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黒い服の女が来る夜――サルデーニャ島「アッコバドーラ」、死なせる役目を負った者をめぐる二百年の論争

サルデーニャ島の話をする。地中海の真ん中に浮かぶ、イタリアで二番目に大きい島だ。青い海とリゾートの写真しか見たことがない人には申し訳ないが、ここで扱うのは海岸線から車で内陸へ一時間ほど入った、花崗岩と羊とコルク樫の世界のほうである。

その内陸に、ごく最近まで「呼ばれる女」がいたという。

死にきれない人間がいる家に呼ばれる。全身黒ずくめでやってきて、家族を部屋から出し、扉を閉める。しばらくして扉が開くと、中の人はもう苦しんでいない。名前をフェミナ・アッコバドーラという。サルデーニャ語の「アカッバーレ」、つまり「終わらせる」から来た言葉だ。直訳すると「終わらせる女」。ものすごく率直なネーミングで、この率直さが逆に怖い。

この話、ずっと「島の暗い言い伝え」の枠に押し込められてきた。ところがここ二十年ほど、事情がややこしくなっている。博物館ができ、木槌が展示され、医者たちが血痕を分析し、歴史家が「そんなものは存在しなかった」と本を書き、別の歴史家が激怒して反論した。伝承の話をしているつもりが、いつのまにか法医学と文書史学の殴り合いを見物することになる。そういう題材だ。

順番に行く。まずは、伝えられている「その夜」から。

その夜、村では誰も窓を開けなかった

季節は冬にしておく。サルデーニャの内陸の冬は、南国のイメージを裏切って普通に寒い。標高が高い村では雪も降る。石造りの家は熱を溜め込まないから、暖炉から離れた部屋は外とたいして変わらない温度になる。

家の中では、六十いくつの男が三日か四日、死にきれずにいる。伝承の語りではこの「死にきれない」という状態が異様に重要視される。ただ死ぬのではなく、死のうとして死ねない。息が浅くなり、また戻る。喉が鳴り、目は開いているが誰も見ていない。医者は来ない。いや、そもそも村に医者がいない。二十世紀の前半、サルデーニャ内陸部の村にとって医者は「町にいるもの」であって、雨で道がぬかるめば町までは半日仕事だった。

司祭は来ている。終油の秘跡は済ませてある。カトリックの作法として、これで魂の側の準備は整っているはずだった。整っているのに、体が離してくれない。これが村の言い方だ。魂が出ていけない。何かが引き止めている。

引き止めているものについて、村にはいくつかの説明があった。若い頃に重い罪を犯していると死ねない、というのがひとつ。特に教会の物や聖なる物を壊した記憶がある者は苦しむ、と言われた。もうひとつは護符だ。サルデーニャ語でプンガスと呼ぶ小さなお守りを、人は首から下げたり服に縫い込んだりしていた。生きているあいだ体を守ってくれるそれが、死ぬ段になると邪魔をする。守りが強すぎて、魂が抜けない。

だから家族はまず自分たちで手を尽くす。護符を探して外す。枕元に鋤や櫛を置く。牛の軛を模した木の小物、サルデーニャ語でジュアレッドゥと呼ばれるものを枕の下に差し込む。これは島じゅうに広がっていた作法で、しかもサルデーニャだけの話ではない。イタリア本土のサレント、カラブリア、北のロマーニャ、さらにはフランスにまで、瀕死の人の枕の下に軛や斧や農具を置く習慣の記録がある。「重い鉄の道具が魂を下に引っ張って、切り離してくれる」という理屈らしい。理屈というより身体感覚に近い。

それでも死なない。四日目の夜、家の年長の女が黙って外套を羽織って出ていく。

ここからが問題の場面だ。

彼女は隣の家には行かない。同じ村の中でも行かない場合がある。伝承では、アッコバドーラは「別の村から来る」ことが多いとされる。理由は単純で、そのほうが後腐れがないからだ。顔見知りの家で顔見知りを終わらせると、村の中に長く残る。だから距離を置く。何キロか歩くか、驢馬を借りる。

呼ばれた女は、たいてい年寄りだ。多くの伝えでは寡婦。しかも産婆を兼ねていた例が非常に多い。ここが背筋の寒くなるところで、村の中で赤ん坊を取り上げる手と、最後の一撃を加える手が同じ人間の手だった、という構図になる。生まれるときも死ぬときも、あの人が来る。ガッルーラ地方の言い伝えでは、この両立はまったく矛盾として意識されていない。入口と出口を管理する係、という感覚に近い。

女は夜に来る。夜であることも作法のうちだ。日中に来るアッコバドーラの話はほとんど出てこない。村が眠り、犬が黙り、灯りが落ちた頃合いに、家族があらかじめ開けておいた戸口から入る。ノックはしない。誰にも見られないことが儀式の前提だから、迎える側も無言で、ろうそくを持って先に立つ。

服装は黒。頭からかぶるショールで顔の下半分を隠している。これは特別な衣装ではない。当時のサルデーニャの中高年の女性は、喪に服していれば普通に全身黒だった。だから外見だけ見れば、村じゅうの婆さんが全員アッコバドーラに見える。この「見分けがつかない」という点が、後にこの伝承の恐ろしさの中核になる。

家に入ると、女はまず部屋を見回す。そして、家族に指示を出す。

神様には出ていってもらう

指示の中身が、この習俗のいちばん気味の悪い部分だ。

まず、部屋からキリスト教に属するものを全部出せ、と言う。壁にかかった聖母の絵、十字架、聖人の像、聖水の入った小さな器、聖枝祭でもらったオリーブの枝。ロザリオも外す。伝えられている理由がまた強烈で、「それらがあると魂が体から離れられないから」だという。

つまり、これから起きることを神に見せないための目隠しではない。少なくとも語りの表層ではそうなっていない。聖なるものは魂をこの世に繋ぎ止める力を持っている、というロジックになっている。生きている間はありがたい力が、死ぬ段になると足枷になる。だから外す。

言い方を変えれば、この儀式の中で、聖なるものは一時的に「邪魔」として扱われる。カトリックの島で、司祭が終油を済ませた直後の部屋で、聖母の絵を裏返す。この転倒の感覚は、話を聞いた人間の記憶にいちばん残る部分だ。

次の指示は、家族に対して。全員出ていけ。

これも例外がない。息子も娘も孫も、扉の外に出される。誰も立ち会わない。この「立ち会わせない」は、たぶん二重の意味を持っている。ひとつは、家族に見せないことで家族を守る。見なければ、後から何も証言できない。もうひとつは、その場に残る人間を最小限にすることで、村の中に真実を知る人間を作らない。共同体の秘密の管理としては、ほぼ完璧な設計になっている。

そして扉が閉まる。

閉まった扉の内側で何が起きたかは、当然だが誰も見ていない。にもかかわらず、伝承は驚くほど具体的にそれを語る。この落差自体がひとつの謎で、後で改めて考える。

語られている手順はこうだ。女はまず枕元に座って、ロザリオを唱える。あるいはサルデーニャ語の祈祷句、イス・ブレブスと呼ばれる呪文めいた唱えごとを口にする。オルゴーゾロやバルバージャの語りでは、彼女は瀕死の人の名を呼び、額に手を当て、子守唄のような節を歌ったとされる。ここまでは看取りの光景と区別がつかない。

