉に方言がそのまま入ることが多い。「ネズミの歯とかえてや」のような命令形。この「や」が付くだけで、神への願いというより隣人に頼むトーンになるのが面白い。中国地方や四国では、投げる前に歯を洗う、あるいは塩で清めるという手順を語る例がある。これは地味に重要なディテールで、塩で清めるというのは、抜けた歯を「穢れ」のあるものとして扱っているということだからだ。血がついているし、体から離れたものだし、死んだ部分でもある。単なる祝いごとなら清める必要はない。清めてから手放すという手順は、どちらかというと供養や離脱の儀礼の形をしている。また、投げるときは必ず外へ出て、背中越しに投げ、振り返ってもう一度探してはいけないというルールを伝える地域もある。この「探すな」がかなりのキーポイントで、手放したものはもはや自分のものではないという宣言になっている。後で重要になるのでこれも覚えておいてほしい。
## 地域差(四)——九州・南西諸島と、雨垂れに埋める派
九州から南西諸島にかけては、屋根の形状が本土と違うこともあって、形式がさらに多様になる。石を載せた赤瓦屋根、低い軒、風を逃がすために地面に引き付けられたような家。高いところに投げるという行為自体が成立しにくい場合もある。そこで登場するのが「埋める」バージョンだ。とくに広く知られているのが、抜けた歯を「雨垂れの落ちるところに埋める」というやり方である。これ、考えてみると非常に意味深い場所指定だ。雨垂れが落ちる線は、家の屋根の真下であり、家の支配する範囲の境界線である。内でもなく外でもない。ちょうど境界。そこに歯を埋める。屋根に投げるのとも、縁の下に放り込むのとも、実はやっていることは同じで、「家の支配領域の縁に置く」なのではないかという読みができてくる。遠くへ捨てない。でも居間にも置かない。家の縁に、人目につかない形で囲い込む。
## 韓国のカササギと、中国の南北差、台湾の上下反転
目を外に向けよう。まず韓国。こちらでは上の歯も下の歯も、ともに屋根に投げるという形が伝えられている。しかも唱えるのはネズミでも鬼でもなく、カササギだ。カササギを呼びかけて、新しい丈夫な歯を持ってきてくれと願う。カササギは朝鮮半島では吉兆の鳥とされていて、家の近くで鳴くと客が来るという俗信もある。つまり日本のネズミポジションに鳥が入っている。中国は広いので地域差が激しく、北のほうでは上下とも屋根に投げ、南のほうでは日本と似た上下の使い分けをするという整理がある。また地域によっては枕の下や布団の下に入れるという、西洋の歯の妖精とは独立に発生したらしいパターンも報告されている。そして台湾。ここが一番怖い。日本と完全に逆なのだ。上の歯を屋根へ、下の歯を土に埋める。同じ発想で、同じような土地で、結論が真逆になる。もし上下のルールに本当の根拠があるなら、どちらかは子どもを乱ぐい歯にしていることになる。現代の台湾では集合住宅化にともなって、木に向かって投げる形に変えるという工夫もされているらしい。
## スペインのねずみのペレス——八歳の王子のために作られた妖精
ここでひとつ、起源がはっきり分かっている珍しい例を紹介したい。スペイン語圏の「ねずみのペレス」だ。ラトンシート・ペレスと呼ばれるこの小さなネズミは、子どもの抜けた歯を枕の下に置いて寝ると、夜のうちにコインやお菓子と交換していってくれる。このキャラクターは自然発生の伝承ではない。作者がいる。スペイン国王アルフォンソ十三世が子どもの頃、はじめて乳歯が抜けてショックを受けた。それを安心させるために、母親がイエズス会の神父ルイス・コロマに「抜けた乳歯の物語を作ってくれ」と依頼した。こうして一八八六年ごろに生まれたのが、少年ブビとネズミのペレスが友達になり、貧しい子どもたちを見て王としての責任を学ぶという物語だった。のちにイラスト付きで出版され、スペインと中南米に一気に広がった。メキシコでは「エル・ラトン」と呼ばれるなど、国ごとに名前が変わる。日本でも一九五三年に翻訳出版されていて、小学一年の国語教科書に掲載されたこともあるという。つまり、一人の神父が一人の王子のために書いた話が、百四十年で大陸をまたぐ風習になったことになる。俗信は作れるのだ。
