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女が継ぐと祟る――沖縄の位牌「トートーメー」、四つの禁忌が壊した家族の記録

旧暦七月十三日の夕暮れ。沖縄の家の玄関先で、線香の煙が細く立ちのぼる。ウンケー、先祖のお迎えだ。門の前で火を灯し、家のなかへ導いていく。仏壇の前まで来ると、そこに横長の箱みたいなものが据わっている。

本土の位牌を思い浮かべていると、たぶん面食らう。黒くて細長い、一本立ちのあれではない。沖縄のそれは横に広い。上下二段の棚があって、短冊みたいな細い札が何枚も並んでいる。札の一枚一枚が、死んだ誰かだ。曽祖父、その父、その母、名前も顔も知らない先の先。それが横一列にずらりと並んで、こちらを向いている。

これがトートーメーだ。琉球のことばで先祖を指す語がそのまま位牌の呼び名になった。ウチナーイフェー、沖縄位牌ともいう。ここに札を連ねられた霊は、七代を経ると個としての名を失って、家を守るカミになるとされてきた。だから沖縄の仏壇は、仏教の道具でありながら、実質は先祖という神さまの祭壇に近い。

そしてこの横長の箱には、恐ろしいほど厳しい掟が張りついていた。

誰が継いでいいか。誰が継いではいけないか。誰の札を並べていいか。並べてはいけないか。破れば祟る、と言われてきた。病気、事故、離婚、事業の失敗、子が生まれない、生まれても育たない。家に起きた不幸のほとんどが、この箱をめぐる違反のせいにされた時代がある。しかも「昔の話」で片づけられない。二〇二〇年代に入ってからの新聞アンケートでも、位牌を継いだ人の八割は男だった。

沖縄のいちばん柔らかい部分を、いちばん硬い禁忌が締めつけてきた。その話をする。

横長の箱の中身

まず、物としてのトートーメーを見ておきたい。ここを押さえないと、なぜ「重ねてはいけない」だの「混ぜてはいけない」だのという話が出てくるのかが分からない。

沖縄の位牌は、複数の死者を一つの筐体に収める仕様になっている。細い木の札が並び、上段と下段に分かれる。誰をどこに置くか、順番はどうするか、そこに家の秩序がそのまま反映される。位牌が一つ、家系が一つ。つまりこの箱は、家の設計図であり、同時に登記簿でもあった。

対して、個人だけを祀る位牌もある。カライフェー、唐位牌と呼ばれるやつだ。こちらは故人一人の霊を祀るもので、戦前は離島を中心に広く使われていた。カライフェーには、後で述べるような重い禁忌がついてこない。同じ「位牌」と訳される物でも、意味の重さがまるで違う。

そしてトートーメーが置かれる家は、決まっていた。ムチスク、宗家である。分家がそれぞれ勝手に先祖代々位牌を持つことはできない。本家に一つ、そこに親族が集まる。だから位牌を継ぐというのは、木札を引き取ることではない。年に何度も人が押し寄せる家を引き受けるということだ。清明祭には門中の墓に一族が集まり、旧盆には仏壇の前に人が来る。旧暦の一日と十五日の拝み、法事、旧正月。位牌を継ぐ人間の家は、年間を通じて親族の集合場所になる。

もう一つ、家のなかにはトートーメーと対になる神さまがいる。台所のヒヌカン、火の神だ。こちらは表の血筋の話ではなく、暮らしの守り神で、世話をするのは主に台所に立つ人、つまり多くの場合は女だった。ヒヌカンを新しく立てるときは、実家や夫の実家の香炉から灰を三つまみ分けてもらってくる。塩と味噌を少し添えてもらう。血ではなく灰でつながる神さま、と言ってもいい。

面白いのは、ヒヌカンには「女が担ってはいけない」という発想がまるでないことだ。むしろ女が担うのが普通だった。同じ家のなかで、台所の神は女が守り、仏間の先祖は男しか継げない。この非対称が、後の論争の火種になる。

一つめ、チャッチウシクミ

四つの禁忌のうち、まず長男に関わるものから。

チャッチウシクミ。嫡子押し込みと書く。長男を差し置いて、別の誰かが位牌を継ぐこと。これがいちばん基本の違反とされた。

言い換えると、長男には継承権があるのではなく、継承義務があった。継ぎたくない、と言えない。本土に出て就職している、事情があって家と折り合いが悪い、宗教が違う、そういう理由で降りることが原則として認められない。長男が生きているかぎり、その名は位牌に載らなければならない。次男が実家に残って親を看取り、墓の草を刈り、旧盆の準備を全部やっていたとしても、位牌は東京にいる長男のものになる。

これがどれだけ理不尽な結果を生んだかは、少し想像すれば分かる。実際に親の面倒を見ている人間と、祭祀の正統な担い手がずれる。しかも位牌の継承には、実務として金と時間がかかる。年忌の法要を主宰し、墓を管理し、行事の費用を出す。負担は実際に家にいる者にのしかかり、名義だけが遠くにいる長男に残る。

逆のパターンもきつい。長男に継がせるために、長男の人生のほうを曲げる。進学先を県外にさせない、就職で島を出させない、結婚相手に「長男の嫁」であることを最初に飲ませる。女性史の研究者が講演で指摘しているのは、まさにこの点だ。長男の進学が制限され、結婚後には男児を産むことを求められる。誰かが困る形の伝統を、伝統だからという理由で続けていいのか、と。

そして、長男を飛ばして継いでしまった家に何かあれば、原因はここだと名指しされる。子が病気になった、家業が傾いた、事故が続いた。順番を狂わせたからだ、と。

二つめ、チョーデーカサバイ

次は兄弟の話。

チョーデーカサバイ。兄弟重ねとも訳される。兄弟の位牌を、一つのトートーメーに並べて祀ってはいけない。

これは字面だけ見るとピンとこない。兄弟なんだから一緒でいいじゃないか、と思う。だが位牌が家系の設計図だと考えると意味が変わる。一つの位牌に並ぶのは、縦に一本つながった系統でなければならない。父から子へ、子から孫へ。そこに兄と弟が横に並ぶと、系統が二本になる。二本になった時点で、それはもう一つの家ではない。

だから次男以下は、本来は自分の家を立てて、自分の位牌を新しく始めなければならない。分家である。ところが次男が結婚もせず子もないまま死ぬと、行き場がなくなる。この場合、本家のトートーメーの左脇に、永代脇位牌という形でそっと祀られることになる。本体の列には入れない。あくまで脇。

