意味の分からない言葉を、二百五十年ぶん丸暗記した人たちの話
長崎県平戸市に生月島という島がある。平戸島から橋を渡ればすぐ着く、人口六千人ほどの小さな島だ。捕鯨で栄えた島で、博物館に行くとクジラの骨がぶら下がっている。その同じ博物館で、着物を着た初老の男性が数人、正座して、意味の分からない言葉をひたすら唱える。三十分から四十分、よどみなく。途中で手を合わせ、胸の前で十字を切る。最後の三曲だけは節がついていて、歌になる。御詠歌のようでもあり、祝詞のようでもあり、どちらでもない。
これがオラショだ。祈りという意味で、語源はラテン語のオラティオ。十六世紀に宣教師が持ち込んだ祈りの文句が、そのまま口から口へ、四百年以上、島に伝わっている。ここまでなら「へえ、すごいね」で済む話なんだよな。怖いのはここからだ。唱えている本人たちが、その言葉の意味を知らない。知らないまま、二百五十年以上、一字一句を子に伝えた。間違えないように暗記して、間違えないように教えて、間違えないように死んでいった。
意味が分からないというのは比喩じゃない。島の信者は昔から、これを「唐言葉」と呼んでいた。異国の言葉ですたい、意味はまったく分からんですとー。そう答えていた記録が残っている。それでも唱える。唱えることそのものが務めだから。ここには、宗教とは何かという話を全部飛び越えてしまう、妙な迫力がある。私はこの話を初めて知ったとき、素直に背筋が寒くなった。そして同時に、たまらなく美しいと思った。その両方をこの記事で書ききりたい。
まず「潜伏」と「かくれ」でつまずくので、そこを片付ける
この話題、最初の関門が用語だ。潜伏キリシタンとかくれキリシタン。ほぼ同じ意味に見えるが、研究の世界では明確に分けている。禁教の時代、つまりおおむね十七世紀初頭から一八七三年まで、表向きは寺の檀家、神社の氏子の顔をしながら、こっそりキリシタンの信仰を続けた人たち。これが潜伏キリシタン。そして一八七三年に禁教が解けたあと、カトリック教会に戻らず、潜伏時代のままの信仰を続けた人たち。これがかくれキリシタンだ。
つまり一八七三年で線を引いている。それ以前が潜伏、それ以後もそのままやってる人がかくれ。長崎県と熊本県天草市は二〇〇七年からこの使い分けを徹底する方針を打ち出していて、天草市は世界遺産登録に向けて施設の表記も統一している。理由がまた身も蓋もなくて、明治以降の人たちを「隠れ」と漢字で書くと、明治以降も隠れて信仰していたかのような誤解を招くから、らしい。実際もう隠れてない。
表記も割れている。隠れ、かくれ、カクレ。漢字で書くと秘匿していた部分に重心が乗り、カタカナで書くと今日の隠れていない状態に重心が乗る。生月町博物館の学芸員として三十年以上この島を歩いてきた中園成生さんは、その折衷としてひらがなを使うと説明している。ちなみに島の人たち自身は、自分たちの信仰に固有の名前を持っていない。カトリックと区別する必要があるときだけ、向こうを新キリシタン、自分たちを旧キリシタン、あるいは古キリシタンと呼ぶ。外部が付けた別名もいろいろあって、生月と外海では古ギリシタン、天草では昔キリシタン、平戸では辻の神様、外海と五島では元帳や古帳。生月には「もんじゃもんじゃの仲間」という、ちょっと笑ってしまう軽い言い方もあった。彼らがオラショを唱えている、あのもごもごした様子から来た呼び名だという。
納戸の暗がりで、実際に何が起きていたのか
行事の日を追ってみよう。生月島の在方、つまり農村部の集落では、十数軒から数十軒を単位とする組がある。垣内、あるいは津元と呼ぶ。その組の御神体を預かっている家が津元で、その家の戸主が親父役だ。御神体は「御前様」と呼ばれる。普段は納戸の木箱にしまわれている。納戸というのは家の奥の、窓のない物置みたいな部屋だ。だから納戸神という言い方もある。
上がり様、つまり復活祭にあたる行事や、御誕生、クリスマスにあたる行事の日だけ、その木箱を台にして、幕を張った仮設の祭壇をこしらえる。そこに御前様を飾る。御前様の多くは「お掛け絵」という掛け軸型の聖画だ。聖母子像がいちばん多い。もとは一五九〇年代以降、セミナリヨの工房で大量に描かれて信者に配られたものが起源とされる。古くなるたびに描き写されて今に至っているので、絵の内容がだんだんおかしくなっている。生月島の館浦に伝わる受胎告知の掛け絵は、天使ガブリエルがマリアに懐妊を告げている場面なのに、マリアの懐にすでに幼子イエスがいる。まだ身ごもってすらいない場面なのに。何度も模写されるうちに描き足されたのだろうと考えられている。マリアの髪型は江戸時代初期に流行したかたちをしている。
御前様と一緒に飾られるものが二つある。ひとつが「お水瓶」。中江ノ島という無人島で汲んだ聖水を納めた鶴首の壺だ。もうひとつが「オテンペンシャ」。麻紐を束ねて片方を握れるようにしたもので、語源はポルトガル語のペニテンシア、贖罪。もとは苦行のための鞭だった。それが今は祓いの道具であり、同時に御神体でもある。病人の体を叩いて、病の原因とされる「悪いカゼ」を追い出すのに使う。
オラショを唱えるのは祭壇の前ではなく、座敷だ。まず神寄せをする。御方一体様、サンジュワン様、お屋敷様、ダンジク様、幸四郎様、サンミゲル様、子安の観音様、安満岳の奥の院様――キリスト教の聖人と、島で殉教した人と、仏教や神道の神様が、区別なく一列に並んで呼ばれる。次に申し送り。今日は何月何日の何の行事です、どうかお守りくださいと、神様に用件を申し上げる。ここで必ず添える一文があって、これがいい。「言い誤りは、まっぴらお許しください」。オラショは暗唱が原則で、当然、間違える。生月ではこれを「さやが詰まる」と言った。エレンジャ、つまり信者でない人がそばにいるとさやが詰まる、とも言われていた。
それから一通りが始まる。三十ほどの祈りを続けて唱える形で、早口でやっても四十分以上かかる。壱部と堺目では、十一カ条より前を「元」、それを含めた後を「先」と呼ぶ。小さい行事や個人の朝夕の祈りには「六巻」という短縮版を使う。逆に長くやる形もあって、「お七百」はキリアメマリアを七百回、「お千べん」はガラッサを千回唱える。オラショが終わったら、供え物のお下がりを食べる直会。それから二の膳を出しての宴会。祈願、直会、宴会の三部構成。年間行事は多い集落では四十回を超えていた。要するに、これは一年中飲み食いしている宗教でもある。そして、そのやたらと集まって酒を飲む形式そのものが、外から見て怪しまれないためのカムフラージュとしても機能していた。
帳方、水方、聞役――神父のいない教会を、素人だけで二百五十年回す
一六四四年、小西マンショという司祭が殉教した。日本にいた最後の神父だ。この年をもって、日本のキリシタンは専業の宗教者を完全に失った。ミサを立てる人も、告解を聞く人も、教義を教える人も、暦を決める人もいない。普通なら消える。実際、大半の地域では消えた。消えなかった地域は、素人だけで教会をエミュレートするという、正気じゃない方法を選んだ。
