## 棺に金を入れる。よく考えるとかなり変な習慣だ
日本の葬式には、今も普通に残っているのに、落ち着いて考えるとなかなか奇妙な手順がある。遺体に金を持たせる、というやつだ。
納棺のとき、葬儀社のスタッフが白い小さな袋を出してくる。頭陀袋と呼ばれるやつだ。それを故人の首にかけ、中に六枚の銭を入れる。これが六文銭。三途の川の渡し賃だと説明される。スタッフは淡々と説明し、遺族はなんとなく頷いて、そのまま進む。
だがこれ、真面目に受け取ればとんでもない設定だ。あの世には川がある。その川には渡し守がいる。渡し守は金を取る。金額は一人六文で、値切りも値上げもない。払えなければどうなるか。ここからが本題で、その場合は着ているものを剥がれる。剥ぐのは婆さんで、それを受け取って木に掛ける爺さんもいる。
この世界観を、我々は子供の頃からなんとなく知っている。でも、いつ、どこからこの話が来たのか。なぜ六文なのか。しかも今、火葬場の都合と法律の都合で、本物の銭を入れることができなくなっている。じゃあ今、あの世の渡し守は何を受け取っているのか。この辺を、じっくり解いていこう。
## 六文で川を渡る、という具体的すぎる金額設定
まず金額の話から。六文って、どのくらいなんだろう。
これが意外と難しい。時代と場所で銭の価値が全然違うからだ。江戸時代の寛永通宝で考えるなら、一文は現在の感覚で数十円から百円前後。となると六文は、安く見積もって三百円、高く見積もって六百円くらい。かけそば一杯も食えない。
つまり三途の川の渡し賃は、すごく安い。ここが面白いところで、もしこれが十両とか百両だったら、貧富の差がそのまま後生に直結してしまう。金持ちだけが川を渡れて、貧乏層は全員服を剥がれる。さすがにあんまりだ。六文というのは、誰でも払える額なんだ。実際、どんなに貧しい家でも六文ならなんとかなった。
だからこれは「料金」というより、儀礼に近い。金額に意味があるのではなく、「持っている」という事実に意味がある。実際、地域によっては六枚でなく五枚だったり、十枚だったり、もっと極端な例もある。数字はあとから固定された。先にあったのは、とにかく銭を持たせるという行為のほうだ。
## 三途の川には、実は三つの渡り方があった
そもそも三途の川とは何なのか。これ、正式には「葬頭河」と呼ばれる。ものものしい名前だ。
「三途」の意味には二説ある。ひとつは、仏典にいう三つの悪い行き先――餓鬼道、畜生道、地獄道――を指すという説。もうひとつが、渡河方法が三種類あったからだという説だ。
この後者がなかなかいい。死者は生前の罪の重さによって、三つのルートのどれかに振り分けられる。善人は金銀七宝でできた橋を渡る。これは楽だ。軽い罪人は「山水瀬」と呼ばれる浅瀬を歩いて渡る。ちょっと濡れる。重い罪人は「江深淵」と呼ばれる難所を渡らされる。ここは深くて流れが速く、流れには蛇や魔物がいるとされる。
つまり本来の三途の川には、グレード制があったんだ。金を払えば誰でも楽に渡れるわけじゃない。このルールと、六文の渡し守のルールは、実は成立時期が違う。後から一つの世界観に合成されたものだ。だからちょっと矛盾している。橋があるのなら船は何なのだとか、浅瀬を歩いて渡るなら金はいらないじゃないかとか。でもこの手の民間信仰は、整合性なんて気にしない。便利なパーツがベタベタと貼り付けられていく。
ちなみに、この世にも三途川と呼ばれる川は実在する。青森県むつ市を流れる正津川の別名、宮城県刈田郡の濁川の支流、秋田県湯沢市の高松川水系、群馬県甘楽郡、千葉県長生郡の一宮川支流など。群馬のものには三途橋という橋まで掛かっている。地獄やあの世を連想させる土地に、人は平気でこういう名前をつける。
## 奪衣婆と懸衣翁――金がないと服を剥がれる
さて、六文銭の話で一番背筋が寒いのは、持っていなかった場合のペナルティだ。
三途の川のほとりには、老夫婦が座っている。奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)だ。奪衣婆が死者の服を剥ぎ取り、懸衣翁がそれを受け取って川辺の木の枝に掛ける。枝のしなり具合で、死者の罪の重さを測る。重いほど枝が垂れる。
