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神は「皆殺しにする」と約束した――蘇民将来と茅の輪くぐり、千二百年つづく護符の話

疫病除けのお守り、というと聞こえがいい。無病息災、家内安全、そういう言葉が並ぶやつだ。だが日本の疫病除けの中でもとびきり古い部類に入る「蘇民将来」の護符は、元をたどると、まったく穏やかじゃない話に行き着く。

要約するとこうだ。神が旅の途中で宿を頼んだ。断った家があった。その神は数年後に戻ってきて、その家の人間を皆殺しにした。そして生き残った側の子孫に向かって言うんだよな。この先、疫病が流行ることがあったら、おまえたちは茅の輪を腰につけて「蘇民将来の子孫だ」と名乗れ。そうすれば助かる、と。

つまりこの護符は、持っている者を守る札であると同時に、持っていない者は守られないという宣言でもある。守護というより、選別だ。線を引いて、内側にいる者だけを生かす。そういう約束の証文なんだよな。

しかもこの証文、千二百年以上も更新され続けている。今も京都の八坂神社で配られているし、長野の上田では毎年正月に六角柱の木の札が売られている。伊勢に行けば、真夏だろうが玄関にしめ縄がぶら下がっていて、そこに「蘇民将来子孫家門」と書いた板が下がっている。

この記事は、その約束の中身を最初から最後まで追いかける話だ。

北の海に住む男が、日暮れに叩いた戸

まず、元の話をきちんと再現しておきたい。かなり短い説話なので、細部まで拾える。

昔、北の海に武塔神という神が住んでいた。この神が、南の海の神の娘を嫁にもらおうと思って旅に出た。長い旅路だ。途中で日が暮れた。あたりは暗くなり、風が出てきた。そこに二軒の家があった。兄と弟の家だ。

弟のほうは巨旦将来といって、たいそうな金持ちだった。備後国風土記の逸文には、家と蔵をあわせて百ほど持っていた、とある。屋敷が百というのは誇張だとしても、ようするにこのあたり一帯の富がこの男の手に集まっていた、という意味だ。

武塔神はまずこの弟の家の戸を叩いた。当然だ。灯りが多く漏れていて、人の気配があって、いかにも泊めてもらえそうな家だったんだろう。

だが弟は断った。理由は書かれていない。ただ「惜しみて借さず」とある。惜しんで貸さなかった。汚い身なりの旅人を家に入れたくなかったのか、面倒だったのか、それとも単に他人に何かを分けるという習慣を持っていなかったのか。とにかく戸は開かなかった。

武塔神は兄の家に行った。兄の蘇民将来はひどく貧しかった。ここが妙にリアルなんだが、この兄が旅人に出したのは、粟の茎を敷いた寝床と、粟の飯だ。米ではない。粟の茎というのは、要するに脱穀したあとの藁くずみたいなものだ。それを座布団がわりに敷いて、粟飯を炊いて出した。持っているものが本当にそれしかなかったんだろう。それでも兄は旅人を家に上げて、飯を食わせて、寝かせた。

夜が明けて、武塔神は去っていった。ここで話は一度切れる。

何年も経ってから、神は名を明かして戻ってきた

そして、年月が過ぎる。逸文には「後に年を経て」とだけある。八年後という異伝もあるが、原文はもっと素っ気ない。とにかく、それなりの時間が流れた。

武塔神が戻ってきた。今度は一人ではない。八人の子を連れていた。この八柱の子というのが、のちに八王子と呼ばれて疫病を司る神々になる連中だ。神は蘇民将来の家を訪ねて、こう尋ねた。おまえの家族はどうしているか、と。

蘇民将来は答えた。妻と娘がおります、と。すると神は言った。おまえの娘に茅の輪を作らせて、腰につけさせろ。

言われたとおりにした。娘は茅を編んで輪を作り、腰に巻いた。その夜だ。

即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉くに殺し滅ぼしてき。

備後国風土記の逸文にはそう書いてある。その夜のうちに、蘇民の娘ひとりを残して、あとは皆ことごとく殺し滅ぼした。

そのあとで神は名乗るんだよな。吾は速須佐雄能神なり、と。あのスサノオだ。そして続けて言う。この先、疫病が流行することがあれば、蘇民将来の子孫だと言って、茅の輪を腰につけよ。そうすれば免れるであろう。

