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「お前に殺されたのもこんな晩だったな」――旅の六部を殺して成り上がった家の話が、なぜ日本中どこにでもあるのか

日本の怪談のなかで、いちばん気まずい話は何かと聞かれたら、私は迷わずこれを挙げる。六部殺し。旅の巡礼を一晩泊めて、殺して、その金で成り上がった家の話だ。

何が気まずいって、この話が全国どこにでもあることだ。青森にもある。新潟にもある。長野にも茨城にも徳島にも愛媛にも鹿児島にもある。

しかも、たいていの土地では「昔むかしあるところに」で始まらない。「この村の、あの家が」で始まる。名前のある家、実在する屋敷跡、いま現在も墓のある一族。そこに向かって、隣近所が何代にもわたって「あの家は六部殺しだ」と言い続けてきた。怪談というより、村ぐるみの長期的な陰口である。

そして結末が異様に効く。殺された男は、殺した男の子として生まれてくる。何年も口を利かない。ある晩、ふっと口を開く。「こんな晩だったなあ」。

ぞわっとする。理屈じゃない。この一行のために、日本人は数百年間この話を語り継いできたと言っていい。

今回はこの六部殺しを、正面から掘る。六部という職業の実態、話の骨格、起源、地域ごとの変形、実際に採集された事例、研究者が何を言ってきたか、そしてなぜこの話だけが全国に均等に散らばったのか。長くなるが、途中で退屈させない自信はある。

まず、理屈より先に話を聞いてほしい

先に理屈を並べるのは野暮だ。話から入る。

青森に伝わっている「こんな晩」を、まず一本。

昔、一人の六部が旅をしていた。六部というのは、法華経を背負って全国の霊場を巡り歩く行者のことだ。宿屋に泊まれる身分でもないから、夜になれば村へ入り、親切そうな家を見つけて一晩の宿を乞う。それを繰り返しながら旅を続ける。

その六部が、ある村に着いた。もう日が暮れかけている。村はずれの一軒に声をかけると、泊めてもらえることになった。

夕飯を食べ終えた六部は言った。「だいぶ歩いて疲れましたから、今夜はこれで休ませていただきます」。そう言って奥の寝部屋へ入っていった。

ところが、夜が更けても、その部屋の明かりが消えない。何をしているんだろう。家の主人が戸の隙間からこっそり覗いた。

六部が、金を数えていた。

じゃら、じゃら、と音がする。主人の頭のなかで何かが切り替わった。ほほう、たんまり持っているじゃないか。あれだけあれば一生楽に暮らせる。よし、あの六部を殺して金を奪ってやろう。

主人は明るい声を作って呼びかけた。「六部さん、起きてるかい。いい月だから外へ出てみなされ」。

まんまと六部は外へ出てきた。そして空を見上げて言った。「月はどこにも見えないが」。

その、振り向いた首のうしろへ、主人は隠し持っていた鉈を振り下ろした。

ここが、この話の最初の急所だ。月なんか出ていない。主人は嘘をついて、わざわざ相手の視線を空へ向けさせた。首が無防備になる瞬間を作るために。この細部があるかないかで、話の温度がまるで変わる。

主人は六部の金で商いを始めた。またたく間に金持ちになった。やがて子どもも生まれた。長いこと子どもができなかった夫婦だったから、それはもう可愛がった。

ところが、その子は泣き声も立てない。二つになっても、三つになっても、一言もしゃべらない。

子どもが五つになったある晩のことだ。寝床のなかでむずかった。小便だろうと思った主人は、子どもを抱いて外へ出た。月の出ていない晩だった。

「早く小便をせいや」。

そう言った瞬間、それまで一言もしゃべらなかった子どもが、口を開いた。

「こんな晩だなあ」。

主人はぎょっとして、とっさに聞き返した。「何が」。

「六部を殺した晩よ」。

見ると、子どもの顔は、いつのまにかあの六部の顔になって、主人をにらみつけていた。

主人は恐ろしさのあまり気を失い、そのまま死んだ。

これが最も流通している型だ。話としての完成度が異常に高い。伏線が一つしかなくて、その一つが最後に完璧に回収される。しかも回収するのが、自分がいちばん可愛がっていた我が子だ。

六部という職業を知らないと、この話は半分も味わえない

ここで、殺される側の身元をきちんと押さえておきたい。

六部というのは六十六部の略で、正式には六十六部廻国聖という。日本全国六十六か国、つまり当時の行政区画の全部を巡り歩いて、一国につき一か所の霊場に法華経を一部ずつ納める。それを成し遂げる宗教者のことだ。奉納する経典六十六部そのものを指して六十六部と呼ぶこともある。

まず、この行がとんでもない。北は出羽・陸奥、南は薩摩・大隅まで、徒歩で行く。日本最大規模の巡礼だ。四国遍路が八十八か所を一巡りするのに対して、六十六部は国そのものを六十六個踏破する。年単位、下手をすると十年単位の旅になる。

起源ははっきりしない。よく引かれるのは『太平記』巻第五の、北条時政の前世は法華経六十六部を六十六か国の霊地に納めた箱根法師だった、という説話だ。中世後期から近世にかけては、源頼朝、北条時政、梶原景時といった鎌倉幕府草創期の有力者の前世を六十六部廻国聖とする伝承が定着していく。この面々が関東の人間ばかりであることから、廻国巡礼の発生地が関東ではないかとも言われている。

史料の上では十三世紀前半にはもう六十六部廻国が行われていたことが確認できる。研究者のなかには、古代の山岳修験者のうち法華経を受持する者たちにまで系譜を遡らせる見方もある。回国納経が本格化するのは十四世紀中頃。十五世紀は史料が薄く、十六世紀にまた資料が増える。そして室町以降、とりわけ近世に爆発的に盛んになった。

彼らが背負っていたのが笈だ。仏具や衣類、経典を収める箱で、これを背中にくくりつけて歩く。

四国の博物館には享保十三年、つまり一七二八年に阿波の藍商人が廻国巡礼に使った笈が伝わっている。静岡の焼津には、宝永六年から七年、一七〇九年から翌年にかけて下小杉村の三人組が実際に廻国したときの笈、納経帳、往来手形、錫杖の頭、編笠、漆椀までがそろって残っている。三人のうち一人の納経帳には二百六か所の納経請取印が押されていた。もう一人の納経帳には百三十六か所。数字で見ると、この旅の途方もなさが実感できる。

納経先は固定されていなかった。近世前期の六部は「日本回国六十六部縁起」という刊本を携えていて、そこに指示された寺社を律儀に回った。時代が下ると、四国遍路、西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所がオプションとして追加され、さらに各国の一宮・国分寺・八幡を必ず回るようになる。

宝永年間の六部が七十七か所、七十八か所しか納経していないのに対し、安永年間の六部は五百四十八か所、天保から嘉永にかけての六部は五百五十七か所。八倍近い。巡礼の内容が肥大化していったわけだ。

そして押さえておきたいのが、彼らが金を持っていたという点だ。

長期の旅には路銀がいる。行く先々で勧進をして喜捨を集める。納経帳という「諸国の神仏を回った証拠」は宗教者としてのステータスであり、信者にとってはありがたいものだったから、それを見せて祈祷をしたり札を配ったりもした。つまり六部は、歩く小規模宗教ビジネスでもあった。笈のなかの竹筒に金を入れていた、という具体的な描写が伝承にも出てくる。

貧しい農家からすれば、これは奇妙な存在だ。乞食のような身なりで来る。だが荷物のなかには現金がある。しかも共同体に属していない。どこから来たか誰も知らない。いなくなっても誰も探しに来ない。

殺人のターゲットとして、これ以上の条件はない。話がそこへ行ってしまうのは、残酷だが理屈が通っている。

近世の六部には、うさんくさい連中も混ざっていた

近世に入ると、六部の顔つきが変わってくる。

中世には専業の宗教者が中心だった。ただし山伏との区別がつかない場合も多く、実態はかなり混然としていたようだ。近世になると、俗人が行う廻国巡礼が増える。さきほどの阿波の藍商人がまさにそれで、商業活動が安定した時期に廻国に出ている。信仰の旅であると同時に、成功した家のステータス行為でもあった。

同時に、専業の職業六部というべき層も形成されていく。史料の残存量が十七世紀末から十八世紀初頭を境に急増することから、この時期が六部にとっての画期だったと考えられている。廻国供養塔に刻まれた人名を分析すると、専業の六十六部たちがネットワークを作っていた形跡があり、一般の六部もそこに緩やかに連なっていたらしい。東叡山寛永寺や京都御室御所すなわち仁和寺が発給したとされる「御定目」の存在も、この職業集団の活動と関わっている。

廻国の途中で地元に引き留められ、村の堂庵に定住してしまう六部もいた。そういう聖が勧進をして、他の六部のために廻国供養塔を建てたり、行き倒れた六部のために「六部墓」「六部塚」と呼ばれる墓を立てたりした。京都郊外の鳥辺野にあった時宗寺院が、行き場のない聖の終焉の場所を提供していたことも知られている。

つまり、近世の六部は「聖なる巡礼者」と「行き場のない漂泊者」の両方だった。江戸時代を通じて、六部という言葉はほとんど遍歴者の代名詞になっていく。

そして、うさんくさい連中も混ざる。

無頼や犯罪者が六部を装う「偽六部」がいた。六部の身なりは公儀の目を逃れるのに都合がよかったのだ。往来手形さえあれば全国どこへでも行ける。江戸時代には、旅人を装って他人の家に入り込んで盗みを働く者、道連れを装って仲間の待つ宿へ誘い込み金品を巻き上げる者、いわゆる護摩の灰が横行していた。素性の知れない他人を家に泊めることには、実際にリスクがあった。

だから六部殺しの話には、二重の緊張が埋め込まれている。泊める側は「こいつは強盗かもしれない」と疑っている。泊まる側は「この家の主人は俺の金を狙っているかもしれない」と疑っている。一晩の宿を挟んで、二人がお互いを警戒している。その均衡が崩れる話なのだ。

面白いのは、六部研究を長年続けてきた研究者が、こんなことを書いていることだ。六部はなぜ、あっちでもこっちでも頻繁に殺されるのか。いちおうの答えはある。六部が江戸時代には遍歴者の代名詞だったからだとか、彼ら自身が危険を避けるために「殺した者は報いを受ける」という話をあちこちで語り広めたのだとか。しかし本当のところは謎です、と。

六部自身が自衛のためにこの怪談を撒いた。これはかなり魅力的な仮説だ。「俺を殺すと、俺がお前の子として生まれてきて、お前を呪い殺すぞ」。旅の宗教者が宿を借りながら、そういう話をぽつりと置いていく。宿代がわりに恐怖を置いていくわけだ。

実際、六部たちが物品や昔話、呪いごとを地域社会に置いていったという指摘は民俗学の側からも出ている。笈はその代表的なものとされ、笈のなかの仏像を開帳したり錫杖を振ったりという所作も含めて、彼らは地域に痕跡を残していった。