このシステム、よくできている。金を払えば剥がれない。払えなければ剥がれる。しかも剥いだ服は捨てないで、量りに使う。官僚的というか、徹底して情がない。仏教の地獄描写はこの手の事務的な残酷さがとにかくリアルで、だからこそ人の心に入ったんだろう。
この世界観の元になっているのは、中国で成立したとされる十王の経典だ。地蔵菩薩の発心因縁を説くという体裁のもので、日本へは飛鳥時代頃に伝わり、平安時代末期に信仰として広まったとされる。死後、人は七日ごとに裁判を受ける。初七日、二七日、三七日と続き、四十九日で行き先が決まる。今も法事を七日ごとにやるのはこれが元だ。四十九日の法要は、判決日の付き添いなんだよ。
奪衣婆のほうは、江戸時代末になって単独で信仰の対象になっていく。各地に奪衣婆を祀る堂ができ、なぜか疾病平癒、特に咽や歯の神として拝まれるようになる。服を剥ぐ恐ろしい婆さんが、いつの間にか回復神になっている。日本の神仏のこういうおかしな柔軟さは、何度見ても面白い。
## 「六」という数字の正体は、川の幅じゃなかった
ではなぜ六文なのか。ここがこの話の中心だ。
答えは、渡し賃の相場とは別にある。六という数字は、仏教で言う「六道」に由来するとされている。六道とは、命あるものが輪廻する六つの世界。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道。人は死んだあと、このうちのどれかに生まれ変わる。
だから六枚なんだ。どの道に行くことになっても、一枚ずつ分は持っていける。この発想で考えれば、六文銭は川の渡し賃というより、行き先を問わないパスポート的な保険だ。地獄に落ちても一枚。天に行けても一枚。実際、古い呼び方は「六道銭」で、こちらのほうが意味が直接的だ。
つまり、歴史の順番としてはこうだ。先に「六道を巡る」という仏教の世界観があった。だから銭を六枚入れるようになった。そのあとで、三途の川の渡し賃という、より具体的でキャッチーな説明が上書きされた。民間では後者が圧倒的に広まって、今では六道のことを知らない人でも「三途の川の渡し賃」は知っている。説明が本体を乗っ取ったという、よくあるパターンだ。
## じゃあ、いつから始まったのか。銭を墓に入れる歴史
ここからは考古学の話。実は墓に銭を入れる行為自体は、六道銭よりもさらに古い。
日本での銭貨埋納は、和同開珎の時代、つまり八世紀にはすでに見られる。しかしこの段階では枚数に意味はなく、むしろ五枚の整数倍で入れられることが多かったという。五、十、十五といった具合。これはきわめて実利的な発想で、あの世で金に困らないように、というぐらいの意味だったと見られている。
変化は平安時代末期以降に起きる。六道思想が広がるにつれて、六枚の例が増えていく。六道銭という形が確認できるのは、遅くとも十四世紀にはとされる。とはいえ中世の段階ではまだ枚数は一定しない。三枚のこともあれば三十枚のこともある。
完全に六枚で固定されるのは、実は近世、つまり江戸時代になってからだ。この事実はもっと知られていい。我々が「古くからの伝統」だと思っている六文銭は、実は江戸時代に規格化されたフォーマットなんだ。仏教が寺請制度を通じて全国の家を把握し、葬式の手順が標準化されていくなかで、枚数もすっきり六枚に揃った。
## 念仏銭という、使えない銭の存在
ここで、この取材で一番「おっ」となった話をしたい。念仏銭というものがある。
茨城県鹿嶋市では、市内の発掘調査で中世から近世の墓域が二十二か所も確認されている。厨台遺跡群と呼ばれる一帯で、今は住宅地や山林、畑になっている場所から、江戸時代の墓が出てくる。その中に、六枚セットの銭が入っている。
しかもこの六枚のうち一枚が、念仏銭なんだ。念仏銭とは何か。見た目は普通の丸い銭だが、刻まれているのは年号ではなく「南無阿弥陀仏」。つまりこれは、買い物には使えない銭だ。通貨ではない。最初から墓に入れるためだけに作られた、あの世専用の貨幣。