その中核が「組」だ。布教時代に宣教師が作った信心会、コンフラリアや、慈悲の組、ミゼリコルディアが原型になっている。そこに三つの役職を置いた。神を守り行事を執り行う役、洗礼を授ける役、行事の準備と連絡と会計をやる役。地域によって呼び名が違う。浦上村では惣頭、触頭、聞役。惣頭は村でひとりだけ選挙で選ばれる指導者で、教会暦と宗教書を持ち、祝日や教理やオラショを触頭に伝える。触頭は郷ごとにひとり、聞役は字ごとにひとり置かれ、末端の各戸へ降ろしていく。外海では帳方、水方、取次役。生月の壱部ではオヤジ役、オジ役、役中。名前は違うが構造は同じだ。
帳方の仕事がとにかく大事だった。教会暦の管理である。カトリックの祝日は太陽暦で決まるのに、当時の日本は太陰太陽暦だ。放っておけば毎年ずれる。外海と浦上系は「日繰帳」という長帳を持っていて、これで一年の祝日と忌日を管理した。バスチャン暦とも呼ばれる。日本人伝道士のバスチャンが師のジワンから暦の繰り方を習い、その秘伝を帳方が書き付けたものだと伝わっている。現存する日繰帳のひとつには「御出書以 千六百三拾四年」という記載があって、一六三四年の教会暦がもとになっている可能性が指摘されている。宣教師が全員いなくなる十年前だ。そこで時間が止まったまま、二百四十年ぶん繰り続けた。
生月は日繰帳を使わず、二十四節気を基準にした。立春に近い水曜が「悲しみの入り」、そこから四十六日後が「上がり」。上がりの一週前が「花」、上がりから四十日目が「四十日目様」、そこから十日目が「十日目様」、さらに三日目が「三日目様」。秋は冬至が基準で、冬至の前の日曜が「御誕生」。節気を軸にすれば太陽暦とのずれが小さくなる。誰も理屈を説明できないまま、この方式だけが正確に受け継がれた。
外海系の信仰の中心は行事ではなく、日々の禁忌を守ることだった。日繰帳に記された「よか日」に祝い事と法事をやり、「悪か日」あるいはゼジュンと呼ばれる日には禁を守る。悲しみの四十六日間と、御誕生から後の十三日間、そして毎週水曜と金曜と土曜は、肉と卵を食べてはいけない。祝日と日曜には、針仕事、釘打ち、肥いない――天秤棒で下肥を運ぶことだ――そして性交が禁じられた。カレンダーだけで信仰を保った、と言ってもいい。
お授け――十歳ぐらいの子の額に、島の水を三度
洗礼のことを、生月と平戸では「お授け」と言う。外海と五島では「角欠き」。洗礼を受ける子をヘコ子、代父母にあたる役をヘコ親と呼ぶ。生月では実の親の名前を洗礼名に、外海と五島では抱き親の名前を使った。洗礼名そのものを「アリマの名前」と呼ぶ地域もある。ラテン語のアニマ、あるいはポルトガル語のアルマ、つまり魂だ。
授け役には厳しい禁忌があった。依頼はふつう二週間前に受ける。それから授け役は、肥桶に触れてはいけない、牛に触れてはいけない。一週間前からは働いてはいけない。数日前からは性交も禁じられた。穢れを避ける発想は明らかに神道由来だし、働くなというのは日曜と祝日に働くなというキリスト教の教えの名残だろうと見られている。混ざっている。混ざったまま、精密に守られている。
聖水は特別な場所で汲んだ。生月島の東の沖に浮かぶ中江ノ島。ここは「サンジュワン様」「お迎え様」「お中江様」と呼ばれる。一六二二年と一六二四年に、この島で信者が処刑された記録がある。潮の流れが激しいので、遺体を袋に詰めて海に落とせば勝手に流れていく。だから処刑地に選ばれた。その岩壁から染み出す水を、茅の葉を伝わせて一升瓶に受ける。御爺役たちがオラショを唱えて魂入れをすると、それがお水になる。中江ノ島がサンジュワン様と呼ばれるのは、この島で殉教した洗礼名ジュアンの人たちにちなむとも、洗礼者ヨハネにちなむ聖地として殉教以前から崇められていたからだとも言われる。中園さんは後者の可能性を指摘している。中世ヨーロッパの巡礼では、キリストが洗礼を受けたヨルダン川の水に風を鎮める力があるとされた。生月では稲の風害を祈る「風止めの願立て」の行事のなかでお水取りをする。妙に符合するんだよな。
儀式そのものは、二〇二三年に五島市奈留島で五十一年ぶりに復元されている。前回は一九七二年八月。集会所で、水方と帳方と宿老の三役を潜伏キリシタンの子孫が務め、抱き親を中学一年生の男子が担当した。パンとぶどう酒の代わりに、刺身とごはんと酒の膳を用意する。三役が古井戸から聖水を汲む場面も再現された。水方がオラショを唱え、一歳の子の額に聖水を三度かける。所要およそ一時間。生月では乳児ではなく十歳ごろに授けるのが普通だったので、地域で違いはある。
洗礼のときに唱える文句は、一八六五年の記録に残っている。信徒発見の直後、浦上の水方ドミンゴが大浦天主堂を訪ね、自分たちが使っている言葉を神父に伝えた。「コノヒトヲ パオティゾ イン ノムネ パテロ、ヒリオ、エスラ スピリトゥ サンクト イヤムン」。神父はこれがラテン語であることを認めたうえで、欠落と訛りを指摘し、正しい文言を授けている。二百五十年、口伝えでこれだけ保ったとも言えるし、これだけ崩れたとも言える。
絵踏は、正月行事だった
ここが一番気が滅入る話だ。絵踏である。踏み絵は板や像そのもので、踏む行為が絵踏。長崎で始まったのは一六二八年、寛永五年、長崎奉行の水野河内守が始めたと伝わる。当初は転んだキリシタンを対象にした背教の証明だったが、一六六〇年代の寛文年間には対象が全領民に広がり、領民支配の一手法として制度化された。一六六九年、寛文九年には長崎奉行が本古川町の仏具師である萩原祐佐に命じて真鍮の踏絵を二十枚作らせ、これを九州の諸藩に貸し出した。つまり長崎奉行所が、九州のキリシタン取締りの権限を踏絵の貸出しで握ったわけだ。
そして十八世紀半ばには、これが長崎の正月行事になる。年中行事だ。奉行所では毎年旧正月に町順で絵踏をやる。一月三日に町年寄、四日から七日まで町民、八日には丸山と寄合両町の遊女。踏絵は当日の朝に奉行所の宗門蔵から貸し出され、乙名、組頭、日行使、さらに借家惣代までが立ち会う。町役人が一軒ずつ家を回り、主人から順に家族全員を呼んで、目の前で踏ませる。玄関の土間に続く部屋でやるのが普通で、外からも見えるようになっていた。歩けない乳飲み子は大人が抱いて足を下ろさせる。起き上がれない病人には、踏絵のほうを足に押しつける。当人の印形を台帳に取り、後から旦那寺の印形も取って、踏絵帳として奉行所に提出する。長崎市の野母には、明和三年から明治四年まで、二百六冊の絵踏帳が現存している。
丸山の遊女の絵踏は見世物になっていた。人気の遊女の素足が拝めるというので群衆が押し寄せ、遊女たちもそれを意識しておしゃれをして臨んだ。役人が源氏名を読み上げる順に、着飾った女たちが素足で聖画を踏む。終われば厄払いの盛大な祝宴。絵踏が終わらないと正月が来た気がしない、と思っていた人も多かっただろう。絵踏は春の季語にもなった。一八五八年、安政五年の日米修好通商条約締結で廃止されるまで、これが二百三十年続いた。