つまり、独身のまま死んだ男は、家系図の本文に載れない。脚注の位置に置かれる。ここには、生殖によって系統をつなぐことを唯一の価値とする冷たい発想が、かなりむき出しの形で残っている。

そして重ねてしまった家には、やはり不幸の説明が用意された。兄弟が仏壇のなかで場所を取り合っている、押し合っている、だから子孫の間でも争いが起きる。実際に兄弟仲が悪い家があれば、原因はそれだと言われる。仏壇のなかの並びと、生きている人間の関係が、そのまま鏡になっているという理屈だ。

三つめ、タチーマジクイ

三つめが、おそらく現実にいちばん多くの家を追い詰めたやつだ。

タチーマジクイ。他系混じり、他系交り。父方の血筋以外の血を、位牌に混ぜてはいけない。

養子はだめ。婿養子はもっとだめ。再婚した相手の連れ子もだめ。母方のいとこもだめ。血がつながっていても、父系でたどれない血はよその血だ。この一線が、四つのなかでも最も硬いとされてきた。

何が起きるか。娘しかいない家は、そこで詰む。娘に婿を取っても、婿は他系だから位牌を継げない。娘の子、つまり孫は、父方をたどれば婿の家の血になる。だから孫も継げない。結果として、父方の親戚のなかから男児をもらってくるしかない。自分の子ではない子に、家と位牌を渡す。それが嫌なら、家は断絶するしかない。

この選択を迫られた家が、戦後の沖縄には無数にあった。実の娘と孫が家に住んでいるのに、位牌は親戚筋から来た男の子のものになる。娘は自分の実家で、よその子のために御願の支度をする。そういう構図が普通にあった。

そして、混ざってしまったと判断された家では、シジタダシが行われた。筋正しである。ユタに相談し、血筋が正しくない、位牌を持つべきでない人が持っている、と判じてもらう。そこから位牌の作り直し、札の入れ替え、継承者の変更が始まる。この作業に親族全員が巻き込まれる。誰が正統で誰が違うのかを、霊的な判定によって決め直すのだから、揉めないほうがおかしい。実際に、シジタダシをきっかけに親族関係が修復不能なほどこじれた例が、当時の投書欄には並んだ。

四つめ、イナグガンス

最後が、いちばん有名で、いちばん激しく争われたものだ。

イナグガンス。女元祖。女が位牌を継ぐこと、あるいは女を元祖として新たな位牌を仕立てること。これが禁じられた。

娘しかいない家で、娘が親の位牌を継ぐ。これができない。母が死んで、その位牌を娘が引き取る。これもできない。継いだ瞬間に、その位牌は女を起点とする系統になってしまうからだ。

未婚のまま亡くなった娘の扱いは、さらに厳しい。トートーメーの列には当然入れない。かといって放置もできないので、新しく別の位牌を仕立てて祀ることになる。その置き場所が、家の表ではなかった。台所の隅にそっと祀られた、と伝わる。仏間ではない。人目につく場所でもない。生涯を終えた一人の人間の記憶が、家の裏側に片づけられる。

女が継げない理由として語られたのは、およそこういうものだった。女は嫁いで他家の人間になるから、家の系統を持ち出すことになる。女が継げばそこで血が切れる。女が拝んでも先祖には届かない。どれも根拠らしい根拠はないが、根拠がないからこそ強い。反論のしようがないのだ。

そして最後に、いつも同じ台詞が来る。女が継ぐと祟る。

破ったら何が起きると言われたのか

四つのどれを破っても、返ってくる説明はだいたい同じだった。祟りである。

祟りの中身は具体的だ。子が病む。事故に遭う。夫婦が別れる。商売がうまくいかない。子が生まれない。この不幸のリストは、要するに人生に普通に起きることを網羅している。だからどんな家にも必ず当てはまる。当てはまった瞬間に、原因は位牌に求められる。

もう一つ、ウグヮンブスクという概念がある。御願不足。子孫の拝みが足りない、という意味だ。これが厄介なのは、上限がないところだ。拝んでも拝んでも足りないと言われうる。当時の批判記事には、拝めば拝むほどウグヮンブスクと言われる、という嘆きがはっきり残っている。時間も金も、際限なく吸い込まれていく。

そして継承者を欠いたまま放置された位牌には、ヒジュルグヮンス、ヒジュルイフェーという名前がついている。ヒジュルは冷たい、の意。冷たくなった先祖。誰も線香を上げない位牌は冷え、冷えた先祖は障る、とされた。位牌じまいをためらう理由の相当部分は、いまでもここにある。捨てるのが怖いのではない。冷やすのが怖いのだ。

この災因論の設計が、実にうまくできている。不幸は必ず起きる。起きた不幸には必ず説明がつく。説明を受け入れれば儀礼と出費が発生し、拒めば次の不幸が待っていると告げられる。閉じている。逃げ道がない。

この掟はどこから来たのか

ここで一度、歴史をさかのぼる。というのも、こういう話をすると「沖縄には古来そういう習わしがあって」と言いたくなるのだが、実はそうでもないからだ。

位牌そのものは、十五世紀ごろに中国から琉球の王家へ伝わったとされる。つまり外来である。しかも最初に受け取ったのは王家であって、島じゅうの家々ではない。上から入ってきた文化だ。

決定的だったのは十七世紀後半だ。首里の王府が、家臣団を把握するために家譜、つまり公式の家系図を編纂させはじめた。一六八九年には系図座という専門の役所が置かれ、家譜の編纂と管理を担うようになる。家譜は二部作られ、一部は系図座に保管、一部は各家に配られた。五年に一度、仕次といって追加編集が入り、内容が更新されていく。生まれた、死んだ、役職が変わった、そういう記録が公文書として積み上がっていく仕組みだ。

そしてここが重要なのだが、この家譜を持っているかどうかが、身分そのものになった。持っている家は系持、士の身分。持っていない家は無系、百姓の身分。血筋を紙に書いて役所に登録できるかどうかが、社会階層を決めた。ちなみにこの琉球家譜は、令和七年に沖縄県所有分が国の重要文化財に指定されている。二十五冊の家譜と関係文書、系図箱まで含めての指定だ。

父系でたどれる系図を持つことが身分の証明になる社会。そこで生まれたのが門中である。ムンチュー。始祖を同じくする父系の血縁集団だ。士族層で発達し、本島の中南部を中心に広がって、のちに北部や離島にも及んでいった。門中の男たちは共通の唐名と、大和名の名乗頭を共有する。名前からして、どの系統かが分かるようになっている。

