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戸籍を持たなかった民、サンカ――川原の天幕に暮らした人々の正体

夜明け前の川原だ。石がごろごろしている。増水したら流される、でも今は水位が低い、そういう微妙な高さのところに、丸い屋根の小屋がひとつ、ぽつんと立っている。骨組みは山から切ってきた竹と細い木。その上に古い筵と油紙をかぶせて、風で飛ばないように石を置く。入口は筵を垂らしただけ。中に入ると土の匂いと煙の匂いがして、隅で炭火が細く燃えている。

これが瀬降り、と呼ばれた住まいだ。せぶり、と読む。川の瀬のそばに降ろす、という意味だと説明されることが多い。

そこに暮らしていたとされるのが、サンカと呼ばれた人たちだ。戸籍を持たない。家を持たない。村に属さない。箕を編み、竹を割り、川で魚を獲って、季節が変わると天幕をたたんで次の川へ移る。明治の記録には二十万人いたなんて数字も出てくるし、戦後には一万人まで減ったとも言われる。そして昭和三十年代にはもう、ほとんど誰も見なくなった。

という話を、あなたもどこかで読んだことがあると思う。

先に正直に言っておく。この話、半分くらいは作り話だ。しかも作り話の部分のほうが有名になってしまった。だから今回は、実在した部分と、後から盛られた部分を、できるかぎり丁寧に剥がしていく。剥がした後に残るものが、けっこう怖い。怖いのは山の民じゃない。怖いのは、彼らを「そういうもの」として記録した側のほうなんだよな。

名前がひとつに決まらない、という時点で怪しい

まず引っかかるのが呼び名だ。ひとつの民族なら、普通は自称がひとつある。ところがサンカと呼ばれた人たちには、それがない。

役所は「サンカ」「山カ」「さんか」と書いた。住居を定めない浮浪漂泊者、という括りの中のひとつとして。警察はほぼ例外なく「山窩」と書いた。窩というのは穴とか隠れ家という意味の字で、要するに山の穴に潜んでいる連中、というニュアンスがある。農林省は国有林の盗伐対策の調査の中で「サンカ」「山窩」と書いた。書く役所によって漢字が違う。表記が定まっていない。

当て字も乱れている。山窩、山家、三家、散家、山稼。傘下や燦下と書いた例まであって、これは家屋を持たず傘か空を屋根にして暮らす者、という意味を込めたらしい。字面から意味を読み取ろうとしても無駄で、どれも後から音に漢字を貼りつけただけだ。

地方ごとの呼び名になると、もっとバラける。川漁を主にして竹細工を副業にしていた層は「ポン」と呼ばれた。箕を作り、ささらや箒を作り、それを持って村を回って売ったり直したりしていた層は「ミナオシ」「テンバ」と呼ばれた。ミナオシは箕直し、そのままだ。関東では「ナデシ」、関西では「ショケンシ」「ケンシ」「ケンタ」といった呼び名が記録されている。「オゲ」「ノアイ」という言い方もある。地域によっては「サンガイ」という語が非定住の川漁師を指した。

ここが肝心なところで、これらは全部、定住している側がつけた呼び名なんだ。外から見た人が、外から見た特徴で名付けている。箕を直すからミナオシ、山にいるからサンカ。自分たちで名乗った民族名じゃない。

つまり、最初から「サンカという民族がいた」のではない。定住しないで手仕事と川漁で食っていた人たちを、地域ごとにバラバラの名前で呼んでいた、だけかもしれない。この違いはでかい。前者なら民族史の話になるが、後者なら生業と貧困の話になる。

箕を編む手つき、簗をかける段取り

生業の話をしよう。ここは比較的、実像が残っている部分だ。

中心にあるのは箕だ。穀物をあおって籾殻やゴミを飛ばす、あの平たいちりとりみたいな農具。あれは農家にとって必需品で、しかも消耗品だった。竹を細く割いて、藤づるや樹皮で縁を巻いて、底を編む。編むというより、組む。縦のヒゴと横のヒゴの張力だけで皿状の曲面を出す。これがとんでもなく難しい。曲面が甘いと穀物がうまく飛ばないし、縁の巻きが緩いと一年ももたない。

材料も選ぶ。竹は真竹か淡竹、しかも三年ものくらいの節間が長いやつがいい。伐るのは秋から冬。水を吸っていない時期の竹じゃないと虫が入る。縁を巻く樹皮は、山桜の皮や藤づるを使う。つまり竹藪と雑木林の両方の場所を、季節ごとに知っていないと商売にならない。この知識が、移動生活と結びついていた。

作るのは主に女の仕事だったと伝えられている。天幕の前に筵を敷いて、膝の上で竹を割く。割くのは小刀一本。刃をヒゴに当てて手前に引くのではなく、竹のほうを回して厚みを揃える。子どもは横で、割いたヒゴを湿らせて束ねる係。この光景が、目撃談の中で一番よく出てくるやつだ。