これで説話は終わる。原稿用紙にすれば二枚もない。だがこの短さの中に、日本の疫病除け信仰の骨格が全部詰まっている。

誰が死んだのか、もう一度数え直してみる

ここで気づいてほしいところがある。多くの解説は、弟の一族が滅び、兄の一族は救われた、と書く。神社の由緒書きにもそう書いてあることが多い。だが原文はそう言っていない。

原文が言っているのは、蘇民の娘ひとりを置いて、皆ことごとく殺し滅ぼした、だ。置いた、つまり残したのは娘ひとりだけ。ということは、蘇民将来本人も、その妻も、殺された側に入っている可能性が高い。もてなした当人が死んでいるんだよな。

これは読み間違いじゃないかと思うかもしれないが、鎌倉時代の学者もそこは気にしていたらしくて、後世の別テキストでは「娘と嫁の二人が残された」という書き方に変わっていく。二十二社註式という中世の神社資料ではそうなっている。人数が増えている。つまり、後の人たちも、一人だけというのはさすがに救いがなさすぎるだろう、と思ったわけだ。

原文の書きぶりを素直に読むと、この夜に起きたのは「善人が助かった」という話ではない。「印のついた者だけが飛ばされた」という話だ。印がなければ、恩人だろうが親だろうが関係なく死ぬ。神は人格を見ていない。標識を見ている。

これが怖いんだよな。倫理の話じゃない。識別の話なんだ。

消えた風土記の、消え残った断片

さて、出典の話をしよう。ここがけっこうややこしい。

蘇民将来の説話が載っているのは『備後国風土記』だ。備後国というのは今の広島県東部にあたる。風土記というのは、和銅六年、西暦七一三年に朝廷が全国の国司に命じて作らせた地誌のことだ。土地の産物、地名の由来、古老の伝える言い伝えを報告しろ、という命令だった。

ところが、この備後国風土記は現存しない。完全な形で残っている風土記は出雲国のものだけで、あとは播磨、肥前、常陸が部分的に残っているにすぎない。備後の分は本体が失われた。

じゃあなぜ蘇民将来の話が読めるのか。引用が残ったからだ。鎌倉時代の卜部兼方という学者が『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』を書いた。この本の巻七に、備後国風土記に曰く、として、疫隈国社の条がまるごと引かれている。こういう、本体は失われたが引用の形で生き延びた断片を逸文という。蘇民将来の説話は、この逸文としてしか存在しない。

しかもややこしいことに、この逸文が本当に八世紀の原風土記の文章そのままなのかどうかは、はっきりしない。奈良時代の文章にしては話の構成が整いすぎている、平安期以降に手が入っているのではないか、という指摘は昔からある。祇園信仰が盛り上がった時代に、備後の古い伝承として整えられた可能性も否定できない。

つまり、この日本最強クラスの疫病除け説話は、いつ誰が書いたのか正確にはわからない文章として、一冊の注釈書の中にだけ残っていた、ということになる。出所が不確かなまま千年信じられてきた。そのこと自体、なかなかすごい話だと思う。

なお、逸文に出てくる疫隈国社は実在の神社に比定されている。広島県福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社だ。天武天皇の代、七世紀後半の創祀と伝えられ、中世には江熊祇園牛頭天王社と呼ばれていた。境内には蘇民神社と疱瘡神社が並んで祀られている。京都の祇園社より古い、こちらこそ祇園信仰の元宮だ、と地元は言う。実際に行くと、思ったより小ぢんまりした社なんだが、あの皆殺しの夜の舞台がここだと思って立つと、空気の重さが変わる。

武塔神は誰だったのか。五道大神、巫堂、そして忘れられた名前

もうひとつ引っかかるのが、武塔神という名前だ。

日本の神話に、こんな名前の神は出てこない。古事記にも日本書紀にもいない。逸文の最後で吾は速須佐雄能神なりと正体を明かすから、スサノオということになっているが、それはあとから接続された可能性が高い。武塔神は、日本神話の外から来た名前なんだよな。

研究者の説はいくつかある。ひとつは中国由来説だ。山口建治は、中国の民間信仰にある五道大神が原型だと論じている。五道大神というのは、六世紀から七世紀の中国で閻魔大王をしのぐ人気があった冥界の神で、弓矢と剣を持った武人の姿で三叉路に立ち、死んだ魂に行き先を指示する。疫病を司り、巡り歩いて人を裁く。この性格はスサノオの疫神としての顔とよく似ている。そして「五道」の中国音と「武塔」の日本での読みが近い。この説では、四世紀に漢訳された『増壹阿含経』などを通じて五道大神の観念が日本に入り、密教系の文献に引かれるうちに武塔天神という名前に化けた、という筋道を描く。