## トゥースフェアリーと、「枕の下」という隠し場所
英語圏で圧倒的なシェアを持つのが、抜けた歯を枕の下に入れて寝ると歯の妖精がコインと交換していく、というやつだ。専用のポケット付き小枕まで商品化されていて、親が夜中にこっそり差し替えやすいようになっている。この行事、表向きはめちゃくちゃメルヘンである。コインがもらえるし、歯磨きのモチベーションにもなる。だが、ここで一回立ち止まって考えてほしい。なぜ「枕の下」なのか。なぜ「寝ている間に」なのか。ゴミ箱に捨てておいて、朝にコインを渡せば済むはずだ。そうなっていないのは、この風習の根っこに「抜けた歯は、自分の支配下から離してはいけない」という規則があるからだ。枕の下は、家の中でもっとも守られた場所である。自分の頭の真下で、一晩中体重をかけて押さえている。つまりこれは、渡す相手を厳選する儀礼なのだ。ネズミや妖精という「正規の受取人」を指定して、そいつに対して手渡しする。途中で別の何かに拾われては困るのだ。
## エジプトは太陽へ、インドは雀へ、ロシアはネズミの穴へ
世界のバリエーションをもう少し並べておこう。エジプトや中東では、抜けた歯を太陽に向かって投げるという形が伝えられている。太陽は生命の源だから、そこに向けて投げて、キラキラの新しい歯を授けてもらう。インドでは屋根の雀に向かって投げる、あるいは聖なる川に流すという。ロシアは先にも触れたとおりネズミの巣穴。ナイジェリアでは歯を握ってネズミの名を呼びながら数を数え、そのあと空に向かって放るという手順が紹介されている。ベトナムは日本や韓国と似ていて屋根に投げ、鳥に新しい歯を頼む。こうやって並べると、風習の具体形はバラバラだが、コアにあるものはだいたい三つに絞られる。一つ、歯を漫然と捨てない。二つ、受け取り手を必ず指定する(ネズミ、鳥、太陽、妖精、鬼)。三つ、交換を頼む。世界中で、子どもの歯が抜けた瞬間に大人が同じことをやっている。この一致は、偶然としてはできすぎている。
## ここからが本番——なぜ「捨てる」ではなく「隠す」なのか
さて、ここからがこの話の本番だ。ここまで並べてきた風習を、「丈夫な歯が生えますようにという可愛らしい願い」としてだけ読むと、どうしても説明できないものが残る。それは「雑に扱ってはいけない」という禁忌の強さだ。もし単なる願掛けなら、やらなくても別にいいはずだ。でも実際には、歯をごみ箱に捨てていい、と一番に言う大人はなかなかいない。今でも多くの人が、自分や子どもの乳歯を捨てられずにケースに入れて引き出しにしまっている。なぜか。理屈ではなく感覚で、「あれは自分の一部だ」と思っているからだ。この感覚を、民俗の世界はもっと直接的に言い切っていた。体から離れたものは、離れてもなお本人と繋がっている。だから、それを他人に拾われると、拾った人間は本人をどうにでもできる。これが、屋根と縁の下と雨垂れと枕の下の、本当の共通項だと思う。全部、人が簡単には届かない場所なのだ。
