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蚕は「おかいこさま」と呼ばれた――家じゅうを虫に明け渡し、人間が土間で寝た村の禁忌

雨も降っていないのに、家じゅうが雨の音だった

まず音の話から始めたい。

昭和四十年代まで、関東から甲信越にかけての農村では、五月の終わりから夏にかけて、家の中でずっと雨が降っていた。もちろん本物の雨じゃない。蚕が桑を食う音だ。

一頭や二頭ならかすかな「さり、さり」でしかない。ところが養蚕農家が一回に飼うのは数千から数万頭である。埼玉県が公開している児玉地域の聞き書き(県北部の郷土史に詳しい林さんのシルクエッセイ)には、桑を与えると蚕が群がって「ザアザア」と葉をむさぼり食い、養蚕の時期はどこの家でも外で大粒の雨が降るような音が家中にこだました、とはっきり書かれている。群馬の元養蚕農家の回想でも「まるで夕立がしてきたかのような音」だ。高崎市内の赤城型民家に一人で暮らす九十歳の女性は、取材にこう答えている。蚕が桑を食べるザワザワという音が夜も響いていた、腹がすくと蚕は首を持ち上げるんだよ、と。

この音には名前までついている。蚕時雨。七十二候の「蚕起食桑」に添えて紹介されることが多い言い方で、しとしと降る小雨に見立てた雅な呼び名だ。だが実際に大量飼育の現場で鳴っていた音は、雅というより不気味に近い。白土三平の『カムイ伝』には、蚕を飼って暮らす下人が「わしら玉手の生まれはこの音をきかなきゃねつかれんもんじゃ」と言う場面がある。この音を子守唄にして寝る人間が、実際に何百万人といた。

そして匂いがある。産経新聞の朝晴れエッセーに寄せられた養蚕家生まれの人の文章が生々しい。家族は一階の半分に追いやられ、自分は成蚕が食む「ざわざわとした音」と「蚕糞の醸し出す強烈な匂い」の中で育てられた、と書いている。群馬の元養蚕農家のブログにはもっと直截な記述がある。繭を作らせるために蚕を移したあと、蚕室に残る大量の糞を片づける仕事が一番いやだった。夏場はそれが腐敗して熱を持ち、バラック造りの飼育棟はサウナ状態になる。作業のあと風呂で頭と体を丁寧に洗っても、自分で「くさいな」と思うほど匂いが取れない。

青臭い桑の匂い、蒸れた糞の匂い、そして上蔟(繭を作らせる工程)の部屋に立ちこめる、髪の毛を焼いたようなタンパク質の匂い。栃木の養蚕農家を訪ねた繊維会社の記録に、その表現が残っている。

音と匂いと温度。ここまでが、まず「お蚕さまのいる家」の基本条件だ。そのうえで、いちばん奇妙な話に入る。この家では、人間のほうが端に寄っていた。

畳を上げろ、人間は廊下で寝ろ

蚕を「お蚕さま」「おかいこさま」「おこさま」と敬称で呼ぶ習慣は、養蚕地帯なら全国どこにでもあった。群馬県の蚕糸担当部署が公開している解説には、群馬では「オカイコ」「オカイコサマ」「オコサマ」と尊称で呼ぶのが普通だった、と書かれている。山梨では「おぼこさん」という呼び方も使われた。山梨県立博物館が二〇一五年十二月から翌年二月にかけて開いたシンボル展「天の虫のおきみやげ――山梨の養蚕信仰――」は、この呼称そのものを展示の柱に据えた。蚕に「天の虫」の字を当てた背景には、蚕を神聖視する意識があったと考えられる、というのが同館の説明だ。鹿児島の方言辞典にまで「おかいこさん」が立項されている。列島の端まで敬語が届いていた。

だが敬語は気分の問題じゃない。群馬の資料に出てくる言い回しが全部を説明している。「オカイコは身上(しんしょう)がけ」。身上とは家財、財産のことだ。「身上をつくるのもつぶすのも蚕」とも言った。命がけどころか、家の存続がまるごと賭かっている。だから、家の使い方が逆転する。

東京工業大学の未来の人類研究センターが二〇二四年に公開した小澤茉莉の論考「現代日本の養蚕業における供養精神」は、関東甲信越の養蚕農家八名への半構造化インタビューを収めている。ここに出てくる語りが強烈だ。埼玉県の六十代男性は言う。お蚕に追い出されて、寝るところも全部お蚕に占領されちゃうから、屋根の下はね、子供の時は家の中の隅っこの方で寝るわけだよね、畳も全部あげちゃって、お蚕用にするからね。

もう一人、同じく埼玉の六十代男性はもっと端的だ。そこの座敷で畳上げて蚕飼っていたんだよ、人間は廊下で寝ていたんだから。しかも笑いながら話している。当時は当たり前だったからだ。同じ人は続けてこうも言う。お蚕飼っている家じゃ、昔だったら学校行っていたって「今日お蚕上げだから暇もらってくる」っていう時代もあったんだよ、と。学校を休んで虫の世話をする。それが咎められない。

家の構造そのものが蚕に合わせて変形していった。群馬の解説によれば、富士見村原之郷や渋川市赤城町勝保沢、片品村針山では、掃き立てのあと二階で飼い、下の炉で松の太い薪を燃やして煙を立てる「いぶし飼い」をやった。天井板はわざと隙間をあけて暖気を上げ、二階は周囲に障子をめぐらしてむしろを敷く。大正から昭和にかけて蚕室を目張りして養蚕火鉢で保温する密閉育が広まると、小さいうちは下の座敷で飼い、大きくなったら二階を含む家全体を使うようになった。だから養蚕農家の二階は仕切りがなく、だだっ広い。屋根の棟の上に換気用のヤグラや高窓が載っているのも、蚕のためだ。北部山間の茅葺きの妻を切り落とした民家、赤城南麓の赤城型民家、榛名山麓の榛名型民家。屋根の形が地域ごとに違うのは、どうやって蚕に風を通すかの答えが違ったからにすぎない。

埼玉県が公開している上里町の元養蚕農家の見学記も面白い。ここには「土室育」という飼育法の跡が残っていた。土壁で仕切った小部屋が横に連なり、床は土間より掘り下げてある。その窪みに火鉢を入れて、扉を閉め切って温度を保つ。エアコンのない時代に、湿度に弱い一齢から三齢の稚蚕を守るための装置だ。そして母屋には、閉じると天井の一部にしか見えない隠し階段まであった。天井裏で桑を与えたあと、階段ごと閉じて空間を密閉するためのものだ。案内した記者が「忍者屋敷みたい」と書いているが、忍者ではなく虫のためである。

長野県上田市の丸子郷土博物館が保存している映像記録には、もっと直接的な記述がある。二齢までの「こばがい」は、人間でいえば生まれたばかりの乳幼児と同じで昼夜を問わず手がかかる。この時期は寝床を蚕屋のそばに持っていき、蚕と一緒の生活が始まる、と。寝床を移すのは人間のほうだ。

決定的なのは消毒の話だろう。ある農家の聞き書きによると、蚕が病気にならないよう飼育スペースをホルマリンで消毒する日は、人間が家に入れない。だから家族全員で土蔵に行って、そこで飯を食った。虫のために家を空け渡し、蔵で夕食をとる一家。これが昭和四十年代までの、ごく普通の日本の農村の風景だ。

火鉢の番をして、朝が来る

蚕は変温動物で、体温は周囲の気温プラス一度くらいしかない。正常に育つ温度域はおおむね二十度から二十八度。脱皮のたびに適温は少しずつ下がり、二十八度から二十二度へと降りていく。この幅を外すと、成長が止まるか、死ぬ。

だから夜が問題になる。山梨県中央市の豊富郷土資料館の解説では、春蚕の飼育が始まる五月初旬から中旬、気温の低い夜は一晩中火鉢の中で炭を燃やして蚕室を暖めた、とある。蓋付きの火鉢に藁灰や籾殻をかけて火力を調整する。持ち運べるので、寒い一角に足したり減らしたりできる。さらに「養蚕紙張幕」という大きな紙の幕を、蚊帳のように天井から床まで張りめぐらせた。稚蚕を寒さから守るためのテントだ。山形県長井市で採集された練炭火鉢の調査カードにも、飼育室を二十三度から二十七度に保つための器具で、熱源は木炭と練炭、昭和三十年代には石油ストーブも使われた、と記録されている。

