元日の朝、その家では誰も箒を持たなかった
正月というのは、日本でいちばん「何もしてはいけない日」だ。
これ、わりと本気で言っている。掃除するな。包丁を握るな。火を焚くな。水を使うな。洗濯するな。四つ足の獣の肉を食うな。喧嘩するな。金を払うな。爪を切るな。針を持つな。布団を干すな。山にも畑にも行くな。地域によっては雑煮すら食うな。禁止事項をぜんぶ並べると、生活が成立しない。
しかも面白いのは、この禁止が「マナー」じゃないところだ。マナーなら破っても気まずいだけで済む。だが正月の禁忌は違う。破ると福が逃げる、縁が切れる、家が焼ける、祟られる。そういう言い方をされてきた。つまりこれは行儀の話ではなく、呪いの話なんだよな。
期間もはっきりしている。大晦日の日暮れから始まって、元日いっぱい。ここがいちばん濃い。三が日まで引っ張る地域も多いが、伝承の中心はだいたいこの四十八時間に集中している。この間だけ、家のなかには人間以外のものが居る。だから人間は動くなと言われた。
そいつの名前は年神様という。
正月飾りも、鏡餅も、おせちも、お年玉も、寝正月も、全部この年神をめぐる装置だ。門松は年神が降りてくる目印で、鏡餅は年神が座る場所で、おせちは年神と一緒に食う飯で、お年玉はもともと年神が配る餅だった。そして掃除の禁止は――家のなかを歩き回っている年神を、箒で外に掃き出さないための措置である。
考えてみてほしい。それって、家のなかに見えない客が居るという前提でしか成立しない話だ。しかも追い出したらまずいレベルの客が。
日本人はつい最近まで、正月のたびに、目に見えないものと同居していた。
大晦日の午後四時、家のなかが静かに作り変えられていく
昭和三十年代くらいまでの、地方の農家の年越しを再現してみる。資料と聞き書きをつなぐと、だいたいこういう二日間になる。
十二月十三日の「正月事始め」から準備は始まっている。江戸時代の暦では十三日は婚礼以外すべて大吉の鬼宿日にあたるとされ、江戸城でもこの日に煤払いをした。だから庶民も真似をした。同じ日に山へ入って門松用の松と、正月に焚く薪を伐ってくる。これが松迎え。年神を迎える準備は、そもそも山へ神を迎えにいく行為とセットだった。
飾り付けは二十八日までに終わらせる。二十九日は「二重苦」に通じるから餅もつかない。ついてしまえば「苦餅」だ。三十一日に飾るのは「一夜飾り」といって、いちばん失礼にあたる。
そして大晦日。
午後、まだ日が高いうちに最後の掃き納めをする。ここで箒を使い切る。あとは松の内が明けるまで、箒は物置に片づけられる。台所では女たちが煮しめを大鍋で炊いている。醤油と砂糖と昆布出汁の匂いが土間じゅうに充満して、板戸の隙間から表に流れていく。数の子は塩抜きが済んでいる。ごまめは弱火で炒って飴を絡めてある。黒豆は前の晩から浸してあって、いまも銅鍋の底で静かに震えている。刃物を使う仕事は、この日のうちに全部片づけないといけない。大根も人参も蒲鉾も、明日から先は切れないからだ。
日が落ちる。ここが実は分岐点で、古い時間感覚では一日は日没から始まる。柳田國男が『先祖の話』で書いているとおり、「正月様の家々に到着せられるのは、元日の朝ではちと遅過ぎた」。大晦日の夕方には、もう新年が始まっている。つまり年神は、みんながまだ大晦日だと思っている時間に、すでに家に着いている可能性がある。
だから囲炉裏の火を落とせない。
大晦日の晩は、囲炉裏に樫のような硬い木の大きな塊をくべる。これを世継榾と呼ぶ地域がある。火が絶えないことが、家が絶えないことに直結している。長崎の伝承では、棟木が見えるほど火を焚かないと化け物が下りてくると言われた。和歌山では、大晦日の晩におくどさんの火を小さくすると自在鉤から大きな蜘蛛が下りてくるという。兵庫では、鬼が蜘蛛に化けて囲炉裏から下りてきて人を食う、だから火を大きく焚いて寝ずに待つのだと語られていた。
家族は年取り膳を囲む。白い飯。年取り魚。鰤か鮭か鰯かは地域による。普段は雑穀や麦飯で節約していた家でも、この四日間だけは何としても白米を食った。新谷尚紀が語っているとおり、米には霊力が宿るとされ、それを食うことで年魂を一つ受け取ると考えられていたからだ。数え年とは、そうやって受け取った年魂の数を数える方式だった。
そして寝ない。
大晦日の夜に眠ると白髪になる、皺が増える。この俗信が全国にある。この夜は訪れた年神の傍に侍っているべき時間だからだ。眠ってしまうのは、客の前で寝落ちするのと同じ無礼にあたる。どうしても眠りたいときは「寝る」と言わずに「稲積む」と言い換えた。言葉の上でだけ、眠りを豊作にすり替えたわけだ。
夜が更けると、遠くで鐘が鳴りはじめる。除夜の鐘だ。同じ頃、家長は氏神の社へ出かけていく。これが年籠り。
そして元日の未明。まだ真っ暗なうちに、年男が新しい桶と柄杓を持って井戸へ向かう。若水汲みだ。道中、人に会っても口をきいてはいけない。井戸に着いたら水神に供物を捧げ、決まった言葉を唱えてから汲む。愛媛の南宇和郡では、汲む前にいったん松明で井戸の中を照らす習わしがあった。昔そうやって覗いたら福の神が居たから、という理由が伝わっている。
汲んできた若水で雑煮を煮る。火は昨夜から絶やしていない火。水は今朝汲んだばかりの水。鍋の中身は昨日のうちに切ってある。
そして夜が明ける。誰も箒に触らない。誰も洗濯物を干さない。誰も包丁を出さない。
家のなかは、静かだ。
箒を持てば福が出ていく――この禁忌はいつから記録されているのか
正月の掃除禁止は、思っているよりずっと古い。