## 髪と爪と歯——体から離れても本人であり続けるもの
午前二時の丑の刻参りの話を思い出してほしい。藁人形を打ちつけるとき、強力にするために必要とされるのは何か。相手の髪の毛だ。あるいは爪。そして歯。人類学の古典的な整理では、呪術は大きく二つに分けられる。ひとつは類感呪術で、似ているものは似ているものに作用するという考え方。もうひとつが感染呪術で、一度接触したものやもとひとつだったもの同士は、どんなに離れても互いに作用し続けるという考え方だ。髪や爪を使って人を呪うというのは、後者の典型例として広く知られている。で、歯だ。歯はこのカテゴリのなかでも特別な位置にいる。髪は切っても伸びる。爪も伸びる。だが歯は、抜ければそれっきりだ。そして、硬い。自然には分解しにくい。土に埋めても何年も残る。つまり、人の身体から出てくるもののなかで、もっとも長期保存に適した、もっとも個人を特定しやすい形の残るパーツなのである。現代でも、身元不明の遺体を特定するとき歯型が使われる。歯は、持ち主を指し示し続ける。これを昔の人間が不安に思わなかったはずがない。
## 「拾われるな」型の禁忌と、呪具としての歯
日本でも海外でも、抜けた歯をめぐって「変なところに放置するな」型の言い伝えはあちこちにある。ヨーロッパの例では、抜けた歯をその辺に捨てると魔女に拾われて呪いに使われるとされ、それを防ぐために火にくべて燃やす、あるいは地面に埋めるという手順が語られてきた。燃やす、というのが重要だ。燃やせば、二度と拾えない。日本の俗信のなかにも、抜けた歯を犬や猫に食べさせる、あるいは人の目につかないところに埋めるといったバリエーションが伝えられている。ここまで並べると、もう「丈夫な歯が生えますように」では到底説明がつかないだろう。これは処分の作法だ。さらに現代のネットに目をやると、呪いの手順を語るページや知恵袋の質問に、実際に「髪の毛と爪と歯」を三点セットで挙げるものがある。信じる信じないは別として、人間が「人をどうにかしよう」と考えるときになんの打ち合わせもなく同じ三つに行き着くという事実は、それ自体がなかなか怖い。子どもの歯は、上手に隠せる人間のところにだけ行かなければならない。
## 聞き書き(一)——ベランダから投げた母親の話
三十代後半の女性。都内のマンション七階に住んでいる。上の子の下の前歯が最初に抜けたとき、反射的に実家の母に電話をした。母は即座に「屋根に投げなさい」と言った。でも屋根なんてない。ベランダから下を見ると駐車場とゴミ置き場しかない。下の階のベランダに入ったら苦情だし、人に当たったらシャレにならない。結局、彼女は子供を連れて近所の小さな公園に行き、植え込みの地面に向かって放ったという。子供は「これであってるの?」と何度も聞いた。彼女は「あってるよ」と答えたが、内心では全然自信がなかったそうだ。帰り道で、子どもに見えないように一度振り返ったと言っていた。「手放しても、あの場所を覚えちゃってるんですよね。公園のツツジの下。今でも前を通ると、あ、ここだって思う」。この話を聞いて、この俗信の残酷さが少し分かった気がした。屋根に投げれば、二度と見ない。地面に置いたら、場所が残る。場所が残るということは、回収できるということだ。
## 聞き書き(二)——「絶対に捨てるな」と言った祖母の話
五十代の男性から聞いた、もっと古い世代の話。彼が子どもの頃、北関東の祖母の家に預けられていたときに歯が抜けた。祖母はすぐに紙を持ってきて包み、しばらく神棚の下に置いていた。彼が「投げないの」と聞くと、祖母は「投げるけど、今日は騒がしいからダメ」と答えたという。後で分かったのだが、その日は隣の家で工事が入っていて、知らない人間が何人も出入りしていた。祖母はそれを気にしていたらしい。翌日の朝、人がいなくなってから、彼は裏庭に出されて屋根に投げた。さらに印象的なのは、祖母がそのとき一度だけ口にした言葉だ。「歯と髪は、人に拾わせるもんじゃない」。これを彼は五十年近く覚えている。祖母が具体的に何を恐れていたのかは、もう確かめようがない。ただ彼はこう言っていた。「あの人、別に神仏を信じてるタイプじゃなかったんですよ。だからこそ、あの一言は本気だったと思う」。俗信がもっとも怖いのは、信仰ではなく、理屈なしの習慣として口をついて出るときなんだよな。