そのあとで、道具が出る。

オリーブの木槌、牛の軛、そして枕

道具は地域によって違う。この地域差がやたらとはっきりしていて、そこがむしろ伝承のリアリティを支えている。

ガッルーラ地方、島の北東部。ここで語られるのが木槌だ。サルデーニャ語でス・マッツォルという。素材はオリヴァストロ、つまり栽培種ではない野生のオリーブ。この木は成長が遅く、木目が詰まっていて、恐ろしく重くて硬い。島の農民は道具の柄や杵にこれを使った。要するに、島でいちばん硬い木で作った槌である。

ルーラスの博物館に現存するとされる一本は、長さが四十センチ台、幅が二十センチ台。文献によって四十センチ二十センチとも、四十二センチ二十四センチとも書かれる。片手で握って、しっかり振り下ろせる寸法だ。持ち手には布が巻かれていたという。滑り止めなのか、音を殺すためなのか、あるいは素手で触れないための配慮なのか、そこは分からない。伝えでは、これで前頭部か後頭部を一度だけ打った。一度だけ、というのがどの語りにも共通する。二度打つのは失敗であり、失敗は許されない。

ヌオロ県のシンディアあたりでは、木槌ではなく本物の牛の軛を使ったとされる。これがまた念の入った話で、単に殴るのではない。瀕死の人の体の下に軛を通し、決まった文句を唱える。文句の内容は「盗んだ軛の罪から解き放たれよ」といったものだったという。農耕社会において軛は神聖な道具で、軛を盗むのは人を殺すより悪い、という言い方が残っている地域さえある。その神聖な道具を、罪の赦しの装置として使う。そして首の後ろに回した時点で、実際には頸椎が折れていた可能性が高い、と現地の研究者は書いている。宗教的な儀式の形をした処置、ということになる。

バルバージャ地方、特にデスーロで語られるやり方はもっと生々しい。女は瀕死の人の頭を自分の両膝で挟み、歌いながら首を絞めた、というものだ。抱きかかえる姿勢のまま終わらせる。この形が伝えられている地域では、アッコバドーラの行為が「母が子を寝かしつける動作」の延長として語られる傾向が強い。生と死を同じ女が同じ姿勢で扱う、という図式が完成してしまっている。

もっと単純に、枕を顔に押し当てた、鼻孔を手で塞いだ、という伝えもある。道具のいらないやり方で、これがいちばん多く語られる方法かもしれない。

道具の話をもうひとつ。近年サルデーニャ南部で見つかったとされる遺物の中に、平たい刃先を持つ短剣状の金属器があった。呼び名はサ・ミゼリコルディア。イタリア語で「慈悲」だ。中世ヨーロッパの戦場で、重傷を負って動けない騎士の鎧の隙間に差し込んで介錯するために使われた短剣と、まったく同じ名前である。名前が慈悲。これも率直すぎる。

報酬は受け取らない、という掟

アッコバドーラは金を受け取らなかった、というのが伝承の基本設定になっている。

理由が明快で、「死に対して報酬を得るのは罪だから」だ。行為そのものは共同体の中で黙認されていても、それを商売にした瞬間に殺人に転落する。だから対価を取らない。この線引きがある限り、彼女は殺し屋ではなく、村の役目を果たしている人になる。

ただし、まったく何も受け取らなかったわけでもないらしい。デスーロで聞き取られた話では、小麦を五リットルほど、あるいはその家に用意できるものを渡した、とされている。パン、油、羊毛。金銭ではない現物で、しかも「報酬」ではなく「気持ち」として渡す。この曖昧さは、たぶん意図的なものだ。名目上は無償、実質は生活の支え。共同体の中で人を使うときの、よくある落としどころでもある。

彼女は好かれてもいなかったし、嫌われてもいなかった、という証言が繰り返し出てくる。この温度がリアルだ。必要とされているが、親しくはされない。井戸端で世間話をする相手ではない。あの人が家の前を通ると、子どもは中に入れられる。でも本当に必要になったとき、村は彼女を呼ぶ。

デスーロに残るという諺がある。「時が来たら、アッコバドーラが来る」。カンノ・ロンピア・エスト・ソラ、ベニト・サッコバドーラ、と発音するらしい。運命の到来を告げる言い回しとして日常会話で使われていた、というのだから、この存在が村の語彙にどれだけ食い込んでいたかが分かる。

似た用法で、呪いの文句にも入っている。「お前に難産と、アッコバドーラの訪問がありますように」という趣旨のサルデーニャ語の悪態が記録されている。呪いの文句というのは民俗語彙の化石になりやすい。実体があろうとなかろうと、その言葉は確実に村の口の中にあった。

誰が最初に書いたのか

ここから記録の系譜に入る。文字になった順番を追うと、この伝承の輪郭がだいぶ変わって見えてくる。

いちばん古いとされるのが、アルベルト・フェッレーロ・デッラ・マルモーラだ。サルデーニャ王国の軍人で、地質学者で、島を徹底的に調べ上げた人物。彼が一八二六年に初版を出した『サルデーニャ紀行』の中に、「野蛮な習慣」としてこの行為への言及がある。ただし彼は目撃していない。伝聞であり、しかも「もう十八世紀の初め頃には消滅した」と書いている。つまり最初の記録の時点で、すでに過去形なのだ。

ほぼ同時期、イギリス海軍の提督ウィリアム・ヘンリー・スミスが島を訪れ、記録を残している。彼の記述も伝聞で、しかも興味深い注釈がついている。イエズス会士ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴァッサーロの布教活動によって、一七二五年から一七七五年のあいだにこの習慣は廃止された、というのだ。これも過去形。

一八三三年、あるいは一八三五年。ピエモンテ出身の聖職者ゴッフレド・カザーリスが編んだ膨大な地誌辞典に、この語が載る。項目を書いたのはサルデーニャ担当のヴィットーリオ・アンジウス。場所は「ボーザ」の項だった。彼はここで、この習俗を古代の老人殺しと結びつけて論じている。紀元前四世紀から三世紀のシチリアの歴史家ティマイオスが、古代サルデーニャでは父親が七十歳に達すると儀式的に殺された、と書き残していた。アンジウスはその線を引っ張ってきた。彼もまた「十八世紀半ばには終わっていた」と書く。

ここまでの記録者は全員、外から来た知識人だ。全員が伝聞で、全員が「もう終わった話だ」と書いている。

この点は非常に重い。後に実在否定派が最大の武器にするのが、まさにここだからだ。

二十世紀に入ると、島の民俗学者たちが記録を残し始める。一九二五年のジーノ・ボッティリオーニの言語調査、フランチェスコ・アルツィアトールの民俗研究。ただしアルツィアトールは、この存在を「苦しむ者を終わりへ導く儀礼的な慰め手」と位置づけつつも、決定的な証拠は提示していない。彼自身、教会がなぜ沈黙していたのかに驚いている、と書き残している。もし聖職者たちが本当にこの行為を知っていたなら、公式に断罪しないほうがおかしい、と。

そして二〇〇〇年代。サッサーリ大学の法医学者アレッサンドロ・ブカレッリと共著者カルロ・ルブラーノが『サルデーニャにおける先駆的安楽死』を出す。二〇〇三年刊。法医学の側からこの習俗に踏み込んだ、たぶん最初のまとまった仕事だ。ブカレッリの立場ははっきりしている。島じゅうで語られている、これは神話ではありえない、孤立した村々が同じ幻想を共有するはずがない、というものだ。