男は川に出た。簗を組んで落ち鮎を獲る。ウナギは筒を沈めて夜に上げる。スッポンも捕った。石の下に手を入れて魚をつかむ、いわゆる手づかみ漁も得意だったと言われている。川の底の地形を覚えていて、どの石の下に何がいるかを知っている。これも移動しながら覚える知識だ。

そして売る。作った箕を担いで村を回り、新品を売り、古い箕を修理する。修理は箕直しで、これが呼び名にまでなった。獲った魚は農家に持っていって米や味噌と換える。現金より物々交換が多かったらしい。ほかに箒、ささら、笊、籠。竹でできるものはだいたい作った。猿回しなどの芸を見せて回った層もいたと記録されている。

要するに、山の物を採って加工して、里に運んで換金する仲介業だ。神秘でもなんでもない。むしろ経済的にはきわめて合理的で、しかも農村側にとって必要とされる仕事だった。ここを押さえておかないと、この先の話が全部おかしくなる。

一年をどう回していたか

移動生活の中身を、もう少し細かく見ておきたい。

春。雪が消えて川の水が緩む頃、上流に近い河原に瀬降りを構える。この時期はまだ農閑期の名残で、村を回っても現金が出ない。だから山に入って材料を確保する。竹を伐り、樹皮を剥ぎ、山菜を採る。子どもがいれば、この時期に一番よく歩かせる。

初夏。田植えが終わって農家に少し余裕が出る。ここで箕の需要が動く。作りためた箕を担いで、平野側の集落を回る。回るルートは決まっていて、去年寄った家に今年も寄る。去年の箕がそろそろ傷んでいるはずだ、という読みで回る。この定期性が大事で、完全にランダムに歩いていたわけじゃない。むしろ行商のルートは代々受け継がれていたと言われている。

夏。川が本番になる。水が温んで魚が動く。鮎、ウナギ、フナ。この時期の瀬降りは水辺ぎりぎりに降りる。ただし夕立と増水が怖いので、必ず逃げ道のある場所を選ぶ。上流で雨が降ると、晴れているのに水が来る。石の色と水音で察知して、荷物をまとめて土手に上がる。この判断が遅れると全部流される。

秋。収穫期。ここが一年で一番稼げる。箕がフル稼働する季節だから、修理の注文が集中する。同時に落ち鮎の簗漁。忙しい。天幕は里に近い河原に降ろす。

冬。ここが一番きつい。川は冷たいし、村を回っても物が出ない。風の当たらない谷筋や、堤防の陰に移って、ひたすら材料を仕込みながら耐える。この季節に定住民の納屋を借りたり、決まった家の敷地の隅に置いてもらったりする関係が、地域によってはあったと伝えられている。つまり完全な断絶ではなく、村と半ば結びついていた。

道具は驚くほど少ない。小刀。鉈。鍋。筵。それだけだ。全部背負って移動できる量しか持たない。持てば移動できなくなる。この禁欲が、後にロマンとして消費されることになる。

なお、サンカの象徴のように語られる両刃の短刀「ウメガイ」については、後で嫌というほど触れる。あれは実像の側ではなく、創作の側にある可能性が高い。

「山窩」という字を当てたのは、警察だった

ここから話が濁ってくる。

明治以降、この人たちを一番熱心に記録したのは民俗学者じゃない。警察だ。そして警察は例外なく「山窩」と書いた。しかも単なる分類名じゃなく、里に定住する村人から物を盗む犯罪専科の単位集団、という定義で書いた。

これがどれだけ乱暴なことか、少し考えてほしい。住所不定で、季節ごとに移動して、村の周辺に現れる。近代国家の治安管理からすると、これは最悪のカテゴリなんだ。誰がどこにいるか分からない。前科の照合ができない。逃げられる。だから警察は最初から要注意集団として枠を作り、その枠に入れた。

一度そういう枠を作ると、統計がついてくる。地域で窃盗が起きる。犯人が分からない。近くに天幕がある。じゃあ山窩の仕業だろう、となる。そう記録される。その記録が積み上がって「山窩は犯罪集団である」という統計になる。統計があるから枠が正当化される。完全な循環だ。

明治政府が長州出身の警察官を全国に配置した際に「山窩」という用語が全国に広まった、という指摘もある。つまりこの語自体が、地方の実態から自然に生まれたのではなく、警察機構を通じて全国に配られた官製の語である可能性がある。

研究者側はこれを警戒していた。柳田國男以降、学問の側がサンカとカタカナで書き続けたのは、警察用語の「山窩」と切り離すためだ。字を変えることでしか抵抗できなかった、とも言える。

そして、ここが一番きつい部分だ。当時のサンカ研究の資料の多くは、警察から提供された情報に依拠していた。学者が現地に何年も住み込んで聞き取ったのではなく、警察の調書や統計を通して見ていた。だから最初から、犯罪という色眼鏡が入っている。実像を復元しようとする研究そのものが、偏った素材でできていた。