## 聞き書き(三)——乳歯の箱が行方不明になった家の話
三十代の女性。彼女の実家には、兄弟三人分の乳歯を保管した桐の箱があった。一本一本、抜けた日付と位置が書かれていた。母親がまめな人だったらしい。上の歯も下の歯も全部取ってある。屋根には一本も投げていない。実家を建て替えるとき、その箱が見つからなくなった。引っ越しの荷物のどこかに紛れたのか、捨てられたのか、分からない。母親は三日間ぐらい探し続け、最後に泣いていたという。その泣き方が異常で、家族は全員引いてしまった。彼女はこう言っていた。「部屋で一人だけ泣いてるのを見て、あ、これ、歯の話じゃないんだなと思ったんです。自分の子どもの一部を、どこにあるか分からない状態で手放しちゃったことが恐いんだなと」。これ、現代の乳歯ケースブームの核心を突いていると思う。保管は優しさでもあるが、同時に「払い下げない」という選択でもある。昔の人はネズミや妖精という受け取り手を作って、そこに渡してしまうことで楽になっていた。今の我々は、受け取り手を失ったまま、自分で抱え続けている。
## ネットの反応——「うちは逆だった」で毎回もめる
このテーマ、交流サイトや掲示板では定期的に燃える。定番の展開は「うちは逆だった」だ。上の歯を屋根に投げてた、という人が必ず現れて、「それ逆だよ」「いやうちの地元はそうだった」という応酬がはじまる。上下の他にも争点は多い。唱え言葉はネズミか鬼か。投げるのは本人か親か。洗ってからなのかそのままなのか。投げたあと振り返っていいのか。毎回同じところでもめて、毎回結論が出ない。それもそのはずで、この俗信には中央も標準もないからだ。もうひとつ定番なのが、「現代の住宅でどうやるの問題」。マンション、ベランダ禁止、床下収納なし。これに対して「ベランダからはやめろ」「実家に帰ったときやれ」「公園はやめておけ」といったアドバイスが飛び交う。早くも二〇〇八年の時点で「いま、抜けた歯は屋根に投げないのか」という問題提起の記事が出ていて、この悩みは少なくとも二十年近く続いていることになる。さらにオカルト寄りの考察界隈では、「歯を捨てるなというのは、個人情報をゴミ箱に入れるなというのと同じ発想では」という読みが出てくる。これは意外と重要な指摘で、歯型や遺伝子情報の時代に生きている我々のほうが、むしろ昔の人の不安を理解しやすいのかもしれない。
## 現代の落とし所と、なぜこの俗信は形を変えて生き延びたのか
現在、抜けた乳歯の行き先は大きく三つに分かれている。一つ目はやはり保管で、仕切り付きの乳歯ケースが市販されている。価格帯はおおむね二千二百円から八千八百円ぐらい。二つ目は歯科医院での処分で、抗菌処理や保存方法のアドバイスを含めて相談に乗ってくれる。三つ目が少し現代らしくて、医療・研究への提供だ。ある企業は二〇一二年から「献歯」のプログラムを運営していて、千人以上が参加している。岐阜市の団体は放射性物質の調査のために乳歯を集めていて、すでに約五百人分を収集し、目標は二千から三千人分とされる。さらに歯髄細胞を凍結保存するバンクもあり、利用料は三十万円前後とされる。ここではっとするのだが、これらは全部、構造が俗信と同じである。どこへ行ったか分からない状態にしない。正規の受け取り手を指定する。そして将来の健康と交換する。ネズミが研究機関になり、屋根が凍結庫になっただけだ。この俗信が生き延びた理由は、内容が正しかったからではなく、人間が自分の体の一部を手放すときに必ず儀式を必要とするからだと思う。