鹿嶋では十七世紀後半から、念仏銭が普通の寛永通宝と一緒に埋納されるようになったという。十七世紀末の元禄頃には先祖供養の意識が広がり、墓を作る家が増えた。その流れの中で、あの世専用通貨というアイテムが流通した。
これ、すごく面白い発想だと思わないか。本物の金を入れるのはもったいない。でも手ぶらで送り出すのは忍びない。だから、あの世でだけ使える金を作る。現代の紙に印刷した六文銭は、実は現代人の手抜きでもなんでもなくて、三百五十年前からある発想の直系の子孫なんだ。
## 鳥取で見つかった、紐が切れた五枚の寛永通宝
六文銭の出土例で、個人的に一番切ないのがこれだ。
鳥取県のむきばんだ史跡公園、つまり妻木晩田遺跡での発掘調査で、仙谷地区西側の丘陵から寛永通宝が見つかった。弥生時代の大集落で有名な遺跡なのに、出てきたのは江戸時代の銭だ。
問題はその状態。紐で結わえられたまま出土したんだが、その紐が途中で切れていた。そして現存するのは五枚。一枚足りない。紐の切れ方から推して、もともとは六枚一束の六文銭だったのではないかと考えられている。しかも周辺から墓地は見つかっていない。
つまりこういうことだ。誰かの棺に入るはずだった六文銭が、どこかで紐が切れて、一枚を落としたまま、丘の上に残されていた。渡し損なったのか。取り落としたのか。墓地が後に失われたのか。真相は分からない。ただ、あの世で使うはずの金が、この世に取り残されていた。しかも一枚足りない。
一枚足りない六文銭。このディテールだけで短編が一本書けると思う。
## 頭陀袋の中身は、六文銭だけじゃない
六文銭は単体で入れるものじゃなくて、頭陀袋という入れ物とセットだ。
頭陀袋というのはもともと、修行僧が首から下げる袋のことだった。托鉢でもらった米や金を入れる。つまり旅する人の財布だ。これを死者にも持たせる。なぜなら死者は旅に出るからだ。
地域によって中身はかなり違う。愛媛県東宇和郡宇和町では、納棺のときに「サンヤ袋」と呼ばれる袋を首にかけさせたという記録がある。中身は六文銭、五穀、そして縁者の爪、頭髪、手ぬぐい。
このリスト、よく見ると二系統に分かれている。六文銭と五穀は「旅の装備」。金と食料だ。一方、爪と頭髪は全然違う。これは死者本人のものじゃなく、生きている家族のものなんだ。家族が自分の爪を切り、髪を切って、故人の袋に入れる。
この意味をどう取るかは議論がある。寂しくないようにという優しい読み方もあるし、「自分の一部を渡したから、もうこっちには来ないでくれ」という取引として読む見方もある。民俗学的には、身体の一部を分ける行為は後者の呪術的意味を帯びることが多い。金を渡し、食料を渡し、自分の体の一部も渡す。ここまでやったんだからもう十分でしょう、と。
## 死装束の完全装備。旅支度という発想
頭陀袋だけじゃない。伝統的な死装束は、フルセットで揃えるとなかなかの装備になる。
基本は経帷子(きょうかたびら)と呼ばれる白い着物。これを左前に着せる。生きている人は右前だから、逆にすることでこの世とあの世を反転させる。頭には三角の布、天冠と呼ばれるやつ。幽霊のイラストでおなじみのあれだ。手には手甲、足には脚絆、足元には白足袋と草鞋。手には杖を持たせることもある。
並べてみれば一目瞭然だが、これは完全に巡礼の旅の格好なんだ。四国廻りのお遍路さんとほぼ同じ装備。経帷子には経文や梵字が書かれていることもある。つまり死というのは、日本の伝統的な感覚では「遠いところへの徒歩旅行」なんだ。寝ているのではなく、歩いている。
この発想が、六文銭を必須にする。旅には金がいる。川を渡るなら渡し賃がいる。宿を取るなら宿代がいる。実際、江戸時代の庶民にとって、旅というのは十分に命がけの行為だった。関所がある。川留めがある。山賊がいる。死を旅になぞらえるというのは、当時の人にとってはロマンでもなんでもなく、「帰ってこないかもしれない危険な移動」という実感のある比喩だった。
## 地域差その一 北海道と東北の「十円玉」
ここから地域ごとの違いを見ていこう。六文銭は全国一律じゃない。