江戸時代の川柳に「元日の塵はつまんで捨てられる」というのがある。掃いてはいけないから、落ちているゴミは指でつまんで捨てる。この一句だけで、江戸の庶民が元日の掃除をタブー扱いしていたことがわかる。しかも「掃除をしない」のではなく「掃かずに拾う」という抜け道まで用意されている。当時の人も別に不潔でいたかったわけじゃない。掃き出すという動作そのものが禁じられていたのだ。
民俗学者の常光徹は『魔除けの民俗学』のなかで、「正月は家のなかを箒で掃くな」という俗信を整理している。禁忌の期間は元日だけの場合もあり、三が日という土地もあり、伝承は全国に及ぶ。そして理由はどこでも一様で、「福の神が出ていくから」。全国で理由が揃うというのは、けっこう不気味なことだと思う。ローカルな思いつきなら理由はバラけるはずだからだ。
箒そのものが、もともと呪いの道具だった。斎藤たまの『まよけの民俗誌』は、箒は掃くという機能から「ものを追い払う」まじない的な役割を負わされてきた、だから箒には禁忌が集中するのだと書いている。長居する客の前に箒を逆さに立てると帰る、という有名な呪いもこれだ。箒は追い出す道具なのだ。だからこそ、追い出してはいけない相手が家に居る間は、絶対に持ってはいけない。
正月に掃除しない理由は、実はもう一段深いところにもある。年神は恵方から来ると考えられていた。年神すなわち歳徳神は陰陽道に取り込まれた方位神でもあり、その年の十干によって居る方角が決まる。甲と己の年は東北東、乙と庚の年は西南西、といった具合だ。恵方巻きを恵方に向いて食うのは、この歳徳神の居場所を向いているという意味になる。つまり年神は「家のどこかに居る」のではなく「特定の方角から入ってきて、恵方に向けて吊った棚に座っている」。だからその棚を年棚、歳徳棚、恵方棚と呼んだ。棚を吊る家は今ではほとんど消えたが、鏡餅を置く場所を恵方に向けるという言い方だけ残っている地域はまだある。
要するに、正月の家は神棚が一個増えた状態になっている。そして増えたほうの神は、恒久設置ではなく仮設で、期間限定で、しかも移動してくる。移動してくるということは、逆向きにも移動しうるということだ。掃き出せば、出ていく。
包丁を置け、爪も切るな――刃物が切っているのは食材じゃない
刃物の禁忌は理由が複数ある。しかもそのどれもが、ちょっと理屈が飛んでいて面白い。
いちばん有名なのが「切ることは縁を切ることに通じる」。年の初めに縁を切るような動作をしたら、その年ずっと縁が切れ続ける。言葉の連想がそのまま現実に効くという発想で、これは日本の忌み言葉の文化そのままだ。結婚式で「切る」「別れる」を避けるのと同じ回路が働いている。
二つ目が実利寄りの説明で、「三が日に刃物を使わずに済んだ年は、怪我をしない年になる」。これは順序が逆転していて面白い。刃物を使わなければ怪我しないのは当たり前なのだが、それを「三日間無事だったから一年無事」という予祝に変換している。正月の三日間はその年の縮図だ、という考え方がここにある。
そしてこの刃物禁止こそが、おせち料理の正体である。
おせちが日持ちする味付けなのは、保存が利いて便利だからではない。三が日に包丁も火も使えないから、使えないうちに全部作っておくしかなかったからだ。煮しめ、酢の物、佃煮、砂糖と塩と酢で徹底的に固めた料理群。あれは冷蔵庫のない時代に、四日間ぶん先に作り置きするための技術体系だ。おせちを年末に作る理由として「包丁には縁を切るの意味がある」ことを挙げる解説は今も多い。おせちは料理というより、禁忌の副産物なんだよな。
そして爪。
正月に爪を切るなという禁忌も広い。理由の一つは単純で、昔は爪切りなんて道具がなく、小刀で切っていたからだ。滑れば血が出る。正月を血で穢すのを、人はひどく嫌った。もう一つは「自分の身体の一部を切る」行為が家族との縁切りに通じるという説明で、こっちは完全に呪術の理屈である。
解禁日はきっちり決まっている。一月七日、人日の節句。七草粥を作ったあとの、七草を浸した水に指を浸して爪をやわらかくしてから、今年最初の爪を切る。これを七草爪、七日爪、菜爪と呼ぶ。喜田川守貞が天保八年から書き継いだ『守貞謾稿』には「薺をわづかに加へ煮て、余る薺を茶碗に納れ、水にひたして、男女これに指をひたし爪をきるを、七草爪と云ふ」とあり、さらに「京坂には、この行をきかず」と続く。江戸ではやるが上方ではやらない、という地域差まで記録されている。
さらに気味の悪い伝承がある。神奈川県二宮町の資料には、七草の唱えごとに出てくる「唐土の鳥」は人間の魂を消滅させる鳥で、この鳥が人の捨てた爪を軒下へ食べに来ると信じられていた、という説明が出てくる。切った爪が魂の一部で、それを鳥に食われると魂が減る。だから爪は簡単に切れない。禁忌の底には、たいていこういう身体観が沈んでいる。
竈の神も休みたい――火と水を止める四十八時間
火を使うなという禁忌には、二種類の理由が並走している。
一つは竈の神を休ませるため。台所の火の場所には荒神様が居るとされてきた。三宝荒神、竈神、釜神、火の神。呼び方は地域で違う。『古事記』では大年神の子として奥津日子神と奥津比売命が挙げられ、「諸人もち拝く竈神なり」と書かれている。つまり火の神は年神の子だという系譜まである。荒神は霊験あらたかで、同時にひどく祟りやすい神とされた。生まれたての赤ん坊の額に竈の墨を塗ると魔除けになるという風習が各地にあり、九州北西部にはその荒神墨のおかげで河童の難を逃れたという話まで残っている。そんな神が台所に居るのだから、扱いは慎重になる。年末には竈に注連縄を張り、幣束を立てて祓いをする釜〆という行事があり、川越氷川神社の説明では、正月は竈を閉めて使用しなかったことが釜〆の語源の一つだとされている。
もう一つの理由がわりと即物的で、煮炊きをすると灰汁が出る、灰汁は「悪」に通じる、というものだ。語呂合わせである。だが正月の禁忌はだいたい語呂合わせでできているので、これはこれで筋が通っている。