この話の設計図を、部品ごとに外してみる

いろんなバージョンを浴びるように読んでいくと、この話がかなり厳密な設計図の上に建っているのがわかる。

まず、宿を乞う。次に、金を見てしまう。ここが引き金だ。見なければ何も起きなかった。障子の破れ目、戸の隙間、灯りの漏れ。覗きという行為が必ず挟まる。

次に、殺害。方法はさまざまだが、多くが「だます」プロセスを含む。月を見ろと外へ誘い出す。人の通らない道を教えて待ち伏せる。細引きで絞める。渕に突き落とす。正面から堂々と斬りかかるバージョンは少ない。卑怯さが必要なのだ。

次に、死体の処分。屋敷の隅に埋める。淵に沈める。ここで「土地」が汚染される。あとで効いてくる。

次に、致富。奪った金を元手に商売を始める。あるいは高利貸しを始める。田畑を担保に取って人の土地を集める。ここが肝で、多くの話が「金貸し」を選ぶ。村人から見て最も憎らしい儲け方だからだ。

次に、子。長く子ができなかった夫婦にようやく子が生まれる。そしてその子は口を利かない。立てない。ここが日本版の特徴で、身体の異常が因縁の徴として提示される。

そして、告発。天候が反復する。あの晩と同じ月夜、あるいはあの晩と同じ闇夜、あるいはあの晩と同じ雨。時間が輪になって閉じる。子どもが初めて言葉を発する。

最後に、崩壊。父が頓死する。家が没落する。あるいは屋敷が化物屋敷になり、以後その土地を買った者に不幸が続く。

見事なほど無駄がない。

起源をたどると、九世紀の日本と中唐の中国に行き着く

この話、日本オリジナルではない。少なくとも骨格は輸入品だ。

最も古い部類の原型として挙げられるのが『日本霊異記』中巻第三十話である。九世紀初頭に成立した日本最古の説話集だ。

こういう話だ。行基が難波の堀を開いて法を説いていた頃、聴衆のなかに一人の女がいた。抱いている乳飲み子があまりに泣くので説法が聴けない。その子はいつも泣きわめき、食べてばかりいる。

行基が母に告げた。その子をすぐに川へ投げ捨てなさい。母は捨てられない。翌日も子は泣き叫ぶ。行基は再び捨てろと言う。母は怪しみながら、ついに子を深い淵に投げ込んだ。

すると子は水の上に浮かび、目をカッと見開いて言った。ねたましい。あと三年はお前から取り立ててむさぼり食ってやろうと思ったのに。

行基は女に言った。あなたは前世でこの者に借りをつくり、返さなかった。だからこの者はあなたの子に生まれて、負債の分を食いあさったのだ。いま淵に捨てたのは、前世の貸主ですよ。

もう、ほとんど六部殺しである。子どもが不具または異常な状態で生まれてくること。その子が最初に発する明瞭な言葉が過去の因縁の指摘であること。前世の債権者が子として転生していること。要素が完全に一致している。

この型は、中国の「討債鬼故事」という説話ジャンルに属している。討債鬼とは、金を奪われたり借金を踏み倒されたりした者が、死後、加害者あるいは加害者の生まれ変わりの子どもに転生し、今度は逆に親の金を蕩尽するという話だ。奪われた額と同じだけ使い果たすと、目的を達成して早死にする。

報復の方法がえげつない。病気になって莫大な医薬費を使わせる。成長して放蕩に走り、財産を蕩尽する。ポイントは、子どもという立場を利用して親の心情につけ込むところだ。子が病気になれば、親はいくら金がかかっても医者に頼る。子が非行に走って社会的地位を失いかければ、金で解決できるなら費えを惜しまない。愛情そのものが取り立ての道具になる。

現存最古の討債鬼故事とされるのが「党氏女」で、これがまた六部殺しにそっくりだ。泊まっていた家の主人に殺されて金を奪われた男が、その主人の子に転生し、財産を蕩尽したあげく若死にする。宿泊、殺害、致富、転生。骨格が一致している。

もともとインドの仏教説話では、輪廻は不幸であり復讐は否定される行為だった。ところが中国では『墨子』『左伝』以来、亡霊による復讐が肯定的に描かれてきた。天帝の許しを受けて復讐を行うという発想すらある。復讐は正義の実現手段だった。そこへ仏教の輪廻が入ってきて、輪廻を復讐の手段として使う話が生まれた。中唐期のことだ。

日本には近世以降に本格的に取り込まれた。ただし背景となる家族制度と経済制度が違ったので、転生の動機も借金の意味も変わってしまった。

中国では「貸した金を取り立てる」話だったのが、日本では「殺されて奪われた恨みを晴らす」話になる。中国では親が財産を蕩尽されて苦しむのに対し、日本では父親が恐怖のあまり頓死する。日本の討債鬼は、取り立て屋というより復讐者だ。

このねじれは面白い。日本人はこの説話から、経済的な取り立てのモチーフを削ぎ落とし、恐怖のモチーフだけを抽出した。落語「もう半分」でも、老人が奪われた金は娘が吉原に身を売って作った金だという設定が加わる。日本で復讐の原動力になったのは、負債そのものではなく、身を犠牲にして作られた金を奪われたという申し訳なさ、無念さだった。

昔話の目録に、この話は入れてもらえなかった

では、六部殺しそのものはいつ活字になったか。

しばしば挙げられるのが、川合勇太郎『津軽むがしこ集』、一九三〇年刊行の「六部ば殺した話」である。津軽で採集された話だ。

ただし、この話は昔話としての公式な認定を受けていない。柳田國男が一九四八年に、関敬吾が一九五九年に昔話の集成をまとめた際、「こんな晩」は参考資料として言及されるにとどまった。つまり、正規の昔話の話型としては数えられなかった。

これは考えてみると、この話の性格をよく表している。六部殺しは昔話ではなく、伝説あるいは世間話なのだ。

昔話は「昔むかしあるところに」で始まり、どこの誰とも知れない人物が出てきて、聞き手も語り手も本当だとは思っていない。伝説は違う。特定の場所、特定の家、特定の時期に紐づいて語られ、語り手はそれを事実として語る。

六部殺しは圧倒的に後者だった。だから昔話の目録に入りにくかったのだ。

視覚資料としては、江戸期の絵にも登場する。鳥文斎栄之が描いた『模文画今怪談』のなかに六部殺しの怪談が絵画化されている。近世の時点でこの話がすでに怪談としてパッケージ化され、流通していたことがわかる。

もっと生々しいのは、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースだ。全国の民俗誌や郷土研究誌から怪異事例を拾い集めたもので、六部関連の事例がずらりと並ぶ。

徳島県阿南市桑野町の事例は一九一九年の『民族と歴史』に載ったもの。山形県南置賜郡中津川村の事例は國學院大學民俗学研究会の『民俗採訪』昭和二十九年度号、つまり一九五五年刊。長野県飯田市の事例は『長野県史』の民俗編南信地方の巻、一九八九年刊。愛媛県今治市大西町の事例は『愛媛県史』の民俗下巻、一九八四年刊。

年代がばらけているのが肝心なところだ。大正、昭和戦後、平成に至るまで、全国の各県史・郡誌クラスの調査でこの話が拾われ続けている。特定の時期に流行した都市伝説ではなく、長期にわたって列島じゅうに根を張っていた伝承だということだ。

別バージョン一――新潟県十日町、返り討ちにする父親

ここからは、地域ごとの別バージョンを一つずつ独立した物語として読んでいきたい。同じ話でも、土地が変わると味が変わる。

まず新潟県十日町市に伝わる型。これがおそらく、いちばん語りとして脂が乗っている。

向こうの集落に、このあたりには珍しいような立派な旦那さまがいた。ただし、昔からの旦那さまではない。ほんの十年ほど前までは、貧乏で貧乏で、食べる米もままならない、借金だらけの男だった。それが急に、ムキムキ、ムキムキと身上が上がった。

何がもとで、そんなに身上が上がったのか。深い訳があった。

ある秋の寒い日、朝からずっと雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。夕暮れになって、泊まる場所のない六部が困っていた。

「ここん衆、一つ泊めてくんなかい」。

その家では断った。「おら、貧乏で貧乏で、おまえが泊まったとて、もてなしは何も出来ねスケ、だめだ」。

六部は食い下がった。「かまわねえ。何でもいいスケ、この雨サ当たらなければ何でもいいスケ、泊めてくんなかい」。

そんなのでよければ、ということで、六部は泊まった。

その家のトトは、真夜中に小便に起きて、ふと脇を見た。六部が寝ている座敷の方から、チャリーン、チャリーンと銭の音がする。

コソン、コソンと近寄って、障子の破れ目からこう覗いてみた。銭勘定をしていた。六部というのは笈という箱のようなものを背負っている。そのなかの竹の筒に金を入れておくのだ。

それを見たトトは、金が欲しくて欲しくてたまらなくなった。おらは貧乏で金など拝んだこともない。いつも借金で首が回らない。ああ、すぐ目の前に金がうなっている。これだけあれば一生楽に暮らせる。

外は秋雨の降る丑満時。六部を殺したトトは、屋敷の隅に六部を埋めた。冷たい雨が容赦なく降りかかっても、金の妄執に取り憑かれたトトは人間の心に戻らなかった。誰も見ていないんだもの、構うもんか。

盗んだ金を元手に金貸しを始めた。人に貸しては利息で儲け、また貸す。田畑や山を売りたい者がいると、どんどん買った。そうこうするうちに、ムキムキ、ムキムキと身上が上がった。

金もあり、地所もあり、何も言うことがない。ただ一つ張り合いがないのは、子どもがいないことだった。よその子が手をつないで遊んでいるのを見ると、子どもが欲しいなあと、どうしようもない。毎日そう思って暮らしていたら、なんと子どもができた。それも男の子だった。

ようやくできた子をめじょがって、それはそれは大事に育てた。ところがその子は、三つになっても四つになっても物を言わない。立つこともできない。腰がフラフラして立てない子だった。それでも旦那さまはめじょがって育てた。

その日は、やっぱり朝から雨がバシャバシャ、バシャバシャと降っていた。晩方になると滝のように降り出した。鼻を撫でられても分からないくらいの闇夜だった。

こういう晩は早く寝かそう。寝る前に小便をさせようと、アニを抱いて外に出た。雨はバシャバシャ、バシャバシャ降る、真っ暗な夜。

トトが思わずつぶやいた。「馬鹿げに雨は降るし、暗えなあ」。

その時だった。今まで一言も物を言わなかったアニが、口を開いた。

「あの晩にそっくりだのし」。

真っ暗のなかで、アニの面だけが青く光り、トトを見てニタニタニタと笑った。

そこから先が、この十日町の型の異様なところだ。

トトは驚いたが、失神しない。こう考えるのだ。この野郎は、おれが殺した六部が生まれ変わったんだな。仇討ちに来たんだな。このままじゃ置かねえ。

そして、めじょがって育てていた息子を殺して、畑に埋めた。

だから、いくら仇討ちで生まれてきても、親にはかなわない。親に返り討ちになったのだ、と語られる。

これは強烈だ。ほとんどの型では、告発された父親はそこで死ぬか出家するか、家が没落して終わる。ところがこの型では、父親が二度目の殺人をやってのけ、しかも勝つ。因果応報の物語が、因果応報を否定する物語に反転している。