同じ頃、ドロレス・トゥルキが聞き取りの本を出す。タイトルが直球で、『私はアッコバドーラが動くのを見た』。副題に「存命の人物による初の目撃証言」とある。付属のディスクに、九十代の女性が語る映像が収められていた。

実在した派の言い分

まとめて言えば、実在した派の主張は三本柱でできている。

第一に、語彙の存在。マッシモ・ピッタウ、サルデーニャ言語学の重鎮だった人物がこの点を強く押した。言語学には「言葉と物」という考え方がある。ある行為を指す固有の名詞が、しかも複数の方言形を持って地域に散らばって存在するなら、その行為には実体があったと考えるのが自然だ、という発想だ。アッコバドーラ、アガッバドーラ、アッカッバドーラ、アッコバドーリス。カンピダーノ地方では男性形の語も記録されている。つまり南部では男がこの役をやっていた地域がある、ということになる。単一の作り話が広がったにしては、語形の分化が細かすぎる、というのが彼らの言い分だ。

第二に、証言。二十世紀に入ってからの聞き取りが複数ある。しかも語り手同士が互いを知らない別々の村の人間で、それでいて描写の核心部分――夜、黒衣、聖像を外す、家族を出す、一撃――が一致する。人類学の現場では、独立した情報源の一致はかなり強い証拠として扱われる。ピッタウは、完全な物証がなくとも善意の目撃者の証言には歴史的価値があると論じた。

第三に、沈黙の説明。文書が残っていないのは実在しなかった証拠ではなく、隠されていた証拠だ、という反転の論理だ。家族は当局に知られることを恐れた。当のアッコバドーラは社会的な蔑視と宗教的な断罪を恐れた。司祭は告解の秘密に縛られていた。そもそも共同体全体が「なかったこと」にする合意で回っていたのだから、書き残されるわけがない。むしろ書き残されていたら不自然だ、と。

ピッタウはさらに面白い補助線を引く。エトルリア美術には、槌を持った死の霊が描かれる。ギリシャ神話の運命の女神アトロポスは、生命の糸を断つ役だ。地中海世界には、死を「打ち下ろす」イメージの古層がある。アッコバドーラの木槌はその末端に位置するのではないか、と。

これは証明にはならない。でも、話としては抜群に強い。

実在しなかった派の言い分

対する否定派の中心が、歴史家イタロ・ブッサだ。二〇一五年に出した本のタイトルからして戦闘的で、『想像上のアッコバドーラ――神話の解体』という。

彼の論点は容赦がない。

まず、文書がゼロだという事実。サルデーニャには宗教裁判所の記録も、王国時代の刑事記録も、教区の記録簿も、大量に残っている。ところが、アッコバドーラの事件として立件された記録が一件もない。告発もない。噂を書き留めた教会の内部文書すらない。何世紀にもわたって行われていた慣行なら、どこかで必ず紙に落ちるはずだ、と彼は言う。

次に、言及者の少なさ。十九世紀にこの習俗を実在として語った人物は事実上アンジウス一人、二十世紀前半でも一人程度しかいない。これは民間伝統の広がりとしては細すぎる。むしろ、少数の書き手が引用を重ねるうちに実在扱いになっていった典型的な過程に見える、という指摘だ。

さらに彼が突いたのが、辞書だ。サルデーニャ方言の主要な辞書――十九世紀の代表的なものや、二十世紀のドイツ人言語学者による大部の辞典、その他複数――に、この語が項目として立っていない。実際に村で使われていた語なら、方言辞書の編者が拾い落とすはずがない。語彙が実践を証明する、と言うなら、その語彙がまず辞書に載っていないのはどう説明するのか、という反撃である。ピッタウの第一の柱を、正面から折りにいっている。

そして機関の沈黙。ブッサはこれを「歴史的に説明不可能」と切り捨てる。教会と国家という、当時のサルデーニャにおいて最も組織化された二つの権力が、殺人行為を何世紀も把握せず、把握しても対応しなかった。そんなことがありうるか、と。ピッタウは「黙認していた」と説明するが、ブッサに言わせれば、黙認にも痕跡は残る。教区司祭の書簡、司教への報告、説教の草稿。何もないのは、なかったからだ。

ブッサはただし、全面否定ではない。彼は二つに分ける。頭部を打ち砕いて殺す「暴力的アッコバドーラ」は実在が極めて疑わしい。一方、瀕死の人の枕元に軛を置き、聖像を外し、呪文を唱えるという「呪術的アッコバドーラ」のほうは、民俗として実在した可能性が高い。前者は後者の誤解、あるいは膨張だ、というのが彼の見立てである。

この分割は、正直かなり説得力がある。枕の下に軛を置く習慣がイタリア本土やフランスにまで分布していることは動かない事実で、そこには殺害の要素がない。「魂を抜けやすくする呪術」が、語り継がれる過程で「殺す職業女性」に化けた、という筋道は無理なく描ける。

そしてブッサはもう一歩踏み込む。この神話は、サルデーニャ人を野蛮な民族として描く物語として機能してきたし、いまは観光の商材として消費されている、と批判した。島の名誉に関わる話だ、という怒りが彼の本の底には流れている。

この論争、二〇一〇年代を通じてかなり激しくやり合っている。学術誌の穏やかなやりとりではなく、地方紙の文化面と学会系のサイトで、名指しの応酬になった。

証言その一、デスーロの女マリア・フィオーリ

ここからは、聞き取りとして残っている具体的な語りを見ていく。

マリア・フィオーリは一九〇二年生まれ、一九九六年没。バルバージャ地方の山村、デスーロの人だ。標高が高く、冬は雪が積もり、二十世紀半ばまでは道路事情も悪かった典型的な内陸の村である。

彼女が語ったのは、自分の少女時代から若い頃にかけての記憶だ。誰かが長く苦しんで死ねないとき、家族が「あの女」を呼びに行った。来た女は絞め殺した、と彼女は言う。婉曲な言い回しをしていない。そして、家族は小麦を五リットルほど渡した、あるいはその家にあるものを渡した、と続けた。

この証言のリアリティは、報酬の描写にある。伝承の建前では無償のはずのものが、彼女の記憶では現物になっている。しかも「五リットルの小麦」という、生々しく中途半端な量だ。神話を語る人間は、こういう数字を出さない。神話の登場人物は報酬を取らないか、取るなら金貨を取る。小麦五リットルは、実際に村で物が動くときの単位だ。

もうひとつ。彼女が伝えたデスーロの諺、「時が来たら、アッコバドーラが来る」。これが日常の言い回しとして生きていた、という点も見逃せない。人が死期を悟ったとき、あるいは何かが避けられない局面に来たとき、村人はこの文句を口にした。言葉が生活に根を張っていた証拠になる。

ただし、フィオーリの語りも直接目撃ではない。「そういうことがあった」という村の共有知識であり、彼女自身が扉の内側にいたわけではない。そこは冷静に見ておく必要がある。彼女の証言が証明しているのは、二十世紀初頭のデスーロで、この話が「実際にあること」として通用していた、という事実だ。それ自体はものすごく重い事実だが、行為そのものの証明とは別の階層にある。

証言その二、セウイの家で少女が見たもの

パオリーナ・コンカスという女性の証言が、この主題では最も有名な部類に入る。ドロレス・トゥルキが本と映像で記録したものだ。彼女は本の刊行時点で九十代で、「存命の人物による初の目撃証言」という触れ込みで紹介された。

