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お歯黒(鉄漿)――既婚の女が歯を真っ黒に染め続けた数百年と、その匂い

既婚の女は、歯を真っ黒に染めていた

江戸時代の町を歩いていたとする。すれ違う女性が笑い、口元が開く。中は真っ黒で、歯が一本も白くない。それが普通だった。虫歯なんかじゃなく、健康な歯を、わざわざ毎日、手間をかけて黒く染めていた。

これがお歯黒、漢字で書けば鉄漿で、「かね」とも読む。しかもちょっと流行ったとかそんなレベルじゃない。平安時代から明治まで、ざっと千年。地域によっては昭和に入っても残っていた。日本人の大半が、この風習のなかで生まれて死んでいった計算になる。

で、この話が面白いのは、単なる化粧の話に収まらないところだ。匂いがとにかくひどいし、作るのに三か月かかる。毎朝やらないと落ちるし、味は鉄臭くて渋い。外国人は見て絶句した。風習が消えたとたん、黒い歯の女は妖怪になった。

その全部を、道具の名前から匂いの表現、現代人の体験記、外国人の罵倒文句まで、べったり並べていく。読み終わるころには、お歯黒を「変な風習」じゃなくて「めちゃくちゃ大変な日課」として見るようになっていると思う。化粧の話のつもりで読みはじめた人ほど、壷の匂いと毎朝の手間のくだりあたりで、何度か鼻をつまみたくなると思う。

まず、あの液体が何でできていたのか

お歯黒は二つの材料を使い、これを押さえないと話が始まらない。材料はどちらも身近なもので、片方は台所の壷で育つ液体、もう片方は木の枝にできる虫のコブから作る粉だと思えばいい。

一つ目が鉄漿水、「かねみず」や「お歯黒水」と呼ばれる液体で、二つ目が五倍子粉、「ふしのこ」と読む粉。この二つを交互に歯に塗ると、化学反応で黒くなる。塗料を塗っているのとは違う。歯の上で黒を作っている。

しくみはこうだ。鉄漿水の中身は酢酸第一鉄、五倍子粉の中身はタンニン酸。この二つが出会うと結合して、水に溶けない黒い物質に変わる。水に溶けない、というところが重要で、だからこそ口の中でもある程度持つ。古来の黒いインクや黒入れ歯の原理と同じだ。

で、この鉄漿水をどうやって作るのか。ここからが本当にすごい。店で買うこともできたらしいが、多くの家庭では自家製だった。台所の片隅に壷があって、その中で鉄を溶かしていた。台所で、毎日。

三か月漬け込んで、泥のようになったころが使いどき

鉄漿水の作り方を具体的に書く。読みながら、自分の台所を想像してほしい。材料をそろえる手間から、何か月も待つ時間、仕上がったときの匂いまで、順番に追っていくとその大変さがよく分かる。

容器に、米のとぎ汁やお粥、お茶、酢、酒などを入れる。地域や家によってレシピはばらつきがある。そこに錆びた古釘、古鉄、鉄の切れ端を放り込む。地域によっては、加熱して真っ赤になった鉄片を放り込むやり方をとり、じゅっという音がする。あとは密封して冷暗所に置いておく。

二か月から三か月。中では鉄がじわじわ溶け、微生物が働いて発酵が進む。開けると、茶褐色の泥のような液体に変わっている。これが鉄漿水で、この段階でもう、匂いは相当なものだ。発酵した米のとぎ汁と酢と錆を混ぜて三か月放置したものと思えば、まあ当然である。

面白いのは、この壷が一家に一つあって、中身が少なくなれば足していくという運用だったことだ。ちゃんと世話をしていれば何年も使える。ちょっとしたぬか床や梅干しの壷の感覚だ。台所の片隅に、鉄を食って発酵する壷がある。この情景だけでも相当インパクトがあると思う。

五倍子粉――虫こぶを砕いた、きな粉みたいな粉

もう一方の五倍子粉も、なかなかのしろものだ。鉄漿水が台所の壷で何か月もかけて育つ液体なら、こっちは木の枝から採ってくる粉で、出どころからしてまるで違う。

原料はヌルデという樹の若芽に、アブラムシの仲間が寄生してできるコブ、いわゆる虫こぶだ。枝にこぶこぶとできるあの奇妙な瘤を乾燥させて、粉にする。これが五倍子粉だ。見た目は、体験者の言うところでは「きな粉に似ている」。パフパフした薄い茶色の粉で、これ自体は黒くない。

でも中身は濃密だ。タンニンが六割から八割。これは自然物としては異常な濃度で、だからこそ染料やインクの原料として古くから重宝されてきた。ちなみに五倍子は染色の世界でも現役で、空五倍子色という伝統色の名前にもなっている。