信者の側はどうしていたか。子どもに、できるだけ真ん中を外してそっと踏むんだ、と言い聞かせていたという話が伝わる。天草の崎津では、踏んだあとに足を丁寧に水で洗い、その水を粗末にせず飲用に使ったという。生月のオラショには「万事叶い給う」という詫びの祈りがあり、外海系には『こんちりさんのりやく』という小冊子があった。コンチリサンはポルトガル語で痛悔。司祭に告解できないとき、どうやって神の赦しを得るかを説いた本だ。一六〇三年ごろに出たとされるが刊本は見つかっておらず、写本が数種伝わっている。ザビエルがモルッカ諸島で司祭のいない信者に同じような小冊子を残した先例がある。絵踏のたびに家に戻ってこれを誦み、赦しを祈って「立ち返った」。片岡弥吉が各地のかくれの村を歩いて確かめたところ、この小冊子か祈りを持っていた村では信仰が生き続け、何かの理由でそれを失った村では信仰が次第に消えていったという。踏む前提で制度に組み込まれ、踏んだあとで赦しを求める仕組みまで用意されている。二百三十年ぶんの正月が、そうやって回っていた。
一揆が終わったあとに、本当に息の長い地獄が始まった
一六三七年、寛永十四年十月、島原で代官が殺された。天草でも呼応して蜂起が起き、両軍が合流して、廃城になっていた原城に籠もる。総勢はおそらく二万数千から三万七千。総大将は十六歳の益田四郎時貞、天草四郎だ。翌年二月末の総攻撃で原城は落ち、絵師の山田右衛門作ひとりを除いて全員が殺された。
この一揆をキリシタンの宗門一揆と見るか、松倉氏と寺沢氏の苛政に対する農民一揆と見るかは、長く論争になってきた。近年は両方を融合する見方が有力だ。ただ、ここで効いてくるのは、幕府が何と見たか、だ。幕府はこれをキリシタンの蜂起と受け取った。そして禁教政策を一気に硬直化させる。
一六四〇年、寛永十七年、幕府は宗門改役を置く。初代は大目付の井上政重。江戸小石川の彼の下屋敷が切支丹屋敷になった。一六六四年、寛文四年には諸藩にも宗門改の制度と専任役人の設置を命じ、各地で毎年宗門改帳が作られるようになる。一六七一年、寛文十一年には宗門人別改帳が法的に整備され、全国の藩に作成が義務づけられた。ここで宗門改は制度として完成する。武士も町人も百姓も、原則として特定の寺の檀家になり、その情報を寺に全部握られる。戸籍であり租税台帳でもあった。
もっと執拗なのが類族改だ。一六八七年、貞享四年に監視規定が定められ、一六九五年、元禄八年に類族の範囲が確定した。転んだ本人、転ぶ前に生まれた子は「本人同前」。転んだ後に生まれた子孫と姻族が「類族」。この人たちは死ぬまで名簿で管理される。出生、死亡、婚姻、養子縁組、転居、出家、すべて庄屋を通じて宗旨奉行に届け出る。死亡の場合は検視が要る。最終的に男系五代、女系三代の子孫までが類族とされた。豊後の岡藩や臼杵藩に残る類族帳を見ると、ひとりの「古切支丹」を起点に十八人、十九人、二十一人という単位で親族が書き上げられている。宝暦六年の類族寄御帳には、原村に住む類族が本人ごとにまとめられ、新たな死亡や出生が余白に書き足されている。
つまり、棄教したあとも百年以上、家系ごと監視される。これは信仰を摘発する制度というより、信仰の痕跡を持つ血筋を管理する制度だ。この空気のなかで、生月や外海の人たちは、寺の檀家をやり、神社の氏子をやり、絵踏をやり、そのうえで納戸の奥に掛け軸を隠していた。
オラショの中身を覗いてみる
具体的にどんな文句なのか。生月の一通りには、聖母マリアへの連祷から始まって、デウスパテロ(主の祈り)、ガラッサ(アベマリアの日本語訳)、マコトノ/ケレンド(使徒信経)、アワレミノオンハハ(サルヴェ・レジーナの日本語訳)、十のマダメント(十戒)、サンタエケレンジャのマダメント(教会の掟)、根本七悪、七悪に向かう七善、サカラメント、慈悲の所作、ビワビランサ(山上の八福)、万事叶い給う、ミジリメンデ(詩編五十一編のミゼレレ・メイ)、キリヤデンズ パチリノチリ(キリエと主の祈りのラテン語版)、アメマリヤ(アベマリアのラテン語版)が並ぶ。
面白いのは、主の祈りとアベマリアが、日本語版とラテン語版の両方で入っていることだ。布教時代にこの二つがどれだけ重視されていたかが分かる。ところがかくれの信者たちは、長い伝承のあいだに、日本語版とラテン語版が同じ祈りだということを忘れてしまった。別々の祈りとして両方唱えている。
「キリヤデンズ」はキリエ・エレイソン、主よ憐れみたまえ。「パチリノチリ」はパーテル・ノステル、われらの父よ。「ミジリメンデ」はミゼレレ・メイ・デウス、神よ憐れみたまえ。「アンメンジンス丸やさま」という文句もあって、これはアーメン、ゼズス、マリヤ様が転訛したものだと宮崎賢太郎は説明している。天草の崎津では、一八〇五年の天草崩れで取り調べを受けた指導者が、諏訪神社に参るときも寺に参るときも「アンメンリユス」と唱えます、と述べた記録が残っている。アーメン・デウス、あるいはアーメン・ゼウスだろうと考えられている。
もっと厄介なのが、教理そのものがオラショ化している部分だ。根本七悪から山上の八福あたりは、本来は祈りではなく『どちりな・きりしたん』に載っていた教理の説明文だ。それを黙唱しているうちに、祈りになってしまった。教義を説明する文章が、意味を失って、唱えるための音になる。この変質の仕方は、正直、かなり不気味だと思う。
そして見逃せないのが、この文句が現代のカトリックの祈りとは全然違う一方で、一六〇〇年刊行の『おらしょの翻訳』や、一五九一年と一六〇〇年に刊行された『どちりな・きりしたん』のなかにほぼそのまま見つかる、という事実だ。一八八六年、平戸に赴任した外国人神父が報告書にこう書いている。昔の祈りや儀式が一番よく保存されているのはおそらくこの生月であろう、ラテン語は少し変形していたが、どの祈りかすぐに分かった、と。変わったのは彼らではなく、こちら側だった。
歌になる三曲――グルリヨーザ、ラオダテ、ナジョウ
一通りの最後に、節がつく。これが唄オラショだ。生月島にしか残っておらず、男性だけが唱える。壱部と堺目に伝わるのが「ラオダテ」「ナジョウ」「グルリヨーザ」。山田には「ウグルリヤ」という御前様の唄のほかに、日本語の歌詞を持つ「中江ノ島様(サンジュワン様)の唄」と「ダンジク様の唄」がある。これらが、日本に伝わった最初の西洋音楽の生き残りとされている。
グルリヨーザの歌詞はこうだ。ぐるりよーざ どーみの/いきせんさ すんでらしーでら/きてや きゃんべ ぐるーりで/らだすで さあくらをーべり。これは十六世紀のイベリア半島で歌われていたマリア賛歌「オ・グロリオザ・ドミナ」で、日本語にすると、輝ける聖母よ、星空越えてはるかに居ます御母よ、汝を造られた方を御胸により、清き乳房もて育まれた、となる。加藤武の訳だ。「らおだて」は詩編の「ラウダーテ・ドミヌム」、すべての国よ主を讃美せよ。「なじょう」はシメオンの賛歌「ヌンク・ディミッティス」、今こそ御言葉に従い。この二曲は第三旋法に属していてほぼ同じ旋律を持ち、終止音だけが違う。口伝だけで伝えた結果、ある地区では二曲を同じ旋律で歌っている。二百六十年やって、その程度のズレで済んでいるという言い方もできる。