水も同じだ。台所、風呂、便所の掃除、そして洗濯。すべて禁じられる。理由は「年神を水で洗い流してしまう」から。洗濯については「服を洗う」が「福を洗い流す」に化ける。ここでも語呂だ。
ただ、火と水にはもう一つ、まったく別系統の理屈が絡んでいる。正月の火と水は「新しくなければならない」という観念だ。元日に汲む若水は飲めば一年の邪気を避けられるとされ、その信仰は常世から流れてくるという変若水にさかのぼる。火のほうも、新年には木と木を摩擦して起こした鑽火という新しい火を使う流儀がある。京都の八坂神社の白朮祭では、参拝者が火縄に鑽火を移して持ち帰り、その火で雑煮を作る。まだ何にも使われていない、穢れていない火だ。
つまり正月の火と水には二つの正反対の要請が同居している。絶やすな、という要請と、新しくしろ、という要請だ。古い火を守り継ぐ家もあれば、新しい火を起こす家もある。どちらも「家が続く」ことを願っている点では同じで、要するに火は家の寿命そのものの比喩なんだよな。
四つ足を食うな、という千二百年前の法令の残り香
三が日に四つ足の獣の肉を食うな、という禁忌もある。牛、豚、馬。だが鶏はいい。兎もいい。二本足だからだ。
由来として持ち出されるのが、天武天皇が六七五年に出したいわゆる肉食禁止の詔だ。仏教の殺生禁断の思想を背景に、神仏への供え物から四つ足が排除されるようになった、という説明が広く流通している。おせちがもともと年神への供え物であった以上、そこに獣肉は載せられない、という筋書きだ。
ただし、この詔をよく読むと話がちょっと違ってくる。禁止期間は四月から九月までの限定なのだ。春から夏は駄目だが、秋と冬はいい。この期間は田植えから収穫までの農繁期にきれいに重なる。しかも当時、牛は耕作の動力で、馬は軍事と通信の手段で、犬は番犬と鷹狩の相棒だった。労働力を食うのは非効率だ、という統治側の判断が透けて見える。仏教の理念を借りた農業政策だった、という読み方をする論者は多い。
面白いのは、その後千二百年にわたって「四つ足は不浄」という感覚だけが独り歩きしたことだ。詔の期間限定という条件は忘れられ、理由も忘れられ、「正月に四つ足は駄目」という結論だけが残った。禁忌というのは、たいていこうやって理由を落として生き延びる。
喧嘩するな、金を出すな、針を持つな
残りの禁忌も、全部同じ原理で動いている。年の初めにやったことが、一年ぶん反復される、という原理だ。
喧嘩をしてはいけない。元日に争えば、争いごとの多い一年になる。これは占いというより、雛形の思想だ。三が日はその年の縮図であって、縮図に傷をつけると本体に響く。
金を使ってはいけない。年の初めに散財すると、その年は金が貯まらない。ただし賽銭とお年玉は例外扱いされる。神への支出と、目下への分配は「散財」に数えないという線引きになっている。もっと厳しい土地では、支払いそのものを忌んだ。年内に払えるものは全部払っておく、というのは今の年末進行にも痕跡が残っている。
針を持ってはいけない。ほころびを繕う程度の裁縫も駄目だとされた。理由の一つが素晴らしくて、家に来ている年神に針で怪我をさせてはいけないから、というものだ。神が家のなかを歩き回っている前提でしか出てこない発想である。
山にも畑にも行くな、という禁忌も広い。愛媛県松山市域で一九六八年に採録された俗信には「正月一日は山や畑へ行ってはいけない」「正月二十日には山の神が出るので山へ行ってはいけない」とある。島根では、正月四日の朝は山ん婆が通るから早く起きろ、早く火を焚く家には杓子をくれてそれをもらうと福になる、という妙に具体的な言い伝えが記録されている。
そして三重県志摩で一九四〇年に記録された俗信が、いちばん鋭い。正月元日から五日までの間に不浄にかかった家は、親戚もろとも一切外出できない。注連縄をくぐるのを忌むからだ。そういう家へは見舞いとして生豆腐とこんにゃくを贈る。これを山籠もりという。
つまり正月の禁忌には、「守れなかった家をどう扱うか」という手続きまで含まれていた。禁忌は個人の験担ぎではなく、共同体の制度だったのだ。
ついでに言うと、寝正月もこの延長線上にある。今では「どこにも出かけずゴロゴロして過ごすこと」の意味で使われ、俳諧では文化二年、一八〇五年の句帖に「霞む日も寝正月かよ山の家」という用例が出てくるくらい古い言葉だ。だがもとを辿れば、これは怠惰の話ではない。年神がいつ着くかわからないから、なるべく家を空けずに待つ。大晦日の晩に寝ずに侍った疲れが、そのまま元日に持ち越される。動くなと言われている以上、やることがない。寝正月とは、禁忌をきっちり守った家の姿そのものなんだよな。
正月に死んではいけない、という無言の圧力
そしていちばん重い禁忌が、これだ。
正月に死ぬのは縁起が悪い。だから年内に葬儀を済ませる。
これは今でも生きている。生きているどころか、制度がそれを補強している。
まず火葬場だ。多くの自治体で一月一日は休場、一日と二日を休みにするところも多い。年末は年末で三十日あたりから閉まる施設がある。次に法律。死後二十四時間は火葬できないと定められている。さらに三が日は僧侶が除夜の鐘と初詣の対応で身動きが取れず、参列者は帰省や旅行で散っている。
結果として何が起きるか。十二月二十九日や三十日に亡くなった場合、多くの家が「年内に済ませてしまおう」と動く。二十九日に通夜、三十日に告別式。三十日に亡くなれば当日通夜、三十一日に告別式。とにかく年内に片づける。そこを逃すと、遺体を四日から七日、長ければ十日以上安置することになり、ドライアイス代と安置施設料が日ごとに積み上がっていく。