お歯黒というのは、やっていることは黒染めなのだ。布を黒く染めるのと同じ化学反応を、自分の歯でやっている。当時の人がそこまで意識していたかは別にして、原理としては完全に染物屋の仕事である。黒く染まった歯は、言ってみれば毎朝染め直している一枚の布みたいなもので、手を抜けばそのぶんだけ色が落ちていく。

現代で市販されている復元品の中身を見ると、タンニン酸が七割、硫酸第一鉄が二割、貝を焼いたカルシウムが一割、という配合のものがある。作ってみた人の記録によれば、水を滴らして混ぜると「黒に近い茄子紺」になる。真っ黒というより、深い紫を含んだ黒。昔の口元も、たぶんこんな色だった。

匂いの話をしよう。これがとにかくキツい

一番語られないかわりに一番重要なポイントが、匂いだ。見た目の話は絵や文章に残りやすいけれど、匂いは記録に残りにくいから、そのぶん真っ先に忘れられてしまうのだ。

鉄漿水はとにかく臭い。しかも厄介なことに、歯に塗る前に温める。温めると匂いはいっそう強くなる。発酵した米のとぎ汁と酢と錆を温めると想像してほしい。部屋中に広がって、隣の部屋まで届く。

これは当時の人も完全に自覚していた。「かねはたちまちゆになってくさいなり」という川柳が、はっきりと残っている。鉄漿はたちまち湯になって臭い、という直球な風刺だ。臭いのはバレていたし、ネタにもなっていた。でもやめなかった。

酸っぱくて、生臭くて、金属臭い匂いの正体は、酢酸と発酵臭と鉄の臭いの混合だろう。しかもこれを口に含むのだから、毎日やっていれば自分の口元にも臭いが残る。ここがこの風習の一番リアルで、一番語られないところだ。時代劇を見ても匂いは写らない。しかし当時の座敷には、確実にこの臭いがあった。

ちなみに現代の復元品、いわゆるインスタントなやつは、作ってみた人が「何より無臭で、臭さが全くありません」と書き残している。本物の鉄漿水との一番大きな違いは、裏を返せばそこにある。本物は、臭い。

朝の支度は、道具一式を並べるところから

では実際の作業はどうだったのか。これがまた大仕事で、専用道具がごっそり必要になる。液体を作って終わりじゃなく、毎朝それを歯に塗るところまで行くのに、いくつもの道具と、それを順番に使う段取りがいる。

最初に並ぶのがお歯黒壷で、鉄漿水を保存しておく容器だ。鉄漿つぎは急須みたいな形をしていて、ここに液を移して火にかける。温まったら渡金(わたしがね)というお椀型の器に注ぐ。ここからが本番で、お歯黒筆を使って、鉄漿水と五倍子粉を交互に、何度も何度も歯に塗り重ねていく。

五倍子粉は五倍子箱に入っている。口をすすぐための嗽茶碗があり、吐き出すための耳盥がある。耳盥というのは両脇に取っ手のついた平たい盥で、昔の化粧場面の絵によく描かれているあれだ。台輪という円筒形の台もあって、盥の高さを調節する。五倍子箱、嗽茶碗、耳盥、台輪と名前を並べるだけで、朝の身支度の場がどれだけ細々とした道具で埋まっていたか目に浮かぶ。

並べてみると分かるとおり、これはちょっとした儀式だ。壷から注ぐ、火にかける、注ぐ、塗る、すすぐ、吐くと、工程が多い。これを女性たちは毎朝やっていたという。化粧水をはたくのとは訳が違う。イメージとしては、毎朝銀食器を磨くのに近い。

しかもこれを、五十年や六十年やるのだ。十五で嫁いで、七十まで生きたら五十五年、日数にして二万日。二万回、臭い液体を温めて口に含んでいた。この積み重ねを想像すると、ちょっと遠い目になる。

味は「血の味がする渋柿」――現代人がやってみた記録

ここで現代の体験記を一件、じっくり紹介したい。とある書き手が、お歯黒に挑戦した記録だ。粉の手触りや、口に入れたときの味、水に溶かしたときの色の変わり方まで、古い製法の話だけでは分からないことが書いてある。

この人は最初に古典的な製法を調べた。古釘と食べ残しを発酵させるやつだ。でも、台所でそれをやったら家庭が崩壊すると判断して断念し、市販の復元品を購入している。古い製法をそのまま台所で再現するには、何か月も壷の匂いと同居する覚悟がいるのだから、この判断を笑う気にはなれない。この判断だけで、本物の鉄漿水がどれだけアレなのか察しがつく。