戸籍という網が、彼らを見えなくした

制度の話も外せない。

明治四年、戸籍法が制定された。翌年から編成が始まったのがいわゆる壬申戸籍だ。全国民を土地に結びつけて登録する。近代国家の基礎工事だ。当然ながら、住所を持たない人はこの網に引っかからない。江戸期の人別帳から洩れていた層は、そのまま明治の戸籍からも洩れた。

ここで「戸籍がない民」というイメージが成立する。ただし、これも慎重に読む必要がある。戸籍がないことは、彼らが特殊な民族だったことを意味しない。単に、登録から漏れやすい生活形態だったというだけだ。都市の日雇い層にも無籍者はいたし、船で暮らす人にもいた。移動する貧困層はどこにでもいる。

明治後期から昭和にかけて、行政は定住と就籍を強く指導していく。学齢の子どもを学校に入れろ、という圧力もかかる。決定的だったのは戦時から戦後の配給制度だ。米も衣料も、配給を受けるには登録がいる。登録がないと飢える。だから戸籍に入る。入れば、住所が要る。住所が要れば、定住する。

高度経済成長が最後の一押しをした。プラスチックの容器と金属の農具が普及して、竹の箕の需要が消えた。川はダムと護岸で変わり、汚れた。仲介業としての彼らの経済的な足場が、まるごと消滅した。

だから「サンカが消えた」というのは、民族が滅びたという話じゃない。仕事が消えて、生活形態が変わって、他の日本人と区別がつかなくなった、というだけの話だ。ここを混同すると、途端に怪談になる。

柳田國男が、最初に書いた

学問の側の記録を追う。

柳田國男が『人類學雜誌』に「『イタカ』及び『サンカ』」を寄稿したのが明治四十四年から四十五年、西暦でいうと一九一一年から一九一二年にかけてだ。これが最初のまとまった学術的な言及とされている。

柳田は彼らについて、衣類が不潔で眼光が鋭く、小さな集団で人目を避けるように移動する、といった観察を書き残している。今読むとかなり失礼な描写だ。ただ柳田は、彼らの窃盗については財貨に対する観念の相違に基づくものだとして、一応は擁護の立場を取っている。所有の感覚が定住民と違うのだ、と。犯罪者として断罪するのではなく、文化の差として理解しようとした。当時としてはかなり踏み込んでいる。

ここで押さえておきたいのは、柳田がサンカと山人を区別して書いていることだ。柳田には有名な山人論がある。大和政権に追われた先住民の末裔が山に残っている、というあの構想だ。ネットでよく見る「サンカは縄文人の末裔」説は、この山人論とサンカを混ぜてしまったところから来ている。でも柳田自身は混ぜていない。山人は古代からの残存者、サンカは近代に観察できる漂泊民、として別に扱っている。

ちなみに柳田は後年、山人論そのものを事実上取り下げていく。それでもイメージだけが独り歩きした。

大正九年、一九二〇年には喜田貞吉が「サンカ者名義考」を発表する。副題が「サンカモノは坂の者」。サンカの語源は坂の者で、それが上方の訛りで変化したのだ、という説だ。喜田は全国各地の呼称を集めて、旅芸人、鍛冶、竹細工と職業が多岐にわたることを記録している。語源説そのものは決着していないが、単一の民族ではなく複数の職能集団の総称ではないか、という視点は、今読んでも筋がいい。

昭和十五年、一九四〇年には後藤興善が『又鬼と山窩』を書物展望社から出す。後藤は柳田の講義の筆記者でもあった人だ。この本の中で後藤はサンカを西洋のジプシーに類する漂泊民と定義し、さらに中世の傀儡子の後裔であり、放浪のアナーキストだと表現した。中世芸能民起源説の代表格で、これは今も一定の支持がある。

ここまでが、比較的まっとうな研究史だ。地味だし、断定を避けているし、面白い話は出てこない。

そして一九二九年に、全部をひっくり返す事件が起きる。

説教強盗という、たったひとつの噂から

大正末から昭和四年にかけて、東京で連続強盗事件が起きていた。犯人は押し入った家で金品を奪った後、住人に説教をする。戸締まりが甘い、犬を飼え、塀の高さがどうこう。防犯指導をして帰る。新聞記者がこれを「説教強盗」と名付けた。世間は大騒ぎになった。

犯人が捕まったのは一九二九年、昭和四年の二月二十三日の夕方だ。左官職人だった。動員された警察官は一万二千人と伝えられる。逮捕されたとき本人は「お手数かけてすみません」と応じたという。

この事件の取材にあたっていたのが、東京朝日新聞の警察担当記者だった三角寛だ。本名を三浦守という。大分の出身で、一九二六年に非正規採用で朝日に入り、派手な飛ばし記事で人気を取っていた。上司からは警戒されていたとも伝わる。

その三角が、取材の過程で刑事からこう言われる。犯人はサンカかもしれない、と。

結果としてこの推測は当たっていなかった。だが三角は食いついた。人目を避けて移動し、戸籍を持たず、里の物を盗むとされる集団。そんな連中が本当にいるのか。彼はここからサンカにのめり込んでいく。