年が明けてしまえば、葬儀は一月四日以降になる。三が日を避け、地域や宗派によっては松の内が明ける七日まで待つ。その間、小規模な密葬だけ済ませ、あとで改めてお別れの会を開く家も多い。
ここで注目したいのは、この「年内に済ませる」という判断が、宗教的な禁忌と、火葬場の営業日と、参列者の帰省事情という、まったく次元の違う三つの理由に同時に支えられていることだ。誰も「祟りがあるから」とは言わない。だが結果として、昔の禁忌とまったく同じ行動が再生産されている。
そして年神を迎えている家では、家族が亡くなれば正月飾りを外す。門松も注連縄も鏡餅も片づける。年賀状は出さず、松の内が明けてから寒中見舞いに切り替える。神社への初詣も控える。神道が死を穢れとして扱うからだ。
つまり、死と年神は同じ家に居られない。少なくとも、建前上はそういうことになっている。
ところが民俗の側を掘ると、この建前はきれいにひっくり返る。
年神とは誰だったのか――柳田國男が言い出した不穏な仮説
年神は稲の神である。トシという言葉はもともと稲の稔りを意味した。一年を一稔と数える感覚があり、稲の一生を人間の一年に重ねる。だから年神は作神であり、田の神でもある。ここまでは民俗学の教科書どおりの説明だ。
だが柳田國男は、もう一歩踏み込んだ。
一九四六年に刊行された『先祖の話』で、柳田はこう考えた。年神の正体は、祖先の霊ではないか。
論拠は構造の一致だ。正月と盆は一年をほぼ二分する位置にある。どちらも遠くにいる存在が、決まった日に一軒一軒を訪れる。柳田は「殊によく似ているのは盆の精霊棚と正月の年神棚との飾り方で、家の者がこれに仕える手続きから、特定の植物を採って来て結び付ける点まで一致している」と書いた。盆礼で袴をはいて回礼するのも、踊りや綱引きが盆に行われる土地と正月十五日に行われる土地に入り交じっているのも、もとが同じ行事だった証拠だと見た。
そして決定的なのは規模の問題だ。年神は一軒一軒を個別に訪れる。国を統べる大神なら、そんな細かい巡回はしない。一軒ごとに違う家に、それぞれの幸福を配って回る神。そんな神は、その家の先祖以外に考えられない――柳田はそう推測した。
鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わるトシドンが、まさにこれだ。棕櫚の皮や蘇鉄の葉をあしらった装束に、鼻の長い恐ろしい仮面。三歳から八歳の子どもがいる家を訪れて、良いところを褒め、悪いところを諭し、最後に年餅と呼ばれる大きな餅を与えて去る。二〇〇九年にユネスコの無形文化遺産に登録され、二〇一八年には男鹿のナマハゲや見島のカセドリなどと合わせて「来訪神・仮面仮装の神々」十件として登録が拡張された。
柳田の弟子の折口信夫は、これを祖霊に還元することに反対した。折口はこうした存在を「まれびと」と呼び、必ずしも先祖ではない、外部から訪れる異人であり、その来訪こそが祭祀と芸能の原型だと主張した。柳田説には今でも批判が多い。日本人の信仰を何でも祖先崇拝に還元しすぎている、家の観念がそこまで全国一律に強固だったとは思えない、民俗事例ばかりで歴史史料の裏づけが薄い。そういう指摘はもっともだ。
だが、柳田説であれ折口説であれ、共通している点が一つある。
正月に家へ来るのは、人間ではない何かだ。
大晦日は「亡き人の来る夜」だった
もっと直接的な証拠がある。文献に残っている。
応徳三年、西暦一〇八六年に編まれた『後拾遺和歌集』には、和泉式部が「十二月つごもりの夜よみ侍りける」という詞書をつけた歌が入っている。十二月つごもりとは大晦日のことだ。そして『徒然草』には、はっきりこう書かれている――「晦日の夜、亡き人のくる夜とて魂まつるわざは」。
大晦日は、死者が帰ってくる夜だった。
これは無視できない。年神が来る夜と、亡き人が来る夜が、同じ夜なのだ。しかも中世の京都では、大晦日に魂祭という死者供養の儀礼が普通に行われていた。『枕草子』にも『徒然草』にも出てくる。
現在でもその痕跡は残っている。東日本には「みたまの飯」という、正月前後に死者へ飯を供える民俗が広く伝わる。中国地方には三が日を過ぎてから死者を祀る「仏の正月」がある。四国には十二月の巳の日に行う「巳正月」がある。国立歴史民俗博物館の研究者による検討では、これらの地域差は「正月から死者供養の儀礼を避けてきた結果」として生じたものだと指摘されている。つまり、もともと正月とくっついていた死者祭祀を、あとから前後にずらしていったという読み方だ。
同じ論考は柳田説にも慎重な留保をつけている。柳田は「祖霊」という語をあまり積極的に使っておらず、「みたま」を基本語彙にして説明していた。そして平安から鎌倉の魂祭の史料を読む限り、正月は遠い先祖を祀る日というより、そう遠くない直近の死者の魂が帰ってきて、食物を供えて饗応する日だったと考えるほうが適当ではないか――そういう指摘だ。
これはこれで、もっと怖い。
遠い先祖なら抽象的な守り神で済む。だが「直近の死者」となると、顔を知っている人間が帰ってくることになる。去年死んだ祖父が、大晦日の晩に帰ってくる。そういう夜に、家じゅうの人間が寝ずに起きて、白い飯を炊いて、火を絶やさずに待っている。
正月の禁忌が異様に多い理由が、この線で見ると急に腑に落ちる。家のなかに居るのが、めでたい福の神だけではないからだ。年の境目には、こちら側とあちら側の敷居が下がる。下がった敷居からは、招いた相手だけが入ってくるとは限らない。だから動くな。掃くな。切るな。焚くな。騒ぐな。
正月の静けさは、祝いの静けさではない。通夜の静けさに近い。
追い返した家がどうなったか――「大歳の客」という話
ここから怪談を三本。全部、実際に採録されている話だ。
一本目は「大歳の客」。日本中に類話がある昔話で、関敬吾の『日本昔話大成』にも型として登録されている。