粉は「意外なことに黒くない。ぱふぱふした粉」。ところが水に溶かすと「ナスの皮のごとき、色の深さ」に変わる。口に入れてみた感想は「血の味がする渋柿みたいなまずさ」で、「渋くて、しょっぱくて、鉄臭い」。舌には黒いシミが残った。

この人は、抜いた親知らずを使った実験もしている。一回塗っても洗えば落ちる。三回塗っても、イカ墨パスタを食べた程度の着色。六時間漬けても、紫に近い黒になるだけで歯ブラシで落ちる。二十四時間漬けてやっと、強く磨いても完全には落ちなくなった。

もうひとつ、技術的な発見もしている。「水を入れて、混ぜてすぐじゃないと黒く歯に染まらない」。反応の鮮度が重要なのだ。だから昔の人は、その場で温めて、その場で塗っていた。作り置きのきかない作業だったわけだ。

この人の結論がいい。昔の新婚女性はこのまずいものを毎日口にしていたのかと、心底尊敬した。そう書き残している。全く同感だ。毎朝あの味を口にしていた昔の女性たちのことを思うと、ここはさすがに頭が下がるし、自分に真似できる気はまるでしない。

実は一日では黒くならない。染まるまで一年かかる

もう一件、もっと本格的な検証がある。和歌山県の高野町在住の研究者が、古典的な製法で鉄漿水を仕込んで、自分の歯で色素沈着を調べたという話だ。こちらは市販の復元品に頼らず、昔ながらの手順で液を仕込むところから始めているから、同じ体験でも話の重みがまるで違う。

製法は忠実だ。容器に日本酒を入れ、米を粥状に炊いたものを木綿の布巾で濾して、その汁を加える。そこに加熱して赤くなった鉄片を入れる。そのまま三か月から四か月密封保管。その後沸かして、ふし粉を混ぜて塗る。

結果が面白い。一日三回、三日間、合計九回塗った。ところが「毎回白い歯に塗る感じ」だったという。蓄積しないのだ。二日後にかかりつけの歯医者でチェックしてもらったところ、歯科衛生士の見立ては「プロから見ても全く色素沈着はありませんでした」。

専門家の見解として、一年くらい継続しないと、表面は黒くなっても歯そのものは黒くならない、という話が出てくる。気の長い話だ。塗ったその日から黒くなる化粧を想像していると、一年という長さにはちょっと面食らうし、毎日続けると思うと気が遠くなる。

これは大事な点だ。江戸の女性のあの真っ黒な口元は、一日や二日でできたものじゃない。何年も、何十年も毎日重ねた結果だ。完成するまでに一年かかる化粧を、千年間やっていた計算になる。途中でやめたらだんだん白くなっていくのだから、やめられない。

起源はどこまで遡れるのか――黒歯国と古墳の歯

じゃあこの風習はいつからあるのか。これがなかなか面白いことに、はっきりしない。千年も続いた風習なのに、始まりのところだけは霧がかかったみたいに見通しが悪く、どの説にもこれという決め手がない。

古いところでは、中国の地理書『山海経』に「黒歯国」という国が出てくる。歯の黒い人々の住む国だ。『魏志』倭人伝にも、倭の周辺に黒歯の国があるという記述がある。もちろんこれをそのまま日本のお歯黒と結びつけるのは乱暴だが、東アジアの広い範囲で歯を黒くする習俗が古くから意識されていたことは間違いない。

国内の物証としては、古墳に埋葬されていた人骨や、埴輪にお歯黒らしい痕跡が見られるという。初期には草木や果実で染めるやり方があり、後に鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったらしい、というのがよくある説明だ。

製法の伝来については、天平勝宝五年、七五三年に鑑真が中国から伝えた。そういう説が伝わる。東大寺の正倉院に製法が残っているという話も伝わる。このあたりは古い伝承なので鑑定が難しいが、最低でも奈良時代の段階で、この技術が日本にあったと認識されていたことは分かる。

時代が下ると、考古学的な裏付けも出てくる。大阪城の発掘では、豊臣時代の地層からお歯黒壷と見られる土器が見つかっている。地面の下から、当時の台所の道具が出てくるわけだ。文献だけじゃなく、モノとしてもこの風習は採集されている。お歯黒壷と見られる土器が土の中から出てくると、あの匂いのする液を毎朝温めていた暮らしが、ぐっと身近に感じられてくる。

平安の貴族は、男も染めていた

ここで大事な前提をひとつ。お歯黒は、もともと女性だけのものじゃない。既婚女性の化粧というイメージが強いけれど、そこへ落ち着くまでには、身分の印や成人の印を経る長い回り道が挟まっている。