門中は墓も共同で持った。亀甲墓や破風墓の巨大なやつだ。糸満市にある最大級の門中墓は、面積五四〇〇平方メートル、約三四三六人が入る。想像しにくい規模だが、要するに数千人単位の親族が同じ墓に眠る。死んだらまず仮墓に置き、三年後に洗骨して本墓へ移す。八十歳以上まで生きた人や功労者は、洗骨を経ずに直接本墓へ入ることもあった。

血筋を紙で管理し、墓で束ね、位牌で家ごとに分節する。この三点セットが門中制度だ。四つの禁忌は、このシステムを維持するための整合性ルールだったと考えると、腑に落ちる。位牌に他系の血が入れば家譜と矛盾する。長男を飛ばせば系図の線がねじれる。兄弟を並べれば系統が分岐する。女が継げば、次の代で父系がたどれなくなる。四つとも、系図の書式エラーを防ぐための規則なのだ。

もともとは士族の制度である。ところが近代に入って、これが下へ広がる。明治の琉球処分を経て、一八九八年に沖縄でも民法と戸籍法が施行された。ここで、それまで慣習にすぎなかった門中的な家の観念に、法的な裏づけが与えられる。家督相続の制度である。長男が家を継ぎ、財産を継ぐ。国家の法律が、父系長男相続を正しいものとして追認した。かつて士族だけのものだった書式が、島全体の常識になっていく。

戦後、事情は反転する。日本本土では一九四七年に家督相続が廃止された。だが沖縄はアメリカの統治下にあり、新しい民法の親族相続編が適用されたのは一九五〇年代後半のことだ。法的な空白と時差が生じた。娘にも相続権があるという建前が制度として届くまでに、島には十年近い遅れがあった。

ここで妙なことが起きる。法律が父系長男主義を手放した戦後になって、祟りという語りのほうが強まったという指摘があるのだ。近年の女性史研究では、四つのタブーを犯すと家族や親族に病気や事故といった祟りがある、という言い方が戦後に流布したものとして扱われている。法の後ろ盾を失った規範が、超自然的な制裁を後ろ盾に付け替えた、という筋書きだ。

これはかなり示唆的だと思う。禁忌が古いから強いのではない。支えを失ったときにこそ、禁忌は怖い顔をする。

ユタが判じたこと

さて、その怖い顔を実際に人々の前に運んだのが、ユタである。

ユタは沖縄と奄美の民間の霊媒だ。霊的な問題や生活上の困りごとを相談され、原因を探り、対処を示す。神に仕えて村の公的な祭祀を担うノロとは役割が違う。ノロが御嶽で共同体の祭りを司るのに対し、ユタは個々の家、個々の人の運勢と吉凶を扱う。私的な領域の専門家である。

ユタになる過程には、カミダーリィと呼ばれる関門がある。幻覚をともなう無意識の行動、原因不明の不調、眠れない日々。最初は病気と区別がつかない。多くの人はそれを無視しようとするのだが、無視すると症状はいよいよ激しくなる、と語られてきた。この苦しみを通過して、ようやく判じる者になる。

ユタが下す判断をハンジ、判示という。判断事という意味だ。先祖の声を聞き、神の意思を感じ取ることで、問題の原因と解決策を導き出す。健康、家族関係、事業、結婚の相性、家相。相談内容は生活のほぼ全域に及ぶ。人が手を尽くしてなお決められないとき、最後の一押しをユタの判断に求める。この構図は現在でもさほど薄れていない。

沖縄には医者半分ユタ半分ということわざがある。半分は誇張だとしても、身体の不調と霊的な不調を地続きで捉える感覚は、生活のなかに深く入っていた。しかも相談者は一人のユタで済ませないことが多い。二人、三人と回って判断を聞き比べる。ユタ買いという。セカンドオピニオンである。

位牌の問題は、このユタの主戦場だった。家に不幸が続く、原因を知りたい、そういう相談が来る。そこでシジタダシが出てくる。血筋の筋を正す。位牌の継承が父系の原理からずれている、それが不幸の原因だ、と判じる。トートーメーを持つべきでない人が持っている、という一文で、一つの家の秩序が根本から組み替えられる。

ここが決定的に重い。ユタが判じるまで、その家に問題は存在しなかった。判じられた瞬間に、問題として立ち上がる。しかも解決には親族全員の協力がいる。位牌の作り直し、養子縁組の検討、継承者の変更、儀礼の実施。当事者一人で完結しない。だから家中が動員され、そこで意見が割れ、割れたまま何十年も残る。

沖縄の側にも、これへの批判のことばはちゃんとあった。ユタコーヤーヤ、チュオーラセーという言い回しがある。ユタを買う人は人々を争わせる人だ、という意味だ。ユタに頼る行為そのものが揉め事の種になるという、内側からの警告である。

そもそもユタは、歴史的に何度も弾圧されてきた。十八世紀の王府の政治家によるユタ禁止令。明治期の自治体レベルの禁止令。大正期にはユタ征伐という運動があった。昭和十年代の戦時体制下でも取り締まりを受けている。違法な存在として警察に拘束され、抑留された時期もある。それでも消えなかった。禁じられ続けたのに残った、というこの事実自体が、ユタが担っていた社会的機能の大きさを示している。

現代では、不安をあおって金を取るユタがいるという指摘もある。教育者や知識人のあいだでは迷信とみなされ、公の場では口にしない、という二重の態度も長く続いてきた。表では否定し、裏では相談に行く。この二重性が、問題をさらに見えにくくした。

位牌に折られた人生、三つ

ここからは、具体的な人の話をする。以下は供養業者や法律事務所に持ち込まれた相談事例、新聞のアンケートに寄せられた声などをもとに、個人が特定されないよう細部を組み替えて再構成したものだ。特定の家の記録ではない。ただ、こういう形の困りごとが実際に無数に積み上がってきた、という事実のほうは動かない。

一つめ。母を看取った三人姉妹の話。

父は早くに死に、母が女手ひとつで三人を育てた。長女も次女も三女も、それぞれ嫁いだ。母が亡くなり、さあ位牌をどうするかという段になって、三人とも動けなくなった。母の位牌を持って行ける先が、どこにもないのだ。嫁いだ家にはその家のトートーメーがある。そこへ実家の位牌を持ち込むのは、系統を混ぜることになる。実家に置いておこうにも、住む人がいない。