習得の方法がまた徹底している。昭和初期ごろまでは、春の悲しみの入りから上がりまでの四十六日間に、師匠を立てて口伝えで教わった。元触には入山、中上げ、下山という三段階があり、口慣れする、つまりオラショを覚えきるまで、夫婦の交わりが禁じられていた。堺目では師匠の家で毎日二時間。前日習った分を座敷に座って唱え、師匠は横座から聞いて確かめる。壱部では一通りを唱えられるようになった人をゴショウ人と呼んだ。学校だ。四十六日間の集中講義で、意味の分からない外国語を四十分ぶん、丸暗記させる学校。
スペインで死んだ歌が、島で生きていた
一九七五年、立教大学の皆川達夫が生月島を訪れた。西洋音楽史、それも中世とルネサンスが専門の研究者だ。長崎市で合唱団を指導していたとき、団員の県職員から「キリシタンの面白い歌がありますから、聞きにゆきましょう」と誘われた。かくれキリシタンの知識はほとんどなかったという。翌日、集落の行事に同席する許しを得て、オラショを聞いた。日本語と分かる部分がある一方、まったく意味不明の箇所も多い。尋ねると、これは唐言葉ですたい、意味はまったく分からんですとー、と返ってきた。皆川はそこで、これはラテン語が訛ったものではないか、と直感する。
そこから二十八年かかる。まずオラショの言葉を全文ラテン語に復元し、歌オラショを竹井成美の協力で五線譜に起こす。ラオダテとナジョウの原曲はわりあい早く比定できた。問題はグルリヨーザだ。現行の聖歌集のどこにもない。ローマのバチカン図書館を重点的に、何度も何度も調べた。収穫なし。ヨーロッパ各地の図書館を歴訪した。
七年目の一九八二年十月、スペインのマドリード国立図書館で、それらしい十六世紀の聖歌集の書名をカードで見つける。司書から本を渡された瞬間、これに相違ないと直感したという。震える手で一頁ずつ開いていく。一五五三年にグラナダで刊行された楽譜のなかに、探していたマリア賛歌があった。歌詞も旋律も一致した。
それは世界中に流布している標準的な聖歌ではなかった。十六世紀のスペインの一地方だけで歌われていたローカルな聖歌だった。十七世紀に入るとイタリア系の同名の聖歌がイベリア半島に入ってきて、そちらに置き換わり、地元では歌われなくなった。文書のなかにだけ残って、実演としては絶えた。ところが、その絶えるより前に、この地域出身の宣教師が日本の離れ小島に持ち込んでいた。そして海禁と禁教によって、島は外の変化から完全に遮断された。皮肉にも、鎖国と弾圧が、この歌を冷凍保存したわけだ。皆川はスペインの図書館の一室で立ちすくんだ、と書き残している。
この発見は、かくれキリシタン研究そのものをひっくり返した。それまでの通説は「禁教期変容論」だった。宣教師がいなくなったので信仰内容がどんどん変容し、仏教や神道と習合して原型から遠ざかった、という見方だ。一九八八年刊行の『日本宗教事典』にもその趣旨の記述がある。ところがオラショは変容していなかった。むしろ変容したのは本場のほうだった。中園さんはこう言っている。宣教師がいなくなったことで、信者たちはどこをどう変えていいか分からなくなり、それまで伝えてきた形を忠実に継承することしかできなかった、と。教義を管掌して儀礼を創造できる専業宗教者がいない。だから何も変えられない。弱点が、そのまま保存装置になった。
島が自分で作った歌――サンジュワン様とダンジク様
輸入品ばかりではない。山田集落には、潜伏期に島の人が自分で作ったとしか思えない唄オラショが二曲ある。
ひとつが「サンジュワン様」。中江ノ島で殉教した洗礼名ジュアンの人たちを悼んで作られた歌だ。一六二二年五月二十二日、ジョアン坂本左衛門とダミアン出口が中江ノ島で斬首された。遺体は袋に詰められて海に投げられた。六月八日にはジョアン次郎右衛門が殉教する。処刑地に近づいたとき、ここからパライソはもうそう遠くない、と言ったと伝わる。七月二十二日にはジョアン雪ノ浦次郎左衛門とパウロ塚本。一六二四年には彼らの家族も死罪になった。歌の内容は、前には海、後ろには切り立った岩壁、前も後ろも潮が流れて止まない、今の世ではキリシタンは桜の花のように散っていく、しかしいずれ来る春には信仰のつぼみが花開くだろう、というもの。かばねをば中江の島に埋めてぞ、世界の果てまで名をぞとどむるぞや、という二行を最後に加える説もある。
もうひとつが「ダンジク様」。ジゴク様とも呼ばれる。ジゴクは洗礼名ディエゴの訛りだろうと言われている。ディエゴの弥市兵衛とその家族が追手から逃れ、暖竹の茂みに隠れていたが、子どもが泣き出して見つかった、あるいは炊事の煙で見つかった、という伝承がある。一月十六日が命日とされ、今もその日に参詣がある。歌の大意はこうだ。さあ、パライゾの寺に参ろう。パライゾの寺は広いとは言うけれど、その門が狭いか広いかは私の信仰にかかっている。ああ柴田山よ。今は涙が先に来るような世であるが、先の世には助かる道が待っているだろう。この「柴田山」という地名が、生月近辺にどこにも存在しない。謎のまま残っている。おそらく永遠に分からない。
ダンジク様の聖地には船で行くほうが速いが、決して船で行かない。祟りがあると信じられている。パライゾ、天国、散る桜。中園さんは、この二曲は信者の葬送の際に歌われた挽歌だった可能性があると指摘している。
「サンタマリアの御像はどこ?」――一八六五年三月十七日の数分間
一八六五年、元治二年二月、長崎の外国人居留地に大浦天主堂が完成し、献堂式が行われた。表向きは居留外国人のための教会だが、パリ外国宣教会の神父たちの本当の目的は別にあった。プティジャン神父は正面に日本語で「天主堂」と掲げている。日本人信者の存在を意識していた。
献堂から約一カ月後の三月十七日午後、男女子どもあわせて十数人が門の前に立った。プティジャンが門を開けて聖所へ進むと、彼らもついてきた。神父が少し祈っていると、四十歳から五十歳くらいの女性がひとり近寄ってきて、胸に手をあてて囁いた。ここにおります私どもは、全部あなた様と同じ心でございます。どこから来たのかと尋ねると、私たちは浦上村の者で、浦上ではほとんどの人が私たちと同じ心を持っています、と答え、すぐに続けた。サンタマリアの御像はどこ、と。
プティジャンはこの日の出来事をフランス語で書き残しているが、この一言だけはローマ字で音を写している。それだけ衝撃だったのだろう。彼はその瞬間に確信した。自分は今、日本の昔のキリシタンの子孫を目の前にしている、と。神父は彼らを聖母子像の祭壇に案内した。堂内に人の気配がすると、彼らはすぐ四方に散った。まだ禁教下だ。この女性はイザベリナ杉本百合、杉本ゆりだったと言われている。
彼らが確信を持てた理由がまた、伝承の力を物語っている。浦上には三つの言い伝えがあった。七代たったら神父様がローマから船で来る。その神父様は独身である。サンタマリアの御像を持って来る。この三つが揃った。もとになったのは、外海に伝わるバスチャンの四つの予言だ。皆を七代までわが子とする。その後は告白を聞いてくれる神父が大きな黒船でやって来て、毎日でも告白ができるようになる。どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる。道で異教徒とすれ違うとき、相手が道を譲るようになる。バスチャンの殉教が一六五九年とされ、そこから七代、およそ二百三十年後に、この予言は現実になった。