温度計を見て、炭を足して、また見る。桑を与える回数は成長段階によって違うが、多いときは二時間おき、夜中でも起こされる。群馬の元養蚕農家の回想には、こどもも桑取りに駆り出され、決まった時刻になれば夜中でも桑くれをさせられた、と書いてある。眠らない家だ。

そしてこの火鉢が、人を殺しかけている。

埼玉県のシルクエッセイの筆者は、聞き取りの現場でその話を直接聞いている。春先の加温に使う木炭や練炭は不完全燃焼を起こしやすく、最悪の場合、一酸化炭素中毒で作業者が死亡する危険すらあった。筆者自身、一酸化炭素中毒で蚕室内で倒れた女性から話を聞いたことがある、と書いている。その女性は発見が早くて命は助かったが、後遺症でしばらく体調不良が続いた。

蚕を暖めるための火が、人間の意識を奪う。密閉育というのは要するに空気を止める技術だから、当然そうなる。「お蚕さま」という敬語の裏側にあるのは、そのくらいの危うさだ。

労働そのものも体を壊す。同じ聞き書きに出てくる上里町の女性は、桑取りを続けるうちに肌がかぶれ、慢性的な体調不良に見舞われるようになった。彼女はそれを「クワッカブレ」と呼んでいた。今でいうアレルギー症状だろう。だが症状が出ても養蚕はやめられず、地域から養蚕が消えるまで作業を続けた。

「その日は来ないでくれ」と言われた人たち

ここからが禁忌の話だ。

養蚕の禁忌は、日本だけの現象じゃない。中国の江南地方には、もっと徹底した形が記録されている。塘栖の養蚕習俗を紹介した中国農業博物館の資料によると、蚕を飼う月になると各家は大門を固く閉ざし、日常の出入りは脇の戸に切り替える。門には「育蚕」「蚕月知礼」と書いた赤い紙を貼り、桃の枝を挿し、藁で編んだ網を張って立ち入り禁止を示す。これを「関蚕門」という。門を閉じたあとは、親戚も隣人も往来しない。繭ができて禁が解けると「開蚕門」で門を開け、互いを見舞い、茶菓子を贈り合って豊作を祝う。ひと月まるごと村が閉じるのだ。

そして誰を入れないかが具体的に列挙されている。見知らぬ人を蚕室に入れるな。喪に服している人、つまり喪服の者を入れるな。産婦を入れるな。壊れた蚕籠を使うな。清の湖州の記録『湖蚕述』が引かれた別の資料には、上蔟のときが最も汚れを嫌う、新しく喪のあった者や妊婦が見ただけで蚕が繭を作らず外へ這い出す、そういう場合は生姜と砂糖でその汚れを解く、といった記述まである。一八五九年に養蚕を学びに湖州へ来たイタリア人カステラーニは、地元の農家が自分を蚕室に入れてくれないことに苛立ち、迷信のせいで何もかも妨げられると書き残した。だがそれは迷信というより、宋代から続く「関蚕門」という共同体のルールだった。

言葉のレベルの禁忌はさらに細かい。浙江の記録では、蚕室で「亮」と言ってはならない。亮頭蚕という蚕の病気があるからだ。だから「夜が明けた」は「天が目を開けた」と言い換える。「僵」も駄目だ。僵蚕という病気があるので、同音の「姜」つまり生姜は「辛いもの」を意味する別語に呼び替え、醤油は「色」と呼ぶ。死んだ蚕はまっすぐ伸びるから「伸」も忌む。「笋」はタケノコだが「損」と同音なので、大根を意味する語や「天を鑽る」を意味する語に言い換える。「四」は呉語で「死」と同音だから、四回目の眠は「大眠」と呼ぶ。中国東北の柞蚕地帯にも同種の記録があり、蚕が死ぬことは「死」と言わず「換頭した」と言う。数えるときも「万」は「完」に通じるので言わない。

日本の農書にも同じ発想はきちんとある。明の宋応星が一六三七年に著した『天工開物』の「養忌」の項は、蚕は香りを畏れ、また臭いも畏れる、と書き出す。骨を焼く煙や厠を汲む臭いが風下から来ると死ぬことが多い。隣で塩魚を煎ったり古い脂を熱したりしても死ぬ。かまどで石炭を焚いても、沈香や白檀を炉で焚いても死ぬ。臭気が来たら急いで残った桑の葉を燃やして煙で防げ、と。江戸期の日本の蚕書はこの手の中国農書を下敷きにしているから、生臭を断つ、香を焚かない、といった作法は日本でも共有された。

問題は、この禁忌が「人」に向かうときだ。

葬式帰りの者は蚕室に近づくな。喪中の家の者を上げるな。ここまでは死穢を避ける一般的な忌みの延長で、日本各地の民俗誌にある「火が一つになった」「火を食った」――つまり死や出産の場に出入りした者が一週間ほど他家への出入りを遠慮する――という別火の観念と地続きだ。

だが、月経中の女性を蚕室に入れるな、という禁忌もはっきり存在した。これは擁護のしようがない。日本の民俗語彙で出産は「アカフジョウ」「アカビ」と呼ばれ、血は穢れとされ、その穢れは火を通して他人に及ぶと考えられた。だから産屋という別棟に女性を隔離し、別火で煮炊きさせた。同じ「血の穢れ」の枠組みが、月経に対しても適用された。そして養蚕は、そのほとんどを女性が担う仕事だった。仕事の主役である女性が、月に何日か、自分の仕事場から締め出される。理屈としてこれほど歪んだものもない。

ここは断っておく。この禁忌は当時の身体観・穢れ観の産物であって、科学的な根拠は何もない。蚕の病気は主にウイルスや細菌や真菌、それに桑の農薬や温湿度の失敗によって起きるのであって、飼育者の生理周期とは関係がない。記録として残すべきではあるが、正当化する余地はない。むしろ、女性の労働に全面的に依存していた産業が、その女性を定期的に「不浄」と名指していたという事実こそが、この習俗のいちばん不気味な部分だと思う。

一方で、この禁忌の束には別の顔もある。宮田登以来しばしば指摘されてきたことだが、忌みの言葉は同時に「休みの根拠」でもあった。休ませろと言えない社会で、神がそう言っているという形をとれば女は蚕室を出られる。産屋研究でも、隔離の施設が終焉期には「休養」と「共助」の場に価値転換していたことが報告されている。禁忌を美談にする気はさらさらないが、機能としてそういう側面もあった、という留保はつけておく。

姜と言うな、笋と言うな、四と言うな

日本側の禁忌でおもしろいのは、そこに露骨な「あたり」の呪術が混じることだ。

中山太郎編『日本民俗学辞典』は昭和八年の刊行だが、ここには今の郷土資料には絶対に載らない項目がいくつも残っている。「カヒコイノリ(蚕祈)」の項は、越後北魚沼郡須原村大字大倉の観音堂が養蚕の守仏とされ、四月と六月の十九日の縁日には郡中はもちろん諸方から男女が群れ集まり、夜になると蚕祈りと称して男女が仮寝の縁を結ぶのを常とし、あえて恥としなかった、と記す。「カヒコマヂナヒ(蚕厭勝)」の項はさらに直接的で、羽後の農村では養蚕期に大勢の男女を臨時に雇うが、いよいよ蚕を蔟に移すという前夜、男女二人が選ばれて蚕室に入って抱き合う。それを他の者が見ていて主人のところへ行き「おめでとうございます、今年もたくさん良い繭ができます」と祝言を述べる習慣があった、と。ロシアの日本研究者ネフスキーの報告が典拠として挙げられている。だるま市の夜に群衆の男女の間で性の解放が行われ、これを「前があたる」つまり繭があたると言って縁起にする地方まであった。