聞き手はここで、ぞっとするより先に、腹が冷える。この話、教訓譚じゃないのだ。「悪いやつが罰を受ける」話だと思って聞いていたら、悪いやつが罰を返り討ちにする話だった。しかも語り口は淡々としている。それだすけ、と締めくくられる。それだから、と。

十日町という土地は雪深い。冬になれば村は閉じる。閉じた共同体のなかで、この結末は何を意味していたのか。あの家には勝てない、という諦めだったのかもしれない。

別バージョン二――佐渡、村を焼いた六部と、二十世紀の祟り

次は佐渡島。ここに残っている話は、六部殺しの標準型からかなり外れていて、しかもいちばん生々しい。

佐渡島の北西側の海岸線を外海府と呼ぶ。その村に、かつて大佐渡一といわれた造り酒屋があった。土地を流れる水が佐渡一の名水だったこと、三代目に酒造りの名人が出たこと。この二つが重なって、繁栄ぶりは「酒屋の米が浜に山なす」と歌われるほどだったという。

幕末の頃、この酒屋に器量がよく頭もいい一人娘がいた。ある年、村の氏神の奉納相撲に、たいへん強くて男振りのいい相撲取りがやってきた。娘はこの男に惚れ込んで、一緒になりたいと言い張った。周囲も折れて、酒屋は男を婿に迎えた。酒屋が相撲取りを婿に取ったと評判になった。

ところが、この男が呑む打つ買うの三拍子そろった食わせ者だった。このままではカマドを潰されると危惧した親族一同が、ムコトリアネ、つまり家督を継いだ長女が嫌がるのを押し切って、男を家から追い出してしまった。

それ以来、娘は放埒をするようになった。

この村には相川道が通っている。金山で知られる相川と外海府の各村を結ぶ往来だ。上ったり下ったりするいろいろな人間が酒屋に泊まっていく。そのなかから「これは」という男を、娘は次から次へと自分の部屋に引き入れるようになった。

そのなかに、旅の六部がいた。

六部は諸国を巡り、佐渡へ来るとこの酒屋に泊まっていた。職業的に廻国を続ける六部だったのだろう。ある時、また佐渡へやってきて酒屋を訪れると、すでに娘には先客がいた。

六部は純情だったのだろう。男は自分ひとりだと思い込んでいたのだ。怒った六部は、酒蔵に火を放った。

ところがこの日は、西から入ってくる風、土地でシモタケエ風と呼ぶ風が強く吹く日だった。火はその風にあおられ、村を斜めに舐めるように燃え広がって、とうとう九十戸の村のうち七十戸までを焼いてしまった。

六部は相川道を北へ逃げた。村を見下ろせる場所まで来て石に腰を下ろし、こうつぶやいたという。

「あぁ、大火にしてしもうたやあ。こんなに大事になるとは思わんかった。酒屋ばかり焼くつもりやったが」。

これを聞きつけたのが、消火の加勢に来ていた隣村の火消しだった。火をつけたのはお前か、とばかりに、道の下の滝壺へ六部を突き落とした。それきり六部の体は上がらなかった。六部が落とされた場所は、いまも「坊さん落とし」と呼ばれている。

ここまでが話。ここから先が、この事例の恐ろしいところだ。

この地区で嘉永四年、一八五一年か翌五二年に大火があったのは事実である。焼けた家々の普請に酒屋の山の木が提供されて、木を伐り出して曳いた跡が至るところに残っていたという。話の背景には多くの事実がある。

そして、この話がここまで詳細に語り継がれてきたことには、理由があった。

この話を詳しく語ったのは、酒屋の縁者にあたる女性だった。一族に若死にする者が続いていた。この地区がかつて「火事部落」と言われるほど火事が多かった。それらはすべて六部の祟りだということになっていた。

女性自身も、心身の激しい不調に悩まされた過去を持っていた。彼女はまず相川の、のちには島外の、いずれも女性の宗教者を頼った。どちらもシャーマン的な資質を持った人物で、六部の霊が乗り移って因縁を語り、供養を要求した。

六部と宗教者のあいだで、生々しいやりとりが繰り広げられた。その結果、滝壺に沈んでいた六部の霊魂は「引き上げ」られ、地区の寺の門前の小堂に普賢菩薩として祀られた。いまではその地区を守護する仏になっている。

この事例は、伝説というものが何をしているのかを、これ以上ないほどはっきり示している。ある家の突出した成功と、その後の不可解な不幸。この二つをつなぐ因果の物語として、六部殺しは機能してきた。災いが起きるたびに思い出され、語られ、災いの説明として使われる。

そして、シャーマン的な人物の介入が、その因果をさらに具体的なものとして蘇らせ、肉付けする。同時に、怨霊を祀り上げることによって、災いの連鎖を断ち切る。呪いをかけて、呪いを解く。両方をやるのだ。

佐渡は巡礼の盛んな島で、全島に二百五十以上の六十六部の供養塔が立っているという。この島には、六部が実際にたくさん来ていた。だから話も残った。

別バージョン三――徳島、天井からぶらさがる血まみれの足

西日本の型として、徳島の事例を挙げる。ここでは因果応報の見せ方がまるで違う。

一九一九年、大正八年の『民族と歴史』に載った阿南市桑野町の話。

ある年の暮れのことだ。川の渕で、庄屋が、前の晩に泊めた六十六部を殺した。奪ったのは金ではない。六部が持っていた秘蔵の宝物、金の鶏と蚊帳である。

血まみれになった六部の足が、川へと滑り込んだ。

その頃、庄屋の家では下男が餅をついていた。すると天井から、血みどろの足がぶらさがった。同時に一羽の黄金の鶏が現れて、米を食い尽くした。

やがて片足と鶏は、六部の笑い声とともにどこかへ消えた。

その後もいろいろと禍が続いたので、庄屋の主人は墓を建立した。

もう一つ、一九四三年に採集された徳島の類話がある。こちらは初夏の夕暮れ時に、某氏の家で六部が一夜の宿を乞う。六部は桐の箱に入った黄金の鶏と、部屋の大小によって大きさが変わる蚊帳を持っていた。翌日、二、三人の若者に六部は斬られた。鶏は飛び去ったが、蚊帳は庄屋の手に入った。庄屋の家で餅をついていると、血の流れている足が二本天井から下がり、餅が血で赤くなった。六部の呪いだという。

こちらの型には、転生する子どもが出てこない。代わりに来るのが、生々しい身体の断片だ。天井から足がぶらさがる。餅が血で赤く染まる。

そして注目すべきは、殺される場面が年の暮れ、餅つきの時期に設定されていることだ。餅つきは共同体の年中行事の核心である。新しい年を迎えるための、いちばん清浄であるべき作業。そこへ血が降ってくる。

この構造は、次に挙げる愛媛の事例と一続きになっている。

愛媛県今治市大西町に伝わる話は、こうだ。暮に餅を搗いていると六部が訪ねてきた。家の者は、その六部が大金を持っていたので、殺して金を奪った。その祟りによるものか、翌年の正月は餅を作れなかった。以後、この家では正月に餅を搗くことをやめ、他家からもらって祝うようになった。もらった餅は、一月十五日に餅つきをして返すことになっている。

これは伝説ではなく、現在も続いている家の習俗の由来譚である。ある家が正月に餅を搗かない。近隣から餅をもらう。その理由が「六部殺しの祟り」として説明されている。

すごいのは、この習俗が実際に運用されていることだ。伝説が、生活のルールになっている。そしてそのルールは、その家が過去に何をしたかを毎年思い出させる装置として機能する。正月が来るたび、餅をもらうたび、あの家は六部殺しの家だという記憶が更新される。

千年単位で刑期の続く判決みたいなものだ。

列島じゅうに散らばる、無数の断片

主要な三本以外にも、変形は無数にある。それぞれ短いが、味が違う。

山形県南置賜郡中津川村、いまの飯豊町で採集された話。ある家に六部が泊まった。金を持っていたので、細引きで絞め殺した。六部は死に際に言った。「この家を絶やして六地蔵にしてやる」。その家は一時栄えたが、果たしてやがて絶えた。

これは短いが、呪いの文句が具体的で怖い。六地蔵にしてやる。つまり墓場の入口の石仏にしてやる、家を絶やして更地にしてやる、という意味だ。しかも「六」部が「六」地蔵と言うところに、言葉の照り返しがある。

宮城県の話。正保年間、一六四四年から四八年の頃、ある宿屋に六部が泊まった。宿の主は六部の所持金に目がくらんで殺してしまった。数年後、弟分だという六部がやってきて、その六部が泊まらなかったかと尋ねた。主人は知らないと答えたが、囲炉裏の灰のなかから偶然、見覚えのある笠の金具が出てきた。弟分の六部はすべてを悟り、殺された友のために読経した。すると六部が幽霊となって現れ、この恨みに必ず報いる旨を告げた。弟分も呪法を結んで立ち去った。以後その宿屋には不幸が続いて子孫が絶え、その場所に住んだ者も皆不幸に見舞われたので、幽霊屋敷、化物屋敷と呼ばれるようになった。

灰のなかから笠の金具が出てくる、というディテールが素晴らしい。証拠は必ず出てくる。土のなか、灰のなか、水のなか。隠したものは戻ってくる。

もう一つ宮城の話。所有者が必ず死ぬという奇怪な土地がある。これは昔、旅に行き暮れた六部を泊め、その所持金に目がくらんで殺害し、屋敷の一隅に埋めてしまったためだという。六部の怨霊がいつまでもその地の所有者に祟って、夭折させたり作物を不毛にしたりした。その後、六部の墓を建てて弔ったが、今日でもはっきりした所有者はなく、荒れるにまかされている。

これはもう不動産の話である。呪われた土地。買い手がつかない土地。伝説が地価に影響を与えている。

茨城の話も同系統だ。病人畑だとは知らずに桑畑を購入した家では、不幸なことが次々と起こった。調べると、昔泊めた六部の坊さんを殺して金を奪った祟りで、火の玉が出て潰れた屋敷跡であることがわかった。すぐにこの土地を手放すと不幸はなくなった。しかしこれを買った家は不幸が続いた。

呪いが土地に紐づいて、売買のたびに次の持ち主へ移っていく。冷酷なほど合理的な設計だ。

長野の話。ある家に六部が泊まった。その六部が持っていた大金を奪い、それを資本に商売を始めた。その家にはヒキガエルがたくさんいるようになった。やがてその家は悪疫が広まり、家運も衰えた。六部の祟りと言われた。

ヒキガエルが湧く、というのが不気味でいい。目に見える形で家が汚染されていく。

大阪の話。ある夜、一夜の宿を求めた六部があった。ところが翌日、家を出る姿を見た者はおらず、六部はそのまま消えてしまった。その後、その家は急に金持ちになったが、そのうち一家は、いま一人お迎えを待っている老婆を除いて死に絶えた。