ローマ教皇ピオ九世はこの報せを「東洋の奇蹟」と呼んだという。三月十七日はカトリック教会の記念日となり、信徒発見百五十周年の二〇一五年からは「日本の信徒発見の聖母」の祝日になっている。
明治六年、高札は消えた。それでも戻らなかった人たち
奇蹟のあとに来たのは、最悪の弾圧だった。一八六七年、慶応三年、浦上村で信徒たちが檀那寺の聖徳寺を通さず自分たちで葬儀を行う事件が続き、ついに庄屋に対して自分たちの信仰を表明する事態になった。同年六月、長崎奉行は百七十人の部下を秘密の教会堂に突入させ、高木仙右衛門ら六十八人を捕縛する。
幕府が倒れても状況は変わらなかった。明治政府は一八六八年の五榜の掲示でキリシタン禁制を再確認する。同年、木戸孝允が長崎に派遣され、中心人物百十四名を津和野、萩、福山に流した。一八七〇年には男子七百人とその家族も送られ、最終的に三千三百九十四名が二十藩に配流された。津和野では、改心しない者を三尺牢という九十センチ四方の箱に閉じ込めた。五島でも一八六八年十一月、久賀島の「牢屋の窄」と呼ばれる二十平方メートルほどの空間に約二百人が八カ月押し込められ、四十二人が死んでいる。
浦上の流配で亡くなったのは六百人を超える。生きて帰れたのは二千九百人あまり。この五年間を、彼らは「旅」と呼んだ。帰ってきた者たちが二、三人集まれば、それぞれの流配先の話に花が咲いたという。あれは旅に出ていたのだ、と。この言い方が、たまらない。
一八七三年、明治六年二月二十四日、太政官布告第六十八号によってキリシタン禁制の高札が撤去された。一六一四年の全面禁教から二百五十九年。ただし政府は、外国に向けては解禁を声明したが、国内向けにはキリスト教を解禁したとは言わなかった。三月十四日、各藩に信徒の釈放を命じる。
さて、ここからだ。潜伏キリシタンの多くはカトリックに復帰した。浦上はほぼ全員が合流し、一八七九年に浦上天主堂を建てた。伊王島では次々に復活し、一八八四年に馬込のかくれも全員が洗礼を受けた。福岡の今村は一八八一年に全員合流。だが、戻らない人たちがいた。生月島では、ほとんど誰も戻らなかった。
理由はいくつか挙げられている。ひとつは仏壇と神棚の問題だ。カトリックに合流するには、それらを破却しなければならない。先祖を祀っている仏壇を壊せと言われて、はいそうですかとはならない。もうひとつは、信仰組織がムラとイエの共同体と分かちがたく結びついていたこと。かくれの信仰は農耕儀礼であり、病気平癒の祈りであり、村の年中行事だった。日常生活のほぼ全部に食い込んでいたので、宗教だけ差し替えるということができない。さらに平戸藩は禁教令が出るずっと前から独自に取り締まっていたので、逆に幕府の監視が他地域ほど厳しくなく、比較的オープンに信仰を維持できていた。切迫感が薄かった、とも言える。
そして、たぶん一番大きいのは、彼らにとってこれが「キリスト教」ではなく「先祖が守ってきたもの」だったことだ。宮崎賢太郎が聞き書きしたある信者の言葉が引かれている。先祖たちが大切にしてきたものを、絶やすことなく守り続けるのが子孫としての大切な務めであり、自分の代で絶やしてはならない。宮崎はこれを、形を変えた先祖崇拝だと言う。教義を信じているのではない。継承そのものを信じている。
一九四九年、枢機卿の前でも、彼らは頷かなかった
証言をいくつか置いておきたい。まず、いちばん古い話から。
一九四九年、ザビエル渡日四百年で日本は熱狂に包まれた。ローマ教皇特使として、教皇に次ぐ地位にあるギルロイ枢機卿が来日する。枢機卿は教皇ピウス十二世の親書を携えていて、生月の信者代表らと面会し、信仰組織全体でカトリックに改宗するよう諭したとされる。カトリックの最高幹部が、直接、頭を下げるに等しい場を設けた。それでも生月の人々は、自分たちの信仰を変えなかった。この面会があったという事実は、公式記録から消されている。
小学館ノンフィクション大賞を受けた『消された信仰』という本のなかで、著者はこの謁見の場に臨席していたという老人の親族に会い、その最期を聞き取っている。老人が亡くなったとき、その右手は、まるで十字を切ったあとのように、親指が胸の上に立てられていたという。何を思ってその場で首を横に振ったのか、もう誰にも分からない。ただ、最後まで自分の側の作法で死んだ、ということだけは確かだ。
二人目。生月島北部に住む川崎雅市さんは、二〇一八年に取材を受けたとき六十八歳だった。祭壇に向かって正座し、手を合わせ、胸の前で十字を切って、静かに語りかけるようにオラショを唱える。おんはは、サンタマリア、と。朝に一日が無事でありますようにと祈り、夕方に一日が無事に終わりましたという感謝の気持ちで祈る、最近は朝早く起きるのはきついけど、と彼は言う。かつては早朝の礼拝や多数の行事への参加が求められ、信仰は厳格だった。若者には大変だったと思う、と振り返る。一緒に行動する信徒はどんどん減り、十年ほど前からは行事を一人で続けている。先祖の教えだから自分の代で終わらせたくないけど、実際に続けていくのは厳しい。そう言ってうつむいた。家を出た息子には、洗礼を受けさせていない。
三人目。壱部集落の谷本雅嗣さんは一九五六年生まれ。二〇二三年の取材時点で六十七歳、壱部に残るオラショの演者四人のうち三人が七十代で、彼が最年少だ。後継者を作ろうにも、若い人に声をかけても志望者は一人もいない。オラショを唱える機会も年に数回、年配者の法事の場ぐらいになった。谷本さんが小中学生だったころは、正月の行事や秋の収穫祭の寄り合いで、オラショを唱える大人が大勢いた。幼少のころに洗礼を受けた記憶があるが、その洗礼の儀礼も三十年ほど前になくなった。理由が生々しい。オラショの寄り合いでは食事の準備などで女性に大きな負担がかかる、でも今は女性も外で働く時代だから、と。二〇二五年の海外通信社の取材でも彼は同じことを言っている。この時点で私たちが最後になるのが怖い、この伝統が自分たちの世代で終わるのは悲しい、と。
四人目。五島市奈留島の柿森和年さんは、二〇二三年時点で七十七歳。潜伏キリシタンの子孫で、途絶えていたお授けの復元を主導した。奈留島は一八〇〇年前後に外海から潜伏キリシタンが渡って開いた島で、一九六〇年ごろには人口九千人のうち七割弱が子孫だった。それが過疎で行事ごと消えた。柿森さんは、お授けを生で見た世代への聞き取りを進めてきたから復元は今しかなかった、と語っている。潜伏キリシタン文化は建造物だけじゃない、信仰を代々受け継いできた精神性を伝えることも大事なんだ、と。
五人目は研究者側から。皆川達夫は、二〇二〇年に九十二歳で亡くなる直前まで生月と付き合った。オラショの研究でイタリア共和国功労勲章を受け、七十六歳で博士号を取り、九十歳になってから「難解に過ぎる」という読者の声に応えて入門書を書き直した。研究の総括として彼が残した言葉がある。音楽には人のこころを救い癒す力がある、歌オラショには信仰を死守する力もあった。長崎市出身の作曲家である大島ミチルは、皆川が企画構成したレコードでオラショを知り、大学二年で交響曲第一番「御誦」を書いた。柴田南雄の『宇宙について』、千原英喜の『おらしょ』も、生月のオラショを素材にしている。