同じ辞典には越後の穏やかな例も並ぶ。養蚕の棚に端午の粽を結びつける。粽のように形が整って大きくなってほしいという意味だ。そして四眠を過ぎて蔟を入れる頃には、着ている物の裾をはだけてはいけないという。豊穣を呼ぶ呪術と、慎みを求める禁忌が、同じ蚕棚の前で同居している。

要するに、蚕をめぐる禁忌は「清浄を保て」という衛生的な合理と、「あたれ」という露骨な豊穣祈願と、「穢れを避けろ」という古い身体観の三つが撚り合わされたものだった。ほどけばそれぞれ別の糸だが、当時の人にとっては一本の縄にしか見えなかったはずだ。

鼠を殺すな、猫を飼え、殿様の絵を貼れ

蚕の最大の天敵は鼠である。

理由は残酷なくらい単純だ。群馬の解説にあるとおり、鼠は蔟に上げる直前の熟蚕を食い荒らし、繭になればその繭を破って中の蛹を食べに出没する。一年の収入がまるごと詰まった白い箱が、家じゅうの棚に何万個も並んでいて、そこに鼠が来る。だから鼠除けの信仰は養蚕地帯のあらゆる場所に生えた。

蛇と猫が守り神になった。群馬県安中の咲前神社は、拝殿の南北に「根子石(ねこいし)」という巨石があり、かつては願掛けに小石を載せて拝み、持ち帰って神棚や蚕室に置いて鼠除けを祈った。ねこいしが猫を連想させるからだ。さらに効き目を上げるため、境内の杉の洞に住むという白蛇「長虫様」の御影の札も蚕室に祀った。埼玉県狭山市の神明宮の石祠には、蛇を描いた絵馬を借りてきて蚕室に置くと鼠の被害に遭わない、という伝えがある。養蚕が終われば借りた絵馬に新しい絵馬を添えて返しに行く。繭がたくさん取れた年は、繭を糸でからげて供えた。竹筒に酒を入れて持って行き、アオダイショウが来て鼠を退治してくれるよう頼む家もあったという。同じ狭山の三柱神社では、五月一日の例大祭に「開運火防」と「養蚕ネズミ札」の札がおよそ五千枚も配られた。蚕室で炭火を使うから火伏せの荒神も同時に必要だった、というのがまた生々しい。

そして猫絵である。

これがこの話題でいちばん有名で、いちばん奇妙な事例だ。上野国新田郡下田嶋村、いまの群馬県太田市に、新田義貞の末裔を称する新田岩松氏という家があった。知行はわずか一二〇石。しかし正月には江戸城に登城して将軍に年頭の祝いを述べる交代寄合格という、格式だけは高い家だ。この家の当主が四代にわたって猫の絵を描き続けた。「万次郎の猫絵」「八方にらみの猫」「新田様の猫」と呼ばれ、総称して「新田猫」という。当主は「猫絵の殿様」と呼ばれた。

二〇二三年五月の『日本民俗学』三一四号に載った新田猫の論考によれば、この家に猫絵の依頼が急増するのは一七九〇年代である。一七六〇年代から七〇年代までは観音や薬師や八幡といった信仰画と風景画が多く、一七八〇年代には大黒天が増える。そして一七九〇年代に猫が跳ね上がる。養蚕業の発展と、鼠除けの需要がぴったり重なっている。十九代徳純が文化十年(一八一三年)に信州善光寺へ参詣したときの記録では、行く先々で一か月に三〇七枚も絵を描いており、そのうち新田猫が九七枚で最多だ。鍾馗が三一枚、福禄寿と龍が七枚ずつ。移動する絵の工房である。

なぜ他の絵ではなく新田家の猫でなければならなかったのか。理由が実にねじれている。この地方には、蚕を食い荒らす鼠の害は新田義貞一族の怨霊のしわざだ、という俗信があった。新田家の戦死者の怨霊が鼠になって作物を荒らすので、その霊を鎮めるために守り本尊の「鼠薬師」を祀る、という構図まで伝わっている。つまり、鼠を出している当の家系の当主が描いた猫だからこそ効く、という理屈だ。加害者に守護を頼むという、ほとんど呪術としては最上級の発想である。落合延孝の一九九六年の研究が指摘するように、「猫絵の殿様」は呪術を司る中世領主の姿を濃厚に残していた。

新田猫は評判が広がりすぎて、類似品が大量に出回った。研究者はそれを整理するために「類縁的新田猫」という概念まで用意している。明治に入ると富山の薬売りが新田猫を模した猫絵を大量に印刷して配りはじめ、鼠除けと火の用心をうたって養蚕農家以外の一般家庭にも広がった。呪符の量産と全国流通だ。

越後にも猫がいる。新潟県長岡市栃尾の森上にある南部神社は、別名を猫又権現という。猫又といえば普通は尾が二つに割れて人を襲う妖怪だが、ここでは猫又の妖力にあやかって、鼠から蚕を守る養蚕の神として祀られた。境内には狛犬ならぬ狛猫がいる。この社は新田義貞と縁が深く、一三三三年の挙兵の際に南部神社の山伏が越後じゅうに触れ回って新田一族の兵を集めた、という伝えがある。だから祭日に売られる鼠除け札の猫も、やはり新田猫がモデルだ。新潟県立歴史博物館の研究者は、これを養蚕が盛んな土地ならではの、生活に根ざした信仰だと説明している。新潟で猫絵の鼠除け札が買えるのは、この南部神社と南魚沼市の八海山尊神社くらいだという。

猫を大事にした結果、当然のように「猫を粗末にするな」「鼠を殺すな」という言い伝えも生まれた。鼠を殺せば猫の役目を奪うことになる、という理屈もあれば、鼠自体が怨霊なので祟るという理屈もある。どちらにしても、蚕を守るために家の中の生き物の序列がまるごと組み替えられていた。

天竺の姫が、桑の舟で流れ着いた

では、蚕そのものはどこから来たとされていたのか。

日本の養蚕起源譚は、大きく三つに分類される。記紀神話系のもの、金色姫系のもの、馬娘婚姻譚系のものだ。民間ではこの三つの混合型も多い。まず金色姫から行く。

いちばんまとまった形で読めるのは、但馬の上垣守国が享和二年(一八〇二年)に著し、翌年に刊行された『養蚕秘録』の中の「天竺霖異大王の事」という一節だ。上垣は奥州で買い求めた蚕種を研究し、但馬・丹波・丹後に養蚕を広めた実務家で、この本はのちにヨーロッパにまで渡っている。話はこうだ。

昔、天竺の旧仲国に霖異大王という王がいた。后は光契夫人、その間に金色姫という娘がいた。夫人が病で亡くなり、王は後添えを迎える。この継母が姫を激しく憎んだ。王の留守に、姫を獅子の棲む師子吼山に捨てさせる。ところが獅子は姫を襲うどころか背に乗せて宮殿へ送り届けた。次に鷲や鷹の巣くう鷹群山に捨てさせると、鷹が肉を運んで姫を養い、鷹狩りに来た家来が見つけて連れ帰る。三度目は海眼山という草木もない孤島に流したが、漂着した漁師に助けられて帰ってくる。業を煮やした継母は、御殿の庭に深い穴を掘って姫を生き埋めにした。ところが百日ほど経った頃、土の中から光が差す。不審に思った王が掘らせると、やつれた姫が生きていた。

四度の難を知った王は、これ以上ここに置けばいずれ殺されると悟り、桑の木をくり抜いて作ったうつぼ舟に姫を乗せ、海へ流す。舟は常陸国の豊浦の湊に流れ着いた。漁師の権太夫夫婦がこれを助けて手厚く介抱するが、姫は間もなく病で亡くなる。夫婦が亡骸を唐櫃に納めたその夜、夢枕に姫が立って「我に食を与えよ、後で恩返しをする」と告げた。驚いて櫃を開けると、亡骸はなく、無数の小さな虫がいた。舟が桑でできていたことを思い出して桑の葉を与えると、虫は喜んで食べ、育った。

ある時、虫たちは桑を食べず、頭を上げてわなわなと震え出した。心配する夫婦の夢に姫がまた現れ、天竺で継母に四度苦しめられたので今は休んでいるのです、と告げる。だから蚕の四回の眠りは、獅子の休み、鷹の休み、船の休み、庭の休みと呼ばれるのだ、という。四眠を終えた虫は繭を作った。筑波の影道仙人が現れて繭から糸を取る方法を教え、これが日本の養蚕の始まりになった。