ここまで日本各地と世界各国の乳歯の作法を並べてきたが、改めて全体を見渡すと、この俗信の本体は「屋根」でも「ネズミ」でもないことが見えてくる。本体は、抜けた歯を「指定された相手に、指定された場所で、指定された手順で手放す」という、引き渡しの儀礼そのものだ。上下のルールは土地で反転する。受け取り手はネズミにもカササギにも雀にも太陽にも妖精にもなる。場所は屋根にも床下にも雨垂れにも枕の下にもなる。全部入れ替わるのに、「なんとなく捨てるという選択肢だけが、どこにも存在しない」。この一点だけが、ユーラシアの端からアフリカまで、例外なく共通している。俗信を読むときは、変わるところではなく変わらないところを見ると良い。変わらないところが、この俗信が本当に恐れていたものなのだ。
では何を恐れていたのか。前半で触れた感染呪術の発想をもう一度思い出してほしい。一度体の一部だったものは、切り離されても本人と作用し続ける。だから髪や爪や歯を使って人を呪える。逆に言えば、自分の髪や爪や歯を他人に拾われるのは、自分の命の一部を相手に渡すことを意味する。この恐怖は、小さな集落で暮らしていた人間にとっては実に具体的だったはずだ。毎日顔を合わせる人間のなかに、自分を快く思っていない者が必ず一人はいる。そいつに、毎日子どもの歯が抜ける季節を見られている。だから、抜けた瞬間に回収して、人の手の届かない場所に直ちに送る。屋根の上は、子どもでも大人でも簡単には上がれない。縁の下は、自分の家の人間しか入れない。雨垂れの線は、家の支配の境界。枕の下は、一晩中自分の頭で押さえている。場所の選定が、全部同じ基準でなされている。これは偶然ではないと思う。
そしてもうひとつ、この俗信の深いところにあるのは、子どもの成長というのが実はちょっとした死と再生だという認識だろう。乳歯が抜けるというのは、人間の人生で最初に訪れる「自分の体の一部が死んで、外へ出ていく」体験だ。しかもそれは事故でも病気でもなく、成長の証として祝福される。子どもはこのとき初めて、自分の体が永久に同じではないことを知る。口の中に穴があいて、鉄の味がして、昔の自分の破片が手のひらに乗っている。大人はそれを見て、何か手順を踏ませないと落ち着かない。だから唱え言葉を与えて、投げさせる。子どもは意味を分からないまま、自分の一部を手放す練習をする。そして二十本すべて抜け終わる頃には、もう子どもではなくなっている。乳歯は全部で二十本、六歳ごろから十二歳ごろにかけて抜け終わる。ちょうど少年少女の期間と重なる。この俗信は、実は六年かけて行われる、分割払いの通過儀礼だったのではないか。
最後に、今これを読んでいるあなたにひとつだけ。自分の乳歯がどこに行ったか、覚えているだろうか。多くの人は覚えていない。実家の屋根に上がったのか、縁の下で土になったのか、母親がこっそり取っていていまもどこかの引き出しにあるのか。実家を売った人は、もう確かめようがない。建て替えた人も同じだ。つまり日本列島のあちこちの地面と屋根の上に、名前の分からない子どもたちの歯が、何百年分も散らばっていることになる。分解しにくい、個人を特定できる、硬い破片がだ。屋根を葺いたとき、古い民家を壊したとき、実際に乳歯が出てくることがあるという話は、施工関係者の体験談としてちらほら見かける。何十年も前、この家で誰かの歯が抜けて、誰かが唱え言葉を叫んで、ここに飛んだ。そういうものが、あなたの見ていないところにいくらでもある。俗信は、人が忘れても現物だけは残る。そこが、この話のいちばん怖いところだと思う。
抜けた乳歯を屋根の上へ投げろ――「ネズミの歯と替えてくれ」と叫ばせた大人たちの本当の怖さ