たったひとりの刑事の、根拠の薄い一言。それが日本のオカルト史を七十年動かすことになるんだから、おかしな話だよな。

三角寛、流行作家になる

三角は一九三三年に朝日を辞めて、小説に専念する。永井龍男に勧められて書き始めたと伝わる。昭和七年、一九三二年頃から「怪奇の山窩」「情炎の山窩」「純情の山窩」のいわゆる山窩小説三部作を発表。これが当たった。

彼はもともと犯罪実話の書き手でもあった。婦人向け雑誌に別名義で「昭和毒婦伝」を連載していた経歴もある。つまり実話風の刺激的な読み物を書く技術を持っていた。そこに「誰も実態を知らない集団」という素材が来た。相性が良すぎた。

昭和十二年、一九三七年に講談社から出した『山窩血笑記』が代表作になる。戦後も書き続け、昭和三十五年、一九六〇年には『瀬降の天女』を出している。生涯に膨大な量のサンカ小説を残した。選集は十五巻に及ぶ。

三角の書くサンカは、とにかく魅力的だった。純潔で、掟に厳しく、自然と共に生き、国家に属さない。女は美しく、男は寡黙で腕が立つ。差別されながらも誇りを失わない。要するに、近代日本人が失ったものを全部持っている集団として描かれた。

戦中戦後の日本人がこれに飛びついた理由は分かる。国家に管理され、戦争に動員され、焼け跡に立たされた人たちにとって、国家の外側で自由に生きている同胞というイメージは強烈な救いだった。三角のサンカ小説が売れ続けたのは、内容が正確だったからじゃない。時代が欲しがっていたからだ。

戦後の三角はさらに手を広げる。映画館経営に乗り出し、人世坐と文芸坐という名画座を作った。吉川英治らが株主に名を連ねたという。文化人としての地歩を固めていく。

そして彼は、小説家であることに満足しなかった。

アヤタチ、ウメガイ、サンカ文字。学問の外観をまとった体系

三角は自分の書いてきたものを、学問として認めさせようとした。

彼が構築した「サンカ学」の中身はすさまじい。まずサンカには全国的な階層組織があるとされた。頂点にアヤタチという最高権威者がひとりいる。その下に地域の統率者がいて、一般の構成員がいる。縦の政治組織を持ち、全国規模の集会が秘密裏に開かれ、そこで掟が定められる。

独自の言葉があるとされた。サンカ言葉、隠語の体系。さらに独自の文字があるとされた。サンカ文字。これは漢字が入る前から使われていた文字で、彼らが密かに伝えてきたのだという。

道具にも神話がついた。両刃の短刀ウメガイ。これがサンカの象徴とされ、成人の証であり、掟の象徴であるとされた。

通信手段まであった。一見すると白紙の紙を火にあぶると、記号のような文字が浮かび上がる。あぶり出しだ。そこに書かれていたのは、その地域の瀬降りの戸数だという。

統計も出た。瀬降りの戸数は明治四十三年に全国で二万三千三百七十三戸、昭和二十四年には二千十一戸に激減した、と。四桁まで揃った、いかにも本物らしい数字だ。

そして一九六二年、三角は東洋大学から文学博士の学位を取得する。論文の題は山窩族の社会の研究。一九六五年には集大成として『サンカ社会の研究』が刊行された。

小説家が、自分の書いた世界で博士になった。この一点だけで、その後の数十年が決まってしまった。博士号という権威が、創作に学問の外観を与えてしまったんだ。

写真の中に、同じ顔が二度写っていた

さて、種明かしの時間だ。

まず写真から行こう。三角は膨大な数のサンカの写真を残している。戦後の昭和二十年代、関東で撮影したとされるもので、現在世に出回っているサンカの写真は、ほぼ全部が三角の撮ったものだ。

ジャーナリストの筒井功が、この写真群を一枚ずつ検証した。そして気づく。別々の場所で、別々の日時に撮影されたはずの写真に、同じ人物が同じ服装で写っている。

これは決定的だ。仮に偶然同じ人物に再会したとしても、服まで同じというのは無理がある。要するに、同じ人物を連れてきて、場所を変えて撮っていた可能性が高い。筒井は後にそのモデルの特定にまで踏み込んでいる。

つまり、あの写真は記録じゃない。演出された写真だ。

次にサンカ文字。これは江戸時代末期の偽書『上記』、つまり豊国文字を元にしたものと考えられている。『上記』はいわゆる神代文字を含む偽書として、すでに学問的に決着がついている代物だ。そこから引っ張ってきた文字を、サンカ固有の文字として提示していた。

サンカ言葉についても検証が進んだ。二〇〇三年、皆神龍太郎が『歴史民俗学』第二十二号に「サンカ文化を『創造』した三角寛」という論文を発表している。副題がずばり、サンカ言葉やサンカ文字は本当にあったのか、だ。結論は題名から察してほしい。

アヤタチを頂点とする全国組織についても、疑問は山ほどある。近代の日本で、警察が徹底的にマークしている集団が、全国規模の秘密集会を継続的に開催できたのか。誰が招集をかけ、誰が旅費を出し、誰が場所を確保したのか。組織を維持するには恒常的な資金と連絡網が要る。移動と最小限の所持品で暮らす人々に、それをやる余地があったとは考えにくい。