地域で全然違う――生月と外海と五島と天草
一括りに語れないので、地域差を押さえておきたい。研究の世界では大きく二系統に分ける。生月・平戸系と、外海・浦上系だ。
生月・平戸系は、お掛け絵などの御神体を祀る組を主体とし、年中行事がやたらと多い。声に出してオラショを唱える。戸外でやる行事も少なくない。年間四十回を超える集落もあった。組織は集落単位、垣内、コンパンヤという三層の組み合わせでできている。コンパンヤ、つまり小組は、木の札を御神体として持ち、月に一度ほど集まって「お札引き」あるいは「おしかえ」という行事をやる。み弟子の家に十六枚の札を入れた袋があり、集まったメンバーが一枚引いて、その月の運勢とする。喜びの札を引くのが一番いいとされた。これはロザリオの十五玄義――マリアとキリストの生涯を、喜び、苦しみ、栄光の三つに分けて十五場面で捉えるもの――に由来していて、要するにロザリオを繰る行為が、神社のおみくじそっくりの形に着地している。
外海・浦上系は、日繰帳を守ることが信仰の軸で、年中行事は少ない。出津を例にとれば、正月、春の悲しみ上がり、六月から七月の夏祭り、年末の御誕生、その程度だ。声に出さず、口の中だけでオラショを唱える。御神体は「宝物」と呼ばれ、行事のときに帳方の家へ持ち寄って、座敷の上座に箱ごと置く。本格的に飾ることはしない。マリア観音、正しくはハンタマルヤ像やサンタマルヤ像と呼ばれる焼物の慈母観音像が信仰対象になるのも、この系統だ。中国福建省の徳化窯で作られた白磁の観音像を、マリア像に見立てた。一八五六年の浦上三番崩れで没収された像が、今も東京国立博物館に残っている。
ただし、このマリア観音、扱いには注意が要る。中園さんは、同じ形だからという理由付けは信仰対象の判定にほとんど意味を持たない、と釘を刺している。出自不明の像が骨董市場に大量に出回ったこと、かくれキリシタンの資料という箔を付けるために、古物商がわざわざ信者の家に神像を贈った例すらあることを報告している。西南学院大学博物館が所蔵していた伝マリア観音の白磁像は、二〇二一年に学芸員の検証を経て、キリシタン遺物ではないと明記したうえで展示に戻された。世の中に流通している「かくれキリシタンの遺物」には、けっこうな量の虚構が混ざっている。
五島は外海からの移住で作られた。十八世紀末、大村藩の外海地方は人口過密で食えず、五島藩は開拓のために人手が欲しかった。一七九七年に百姓移住の協定が結ばれる。大村藩は各家で長男だけを育てるよう命じていたので、次男以降が生まれると間引きが必要になる、そういう追い詰められ方をしていた。移住者の大半が外海のキリシタンで、手漕ぎ舟で命がけで渡った。だから五島の信仰は外海式だ。日繰帳を持ち、洗礼を角欠き、葬式を送りと呼ぶ。野崎島では、沖ノ神嶋神社の氏子として祭事に加わりながら、絵踏をして信仰を隠し通した。
天草の崎津は漁村なので、また違う。大黒天と恵比須をデウスとして崇拝し、アワビの貝殻の内側の光る模様を聖母マリアに見立てた。貝殻をメダイや十字架の形に加工して、天井裏に隠したり柱を削って埋めたりした。裏に十字架を描いた鏡もある。上、中、下の三つの組に分かれ、一年で一番大きい行事は「霜月祭」、今でいうクリスマスだった。この日だけは夜中にこっそり牛肉を食べたという話も伝わっている。崎津は解禁後にカトリックへ復帰し、禁教期に祈りを捧げた諏訪神社の隣に教会堂を建てた。同じ天草でも今富はカトリックに合流せず、かくれとして続けたが、戦前に途絶えている。
葬式にも面白い差がある。かくれの葬儀は当初、寝棺を使っていた。ところがこれが禁教時代にキリシタン確認の目印になってしまったので、ほとんどの地域で座棺に切り替えた。棺桶の形を変えて生き延びる。仏教色の強い外海や天草では「経消し」という儀式まであった。坊さんに読んでもらった経の効果を、あとから打ち消す。徹底している。
世界遺産のストーリーから、彼らは消された
二〇一八年六月三十日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。日本で二十二件目。十二の構成資産のうち、国宝の大浦天主堂と島原・天草一揆の原城跡を除く十件は、すべて庶民の生活の場である集落だ。平戸島の春日集落では今も二十戸六十余人が棚田で暮らしている。中江ノ島も、人は住んでいないが構成資産に入っている。物や建物ではなく、記憶の遺産だと言われるゆえんだ。
だが、この登録には引っかかる話がある。もともとの申請名は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」だった。教会建築を並べる構成だったのが、二〇一五年の申請では登録に至らず、禁教期の潜伏に焦点を絞ったストーリーに再構築して再挑戦し、通った。その過程で、記述がひとつ書き換えられている。
二〇一四年に長崎県が作ったパンフレットには、平戸地方について、潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも独自の信仰習俗を継承し、その伝統はいわゆるかくれキリシタンによって今なお大切に守られています、と書かれていた。ところが二〇一七年に作り直された資料では、解禁後もカトリックに復帰することはなく禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、現在ではほぼ消滅している、に変わっている。今なお大切に守られている、が、ほぼ消滅している、に。三年で正反対だ。
生月島は、かくれの組織的な信仰がかろうじて残っていた最後のエリアだった。にもかかわらず、資料の上では消滅したことにされた。世界遺産のストーリーは、二百五十年守り抜いた信仰が信徒発見で報われ、正統な信仰に復活する、という筋書きになっている。カトリックに戻らなかった人たちは、その筋書きに収まらない。海外から視察に来た評価委員会のメンバーが生月の土俗的な信仰を「発見」して、これこそ顕著な普遍的価値があると評したことで、長崎県は正統信仰の復活とかくれ信仰の両方をひとつのストーリーに組み込むという無理難題を抱えた、という指摘もある。かくれキリシタンの側から見れば、二回目の黙殺だ。一回目はカトリック教会から「はなれ」と呼ばれて疎外され、二回目は世界遺産の物語から消された。
研究者たちが何十年も揉めている論点
学問の側も一枚岩ではない。大きな争点は、禁教期に信仰がどれだけ変わったか、だ。
田北耕也や岡田章雄は、かくれの信仰は禁教以前から日本のキリシタン信仰にあった土着的要素がそのまま継承されたものだと考えた。これに対し、宮崎賢太郎、助野健太郎、片岡弥吉らは、仏教や神道との融合は禁教下の潜伏の過程で起きた変容だと論じた。これが禁教期変容論だ。宮崎はさらに踏み込んで、キリシタン時代にキリスト教が日本に定着したことにすら懐疑的で、生月の調査から、これはカクレキリシタンという日本の民俗宗教なのだと積極的に評価する立場を取った。生月でもっとも信仰されているのは、御前様やサンジュワン様といった「知覚できる物的存在としての神」だ、という彼の分析は鋭い。