舞台はオリアストラ地方のセウイ。時期は一九四〇年代の初頭。彼女はまだ若く、叔母が死にかけている家にいた。

語られている状況はこうだ。叔母は長く苦しんでいた。家族が集まり、司祭も済ませ、それでも終わらなかった。そこに女が来た。子どもだった彼女は、大人たちに部屋から出るように言われたが、完全には出なかった。扉の隙間か、別の位置から、部屋の中の様子の一部を見てしまった。

彼女の語りで人々の記憶に残るのは、行為の詳細ではない。むしろ、行為の前後の空気だ。誰も声を出さない。誰も泣かない。泣くのは終わってからだ、という順番が家の中で完全に共有されている。悲しみの表出にすら手順がある。その統制のとれ方が、少女には異様に映った。

証言の価値をめぐっては、当然ながら異論がある。九十代の女性が七十年近く前の子ども時代の記憶を語っているわけで、記憶研究の常識からすれば、後から見聞きした話が混ざり込んでいる可能性を排除できない。しかも「アッコバドーラ」という枠組みを与えられた上で思い出しているなら、その枠に沿って記憶が整形されるのは避けがたい。

とはいえ、この証言を否定派も真正面からは潰しきれていない。潰すには「彼女が嘘をついている」か「完全な記憶の捏造だ」と言うしかなく、どちらも証明できないからだ。結果として、この証言は論争のど真ん中に置かれたまま、動かない。

証言その三、シンディアの軛とベルヴィの「鴉」

三つ目は、二つの土地の話をまとめて置く。

ヌオロ県のシンディアで一九八〇年代に語られた話がある。ある男が野良で大怪我をした。運ばれてきたが、手の施しようがない。それでも死なない。八晩、苦しみ続けた。八晩というのが具体的すぎて、聞いた人間の胃にくる数字だ。そして九晩目に、軛の儀式が行われ、男は死んだ。

この件で凄まじいのは、村人の言い方のほうだ。「あの家の軛は、あの人のために使われた。あの人の名前がついている」。道具に、それを使われた人間の名が付く。所有物ではなく、記憶の器としての名づけだ。村の中で誰も口にしないはずの出来事が、道具の呼び名という形でしっかり保存されている。共同体は忘れない。書かないだけだ。

もう一件はベルヴィ。デスーロ出身の研究者アントナンジェロ・リオーリが記録した話で、一九二二年のこととされる。当時この地域には複数の家同士の対立が走っていた。土地と家畜と、たぶん昔の血の貸し借り。そういう地域で、「鴉」というあだ名で呼ばれていた寡婦のアッコバドーラが、敵対する家の息子を終わらせた、と伝えられている。

ここでこの習俗の意味が反転する。慈悲の行為が、報復の道具になっている。あるいは、慈悲だったのか報復だったのかを、村の誰も判定できない状態になっている。実際に村人たちは、この件について復讐を促す歌を作った。歌が作られたということは、少なくとも当事者の一方はこれを殺人と受け取ったということだ。

このケースは、実在論争とは別に、この習俗の構造的な危うさを示している。「本人が苦しんでいるかどうか」「もう手の施しようがないかどうか」を判定するのは家族であり、その家族には利害がある。長患いは家の食糧と労働力を削る。冬を越せるかどうかの計算に、病人の余命が入る。これは冷酷な話ではなく、農牧社会では単純に事実だった。だから、慈悲と実利と敵意の境界線は、原理的に引けない。

この「引けなさ」こそが、たぶんこの伝承がここまで嫌な感触を残す理由の一つだ。

セノルビの壁から出てきたもの

そして、いちばん新しい局面の話をする。二〇二二年に出た本と、その元になった発見だ。

きっかけは診察室での雑談だった。サルデーニャ南部、カリャリの北にあるセノルビ。心臓科医で、島の伝統楽器ラウネッダスの奏者でもあるアウグスト・マリーニの診察室で、患者がこう言った。「アッコバドーラの木槌を見つけたんですけど」。

その木槌は、古い家の隠された壁の窪みから出てきたものだった。何年か箪笥に放り込まれていたという。マリーニは、眼科医のアルド・チヌス、歯科矯正医のマリアーノ・スタッファ、そして法医学者のロベルト・デモンティスを巻き込んで調べ始める。医者四人組による調査、というのがすでに小説めいている。

窪みから出てきたのは木槌だけではなかった。平たい刃先を持つ短剣状の器具、例のサ・ミゼリコルディア。ロザリオ。銅貨。一九二五年から二六年の日付が入った宗教系新聞の切れ端。虫に食われた木片。人間の歯が一本。そして、紙。九つの名前が並んだ手書きの一覧で、それぞれの名前の横に「一」と書き込まれていた。

木槌の上部には、暗い色の染みがあった。分析にかけたところ、人間の血液だと判定された。報道されている範囲では、三十代から四十代の男性のものだという。歯は別人のものだった。筆跡鑑定では、九つの名前は同一人物が書いたものと判断された。

さらに、彼らはカリャリ大司教区の教区文書館に入る。カトリック教会が各教区で保管してきた「クインクェ・リブリ」――洗礼、堅信、婚姻、死亡などを記録した五種の帳簿だ。ここで九つの名前を照合したところ、該当する人物たちが、その地域に、その時期に、実際に生きて、実際に死んでいたことが確認された、と彼らは報告している。

四人はこの調査を『アッコバドーラ、神話と現実――ある発見の歴史と遺物』としてまとめ、二〇二二年に出版した。この本はアルツィアトール賞を受けた。皮肉なことに、この賞の名は、かつてこの習俗に決定的な証拠を出せなかったあの民俗学者にちなんでいる。

さて、これで決着したのか。していない。

イタリアの疑似科学検証団体の側から出た論評は、かなり冷静だ。血痕があること、名簿があること、名簿の人物が実在したこと、これらはすべて事実として認めていい。だが、それらが結びついて「木槌で人を殺した」という結論に至るには、いくつもの推論の橋が必要になる。木槌の血は、その木槌が凶器だったことを意味しない。名簿は、その九人が「終わらされた」ことを意味しない。壁の窪みに一緒に入っていたという物理的な同居は、意味的な関係を証明しない。

そして、いちばん厄介な指摘。サルデーニャ人の中には、この物語を信じたい土壌がある、という確証バイアスの問題だ。壁から古い木槌が出てきたとき、「アッコバドーラの木槌だ」と最初に言ったのが誰だったか。患者がその名で医者に持ち込んだ時点で、解釈の枠はもう嵌まっている。

ここが本当に難しいところで、否定派も肯定派も、同じ物証を見て違うものを読み取る。血痕は肯定派には殺害の跡に見え、否定派には「なんらかの理由で血がついた古い道具」に見える。決定打が出ないまま、両陣営の確信だけが強くなっていく。典型的な、決着しない論争の形だ。

ルーラスの三階建て、いまも扉は開いている

物として最も有名な木槌は、島の北東、ガッルーラのルーラスという町にある。

町の名を冠さず、地方の名を取ってガッルーラス博物館という。看板には「フェミナ・アガッバドーラの家」と書かれている。建物は十八世紀後半の花崗岩造りで、三階建て。ガッルーラの伝統的な民家そのものだ。