これが有名な金色姫伝説だ。もっと古い形は、室町時代の御伽草子『戒言』に遡る。『世界大百科事典』は、全国各地にある蚕影山信仰は茨城県の蚕影山神社の信仰が流布したもので、その縁起として金色姫の物語が中世末から近世にかけて語られていた、と整理している。

総本社にあたるのが、つくば市神郡にある蚕影神社だ。御札に「日本一社」と記す。主祭神は稚産霊神で、この神は頭から蚕と桑を生じたとされる。茨城にはほかに日立市川尻町の蚕養神社(日本最初)、神栖市日川の蚕霊神社(日本養蚕事始)があり、この三社をまとめて「常陸国の三蚕神社」と呼ぶ。三社ともに金色姫が流れ着いた地を自称している。実は決着はついていない。『養蚕秘録』に出てくる「常陸国豊良湊」がどこかについては、日立市川尻町の小貝ヶ浜説、つくば市神郡の豊浦説、神栖市日川説の三つが並立していて、それぞれ地元に神社がある。

ここが面白いところで、金色姫の話には別バージョンが確実に存在する。茨城の郷土史家が引く『鹿島灘風土記』系の伝えでは、姫は天竺ではなく奥州から流されてきたことになっている。さらに奥州には、姫が継母の虐待の末に池に身を投げ、その遺体から一本の木が生え、その葉を食べた虫が繭を作り、姫の名が「くわこ姫」だったので木を「クワ」と名付けた、という話がある。つまり発祥地そのものが奥州だとする筋だ。整理すると三パターンになる。天竺出身で常陸発祥(養蚕秘録)、奥州出身で常陸発祥(茨城の伝説)、奥州出身で奥州発祥(奥州の伝説)。

謎を解く鍵は上垣守国本人にあるらしい。彼は若い頃、蚕種を仕入れるために奥州へ通っている。そこで聞いた養蚕起源の伝説を、常陸の蚕影山縁起と結び合わせ、天竺という壮大な舞台を与えて一冊にまとめた。伝説というのは、こういうふうに人が運ぶ。

なお『戒言』版の後半はさらに謎めいていて、金色姫は欽明天皇の皇女として生まれ直し、筑波に渡って「かくやひめ」と名乗って養蚕の神になる。ところが筑波は都から遠いという理由で富士山へ移り、富士の権現と呼ばれるようになる。蚕影神社の祭神にコノハナサクヤヒメが並ぶのは、この筋と関係がある。かぐや姫と蚕がここで交差する。

蚕神には仏教系の顔もある。馬鳴菩薩だ。天竺から伝わった蚕神とされ、貧しい人に衣服を施す仏として信仰された。一面六臂で、秤や糸枠や糸や織物を持ち、白馬に乗った姿で描かれる。埼玉県狭山市の薬師堂の境内には文化五年(一八〇八年)銘の「馬鳴大菩薩」の石仏が残っている。ここでも馬が出てくる。

馬の首に乗って、娘は天へ昇った

蚕の背の模様は、馬の蹄の跡だ――群馬の解説はさらりとそう書く。蚕と馬は深い関係がある、と。

その根拠になっているのが、三つ目の起源譚、馬娘婚姻譚である。オシラサマの由来として広く知られている話だ。ここでは信仰そのものより、蚕の由来譚としての側面だけを見る。

柳田国男が明治四十三年(一九一〇年)に刊行した『遠野物語』の六十九話。遠野出身の佐々木喜善が語り、柳田が筆記した。あらすじはこうだ。昔あるところに貧しい百姓がいた。妻はなく、美しい娘がいた。また一頭の馬を飼っていた。娘はこの馬を愛して、夜になると厩に行って寝るようになり、ついに馬と夫婦になった。ある夜これを知った父は、翌日、娘に知らせずに馬を連れ出し、桑の木に吊り下げて殺した。その夜、娘は馬がいないことを父に尋ねて事情を知り、驚き悲しんで桑の木の下に行き、死んだ馬の首にすがって泣いていた。父はこれを憎んで、斧で後ろから馬の首を切り落とした。すると娘は、その首に乗ったまま天に昇って去った。

たった数行の中に、獣姦と殺害と斬首と昇天が詰まっている。柳田の文章はそれを一切修飾しない。淡々としているから余計に怖い。

この話には後日譚がある。佐々木喜善の『聴耳草紙』では、天に昇った娘が両親の夢枕に立ち、臼の中の虫を桑の葉で飼うことを教える。それが養蚕の由来になった。娘と馬は、馬頭と姫頭の二体の養蚕神になったとも解される。オシラサマの神体に桑の木が多く使われるのは、この話の中で馬が桑の木に吊るされたからだ。

原型は中国にある。四世紀の晋、干宝が編んだ『捜神記』の「馬の恋」だ。ただし筋は微妙に違う。中国版では、娘は父を無事に連れ帰ったら嫁になると馬に約束する。馬は約束を果たすが、父は怒って馬を殺し、皮を剥いで晒す。その皮が突然娘を包み込んで飛び去り、桑の木に引っかかって、二人は蚕に変じる。日本版との差は決定的だ。中国版では娘は馬の求婚を拒んでおり、話は禁忌を踏み越えた者への警告として閉じる。日本版では二人は相思相愛で、父の処刑は不当な断絶として立ち上がり、断絶を越えて昇天する救済の物語になる。同じ素材で倫理が反転している。

そして日本版のほうが、ずっと不気味だ。愛し合っていた者が引き裂かれ、その結果として生まれたのが蚕だということになる。蚕を飼うたびに、家の中でその悲劇が再演されている、という構造になってしまう。

伝播経路については中国から朝鮮半島経由という説と直接流入という説があり、決着していない。オシラサマの語源も諸説あって、一七六二年成立の『遠野古事記』に見える「しあら」が転じたという説、愛知県奥三河の白山行事の名から来たという説などが出ている。オシラサマ信仰そのものは、地域や家によって秘匿性が強く、外部に語ることを忌む土地も多いので、いまだに分からない部分が多い。ここでは名前を出すにとどめておく。

いずれにせよ、日本人が蚕の起源として語ってきた三つの物語――記紀の保食神の頭から蚕が生じるという話、継母に殺されかけて漂着した姫の話、馬と結ばれて父に引き裂かれた娘の話――は、揃いも揃って「殺された女から蚕が生まれる」という形をしている。アジア全域に分布する「殺された女神から作物が生まれる」神話の系列にきれいに収まる。蚕は、死者から出てくるものとして想像され続けてきた。

繭を煮るとき、中身はまだ生きている

ここで、いちばん直視しにくい話に行く。

繭は蛹の家だ。放っておけば十日ほどで羽化して蛾が出てくる。しかし蛾が出るときには繭を溶かして破るので、糸として使い物にならなくなる。だから製糸の工程では、羽化する前に蛹を殺す。乾繭場で熱風を当てて殺すか、そのまま煮る。生きた蛹を、糸のために殺す。それが養蚕という生業の土台にある。

養蚕農家はこれをよく分かっていた。だから供養碑を建てた。

分かりやすい例が群馬県高崎市の柏木沢にある蚕影碑だ。明治二十年(一八八七年)、この一帯に激しい雹が降って桑畑が全滅した。蚕は桑しか食べない。餌がなければ全部死ぬしかない。村人たちは相談したうえで、まだ生きている蚕を丘に埋めた。そして明治三十年(一八九七年)、蚕影山大神を祀ってその霊を慰めるために碑を建てた。高崎市の文化財保護課がこの経緯を伝えている。市はこの話を題材にした「蚕影様物語」という演劇まで上演した。明治期の箕郷地域の養蚕農家が舞台で、繭がたくさん取れたら新しい着物を買ってもらえると張り切っていた少女トヨの目の前で、空が急に暗くなり、雹が二尺も降り積もって一帯が氷の海になる。三眠を迎える前で、桑がなければ飼育は続けられない。村人たちは涙ながらに生きたままの蚕を土に埋めた。