これは殺害の場面すら描かれない。ただ「入ったのを見た者はいるが、出たのを見た者はいない」というだけ。そして家が急に金持ちになった。それだけで、村の全員が何が起きたか理解する。むしろこの省略の方が怖い。

新潟の話。六部の夫婦が鍛冶屋に泊めてもらった。鍛冶屋の主人は妻の六部に横恋慕して、翌日、夫をだまして淵に投げ込んで殺した。それ以来、盆の十六日に、淵のそばの木に緋の袈裟が掛かるという。また、鍛冶屋の子どもには代々痣ができるようになった。

これは金ではなく女が動機だ。そして罰の与え方が違う。子孫の身体に痣として刻印される。血筋に印がつく。憑き物筋の考え方に、かなり近づいている。

宮崎の話は六部ではなく座頭だ。座頭が上京の途中、峠で休んでいると強盗が現れて金を奪った。座頭は「金は増えるが祟りがあるぞ」と言った。その通り、強盗の子孫には不幸が続いたので、そこに座頭神を祀った。それが今の神社で、そこを座頭坂という。

「金は増えるが祟りがあるぞ」。これはこの説話群全体の要約みたいな台詞だ。富と災厄はセットで来る。

江戸落語「もう半分」に化けた、同じ骨格

六部殺しの構造は、江戸の落語にも入り込んでいる。三遊亭圓朝作とされる怪談噺「もう半分」だ。別名を「五勺酒」という。

日光街道千住のやっちゃ場のそば、枡で量った酒を茶碗に注いで飲ませる注ぎ酒屋。夫婦二人でやっている小さな店だ。

そこへ毎日、近所の棒手振りの八百屋の爺さんがやってくる。この爺さんの飲み方が変わっていて、茶碗に半分だけ注がせる。飲み干すと「もう半分ください」と言ってまた半分注がせる。それを何杯も繰り返す。

なぜかと聞かれてこう答える。酒飲みってのは卑しいもんで、三杯が半分だと倍の六杯飲めるような気がして得をした気持ちになるんです。では、もう半分。

ある晩、爺さんが帰ったあと、店主が座っていた樽のところを見ると、ずしりと重い風呂敷包みが忘れてある。開けてみると、五十両の大金だ。

正直者の亭主は追いかけて届けてやろうとする。だが身重の女房が止める。折角転がり込んだ大金だ、しらばっくれてしまえ。

そこへ爺さんが真っ青になって飛び込んでくる。女房は、そんなものはなかったと突っぱねる。爺さんは泣いて訴える。あの金は娘が吉原に身を売ってこしらえてくれた金だ。あれを元手に棒手振りをやめて店を持つのだ。あれがなくては娘の手前、生きていられない。

それでも女房は知らないと言い張り、追い返してしまう。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ帰っていく爺さんの後を追った。千住の大橋まで来た時、橋から川へ身を投げる人影があり、ザブーンという音がした。

まもなく女房が産気づいて、男の子を産んだ。その顔を見ると、歯が生えていて、白髪まじりで、あの爺さんそっくりだった。それがギョロリとにらんだので、女房は叫び声を上げて、そのまま死んだ。

亭主はその五十両を元手に店を大きくし、奉公人も置いて繁盛した。ところが赤ん坊の世話をする乳母が五日と居つかない。何人目かにようやく理由を聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯の油を舐めるので怖くて居られないという。

その真夜中、亭主が棒を片手に見張っていると、丑三つの鐘と同時に赤ん坊がひょいと立ち上がり、行灯のところへ行って油皿をペロペロ舐め始めた。

思わず飛び出して「こんちくしょうめッ」と打ちかかると、赤ん坊がこちらを見て、油皿をひょいと差し出して言った。

「もう半分」。

構造を見れば、六部殺しそのものだ。旅人ならぬ常連客、殺害ならぬ見殺し、致富、異形の子、そして反復する台詞による告発。

異なるのは、告発の言葉が「こんな晩だったな」ではなく、爺さんの口癖の再現だという点だ。日常のなかで何百回も交わされた、なんでもない一言。それが最後に、まったく違う意味を帯びて戻ってくる。落語という話芸だからこそ可能になった変奏だと思う。

この噺には先行作品がある。明治四十年七月の『文藝倶楽部』に載った五代目林家正蔵の速記「正直清兵衛」がそれで、あらすじが酷似している。本所林町の青物商・清兵衛が、借金返済のため娘が身売りして作ってくれた十五両を居酒屋に置き忘れる。居酒屋の主人夫婦は知らぬ存ぜぬを押し通し、主人は泣く泣く帰る清兵衛を追って刺し殺す。その後生まれた赤ん坊は白髪で顔中皺だらけ。この子が成長して主人夫婦を殺し、仇を討つ。

こちらは、赤ん坊が本当に成長して復讐を完遂する。より直接的で、より容赦がない。石川鴻斎の漢文小説『夜窓鬼談』所収の「鬼児」も類話とされる。

明治の日本で、この話型が落語と読み物の両方で並行して流通していたわけだ。

「持田の百姓」――殺す相手が、自分の子に入れ替わったとき

もう一つ、決定的に重要な変形がある。殺される相手が旅人ではなく、自分の子どもになる型だ。

小泉八雲の『知られぬ日本の面影』に「持田の百姓」という話がある。出雲の話だ。

貧しい百姓が、生まれた子を六人まで次々と川へ捨てた。間引きである。そのおかげで、ようやく少し余裕のある暮らしができるようになった。

七人目の男児は、跡取りとして育てることにした。溺愛した。

ところがある日、月夜の庭へ散歩に出ると、抱いていた乳呑み児が口を利いた。

「わしを最後に捨てた夜も、こんな月夜だったね」。

そしてすぐに、普通の赤子に戻った。

百姓は出家した。

これは六部殺しの外部性を、内部に折り返した型だ。異人ではなく、自分の子を殺す。しかもそれは強盗ではなく、生きるための人口調整だった。

近世以前の日本人にとって、新生児の間引きは、できれば避けたい悪事ではあったが、生活のためのやむを得ない出産調整でもあった。現代人が中絶に対して抱く感覚と、それほど大きな差はなかっただろうと言われている。

だからこそ、この話には別種の毒がある。父親は明確な犯罪者ではない。貧しさに追い詰められて、誰もがやっていたことをやっただけだ。にもかかわらず、罰は来る。しかも罰を下すのは、いま自分がいちばん愛している赤ん坊である。

そして見逃せないのは、この赤ん坊が一言だけ言って、すぐ普通の赤子に戻ることだ。呪いは実行されない。家は滅びない。ただ、父親は自分が何をしたかを知ってしまった。それだけで十分だった。彼は出家した。

この型は、間引きによって死んだ子の霊が家に富をもたらすという座敷童子の系譜とも接続する。佐々木喜善は『奥州のザシキワラシの話』で、座敷童子の正体は間引きにより殺され床下に埋められた子どもの場合もあるという説を述べている。南方熊楠もこれを広い地域に敷衍するような見解を示し、折口信夫は「座敷小僧の話」で六部殺しとも絡めながら、若葉の霊と座敷童子の関係を論じた。

柳田國男、南方熊楠、折口信夫。日本民俗学の草創期の三巨人が、そろってこの領域に関心を示していたのは偶然ではない。

外から来た異人を殺して富を得る話と、内で生まれた子を殺して富を得る話。この二つは、同じコインの表と裏だ。

漱石『夢十夜』第三夜は、この話の芯だけを抜き取った

夏目漱石の『夢十夜』の「第三夜」は、六部殺しの民話から、恐怖の芯だけを抜き取ったような短編だ。

こんな夢を見た、で始まる。自分の子を背負って、暗い田圃道を歩いている。子どもは六つで、盲目である。だが背中の子は周囲の状況を正確に把握している。もうすぐ道が二股になる、といったことを言い当てる。しかも口調が異様に大人びている。

歩を進めるごとに、思い出してはならない何かを思い出しそうな気がしてくる。

背中の子が、ぽつりと独り言のように言う。「ちょうどこんな晩だったな」。

やがて山の一本杉の前に着く。すると背中の子が言う。

「ここで御前がおれを殺したのは、今からちょうど百年前だね」。

その言葉を聞いた瞬間、自分は百年前の文化五年辰年、この杉の根で一人の盲人を殺したことを思い出した。

そして、過去の殺人を自覚したとたん、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

漱石はこの話から、いくつかの要素を削ぎ落としている。金がない。致富がない。家の没落がない。ただ、殺した記憶と、それを告げる背中の重みだけが残る。

そして加えたものがある。加害者が自分だという確信が、告発によってではなく、自分の記憶の内側から立ち上がってくるという構造だ。子どもが教えるのではない。子どもの言葉が引き金になって、自分で思い出してしまう。

罪の意識というものが、外から来るのではなく内側から湧いてくるということ。漱石はそれを、六部殺しという民話の器を借りて書いた。石地蔵のように重くなる、という結末は、罪悪感の重量そのものだ。

近代文学がこの民話を発見したというより、この民話がもともと近代的な罪の構造を先取りしていた、と言うべきかもしれない。

現代版は、フェリーの上で起きる

この話は、いまも生きている。都市伝説の形で。

持田の百姓の型がさらにアレンジされたバージョンがある。

低所得の若いカップルに子どもが生まれた。育てられない。あるいは、生まれた子に障害があった。フェリーに乗った際、その子を水に落として殺した。

その後、また子どもが生まれた。今度は溺愛して育てた。

その子を連れてフェリーに乗っていた時、子どもが急におしっこがしたいと言い出した。仕方なく抱きかかえて、体を手すりの外に出してやった。

すると子どもが振り返って、一人目の子の顔で言った。

「今度は落とさないでね」。

これは怖い。しかも構造が完璧に保存されている。反復する状況設定、無防備な世話の最中、そして一人目の顔。

古い型では、告発の台詞は「お前が俺を殺したのもこんな晩だったな」だった。現代版では「今度は落とさないでね」になっている。責めていない。むしろ甘えている。だからこそ恐ろしい。

こういう変奏が自然に生まれてくること自体が、この話型の生命力を示している。舞台が農村からフェリーに変わり、動機が強盗から育児放棄に変わり、それでも同じ骨で立っている。

語られる現場を、もう少し丁寧に想像してみる

ここまでで多くの事例に触れたが、実際の民俗調査のなかでこの話がどう語られたか、もう少し立ち入っておきたい。伝説は、テキストとして読むのと、語られる現場を想像するのとでは、まったく違う顔をするからだ。

一つめ。佐渡・外海府の造り酒屋の縁者にあたる女性の話を、もう一度別の角度から見てみる。

この女性が語ったのは、単なる昔話ではない。一族に若死にする者が続いていること。地区がかつて火事部落と呼ばれるほど火事が多かったこと。そして彼女自身が心身の激しい不調に長く苦しんだこと。それらすべてが、幕末に滝壺へ突き落とされた六部の祟りとして統合されていた。