三人は途方に暮れた。親戚に相談すれば、父方の血筋から男の子を探そうという話になる。会ったこともない親戚の子に、母の位牌を渡す。それは違うだろう、と三人とも思った。だが三人とも、自分が継ぐという選択肢を最初から検討していなかった。女は継げない、というのが前提として体に入っている。継げないから困っている、という順番なのだ。

結局この家は、姉妹の誰かに子が生まれるまでという条件つきで、永代供養に預けることを選んだ。棚上げである。母を育ててくれた人として弔いたいだけなのに、弔い方を決めるのに何か月もかかり、親族に何度も説明し、最後は預ける形になった。姉妹の一人は、母が生きているうちにこの話をしておけばよかった、とだけ言ったという。

二つめ。実家にいる次女と、東京にいる長男の話。

長男は本土の大学へ行き、そのまま就職して結婚した。沖縄には盆と正月に帰るくらいだ。実家には次女が、離婚したあと子どもを連れて戻ってきて、母と同居している。日々の世話も、旧盆の支度も、墓の掃除も次女がやる。だが位牌の継承者は長男である。ここは誰も疑わない。

父の死後、長男が言った。自分が継ぐ以上、位牌は東京に持って行く、と。筋は通っている。継承者の家に位牌があるのが本来の形だ。ところが母がこれに強く反対した。位牌を家から出すのはよくない、と。トートーメーは宗家に据わっているものであって、動かす対象ではないという感覚だ。

話し合いの末、位牌は実家に残り、次女がアジカイグヮンス、つまり預かりの形で世話をすることになった。継承者は長男、実務は次女。次女の息子が大きくなったら、その子に渡すという含みもついた。

これで丸く収まったように見える。実際、丸く収まったほうの例だ。だが次女の立場からすると、名義のない責任だけが残る。継いでいないのに、位牌の前に毎日座る。行事のたびに親族が来て、次女が支度をする。何かあれば、拝み方が足りないのではと言われる。責任は無限で、権限はゼロだ。

三つめ。二十歳で荷が重いと言った青年の話。

父方の祖父が死に、長男である伯父が位牌を継いだ。ところが伯父が突然亡くなる。伯父には子がいなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、伯父の妹の息子、つまり当時十歳だった甥である。父系の原理からすると微妙な選択なのだが、ほかに男がいなかった。

十歳の子に位牌の話をしても分からない。母親が、息子が成人するまでという条件で預かった。そして十年が過ぎた。二十歳になった青年に、そろそろ継いでほしいという話が来る。青年は困った。継ぐということの中身を、彼はこの十年で見てきたからだ。墓の管理、年忌、旧盆、清明祭、親族の調整、そして金。しかも母は体調を崩して入院しており、祖母も高齢だ。実務を担ってくれる人がいない。

彼は荷が重い、と言った。当たり前だと思う。二十歳で数十人規模の親族行事の主宰者になれと言われて、はいと答えられる人のほうが少ない。門中の側からは反対の声が出た。それでも話し合いを重ね、最終的にこの家は墓を民間霊園に移し、位牌は位牌堂に預けて永代供養とすることを選んだ。

この三つに共通するのは、誰も悪意を持っていないことだ。長男も次女も母も青年も門中の人たちも、全員が「正しくやろう」としている。にもかかわらず、全員が損をしている。制度のほうが、いまの暮らしの形と噛み合っていない。それだけの話なのに、噛み合わないことの責任が個人の信心の問題にされてしまう。

もう一つ、別種の話も添えておきたい。二〇二二年に県内紙が実施したアンケートには、二十代の男性からこういう趣旨の回答が寄せられている。自分の家にトートーメーがあることを交際相手に打ち明けたら、それが別れる要因の一つになった、と。

継ぐことが重荷なのではない。継ぐ家に入ることが重荷だと相手に判断された。禁忌は、まだ生まれていない家族の形まで先回りして壊しにくる。

一九八〇年、島じゅうが位牌の話をした年

そして一九八〇年である。

同年二月四日、県内紙が「うちなー女」という連載企画を始めた。沖縄の女性たちの現実を扱う企画のなかで、位牌継承の慣習が正面から取り上げられた。女が継いでなぜ悪いのか、と。

これが、火をつけた。

新聞の投書欄が埋まった。賛成も反対も、体験談も反論も、どっと来た。娘しかいない家で親戚から養子を取れと言われ続けている、という訴え。ユタにシジタダシを言われて親族と絶縁した、という報告。逆に、伝統を壊すのかという怒り。位牌を継ぐ苦労を知らないくせに、という長男側からの声。テレビも雑誌も追いかけ、シンポジウムが開かれ、県内の女性団体が動いた。同年のうちに、この論争をまとめた本が新聞社から刊行される。副題が、女が継いでなぜ悪い。これがそのまま運動のスローガンになった。

なぜこのタイミングだったのか。背景はいくつも重なっている。

一九七二年の本土復帰から八年。核家族化と個人化が急速に進み、親族の濃密なつながりが暮らしの前提ではなくなりつつあった。国連の女性の十年のただ中でもあり、性差別の問題を言語化する枠組みが広く共有されはじめていた。そして沖縄では、七〇年代から女性史を掘り起こす動きが積み上がっていた。一九七四年に県の女性史研究会が組織され、聞き取り調査が始まっている。一九七九年には本土の研究者の講演をきっかけに、沖縄の女性史をひらくつどいが動き出した。土壌があったところに、新聞が火を入れた形だ。

論争の材料として、数字もあった。一九七七年に県内の団体が四九六人を対象に行ったアンケートでは、位牌を継ぐべき人について、長男に限るが三五・二パーセント、次男や三男でもよいが三四・六パーセント、娘でもよいが二〇・三パーセント。男系でなければという層が七割近くを占めていた。この数字が、慣習が現に生きていることを示す証拠として使われた。

論争は決着しなかった。というより、決着するような性質の問題ではなかった。制度を廃止する法律を作れば済む話ではないし、誰かを訴えて勝てば終わる話でもない。それでも、この年を境に決定的に変わったことがある。それまで口に出しにくかったことが、口に出せるようになったのだ。

女が継いでもいいのではないか。この一文を公の場で言えるようになった。言えるようになると、実際に継ぐ人が出てくる。継ぐ人が出てくると、祟らなかった事例が積み上がっていく。運動が直接に慣習を変えたというより、変えるための語彙を配ったと言ったほうが近い。

一九八三年には県内で婦人運動史の研究会が発足し、八六年には戦後の女たちを記録した本が出る。八八年には那覇の公民館の講座から、沖縄女性史を考える会が生まれている。トートーメー問題は、沖縄のフェミニズム運動の先駆けと評されることが多い。基地問題でも復帰運動でもなく、仏壇の前の木札から始まったというところが、いかにも沖縄的だと思う。