平安時代、皇族や貴族は男女を問わず、既婚未婚も問わず鉄漿をつけていた。大寺院の稚児もそうだ。『源氏物語』や『堤中納言物語』にも鉄漿に関する記述があるし、『枕草子』や『紫式部日記』にも面影がある。

平安末期、鳥羽院のころからは、公家の男子にも鉄漿が命じられた。そういう話が残っている。この段階でのお歯黒は「既婚女性の印」じゃなくて「高貴な身分の印」だった。黒い歯はステータスシンボル。白い歯は、むしろダサい。

信じられないかもしれないが、当時の感覚では黒い歯は色っぽかったらしい。平安の男性の日記に、美しい女を見た、口元から見えるお歯黒が艶っぽかった、という趣旨の記述があるという話も伝わる。現代の目で見るとホラーなのに、当時は色気のある美だった。このギャップの大きさが、このテーマの一番クラクラするところだ。美しいという感覚は、不変じゃない。

白い歯は恥ずかしい――室町の「歯者」という蔑称

室町時代になると、この価値観はさらに先鋭化する。

このころ、鉄漿をつけない者は「歯者」と呼ばれ、身分が低いと見なされた。そういう話が残る。歯が見えている人、つまり白い歯の人。現代の感覚だと完全に逆だけど、当時は白い歯をむき出しにしているのが野蛮だった。

この「白い歯はダサい」という感覚は、驚くほど長いこと生き残る。明治に入ってお歯黒が禁じられたあとでさえ、地方では白い歯を「いやらしい」と見る感覚が残っていた。そういう調査がある。見慣れというのは恐ろしいもので、周りが全員黒い歯なら、白い歯が異形に見える。

面白いのは、鉄漿が敵味方の識別に使われたという話だ。『平家物語』には、歯の黒さを手がかりに相手の素性を見定めるような場面が出てくる。平氏の一門は鉄漿をつけていた。黒い歯は身元証みたいな機能も果たしていた。戦場で人の口の中を見て敵だ味方だと判断する、なかなかすさまじい光景だ。

戦国の武将たちと、討ち取った首の化粧

戦国時代になると、この風習はもっと奇妙な方向に伸びる。身分の印だった黒い歯が、武将の身だしなみになり、討ち取った首の化粧にまで顔を出すのだから、話はどんどん生々しくなる。

武将本人がつけていた。今川義元が有名だし、小田原の北条家の人々もつけていた。そう伝わっている。よく「公家かぶれで軟弱」というイメージで語られるけど、あれは後世のイメージ付けに近い。当時は高貴な身分のしるしであって、戦場に出る際の身だしなみでもあった。

で、ここからが本題だ。討ち取った敵の首に、化粧を施す風習があった。首実検の前に、髪を整え、顔を清め、お歯黒をつける。これをやったのは城の女たちだ。戦国の世を生きた老尼の回想とされる『おあん物語』には、この首化粧の場面が出てくる。

城の一室に並べられた首を想像してほしい。その口を開けて、臭い液体を筆で塗っていく。味方のものじゃなく、さっきまで自分たちを殺しに来ていた人間の首だ。それを、ちゃんと見場のよい顔に仕上げてから主君に見せる。死者への礼儀でもあり、同時に戦果のプレゼンテーションでもあった。

このエピソードが、お歯黒という風習の両義性をよく表している。これは生者の化粧であり、同時に死者の化粧でもあった。黒い口は、この世とあの世の両方に属している。化粧というと生きている人のためのものだと思いがちだが、お歯黒はその線を越えて、死んだ人間の顔にまで届いている。

八歳、十三歳、十七歳――染めはじめる年齢のばらつき

では、いつからつけはじめるのか。ここに強烈な時代差と地域差がある。一口に黒い歯といっても、染めはじめる年齢は時代と土地でずいぶん違っていて、そのばらつきに当時の暮らしぶりがにじんでいる。

室町時代には、八歳や九歳でやっていた。子どもだ。小学校低学年で歯を黒く染めはじめる。戦国期には八歳から十歳ぐらいの婦女子に、結婚の準備として施す例があった。そういう話だ。

ところが江戸時代になると、これがじわじわ遅くなっていく。「十三鉄漿」「十七鉄漿」「十八鉄漿」なんて言い方が生まれる。十三歳でやる地域、十七・十八でやる地域。同じ国のなかで、年齢が五歳もちがう。十三と十八では子どもと大人くらいの差があるのに、それが同じ名前の風習としてひとくくりにされているのが面白いところだ。

江戸後期になると、性格自体が変わる。もともとは成人のしるしだったのに、婚礼に合わせて行うものになっていく。「大人になった印」から「結婚した印」へと意味がスライドした。このスライドが、後の「既婚女性のお歯黒」というイメージを確定させる。