沖縄県八重山郡竹富町の波照間で、一九七五年八月八日に記録された版はこうだ。話者は一九一八年生まれの勝連文雄という男性。
昔、旅人が田舎へ行って、大晦日の晩に宿を求めた。最初に金持ちの家に行くと、「今晩は大晦日だからよその家へ行ってくれ」と断られる。次に、貧しい茅葺きの家に行く。爺と婆が、ご馳走もなく囲炉裏の下で正月を迎えようとしている。旅人が宿を請うと、二人は「貧しくて何もない所だから」と一度は断るが、それでもいいと頼まれて承知する。一晩、話をしながら過ごした。翌朝、旅人は土産として片目の開いていない鳥の絵と、二人がいちばん望んでいた若返りの薬を置いていった。言われたとおり風呂に入れて浴びると、爺と婆は本当に若返った。新年の挨拶で家々を回ると評判になる。それを聞きつけた隣の金持ちが薬をもらってきて、家族全員で浴びた。すると全員、牛と猫と馬と鶏になった。家畜になった彼らは、若返った爺と婆のものになった。
家畜になる。この落ちが強烈だ。断った罰が「損をする」ではなく「人間をやめさせられる」なのだ。
島根県松江市に伝わる版では、追い返される側が乞食の老人になる。金持ちの家は「乞食に食わせるものはない」と門を閉め、通りかかった貧しい爺が老人を家に連れ帰って、米一升を炊いて食わせ、一枚しかない煎餅布団をかけてやる。翌朝、老人は消えていて、庭に俵と供え餅と小判十枚が置いてあった。そして正月五日が過ぎた頃、あの金持ちの家には売り家の札がかかって、門が閉まっていた。
同じ構造の話は、はるかに古い文献にもある。『備後国風土記』の逸文に載る蘇民将来の説話だ。旅の途中で宿を乞うた武塔神を、裕福な弟の巨旦将来は惜しんで貸さず、貧しい兄の蘇民将来は粟稈を敷き、粟飯を出してもてなした。数年後に八人の子を連れて戻ってきた武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を腰につけさせ、その一人を残して他を皆殺しにした。そして自ら「吾は速須佐雄能神なり」と名乗り、後の世に疫病があれば蘇民将来の子孫と言って茅の輪をつけていれば免れると告げた。
八世紀初めの記録である。宿を断ったら滅ぼされる。この話が千三百年ものあいだ護符として流通し、今でも各地の神社で「蘇民将来子孫也」と書かれた札が授与されている。要するに日本には、「来訪者を断ると家が滅ぶ」という物語の系譜が、途方もなく長く続いているのだ。
そしてこれが正月の禁忌と接続する。年神が来ている家では、来た者を追い返してはいけない。年始の客をぞんざいに扱ってはいけない。誰が誰の姿で来るか、わからないからだ。
火を絶やした嫁が、正月の朝に棺桶を預かった話
二本目は「大歳の火」。これも全国に分布する話だ。
島根県松江市に伝わる版が、昭和四十七年五月に採録されている。
ある家に旦那と女中がいた。女中は入ったばかり。大晦日の晩、旦那が言う。「今夜は大歳だから、囲炉裏の火を消さないようによく埋めて寝なさい。明朝はこれで餅を煮るのだから」。女中はよくよく火を埋めて寝た。ところが朝早く起きると、火はすっかり消えていた。
困って戸口を開けて外へ出ると、下のほうに火がぽうっと見える。あそこで火を分けてもらおう、と待っていると、こちらへ近づいてくる。よく見ると、葬式の行列だった。
仕方なく頼む。「すみませんが、その火を少し分けてくださいませんか」。すると返事はこうだ。「分けてあげるが、この棺桶を預かってくれなければあげられない」。
女中は棺桶を受け取り、臼庭の隅へ運んで筵をかけておいた。朝、顔色がひどく悪いので旦那が尋ねると、女中は仕方なく話す。二人で捨てにいこうと担い棒をかけると、女中が持ち上げるとひょいと上がるのに、旦那が担ごうとすると重くて上がらない。蓋を開けてみると、中には白金がいっぱい詰まっていた。
「これはおまえは福の神だ。わしの女房になってくれ」。女中はその家の奥さんになった。
採録者の解説がいい。大晦日の夜は寝るものではなく、囲炉裏の火は消さずに新年へ持ち越すことが、継続の意味から一家繁栄に通じるとされていた。そして女中が棺桶だと思ったその桶は、実は正月の床に飾るべき年桶だったのだという。年神が女中の心を試し、火を再生しようとした勇気を讃えて幸せを授けた話だ、と。
福井県で一九八四年に記録されたものは、もう少し不気味な形をとる。大晦日にある家へ乞食が来て宿を請うた。家の人は哀れに思って泊めた。翌朝そっと覗くと、乞食は冷たくなって死んでいた。火葬場へ運ぼうにも正月で誰も手伝ってくれない。夜になるのを待って囲炉裏で燃やしたが、いくら燃やしても燃えない。いぶかしんで火箸でつついてみたら、いつの間にか黄金に変わっていた。大晦日に太い薪を燃やすのはこのためだ、という。
死体を囲炉裏で燃やす正月の家。そして燃えない死体。それが黄金になる。全部の要素が正月の禁忌に噛み合っている。火を絶やすな。人を断るな。そして――正月に出た死者は、始末できない。
雑煮を食えば家が焼ける村がある
三本目は、もっと局所的な話だ。
静岡県富士川町の矢所という集落には、正月三が日に餅の入った雑煮を食べてはいけないという禁忌がある。一九九三年の記録によれば、禁を破れば祟りがある、病が流行るという。実際に食べたら、雑煮の鍋がひっくり返って家の人が火傷したことがあったという。由来はこうだ。昔、白い着物を着た人が戌亥の方角、つまり北西から現れて、「正月三が日は雑煮を食べるな」と言って消えた。四日からは食べてもよい。
北西というのが効いている。戌亥は裏鬼門とも呼ばれ、家の中では先祖の霊が集まる方角とされる地域がある。そこから白装束の人物が出てきて、禁令だけを告げて消える。