同じ話が埼玉にもある。県内の蚕神石碑を追った記録によれば、明治十五年と明治二十六年の激烈な霜害で桑が枯れ、何億という蚕が死んだ。比企郡鳩山町の黒石神社は、明治十五年の霜害をきっかけに死んだ蚕を境内に埋めて供養し、再興を誓って蚕影神社を勧請した。深谷市や熊谷市や本庄市の石碑の下にも、霜害で死んだ蚕が供養のために埋められている。これらの碑は今では自然災害伝承碑としても機能している。山梨県小菅村にも同種の碑が二つあり、小永田地区では雹で桑がやられた年に蚕の体が黒くなって溶けて死んだと言い伝えられ、「蚕影山大神」と刻まれた碑が「養蚕の地蔵」と呼ばれている。

明治の碑が「災害で死なせてしまった蚕」を弔うものだったのに対して、昭和の碑は性格が変わる。人間のために茹でられた蛹を慰霊するものが増えるのだ。名称も「蚕魂之碑」「蚕霊塔」といったものになる。長野県岡谷市の照光寺には昭和九年(一九三四年)建立の蚕霊供養塔があり、木造銅板葺きの重層で、組み物は三手先という堂塔建築でいちばん立派とされる形式、中には馬鳴菩薩が安置されている。世界恐慌で製糸工場の多くが休業や倒産に追い込まれる中、製糸業界の関係者が中心になって、犠牲になった蚕の霊を慰め、蚕糸業の発展を祈って建てたものだ。石造の蚕霊碑は全国にあるが、木造の堂塔でこれをやった例は少ない。

神奈川県相模原市の津久井には、乾繭による殺蛹の供養塔がある。大正から昭和初期にかけて共同乾繭を行った場所で、薪を熱源にして水車で室内を扇風し、繭を乾かした。最盛期には昼夜休みなく作業が続いた。ここで命を絶たれる蚕蛹を悼んで塔が建てられた、と地元の文化財資料は書いている。近くの寺の無縁墓地の一角には、土台を含めて三メートルほどある「蚕霊塔」が立つ。昭和九年四月、津久井郡の殺蛹乾繭者による建立だ。「殺蛹乾繭者」という肩書きを自分から名乗って碑を建てる。ここには職業的な後ろめたさが、はっきり刻まれている。

群馬県安中の碓氷製糸には今も蚕霊供養塔があり、七月に供養祭が行われている。コロナ禍で途絶えていたが、近年になって咲前神社の宮司を祭主として復活させ、以来花も定期的に替えているという。

現代の養蚕農家がこれをどう考えているかは、さきほどの二〇二四年のインタビュー論考が丁寧に拾っている。群馬の三十代男性は、農薬の影響で大量に死ぬ蚕を可哀想だと感じ、繭から糸を取る工程を通して殺生への罪悪感を抱くことがあると話す。群馬の四十代女性は、そもそも蚕の殺生に抵抗があって養蚕を始めるのをやめようか迷った。蚕期が終わると「報告と供養、っていうかね、感謝しに」行く。たくさんの命をいただいたことのモヤモヤ、殺生感のモヤモヤを少し手放して、また来年もいい繭を作るほうへ向ける、と。

いちばん刺さるのは別の男性の言葉だ。落とし所がつかないというか、落とし所をつけるべきじゃないのかな、と。「ごめんなさい」という気持ちも含めて「養蚕」だと思っているので。養蚕という作業に手をつけた以上、その罪深さや続けるうえでの苦しみ、苦悩も含めながら続けることが、お蚕に対するマナーというか、付き合い方になるんじゃないか。

別の農家は、本来なら桑畑で葉を食べて大きくなって繭を作って蛾になって産卵するというサイクルを繰り返すはずのものを、人間の都合でその一部だけ切り取っているのが養蚕だ、と言う。だから「ありがとう」と同時に「ごめんなさい」がある、と。

蚕を神と呼ぶことと、蚕を煮ることは、矛盾していない。むしろ煮るからこそ神と呼ぶ必要があった。供養碑はその証拠物件だ。

野麦峠の向こうで、繭は糸になった

繭は農家で終わらない。糸にする工程が待っている。そしてそこには、また別の人間の話がある。

一八五九年の横浜開港以降、生糸は日本の最大の輸出品になった。明治政府は殖産興業の柱としてこれを国策化する。一八七二年に官営富岡製糸場が操業を始め、群馬では養蚕技術の革新が相次いだ。伊勢崎の田島弥平は通風を重視する「清涼育」を体系化し、明治五年(一八七二年)に『養蚕新論』、明治十二年(一八七九年)に『続養蚕新論』を著した。文久三年(一八六三年)に建てた住居兼蚕室は、瓦葺き総二階建てで屋根の棟全体に換気用のヤグラを載せた画期的なもので、これが近代養蚕農家建築の原型になった。藤岡の高山長五郎は明治十六年(一八八三年)に通風と温度管理を調和させた「清温育」を確立し、翌年に高山社という養蚕教育機関を設立して全国に広めた。清温育は全国標準の飼育法になり、朝鮮半島や中国からも実習生が来た。下仁田の荒船風穴は岩の隙間から吹く冷風で蚕種を貯蔵し、孵化時期をずらして年に何回も養蚕できるようにした。この四つが二〇一四年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されている。

そして糸を引くのは、ほとんどが若い女性だった。

長野県諏訪地方、とりわけ岡谷は、新型の繰糸機で急成長した製糸の一大集積地になる。飛騨地方の村々からは、十代の少女たちが野麦峠を越えて岡谷へ働きに出た。山本茂実が明治四十年前後の製糸工場について女工数百人から聞き取りを行い、昭和四十三年(一九六八年)にまとめたルポルタージュ『あゝ野麦峠』が、この光景を後世に刻んだ。一九七九年には映画化され、配給収入十四億円の大ヒットになった。細井和喜蔵の『女工哀史』は一九二五年の刊行で、こちらも決定的な影響を残している。

『あゝ野麦峠』の中心にいるのは、岐阜県吉城郡河合村(現在の飛騨市河合町角川)生まれの政井みねという実在の人物だ。十四歳になった一九〇三年二月、百人以上の工女とともに岡谷へ向かった。厳冬の野麦峠は雪が氷の刃になって少女たちの足を切り裂き、「野麦の雪は赤く染まった」と言われた。勤務先の山一林組は、工女の逃亡を防ぐために鉄の桟が張られていた。労働は長時間で、環境も過酷だった。それでもみねは仕事の評価が高く、年収が百円を超える「百円工女」になる。当時の小学校教員の初任程度の額だ。一九〇九年十一月、政井家に「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報が届く。兄の辰次郎は角川から岡谷まで夜通し二日間歩いた。松本での入院を勧めたがみねは飛騨へ帰りたいと言い、辰次郎は妹を背負って帰路についた。五日目の十一月二十日午後二時ごろ、野麦峠にたどり着いたところでみねは「ああ、飛騨が見える」と呟いて息を引き取った。二十歳だった。峠には、みねを背負う辰次郎の像が立っている。

ここで一つ、大事な補足を入れておきたい。この物語は長く「哀史」として一面的に語られてきたが、当事者からは実態と違うという証言も出ていた。飛騨市教育委員会は三年をかけて調査を行い、二〇二一年に約二百五十ページの『飛騨の糸引き工女調査報告書』を刊行している。きっかけになったのは、二〇二三年まで二十八年間、語り部として工女の暮らしを伝え続けた飛騨市古川町の男性の存在だった。彼の祖母は明治後期、十四歳から二十歳まで岡谷の製糸工場に出稼ぎに行っている。工場法施行前の、劣悪だったとされる時期だ。だが孫が幼い頃から聞かされていたのは、製糸工場での良い思い出ばかりだったという。野麦峠の資料館でも、勤続十年の表彰状、岡谷の写真館での集合写真、青年が工女に宛てた恋文などを展示して、より多面的に伝える方向に舵を切った。