ちなみにこの年齢のばらつきは、実用的な意味を持っていた。道ですれ違った女性の口元を見れば、その人が子供なのか、娘なのか、既婚なのか、あるいはどういう職業の人なのかが、一瞬で分かる。口元がプロフィールなのだ。これは便利だが、同時に逃げ場がないということでもある。

鉄漿親という仮親と、七軒からもらう水

初めてお歯黒をつける日は、イベントだった。これがまた実に民俗学的で面白い。ただ歯を黒くするだけの日じゃなく、仮親を立て、道具を贈られ、近所の家を回って液をもらうという一連の段取りがある。

「鉄漿親」という仮親を立てる。実の親じゃなく、近所の適当な女性に頼む。鉄漿付け親、筆親、羽根親、楊枝親、御歯黒親と、この人の呼び名は地域によって違う。道具の名前がそのまま仮親の名前になっているのが可愛らしい。地域によっては仲人がこの役を兼ねた。

鉄漿親は、鉄漿子と呼ばれる娘に道具一式を贈る。壷、筆、箱、盥。鉄漿水の作り方と、塗り方も教える。実際に塗るのは本人だ。技術伝承のセレモニーである。

一番強烈なのが、最初の鉄漿水の調達方法だ。自分の家で仕込むのではなく、近所からもらってくる。しかも、ちゃんと条件がある。健康で、夫婦仲の良い家を七軒回って、少しずつ鉄漿水を分けてもらう。知人七か所からもらってくる、という風習だ。

これ、ものすごく呪術的だと思わないか。幸せな家の鉄漿水を集めることで、その幸せを自分の口に取り込む。類感呪術そのもので、化粧というより、完全に儀礼であり、呪いである。しかもこのとき受け取った液体は、発酵した鉄の臭いを放っている。七軒分の、臭い幸福。

江戸と京坂で違った、遊女と芸者のルール

地域差の話をもうひとつ。これは花街のルールの違いで、はっきりしている。

江戸では、吉原の遊女はお歯黒をする。芸者は染めない。京坂、つまり京都と大阪では、遊女だけでなく芸者もお歯黒をする。同じ日本でも、東と西でルールが違った。

これは単なる好みの問題じゃない。花街の中の職業の別を、口元で示している。客からすれば、相手の歯を見ればすぐに分かる。実に合理的で、実に残酷でもある。言葉を交わす前から、口元がその人の立場を先に名乗ってしまうのだから、隠しようのない名札を顔に付けているのと同じだ。

遊里では、一人前になるときの儀式としての鉄漿付けもあった。娘の成人式と同じ構造を、遊女の世界がコピーしていた。普通の娘は嫁ぐときに、遊女は座敷に出るときに、同じように歯を黒くする。同じ儀式で、意味がまるで違う。

このあたりを知ってから江戸の浮世絵を見ると、見え方が変わる。描かれた女性の歯が黒いか白いかで、その人の立場が分かる。絵師は当然それを意識して描き分けている。情報量の多い口元なのだ。歯の色に気づいてから浮世絵を見直すと、同じ一枚の絵でも、描かれた人物ひとりひとりの素性がぐっと立ち上がってくる。

幕末、外国人は何を見て何を書いたか

ここからがこの風習の転換点で、異国の目が入ってくる。それまで当たり前だった黒い歯が、海の向こうから来た人の目には、ただ異様で不気味なものとして映りはじめるのだ。

江戸中期、長崎の出島にいたオランダ商館の医師、ツンベルグは、お歯黒を見てはっきりと書いた。「この上なく厭なもの」であり、「見憎い」。容赦ない。医者としての冷静な観察を期待すると肩すかしを食うくらい、その書きぶりは感情がむき出しで、好き嫌いがそのまま出ている。

幕末になると記録がいっそう増える。ペリー艦隊に同行した通訳官は、日本の女性が笑うのを見て、「笑えば笑うほどわれわれに嫌悪の情を催させた」と書き残している。この一文はなかなか残酷だが、同時に正直でもある。白い歯を見慣れた目には、口の中が真っ黒な人間は、穴が開いているように見えたのかもしれない。

もっととんでもない記録もある。ペリーに随行していた画家ハイネが伝えるところでは、若い水兵が面白がってお歯黒を真似したらしい。結果、八日間にわたって口がパンケーキのように腫れ上がったという。正しい使い方を知らないまま強い液体を口に入れればそうなる。何とも情けない話だが、この鉄漿水がそこそこ強い薬品だったことも分かる。