館長はピエル・ジャコモ・パラ。一九八一年にこの建物を買い取り、一九九六年に博物館として開いた。収蔵品は四千点を超える。中身は徹底して生活の道具で、一階には農具と牧畜の道具とワイン醸造の器具、上の階にはコルクの加工道具、羊毛と亜麻を扱う機械、そして当時の台所と寝室と食堂の再現。

つまりここは、まず何より「ガッルーラの暮らしの博物館」なのだ。この点は誤解されがちで、アッコバドーラ目当てで来ると、大量の鋤と樽と機織り機を通り抜けることになる。

木槌の発見の経緯を、パラ本人がこう語っている。古い石垣を解体していた。すると、形の整った石が楔で支えられているのに気づいた。楔を外すと石が落ち、その裏の隠された空間から槌が出てきた。ルーラスの年寄りたちからの情報を頼りに、十二年探した末の発見だったという。

素材は野生のオリーブ。長さ四十センチ台、幅二十センチ台。一緒に黒い布の断片も展示されている。

パラの主張は明確だ。アッコバドーラは実在した。彼は三十年以上この題材を追い、島じゅうで聞き取りをしてきた。そして、彼が語る中で最も衝撃的なのが、二〇〇三年二月のこととされる話だ。ボーザ周辺の町で、ある高齢の女性が告解室で司祭にこう言った。「私はアッコバドーラです。最後にやったのは一か月前です」。

この話の扱いは、慎重にならざるをえない。告解の内容は秘密であり、それが外に出た経緯自体が問題を含む。第三者による検証の手段もない。真偽を判定する材料が、事実上ゼロだ。だが、この一言が持つ力は途方もない。二十世紀半ばに終わったはずの話が、二十一世紀のこちら側まで手を伸ばしてくる。

パラのところには世界中から人が来る。ワシントンからわざわざ木槌を見に来た客がいた、と彼は語っている。入館料は数ユーロ。案内は一時間ほど。年中無休、ただし要予約。ガッルーラの田舎町の民俗博物館としては、異例の集客をしている。

教会は、何も言わなかった

教会の立場の話をする。ここが、この主題で最もねじれている部分だ。

公式には、答えは簡単だ。カトリック教会がこの種の行為を認めるはずがない。人の命を絶つのは、いかなる理由であれ大罪である。実際、この習俗はトレント公会議――一五四五年から一五六三年まで続いた、対抗宗教改革の総本山みたいな会議だ――によって禁じられた、という言い方が文献に出てくる。もっとも、この公会議の決議文に「アッコバドーラ」という語が出てくるわけではない。民間の異教的な習俗全般への引き締めが、結果としてこれも封じた、という文脈で理解するのが妥当なところだ。

問題は、その後だ。

十九世紀の記録者たちは口を揃えて「もう終わった」と書き、廃止の功績をイエズス会の布教に帰した。これは教会の側の物語としては非常に据わりがいい。かつて島には野蛮な習慣があり、我々の教化がそれを終わらせた、という筋書きだからだ。ただしこの筋書きは、習慣の存在を前提にしている。教会側の文献が「かつてあった」と語ることで、逆に実在の傍証になってしまう、という奇妙なねじれがここで発生する。

もっと不気味なのは、現場の司祭たちの沈黙だ。村の司祭は、誰が死にかけているか知っている。終油の秘跡を授けに行くのだから当然だ。そして、その人がその後どうなったかも知っている。にもかかわらず、糾弾の記録がほとんど出てこない。

アルツィアトールがこの点に驚いたのは前に書いた通りだ。彼の疑問は真っ当で、知っていたなら断罪すべきだったし、知らなかったのだとしたら、司祭は自分の教区で何が起きているか把握できていなかったことになる。どちらにしても、教会にとって心地よくない結論になる。

肯定派は、告解の秘密という壁を挙げる。もし村の女が告解で告白していたなら、司祭は絶対にそれを外に出せない。この制度的な沈黙は完璧で、外部から破る手段がない。そして、村の共同体全体がその秘密を共有していたなら、司祭は「知っているが言えないし、言う気もない」という位置に落ち着く。パラが語る二〇〇三年の話が、まさにこの構造の中にある。

否定派は、その説明では足りないと言う。告解の秘密は個人の告白を守るが、教区の風紀に関する報告まで封じるものではない。司教への定期報告、巡察記録、説教の草稿。教会は書く組織だ。何もないのはおかしい、と。

どちらの言い分にも理がある。そして、どちらも決定的な材料を持っていない。

国家も、何も言わなかった

法の側はもっとシンプルで、もっと居心地が悪い。

イタリアの刑法には、同意のある相手を殺した場合を扱う条文がある。通常の殺人より刑は軽いが、犯罪であることに変わりはない。動機が慈悲であっても、法的には正当化されない。これはいまも同じで、イタリアでは近年まで終末期医療をめぐる法的議論が続いていて、憲法裁判所レベルでの判断も出ている。

問題は、法がそこにあったのに、適用された形跡がほぼない、という点だ。

伝承として最もよく語られる二つの事例を見てみる。ひとつは一九二九年のルーラス。対象は七十歳の男性だったとされ、実行したのは地元の産婆だったという。もうひとつは一九五二年のオルゴーゾロ。この二つが「最後の事例」の候補として繰り返し挙げられる。

ルーラスの件について語られているのは、カラビニエリが動き、テンピオ・パウザニアの検察が関わり、教会も関わった上で、全員が「人道的な行為である」という認識で一致し、女性は起訴されなかった、という筋書きだ。憲兵と検察と司祭が揃って見送った、ということになる。

この話が本当なら、法の空白どころではない。国家機関が明示的に不介入を選んだことになる。ただし、この件についても、参照可能な公的記録が示されたことはない。起訴されなかった事案は、そもそも記録が薄いという事情はある。だが、薄いのと無いのは違う。

年代についても諸説がある。一九二九年、一九五二年、一九五〇年代末、あるいは前述の二〇〇三年。「最後の事例」がこれだけ揺れること自体が示唆的だ。実在した習俗の終焉なら、多少ぼやけるのは自然だ。だが、後から作られた物語なら、「最後の事例」は語りの需要に応じて何度でも更新される。ここでも両方の解釈が成り立ってしまう。

サルデーニャという島の、国家に対する距離感も効いている。長く外部勢力に支配され、内陸部は中央の統治がまともに届かなかった土地だ。村の中の揉め事は村の中で処理する、という原則が二十世紀に入っても生きていた。血の復讐の慣習が根強く残っていたことも記録されている。そういう場所で、憲兵が村の全員が口をつぐんでいる事案を立件できたか、と考えると、できなかっただろうな、とは思う。

泣き女という職業が、確実にあった

ここで視点を変える。アッコバドーラは実在が争われているが、サルデーニャには実在が全く争われていない死の作法がいくつもある。それを並べてみると、この島が死をどう扱ってきたかの輪郭が見えてくる。

まず、アッティトゥ。死者を悼む儀礼的な嘆きの歌のことで、これを歌う女をアッティタドーラと呼ぶ。報酬を受け取る専門職だった。地中海世界に広く分布する泣き女の一種で、古代ギリシャやエトルリア、エジプトにまで遡る系譜を持つ。

彼女たちは黒と黄色をまとって葬儀に現れ、その場で即興の哀歌を歌った。年齢も容姿も関係ない。求められるのは、聞く者の胸から感情を引きずり出す歌唱の力だけだ。歌詞は故人の生涯、家族の嘆き、残された者の絶望を、韻を踏んだサルデーニャ語で組み上げていく。