労働被害を軽く見る話ではない。長時間労働も、結核の蔓延も、逃亡を防ぐ設備も事実だ。同時に、飛騨の農作業に比べれば桁違いの高収入で、同じ工場の男性労働者より賃金が高かったのも事実である。そして少女たち自身が、家を助けるという明確な意思でその選択をしていた。哀れむだけの語り方は、彼女たちの意思を消してしまう。そこは注意深く扱いたい。

蚕がいなくなった家に残ったもの

数字を並べると、この産業の終わり方がよく分かる。

帝国書院の歴史統計によれば、養蚕農家数のピークは昭和四年(一九二九年)で、二二一万六六〇二戸。当時の国内農家戸数はおよそ六百万戸だから、四割近くが蚕を飼っていたことになる。桑畑は六二万ヘクタール、収繭量は三八万トン。生糸をはじめ絹関連製品は、日本の全輸出の半分以上を占めた。国が絹で立っていた。

そこから先が速い。昭和三十四年(一九五九年)に六七万戸。昭和三十七年(一九六二年)に生糸の輸入が自由化される。昭和四十六年(一九七一年)に三七万戸。第一次石油ショックの翌年、昭和四十九年(一九七四年)に二八万戸。昭和五十二年(一九七七年)に二〇万戸。昭和五十八年(一九八三年)に一二万戸。生糸の輸出は昭和五十年(一九七五年)にゼロになった。輸出産業だったものが、二十年ほどで輸入国に反転した。一九九四年の世界貿易機関協定で再度自由化され、一九七九年には収繭量一トン以上の大規模養蚕農家だけで一万五四九七戸あったものが、二〇一六年には全国の養蚕農家が三四九戸、令和二年(二〇二〇年)には二二八戸まで減った。

これを地域単位で見るともっと分かりやすい。群馬県の農協甘楽富岡管内の養蚕農家数は、昭和四十三年(一九六八年)に七七〇九戸。昭和六十二年(一九八七年)に二四〇三戸。平成九年に二七九戸。平成二十五年(二〇一三年)に二〇戸。四十五年で七七〇九戸が二〇戸になった。

山梨の養蚕は一九六〇年代後半から劇的に衰退し、桑畑は果樹園に切り替わった。埼玉県では昭和四十三年に県内最高の繭生産量一万三二〇〇トンを記録して以後、減少に転じた。山梨県小菅村では昭和五十年代初めに村内で養蚕をやっている家が一軒もなくなった。埼玉県嵐山町の吉田稚蚕飼育所は昭和四十三年(一九六八年)に始まり、人工飼料の時代を経て、平成九年(一九九七年)一月十九日、三十年の歴史を終えて春を待たずに解体された。

そして家が残った。ヤグラの載った二階建て。仕切りのない広い二階。忍者屋敷のような隠し階段。土室。桑置き場から二階へ直接上がれる広い階段。全部、いなくなった虫のためのつくりだ。

埼玉県が取材した上里町の元養蚕農家では、両親が養蚕をやめてから長い年月が経った今も、かつて桑畑だった場所に桑が一本だけ残っている。養蚕を営んでいた証として、父親が抜かずに残しておいたものだという。白い蚕がうごめく光景、ザワザワという音、触ったときのひんやりした感触、青臭い匂い、声を掛け合って走り回った記憶。それが桑一本に凝縮されている。

愛媛県西予市宇和町で最後まで蚕を飼っていた女性の言葉も引いておきたい。むかしはほんと良かったけぇ、私らも東京のほうまで行かせてもろぅたこともあるんやけど、いまはもう全然、やけんいつまで飼えるんやろぅ、でもやめな言いなはるまでは、もういっときは飼わないけんなぁと言いよるんやけど、私はいちばん若かったんですよ、私より若い人は宇和町にはおらなんだんですよ。

「私はいちばん若かった」。この一言が全部を言っている。

怪談三題――飼育所の廊下、瞽女の唄、掃き立ての一枚

さて、怖い話をする。

ひとつめは、記録者の名前がはっきりしている実話だ。

埼玉県嵐山町の吉田稚蚕飼育所での出来事を、小林武良という人が一九九九年一月に文章にしている。舞台は昭和四十年代のある夏の夜。七月下旬に初秋蚕の掃き立てが終わり、小林さんは機械係として飼育所に詰めることになった。機械係は二人一組で一昼夜勤務し、翌朝交代する。仕事は昼夜を通して二時間おきにボイラーを点検し、室内の温度と湿度を調整して記録すること。要するに、蚕のために眠らずに火を見張る役目だ。

その夜も稚蚕の飼育は順調だった。地下室は日に日に桑の量が増えるので、熱を持たないよう見回りも兼ねる。十二時近く、ボイラーを点検し、温度と湿度を確認して、ひと休みしようと床についた。すると、何者か、あるいは猫なのか、地下室の廊下をカタカタと渡り歩くような音が聞こえた。あれっと思って起き上がると、音が消える。しばらくすると、また。今度は廊下から階段を昇るような気配がした。念のため地下室を見回ったが、何の姿もない。

翌朝、次の出勤者と交代する。ところがその人も、深夜に同じような物音を聞いていた。奇怪な現象は何日か続き、飼育所内はその話でもちきりになった。ここで組合長が機転を利かせる。「今晩一ぱい飲んで清めよう」と役員一同に呼びかけ、夕方に酒が用意された。役員ほか皆で酒を飲みながら語り合い、それがそのまま所内の祓いを兼ねた。するとその夜から、奇怪な物音はぴたりと止んだ。

小林さんは最後に、飼育所が宗心寺の地内にあり、近くに墓地が多く散在していたことを添えている。そして「古き良き時代の夏の夜の物語り」と結ぶ。怖がらせようという書き方をしていないのがいい。二時間おきに起こされ、火の番をして、地下室で桑の熱を見ている人間が、廊下の音を聞く。それだけの話だ。それだけの話だからこそ、あの生活のリアリティが立ち上がる。

ふたつめは、伝承の形をした怖い話だ。

越後の瞽女は、盲目の女性の旅芸人集団である。三味線を弾き、段物や口説を語りながら村々を回った。彼女たちが特に厚く迎えられたのが、群馬・埼玉・栃木の北関東と米沢地方だった。理由がはっきりしている。養蚕が盛んで、蚕繭の増産を瞽女に期待する信仰が深かったからだ。

具体的にどうしたか。長岡瞽女研究の第一人者である鈴木昭英の記述によれば、冬旅で関東に行くと、養蚕農家が蚕の種紙を差し出して、それに向かって歌ってくれと頼む。瞽女はめでたい「お棚口説」を歌う。夏の養蚕期に訪れると、農家は瞽女を蚕室へ導いて、蚕棚の下で歌わせる。蚕は三味線の音が大好きで、その音を聞くと桑の食い方が盛んになり、丈夫に育ち、よい糸を出して収穫が上がるとされた。三味線の糸を蚕棚や蚕籠に縛りつけたり、撥を蚕棚に結びつけて増産のまじないにする風もあった。長岡の妙音講に集まった瞽女たちは、瞽女小路の露店で白木の箸を買い、本尊の弁天に供え、経や唄に合わせたうえで旅に携え、養蚕農家に配った。この箸で蚕を扱えば丈夫に育つといって珍重されたという。蚕棚の間に良い布団を敷いて寝てもらう家もあった。

福を運ぶ人として迎えられた、ということだ。瞽女は村の外から来る来訪神、いわゆるマレビトとして扱われた。ところがこの構図には、必ず裏面がついてくる。福を運べる者は、福を引き上げることもできる。だから伝承にはこういう形のものが現れる。瞽女を門口で追い返した家の蚕が全滅した。宿を貸さなかった家が原因不明の火事で焼けた。施しを惜しんだ地主の翌年の養蚕が壊滅的な不作に終わった。

ここは冷静に見ておきたい。この種の話は、瞽女が制度的な保護を失い、門前で冷たくあしらわれるようになった明治中期以降に色調が変わってくる。歓待の時代の話と、拒絶の時代の話では、伝承の意味がまるで違う。つまりこれは、共同体が誰かを排除しはじめたときに、その罪悪感が「祟り」の形で言語化された記録として読むのが正確だと思う。祟るのは瞽女ではない。追い返した側の後ろめたさだ。