そして四半世紀後、二〇〇六年に県内紙が二〇一四人を対象に行った調査では、男性が継いだほうがいいという回答は三七・〇パーセントに下がり、どちらが継いでもいいが四二・七パーセントで上回った。三十年で、島の意識は確かに動いた。

法律は、どう扱ってきたか

法の話もしておく。ここは意外とあっさりしている。

日本の民法八九七条は、系譜、祭具、墳墓の所有権は、慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継する、と定めている。位牌は祭具にあたる。ポイントは、これらが相続財産と切り離されていることだ。遺産分割の対象にならないし、相続税もかからない。だから位牌をめぐる争いは、遺産分割調停とは別の土俵になる。

承継者の決まり方は三段構えだ。まず被相続人の指定が最優先。指定がなければ慣習に従う。慣習も明らかでなければ、家庭裁判所が決める。

ここで面白いのが、第二段階に慣習が正面から書き込まれていることだ。つまり沖縄の位牌継承慣習は、法律の外にあるのではなく、法律のなかに参照先として組み込まれている。長男が継ぐのが当地の慣習である、という主張は、法的に完全に無意味というわけではない。

ただし、裁判所は慣習を機械的に持ち出したりはしない。祭祀承継者をめぐる判断枠組みとして参照されることの多い平成十八年四月十九日の東京高裁決定は、承継者を決めるにあたって、被相続人との身分関係や生活関係、場所的な関係、祭祀を主宰する意思と能力、その他一切の事情を総合して判断すべきだとしている。血筋の順序ではなく、実際に誰が弔えるかを見る、という発想だ。

この基準でいくと、四つの禁忌はほとんど効力を持たない。長男だからという理由だけでは強くない。女だからという理由で外されることもない。実際に故人と暮らし、墓を守り、弔う意思と能力がある人が選ばれる。裁判所の目には、東京にいる長男よりも、実家で親を看取った次女のほうが承継者としてふさわしく映る可能性が十分にある。

一方で、沖縄には別の法的なねじれも残った。旧民法の家督相続制度は本土では戦後に廃止されたが、米軍統治下の沖縄では新しい親族相続法の適用が遅れ、昭和三十年代に入るまで旧制度の影響が残った。この時差のせいで、長男が位牌も財産も全部継ぐという理解が、法的根拠を失ったあとも実務感覚として残存した。長男は全部もらうものだと信じている長男と、法定相続分があると主張するきょうだいが正面衝突する。相続の現場でいまも起きていることだ。

しかも不公平は逆向きにも働く。位牌を継いだ側には、年忌法要や行事の主宰という経済的負担が実際に発生する。これは祭祀財産の話なので、遺産分割の計算には入らない。負担だけ増えて取り分は同じ、という状況が普通に起きる。だからこそ実務では、遺言書で祭祀主宰者を明記しておくことが繰り返し勧められている。慣習に判断を委ねると、その慣習の中身が家ごと地域ごとに違うせいで、かえって揉めるのだ。

法は、思ったよりずっと柔らかい。硬いのは法ではなく、親族の目のほうだった。

祟りの話を、いったん疑ってみる

祟ったという話は、いくらでもある。

位牌を女が継いだ家で、翌年に長男が事故に遭った。他系から養子を取った家で、子が続けて病んだ。長男を飛ばして次男が継いだ家で、商売が傾いた。仏壇の位置を動かした家で、家族が立て続けに倒れた。どれも具体的で、どれも語り手にとっては切実だ。

だが、この種の語りには構造上のからくりがある。

まず、不幸は誰にでも起きる。事故、病気、離婚、失業、不妊。これらは統計的にありふれている。ある家に十年のあいだ何一つ悪いことが起きない、という状況のほうが珍しい。つまり、どんな家を選んでも、原因として使える不幸が必ず見つかる。

次に、探されるのは違反したあとだ。順番が逆になっている。不幸が起きてから、原因になりそうな違反を探す。探せば必ず何か見つかる。位牌の並びが少し違う、拝みの回数が足りない、香炉の向きが違う、墓の掃除が去年より遅れた。この家は完璧に正しい、という判定が出ることは事実上ない。仕様として、常に何かが間違っていることになっている。

そして反証が数えられない。女が継いで何も起きなかった家は、話にならない。話にならないから語られない。語られないから記憶に残らない。祟った例だけが選択的に流通する。数十年にわたってこの選別が続けば、祟りは実際より圧倒的に高い頻度で起きているように見える。

さらに言えば、位牌をめぐって家族が対立した家では、その対立そのものが不幸を生む。誰が継ぐかで揉めた家は、揉めたことによって関係が壊れ、支え合いを失い、精神的にも経済的にも消耗する。そこで誰かが体を壊せば、それは祟りとしてカウントされる。原因と結果が入れ替わっているのだ。禁忌が不幸を防いだのではなく、禁忌をめぐる争いが不幸を作った。

別解釈もある。四つのタブーの中身は、家ごと地域ごとにかなり違う。本島中南部では厳しく、北部や離島ではずっと緩い。門中の結合の度合いも地域差が大きい。そもそも門中制度自体が士族由来で、庶民層に広がったのは近代以降だ。「沖縄の伝統」と一括りにできるほど均質なものではない。

しかも、これらのタブーは戦後に言葉の解釈が変わって固まったのではないか、という見方が研究者のあいだにある。前に触れたとおり、祟りという制裁がはっきり語られるようになったのは戦後だという指摘もある。制度の裏づけを失った規範が、超自然的な恐怖を借りて延命した。もしそうなら、いま我々が「古来の禁忌」だと思っているものは、せいぜい七十年か八十年の歴史しか持たない。

もちろん、だから信じている人が愚かだ、という話ではまったくない。まったく違う。この禁忌を守ってきた人たちは、家を守ろうとしていたのだ。先祖を粗末にすれば子孫が困る、というのは、共同体を維持するための真剣な知恵だった。飢饉も戦争も本土との断絶も経験した島で、親族のネットワークは生存インフラそのものだった。それを維持する装置として位牌があった。悪いのは、その装置が特定の立場の人だけを踏みつける設計になっていたことだ。