そして、死者が殺されていた場合、この歌は復讐の煽動になる。血のついた衣服が壁に掛けられ、その前でアッティタドーラが歌う。「呪われよ、お前の心臓に短剣で七つの穴を開けよう」といった調子の文句が記録されている。これは詩ではなく、指令に近い。近親者は復讐を果たすまで髪と爪を伸ばし、身なりを構わず、毎晩復讐の歌を歌った。

アッコバドーラが「死なせる女」なら、アッティタドーラは「死を叫ぶ女」だ。どちらも死をめぐる専門職で、どちらも女で、どちらも共同体から報酬か現物を受け取る。片方は実在の議論の的で、片方は録音まで残っている。この非対称が面白い。

なぜ非対称なのか。答えは簡単で、片方は犯罪ではないからだ。歌うのは自由だ。だから記録される。殺すのは犯罪だから、記録されない。ブッサの「文書がないから存在しない」という論法に対する、いちばん素朴な反論はここにある。ただし、それは反論であって証明ではない。

遺体は足から出す、鏡は布で覆う

葬送の作法そのものも、細かく決まっていた。

人が死ぬと、身内はテユと呼ばれる嘆きの声を上げ、胸を叩き、髪を掻きむしる。そして最も近い親族が聖なるろうそくに火をつけ、死者の前で十字を切り、その口を閉じてやる。口を閉じるのは見た目の問題ではない。家族の秘密が漏れ出さないようにするためだ、と説明されていた。死者の口は開いたままだと危ない、という感覚が島にはある。

遺体は洗われ、いちばん良い服を着せられ、暖炉のそばの台に安置される。バンカ・デ・モルトスと呼ばれる、棺台のような台だ。ここで重要なのが向きで、足を戸口に向ける。古代ローマから続く作法だという。この世からあの世へ出ていく方向を、体の向きで指定してやる。胸には十字架を置く。

家の中では、鏡を布で覆う。死者の魂が鏡に引き寄せられて留まってしまうのを防ぐためだ。窓は閉め、カーテンを引く。ただし死んだ直後に一度だけ窓を開け、魂を出してからまた閉める、という手順を踏む地域もある。開けっぱなしにはしない。出ていってもらうが、戻ってきてもらっては困る。

弔問はスクルンピウ、あるいはサ・ビシタと呼ばれる。近所と親族が次々に訪れる。女たちは遺体の脇に座り、黒いスカーフで顔の下半分を覆う。この所作にもアットゥッパレという名前がついている。名前がついているということは、間違ったやり方があるということだ。

食事の決まりも細かい。喪の家では火を使わないので、近所が食事を運ぶ義務を負う。サ・アックノルトゥと呼ばれる。夜通しの見守りではパンと蜂蜜が出る。埋葬の日の夜には、そら豆と卵。後の時代にはこれがパスタに変わっていく。死後七日目と九日目には、家族が肉とパンとパスタを近所と貧しい者に配る。ビッティではこれをイムボルヴィタと呼び、配る食べ物を白い布で覆う決まりだった。

牧畜地域では、再婚しない寡婦は生涯喪服のままだった。全身黒。

ここで話が一周する。全身黒の年配女性が村に何十人もいる社会で、「黒衣のアッコバドーラが来た」という証言は、どこまで人物の特定になるのか。答えは、ならない。喪服の集団の中に一人紛れ込んでも、誰も見分けられない。この習俗が匿名性を保てた理由の一端は、たぶんここにある。

そして死者の道。集落から墓地へ遺体を運ぶルートは決まっていて、行きと帰りで道を変える、あるいは特定の道は葬列専用として日常では使わない、という言い伝えが各地に残る。理屈は鏡と同じで、魂に帰り道を覚えさせないためだ。埋葬の禁忌も多い。自死した者、洗礼を受けずに死んだ子ども、破門された者は聖別された墓地の外に埋められた。この線引きは中世からのカトリックの原則だが、村の実務としては、共同体の内と外を切り分ける装置として機能していた。

もうひとつ、島には死者が家に帰ってくる日がある。十一月の初め、ス・モルトゥ・モルトゥと呼ばれる行事だ。子どもたちが家々を回って菓子をもらう。ハロウィンにそっくりだが、系譜は別で、死者のために食卓を用意し、家の扉を開けておくという古い作法から来ている。この日、テーブルには余分な皿が置かれ、水が用意される。死者は帰ってくる前提なのだ。

死をこれだけ手厚く、細かく、手順化している文化。その同じ文化の中に「終わらせる女」の話が生えてくることには、少なくとも違和感がない。死は自然に起きるものではなく、正しく執り行われるものだ、という前提が最初からある。

いま、島でこの話をすると

現代のサルデーニャで、この話題は微妙な位置にある。

一方には、観光資源としての顔がある。ルーラスの博物館は世界中から客を集める。旅行系の記事は「島でいちばん謎めいた博物館」として紹介する。夏の海目当ての観光客が、雨の日の内陸ドライブの目的地としてここを選ぶ。ガイドツアーは一時間。木槌の前で写真は撮れないが、話は聞ける。

小説がこの認知度を跳ね上げた。ミケーラ・ムルジャが二〇〇九年に発表した『アッコバドーラ』だ。舞台は一九五〇年代のサルデーニャで、主人公は「フィッレ・アニマ」――魂の子、つまり実の親から他の家に譲られて育てられる島の慣習で育った少女。彼女の育ての母が、村のアッコバドーラだった。この小説は翌年、イタリアで最も権威のある文学賞のひとつを受賞し、多くの言語に翻訳された。二〇一五年にはエンリコ・パウ監督が同名の映画を撮り、近年にはムルジャの作品を下敷きにしたオペラがフランスで上演されている。ムルジャ自身は二〇二三年に亡くなった。

小説と映画が広めたのは、この存在の「怖さ」ではなく「切なさ」のほうだ。育ての母は怪物ではない。村に必要とされ、誰にも礼を言われない仕事をする人として描かれる。この解釈は島の外で圧倒的に受け入れられた。

その一方で、島の中には強い反発がある。ブッサの怒りが典型で、この神話は結局のところ「サルデーニャ人は身内を撲殺していた野蛮な民族だ」という外部からのまなざしを、島の側が自分で受け入れて商品化したものではないか、という批判だ。この指摘は無視できない重さがある。十九世紀の旅行記の書き手たちが、地中海の島の「未開さ」を発見して喜ぶ視線でこの話を書いたのは、たぶん事実だからだ。

ネット上の広がり方は、それとはまた別の力学で動いている。数分の動画で、黒衣の女と木槌のイメージだけが切り出されて、繰り返し流れる。前置きも文脈も論争もない。ホラーコンテンツとしての流通経路に乗ってしまうと、そこには「本当にあったのか」を問う機能が存在しない。ある種の飽和が起きていて、島の研究者が三十年かけて積んだ議論より、十五秒の動画のほうが圧倒的に多く見られている。

現代の終末期医療の議論の中でこの語が引かれることもある。イタリアでは終末期の自己決定をめぐる法整備が長く争点になっていて、その文脈で「サルデーニャには先駆的な安楽死があった」という枠で語られる。ブカレッリらの本のタイトルがまさにそれだ。ただしこの接続には慎重であるべきで、伝承の中のアッコバドーラは本人の明示的な同意を前提にしていない。呼ぶのは家族だ。ここは決定的に違う。現代の議論に持ち込むなら、その差を潰さずに扱うほかない。