そして瞽女への差別が実際にあったことは、地元でもはっきり語られている。水上勉の『はなれ瞽女おりん』とその映画化以来、この主題は繰り返し扱われてきた。福の神扱いと差別は、同じ村で同時に成立していた。

みっつめは、現代のネット怪談だ。これは実話ではない。作り話として読まれることを前提に流通しているものである。そのうえで紹介する価値がある。

近年、匿名の語り口で書かれた養蚕怪談がいくつも投稿されている。中でもよくできているのが、上信の県境の山村を舞台にした「掃き立て」という短い話だ。昭和の終わりに養蚕をやめた土地で、一軒だけまだ蚕を飼っている家がある。その蚕室のいちばん奥に、簀が一段だけ別に組んである。桑が一枚も載っていない。なのに白いのは動いていて、他の段より肥えている。食わせていないのかと訊くと、「あれは、こっちのもんは食わん」と返ってくる。上蔟のときも全部は繰らない。奥の段からひとつだけ、煮ずに梁へ吊るす。理由を訊いても「順が来るまでじゃ」としか言わない。

語り手はその晩、下の座敷で寝かせてもらう。夜通し頭の上でざあざあ鳴っている。慣れれば悪い音じゃない。ところが真夜中、それが一斉に止む。何千という口が示し合わせたように同時に止まって、しんとした中に一箇所だけ音が残る。桑をやっていない、奥の段だ。ざり、ざり、と、葉を食う音ではない。もっと固いものを削る音。朝になって上がってみると、奥の段の白いものはみな繭になりかけていて、手を入れると温かい。蚕は変温動物で、気温より高くなる道理がない。ひとつに黒い筋が透けていて、糸に絡まっている。後日、語り手は県の蚕糸統計を十九年分並べる。この集落の分だけ、毎年きっかり一枚ぶん繭が多い。掃き立てた覚えのない一枚が、どこかから繭になって出てくる。

うまいのは、統計を使うところだ。掃立枚数と収繭量という実在の行政統計を怪談の証拠に据える。そして「蚕は変温だ」という飼育者なら誰でも知っている事実を、たった一行のホラーに変える。この作者は、養蚕の音と温度がどれだけ怖いかを正確に理解している。ちなみに岩手県遠野市の伝承園にある御蚕神堂、千体のオシラサマを祀る堂は、心霊スポットとしてネットで語られることがある。桑畑からすすり泣きが聞こえる、「糸をくれ」という囁きが聞こえる、といった噂だ。証拠は当然何もなく、風の音や桑の葉の影を、知識に引きずられて解釈しているだけだろう。だがそういう噂が生えること自体が、この主題の持つ引力を示している。

ネットは「お蚕様」をどう扱っているか

現代のインターネットにおける蚕の扱われ方は、はっきり二つに割れている。

ひとつは「かわいい」の系統だ。幼虫は白くてすべすべしていて、成虫はもふもふしている。おとなしくて噛まない。虫が苦手な人でも蚕だけは触れる、という声は多い。実際、飼育体験に参加した人の記録には、最初の年は触ることもできなかったのに今は蚕部屋で百枚以上シャッターを切っている、といった感想が並ぶ。

もうひとつは「業が深い」の系統で、こちらのほうがネットでは強い。理由は蚕の生物としての特異さにある。九州大学や北海道大学、農研機構の解説を突き合わせると、こうなる。蚕はおよそ六千年前に中国で野生のクワコを家畜化したものだ。幼虫は桑の葉がなければ、もらえるまでその場から動かない。餓死するまで待つ。桑の木に放しても、腹脚が退化していてしがみつけず、風で枝が揺れれば落ちる。落ちたら這い上がれない。体が白いのは、飼育者が見失っても目に留まりやすいためだと考えられている。つまり保護色の逆をやっている。外敵から身を守る手段も攻撃手段も持たない。成虫には翅があるが、品種改良で体が重くなって飛べない。口が退化していて何も食べられず、長くて十日ほどで死ぬ。改良された品種は自力で繭を破って出ることさえできず、人間が繭の両端を切って助け出してやる必要がある。交尾は放っておくと五、六時間続き、何日も繋がったまま弱って死ぬこともあるので、人間が引き離す。そのとき雌の腹をひねって離すことから「割愛」という言葉が生まれた、という説がある。

これがネットで刺さっている。飛べない蛾、食べられない口、逃げない幼虫、破れない繭。人間なしでは一日も生きられない生き物を、人間が六千年かけて作った。しかもその生き物を、家に上げて、畳を剥がして、神と呼んで、最後に煮る。「業」という言葉が出てくるのは当然だと思う。

そしてSNSや考察系の言説には、いくつか繰り返し出てくる主張がある。ひとつは「お蚕様という敬称は日本人のアニミズムの表れだ」というもの。もうひとつは「金色姫伝説はうつろ舟伝説の原型だ」というもの。三つめは「蚕神信仰は日本古来の土着信仰である」というものだ。

正直に言って、どれも部分的にしか当たっていない。

一つめについて。敬称は確かにアニミズム的な感受性と無関係ではないが、それだけでは説明が足りない。同じ村で牛や馬や鶏に「さま」を付けていたかというと、付けていない。蚕にだけ付いたのは、蚕が家の全財産を左右し、しかも極端に死にやすかったからだ。群馬の「オカイコは身上がけ」という言い回しがすべてを説明している。信仰の濃度は、リスクの高さに比例していた。むしろ経済的な話である。

二つめについて。金色姫が茨城県大洗町に伝わる「うつろ舟」伝説の異国の女性のモデルになったのではないか、という説は確かに存在する。桑の木のうつぼ舟に乗せられて漂着する姫と、円盤状の舟で漂着する謎の女性。構図は似ている。ただし金色姫の話は室町の『戒言』に遡り、うつろ舟の記録は江戸後期のものだ。影響関係の可能性はあるが、証明されてはいない。「原型だ」と断定するのは行き過ぎで、「漂着する異国の女性という語りの型が、この地域に繰り返し現れる」くらいが妥当なところだろう。

三つめについて。これはかなり怪しい。蚕神信仰を体系的に整理した阪本英一が二〇〇八年に指摘しているとおり、蚕神は信仰の始まりから曖昧で、宗祖も教団組織も存在しない。そして蚕神信仰は養蚕の発展とともに広がり、およそ一世紀の間「流行り神」のように広まったが、養蚕業の終焉より前に姿を消した、というのが実態に近い。つまり多くの蚕神は、古代から連綿と続く土着信仰ではなく、近世後期から明治にかけて養蚕バブルとともに急速に増殖した、比較的新しい流行神だということだ。埼玉の石碑調査でも、蚕神の石碑が最も多く建てられたのは明治時代である。狭山市の蚕影神社も「幕末から明治にかけて養蚕が盛んだった頃に創建されたと思われる」とされている。

さらに言えば、養蚕信仰は組合という近代的な組織とも結びついていた。埼玉の記録によると、昭和期には養蚕実行組合などの団体が、組合の設立記念や稚蚕共同飼育所の建設に合わせて碑を建てるケースが増えた。祭典をやることで組合員の結束を固める狙いもあったと考えられている。相模原の津久井では、県が主導した養蚕振興の指導員だった人物が、地域に蚕影信仰が広がっていることを知り、大正十年頃から養蚕組合の結束と豊作を願う守護神として蚕影神社を再興し、大正十一年ごろに金色姫の鋳造の御神体を配りながら地域の信頼を得ていった、という経緯が推定されている。信仰が産業政策とセットで敷設されている。

「古来からの神秘」ではなく、「近代産業が必要としてわざわざ作った神」だと考えたほうが、実態にはずっと近い。そしてそのほうが、はるかに怖い。

なぜ虫が神になったのか

最後に、この話がなぜ怖いのかを整理しておきたい。

ひとつめ。人間と虫の主従が逆転しているからだ。座敷の畳を上げ、家族が廊下や土間の隅で寝て、消毒の日は蔵で飯を食う。学校を休んで世話をする。夜中に起きて桑をやる。火鉢の番をして一酸化炭素で倒れる。この関係は、どう見ても人間が虫に仕えている。しかも仕えている相手を、人間が完全に作り替えて、人間なしでは生きられなくしている。飼っているのか、飼われているのか、はっきりしない。ある養蚕農家は「お蚕さんに食わせてもらっているようなものだから」と言っていた。それは謙遜ではなく、事実の記述だ。