もうひとつは朝鮮半島由来説だ。朝鮮のシャーマンを意味するムーダンとの音の近さを指摘するもので、川村湊などがこの線を追っている。台形の聖なる場所に宿る神、という語義解釈もある。

密教の武答天神王という尊格に由来するという説、単に武勇の神を意味するタケタフカミという和語だという説もある。どれも決定打ではない。

ただ、はっきりしているのは、卜部兼方が『釈日本紀』の中で、祇園を行疫神となす、武塔天神の御名は世の知る所なり、と書いていることだ。鎌倉時代の知識人にとって、祇園の神といえば武塔天神という名前が普通に通用していた。今の私たちが八坂神社の神をスサノオだと思っているのと同じくらい自然に、当時の人は武塔天神を思い浮かべていた。その名前が今ほとんど忘れられているのは、後で書く明治の出来事のせいなんだよな。

弟だけが滅びる話に、いつのまにか書き換えられていた

説話というのは、語り継がれるうちに角が取れる。蘇民将来の話も例外じゃない。

中世に成立した『祇園牛頭天王御縁起』という縁起本では、話の構造がかなり変わっている。ここでは、蘇民将来の娘が巨旦将来の家に嫁いでいる、という設定が加わる。だから、皆殺しにあったのは巨旦の一族であって、その中に紛れ込んでいた蘇民の娘だけが茅の輪の印によって助け出された、という筋になる。原文の「蘇民の娘一人を置いて皆殺し」という不気味な一文が、これで見事に解消される。蘇民一族は無傷になり、しかも牛頭天王から牛玉を授かって富貴になる。ハッピーエンドだ。

先に触れた『二十二社註式』では、残されたのが娘と嫁の二人になっている。ここでも人数が増えている。

三重県の伊勢地方に伝わる民話版になると、もっと柔らかい。スサノオが根の国に行こうとして嵐に遭い、困っていたところを蘇民将来が助けた、という話になっていて、皆殺しの場面が背景に退く。地元の松下社にまつわる伝承として語られている。

こういう変化は、話がどこで語られていたかを教えてくれる。原文に近い版は、神の理不尽さをそのまま置いている。神とはそういうものだ、という前提を共有している人たちの話だ。一方、縁起本や民話は、聞き手を安心させるほうに寄っている。宿を貸せば得をする、貸さなければ損をする。教訓として使いやすい形に整えられている。千年かけて、話は少しずつ優しくなっていったんだよな。

もっとも、優しくならなかった枝もある。それが次の話だ。

巨旦の死体は、切り刻まれて暦になった

中世の陰陽道に『ほき内伝』という書物がある。正式な書名には見たこともないような難しい漢字が二つ並んでいて、安倍晴明の名に仮託されているが、実際の成立は十四世紀末とみられている。牛頭天王信仰の教理を体系的にまとめた本で、中世神話の代表格として研究者に扱われてきた。

この本に載っている牛頭天王縁起が、とにかくすごい。

牛頭天王は武答天皇の太子として生まれ、黄色い牛の面を頭につけ、斧と羂索を手にした忿怒の姿をしている。八大龍王の娘である頗梨采女を妃に迎えるための旅の途中で、古単、つまり巨旦のことだが、この男に宿を断られる。ここまでは同じだ。

違うのはこの先だ。牛頭天王は八万四千の眷属を率いて古単の館を襲い、五千を超える一族郎党をことごとく蹴り殺す。そして古単の死体を切り刻み、その部位を一年の節目に割り振った。

正月の鏡餅は、古単の骨と肉だという。三月三日の草餅は、古単の皮だ。だから緑色をしている。五月五日の粽は、古単の髻を縛ったものだ。七月七日の素麺は、古単の筋。九月九日の菊酒は、古単の血脈。

つまり、日本人が季節ごとに食べてきた行事食は、全部あの富豪の死体の一部だ、という説明になっている。今年も正月に鏡餅を飾ったし、五月には粽を食べた。あれは全部、宿を貸さなかった男の骨や皮や髪だったわけだ。