静岡県下田市の稲生沢立野、中の瀬という集落にも似た伝説がある。そこの鎮守は子の神様といって、餅が大好きだった。毎年正月三が日だけ托鉢僧に化けて、餅の托鉢に出かけていたという。ところがある年、村の者が毎年のことなので面倒がり、乞食坊主と侮って、餅に不浄なものを入れて渡した。神様は人の姿になっていたので気づかず、持ち帰って食べてしまい、たちまち病気になってひどく苦しんだ。怒った子の神様は、その悪戯者の家を焼き払った。そして夢枕に立ってこう告げる。「我こそはこの地の氏神である。今年は村内に大馬鹿者がいて不届き至極である。この後は正月三が日の餅托鉢には決して出ない。この村でも正月三が日は絶対に餅を搗いて食ってはならない。もしその三が日に餅を食う者があれば、火に祟って家を焼き払う」。それ以来、三が日は餅を食わない習慣になった。よそから移り住む人も、遠慮して餅を食べないことにしているという。
山口県の和佐、森野村で一九三〇年に記録された話はもっと暗い。昔、大晦日の晩に、毛利氏に追われた陶氏の落人がその家に入ってきて、自害したいから家を貸してくれと言った。村人は気の毒に思って家を貸し、供養したいので言い置くことはないかと尋ねた。落人は、正月を待たずに死ぬ自分の心を汲んで、正月を祝ってくれるなと言った。何年か経って、正月に餅を搗いて雑煮を作って食べた者がいた。すると、その餅から血がたらたらと流れ落ちた。それ以来、村で正月に餅を食べる者はいなくなった。新暦の正月では廃れてきたが、旧暦では今も守られている――そういう記録だ。
こういう「正月に餅を食べない家」の伝承は、実は全国にある。民俗学ではこれを「餅なし正月」と呼び、坪井洋文が一九七九年の『イモと日本人』と、続く『稲を選んだ日本人』で大々的に扱った。坪井の見立てはこうだ。日本文化は稲作の単一文化として語られてきたが、それは支配する側から見た幻想であって、実際には畑作を軸とする別系統の文化体系が併存していた。餅を拒む正月、里芋を主役に据える正月は、その痕跡だ、と。
一つの禁忌に、由来譚が複数貼りついている。これは禁忌のほうが先にあって、説明があとから追加された証拠でもある。理由が忘れられたあと、人は理由を作る。落ち武者伝説も、氏神の祟りも、白い着物の人も、全部そうやって後付けされた可能性が高い。
だが、そのことは禁忌の力をまったく弱めない。むしろ逆だ。理由が複数あるということは、それだけ何度も語り直されてきたということなのだから。
松の内は七日か十五日か――幕府のお触れが正月を切った
年神が家に居る期間を松の内という。門松を出しておく期間だ。門松は年神が降りる依代だから、門松がある間は年神祭が続いていることになる。
問題は、この期間が東西で違うことだ。関東はだいたい一月七日まで。関西は一月十五日まで。九州は七日が多いが十五日の地域も混じる。二十日正月といって二十日までとする地域もある。
もともとは全国一律で十五日までだった。それを切ったのは徳川幕府だ。
きっかけは二つあると言われている。一つは慶安四年、一六五一年に三代将軍徳川家光が四月二十日に没したこと。以後、毎月二十日が家光の月命日になった。それまで鏡開きは一月二十日に行われていたので、幕府のお膝元である関東では月命日を避けて十一日に繰り上げた。ところが十一日はまだ松の内で、年神が居るうちに鏡餅を割るのは失礼になる。そこで寛文二年、一六六二年に「一月七日をもって飾り納め」とする通達が出された。
もう一つが火事だ。喜田川守貞の『守貞謾稿』には、こう書かれている。「江戸も昔は、十六日に門松・注連縄などを除き納む。寛文二年より、七日にこれを除くべきの府命あり。今に至りて、七日これを除く。これ火災しばしばなる故なり。京坂は、今も十六日にこれを除く」。火災が頻発するから、燃えやすい正月飾りを早く外させた、と当時の人がはっきり書いている。
そして背景には明暦の大火がある。明暦三年、一六五七年一月十八日から二十日にかけて、江戸の大半が焼けた。本郷丸山の本妙寺から出た火が神田、京橋へ広がり、隅田川の対岸まで及ぶ。霊巌寺では逃げ場を失った避難民一万人近くが死に、浅草橋では二万人以上が死んだ。江戸城も天守を含めて大半が焼けた。身元不明の遺体は本所牛島新田へ船で運ばれ、供養のために回向院が建てられた。
正月飾りが燃えていた季節に、江戸が焼けたのだ。
『武江年表』によれば、寛文二年に幕府は「正月七日限りで町中表裏の松飾を取払うこと」を令し、町中での左義長も禁止した。年神を送る火祭りそのものが、江戸では禁じられたことになる。
だから関東の正月は短い。理由は信仰でも暦でもなく、防火行政だ。年神が帰る日を、都市防災が前倒しした。京坂には通達が及ばなかったので、そのまま十五日が残った。今のスーパーの店頭で、関東と関西で正月飾りの撤去日が違うのは、四百年前の江戸の火事の残響なんだよな。
二年参りと除夜の鐘――「一晩、共に過ごす」の残骸
初詣が今の形になったのは、意外なほど新しい。
もとの形は年籠りだ。家長が大晦日の夜から元日の朝まで、氏神の社に籠って祈願する。これが後に「除夜詣」と「元日詣」に分かれ、元日詣のほうが初詣の原形になった。信州などに残る二年参りは、大晦日の深夜零時をまたいで参拝する形式で、除夜に一度参ってから家に帰り、元旦に改めて参る二度参りの形をとる地域もある。年籠りの名残そのものだ。
一九五八年刊の『年中行事辞典』の「年籠」の項には、歳の夜に神社や仏寺に参籠して新しい年を迎える行事で、宵から参って鶏鳴の下向まで社頭で籠る、とある。「年ごもり」という語自体は一〇八六年の『後拾遺和歌集』の詞書にも、室町中頃の『義経記』にも見える。ずいぶん古い。