まず北海道を中心に、棺に十円玉を入れる風習がある。しかもこれが少し変わっていて、入れっぱなしじゃない。火葬のあと、収骨のときにその十円玉を拾うんだ。しばらく形見として持ち帰る。守り代わりに財布に入れておく人もいる。
この風習のポイントは、金属だから燃えないという一点にある。遺体と一緒に炎をくぐって、形を変えながらも残る。だから形見になる。人は消えたのに、この小さな金属の円盤だけが同じ炎をもくぐって手元に戻ってくる。これはなかなか強い。
元々は六文銭から派生したと見るのが自然だろう。本物の寛永通宝が手に入らなくなって、当時手近にあった金属の銭で代用した。そして火葬が一般化してから、「拾う」という工程が新しく付け足された。土葬の時代にはあり得なかったやり方だ。風習というのはこうやって、技術に合わせて勝手に変形していく。
## 地域差その二 浄土真宗は入れない。その理屈が面白い
一方で、宗派によっては六文銭を入れない。代表が浄土真宗だ。
理由は非常にロジカルだ。浄土真宗の教えでは、人は亡くなった瞬間に阿弥陀如来の力によって直ちに浄土へ往生する。つまり中途に川なんかない。役人も婆さんもいない。徒歩で旅する必要もない。即座に到着する。だから渡し賃は不要だし、旅支度も不要。死装束も本来は使わない。
この割り切り方は相当に徹底していて、浄土真宗は清めの塩も使わない。死を穢れとしないからだ。位牌も本来は使わない。この徹底ぶりは、民俗信仰のグチャグチャと対比するとものすごく鮮やかだ。
とはいえ現実の現場では、葬儀社がとりあえずセットに入れてきてしまうこともあるし、遺族が「でもなんとなく入れたい」と言い出すこともある。寺とのやりとりになる。この手の「教義としては不要だが、民俗としてはやりたい」ジレンマは、日本の葬儀のあちこちに転がっている。
## 地域差その三 真田の家紋になった六連銭
六文銭と聞いて、葬式より先に真田幸村を思い浮かべる人も多いだろう。あの丸い丸が三つ並んだ二段の家紋。正式には六連銭と呼ぶ。
真田家のルーツとされる信濃の海野氏がこの紋を使っていたとされ、真田氏はそれを受け継いだというのが一般的な説明だ。意味については、三途の川の渡し賃を常に背負っている、つまり「いつ死んでもいい」という覚悟の表現だとされる。不惜身命を旗印にしているわけだ。
旗や陰に六文銭を掲げて戦場に出ていく。敵からすれば、死ぬ気満々の集団が押し寄せてくるわけで、心理的には相当に嫌だったはずだ。この手の、死をシンボルにするセンスは日本の武家にはしばしば見られるもので、死を忌避するのではなく正面から掲げることで威嚇に変換する。
面白いのは、このイメージが現代では完全にファッション化していることだ。歴史ドラマやゲームで六文銭の意匠は定番だし、上田の土産にも並んでいる。もともとは棺の中に入れるものなのに、いまや土産物のシャツにまで印刷されている。このねじれ方も、民俗の一つの帰結ではある。
## 地域差その四 五円玉六枚という、現実的な妥協案
現場でよく見るのが、五円玉を六枚使うやり方だ。
なぜ五円玉なのか。理由は単純で、真ん中に穴が開いているからだ。昔の銭は丸くて中央に四角い穴があり、そこに紐を通して束にしていた。現行の日本の硬貨で穴が開いているのは五円と五十円だけで、見た目が寛永通宝に一番近いのは黄色い五円玉だ。しかも「ご縁」につながるという語呂合わせもある。
ただ、これには後述する問題がつきまとう。硬貨を棺に入れて燃やすというのは、実は微妙な行為なんだ。だから葬儀社によっては、五円玉をいったん入れて遺族に見せ、出棺の直前に回収して、代わりに紙の六文銭を入れるという手順を取るところもある。回収した硬貨は遺族に返すか、お布施に回す。このあたりの運用は完全に地域と業者次第だ。
## そして本物の銭は、燃やせなくなった
さあ、この記事の本題だ。
現代の日本では、本物の硬貨を棺に入れて火葬することが、事実上できなくなっている。理由は二つある。