これを単なる悪趣味な作り話と切って捨てるのは早い。研究者はここに、ある種の仕掛けを読み取る。行事食を食べるという何気ない生活習慣が、そのまま牛頭天王の敵を調伏する呪術行為に読み替えられている。年に五回、知らないうちに全員が疫病除けの儀式に参加していることになる。中世の人がこの説明を聞いたときの感触は、たぶん、なるほどあれはそういう意味だったのか、という腑に落ちる感じだったと思う。日常が丸ごと宗教に接続される瞬間だ。

ちなみに端午の節句に菖蒲を飾るのも、古単の髪の象徴だという伝えがある。あの細長い葉が髪の毛に見えたんだろうな。

腰に巻く小さな輪が、くぐる大きな輪になるまで

さて、茅の輪の話だ。

原文をもう一度確認しておくと、武塔神が命じたのは「茅の輪を作って腰につけろ」だった。身につける小さな輪だ。直径にして十数センチといったところだろう。今、六月末に神社の鳥居の下に立っている、人が余裕でくぐれるあの巨大な輪ではない。

いつ、どうやって大きくなったのか。これがはっきりしない。ただ、小さな輪が腰から離れて地面に立ち、人がその中を通り抜ける形に変わったとき、意味も少し変わった。身につける護符から、通過して穢れを落とす装置になったわけだ。

現在の茅の輪くぐりは、六月三十日の夏越の祓という神事とセットになっている。一年を半分に割って、上半期にたまった罪や穢れを落とす。作法としては、輪の前で一礼して左足からくぐり、左に回って戻る。次に右足からくぐって右に回る。最後にもう一度左足からくぐって左に回り、そのまま拝殿へ進む。上から見ると八の字を二回描くような動きになる。

くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」と唱えるのが一般的だ。この歌自体は拾遺和歌集に載る古い歌で、蘇民将来の説話とは直接関係がない。神事の由来と作法の詞が別々の場所から来ているのは、こういう習俗ではよくあることだ。

茅の輪の形をめぐっては、あれは蛇や龍のとぐろだという読み方もある。スサノオは海を治める神であり、その本質は水神、つまり蛇だ。中国の古い伝えでは、蛇は五百年で蛟になり、千年で龍になる。とぐろを巻いた輪の中をくぐるというのは、水神の体内を一度通り抜けて生まれ直す行為だ、という解釈だ。歴史学の側から出ている説で、面白いんだが確証はない。

京都の八坂神社では、六月三十日の大祓とは別に、七月三十一日にも茅の輪が出る。祇園祭の最後を締める疫神社夏越祭だ。境内摂社の疫神社、別名を蘇民将来社というが、その鳥居に大きな茅の輪がかけられ、参拝者がくぐる。ご祭神はそのものずばり蘇民将来命だ。文政六年、西暦一八二三年頃の建築で、重要文化財に指定されている。

この日は茅の輪守が授与され、神前には粟餅が供えられる。粟だ。あの夜、蘇民将来が旅人に出した飯と同じものが、二百年前に建てられた社の前に、今も毎年供えられている。

そして参拝者は、鳥居にかけられた茅の輪から茅を一本引き抜いて持ち帰る。自分で小さな輪に編んで、玄関に吊るす。これが本来の形なんだよな。大きな輪をくぐるのは後から来た作法で、小さな輪を身の回りに置くほうが、千二百年前に神が命じたやり方に近い。

千二百年前の首飾り。長岡京の土から出てきた札

信仰の話ばかりしていても仕方ないので、物証の話をしよう。

京都府長岡京市の開田四丁目、長岡京跡の右京六条二坊六町にあたる場所で、道路の側溝が発掘された。六条条間南小路という幅九メートルの東西道路の北側溝だ。ここから木簡が七十二点まとまって出た。そのうちの一点が、日本の疫病除け史をひっくり返した。

小さい。長さ二・七センチ、幅一・三センチ、厚さ二ミリ。切手より小さい木片だ。その表と裏に、同じ文字が墨で書かれていた。

蘇民将来之子孫者。

上部には小さな穴が開いている。紐を通して首から下げていたと考えられる。表裏どちらにも同じ文字を書いているのは、札がひっくり返っても効き目が落ちないようにするためだ。これはもう、完全にお守りの発想だ。