今の初詣の形を作ったのは鉄道だ。平山昇の研究によれば、明治の初め頃までは正月二十一日の初縁日参詣や、恵方に当たる社寺への恵方参りが一般的だった。それが明治中期以降、鉄道の終夜運転と路線網の拡大、日曜週休制と年頭三が日休業という変化に伴って、恵方を問わない元日の初詣が生まれ、二年参りも広域化していった。新聞記事で「二年参り」の初出を調べると、一九一一年二月一日の朝刊三面「古峯ヶ原の二年参詣」が最初だという。意外と新しい言葉なのだ。
除夜の鐘も似た経緯をたどっている。もともとは中国の宋代の禅宗寺院の習慣で、日本には鎌倉時代に伝わり、禅寺で朝夕に撞かれていた。室町時代に大晦日だけの行事になる。百八という数については煩悩の数という説、四苦八苦を四九と八九として足したという説、十二か月と二十四節気と七十二候を足したという説がある。禅寺の規則書には「慢十八声、緊十八声、三緊三慢共一百八声」とあって、要は弱く十八回、強く十八回を三度ずつ繰り返した結果が百八なのだ、という身も蓋もない指摘もある。そして現在の全国的な普及は昭和初期のラジオ中継によるもので、日本放送協会の「ゆく年くる年」はもともと『除夜の鐘』という番組名だった。
つまり、二年参りも初詣も除夜の鐘も、いま我々が「古い伝統」だと思っている形は、鉄道とラジオが作った近代の産物だ。年籠りという古い骨格の上に、明治大正昭和の技術が肉をつけた。
そして肝心の部分――年神を迎えて一晩共に過ごす、という中核だけが、抜け落ちた。
ネットは今、この禁忌をどう扱っているか
現代の反応を見ていくと、話はけっこう入り組んでいる。
いちばんよく流通しているのが「実は主婦を休ませるための優しさだった」説だ。生活情報系のサイトはたいていこの結論に落ちる。年末は死ぬほど忙しい、その負担はほぼ女性に集中する、だから神様を口実にして三日間だけ家事を免除した――と。マナー研究の立場からも、掃除や料理のタブーは神様のためだけでなく、普段家事を担う人への労いだという説明がなされている。
この説は温かいし、たぶん半分は当たっている。だが全部ではない。
まず、この説では説明できない禁忌が多すぎる。喧嘩をするなは家事ではない。四つ足を食うなも、爪を切るなも、山や畑に行くなも家事ではない。正月に不浄があった家は五日間外出できないという志摩の山籠もりに至っては、労いどころか懲罰に近い。「主婦を休ませるため」説は、禁忌のうち家事に関わる部分だけを切り出して、そこに現代的な感情を投影している。
もう一つ、順序が怪しい。禁忌が先にあって、あとから「これは休息のためだったのだ」という解釈が加わった可能性のほうが高い。餅なし正月に落ち武者伝説が後付けされたのと、まったく同じ構造だ。人は理由のない禁止に耐えられないので、時代ごとに気に入る理由を作る。近世は神の祟りで説明し、現代は労働問題で説明する。禁止そのものは変わらない。
ネットで定期的に燃える論点もある。正月飾りの処分だ。近年、「正月飾りは神様を宿していないから、塩で清めてゴミに出してよい」という説明を出す神社が増えていて、これに違和感を表明する声が交流サイトで拡散した。どんど焼き、左義長の継続が難しくなってきた事情による後付けではないか、という指摘だ。ダイオキシンへの懸念、消防との調整、燃やすものの選別。「松は不可」と言われる場所すらあるという。正月を迎えるとは年神を迎えるだけでなく、守り神となった祖霊を迎えて接待することでもあり、飾りのお焚き上げはその送り火なのだ――そう書き込む人がいる。迎える作法ばかりが商品化されて、送る作法が消えていくことへの不満は、けっこう根深い。
数字も見ておこう。二〇二四年に発表されたある調査では、正月に家事を普段より減らす人は約六割で、そのうち「三が日まで家事をしない」が約半数、「元日のみ」「二日まで」を合わせると八割を超える。減らされる家事の筆頭は掃除で、約五割の人が掃除を削っている。年神を信じているかどうかとは別に、行動としての禁忌は今も残っているわけだ。誰も箒を持たない元日は、令和の日本にも普通にある。
一方で、冷静な留保も必要だ。三が日に葬儀を避ける理由の大半は、いまや信仰ではなく火葬場の営業日と参列者の都合で説明がつく。初詣の形は鉄道会社のキャンペーンが作った。除夜の鐘の全国普及はラジオが作った。松の内の東西差は江戸の防火令が作った。「古くからの伝統」の相当部分は、近代の制度と技術が形を決めている。
年神信仰そのものについても、柳田説を無条件に採用するのは危うい。歴史民俗の研究者が指摘するとおり、正月が最初から「祖霊」を祀る日だったとは言い切れず、平安鎌倉の史料が示すのはむしろ直近の死者を饗応する日だった可能性のほうだ。正月と盆が同じ行事だったという柳田の推測は、仏教以前の日本に盆に相当する祖先祭祀があったという前提を含んでおり、そこは勇み足だという批判が今は主流に近い。五来重のように、外来の思想を受け入れて変質させていく過程にこそ日本の民俗のあり方を見るべきだ、という立場もある。金を使うなという禁忌にしても、根拠は神ではなく、単に年内精算という商慣行だった可能性がある。
だからこの記事も、「正月はもともと死者の季節だったのだ」と言い切りたい誘惑を、一応は抑えておく。抑えたうえで、それでもこう思う。
なぜ、これは今も怖いのか
正月の禁忌が怖いのは、禁止の理由が「損をするから」ではないところだ。
普通の縁起担ぎは損得で説明される。これをすれば得、あれをすれば損。ところが正月の禁忌は違う。掃くな、切るな、焚くな、洗うな。これらはどれも、家のなかに居る「誰か」への配慮として説明されている。掃き出されるから。縁を切られるから。休ませてやりたいから。怪我をさせてはいけないから。
主語が、人間じゃないのだ。
そして、その誰かは姿を見せない。ナマハゲやトシドンのように仮面をかぶって現れる地域もあるが、大半の家では何も現れない。何も起きない。それでも人は箒を置き、包丁をしまい、洗濯機を回さない。見えない相手に対して、四十八時間ぶんの気遣いをする。