初代英国公使のオールコックは、もう少し分析的な見方をしている。これは女性を意図的に醜くして、貞節を守らせるための仕組みなのではないか、という推測を書き残している。この解釈はいまでも根強く残っていて、現代の知恵袋でも「他の男と関係を持たせないためでは」という質問が繰り返し投稿されている。ただ、当時の日本人の感覚では黒い歯は醜くないのだから、この説は外部の目線の産物だという反論も強い。

明治三年の布告と、明治六年に皇后がやめた日

明治になると、この風習は国家の問題になる。

明治元年、新政府は公卿に対してお歯黒を行わなくてよいと伝えている。明治三年二月五日、西暦では一八七〇年三月五日。太政官布告第八十八号が出る。華族で元服する者について、歯を染めることと眉を払うことをやめさせる、という内容だ。このあとも重ねて達しが出され、成人女性についても禁止が強化されていく。

でも、布告が出たからといって、千年続いた習慣はすぐには変わらない。決定打になったのは、明治六年、一八七三年三月だった。このとき皇后、のちの昭憲皇太后が、お歯黒と眉墨をやめた。同じ月の三月二十日には明治天皇が断髪している。国の頂点の夫婦が、同じ月に、古い身だしなみを捨てた。

このインパクトは大きかった。上流階級が一斉にやめ、東京の中産階級も後を追う。都市部では明治二十年代にはだいぶ減っていた。そう伝わる。千年続いた風習が、実質二十年ぐらいで崩れた。

崩れ方が面白い。禁止されたからやめた、というよりも、「上の人がやめたからダサくなった」という流れに近い。もともと高貴さの印だったものは、高貴な人がやめた瞬間に、単なる古いものになる。価値のヒエラルキーが上から崩れると、下まで一気に崩れる。

それでも村では、昭和に入っても残っていた

でも、消えたのは都市だけだ。都市の変化がそのまま全国へ同じ速さで広がったわけじゃないのが、この話のややこしいところで、同時に面白いところでもある。

民間では明治末まで普通に残っていたし、東北など一部の地域では昭和初期まで続いた。そう伝わっている。ラジオがあり、電車が走り、洋服を着た人が歩いている時代に、山間の村ではちゃんと毎朝鉄漿水を温めていた家があった。

このズレが、実は「黒い歯の女」のホラー化を一気に進めた。みんながやめたなかで、一人だけやっている老婆。周囲が白い歯になっていくなかで、黒い口元をした人が残っている。こうなるともう、普通の風習じゃない。異質なものになる。

子供時代に神社の祭りで黒い歯の婆さんを見て怖かった。地方の聞き書きを読むと、そんな話が散見される。昔ならだれも怖がらなかったものが、風習が消えた瞬間に恐怖の対象に変わる。風習の終わり方として、これは相当残酷だ。

ちなみに現代でも、完全には絶えていない。歌舞伎や日本舞踊の舞台、花街の儀式ではいまでも使われる。岡山県の香登にはお歯黒の研究会があって、復元品を作っている。東京の紅のミュージアムでは、二〇二五年二月にお歯黒の疑似体験の講座が開かれている。参加者は自分の歯ではなく、サメの歯を使って黒変を観察するというのが、なんとも現代的でいい。

吉原の「お歯黒どぶ」は、本当にお歯黒で黒かったのか

お歯黒という言葉でもうひとつ有名なのが、吉原の「お歯黒どぶ」だ。これもちょっと掘り下げておきたい。

新吉原の四方をぐるりと囲んでいた溝で、現在の台東区にあたる。創業当初は幅が九メートルほどもあった。ところが幕末から明治初期にかけて三メートル半ほどに縮み、明治末には九十センチほどにまで絞られた。

何のための溝かといえば、逃亡防止だ。遊女が逃げられないようにするためであり、ついでに無銭飲食した客を逃がさないためでもある。出入口は大門だけで、はね橋は普段上げてある。この溝は、完全な閉鎖装置だった。入口がひとつしかなく、橋まで上げてあるのだから、中にいる人間にとってはほとんど島に閉じ込められているのと同じだ。

で、問題は名前の由来だ。遊女たちが使ったお歯黒を捨てたから黒く濁った。一般にはそう説明される。イメージとしては最高にキャッチーで、吉原の陰惨な雰囲気にも合う。

これには有力な反論がある。一つは単純な量の問題で、吉原の外側の市中のほうが女性人口ははるかに多い。捨てられたお歯黒の総量も、市中のほうがずっと多くなる理屈だ。なのに吉原の溝だけが黒いのはおかしい。

もう一つは地質の問題だ。もともとあの一帯は排水の悪い湿地で、土壌自体が黒っぽい。溝の壁に黒色土や暗褐色土が露出していたのではないか、という指摘がある。この説によれば、黒いのは遊女のしわざじゃなく、ただの土だ。