なぜこの話は、こんなに刺さるのか

最後に、なぜこの伝承がここまで人の記憶に居座るのかを考えたい。

ひとつ目は、加害者の顔がないことだ。この話に悪人が出てこない。呼ぶ家族は苦しむ肉親を見かねている。来る女は報酬を取らず、村の役目として来る。終わらされる本人は、たぶん終わりを望んでいた。誰も悪くない。悪人がいないのに人が死ぬ話は、悪人がいる話より遥かに気持ちが悪い。誰を責めればいいか分からないまま、出来事だけが残る。

ふたつ目は、扉が閉まっていることだ。この伝承の中核部分は、構造上、絶対に目撃されない。にもかかわらず、語りは中の様子を詳細に描く。この矛盾が、話に独特の吸引力を与えている。中を見た人はいない。でも全員が中を知っている。共同体の想像力が空白を埋め、埋めたものが記憶として定着し、次の世代には見聞きした事実として渡される。伝承がどう作られるかの、これ以上ないくらい鮮明な標本だ。

三つ目は、聖なるものを外す、という所作。これがこの話の毒の中心だと思う。十字架を外し、聖母の絵を裏返す。しかもその理由が「魂を助けるため」だという。信仰を守るために信仰の道具を退ける。この論理の折り返しは、聞いた瞬間には筋が通っているように聞こえて、後から効いてくる。信じている世界の中で、その世界の道具を一時停止させる権限を持った人間がいる。それは司祭より上の権限ではないか、と気づいたときが、いちばん寒い。

四つ目は、産婆との重なり。取り上げる手と終わらせる手が同じであること。生と死を同じ人物の職掌に置く発想は、近代医療のあとに生まれた我々の感覚とは根本的に違う。だがそれは古い発想でもなく、単に別の分け方だ。我々は生と死を「別の部署」に分けた。彼らは「入口と出口」として同じ部署に置いた。どちらが自然かは、たぶん決まっていない。

五つ目は、見分けがつかないこと。全員が黒い服を着ている村で、誰がアッコバドーラかは分からない。日常の中に完全に溶けている。特別な存在が特別な格好をしていないというのは、怪異の作法として最も効率がいい。誰でもありうるから、誰も安心できない。

そして最後に、この話がまだ終わっていないこと。二十世紀半ばまで、と言われている。一九五二年か、一九五〇年代末か、あるいはもっと後か。祖父母の世代の話なのだ。中世でも古代でもない。写真もある、ラジオもある、選挙もある時代の話として語られる。この時間的な近さが、怪談として例外的な効果を生んでいる。

それでいて、実在したかどうかは決着していない。この二つの条件――近いのに、証明されていない――が同時に成り立っている題材は、そう多くない。だからこの話は、いつまでも消えない。

「証拠がない」ではなく「何を証拠と呼ぶか」の争い

ここからは、本文で扱いきれなかった角度をまとめて掘り下げる。

まず、この論争の方法論的な芯を整理しておきたい。ブッサ側とピッタウ側の対立は、表面的には「証拠があるかないか」の争いに見える。だが実際に戦われているのは「何を証拠と認めるか」の争いだ。これは全く別の問題で、だから決着しない。

ブッサの立場は、文書史学の標準的な作法に沿っている。ある出来事が実際に起きたと言うためには、同時代の一次史料が要る。裁判記録、行政文書、教会の帳簿、書簡。これらは書かれた時点の意図が明確で、後から改変されにくく、相互に照合できる。この基準を厳格に適用すれば、アッコバドーラは落第する。何一つ残っていないからだ。

ピッタウの立場は、民俗学と言語学の作法に立っている。文書は権力が作るものであり、権力の視野に入らない事象は文書に残らない。文字を持たない層の生活史を扱う分野では、これは大前提だ。口承、方言語彙、諺、道具、地名。こうした非文書的な痕跡を証拠として扱わなければ、村の歴史はまるごと書けなくなる。この基準を適用すれば、アッコバドーラは複数の独立した痕跡を持つ、かなり有力な候補になる。

どちらの作法も、それぞれの分野では正しい。問題は、二つの作法が同じ対象に適用されたときに、正反対の結論を出してしまうことだ。しかも、どちらの結論も自分の作法の内部では完全に正当化されている。だから議論は噛み合わず、相手を「証拠を軽視している」あるいは「証拠を狭く定義しすぎている」と非難し合う形に落ち着く。

ここに、感情の層が乗る。ブッサが「観光のために島の野蛮さを売っている」と言うとき、それは方法論の話ではなく、島の名誉の話をしている。ピッタウが「祖父母が語ったことを嘘だと言うのか」と言うとき、それも方法論の話ではない。この二層が絡まったまま十年以上やり合っているので、外から見ると論争というより喧嘩に見える。だが、絡まっていること自体が、この題材の性質をよく表している。

次に、ブッサの「二種類のアッコバドーラ」説を、もう少し丁寧に考えたい。呪術的アッコバドーラと暴力的アッコバドーラを分ける、という提案だ。

呪術的なほうは、証拠の質が段違いに高い。枕の下に軛を置く習慣は、サルデーニャだけでなくイタリア半島の複数の地域、さらにフランスにまで分布が確認されている。分布が広く、地域ごとに置く道具が違い、それでいて「重い農具を死にゆく人の下に置く」という核が共通している。こういう分布の仕方をするものは、たいてい実在した習俗だ。作り話は、こんなに整った変異のパターンを作れない。

聖像を外す、という作法も同様だ。これはヨーロッパの民間習俗としてはむしろありふれた部類に入る。臨終の場から特定の物を除ける、あるいは逆に特定の物を置く、という発想は、キリスト教以前の層に属していて、教会が上から被さっても消えなかった部分だ。この作法だけを取り出せば、何も特異ではない。

問題は、その先だ。呪術で死ななかった人はどうなったのか。

この空白の埋め方が、二つの説の分岐点になる。ブッサは「死ななければ、ただ死ぬまで待った。それだけだ」と考える。そして「待つあいだの重苦しさ」が、後の世代の語りの中で「終わらせた」に転化した、と見る。ありうる話だ。人の記憶は、耐えがたい空白を物語で埋める。

肯定派は、そこで手が下ろされたと考える。そして、その根拠として「島の全域で同じ形の話が語られている」ことを挙げる。ここが決定的な争点で、否定派は「全域で語られていることは、事実の証拠ではなく伝播の証拠だ」と返す。話は伝わる。特に、印刷物と学校教育と新聞が普及した十九世紀以降は、猛烈な速さで伝わる。カザーリスの辞典が世に出た後で、島の知識人がそれを読み、地元で語り、それが村に降りていった経路は、十分に想定できる。

この「逆流」の可能性は、民俗学の現場では常に警戒される。研究者が村に行って質問すると、村人が研究者の期待に沿って答える。しかもその答えが、以前の研究者の記述に由来していることがある。こうして、文献が現場を作り、現場が文献を裏付けるという循環が完成する。トゥルキの聞き取りやパラの調査が、この循環から完全に自由だったと言い切ることは、方法論上、誰にもできない。

とはいえ、逆流だけで全部を説明するのも無理がある。特に、報酬の描写だ。デスーロで記録された「小麦五リットル」のような具体性は、文献からの逆流では生まれにくい。文献にはそんな記述がないからだ。同様に、シンディアの「あの家の軛には、あの人の名前がついている」という言い回しも、外来の物語では説明しづらい。こういう、話の骨格ではなく肉の部分にある細部は、現場発の情報である可能性が高い。