彼女はまず相川の、次に島外の女性の宗教者を頼った。どちらもシャーマン的な資質を持った人物で、彼女たちには六部の霊が乗り移った。乗り移った霊が因縁を語る。何があったのか。誰が悪かったのか。何を求めているのか。そして供養を要求する。その交渉は、調査者に対して「生々しいやりとり」として再現されたという。値段の交渉のような、示談交渉のような具体的なやりとりが、霊と人間のあいだで行われたということだ。

結果として、滝壺に沈んでいた六部の霊魂は引き上げられ、地区の寺の門前の小堂に普賢菩薩として祀られた。

祟る霊を祀り上げて守護神に転化させる。日本人が千数百年やってきた手続きが、二十世紀の後半にも、こうして実行されていた。伝説は化石ではない。因果の説明装置として稼働し続け、稼働した結果として現実の宗教行為を引き起こす。

二つめ。宮城の「地主のない土地」の話を、村の側から想像してみる。

所有者が必ず死ぬという土地がある。昔、旅に行き暮れた六部を泊め、所持金に目がくらんで殺害し、屋敷の一隅に埋めた家の跡地だという。六部の怨霊がその地の所有者に祟って、夭折させたり作物を不毛にしたりする。のちに六部の墓を建てて弔ったが、今日でもはっきりした所有者はなく、荒れるにまかされている。

この記述は一九五六年のものだ。戦後十年余り。農地改革を経て、土地の所有関係が大きく組み替えられた時期である。

その時期に、誰の名義にもなっていない土地が、村のなかに空白として残っている。草が伸びて、誰も手をつけない。子どもたちはそこで遊ぶなと言われる。

村の人にとって、その空白は日々目に入る。目に入るたびに、なぜそこが空白なのかという説明が要る。そして説明は用意されている。あそこは六部を殺した家の跡地だ。

伝説というのは、こういう風景の穴を埋めるために存在している。理由のわからないものが村のなかにあると、人は落ち着かない。だから理由を作る。作った理由は、次の世代へ渡される。

三つめ。愛媛の、正月に餅を搗かない家の話。

暮に餅を搗いていると六部が訪ねてきた。家の者は、その六部が大金を持っていたので殺して金を奪った。祟りによるものか、翌年の正月は餅を作れなかった。以後、この家では正月に餅を搗くことをやめ、他家からもらって祝うようになった。もらった餅は、一月十五日に餅つきをして返す。

これは体験談ではないが、いまも続く行為の説明である。そして、この習俗がどれほど残酷かを考えてみてほしい。

正月というのは、村じゅうがそろって同じことをする時期だ。どの家でも臼を出して餅を搗く。杵の音が集落じゅうに響く。

そのなかで、一軒だけ音がしない家がある。

そして誰かがその家へ餅を届けに行く。届ける側も、受け取る側も、なぜこうしているのかを知っている。知りながら、何も言わずに餅を渡す。

十五日になると、その家は餅を搗いて返す。年が明けてから半月後。もう祭りは終わっている。誰も見ていない時期に、こっそり搗く。

これが何百年、あるいは何十年続いたのか。この家の当主は、代替わりのたびにこの取り決めを引き継いだはずだ。息子に説明したはずだ。うちは正月に餅を搗かん。なぜかというとな。

その会話を想像すると、六部殺しという伝説の本当の重さがわかる気がする。

柳田國男は、なぜこの話を昔話に入れなかったのか

学問の側がこの話をどう扱ってきたかを見ていこう。

まず柳田國男だ。柳田は一九四八年の段階で、「こんな晩」を昔話として認定しなかった。関敬吾も一九五九年の集成で、参考資料として記すにとどめた。日本の昔話研究の二大巨頭が、そろってこの話を正式な話型のリストに入れなかったことになる。

これは冷遇というより、ジャンルの問題だ。昔話は虚構として語られる。伝説は事実として語られる。世間話は身近な出来事として語られる。六部殺しは明らかに昔話ではなかった。

もう一つ理由があったかもしれない。あまりに生々しかったのだ。この話は特定の家に紐づいて語られる。学問がそれを収録して公刊すれば、名指しされた家の立場はどうなるか。

柳田は憑き物筋の問題にも早くから注目していて、人々が憑き物筋を恐れる根底には、仏教の隆盛によって廃れた修験道などの古い信仰を続ける家に対する、得体の知れなさへの不安があると分析していた。柳田は、この種の伝承が現実の差別と地続きであることを、よく理解していた人だ。

柳田自身は別の角度から関連する領域に踏み込んでいる。座敷童子の研究だ。

『遠野物語』十八話と十九話。土淵村の山口孫左衛門の家は繁栄を誇っていたが、幸いをもたらしていた二人の座敷童子がある夜ほかの家へ移った後、一日にして没落した。毒キノコのために家族と使用人が死に絶え、財産は縁者たちに持ち去られ、たまたま出かけていて茸を食べなかった七歳の娘だけが生き延びた。

家の突然の繁栄と、突然の没落。それを外部から来て外部へ去る何ものかによって説明する。六部殺しと座敷童子は、同じ問いに対する二種類の答えだ。

小松和彦『異人論』――「異人殺し」というカテゴリの発明

この話を学問の中心へ引きずり出したのが、小松和彦である。

一九八五年に青土社から出た『異人論――民俗社会の心性』、のちにちくま学芸文庫に入った本だ。その巻頭に置かれた論文が「異人殺しのフォークロア――その構造と変容」である。

小松がやったのは、まず「異人殺し」という分析カテゴリを立てたことだ。六部だけの話ではない。座頭も、旅の盲人も、遍路も、修験者も、行商人も、名もない旅人も、みな同じ機能を果たす。共同体の外から来る者。属性は問わない。効いているのは「外部性」だけだ。

この操作の意義は大きい。山伏だとか六部だとかいう民俗語彙を使っている限り、話は日本の特定地域の特殊事例にとどまる。それを異人という抽象概念に置き換えることで、個別的な事象を通文化的なレベルの議論に押し上げることができる。小松自身がのちにそう説明している。

そして小松は、異人歓待説に疑問を呈した。折口信夫のマレビト論以来、異人は神として歓待されるものだという理解が支配的だった。だが実際には、異人は歓待されるだけでなく、排除もされるし虐待もされる。歓待されるか排除されるかは、異人の側の問題というより、異人を受け入れる側の事情によって変わる。ここでいう異人には隣村の者も含まれる。海の彼方から来た人は隣村から来た人に比べて異人度が高い、というグラデーションの捉え方だ。

その上で、伝説のメカニズムを解剖する。小松の見立てはこうだ。

村のなかで、ある家が急に富み始める。周囲はそれを説明する必要に迫られる。だが正当な説明――勤勉だった、運がよかった、商才があった――は採用されない。なぜなら村人は、富は限られていると考えているからだ。誰かが多く取れば、誰かが少なくなる。だから急激な致富には、必ず不正が疑われる。

そこへ、都合のいい材料が転がっている。そういえばあの家に旅人が泊まった。その旅人がその後どこへ行ったのか、誰も知らない。

材料と結論が結びつく。あの家は、あの旅人を殺したのだ。

そして、この物語は語られることによって効果を発揮する。名指しされた家は、共同体のなかで道徳的に汚染される。付き合いにくくなる。縁組を避けられる。やがて没落する。あるいは没落しなくても、精神的に孤立する。

つまり異人殺し伝説は、共同体が突出した富を持つ家を制裁するための、社会的な武器だった。

小松はさらに、この伝説が別の形へ変形していくことも追った。異人殺しから神霊虐待へ。人間を殺すのではなく、神仏の像を粗末に扱った、御神木を伐ったという形に置き換わる。同じ機能を果たすが、より穏当になる。

そして昔話の「大歳の客」との関係も論じている。大歳の客は、大晦日の夜に貧しい家へみすぼらしい旅人が来て、泊めてやると翌朝黄金に変わっている、という話だ。歳神が乞食に姿を変えて人を試しに来るという構造で、笠地蔵もこの系譜に属する。

大歳の客と六部殺しは、まるで正反対の話に見える。片方は歓待して富を得る。もう片方は殺して富を得る。だが結果は同じだ。旅人が来た。旅人が消えた。家が富んだ。

関敬吾の『日本昔話大成』が整理した大歳の客の型を見ると、隣の金持ち夫婦が翌年の大年に乞食を捜してきて無理やり泊める、というバリエーションがある。そして乞食は汚いものになる。牛の糞になる。蛇になって二人を呑む。蛆になる。死んでいる。そして――金にならないので殺す。

最後の型が決定的だ。歓待の失敗が、そのまま殺害に転化している。大歳の客と異人殺しは、同じ物語の二つの分岐なのだ。

「貨幣殺し」――共同体が本当に殺したかったもの

小松は『異人論』の議論を、一九九七年の『悪霊論――異界からのメッセージ』に収められた「異人殺しの伝説の歴史と意味――歴史社会の民俗創造」でさらに押し進めた。

ここで小松が持ち込んだのは、シャーマンの託宣という視点だ。村落共同体で異変が起こる。病が続く。子が死ぬ。火事が続く。シャーマンが呼ばれる。シャーマンに憑依した霊が語る。語られた内容によって、異変の原因が明らかになる。

つまり異人殺し伝説は、書物から引かれてきたのではなく、現場で生成される。佐渡の事例がまさにそうだった。宗教者に六部の霊が乗り移って因縁を語り、供養を要求する。その語りが、伝説を更新し、肉付けする。

そして小松が出した結論が刺激的だ。異人殺し伝説とは「貨幣殺し」である、と。

村落共同体には、均衡を維持したいという願望がある。突出した長者を殺したいという願望と、外部の世界への不安。それが結晶したのがこの伝説だ。共同体は貨幣を排除しようとした。だが結果として、共同体は貨幣によって崩壊した。

この読みは、歌舞伎評論の文脈で別の書き手が展開している解釈とも響き合っている。六部殺しの話で、村人が裕福になった家に「殺させたかった」のは、実は六部ではなく、六部が持っていた金の方だった。お金こそが共同体にとっての異人であり、まれびとだった。

近世になって貨幣経済が民衆の生活に浸透し、それまで物々交換的だった共同体内部の経済を破壊し始めた。慶長から寛永のあいだに金貨・銀貨・銅貨が鋳造され、初めて全国統一の貨幣経済が整う。六部殺しの伝説が近世に頻出するのは、この時期と重なる。

貨幣という得体の知れないものが村に入ってきて、隣の家を急に金持ちにする。その理不尽さへの憤りが、物語の底に流れている。六部を殺す話は、近世に入って登場した新しい形式の異人殺しなのだ。

常光徹――いまの若者も、同じ型を作り続けている

もう一人、重要な研究者がいる。常光徹だ。『学校の怪談』の著者として知られるが、彼は一九九〇年、『口承文芸研究』第十三号に「異人殺し伝承の創造――若者たちの語る怪談と『こんな晩』」という論文を発表している。

キーワードとして挙げられているのが、現代社会、都市、類型性、因果応報譚、機能。

常光は中学校の教員をしながら、生徒たちの語る怪談を採集し続けた人だ。その視点から見ると、六部殺しは過去の遺物ではない。現代の若者が語る怪談のなかに、同じ構造が繰り返し出現する。