統計も同じだ。二万三千三百七十三という数字の出所が示されていない。誰がどうやって全国の河原の天幕を数えたのか。四桁の精度が出る調査体制など、当時どこにも存在しない。

決定打は二〇〇六年、筒井功が文春新書から出した『サンカの真実 三角寛の虚構』だ。筒井は元サンカとされる二十家族に直接取材して交流し、通説がいかに誤りだったかを提示した。生業、性、死生観まで含めて、箕作り、竹細工、川魚漁、遊芸で生きた非定住民の実像を描き出し、同時に三角の虚飾に満ちた半生を浮かび上がらせた。

前年の二〇〇五年には礫川全次が平凡社新書から『サンカと三角寛――消えた漂泊民をめぐる謎』を出している。三角への抗議と剽窃事件から説き起こし、説教強盗事件との関連、柳田の山人観、サンカの発生をめぐる近世末説、三角と宗教団体との関わり、そして『サンカ社会の研究』の読解までを追った本だ。『歴史民俗学』誌も第二十号の別冊で「サンカの最新学」を総特集し、第二十二号でもその続編を組んでいる。

これらの検証を経て、現在の評価はほぼ固まっている。三角のサンカ研究の大半は創作であり、資料としては扱えない。あれは小説として読むべきものだ。

じゃあ、彼らはどこから来たのか

三角を取り除いた後に残る問題が、起源だ。ここは今も決着していない。

一番古い説が、古代難民説だ。大和政権の伸長に追われた先住の人々が山に逃げ、そのまま残った。柳田の山人論と結びつけて語られることが多いが、さっき書いた通り、柳田自身はサンカと山人を分けていた。この説は形質人類学や遺伝学の側から支持されていない。日本列島の集団遺伝の研究が進むほど、山にだけ古代の集団が孤立して残っていた、という図式は成立しにくくなっている。

次が中世芸能民説だ。室町から戦国の混乱の中で、傀儡子など各地を回っていた芸能民や職能民が流動化し、その一部が近世に非定住のまま残った。後藤興善が『又鬼と山窩』で示した方向で、言語や職能の連続性から支持する研究者もいる。

そして近世末説。これを最も強く主張したのが沖浦和光だ。二〇〇一年に『幻の漂泊民・サンカ』を発表している。沖浦の論拠はシンプルで強い。サンカに関する明確な文献記録が、近世末になるまでほとんど出てこないのだ。明治より前にはっきりした言及は二例、一八五五年と一八六三年のものしかなく、しかもその多くが中国地方の記録に集中している。

なぜ中国地方か。天保の大飢饉が最も苛酷だった地域だからだ。天明から天保にかけての飢饉と、その後の維新の混乱。この時期に土地を捨てた農民が山や川に流れ、そのまま非定住の暮らしに入った。彼らこそがサンカの母体である、というのが沖浦の見立てだ。幕末の探検家である松浦武四郎の文献にサンカへの言及があることも、この時期の成立を裏づける材料として挙げられる。

ただし沖浦説にも批判はある。近世末というが具体的にいつなのか、幕末なのか明治なのか曖昧だという指摘。困窮した農民は普通、山より都市に流れるはずだという指摘。そして一番痛いのが、箕作りのような高度な技術を、ゼロから逃散した農民がどうやって短期間で獲得したのか説明できていない、という指摘だ。あの技術は一朝一夕で身につくものじゃない。

結局のところ、文献が絶望的に少ない。だから断定できない。分からないことを分からないと認めるのが、この主題では一番誠実だ、という立場が、今のところ一番説得力があると思う。

面白くない結論だ。でも、面白い結論を求めた結果が三角寛だったわけで。

語られてきた三つの話

ここからは、実際に伝わっている目撃談や聞き書きの類を、いくつか紹介したい。ただし前もって断っておく。これらは「こう語られている」という形で残っているもので、裏の取れた事実として提示するものじゃない。むしろ、語りがどう形を持つかを見てほしい。

ひとつめは、中国地方の山あいの集落で語り継がれてきた話だ。

昭和のはじめ頃、その村の下を流れる川の中州に、毎年決まった時期になると天幕が立ったという。立つのは秋、稲刈りが終わるかどうかという時期。三日か四日で消える。村の人はそれを「あれが降りてきた」と言った。

天幕が立つと、翌日には女の人が箕を背負って集落を回ってくる。玄関先で古い箕を見せると、その場で縁を巻き直してくれる。代金は米か味噌。話しかけても愛想笑いをするだけで、あまり喋らない。子どもが近づくと、母親が慌てて手を引いて家に入れた。あそこの子と遊ぶんじゃない、と言われた、という証言が複数ある。

ここに全部が入っている。定期的に来る。技術がある。取引が成立している。にもかかわらず、子どもは近づけさせない。経済的には必要とされながら、社会的には排除されている。この二重性が、サンカと呼ばれた人たちの置かれた位置そのものだ。