これは、家のなかで一番不気味な種類の緊張だ。誰も居ないのに、居ることになっている。そして誰かが居ることになっている家では、みんなが少しずつ声を落とす。
もう一つ、怖さの正体がある。
正月の禁忌は全部、「取り返しがつかない」形式をとっている。掃いてしまったら、掃き出された福は戻らない。切ってしまった縁は繋がらない。火を絶やしたら、去年の火はもう二度と手に入らない。年が改まるというのは、境界を一度だけ越えることだ。越えたあとで戻ってやり直すことができない。
だから禁忌が集中する。一年に一回しかない、やり直しのきかない瞬間に、人間は最大量のルールを置いた。
そしてこの緊張は、いま形を変えて残っている。年内に葬儀を済ませようとする家族。三十日までに飾りを済ませようとする人。三が日は掃除しないと決めている家。誰も祟りを信じていないのに、行動だけが正確に受け継がれている。
信仰が消えても、動作は残る。むしろ理由がなくなったぶん、動作のほうが純粋になる。
元日の朝に箒を持たない、その一点だけが、四百年前の江戸の川柳から令和のマンションまで、まっすぐ一本の線でつながっている。
なぜ、最初のひとまとまりが四十八時間なのか
ここまで書いてきて、いちばん引っかかるのは「四十八時間」という長さだ。
なぜ最初のひとまとまりが大晦日の日没から元日いっぱいなのか。理由は時間の数え方にある。古い日本の一日は日没から始まっていた。柳田國男が書いたとおり、大晦日の夕方にはもう新年が始まっている。だから正月の第一夜は大晦日の晩で、第一日は元日で、この二つで一続きの単位になる。除夜の鐘が「旧年に百七回、新年に一回」という妙な配分で撞かれるのも、境目が零時ではなく日没だった時代の感覚の残りだと考えると腑に落ちる。零時をまたぐという発想自体が、時計が普及して以降のものだ。二年参りが「二年にまたがる」ことを売りにできるのも、時計以後の話である。
この四十八時間には、明確な役割分担がある。前半、つまり大晦日の夜は「待つ」時間だ。火を焚き、飯を炊き、寝ずに起きて、年神の到着を待つ。禁じられるのは眠ることと火を消すことで、要するに不在にするなという命令になる。後半、つまり元日は「居る」時間だ。年神はすでに家に着いていて、どこかに座っている。ここで禁じられるのは動くことだ。掃くな、切るな、洗うな、焚くな。前半は能動を求め、後半は不動を求める。同じ神を相手にしているのに、要求が正反対に切り替わる。切り替わりのポイントが、若水汲みと雑煮なんだよな。新しい水を汲み、去年から絶やさなかった火で、去年のうちに切っておいた材料を煮る。過去と未来が一つの鍋の中で接続する。あの雑煮は、儀礼としてかなり精密な装置だ。
そして最後に、いちばん不穏な部分に触れておきたい。正月が死者の季節だった、という話だ。
『徒然草』の「亡き人のくる夜」という一行を初めて読んだとき、正直ぞっとした。大晦日は死者が帰る夜だと、鎌倉末期の人が当たり前のように書いている。和泉式部も大晦日の夜に歌を詠んでいる。中世の京では、暮れに魂祭という死者供養が普通に行われていた。そして現在も、東日本の「みたまの飯」、中国地方の「仏の正月」、四国の「巳正月」という形で、正月の前後に死者を祀る民俗が点々と残っている。これらの地域差は、正月そのものから死者供養を避けようとした結果として生じた、という指摘がある。つまり正月と死者祭祀はもともと重なっていて、あとから引き剥がされた。前にずらした地域、後ろにずらした地域。ばらけ方そのものが、剥がした痕跡なのだ。
そう考えると、正月の禁忌の異様な多さの説明がつく。福の神をもてなすだけなら、あんなに大量の禁止はいらない。もっと素朴に喜んで、賑やかにやればいい。ところが実際の正月は、静まり返っている。音を立てるな。刃物を出すな。血を見るな。争うな。動くな。
これは歓迎の作法ではなく、忌みの作法だ。喪に服すときの作法に、あまりにも似ている。
死者が帰ってくる夜に、生きている人間が守るべき作法。血の穢れを持ち込まない。刃物を出さない。争わない。火を絶やさない。訪ねてきた者を追い返さない。そう並べ替えると、正月の禁忌はほとんど一つの体系として読める。「大歳の客」で断られた旅人が翌朝に黄金になる話も、「大歳の火」で葬列から棺桶を預かる話も、この読みなら不自然でなくなる。むしろ当然だ。正月の朝に葬列が通るのは、正月が本来そういう季節だったからで、火を分けてくれるのがなぜ死者の行列なのかも、それで説明がつく。
年神は福の神だ。同時に、たぶん死者でもある。この二重性を、日本人は千年以上、両手で抱えたまま正月を迎えてきた。
いま、その両手のうち片方はほとんど空になっている。年神を迎える作法は正月飾りとおせちという商品として残り、送る作法であるどんど焼きは各地で細っている。死者の側の要素は、喪中はがきと年内葬儀という事務手続きに姿を変えて、意味を語られないまま維持されている。
それでも、元日の朝に箒を持つことをためらう人は、まだたくさんいる。理由を聞けば「なんとなく」と答えるだろう。その「なんとなく」の中身が、いま書いてきたもの全部なのだと思う。福の神と、祖霊と、直近の死者と、江戸の火事と、幕府の通達と、鉄道会社のキャンペーンと、忙しかった祖母の疲労と、それを労おうとした誰かの気遣い。全部が層になって、たった一つの動作――箒に手を伸ばさない――に圧縮されている。
正月に何もしないというのは、何もしないことじゃない。四十八時間、家のなかの何かに対して、全力で気を遣い続けるということだ。
今年の元日、家が静かだったら、それはたぶん、あなたのせいじゃない。