長岡京が都だったのは、桓武天皇が遷都した七八四年から、平安京に移る七九四年までのわずか十年間。同じ場所から出た他の木簡には延暦八年から十一年の年紀があり、長岡京の後期にあたることがわかっている。つまりこの護符は、千二百年以上前に、名前も知られていない誰かが首から下げていたものだ。

現存最古の蘇民将来符とされている。同じ側溝からは「市」と書かれた墨書土器も出ていて、このあたりが長岡京の西市、つまり市場のあった場所らしいとわかった。市というのは人が集まる場所だ。人が集まれば病も回る。市場の近くで首から疫病除けを下げていた誰かの姿が、なんとなく想像できてしまう。

面白いのは、これが備後国風土記の逸文が引用された『釈日本紀』より四百年以上古いことだ。文献に書き留められるより前に、護符のほうが先に流通していた。話が先か札が先か、という問いに、考古学は札のほうが先に見えると答えている。

上田の門前で、十二月一日から始まる仕事

ここからは、今も現場で続いている話を三つ書く。全部、実際に記録されている見聞をもとにしている。

まず長野県上田市。信濃国分寺の八日堂で、毎年一月七日と八日に縁日が立つ。ここで売られるのが、六角柱のこけし型をした蘇民将来符だ。上田市指定有形民俗文化財であり、この頒布習俗そのものが国の選択無形民俗文化財になっている。

材料はドロヤナギ。ドロノキとも呼ばれる、柔らかくて白い木だ。これを六角の柱に削り、頭を丸くする。この作業を地元では「蘇民切り」と呼ぶ。始まるのは毎年十二月一日と決まっている。寺で作業開始の儀があり、そのあとは各家に持ち帰って、正月の縁日までひたすら削り、書き、描く。六つの面には大福、長者、蘇民、将来、子孫、人也と、墨と朱で一字ずつ書く。

作っているのは蘇民講という集まりだ。江戸時代から国分寺の門前に家を構えてきた古い家々で組織されていて、かつては四十軒あった。戦後に作り手が減り、今は十五軒ほどで続いている。

この十五軒が作るものを「絵蘇民」という。寺が作る無地の符とは別物で、七福神の絵が描き込まれる。ここが面白いところで、絵柄は家ごとに違う。どの家がどんな恵比寿を描くか、どんな大黒を描くか、それぞれの流儀がある。しかも時代の流行を反映した絵柄が入ることもある。つまり毎年少しずつ違うものが出る。

だから集める人がいる。一月八日の朝八時、本堂前の石畳の両側に蘇民講の各家が並び、そこで絵蘇民の頒布が始まる。目当ての家の絵蘇民を狙って、開始前から人が待つ。寺の符は前日の七日午後から出て、七日の夕方には講の作った符が薬師堂に納められ、護摩の火で浄められる。一晩の祈祷を経て、八日の朝に人の手に渡る。

この習俗がいつからあるのか。文明十二年、西暦一四八〇年に書き写された『牛頭天王祭文』が国分寺に伝わっていて、少なくとも室町時代までさかのぼる。江戸時代初期の縁日の様子を描いた「八日堂縁日図」も残っている。五百年以上、同じ場所で同じ木を削り続けている計算になる。

氷点下の川に飛び込む男たち。黒石寺の、最後の夜

二つ目は岩手県奥州市。妙見山黒石寺の蘇民祭だ。旧暦正月七日の夜から八日の明け方にかけて行われる裸祭りで、日本三大奇祭に数えられていた。過去形で書くのは、二〇二四年の開催を最後に終了したからだ。担い手の高齢化と後継者不足が理由だった。

その最後の年に参加した人が、詳細な記録を残している。

まず気温が三度だったという。夕方六時、まだ祭りは始まってもいない。参加者は約三百人、報道陣が百五十人、観覧者を含めれば数千人が集まった。最後の年ということで、全国から人が来ていた。

裸の男たちが川に入る。水垢離だ。「邪正、蘇民将来」と叫びながら水に浸かる。記録した本人はこう書いている。冷たい、くーっ、本当に気持ちがいい、と。一周目より二周目、二周目より三周目のほうが体が合ってきて、最後は「蘇民将来、ダァー」と会心の咆哮ができたそうだ。三度の外気で川に入って気持ちがいいというのは、もう普通の感覚じゃない。ただ、あの場にいた人間には確実にそう感じられたんだろう。