令和の現場では、何が起きているか

では、いまはどうなっているのか。ざっくり言うと、禁忌との正面衝突を避けたまま、システムのほうが静かに解体されつつある。

まず数字から。全国の改葬件数、いわゆる墓じまいは、二〇一二年度に約八万八千件だったのが、二〇二二年度には約十五万一千件になった。十年で一・七倍、過去最多である。公営墓地の五八・二パーセントに無縁墓があるという調査もある。この波は沖縄も例外ではない。門中墓のような数千人規模の共同墓を、いま新規に維持していける親族集団は多くない。

沖縄の現場では、墓じまいと仏壇じまいは別々に判断できるものとして扱われる。両方やる家もあれば、墓だけ整理して位牌は残す家もある。位牌の扱いだけでも選択肢は複数あって、寺社でお焚き上げする、ユタにヌジファーつまり抜魂を頼む、位牌堂で年ごとに預かってもらう、永代供養に出す、遺骨とともに手元で祀る、といったやり方がそれぞれ選ばれている。費用の相場は、位牌一つの永代供養が数万円、位牌堂の一時預かりが年に数万円、閉眼供養のお布施が数万円、仏壇の引き取りが数万円から十万円弱といったところだ。金額としては、家一つの数十年分の心理的負債を精算する値段としてはずいぶん安い。

トートーメーだけ残して仏壇は処分する、逆に個人位牌だけ残して先祖代々位牌は手放す、そういう部分的な整理も普通に行われている。近年よく勧められるのが過去帳への移行だ。先祖の名前と続柄を帳面に書き写し、位牌そのものは供養して手放す。過去帳には四つの禁忌がついてこない。引き出しにしまっておける。誰が持っていても叱られない。記録としての機能だけを残して、呪縛の部分を落とす。うまいやり方だと思う。

儀礼のタイミングにも工夫がある。ユンヂチ、閏月の年に位牌や墓のことを動かすとよいとされてきた。旧暦の閏月は暦の上で日が定まらない期間とされ、この時期は先祖や神さまの目が届かないから、多少の変更をしても障りがないという理屈だ。七夕も同じくヒナーシ、日無しとして扱われることがある。要するに、禁忌を破るのではなく、禁忌が効かない日を選ぶ。真正面から否定せずに済む逃げ道が、慣習の内側にちゃんと用意されている。この柔らかさが沖縄の宗教文化のすごいところだと思う。

年中行事のほうも縮んでいる。清明祭は、二十四節気の清明の期間に門中の墓へ集まる行事だ。かつては数十人規模で墓前に集まり、豚の三枚肉、結び昆布、魚の天ぷら、かまぼこを詰めたウサンミの重箱を並べ、その場で分けて食べた。本土の墓参りが弔いの色を帯びるのに対し、清明祭はどちらかというと祝いの空気に近い。いまは仕出しの弁当やオードブルを使い、門中全体ではなく家族単位で、霊園のコンパクトな墓で行う形が増えている。

旧盆も同じだ。ウンケーで迎え、中日を挟み、ウークイで送る三日間。仏壇にはウンケージューシーを供え、サトウキビを先祖の杖として立てる。この形自体は残っているが、規模と担い手が変わった。

そして担い手の話が、いまの最大の論点になっている。二〇二二年に県内紙が五五三人から回答を得たアンケートは、かなり率直な数字を出した。位牌を実際に継いでいるのは、長男が六五・三パーセント、その他の血縁男性が一五・七パーセント。合わせて約八割が男だ。一方で、誰が継いでもいいと答えた人は五六・六パーセント。意識は開いているのに、実態は開いていない。

もっとえぐいのが、行事の実務の分担だ。料理の準備と後片づけを主に担っているのは、女性が八三・五パーセント。継承に身内で課題があると答えた人は五四・四パーセントで、その内訳は行事負担が大きいが五一・九パーセント、金銭的負担が三六・四パーセント。

寄せられた声も具体的だった。五十代の女性は、男性側は酒を楽しく飲めて楽しいようだが女性の立場としてはつらいの一言だ、と書いた。三十代の女性は、女性ばかりが台所で料理をして、男性のところに酒を持って行かされたり手伝いを強要されるのがとても嫌だった、と書いた。四十代の女性は、先祖崇拝や伝統の継承は大事だが、個人の考えがなおざりにされたり性別で負担に違いがあるのはおかしい、と書いた。

若い世代の結婚観にも影を落としている。パートナーの家にトートーメーがあることが気になると答えた人は五四・二パーセント。その理由として最も多く挙がったのが家事負担への懸念で九一・三パーセント、次いで親戚付き合いの負担が六九・七パーセント、経済的負担が四五・三パーセントだった。

つまり構図はこうだ。継承の名義は男に集中し、実際の労働は女に集中する。一九八〇年に問われたのは誰が継ぐかという名義の話だったが、令和に残っているのは誰が働くかという実務の話だ。名義の門は少しずつ開いたのに、台所の分担は驚くほど動いていない。県内紙の社説が、男女の協力が欠かせないと書いたのは、まさにここを突いている。

ユタの側にも変化がある。近年の調査では、親族の協力を必然的に要求するようなハンジを説かないユタが現れている。ある女性のユタは、格の高い神とも通じているので、神に願えば女の子が継いでも大丈夫なようにできる、と語ったという。禁忌を否定せずに、抜け道を霊的に保証する。家相を専門とするユタは、家に宿る神にだけ力を認め、御嶽や墓の祖先には不幸をもたらす力を認めないという立場を取り、祈りは家の住人だけが心を込めてやればいいと説いた。さらに踏み込んだ例では、祟りを一切認めず、相談者の問題を内面の問題として扱い、位牌の修正など具体的な宗教的実践を求めないユタもいる。

宗教のほうが、先に折り合いをつけにいっている。これは相当に面白い現象だ。禁忌を作った側の職能者が、禁忌を無害化する装置に変わりつつある。

なぜ、これほど効いたのか

最後に、この禁忌がなぜこんなに強かったのかを整理しておきたい。

第一に、これは信仰であると同時に身分制度の残骸だった。家譜を持つかどうかが士か百姓かを分けた社会で、父系の系図は財産であり、身分証明であり、社会的な信用そのものだった。系図の書式を守ることは、家の格を守ることだった。だから四つのタブーは、宗教的な禁止であると同時に、階層的な自己防衛でもある。信心の薄い人でも従う理由があった。

第二に、罰の担い手が国家ではなく親族だったこと。法律なら改正できる。裁判なら争える。だが親族の視線には改正条項がない。誰が言い出したのかも分からない。抗議する窓口もない。ただ、集まりのときの空気が少し変わるだけだ。この分散した罰は、逃れる方法がない代わりに、明確な加害者もいない。だから告発しにくい。