ひとつは法律だ。昭和二十二年十二月に公布された貨幣損傷等取締法という短い法律がある。内容はシンプルで、貨幣を損傷したり鋳潰したりすることを禁じるものだ。硬貨を高温で溶かすことは、この法律が想定する行為に触れ得る。供養のために入れたものをいちいち問題にしたという話は聞かないし、実際に取締られた例も見当たらない。しかし、建前は建前だ。公営の火葬場が「法令に触れる恐れのある行為を黙認する」わけにはいかない。
もうひとつは、もっと実務的な理由だ。金属は燃えない。火葬炉の中で溶けて、収骨のときに遺骨と一緒に出てくる。場合によっては骨に張り付く。銅や亜鉛の成分が、白い遺骨に緑や黒の色をつけることもある。遺族からすれば、目の前の骨が変色しているのはつらい。さらに火葬炉は精密な設備で、金属が溶けて底に固まるのはメンテナンス上も厄介だ。
この二つの理由から、全国の火葬場が「硬貨はご遠慮ください」と案内するようになった。でも風習はなくならない。だから代替品が登場した。
## 代替品カタログ 紙、木、アルミ、パラフィン
これが実にバリエーション豊かで、調べていて楽しくなってくる。
一番一般的なのは、紙に印刷したもの。寛永通宝の図柄が六つ並んだものを、小さな和紙に刷ってある。頭陀袋に入れてしまえば見た目は分からない。最近は金箔風の加工をしたものもある。
木製のものもある。薄い円盤に銭の意匠を焼き入れしてあるやつで、これなら完全に燃え尽きる。アルミ製は薄いフィルム状で、低温で溶けて残らない。パラフィン、つまりロウで作ったものもある。これは溶けて気化するので、潔くて気持ちがいい。
さらに手作り派もいて、色紙を丸く切って子供と一緒に作る家族もある。孫が拙い字で「寛永通宝」と書いた六枚を、棺に入れる。これはこれで、すごくいいと思う。儀礼の本質はものの真贋ではない。
では、この代替品を、あの世の渡し守は受け取ってくれるのか。この問いに、実は古い回答がある。先の念仏銭だ。十七世紀の人間も、使えない銭を入れていた。つまり、あの世の経済はこの世の経済と別体系だと、昔からみんな分かっていたんだ。形だけ整えて、あとは向こうでうまくやってくれる。この適当さが、この風習を千年近く延命させてきた。
## 体験談その一 百円玉四十枚が消えた話
ここからは現場の声。三件、いずれも個人が特定されない形にしてある。
一件目は、ネットの相談の場に投げられた実例。親類の葬儀の際、葬儀社から「百円玉は溶けないので、記念に入れてもいいですよ」と勧められたという。そこで遺族は、百円玉を三十五枚から四十枚ほど、それに六文銭のつもりで十円玉を六枚以上、棺に納めた。
ところが火葬後、収骨の場で奇妙なことが起きた。百円玉が一枚も見当たらない。一方で十円玉は十枚前後残っていた。入れた枚数とも合わないし、「百円は溶けない」という説明とも矛盾する。遺族は困惑した。
この投稿に対して、火葬の実務に携わる人物からの回答がついた。これが非常に具体的だった。火葬の温度は通常千度から千百度。この温度帯では硬貨の材質によって局所的に溶けるものもあれば残るものもある。決定的なのは「どこに置いたか」で、炎の当たる位置にあれば消えるし、遠い場所なら残る。陶製の容器に入れておけば確実に残る、ともあった。
そしてこの回答者は、多額の硬貨を入れるのはやめたほうがいいとはっきり書いていた。別の回答者は、現行法では貨幣を燃やすこと自体が推奨されないこと、印刷物で代用する地域が増えていることを指摘していた。
四十枚の百円玉。合計四千円。それがどこへ行ったのかは、結局分からない。この分からなさが、ちょっと怖い。
## 体験談その二 収骨で十円玉を拾う家
二件目は、北日本出身の二十代の男性からの話。
彼は子供の頃、祖母の葬儀で初めて収骨に参加した。針金を渡されて、大人と二人一組で骨を拾う。初めて間近で見る遺骨に緊張していたところで、叔父が「あったあった」と声を上げた。見ると、黒くすすけて少し歪んだ十円玉が、遺骨の間に混ざっていた。
大人たちはなぜか嬉しそうだったという。叔母が「はい、あんたも一枚」と言って、彼の手に一枚のそれを載せた。熱いと思ってびくっとしたが、もう冷めていた。手のひらに乗せると、普段の十円玉より軽い気がしたと彼は言った。実際には重さなんてそう変わらないはずなのに。