中園成生はこれに対して、並存説を出した。かくれの信者は神も仏も弘法大師も同時に祀るが、それは変容ではなく並存だ、という見方だ。キリシタン信仰の要素は変容せずそのまま継承されていて、その横に仏教と神道が並んでいるだけだ、と。皆川のオラショ研究が、この立場の根拠になっている。オラショが変わっていないなら、他も変わっていない可能性が高い。実際、組織のかたちも、聖水信仰も、行事の構成も、宣教師報告の記述とかなり共通することが分かってきた。
ただ、この並存説にも突っ込みは入る。生月には『こんちりさん』も『天地始之事』もマリア観音も伝わっていない。外海や浦上や五島とは要素の構成がまったく違う。その生月をどう潜伏キリシタンの物語につなぐのか、というのはなかなか際どい話だ。英語に訳すと「並存」のニュアンスが落ちて、ただの習合にしか読めなくなる、という指摘もある。初詣に行って教会で結婚式を挙げて仏式で葬式をやる日本人には違和感がなくても、外から見れば混淆だ。
もうひとつ、根の深い問題がある。信仰の「純粋さ」を誰が判定するのか、だ。遠藤周作は一九八〇年に出た生月の信徒の写真集の巻頭エッセイで、かくれ切支丹は過ぎ去った時代のある残骸にしか過ぎぬ、一般の人々には古い農具を見る以上の価値もない、と書いた。『沈黙』であれだけ弱者に寄り添った作家が、である。古い農具、という言葉には近代人の目線がある。一方で、ある神父は取材にこう答えたという。彼らのほうが、教会が置き忘れてきたものを持っているかもしれない、と。
私はどっちの言い分にも一理あると思う。ただ、宗教に純粋か不純かの線を引く作業が、歴史上ろくな結果を生んでこなかったのも本当だ。
組が、次々に解散していく
数字を並べるのは気が進まないが、避けられない。田北耕也は一九五三年時点で、県内のかくれ信者を約三万人と見積もった。生月島だけで一万人前後いたとされる。一九五四年の文献では、島民一万一千人の九割弱が信者だった。それが二〇一七年に約三百人。二〇二三年には二百人弱ではないか、と中園さんは言っている。七十年で五十分の一だ。
組織のほうはもっと露骨に消えていく。平戸島の根獅子で最後まで残っていた組織が一九九二年に解散。春日集落は一九九八年の行事を最後に、組織的な信仰が消えた。二〇一七年の時点で組織が残っているのは、生月島、外海の一部、五島の若松町深浦だけになった。そして二〇二四年度が決定的だった。三月末に堺目の組が解散。七月に元触の辻垣内が解散。元触の小場垣内も二〇二五年元旦の行事をもって解散した。これで生月島の垣内・津元クラスの組で残るのは、山田集落の一組だけ。それも二軒で継続している状態だ。永禄元年、一五五八年の一斉改宗から数えて四百六十七年目のピリオド、と中園さんは書いている。
原因は弾圧じゃない。産業構造だ。明治後期に和船巾着網が興ると、農村部の人々も乗子として現金収入を得るようになる。昭和初期に動力化してまき網になり、昭和二十年代以降は規模拡大で農村からも大勢が乗り込んだ。港湾建設業や酒造業への出稼ぎも増える。農業より儲かる。農業では牛が機械に置き換わり、耕作牛の祭りをやる意味がなくなる。医療が発達して、病気平癒の儀礼の意義も縮む。昭和四十年代の遠洋まき網の最盛期には、本来行事を担うべき青壮年は船の上にいて、隠居の老人が代理で参加することで信仰が保たれていた。平成に入ると漁業も建設業も不振になり、若い世代は島の外で働くようになった。イエが続かなくなった。それがかくれ信仰衰退の最大の原因だ、と中園さんは結論している。
四百年、弾圧に耐えた信仰が、まき網漁の不振で終わる。これはこれで、身も蓋もなくて凄い話だと思う。
記録を残す動きはある。中園さんは一九九五年から撮りためたビデオテープ約四百本のデジタル化に着手した。奈留島ではお授けが五十一年ぶりに復元され、動画として保存された。二〇二五年三月には、長崎県内各地のかくれキリシタン信仰用具が国の登録有形民俗文化財として指定されている。御神体、祭祀用具、祈祷文、日繰帳、護符、衣装まで含めた網羅的な資料群だ。生月町博物館の収蔵分だけで二千点規模になるという。だが、記録は信仰ではない。中園さんの言葉を借りれば、かくれキリシタン信仰はいずれ消滅する運命にあるのかもしれない、でも文化として記録し、後世に、そして世界に伝えたい、ということになる。博物館を建てた目的がそれだった、と。
なぜ怖いのか、なぜ二百五十年続いたのか
さて、最初の問いに戻る。何がそんなに怖いのか。
私が怖いと思うのは、意味の脱落そのものではない。意味が脱落しても機能が残ったこと、そして機能が残っている限り誰も困らなかったこと、これが怖い。祈りというのは普通、意味を運ぶ器だと思われている。ところがこの島では、器だけが四百年運ばれた。中身が空になっても器の形は一ミリも崩れなかった。むしろ中身がないほうが、器は完璧に保存された。教義を管掌する専業宗教者がいないから、誰も勝手に手を入れられない。分からないものは、分からないまま渡すしかない。だから残った。理解が保存を妨げ、無理解が保存を助けた。ここには、人間の伝達というものについての、かなり不吉な真実がある気がする。
もうひとつ怖いのは、時間の長さだ。二百五十年というのは、七世代から十世代分だ。最初にこれを覚えた人は、意味を知っていた。二代目はうっすら知っていた。三代目はもう知らなかったかもしれない。それでも唱え続けた人が、あと七世代いる。誰も途中で「これ何のためにやってるんだっけ」と言い出さなかった。いや、言い出した人はいただろう。それでも制度が個人の疑問を上回った。四十六日間の集中講義で子どもに丸暗記させる仕組み、間違えたときの詫び文句、暦を管理する役職、洗礼を授ける役職、連絡係。この三役の構造は、要するに教義を必要としない教会だ。神学がなくても、運用マニュアルさえあれば宗教は数世紀動く。これは信仰の話であると同時に、組織の話でもある。
そして、なぜ続いたのか。理由は大きく三つあると思う。ひとつは、彼らが信仰を隠さなかったことだ。逆説的に聞こえるが、そういうことだ。仏教も神道も並存させた。寺の檀家をやり、神社の氏子をやり、絵踏もやった。村八分になるような排他性を持たなかったから、地域社会から孤立せず、共存できた。一神教としてのカトリックを貫いていたら、たぶんもっと早く全滅していた。ふたつめは、生業に食い込んでいたこと。田祈祷があり、風止めの願立てがあり、虫害と水と耕作牛の祭りがあった。信仰が農業と漁業のインフラだったから、生活が続く限り信仰も続いた。逆に言えば、生活が変わった瞬間に終わる。実際そうなった。三つめは、先祖崇拝としての強度だ。彼らが守ろうとしたのはデウスではなく、先祖が守ってきたものだった。自分の代で絶やしてはならない。この動機は、教義への確信よりもはるかに強い。教義は疑えるが、先祖は疑えない。