さきほどのフェリーの都市伝説がまさにそれだ。誰かが古典を意識してリメイクしたわけではない。因果応報という語りの型が、新しい舞台を得て自然に再生産される。

そして常光は、世間話の力について、こんな趣旨のことを言っている。世間話はまことしやかに話されるため、聞き手にとって他人事ではない、ある種の共感を伴った怖さを呼び起こす。そういうリアリティーがある、と。

六部殺しは、まさにその「まことしやかさ」で生き延びてきた。昔むかしではない。この村の、あの家の話として。

憑き物筋と、危ういほど近い場所にある

六部殺しを語るとき、避けて通れないのが憑き物筋の問題だ。

憑き物筋というのは、狐やオサキ、クダ、犬神、トウビョウといったものが憑くとされる家系のことだ。主に江戸時代以降に広まった観念で、これらの筋の家から嫁を貰うと憑きものも一緒に来て災いをもたらす、と信じられた。そのため縁組が忌避された。差別である。

ここが肝心なのだが、憑き物筋とされる家の多くは、旧来の居住者ではなく、二次的に外部から移住してきた家で、しかも富裕だった。つまり「よそ者の成り上がり者」だ。

六部殺しの家と、まったく同じ属性である。

憑き物筋研究の系譜を追うと、この一致が偶然でないことがわかる。

石塚尊俊は、共同体内の富や資源が第二期入村者によって奪われる、あるいは独占されることに嫉妬した第一期入村者が憑き物筋の語りを生成し、新来者もそれに同調したのが発祥だと述べた。島根、高知、大分といった憑きもの多数地帯の根底には、共通して経済的な嫉妬があるとした。

速水保孝は、自身が狐持ちの家の出だという立場から、憑き物筋とされる人々を直接の話者として膨大な資料を集めた。彼は狐持ちの発生を享保期の貨幣経済浸透に求めた。享保期に貨幣経済の流れに乗って富を築いた人々に対する、小作人や、流れに乗り遅れて経済格差を見せつけられた人々の嫉妬。それが憑き物筋発生の原因だという。

そして地理的な分布の説明が興味深い。家のつながりが強力で農業を家の人間だけで行う東北地方では、憑き物筋の語りは生成されない。逆に貨幣経済が十分に浸透した近畿地方でも生成されない。東北と近畿の中間ともいうべき社会経済の発展を見せた西日本でこそ、憑き物筋は強力に成立し得た、と分析している。

吉田禎吾は文化人類学の立場から、憑き物筋の語りが「不幸を説明する機能」を持つこと、そして村の規範や価値体系を維持する安全弁として働くことを指摘した。富を獲得した家系が憑き物筋として語られ、汚名を着せられた家が勢いを失って没落し、やがて共同体は経済的に平準化されていく。

この平準化のメカニズムが、六部殺し伝説とまったく同じだ。

違うのは、憑き物筋が血統に紐づくのに対し、六部殺しは家の来歴に紐づくことだ。憑き物筋は嫁いだ先へも移る。六部殺しは土地と屋敷に貼りつく。だが機能としては相互に交換可能で、実際に両方が重なって語られる地域もある。

そしてもう一つ、憑き物筋の対極にあるのが座敷童子だ。座敷童子がいる家は繁栄し、去ると没落する。やはり「よそ者の成り上がり者」の家にいるとされることが多いのに、負のイメージでは見られず、むしろ福の神として扱われる。

なぜ同じ構造なのに、片方は差別を生み、片方は憧れを生むのか。一つの推定は、憑き物筋の信仰がある農村は閉鎖的であるのに対し、座敷童子の信仰がある農村は比較的外部との交流が多く、限られた富というイメージが希薄だったのではないか、というものだ。

富は限られているのか、増やせるのか。この経済観の違いが、隣家の成功を呪いに変えるか祝福に変えるかを決めていた。

なお、この領域を扱ううえで念を押しておきたいことがある。ここで問題にしているのは、あくまで「そう噂されてきた社会構造」の話だ。特定の家や地域を名指しして、あそこは六部殺しの家だと語ることは、いまも昔も中傷である。伝説の分析と、伝説の再生産は違う。研究者たちが憑き物筋研究に取り組んだのも、もとをたどれば、戦後に再燃した差別を批判するためだった。

そんなに単純な話でもない――別説と反証

小松の分析はきわめて説得力があるが、これですべてが説明できるわけではない。いくつか別の見方を並べておきたい。

一つめは、客人婚との関連説だ。旅人を泊めた後にその家に生まれた子が旅人の面影を宿しているという構図は、妻女を夜伽に提供するマロウド婚の記憶と関わっているのではないか、という見方がある。つまり、その子は本当に旅人の子だった可能性がある。生まれ変わりではなく、単に父親が違う。だから顔が似ている。

これは身も蓋もないが、無視できない。佐渡の事例で娘が次々と旅人を部屋に引き入れていたことを思えば、旅の男と土地の女のあいだに子が生まれる状況は現実に存在した。共同体はそれを知っている。知っているが言えない。だから「生まれ変わり」という説明に置き換えた、という筋書きだ。

二つめは、リアルな治安の問題だ。江戸時代には護摩の灰が横行していた。旅人を装って家に入り込み盗みを働く者、道連れを装って仲間の宿へ誘い込み金品を巻き上げる者。素性の知れない他人と同じ屋根の下で寝ることには、実際に危険があった。六部殺しの話には、「旅人を泊めるな」という実用的な警告としての側面もあったはずだ。ただしこの読みだと、加害者と被害者が逆転する。泊める側が警戒すべき話であって、泊まる側が殺される話ではない。

三つめは、六部自身が語り広めたという説。すでに触れたが、これは行為主体を被害者側に置く点で面白い。旅の宗教者が、宿を借りるたびにこの話を語る。俺を殺した者は必ず報いを受ける。それは護符であり保険だった。六部の廻国は職業的ネットワークを持っていたから、話型が全国に均一に散らばる理由の説明にもなる。

ただし、六部研究の第一人者自身が「本当のところは謎です」と書いていることは重く受け止めたい。断定できるほどの証拠はないのだ。

四つめ。異人論そのものへの批判もある。小松の異人論は共同体についての理論であって、異人や異郷を主体として論じるものではなかった、という指摘だ。共同体が変容したことを納得するための理屈として、共同体の構成員が利用した解釈原理が異人だった。そこには、共同体よりも先に存在していた外部への視点や、共同体が構造化される力学への視点が欠けていた、と。

つまり、六部という実在した人々の側から見た世界が、この分析では抜け落ちている。彼らは何を考えて歩いていたのか。実際に殺されたケースはどれくらいあったのか。研究の手が届いていない領域はまだ広い。

五つめ。そもそも実際に殺人があったケースもゼロではないはずだ、という当たり前の指摘。物証として六部塚や供養碑が各地にあり、行き倒れの六部を葬った墓も多い。行き倒れと殺人の区別は、埋めてしまえばつかない。すべてを「根も葉もない噂」で片づけるのも、それはそれで乱暴だろう。

六部だけの話ではない――座頭、遍路、修験者、金売り吉次

小松が異人というカテゴリを立てたことの意味を、具体例で確認しておく。

座頭。盲目の放浪する宗教芸能者だ。彼らも民話の伝播者であり、六部と同様に旅を続ける存在だった。宮崎の座頭坂の伝説では、峠で休んでいる座頭が強盗に金を奪われ、「金は増えるが祟りがあるぞ」と言い残す。その通りに強盗の子孫には不幸が続き、座頭神として祀られた。

新潟の「大年の客」の類話では、大晦日にザトンボを親切に泊めた家では翌朝ザトンボが黄金になり、隣の欲深な男が翌年、嫌がるザトンボを無理やり泊めて井戸へ突き落とすと、震えているザトンボが上がってくるだけだった。

遍路。四国では、遍路が死んで祟る話が七人みさきの起源譚として語られる。土佐の伝承では、道で死んでいた遍路を弔わずに樽に入れて沖へ捨てた。それが漂着し、崖下に埋まったそばに松が生え、夜に火の玉が飛ぶようになった。そこを通ると必ず病気になる。その後、七人の遍路が死に、これを女遍路の祟りとして祀るようになった。

桂井和雄には「遍路や六部などの持ち金を盗んだ家筋の話」という論考があり、まさに土佐でこの型が「家筋」の問題として語られていたことを示している。

修験者。仙台の話では、ある束巻師の家に三人の娘がいたが、上の二人が同じような死に方をした。通夜の夜更けに呻き声がするので覗くと、娘の死に顔が赤黒い鬼のようになってにらんでいる。その変化が語る。

我はこの家の七代前の先祖に殺された山伏の霊である。公金を携えて上方へ旅した時、先祖の男と道連れになったが、男は山中で私を殺して大金を奪った。先祖の男はその大金を元手に分限者となったが、一片の供養の心もない。無念であったが、代々運勢が盛んで祟ることもできなかった。しかしようやく恨みを晴らすべき時が来た。偽りと思うなら箪笥の奥に自分を刺した刀がある――。

この話には、六部殺しにない要素がある。祟りが七代後まで待たされたという時間感覚だ。家運が盛んなあいだは祟れない。衰えたときに来る。恨みは消えないが、実行のタイミングを選ぶ。

金売り吉次。平安末期の伝説的な商人で、奥州の金を京で商い、源義経を平泉へ送り届けたとされる人物だ。実在の個人というより、当時奥州と京都を往来していた砂金商人たちの集合的なイメージだと考えられている。

この吉次が、各地で殺されている。

福島県白河市には吉次兄弟のものと伝えられる墓があり、承安四年、一一七四年に砂金の交易の途上で群盗に襲われて殺されたと伝わる。奪われた革の葛籠を捨て置いたので、その土地を皮籠と呼ぶという地名由来譚もついている。千葉県印西市には吉次沼という沼があり、荒神左近という盗賊が兄弟を殺して金品を奪った場所だとされる。栃木県壬生町にも吉次の墓があるが、こちらは病死したことになっている。

各地の伝説では、吉次は炭焼藤太の名ともその子の名ともされ、黄金採掘で富を築いた富豪の名ともその召使の名ともされる。一面では致富譚として、他面では非業の死を遂げる没落譚として伝えられている。致富と横死がセットで語られる構造は、六部殺しと同じだ。金を持って旅する者は殺される。そして殺した土地には地名が残る。

炭焼藤太、金売り吉次、鋳物師、金細工師、鍛冶。これらの漂泊の技術者集団は相互に交流があり、彼らが伝説の成長と伝播に関与したのではないかと推測されている。話を運ぶ人々が、同時に話の主人公でもあった。

石は、話の錨だ

ここまで来て、思い出してほしいことがある。六部殺しは物語だが、その物語の周りには実際に石が立っている。

廻国供養塔。六十六部の廻国を成し遂げた者が、その成就を記念して建てた石碑だ。銘には関係者の名前や地名が刻まれるので、実際に六部がどう行動していたかを知る有力な手がかりになる。佐渡には全島で二百五十以上が立っている。焼津の三人組も、明治期に再建されたものだが廻国成就の供養塔が現存している。