その十円玉を、彼は今も財布の小銭入れに入れている。十五年以上前のことだ。一度だけ、使ってしまいそうになって慌てて戻したことがあるという。「あれを自販機に入れていたら、と思うとちょっとものすごい」と彼は笑った。あの世の金を、この世の自販機に入れる。確かに、ちょっとものすごい。
この風習の面白いところは、六文銭がもともと「死者に持たせる金」だったのに、ここでは「死者から受け取る金」に反転している点だ。一度あの世の入口まで行って戻ってきた金。守りとしては、確かに強そうだ。
## 体験談その三 葬儀社のスタッフが見てきた、入れたいものの中身
三件目は、関西で十年以上スタッフをしている女性の話。副葬品の相談は日常茶飯事だという。
いちばん多いのは、故人の好きだったものを入れたいという相談。酒、タバコ、手紙、写真、孫の描いた絵。このうち、だめなものは意外と多い。ガラスの瓶は溶けて遺骨に張り付く。ビニールは有害なガスが出る。金属のゴルフクラブや釣り竿はもちろんダメ。ペースメーカーなどの医療機器は爆発の危険があるので、必ず事前に申告してもらう。
彼女が「一番困る」と言ったのが、現金だ。遺族が自分の財布から札を取り出して、「あの世で困らないように」と入れようとする。気持ちはすごく分かる。でも、と彼女は言う。札は燃えるし、硬貨は法律と設備の問題がある。だから丁寧に事情を説明して、代わりに紙の六文銭を提案する。
印象に残っているのは、ある高齢女性の反応だったという。旦那さんを送る日、彼女は紙の六文銭を見てしばらく黙っていた。そしてこう言った。「この人、生前からケチでしたもんね。紙でも文句言わんでしょう」。周りが笑って、場の空気がふっと緩んだ。
彼女はこう結んだ。副葬品の相談は、技術的な可否を話しているようでいて、実は遺族が故人との関係を最後に確認する作業だ。何を入れようとするかで、その人がどんな人だったかが全部見える。六文銭ひとつをめぐって家族があれこれ話す時間には、それなりの意味があると思う、と。
## 掲示板や交流サイトの反応――「溶けた金はどこへ行くのか」
このテーマがネットに出ると、議論は大体四つの方向に分かれる。
一つ目は実務系の質問。入れていいのかダメなのか、何で代用すればいいのか。これは知恵袋に山ほど転がっていて、実際に葬儀を控えた人の切実な問いが多い。回答は地域差で割れ、「うちの地元では入れる」「うちは入れない」という報告が並ぶ。
二つ目は法律ネタ。貨幣損傷等取締法の名前が出てきて、「実は罪なのか」という話になる。ここで必ず「でも実際に捕まった例はない」「十円玉をプレスしてキーホルダーにするのも同じはず」という反論が出てくる。確かにこの法律は、道の駅の記念メダル作りの話などでもしばしば話題になる。
三つ目が、この手のスレで一番盛り上がる「溶けた硬貨はどこへ行くのか」問題。先の百円玉四十枚のケースのように、入れたはずのお金が見当たらないという話はあちこちにある。ここで陰謀論めいた推測が出ることもあるが、実務側の説明はもっと地味だ。高温で溶けた金属は炉床に流れて広がり、回収不能な薄い膜になってしまう。定期的な炉のメンテナンスで除去される。つまり消えたわけでも盗まれたわけでもなく、ばらばらになって建物に染み込んでいる。
四つ目はもっと情緒的な反応で、「本物じゃないとあの世で困るんじゃないか」という心配だ。これに対する定番の返しが、「あの世にインフレがあったら六文じゃ足りないだろ」というツッコミで、ここから大喜利大会になってスレが崩壊する。この流れを何度も見た。死後の世界の話をしていても、人は値段の話に戻ってくる。
## なぜ怖いのか。金を持たないと剥がれる、という世界観
六文銭の何が怖いのか、整理しておこう。
第一に、あの世にも金が必要だという前提だ。これは考えてみれば相当に絶望的な世界観で、死んでも経済から逃げられない。実際、あの世で金に困らないようにと銭を入れる発想は、六道思想よりも古い。人は千二百年前から、死後の金銭の心配をしていた。