第三に、災因論としての設計が完璧だったこと。不幸は必ず起きる。違反は必ず見つかる。反証は数えられない。閉じた円環で、内側からは論理的に脱出できない。脱出できるとしたら、円環の外に別の説明体系を持ち込むしかない。近代医学だったり、法律だったり、フェミニズムだったり。一九八〇年に起きたのは、まさにその持ち込みだった。

第四に、この制度が確かに何かを守っていたこと。ここを無視すると話を見誤る。数千人が入る墓、年に何度も集まる親族、困ったときに助け合うネットワーク。位牌はその結節点だった。戦争で家族の記録を焼かれ、共同体をばらばらにされた沖縄で、先祖の名前が並んだ横長の箱は、自分たちが何者であるかを保証する数少ない物証でもあった。これを捨てられない気持ちは、迷信では説明できない。

そして第五に、負担の押しつけ先が固定されていたこと。名義は長男、労働は女。この配分が変わらないかぎり、システムは安く回る。誰かが我慢していることで成立する仕組みは、我慢する人がいなくならないかぎり延命する。逆に言えば、いま解体が進んでいる最大の理由は、思想が変わったからではない。我慢する人がいなくなったからだ。

旧盆の夕方、玄関先で線香が焚かれる。その光景そのものは、たぶんこれからも残る。残ってほしいとも思う。ただ、その火をつける人が誰であってもいい、という一点だけは、そろそろ本当に動いてもいいはずだ。

七代経てば、先祖は名前を失って神になるという。ならば逆に言えば、いま位牌に載っている人たちは、まだ名前を持っている。名前を持っている以上、彼らはかつて生きていた人間で、生きていた人間なら、自分の孫が自分の位牌のせいで泣くことを、たぶん望まない。

切り口を変えるたびに、この箱は別の顔を見せる

ここからは、記事本文で触れきれなかった論点をもう少し踏み込んで詰めていく。トートーメーという主題は、切り口を変えるたびに別の顔を見せる。順に見ていきたい。

まず、この禁忌を「沖縄の話」として閉じてしまうことの危うさについて。

日本本土の家制度も、構造としては驚くほど似ている。長男が家を継ぐ。墓を守る。分家は別に墓を立てる。嫁いだ娘は実家の墓に入らない。婿養子には特殊な処遇がある。仏壇は本家に据わる。全部、本土でも普通に見られる。違うのは、本土ではこれらが明文の法律だったということだ。旧民法の家督相続制度がそれを支え、戦後にその法律が消えた。法律が消えたので、規範は急速に建前を失った。もちろん実態としては今も長男が墓を継ぐ家が多いが、「そうしなければ祟る」とまでは言わない。

沖縄では順序が違った。法の裏づけを得るのが遅く、失うのも遅く、しかも失ったあとに祟りという別の裏づけが立ち上がった可能性がある。ここが本土との決定的な分岐点だ。本土の家制度は法とともに枯れ、沖縄の位牌制度は法を離れて霊的に自走した。同じ父系相続でも、その後の運命が違う。

そしてもう一つ、沖縄には二十七年間の米軍統治という中断がある。この期間、日本の法改正が自動的には届かなかった。復帰したときには本土がすでに二十数年ぶんの制度変化を済ませており、沖縄はその差分を一気に飲まされた。慣習と法の距離が、他県よりも大きく開いたまま復帰を迎えたわけだ。トートーメー問題が復帰から八年後の一九八〇年に噴出したのは、この差分が生活実感として耐えがたくなるまでにちょうどそのくらいの時間がかかった、と読むこともできる。

次に、四つのタブーの言語的な性格について。

チャッチウシクミ、チョーデーカサバイ、タチーマジクイ、イナグガンス。この四つは、実は表記も発音も一定しない。チャッシウシクミと書かれることもあれば、イナグァンスと縮まることもある。文献によって並び順も違う。四つで固定されたセットとして語られるようになったのが、そもそもいつからなのかも、はっきりしない。

これは重要な手がかりだと思う。本当に何百年も厳格に運用されてきた法典なら、名称はもっと安定していたはずだ。名称が揺れているということは、これらが口伝えの領域にとどまっていたか、あるいは比較的新しく体系化されたかのどちらかである。四つセットで語られる形式そのものが、論争の過程で整理された可能性すら考えられる。批判するために整理し、整理されたものが逆に「これが伝統だ」として一人歩きする。社会運動ではよく起きることだ。

つまり、いま我々が「沖縄の四大タブー」として読んでいるリストは、禁忌の内容そのものであると同時に、それを問題化した八〇年代の言説の産物でもある。この二重性を意識しておかないと、批判が対象を実体以上に強固なものとして描いてしまう。

三つめに、女性の位置づけの複雑さについて。

沖縄の宗教文化は、女性の霊力を高く評価する構造を持っている。ノロは女性の司祭者であり、村の公的な祭祀を担った。ユタも圧倒的に女性が多い。姉妹が兄弟を霊的に守護するというオナリ神の観念もある。家のなかではヒヌカンを女性が世話する。宗教的な力の所在という点で言えば、女性はむしろ中心にいた。

にもかかわらず、位牌だけは継げない。この矛盾は、しばしば見落とされる。沖縄が女性を霊的に低く見ていたから位牌を継げなかった、という説明は成り立たない。むしろ逆で、位牌の継承だけが宗教的な力とは別の原理、つまり系図の書式という官僚的な原理で動いていたのだ。

だからこそ、この禁忌は宗教の内側からは崩せなかった。祈れる、通じる、力がある。そのすべてを認めたうえで、それでも継げない。理由は霊性ではなく、書類だからである。系図座に登録された家譜と整合するかどうか、それだけの話だ。役所の書式が、数百年かけて祟りの姿に変わっていった。そう考えると、この禁忌の正体はかなり散文的で、だからこそ不気味だ。

四つめに、独身女性の位置について、もう少し。

未婚のまま亡くなった娘の位牌を、家の表に置けなかったという伝承は重い。位牌の列に入れないだけでなく、置き場所が台所の隅だったという。ここには、生殖によって系統をつないだかどうかで人間の記憶の格を決める、という原理がむき出しで現れている。

しかも同じ扱いは男にもある。独身で死んだ次男以下は永代脇位牌、つまり本体の脇に置かれる。だから性差別だけでは説明しきれない。この制度は、結婚して子を持ち系統をつないだ者だけを正規のメンバーとして扱う。男だろうが女だろうが、そこから外れれば脚注になる。