六部墓、六部塚。廻国の途中で行き倒れた聖のために立てられた墓だ。

東京都渋谷区幡ヶ谷の寺には、延享四年、一七四七年に空心という者が造立した六十六部供養地蔵がある。

長野の話。中原の洞で旅の六十六部が行き倒れて亡くなったので、近くの人たちが葬った。しばらくして近くに災いが起こり、行者を頼んで調べてもらったところ、六十六部の墓を粗末にしている祟りだと教えられ、祀りなおした。

宮崎の話。チンチン坂は六部が行き倒れになったところで、塚の周辺の家で不幸が続いたので、寺に供養してもらい、僧の指示で石を供えた。その後その家も転居し、塚は宅地造成でなくなった。

鹿児島の話。藩政の頃、上村の番所を通ろうとした六部とその娘が通過を許されず、岩から入水した。今このあたりの瀬を六部瀬という。この六部が持っていた粟が、普段は草も生えぬあたりで芽を出し、人々は驚いた。九十歳くらいの人はだいたいその粟を見たという。今はもう生えない。下村の人たちが建てた六部の墓が、昔の墓所だった所に今も建っている。台風の時に墓のあたりの土から巡礼の持つ鈴が出てきたという。六部うらみの歌という辞世の歌も残っている。

土から鈴が出てくる。この一行の力よ。

石は、話の錨だ。石があるから話が土地に固定される。話があるから石が守られる。どちらが先かは、もうわからない。

そして共通しているのは、放置すると祟る、祀ると鎮まる、という運用ルールだ。日本の霊は、基本的に交渉可能である。

なぜ、これほど怖いのか

さて、そろそろ核心に踏み込みたい。この話はなぜ怖いのか。

いくつも理由が挙げられるが、私がいちばん効いていると思うのは、告発者が「愛されている存在」だという点だ。

普通の怪談では、恨みを持つ死者が幽霊として現れる。それは外から来る。だから逃げられる可能性がある。お祓いもできる。

六部殺しは違う。復讐者は、加害者の家のなかで、加害者に食わされ、加害者に抱かれ、加害者に溺愛されて育つ。何年も。しかも加害者は、それがどれほど嬉しいかを繰り返し語る。長いこと子どもができなかったのに、ようやく授かった、と。

その喜びの全部が、罠の一部だった。

次に、告発の瞬間の設定だ。多くの型で、それは小便のためだ。夜中にむずかる子を抱いて外へ出る。いちばん無防備で、いちばん親密な世話をしている最中。片手で子どもを抱えて、もう片方の手は使えない。真っ暗ななか、腕のなかの重み。

そこで声がする。

三つめ。天候の反復。あの晩と同じ月夜、あるいは同じ闇夜、同じ雨。これは物理的に不可能なことは何も起きていない。ただ天気が同じというだけだ。にもかかわらず、時間が輪になって閉じてしまったという感覚が生まれる。逃げ切れなかった、という感覚だ。

四つめ。沈黙の期間。三年、五年と一言も話さなかった子が、最初に発する言葉がそれだ。ずっと黙って見ていたということになる。生まれてからずっと、この日を待っていた。赤ん坊の無表情が、事後的に、監視の表情に書き換えられる。

五つめ。証拠がないこと。この話の加害者は誰にも見られていない。完全犯罪である。にもかかわらず罰は来る。人間の司法が届かない領域に、別の司法があるという発想だ。

そして六つめ。これが最も現代的だと思うのだが、この話は「自分が加害者だったらどうしよう」という想像を強制する。多くの怪談は、被害者に感情移入させる。この話は、加害者に感情移入させる。読者は殺す側の目線で最初から最後までを追う。金が欲しくてたまらなくなる気持ち。殺してしまったあとの夜。子どもができた喜び。そして、あの一言。

自分のなかにある、それをやりかねない部分に触ってくる。だから怖い。

なぜ、全国に広まったのか

最後の大きな問い。この話はなぜ日本中どこにでもあるのか。

理由は複合的だと思う。整理してみる。

第一に、需要があった。近世、貨幣経済が村落に浸透していく過程で、どの村でも同じ現象が起きた。ある家が急に富む。共同体はその理由を説明できない。説明できないと落ち着かない。だから物語が要る。

そして必要とされる物語の条件は厳しい。その家の富を否定的に説明できること。証拠が要らないこと。反証も不可能であること。語ることが制裁になること。六部殺しは、この条件を完璧に満たす。証拠はない。当事者以外は知り得ない。だから否定もできない。使い勝手のいい道具だった。

第二に、素材が全国に均一に存在した。六部は日本全国六十六か国を回る。定義上、行かない土地がない。しかも近世には遍歴者の代名詞になっていた。どの村の人間も、六部を見たことがある。だから、どの村でも同じキャストで同じ話が成立する。

これは他の異人では難しい。座頭は地域によって出現頻度が違う。遍路は四国とその周辺に偏る。修験者は山岳地帯に濃い。六部だけが、全国に均等に散らばっていた。

第三に、話を運ぶ人々がいた。六部自身、座頭、瞽女、行商人。彼らは移動しながら話を運んだ。六部たちは物品や昔話、呪いごとを地域社会に置いていったと指摘されている。しかも彼らには職業的なネットワークがあった。話型が地域差を保ちながら全国に散らばるという状況は、こういう伝播経路を想定すると理解しやすい。

加えて、因果応報の教訓譚として僧侶や巡礼者が説法のなかでこの型を使った可能性も高い。討債鬼故事が仏教とともに中国から入ってきたことを考えれば、この経路は自然だ。

第四に、話としての完成度が異常に高かった。伏線が一つで回収が一つ。登場人物が最少。特別な小道具が要らない。土地の名前と家の名前を差し替えるだけで、どこでも成立する。しかも所要時間が短い。囲炉裏端で五分で語れる。伝承は、覚えやすく、語りやすく、そして語ると気持ちいいものが生き残る。六部殺しはその三つを満たしていた。

第五に、変奏が容易だった。殺されるのは六部でも座頭でも遍路でも行商人でもいい。殺すのは家でも村でも船頭でも道連れでもいい。告発は言葉でもいいし、鯉を捌いたら血の海になるという形でもいい。結末は父の頓死でも家の断絶でも土地の呪いでもいい。骨格が強くて、肉づけが自由。だから土地ごとに独自の話に育った。徳島では金の鶏になり、愛媛では餅つきの禁忌になり、佐渡では大火になり、十日町では返り討ちになった。

第六に、この話が「事実として」語られたこと。事実として語られる話は、聞き手のなかで自分の村の記憶と接続される。そういえばうちの村にも似た話が。そうやって話は根を張る。

現代の因習村ホラーへ、どう流れ込んだか

近年、和風ホラーで「因習村」という言葉がすっかり定着した。おぞましいしきたりに縛られた村を舞台にするジャンルで、ネットミームとしても機能している。

この系譜のルーツを辿ると、江戸川乱歩の『孤島の鬼』、横溝正史の金田一耕助シリーズに行き着く。『本陣殺人事件』が出たのが終戦の翌年、一九四六年。当時は日本全国に本物の閉鎖的共同体が存在していて、独自の風習や迷信がリアリティを帯びていた。『犬神家の一族』『八つ墓村』『悪魔の手毬唄』。絶対的権力で下々を支配する富豪一族というのは、因習村ものに不可欠な存在だ。

そして、この「富豪一族」の出自を説明するとき、しばしば六部殺しに近いモチーフが使われる。あの家が栄えたのには、恐ろしい理由がある。

直接的な作品もある。三津田信三のホラー小説『のぞきめ』は、この伝承を明確に題材にしている。二〇一六年に実写映画化された。作中では、六部殺しで繁栄した村に、殺された六部の少女の霊が眠っていて、それを鎮めるための生贄となる少女を村のお堂の地下に閉じ込めていた。外界からやってきた男によってその調和が乱される。そして村自体がダムの底に沈む廃村になる。六部の霊は浮遊し、外界と村を繋いでいた峠を訪れる者に取り憑くようになる。

三津田信三の刀城言耶シリーズ全体が、民俗学に詳しい作家が因習の残る集落や離島を訪れて奇怪な事件に巻き込まれるという構造で、本家と分家の対立、化け物の仕業か人間の犯行かわからない事件といった要素で組み立てられている。この土壌に六部殺しが馴染むのは当然だ。

漫画では、加藤元浩の『Q.E.D.証明終了』の第四話「六部の宝」が、この伝承を前提とした話になっている。ミステリの側から見ると、六部殺しは「動機が過去にある」「地元の全員が知っている」「物証がない」という三点で、非常に扱いやすい素材だ。

映像作品では、二〇一七年から放送されたオムニバス形式のホラードラマ『妖ばなし』の第九話が、そのものずばり「こんな晩」というタイトルで、現代日本を舞台に置き換えた因果応報の物語になっている。

因習村ものの隆盛には、クトゥルフ神話を題材にした卓上ロールプレイングゲームの影響も大きい。和風ホラーシナリオの多くが因習村を舞台に設定しているため、作る側と遊ぶ側の双方でこのイメージが共有され、増殖していった。

なぜ六部殺しがこのジャンルと相性がいいのか。因習村ホラーの快感の中核は「この村の人たちは全員、何かを知っていて黙っている」という状況だ。そして六部殺しは、まさにその構造を持っている。あの家が六部殺しの家だということを、村の全員が知っている。誰も本人には言わない。当の家の者も、たぶん知っている。知っていて、何世代も暮らしている。

この気まずさが、現代のホラーが求めているものそのものなのだ。

海外にも近い構造の作品がある。一九七三年のイギリス映画『ウィッカーマン』、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』、ナ・ホンジン監督の韓国映画『哭声』。閉じた共同体が外部から来た者をどう扱うかという主題は普遍的だ。

だが日本の因習村ものが独特なのは、共同体の側にはっきりとした後ろめたさがあることだと思う。ミッドサマーの村人には後ろめたさがない。彼らは自分たちが正しいと確信している。日本の因習村の住人は、自分たちが何か悪いことをしたことを知っている。知っていて隠している。その差を作ったのが、六部殺しという伝説なのではないか。

ネットではどう語られているか

ネット上でのこの話の扱いも見ておこう。

まず、百科事典的なサイトでは、殺されるのが六部とは限らないバリエーションがきちんと整理されている。修験者、托鉢僧、座頭、お遍路、行商人、あるいはただの旅人。殺す側も、泊めてくれた百姓とは限らず、同じ渡し船に乗った船頭、旅の道連れ、盗人という型がある。告発の方法も、言葉によるものだけでなく、鯉を捌くと血の海になり、それを見た子どもが犯罪を暴露するという形が紹介されている。

面白いのは、「六」という数字から、殺される六部が複数名の団体で、しかも六人とされる場合があるという指摘だ。この場合、殺すのが一軒の家ではなく村全体になる型もある。七人みさきと混同されることもあるという。