だから、彼らがカトリックに戻らなかったのも当然といえば当然なんだよな。神父が来て、その言葉は本当はこういう意味です、正しくはこう唱えます、と言われたところで、それは彼らの信仰の否定になる。二百五十年守ったものが「間違い」だと言われる。仏壇を壊せと言われる。誰がそんな取引に応じるか。一九四九年に枢機卿の前で首を横に振った人たちは、たぶんそこが分かっていた。
オラショの意味は、誰も知らない
最後にひとつだけ。皆川達夫がグルリヨーザの原曲を突き止めたとき、島の人たちは喜んだのだろうか。私はここが一番知りたい。四百年唱えてきた呪文の意味が、輝ける聖母よ、星空越えてはるかに居ます御母よ、だと分かった瞬間。
たぶん、そんなにドラマチックなことは起きていない。中園さんの説明にヒントがある。オラショはもともと教義を伝えるものではなく、神様に自分の思いを届けるために唱えるものだ、だから唱え文句として間違っていないことがより重要なのだ、と。意味は最初から要らなかったのかもしれない。届けばいい。宛先さえ合っていればいい。
そう考えると、意味の分からない言葉を四百年運び続けたという話は、そんなに異様なことではなくなる。私たちだって、般若心経の意味を全部分かって唱えている人は少ないし、結婚式で歌う讃美歌の歌詞を吟味している人もいない。ただ、規模が違う。二百五十年、専門家ゼロ、テキストなし、間違えたら処刑という条件下で、それをやりきった。
生月島の山田集落には、まだ一組だけ残っている。二軒で続けている。その二軒がやめたとき、日本に伝わった最初の西洋音楽の、四百六十年続いた実演の系譜が切れる。録音は残る。楽譜も残る。デジタル化されたビデオも四百本ある。それでも、意味を知らないまま唱え続けるという行為の、あの奇妙な熱は、もう誰も再現できない。
それでも、この話を怪談として消費するのは気が引ける
ここまで書いてきて、自分でも整理しておきたいことがいくつかある。まず、この話をオカルトとして消費してしまうことの居心地の悪さについて。意味不明の呪文、納戸の奥の隠された神、島の聖地、祟りがあるから船で行ってはいけない場所――要素だけ並べれば完全に怪談の材料だ。実際、ネット上でオラショの音源に触れた人の反応は、たいてい「鳥肌が立った」「怖い」から始まる。だが、これは怪談ではない。今も生きている人たちの、生活そのものだ。彼らは怪奇現象を起こしていない。ただ、先祖から預かったものを落とさないように運んできただけだ。私たちが怖いと感じるのは、彼らが怖いからではなく、四百年ぶんの時間が一枚の掛け軸と数十分の音声に圧縮されて目の前に置かれると、人間の頭がそれを処理しきれないからだと思う。怖さの正体は、対象ではなくスケールにある。
次に、記録と信仰は別物だという話をもう少し。二〇二三年の奈留島のお授け復元は、素晴らしい仕事だと思う。文献と映像と聞き取りをもとに、三役を揃え、古井戸から聖水を汲み、刺身とごはんと酒の膳を用意し、一歳の子の額に三度水をかけた。抱き親を中学一年生が務めたのもいい。だがこれは、儀式の再現であって、儀式の継続ではない。継続とは、来年もやることだ。再来年もやることだ。誰も見ていなくてもやることだ。復元された映像が祭りで上映され、研究の材料になり、世界遺産のエビデンスとして機能する。それは価値のある仕事だが、そこで起きているのは信仰の保存ではなく、信仰の標本化だ。標本になった生き物は、もう繁殖しない。関係者もそれは分かっていて、だからこそ「今しかなかった」という言葉が出る。この諦めと使命感が同居した言い方に、私はいちばん胸を突かれた。
三つめ。カトリックに戻らなかったことを「頑固」と見るか「筋を通した」と見るか、という問題。外から見れば、意味の分からない言葉を唱え続けるより、正しい意味を教えてくれる神父のもとに戻るほうが合理的に見える。だが彼らの立場に立てば、それは投降だ。二百五十年、誰の助けもなく、絵踏を踏んで泣きながら、家族ごと監視されながら、それでも渡してきたものがある。それを持って行ったら「訛ってますね、直しましょう」と言われる。仏壇は壊せと言われる。ここで頷けるかどうかは、信仰の純度の問題ではなく、尊厳の問題だ。一九四九年に枢機卿の前で首を横に振った人たちは、教義的な議論をしていたのではない。自分たちの二百五十年をどう扱われるかの話をしていたのだと思う。そして、その面会の記録が公式に残っていないというのが、この一件のすべてを物語っている。
四つめ、研究の話。禁教期変容論と並存説の対立は、素人目にはどちらも部分的に正しく見える。生月のオラショが十六世紀の文言をほぼそのまま保っているのは動かない事実だし、一方で御誕生の意味が忘れられて安産祈願だと思われていたり、ロザリオの十五玄義がおみくじになっていたりするのも事実だ。文言は保存され、意味は失われ、機能は入れ替わった。この三つは別々に動く。オラショの音は凍結され、行事の意味は蒸発し、儀礼の役割は農業と医療の代わりに滑り込んだ。変容したかしていないかを一括で問うから話が噛み合わないのであって、レイヤーごとに見れば矛盾はない。そう考えると、皆川の発見と宮崎の分析は対立していない。皆川は音のレイヤーを掘り、宮崎は意味のレイヤーを掘った。掘った層が違うだけだ。
五つめ。この記事を書きながら、ずっと引っかかっていたのは「言い誤りは、まっぴらお許しください」という一文だった。行事のはじめに、神様に向かって先に謝っておく。これから間違えるかもしれませんが許してくださいね、と。四十分ぶんの意味不明な音を暗記して唱えるのだから、間違えて当たり前だ。その当たり前を制度に組み込んで、あらかじめ赦しを取り付けておく。この現実的な優しさが、私はとても好きだ。彼らは完璧を要求しなかった。完璧を要求していたら、とっくに続かなくなっていた。エレンジャがそばにいるとさやが詰まる、という言い訳まで用意してある。人間が数世紀にわたって何かを続けるためには、こういう緩衝材が要るのだ。原理主義は続かない。いい加減さを内蔵した仕組みだけが、長く走る。
最後に。生月島の山田集落に残る最後の一組が解散する日は、たぶん近い。そのとき新聞に小さく記事が載って、翌日には忘れられるだろう。世界遺産の看板は残る。観光客は春日集落の棚田を撮りに来る。案内所ではおばあさんがお茶と漬物を出して、素潜りでアワビを獲っていたころの話をしてくれる。オラショの音源は博物館で聞ける。それで十分ではないかと言われれば、返す言葉はない。ただ、私はこう思っている。意味の分からないものを、意味が分からないまま、丁寧に次の人へ渡す。この動作を、人類は生月島でだけ二百五十年やりきった。それは効率で言えば愚かなことで、合理性で言えば無意味なことだ。でも、意味が分かるものしか運ばない社会というのは、たぶん思っているよりずっと薄っぺらい。分からないまま抱えて歩く力を、私たちはこの島の人たちから借りて考えるくらいしかできない。ぐるりよーざ どーみの。輝ける聖母よ。四百七十年前、スペインの片田舎で歌われて、本国では絶えて、東シナ海の小島でだけ生き延びた歌が、今も年に数回、法事の座敷で鳴っている。