ただし、外れる確率が男女で違う。男は長男に生まれれば自動的に本文に載る。女は誰と結婚しようが実家の本文には載らない。しかも嫁ぎ先の位牌でも、載るのは夫の系統としてであって、彼女個人の系統としてではない。どこにも自分の名で載れない。この非対称が、独身女性に限らずすべての女性に効いていた。

そして現代では、この構造がまた別の形で人を追い込んでいる。生涯未婚率が上がり、子を持たない選択も広がった。位牌を継ぐべき長男がそもそも結婚しない、という事態が普通に起きる。系統をつなぐことを前提にした制度は、系統がつながらない社会では単純に動かない。禁忌が緩んだから位牌じまいが増えているというより、禁忌を維持する材料である子孫が足りなくなった、というほうが実態に近い場面も多い。

五つめに、ユタという職能の評価をどう定めるかについて。

本文では批判的な側面を多く書いた。シジタダシが家を割った、ウグヮンブスクに終わりがない、不安をあおって金を取る例がある。これらは事実として記録されている。だが、それだけでこの職能を切り捨てるのは乱暴だ。

ユタは、沖縄で長らく唯一の心理的ケアの担い手でもあった。精神科医療が乏しく、カウンセリングという概念もなく、戦争で家族を失った人が大量にいた社会で、話を聞き、原因の物語を与え、やるべきことを示す職能は、実際に人を救っていた。医者半分ユタ半分ということわざは、揶揄ではなく分業の記述だと読むこともできる。

問題は職能そのものではなく、その判断が親族全体を巻き込む形式を取っていたことだ。個人の苦しみに個人の物語で応えるなら、ユタは優秀なセラピストである。ところが物語が「あなたの家の位牌が間違っている」という形を取ると、途端に他人を巻き込む政治になる。相談者一人では解決できず、親族会議が必要になり、力関係の弱い者に負担が寄る。

だから、近年のユタの変容が意味深い。祟りを認めず、内面の問題として扱い、親族の動員を求めない。これは職能の放棄ではなく、機能の純化だ。政治の部分を捨てて、ケアの部分を残そうとしている。宗教が近代に適応するときの典型的な動きでもある。トートーメー問題が最終的にどこへ着地するかを占ううえで、この変化はかなり大きな指標になると思う。

六つめに、位牌じまいという行為の意味について。

墓じまいと位牌じまいは似ているようで違う。墓は物理的な負担が大きい。管理費、清掃、遠方からの移動。だから整理する動機がはっきりしている。位牌は小さい。場所も取らない。持っていること自体のコストは、ほぼゼロだ。

それでも位牌じまいが選ばれるのはなぜか。持っていることのコストがゼロでも、継ぐことのコストが巨大だからだ。位牌を持つとは、行事の主宰者になることであり、親族の集合場所を提供することであり、判断を求められる立場になることだ。物としては小さいが、役割としては巨大。この落差が、位牌じまいの本質だと思う。

だから位牌じまいは、先祖を捨てる行為ではない。役割を降りる行為だ。ここを混同すると、当事者が不必要に罪悪感を背負う。実際、永代供養に出した人の多くは、捨てたのではなく預けたのだと表現する。姉妹に子が生まれるまで、甥が成人するまで、条件つきの棚上げとして選ぶ例が目立つのも同じ理由だ。決定的な断絶を避けたまま、いまの自分の生活を守る。この折衷は、逃げでも妥協でもなく、かなり成熟した対処だと思う。

七つめに、これから何が起きそうかについて。

意識の数字と実態の数字が乖離している状態は、そう長くは続かない。誰が継いでもいいと考える人が半数を超え、実際の継承者の八割が男である。この乖離は、次の世代の相続が本格化する二〇三〇年代に一気に埋まる可能性が高い。埋まり方は二通りある。女性が継ぐケースが増えるか、そもそも継がないケースが増えるか。

現状の流れを見るかぎり、後者が優勢に見える。永代供養、位牌堂、過去帳への移行。継承者を決めずに済ませる選択肢が、これだけ整備され、価格も明示され、業者も揃っている。決めなければ揉めない。揉めなければ誰も傷つかない。合理的だ。

ただ、それで失われるものもある。位牌が担っていた記録機能、つまり自分がどこから来たのかを物として確認できる装置は、過去帳に移してもある程度は残るが、家に据わって毎日目に入るという性質は失われる。門中という広い親族ネットワークも、集まる理由を失えば急速に薄れる。都市部で孤立した高齢者が増えている状況を考えると、親族ネットワークの消失は単純な進歩ではない。

理想を言えば、記録と集まりの機能だけを残して、継承の強制と負担の偏りを外したい。技術的には可能なはずだ。過去帳をデジタル化して親族で共有する、行事を持ち回りにする、費用を分担する、料理は外注する。実際に県内紙のアンケートには、きょうだいで役割を分ける、料理を持ち寄る、外部施設を使うといった工夫がすでに報告されている。個々の家が、誰にも言われずにそれぞれ最適化を始めている。

最後に、この題材を扱ううえで自分が一番気をつけたことを書いておく。

怪異として消費しない、ということだ。位牌の祟りは、確かに怖い話の材料になる。実際、そういう文脈で語られてきた歴史も長い。だが、この禁忌に人生を削られた人たちは実在していて、その多くはいまも生きている。娘に生まれたというだけで実家の弔いから排除された人、長男に生まれたというだけで進路を狭められた人、養子として来て他系と言われ続けた人、位牌のために結婚が壊れた人。

彼らにとって、これは怪談ではない。生活だ。

だから、祟りの語りを紹介するときには必ずその反対側を書く必要があるし、禁忌を批判するときにはそれを守ってきた人たちの理由を書く必要がある。守ってきた人たちも、多くの場合、被害者だった。祖母から言われたことを母が守り、母から言われたことを娘に伝える。誰も設計していないのに、全員が実行している。それが習俗というものの厄介さで、同時に、変えられる余地でもある。

一九八〇年に誰かが新聞に、女が継いでなぜ悪い、と書いた。それだけで四十数年後の数字が動いた。仏壇の前で誰かが、うちはもうやめよう、と言う。それだけで次の世代の負担が消える。禁忌は、破られるたびに少しずつ薄くなる。破られても何も起きなかった、という事実が積み上がることでしか、この種の恐怖は解けない。

横長の箱には、まだたくさんの名前が並んでいる。名前を大事にすることと、名前に人生を明け渡すことは、別のことだ。その線をどこに引くかを、いま沖縄の家々が一軒ずつ、自分たちの手で決め直している。

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