ロマンのない話だが、こういう反論が出てくるところに、このテーマの成熟度が出ている。「黒い溝には黒い由来があるはずだ」という人間の思い込みが、地名の話を作る。その思い込み自体が、お歯黒という風習のイメージの強さを証明している。

お歯黒べったり――顔のない女が、口だけ開けて笑う

さあ、ここからが怪談の時間だ。

「お歯黒べったり」という妖怪がいる。江戸時代の妖怪画の世界に登場するやつで、鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』や、竹原春泉斎が絵を描いた『絵本百物語』に「歯黒べったり」として出てくる。名前からして不気味だ。

姿を説明すると、後ろ姿はしとやかで上品な既婚女性だ。それが振り返ると、顔に目がなく、鼻もない。でも口だけはあって、しかも耳まで裂けている。その巨大な口を開けて笑うと、中は真っ黒だ。お歯黒だ。

伝承の上では、古い神社の前や辻に出るものと決まっている。よく語られるのは、江戸の古びた稲荷神社の前で、うずくまっているように見える美しい女に、浪人が声をかける話だ。どうされた、と問うと、女が振り向く。真っ黒な口で大笑いする。浪人は気を失い、気がついたときには金品が無くなっていた。

この妖怪はのっぺらぼうの一種に数えられるのがふつうだ。ただ、のっぺらぼうが「何もない」恐怖なのに対して、こちらは「口だけある」恐怖だ。この差が大きい。目も鼻も無い顔の真ん中に、真っ黒な穴がひとつ開いている。しかもそれが笑う。

類話は東北地方に多い。キツネやタヌキが化けて出てくるバージョンもあるし、福島の平の盆踊りにまつわる話など、地域の行事と結びついた形も伝わる。黒い大きな口で人を驚かす老婆の話は、各地に散らばっている。化ける者の正体や出てくる場面は土地ごとに違うけれど、話の芯に真っ黒な大きな口があるところは、どこも似ているようだ。

なぜこの形の妖怪が生まれたのか。答えは簡単だ。既婚女性の普通の顔が、もともと「口の中が真っ黒」だったからだ。この妖怪は、日常の風景をちょっとだけずらして作られている。一番怖い妖怪の作り方は、いつだってこれだ。

実は歯にはめちゃくちゃ良かった、という皮肉

ここまで散々な書き方をしてきたが、名誉のために言っておく。お歯黒は、歯にはめちゃくちゃ良かった。

古い墓から発掘された遺体を調べると、お歯黒をしていた歯には虫歯がほとんど見られないという。しかもお歯黒を始める前に進行していた虫歯さえ、進行が止まっていた。そういう例が報告されている。治療の手段がほとんど無かった時代に、虫歯の進行が止まった例まで報告されているのだから、ただの化粧の域を超えている。

しくみの説明もある。タンニンには歯茎を引き締めて細菌から守る働きがある。鉄とタンニンが結びついてできる膜は、歯の表面を緻密に覆って保護する。鉄分には、虫歯菌が作る酸への抵抗力を高める働きもあるという。今の言い方に直せば、コーティングと歯周ケアを同時にやっていたようなものだ。

露出した象牙質を保護する効果も指摘されている。これは侮れない。知覚過敏の緩和にもなっていたかもしれない。虫歯の治療手段がほぼ皆無だった時代に、これはとてつもないアドバンテージだ。

明治の禁止令は、衛生上の理由ではなかった。そこが皮肉だ。見た目の問題、つまり外の目の問題だった。見た目を取って、歯を失った。もちろんその後、歯ブラシと歯磨き粉と歯科医学が普及して埋め合わせにはなったけれど、移行期の一世代くらいは、だいぶ損をしているはずだ。

なぜ怖いのか――「顔を消す化粧」という発想

ここで、なぜ現代の我々がこれを怖いと感じるのかを考えておきたい。昔の人にとっては見慣れた口元が、今の私たちには背筋の寒くなる顔に見えてしまうのには、ちゃんとした理由がいくつかある。

ひとつは、黒い口元が「穴」に見えるからだ。人の顔を見るとき、目と口を中心に認識する。その口の中にハイライトがないと、輪郭が崩れ、黒い空間が口の形を飲み込む。だから黒い歯の人は、笑った瞬間に顔の一部が欠落したように見える。お歯黒べったりが「目も鼻もない顔」とセットになっているのは、この感覚を正確に捉えているからだ。