ふたつめは、戦後に元サンカと呼ばれる家庭を訪ね歩いた研究者たちが記録している話の系統だ。

取材を受けた側の反応が、まず重い。多くの家が、過去について語ることを強く拒んだと伝えられている。理由ははっきりしている。語れば自分の子や孫が差別される。就職に響く。縁談に響く。実際にそういう目に遭った人がいる。だから話さない。

それでも語ってくれた人の証言には、意外な内容が多い。たとえば、彼らは自分たちのことをサンカとは呼んでいなかった。その語を初めて聞いたのが本を通してだった、という人までいる。掟だのアヤタチだのという話も、聞いたことがない、という反応が返ってくる。特別な文字を持っていた記憶もない。あるのは、竹を割る手つきと、川の記憶と、冬の寒さの記憶だけだ。

三角の描いた壮麗な体系が、当事者にはまったく心当たりがない。この落差が、何より雄弁だと思う。

みっつめは、昭和三十年代を子どもとして過ごした人たちの、断片的な記憶だ。

家の前に、季節になると同じ人が来た。荷車か背負い籠に竹細工を積んでいる。母親が出ていって、しばらく世間話をして、笊を一枚買う。その人は日に焼けていて、痩せていて、においがした。子どもの記憶に残るのはたいていにおいだ。煙のにおい。川のにおい。

そして、ある年から来なくなった。理由は誰も知らない。死んだのか、やめたのか、街に出たのか。ただ来なくなった。そのうち、来ていたことも忘れられた。

これが「消滅」の実態だと思う。壮大な終焉の物語なんてない。仕事がなくなって、来なくなって、忘れられた。それだけだ。

一九八五年、ロマンが最高潮に達する

三角の作った幻想は、彼が世を去った後に別の形で爆発する。三角寛は一九七一年に亡くなっている。享年六十八。

一九八五年、二つの作品がほぼ同時に世に出た。

ひとつは五木寛之の小説『風の王国』だ。二上山を舞台に、現代日本の中に生き続ける漂泊の民の系譜を描いた。夜の山を驚異的な速さで歩く集団というイメージが強烈で、この作品でサンカ的なものに触れた読者は非常に多い。五木は後に『サンカの民と被差別の世界』といった対談や紀行の仕事も残していて、漂泊と被差別を結ぶ視線を持ち続けた書き手だ。

もうひとつが映画『瀬降り物語』。中島貞夫監督、萩原健一主演、東映京都撮影所製作。原始的な自然の中でのサンカの愛と性、というのが売り文句だった。

この映画の制作経緯がまた壮絶で、中島監督は一九六四年にこの企画を立てていた。ところが当時の東映社長に、わけのわからない脚本だ、と一蹴されて潰された。それが一九八三年、今村昌平の『楢山節考』がカンヌでパルム・ドールを取ったことで風向きが変わり、二十年ぶりに企画が復活する。撮影はスタッフとキャスト全員が愛媛と高知の県境近くの渓谷に入り、自分たちが山の民になって追体験しながら撮るという方式。一九八三年の秋から一九八四年末まで、一年以上かかった。

結果は惨敗だった。監督自身が「惨敗もいいところ」と語っている。四週間の予定だった上映が二週間で打ち切られた。批評でも、ドラマが通俗的で、山窩を美化しすぎていると指摘された。

美化しすぎ、という批判は的確だと思う。だがそれは映画だけの罪じゃない。八十年代のオカルトブームの中で、サンカは超能力を持っていたとか、古代文字を伝えていたとか、根拠のない話が量産されていた。むしろ映画は、その時代の空気を素直に映しただけとも言える。

八十年代の日本は豊かで、管理されていて、退屈だった。だからこそ国家の外側への憧れが跳ね上がった。サンカはその受け皿として、実際以上に美しく塗り直された。

そして舞台はネットに移る

九十年代以降、サンカの話はインターネットに移住する。ここで新しい変異が起きた。

まず生まれたのが「サンカを調べてはいけない」という定型句だ。理由は語られない。語られないから怖い。触れると消される、タブーである、そういう文句とセットで拡散する。これがオカルトサイトや動画のサムネイルの定番になった。

言っておくと、調べてはいけない理由なんてない。図書館に行けば柳田も喜田も後藤も沖浦も筒井も読める。国立国会図書館のデジタル資料でも読めるものがある。禁書になっている本は一冊もない。調べてはいけない、というのは、調べた気にさせるための演出だ。

次に増えたのが苗字説。特定の苗字はサンカの末裔である、という話だ。これは論外に近い。一八七五年の苗字必称義務令で、祖先以来の苗字が不分明な者は新たに苗字を設けよと定められている。つまりこの時期に大量の苗字が新規に作られている。しかも苗字の由来は地名、職能、屋号など複数の経路がある。苗字ひとつで出自を判定できるわけがない。