ここから導けるのは、たぶんこういう中間の像だ。島には、瀕死の人を送り出すための民間の作法が確実にあった。それは呪術的な性格を持ち、軛と聖像と唱えごとを使い、地域ごとに変異していた。この作法を執り行う役目の人がいて、多くの場合それは年配の女性で、産婆を兼ねることが多かった。そこまでは、証拠の質からして、まず動かない。

そして、その作法の一部において、実際に生命を絶つ行為が伴った可能性は、否定できない。頻度は分からない。何人がそうしたかも分からない。だが、ゼロだと証明することもできない。手を下すことと下さないことの境界は、実際の看取りの現場では、我々が思うほど鮮明ではない。首の後ろに軛を回す動作は、力の加減ひとつで儀式にも致命傷にもなる。行為者本人が、自分がどちらをやったのか自覚していない場合すらありえたはずだ。

この曖昧さこそが、記録が残らなかった最大の理由かもしれない。誰も告発しないのは、隠したからではなく、何が起きたか誰も断言できなかったからだ、という可能性。これはかなり不気味な仮説だが、現場の感触としては、いちばん納得がいく。

次に、この習俗の社会経済的な側面を掘る。ここを避けて情緒的な話だけをすると、この題材は必ず美化される。

二十世紀前半のサルデーニャ内陸部は、貧しかった。単に貧しいのではなく、収支が常にぎりぎりだった。家族の食糧は自分たちで作る。労働力は家族の体だ。誰か一人が寝込むと、その人の労働が消えるだけでなく、看病する人の労働も消える。冬に病人を抱えるということは、二人分の労働が失われた状態で春まで持たせる計算をするということだ。

そして、医療がない。痛みを止める手段が事実上存在しない。二十世紀前半の内陸の村で、末期の痛みに対して打てる手はほとんどなかった。町の医者に運ぶ体力がある段階なら運ぶが、運べない段階になったら、あとは待つしかない。骨が砕けている、内臓をやられている、腫瘍が壊れている。そういう状態で、意識だけがある期間が、何日も続く。

この条件下で、「終わらせる」という選択肢が共同体の中に生まれるのは、道徳の問題ではなく物理の問題に近い。生まれなかったとしたら、そのほうが不思議だ、とすら言える。ヨーロッパの各地に類似の痕跡があるのは、条件が同じだったからだろう。実際、フランスにも聖別された槌や石を使った類似の作法の記録があり、それが教会に認められていたという言及すらある。

ただし、これを「合理的だったから正しかった」と言い換えるのは、絶対にやってはいけない。この計算には、常に「病人本人の意思」という項目が入っていない。呼ぶのは家族だ。判断するのも家族だ。ベルヴィの「鴉」の話が示すように、家同士の対立が判断に混ざる余地もある。慈悲の形をした処置が、慈悲以外の何かに使われうる構造が、最初から埋め込まれている。

そして、この構造は現代の議論にそのまま接続する。だからこそ、この伝承が終末期医療の議論で引かれるとき、慎重にならないといけない。伝承の中の光景は、本人の意思決定ではなく、家族の判断と共同体の黙認で回っている。現代の議論が積み上げてきたものは、まさにその点を反転させるための手続きだ。同意の確認、判断能力の評価、第三者の関与、記録。すべて、扉を閉めないための装置になっている。伝承の中のアッコバドーラは、扉を閉めることで成立していた。ここは真逆であって、系譜として繋げてはいけない。

もうひとつ掘っておきたいのが、この存在が「女」であることの意味だ。

伝承の中でこの役目が女に割り当てられているのは、偶然ではない。まず現実的な理由として、看取りの現場は女の場所だった。病人の世話、遺体の洗浄、死装束の着付け、そして泣くこと。死をめぐる実務労働のほぼ全部が、女の手に割り振られていた。その延長線上に、最後の一手も置かれる。産婆との兼務は、その意味で完全に自然な人選になる。すでに他人の体に手を触れる資格を持っている人間だからだ。

象徴的な理由もある。生む者が終わらせる、という対称性は、あまりに図式が整いすぎていて、むしろ物語として作られた痕跡にも見える。実際、サルデーニャを母権的な社会として描き、女が生と死の両方を管理していた、という解釈が繰り返し出てくる。これはロマンチックすぎる説明だと思う。実務労働の配置を、権力の配置と読み替えているからだ。死の世話を全部押し付けられていたことと、死を管理する権限を持っていたことは、まったく別だ。

とはいえ、この役目が女だったことは、この伝承の恐ろしさの質を決定的に変えている。もし黒衣の男が槌を持って現れる話だったら、これはただの処刑人の話になる。年老いた小柄な女が、子守唄を歌いながら膝で頭を挟む。この落差が、この伝承を忘れられないものにしている。優しさの動作と、終わらせる動作が、同じ動作になっている。

ここまで書いてきて、この題材の本当の中心は、実在したかどうかではないのかもしれない、と思い始めている。

仮に、明日どこかの文書館から一九二〇年代の詳細な調書が出てきて、実在が確定したとする。何が変わるだろうか。話の怖さは、たぶんほとんど変わらない。逆に、完璧な反証が出て、全部が十九世紀の旅行記から生まれた作り話だと判明したとする。それでも怖さは残る。なぜなら、この話は「島に本当にそういう女がいたか」ではなく、「共同体が死をどう扱うか」という問いを扱っているからだ。

その問いに対して、サルデーニャの村が出した答え――かどうかは分からないが、少なくとも村が語り続けた答え――は、こうだ。死は自然に任せるものではない。手順があり、担当者がいる。担当者は共同体の外から呼ばれ、名を明かさず、報酬を取らず、扉を閉め、記録を残さない。そして共同体全体が、その一時間を「なかったこと」として運用する。

これは、責任を分散させる装置としては、恐ろしく洗練されている。呼んだ家族は手を下していない。手を下した女は自分の意思で来たわけではない。司祭は知らないことになっている。憲兵は聞かなかったことにする。誰も引き受けていない。それでいて、全員が薄く関与している。

この構造は、現代の我々の社会にもそのまま存在する。決定が誰のものか分からないまま結果だけが出る仕組みを、我々はいくらでも持っている。だからこの話は他人事にならない。花崗岩の家の、ろうそくの灯った部屋の話をしているつもりで、気づくと自分の側の話になっている。

最後に、ルーラスの博物館のことをもう一度書いておきたい。

あそこは、木槌の館ではない。四千点の農具と機織り機とコルク削りの館だ。訪れた人の多くは、目当ての一点にたどり着くまでに、想像していなかった量の生活道具を通過することになる。羊毛を梳く道具。ブドウを潰す桶。パンを焼く道具。子どもを寝かせる揺りかご。

その全部の先に、槌がある。

順路としては、たぶんこれ以上ないくらい正しい。この習俗が仮に本当にあったとして、それは異常な事件としてではなく、この生活道具の列の最後に置かれた一点として存在したはずだからだ。鋤と同じ棚に、槌がある。それが怖いのだと思う。特別な部屋に隔離された怪物ではなく、暮らしの道具の並びの中にそれが収まっている、という光景のほうが。

年中無休、要予約。ガッルーラの、コルク樫とオリーブの丘の上の町に、その扉はいまも開いている。

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