一軒の家の罪が、村全体の罪へスライドする。これは因習村ホラーの原型そのものだ。

怪談を扱う個人ブログや考察サイトでも、この話は頻繁に取り上げられる。「なぜ六部はこんなに殺されるのか」という問いはよく立てられ、たいていは異人殺し論に落ち着く。

近年の創作では、六部殺しの「その後」を想像した作品も出てきている。あるウェブ小説の考察では、この伝承が「お前が俺を殺したのはこんな晩だったな」で終わってしまうことに着目し、その先を妄想するところから物語を紡いだ作品として読解されていた。告発されたあと、加害者はどうなったのか。告発した子どもはどうなったのか。原話が語らない空白に、現代の書き手が入り込んでいる。

もう一つ、ネット上でよく見かけるのが「うちの実家の近くにもそういう家がある」という書き込みだ。真偽は確かめようがない。だがこの種の書き込みが絶えないこと自体が、この伝説の生命力を示している。都市に住んでいても、帰省先の村には、まだこの話が残っている。

実在事件との混同には、気をつけたい

この話を扱うときに、慎重にならなければいけない点が一つある。実在の事件との混同だ。

因習村ジャンルを語る文脈では、しばしば実際の事件が引き合いに出される。昭和前半に岡山県で起きた事件、一九五二年の静岡の村八分をめぐる事件、二〇一三年の山口の事件など。閉鎖的な地域社会で起きた事件が、フィクションの因習村イメージと重ねられる。

だが、これは切り離して考えるべきだ。六部殺し伝説は、記録に残る特定の事件を元にしたものではない。むしろ逆で、「証拠のない殺人」という設定こそがこの伝説の本質であり、証拠が出てしまったら伝説として機能しなくなる。

そして、実在の家や地域を名指しして「あそこは六部殺しの家だ」と語ることは、いまも昔も、単なる中傷である。この伝説がやってきたのは、まさにその中傷を制度化することだった。私たちがこの話を面白がるとき、面白がっている構造の中身が「根拠のない噂による村八分」であることは、忘れないほうがいい。

その上でなお、この伝説は魅力的だ。人間が金の前でどうなるか、共同体が異物をどう扱うか、罪の意識がどこから来るのか。そのすべてが、たった一晩の宿と、たった一つの台詞に凝縮されている。

怪談の顔をした、経済の話

ここからは、いったん整理を離れて、この伝説について私が考え続けていることを書く。総括であり、追加の考察でもある。

まず言っておきたいのは、六部殺しは怪談の顔をした経済の話だ、ということだ。

改めて骨格を見てほしい。ある家に富が発生する。その富の起源が問われる。答えとして提示されるのが、殺人と略奪。つまりこの物語は、資本の原始的蓄積についての民間伝承なのだ。

近世の村落において、突出した富が正当な理由で発生することは、原理的にありえないことになっていた。富は限られている。誰かの取り分が増えれば、誰かの取り分が減る。この認識のもとでは、隣家の成功は自分たちからの略奪でしかない。

だが実際には、貨幣経済の浸透によって富の総量は増えていた。商品作物の栽培、金融、流通。近世の村には、これまでにない形で富を作る方法が現れていた。それは村人の従来の認識では説明できないものだった。

説明できないものが目の前にある。人間はそこに物語を投入する。

だから六部殺しは、必然的に近世の話になる。中世の伝説ではない。慶長から寛永にかけて統一貨幣制度が整備され、田畑が売買され、金貸しが成立し、村のなかに新興の富裕層が生まれた。その全過程に対する村落共同体の集合的な違和感が、この一つの物語型に凝縮された。

小松和彦がこれを「貨幣殺し」と呼んだのは、まったく正しい。村人が本当に殺したかったのは六部ではない。六部の笈のなかにあった金だ。あの金さえ来なければ、村は昔のままでいられた。

だが、殺せなかった。村は貨幣に負けた。物語のなかで六部は必ず殺されるのに、現実では貨幣が勝ち続けた。この非対称性が、この伝説を執拗に語らせ続けた原動力ではないかと私は思う。負け続けている相手を、物語のなかで何度も殺す。

なぜ復讐者は「子ども」でなければならなかったのか

次に考えたいのは、この点だ。

普通に考えれば、殺された六部が幽霊として現れればいい。日本の怪談の主流はそれだ。四谷怪談も牡丹灯籠も、死者が死者の姿で戻ってくる。

なのに六部殺しは、わざわざ転生という遠回りをする。しかも何年も待つ。

理由の一つは、討債鬼故事という輸入元の設計にある。中国の討債鬼は、親の財産を蕩尽するために子として生まれる必要があった。財産を使える立場でなければ復讐にならないからだ。

だが日本版は、財産を蕩尽しない。ただ一言喋るだけだ。ならば転生する必要はない。幽霊で足りる。

にもかかわらず日本人はこの設定を捨てなかった。むしろ、この設定こそがこの話の核だと考えた。なぜか。

私の見立てはこうだ。日本版の六部殺しにおいて、復讐の対象は加害者本人ではなく「家」だからだ。

日本の村落社会において、家は個人よりも重い。家を継ぐこと、家を絶やさないこと。それがすべてだった。六部を殺した男が個人的に苦しんでも、家が続くなら共同体的には決着していない。

だから復讐者は、家の内部に入り込まなければならない。それも、いちばん重要な場所に。すなわち跡取りとして。

長く子どもができなかった夫婦にようやく生まれた男の子。それは家の未来そのものだ。その未来が、実は過去の亡霊だった。

家を絶やして六地蔵にしてやる、と山形の六部は言った。この台詞が、日本版のゴールを端的に示している。目的は個人の懲罰ではなく、家系の断絶だ。

そう考えると、告発の言葉が短くていい理由もわかる。財産を蕩尽する必要はない。跡取りが跡取りでないと判明した時点で、その家はもう終わっている。父が死ぬのは、恐怖のせいというより、家の未来が失われたことを一瞬で悟ったからだ。

嘘の言葉で殺し、真実の言葉で殺される

三つめに考えたいのは、この話における「言葉」の位置だ。

六部殺しは、言葉によって始まり、言葉によって終わる。

始まりは、主人の嘘だ。「いい月だから外へ出てみなされ」。この嘘がなければ殺害は成立しなかった。六部は嘘を信じて外へ出て、空を見上げて、殺された。

終わりは、子どもの真実だ。「こんな晩だったなあ」。

嘘の言葉で殺し、真実の言葉で殺される。しかも両方とも、天候についての言葉だ。月が出ている、出ていない。こんな晩だ。

天気の話というのは、人間がする会話のなかでいちばん無害なものだ。誰も傷つけない。何の情報も持たない。挨拶のような言葉。

その天気の話が、二回とも凶器になる。これほど意地の悪い設計はない。

そして、その中間には長い沈黙がある。三年、五年、七年。何も言わない子ども。

この沈黙は、村の沈黙と重なる。村の全員があの家のことを知っていて、誰も言わない。何十年も言わない。そして何かの拍子に、ぽろりと出る。あそこはね、と。

伝説の内容と、伝説が語られる社会状況が、構造的に相似している。だからこの話は、聞いていて妙に落ち着かないのだ。話のなかの村と、話をしている村が、同じ形をしている。

この構造は、村落共同体が消えても消えなかった

四つめ。この伝説を、現代に置き換えるとどうなるかを考えてみたい。

因習村ホラーは、この話を昔の閉鎖的な村の話として消費する。だが本質的な構造は現代にも生きている。

急に金を持った人間に対して、周囲が理由を求める。正当な理由は採用されない。何か悪いことをしたに違いない、と言われる。証拠はない。だが反証もできない。噂は消えない。そしてその物語は制裁として機能する。名指しされた人物は説明を求められ、説明しても信じられず、やがて活動が難しくなる。

共同体が閉鎖的であればあるほどこの型は強く働くが、ネットは巨大でありながら、実質的には無数の閉鎖的共同体の集合体だ。

違うのは一点だけ。近世の村では、噂される側は逃げられなかった。土地に縛られていたからだ。現代では逃げられる。だがネット上の記録は残り続ける。逃げられるが、消えない。どちらがマシなのかは、正直わからない。

いちばん優しいのは、最後に供養で終わるところだ

五つめ。この伝説の、いちばん優しい部分について書いておきたい。

これだけ陰惨な話なのに、多くの型が最後に供養で終わっている。

徳島では、庄屋が墓を建立した。宮城では、六部の墓を建てて弔った。長野では、六部の墓を祀りなおした。宮崎では、寺に供養してもらい石を供えた。佐渡では、滝壺の霊を引き上げて普賢菩薩として祀った。鹿児島では、下村の人たちが六部の墓を建てた。持田の百姓は出家した。

つまり、多くの土地で人々は、この物語を「呪う」だけで終わらせなかった。祀ったのだ。

これは大事な点だと思う。日本の霊は交渉可能である、と先に書いた。祟る存在は、祀ることで守護する存在に転化できる。佐渡の六部は、いま地区を守護する仏になっている。

呪いを永続させないための手続きが、ちゃんと用意されているのだ。

そして、この供養という行為には、もう一つの機能がある。伝説による制裁の、出口を作ることだ。

あの家は六部殺しの家だ、という噂だけがあれば、その家は永久に汚名を背負う。だが供養碑が建てられ、地区で祀られるようになれば、そこに一種の決着がつく。罪は認められ、償われ、そして共同体の記憶のなかで別の形に変換される。

石を建てるというのは、清算の宣言でもあったのだと思う。

もちろん、すべての土地でそれがうまくいったわけではない。愛媛の家は、いまも正月に餅を搗かない。宮城の土地は、いまも所有者がない。決着しない事例はいくらでもある。

だが、決着させようとする意志が、この伝説群のなかにたしかに存在している。そこは救いだと思う。

いちばん怖いのは、最後の台詞ではない

最後に。

私がこの話をいちばん怖いと思うのは、実は最後の台詞ではない。その手前だ。

「その子は、二つになっても三つになっても、一言もしゃべらなかった」。

この期間のことを考えると、背筋が寒くなる。

赤ん坊は喋らない。当たり前だ。だが親は待つ。いつ喋るだろう。もうすぐ喋るだろう。近所の子はもう喋っているのに。心配して、医者に見せて、神仏に祈って、それでも喋らない。

その全部の時間を、あの家の夫婦は過ごしている。溺愛しながら、不安を抱えながら。何年も。

そして、ある夜、ようやく喋る。

親が何年も待ち焦がれた、その子の最初の言葉が、それだった。

この残酷さを設計した人間は、天才だと思う。そして、それを何百年も語り継いだ人々のことを思うと、少し途方に暮れる。

金が欲しかっただけの男が、いちばん大事なものを使って罰される。全国どこの村にも、そういう話が一つずつあった。

日本一気まずい伝説、と冒頭に書いた。訂正しない。だが同時に、これは日本人が金というものに対して抱いてきた恐怖と罪悪感の、いちばん正直な記録でもある。

今夜、月が出ているかどうか、ちょっと確かめてみてほしい。出ていなくても、出ていても、たぶん同じだ。誰かにとっては、こんな晩だった。

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