そして末裔探しと、芸能人が末裔だという噂。これが一番たちが悪い。特定の実在の個人や家系を名指しして、勝手に出自を認定する。やっていることは、明治の警察が「山窩」の枠を作ったのと同じだ。外側から人にラベルを貼って、そのラベルで人を扱う。百年前の差別の構造を、そのまま現代のタイムラインでやり直している。

さらに、大和政権に滅ぼされた先住民の末裔だ、という古代ロマン系の言説と、犯罪者の集団だった、という差別系の言説が、同じ検索結果の中に並ぶ。持ち上げる話と貶める話が、同じ「彼らは我々とは違う」という前提を共有しているのが不気味なところだ。称賛と蔑視は、他者化という一点で同じ穴に落ちている。

一方で、ちゃんとした反証も出回るようになった。三角の写真の重複、サンカ文字と『上記』の関係、統計の出所不明。この辺りは今、検索すれば普通に出てくる。二十年前より状況は良くなっている。良くなっているのに、動画のサムネイルは相変わらず「消された民族」と煽る。再生数が取れるからだ。

なぜ怖がられ、なぜ憧れられたのか

同じ対象が、怖がられると同時に憧れられる。この二重性はどこから来るのか。

怖さの側は、はっきりしている。近代国家というのは、人を数えて、名前をつけて、住所に固定する装置だ。戸籍があり、住民登録があり、納税があり、徴兵があり、就学がある。その全部の前提が、あなたがどこにいるか分かっている、ことなんだ。

移動する人は、この前提を壊す。壊すつもりがなくても壊す。だから制度の側から見ると、彼らは常に例外であり、穴だった。管理できないものは、危険とみなされる。危険とみなされたものは、犯罪と結びつけられる。警察が「山窩」という枠を作ったのは悪意というより、管理装置の必然だったのかもしれない。だからこそ、なお悪い。

村の側の恐怖も分かる。顔の見える共同体では、素性の分からない人は不安の対象だ。何か盗まれたとき、原因を外部に求めるのが一番楽だ。天幕が立った、翌日に鶏がいなくなった、じゃああいつらだ。それで一件落着になる。この安易さが、どれだけの無実の人を犯人にしたか分からない。

憧れの側は、その裏返しだ。管理される側の人間が、管理されない生き方を夢に見る。会社に行き、税金を払い、ローンを返す生活の対極として、箕ひとつで生きて飽きたら川を移る、という像が置かれる。焼け跡の時代にはそれが救いになり、バブルの時代には解毒剤になり、今はタイムラインの気晴らしになっている。

でも、実際の暮らしは全然ロマンチックじゃなかったはずだ。冬は死ぬほど寒い。増水すれば全部流される。病気になっても医者にかかれない。子どもを学校にやれない。差別されて、村の子と遊ばせてもらえない。自由の代償が、あまりに大きい。

ロマン化というのは、その代償を見なかったことにする行為だ。憧れるのは勝手だが、憧れている対象は、憧れている人が絶対に耐えられない生活だ。

差別の話をしないで終わるわけにはいかない

最後に、一番書かなければならないことを書く。

この主題を扱うとき、一番の危険は「サンカという特殊な集団がいた」と断定してしまうことだ。これをやると、必ず次に「じゃあ誰がその末裔か」という話になる。そして実在の人、実在の地域、実在の家系が、勝手に認定される。

これは差別そのものだ。しかも過去形じゃない。今もネット上で起きている。

思い出してほしい。「山窩」という語を犯罪と結びつけたのは、警察の記録だ。実態がそうだったからじゃない。管理しづらい人々を、そう記録することにしたからだ。そして記録が広まると、記録が現実を作る。村人が警戒する。取引を拒む。子どもを近づけない。就職で断られる。縁談が壊れる。実際に暮らしにくくなる。暮らしにくくなれば、生活はさらに困窮する。困窮すれば、また「そういう連中だ」と言われる。

言説が現実を作り、現実が言説を裏づける。この循環が、百年かけて人の一生を壊してきた。

戦後、元サンカと呼ばれた家々が過去を語りたがらなかったのは、そのためだ。彼らは自分たちの歴史を捨てることでしか、子どもを守れなかった。だから記録が残らない。記録が残らないから謎が深まる。謎が深まるからオカルトの素材になる。差別が資料の空白を作り、その空白がまたコンテンツを生む。ひどい話だ。

だから、この主題を語るときのルールはひとつでいい。彼らがどうだったか、ではなく、彼らはどう語られたか、を語ること。犯罪集団だったのではなく、犯罪集団として記録された。古代の民の末裔だったのではなく、古代の民の末裔として想像された。主語は常に、語った側にある。

そして実在の誰かを名指しして「あの人はそうだ」と言うのは、どんな善意で言おうが、絶対にやってはいけない。それは百年前の警察と同じことをやっているだけだ。

で、結局いたのか

いた。ただし、あなたが思っているのとはたぶん違う形で。

戸籍から漏れて、川辺や山裾に天幕を張って、竹を割って箕を作って、村を回って売り歩いて、川で魚を獲って、季節ごとに移動していた人たちは、確かにいた。中国地方や近畿や関東の記録に、断片的に残っている。彼らは技術を持ち、経済的な役割を果たし、村と取引をしていた。