第二に、払えないと剥がされるというペナルティ。殺されるわけでも、永遠に焼かれるわけでもない。服を剥がれるだけ。この地味な罰則が、逆にリアルで怖い。地獄の釜ゆでよりも、裸で川を渡らされる惨めさのほうが、人間には想像しやすい。
第三に、これを送り出す側が決めないといけないという点。死者は自分で準備できない。家族が入れ忘れたら、その人は金なしで川に着く。このプレッシャーはなかなかのもので、実際に「六文銭を入れ忘れた」と後悔する声はネットにいくらでもある。
ではなぜこの風習は広まり、しかも残ったのか。理由はひとつしかないと思う。安いからだ。六文だぞ。現代なら、紙に印刷したものが数百円。この価格帯で、「やっておけば安心できる」という安心が買える。このコストパフォーマンスの良さが、洗骨や殯のような重い行事との決定的な違いだ。重い風習は消えた。軽い風習は残った。これはもう、ほとんど法則のようなものだと思う。
## 中身は四回入れ替わったのに、形だけが千年残った
改めて六文銭を追ってみて、この風習の面白さは「中身が何度も入れ替わっているのに、外見が変わらない」ところにあると強く思った。八世紀に墓に入れられた銭は、単に「あの世で困らないように」という資金だった。平安末期に六道思想が入ってくると、枚数が意味を持ち始める。中世を通じて枚数は不安定だが、江戸に入って六枚に固定される。同じ頃、三途の川と奪衣婆のイメージが庶民に浸透し、「渡し賃」という新しい説明が上書きされる。そして近代、本物の銭が使えなくなると、紙や木に置き換わる。中身は四回も入れ替わっているのに、「遺体のそばに六つの丸いものを置く」という図だけが、一千年以上生き残っている。
この現象は、民俗の生き延び方について重要なことを教えてくれる。風習が残るかどうかは、意味が理解されているかどうかとはほぼ無関係だ。現代の遺族のうち、六道の内訳を言える人がどれだけいるか。ほとんどいない。それでも六文銭は入れられる。やることが小さく、安く、手順が確立されていて、やめるメリットがない。それだけで十分なんだ。逆に、どんなに深い意味があっても、やるのがしんどい風習は消える。殯も洗骨もそうだった。意味は人を動かさない。手間だけが人を動かす。
もうひとつ、今回一番しびれたのは念仏銭の存在だ。十七世紀後半の人間が、すでに「墓専用の、使えない金」を作っていた。これはつまり、彼らが「あの世の金はこの世の金とは別物でいい」と完全に割り切っていたということだ。信じていなかったわけじゃない。信じつつ、形式で十分だと知っていた。この二重意識は、日本の民俗宗教のいたるところにある。神棚に上げる盛り塩も、盆のキュウリの馬も、本物である必要はない。持っていくという事実だけが大事だ。現代の我々が紙の六文銭を使うのを「手抜き」と感じるのは、むしろ現代人のほうが字義通りに受け取りすぎているからなのかもしれない。
そして最後に、この風習の一番優しい部分について。六文銭というのは、遺族が故人に対してできる、ちょっとした具体的な行動なんだ。人が亡くなったとき、残された側はいちばんつらい。してやれることが何もないからだ。もう声は届かないし、食事も作ってやれない。そこに、小さなタスクが一つ与えられる。六枚の銭を用意して、袋に入れて、首にかけてやる。これでこの人は川を渡れる。この人は服を剥がれない。
合理的に考えれば意味のない行為だ。でも、役に立っている。先の葬儀社スタッフが言っていたことは正しいと思う。副葬品を選ぶ時間は、実は遺族が故人との関係を確認する時間だ。あの人は酒好きだった。あの人はケチだった。あの人ならこうするだろう。この会話をするためだけにも、六枚の銭は十分な価値がある。
本物の寛永通宝はもう燃やせない。硬貨も入れられない。でも、我々は今日もどこかの火葬場で、紙に刷られた六つの丸を、白い袋に入れている。千二百年前と同じ数だけ。三途の川に船があるかどうかは誰にも分からないけれど、少なくともこちら側では、渡し賃の支払いは今も止まっていない。
六文銭――三途の川の渡し賃と、「本物の銭を燃やせなくなった」いまの話