もうひとつは、「回復しない変形」であることだ。口紅なら落とせるし、髪型なら戻せる。でも歯は、一度黒く染めてしまえば簡単には戻らない。しかもやめれば徐々に白くなっていくので、途中でやめると中途半端な色になる。嫁いだ日から死ぬ日まで、毎日やり続けることが前提の、退路のない化粧なのだ。

三つ目が、強制力だ。歯を見れば既婚か未婚か分かるのだから、隠しようがない。リセットもできず、未亡人になっても黒いままだ。人生のステータスが、自分の体に直接封入されている。現代の感覚だと、ここが一番ひやりとする。

匂い、手間、不可逆性に、見た目の衝撃。この四つが揃っているから、お歯黒は単なる古い化粧で終わらず、怪談の素材になり得たのだと思う。

千年続いたものが、五十年で妖怪になるまで

ここまで製法から妖怪まで一通り並べてきたので、締めに全体を見渡して、この風習の正体をもう一回考えておきたい。

お歯黒の意味は、歴史のなかで三回も乗っ取られている。最初は身分の印だった。平安の皇族・貴族、大寺院の稚児、やがて公家の男子で、男女も既婚未婚も関係ない。室町から戦国にかけては、これが成人の印になり、八歳、九歳で染めて大人の仲間入りをする。江戸に入ると婚礼と結びついて既婚の印になり、十三鉄漿、十七鉄漿、十八鉄漿という言葉は、その推移のスナップショットだ。

同じ行為、同じ液体、同じ道具を使いながら、意味だけが十年単位で入れ替わっていく。風習というのは、中身が空っぽの器なのだとよく分かる。器の形は千年ほとんど変わらないのに、そこへ盛られる中身だけが、時代が変わるたびに別のものへと差し替えられていく。

この風習のコストも、もう一度計算してみたい。鉄漿水の仕込みに二か月から三か月、道具は七つ八つ。毎朝、壷から注いで、火にかけて、筆で交互に塗って、すすいで、吐く。匂いは川柳に風刺されるほど強く、味は現代の体験者が「血の味がする渋柿」と書くレベル。しかもリターンは遅く、高野町の検証では三日間九回塗っても色素沈着ゼロで、専門家の話では一年はかかる。

この化粧は、初期投資が巨大で、毎日のメンテナンスが必須で、しかもやめたら崩れていく。数百年にわたって、何千万人という女性がこのコストを払い続けた。人類史規模のルーティンワークだ。しかも一度始めたら、途中で降りると中途半端な色になって目立つから、やめたくてもそう簡単にはやめられない仕組みになる。

三つ目に、終わり方の奇妙さがある。普通、文化はじわじわ衰退する。でもお歯黒は、明治三年の布告と、明治六年三月の皇后の決断、この二つを引き金に一気に崩れた。同じ月に天皇が断髪しているのも奇妙な一致で、当時の日本がどれだけのスピードで自分の見た目を作り直していたかが分かる。しかも、やめた理由が健康じゃなく外見だったというのが、この話の一番苦いところだ。

ツンベルグやペリーの随行者の書いた罵倒文句が、五十年後に国の政策になった。そう言っても、あながち言い過ぎではない。外から来た人の嫌悪の言葉と、国が出した布告とのあいだには、思っているよりずっと短い距離しかなかったのかもしれない。虫歯予防の効果は、捨てられてからだいぶ後になって再発見された。

締めは、怪談化の筋道だ。お歯黒べったりは江戸後期の妖怪画の世界ですでに登場しているから、風習が現役だった頃からこのイメージはあった。でも当時の怖さは、「顔がない」ことにあった。黒い歯は普通だったのだから、インパクトの中心は目と鼻の不在だったはずだ。ところが風習が消えたあと重心がこっそり移動して、現代の読み手にとっては、顔が無いことよりも、口の中が真っ黒なことのほうが怖い。

同じ妖怪を見ていながら、三百年前の人と今の人では、恐がっている部分が違うのだ。

リアルな例もある。現代、演劇用の歯のワックスを使って六日間お歯黒生活をしてみた人の記録がある。友人の反応が実に示唆的で、「急に非日常が目の前に現れたみたいですごく怖い」と言われている。非日常、この一語に全部が詰まっている。かつて日常だったものが、今や非日常の記号だ。

こうやって並べてみると、お歯黒を「奇習」と呼ぶのはちょっと違う気がしてくる。奇習だと思っているのは、歯を白くする時代に生まれた我々の側の事情だ。一千年を超えて続いたものは、もう奇習ではなくて標準だろう。標準だったものが、たった二十年で崩れ、五十年で妖怪になる。そのスピードこそが、この話の一番怖いところだ。

今我々が当たり前だと思ってやっている身だしなみのうち、どれかが百年後の怪談のネタになっていても、何の不思議もないのだ。

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