いなかったのは、アヤタチを頂点とする全国組織だ。いなかったのは、独自の文字を伝える秘密の一族だ。いなかったのは、大和政権に追われた古代民族の末裔だ。いなかったのは、犯罪を生業とする集団だ。

そのどれもが、外から見た人が作った話だ。ある人は治安のために、ある人は原稿料のために、ある人は自分の夢のために、この人たちの上に物語を建てた。建てられた物語のほうが、生身の暮らしより長く残ってしまった。

川原の石の上に立っていた丸い屋根の小屋は、もうどこにもない。残っているのは、そこにあったとされる幻の楼閣のほうだ。

語られた量に対して、資料が薄すぎる

ここまで書いてきて、この主題の一番不思議な点に改めて突き当たる。

サンカという言葉をめぐって流通してきた情報の総量に対して、確認できる一次資料の量があまりにも少ないことだ。近代以降の日本でこれほど大量に語られながら、これほど基礎資料が薄い対象は珍しい。

明治より前の明確な文献記録は数えるほどしかなく、しかもそれが特定の地域の記録に偏っている。明治以降の記録は警察と行政の側に偏っていて、当事者自身が書き残したものはほとんどない。そこへ一人の元新聞記者が、小説と称して、あるいは研究と称して、膨大な量のテキストを流し込んだ。結果として、この主題の知識の大半が、検証不能な一人の書き手の産物になってしまった。これは資料史としてかなり異常な事態で、日本の近代における周縁的な人々の記録がどれほど脆いかを、逆から照らし出している。

三角寛という人物の評価も、単純な詐欺師と切って捨てると見誤ると思う。

彼は明らかに嘘を書いた。写真は演出され、文字は偽書から借り、統計の出所は示されず、階層組織の実在は当事者に否定されている。ここは動かない。ただ、彼が最初にサンカに関心を持ったきっかけが、刑事の何気ない一言だったことを思い出したい。当時の社会には「あの連中は犯罪者だ」という偏見が確固としてあった。三角が書いたサンカ像は、その偏見に対する反転として機能した面がある。

彼の小説の中のサンカは、誇り高く、掟に厳しく、里の人間より倫理的だ。差別されている集団を、道徳的に優位な存在として描く。これは当時としてはある種の擁護であり、実際に読者の中には、この小説を通じて漂泊民への蔑視を解いた人もいただろう。

問題は、その擁護が事実に基づいていなかったことだ。事実でない擁護は、事実でない蔑視と同じくらい脆い。土台が創作だと分かった瞬間に、擁護ごと崩れる。そして崩れた後には、もとの偏見だけが残る。善意で嘘をつくことの危うさが、ここに全部詰まっている。

「消えた」という言い方が、いちばん危ない

もうひとつ考えておきたいのは、消えた、という言い方の危うさだ。

サンカは消えていない。消えたのは、瀬降りという住居形式と、箕作りという生業と、季節移動という生活形態だ。人は消えていない。人は定住し、戸籍に入り、学校に行き、就職し、結婚し、今も普通に日本社会の中で暮らしている。

だから「サンカは絶滅した幻の民族」という語り口そのものが、実は差別的なんだ。生きている人の子孫を、過去形の博物館標本のように扱っている。しかも絶滅したことにすると、探索の対象になる。生き残りはいないか、末裔は誰か。この探索欲が、現代のネット上で実在の人や家系を勝手に認定する行為につながっている。過去形にしておいて、探しに行く。この二段構えが、最も暴力的なパターンだと思う。

では、この主題とどう付き合えばいいのか。個人的な結論としては、「サンカとは何だったか」という問いを、「サンカという言葉は何をしたか」という問いに置き換えるのが一番いい。

言葉として見ると、輪郭がはっきりする。役所は浮浪者の一種として使い、警察は犯罪集団の分類として使い、学者は警察用語から距離を取るためにカタカナで使い、小説家は物語の素材として使い、映画は自然回帰の象徴として使い、ネットは再生数を稼ぐタブーとして使った。同じ三文字が、使う人ごとに全然違う仕事をしている。そして使うたびに、その言葉に括られた誰かの生活が影響を受けた。言葉が先にあって、人が後から押し込まれる。この順番の恐ろしさが、この主題の芯にあるものだ。

最後に、あの川原の情景に戻る。秋の朝、中州に天幕がひとつ立っている。中で女が竹を割っている。子どもがヒゴを湿らせて束ねている。男は簗を見に川へ下りている。三日後には天幕はたたまれ、石だけが残る。

この光景に、掟も、秘密の文字も、全国組織も、古代の血脈もいらない。竹と、川と、寒さと、次の村までの距離。それだけで、この暮らしは十分に厳しく、十分に見事だ。そこに何かを足そうとした人たちが、結果としてこの人たちの実像を百年ぶんも見えなくした。足さないで見る。それが、たぶんこの主題に対する一番の礼儀なんだと思う。

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