ふたつめ。禁忌が人を選別する装置になっていたからだ。喪中の者を入れるな。葬式帰りは近づくな。月経中の女は入るな。妊婦は見るな。よそ者は上げるな。中国の「関蚕門」に至っては、ひと月まるごと村を閉ざす。蚕を守るという名目で、共同体が誰を排除できるかのラインが引き直される。そしてそのラインは、たいてい弱い側に向かった。労働の主力である女性が、自分の職場から締め出される。旅する盲目の芸人が、追い返された挙句に「祟る者」に格上げされる。禁忌は虫を守るための技術であると同時に、人を分けるための道具でもあった。ここを見ないで「昔の人の素朴な信仰」で片づけるのは、記録として不誠実だと思う。

みっつめ。この生業が、殺生の上に成り立っていることを、当事者が最後まで誤魔化さなかったからだ。彼らは繭を煮る。生きた蛹を熱で殺す。それを知ったうえで「殺蛹乾繭者」と自ら名乗り、その名前で碑を建てた。雹で桑が全滅すれば、生きた蚕を掘った穴に埋めて、その上に碑を建てた。現代の農家は「ありがとう」と「ごめんなさい」の両方を口にし、落とし所をつけるべきじゃないとまで言う。逃げていない。

そして、これが蚕を神にした本当の理由だと思う。神と呼ばないと、殺せなかったのだ。相手を神として遇し、家の中心に据え、敬語で呼び、札を貼り、猫の絵で守り、団子を供える。そこまでやって初めて、その相手を最後に煮て糸にすることに耐えられる。「おかいこさま」という言葉は、愛情の表現であると同時に、免罪符でもあった。

そう考えると、この話のいちばん怖い部分が見えてくる。家じゅうを明け渡し、人間が土間で寝るという極端な献身は、単なる経済合理性でも素朴な信仰でもない。取り引きなのだ。ここまで尽くしたのだから、あなたを殺すのを許してほしい、という取り引き。禁忌はその契約の条項で、供養碑はその領収書だ。

蚕がいなくなって五十年が経った。契約の相手はもういない。だが、ヤグラの載った家も、山の中の蚕霊塔も、鼠除けの猫の札も、まだ残っている。誰も回収に来ない領収書が、日本中の田舎に立っている。

「さま」を付けるのはタダだ、だから敬語が厚くなる

ここまで書いてきて、いちばん引っかかっているのは「敬語」だ。

日本語には、対象を持ち上げる装置がいくらでもある。「お」を付けて「さま」を付ける。それだけで、ただの虫が「おかいこさま」になる。この操作の恐ろしいところは、コストがほぼゼロだということだ。畳を上げて廊下で寝るのは重い負担だが、敬語を使うのはタダである。にもかかわらず、この二つは必ずセットで現れた。負担が重い相手ほど、敬語が厚くなる。負担が重いことを納得するために、敬語が要る。因果はおそらく逆で、「大事だから敬った」のではなく「敬わないと続けられなかった」のだと思う。

同じ構図は、蚕以外にも見つかる。日本の生業には、殺生を伴う職業ほど供養碑が立つという傾向がある。針供養、人形供養、鯨塚、鳥獣の慰霊碑。依田賢太郎の指摘によれば、明治維新以降の殖産興業で動物が資源化され、業種ごとに細かく分けられた結果、慰霊や供養の対象となる動物の種類と量が拡大し、供養の主体も従来の講中や村落有志から業界団体へと移っていった。つまり近代の産業化こそが、供養を大量生産したのだ。蚕霊供養塔が昭和期に急増するのは、この流れの中にある。信仰が近代に負けて消えていったのではない。近代が信仰を必要として増やしたのである。

もうひとつ、書きながら考えていたことがある。養蚕の禁忌の相当部分は、後から見れば合理的な衛生管理だった、という点だ。よそ者を入れない。臭いを持ち込まない。生臭を避ける。手を清める。壊れた器具を使わない。これらは全部、感染症対策として理にかなっている。蚕は膿病、軟化病、硬化病、微粒子病といった病気に極端に弱く、一つの蚕室が全滅することも珍しくなかった。だから「見知らぬ人を蚕室に入れるな」は、外部からの病原体の持ち込みを断つ実務的な措置として機能した。『天工開物』の「養忌」も、骨を焼く煙や石炭の煙が蚕を殺すと書いているが、これは実際に一酸化炭素や亜硫酸ガスの害を経験的に掴んでいたのだろう。

問題は、その合理が「穢れ」という言語で表現されてしまったことだ。原理を知らないまま結果だけを掴んだ人々は、それを説明するために手持ちの語彙を使うしかなかった。手持ちの語彙とは、血の穢れ、死の穢れ、火の穢れ、である。そして一度その言語で表現されてしまうと、合理の届かない領域にまで禁忌が拡張していく。月経中の女性を締め出すことに、衛生上の根拠は一切ない。だがそれは「血」であり、当時の観念では「不浄」だった。だから同じ棚に並べられ、同じ強度で守られた。

これは笑えない。現代でも起きていることだからだ。理由の分からない相関に、手持ちの物語を当てはめて説明した瞬間、その物語は本来の範囲を超えて暴走する。禁忌というのは、要するに「うまく言語化できなかった経験則」の墓場である。そしてその墓場には、必ず誰かが理不尽に埋められている。

最後に、地域差についてもう一度触れておきたい。同じ「おかいこさま」でも、土地によって信仰の顔がまるで違うことは、しつこいくらい強調しておきたい。茨城は金色姫の漂着地を三つの神社が競い合う、伝説の本場である。群馬は猫絵と鼠薬師と絹笠明神とオシラサン、そして雹害の記憶を刻んだ蚕影碑。埼玉は蛇の絵馬と荒神様と養蚕ネズミ札、そして「クワッカブレ」に耐えて働いた女性たちの記憶。新潟は猫又権現と瞽女唄。山梨は「おぼこさん」という柔らかい呼び名と、火鉢と紙張幕という執拗な保温技術。長野は岡谷の蚕霊供養塔と、野麦峠を越えてきた飛騨の工女たち。岩手は桑の木で作られたオシラサマ。愛媛の宇和町には、最後の一人になるまで蚕を飼い続けた女性がいた。

この多様さは、養蚕が全国一律の技術ではなく、それぞれの土地の気候と地形と屋根の形に合わせて別々に発達した生業だったことの証拠だ。赤城型、榛名型、島村式、高山社式。屋根が違えば、風の通し方が違い、風の通し方が違えば、蚕の育ち方が違い、蚕の育ち方が違えば、祈る相手も変わる。信仰は空から降ってくるものではなく、屋根の形から生えてくるものらしい。

そして今、その屋根の下に虫はいない。二階は物置になり、桑畑は杉になったり果樹園になったりコンニャク畑になったりした。全国で二百戸ちょっと。この数字が示しているのは、産業の終わりだけではない。人間が家を明け渡してまで仕えた相手を、人間の都合で解雇したという事実だ。蚕は自力では生きられない。桑がなければ、その場から動かずに餓死する。逃げも隠れもしない。神と呼ばれ、家を明け渡され、そして必要とされなくなったとき、その神は自分では一歩も動けなかった。

蚕時雨は、もうほとんどの家で鳴っていない。雨の音がして目を覚まし、雨戸を繰ったら道が乾いていた――そんな怪談が書かれてしまうのは、その音を覚えている人がまだ生きているうちだけだ。あと二十年か三十年で、この音は完全に記憶から消える。そのとき、ヤグラの載った家だけが理由も分からないまま残る。禁忌も、猫の絵も、丘に埋められた蚕も、意味を失って地面に残る。

怪談として一番怖いのは、たぶんそこだと思う。祟りでも幽霊でもない。誰も理由を説明できなくなった構造物が、静かに立ち続けていることだ。

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