夜十時、梵鐘が鳴って祭りが始まる。浄飯米を持った祈願者が本堂を三周する。掛け声は「ジャッソー」「ジョヤサ」。この掛け声の意味については諸説あって、邪正、つまり邪と正がぶつかる意だとも、浄夜叉だとも言われる。十一時半、裸の男たちが松明を掲げて練り歩く。深夜二時、七歳の男児が二人、鬼子として登場して餅を撒く。

そして明け方五時。蘇民袋が出る。麻の袋に、蘇民将来符を刻んだ小間木が数百個詰まっている。親方が袋を切り裂き、そこから裸の男たちの奪い合いが始まる。この争奪戦が一時間以上続くこともある。

記録者はこの争奪戦で最後まで袋に触れ続けた。数分に一回、右手と左手を入れ替えながら握り続けた、と書いている。握力の勝負なんだよな。そして手に入れた小間木を、足袋の人差し指と親指のあいだに挟んで、下帯の中に押し込んだ。裸だから、それしか隠す場所がない。

最終的に、袋の首に一番近い部分を握っていた者が取主となる。取主の属する地域が、その年の豊作を約束される。終わったあと、記録者は天を仰いで涙が出たと書いている。最後までやりきった達成感と、これが最後なのかという寂しさが、同時に来たそうだ。

この祭りには余談もある。二〇〇八年、奥州市が作ったポスターに胸毛の濃い上半身裸の男性が大きく載っていて、大手鉄道会社が駅構内での掲示を断った。駅はいろいろな人が使うから、というのが理由だった。同じ年、岩手県警がわいせつ物陳列にあたる可能性を指摘し、当時の文部科学大臣が、警察が伝統文化について判断するのはそぐわない、と反論する事態にもなっている。二〇〇七年からは下帯着用が義務化され、本来の全裸は途絶えた。そして二〇二四年に幕が下りた。二〇二五年以降は護摩祈祷の形で信仰だけが続く。

伊勢では、真夏でもしめ縄を外さない

三つ目は三重県。伊勢、鳥羽、志摩のあたりだ。

この地域を歩くと、まず違和感がある。八月に行っても、玄関にしめ縄がかかっている。正月飾りを外し忘れた家が一軒二軒ではない。町内のほとんどの家がそうなっている。商店街も、住宅街も、なんなら郵便局も。

これは風習だ。この地域では、しめ縄を一年中掛けたままにする。外すのは大晦日で、その日に新しいものと掛け替える。つまり一年三百六十五日、常に玄関にしめ縄がある状態が保たれる。

伊勢型のしめ縄には特徴がある。左に藁の根、右に穂が来る非対称な形で、扇のような足がつく。そして必ず木札が下がる。この木札に書かれる文字が問題なんだよな。

一番古い由緒を持つのが「蘇民将来子孫家門」だ。あの説話そのままの文言で、ここは蘇民将来の子孫の家である、という宣言になっている。伊勢志摩の松下社に伝わる伝承では、スサノオがこの地で宿を求めたことになっている。

次に多いのが「笑門」だ。二文字で、笑う門には福来る、という語呂に見える。実際そういう説明もされる。ただ、これは明治末から大正頃に玉城町の農家が始めたものだとされている。もう一つ「千客萬来」と書いた札もあって、これは玉城町のしめ縄業者が商業的に導入したものだ。商店街を歩くと、こちらの札が目立つ。

面白いのは、三重県内でも地域ごとにしめ縄の形が違うことだ。県内には七種類ほどのしめ縄があって、県単位ではなくもっと小さな単位で地域性が出る。同じ湾のこっち側と向こう側で結び方が違ったりする。

なぜ一年中掛けるのか。理由ははっきりしている。これが正月飾りではなく結界だからだ。年の初めを祝うための飾りなら、松の内が過ぎれば外していい。だがこれは、この家は疫病を免れる側の家だ、という表示なんだよな。表示は外したら意味がない。だから外さない。

千二百年前に長岡京の誰かが首から下げていた小さな木札と、令和の伊勢の玄関に下がっている木札は、機能としてまったく同じものだ。書いてある文字も、ほとんど同じだ。

百四十三年ぶりに、季節外れの茅の輪が立った

二〇二〇年三月。京都の八坂神社に、茅の輪が出た。

これは異常事態だった。八坂神社の茅の輪は六月三十日の大祓と七月三十一日の疫神社夏越祭に立つもので、三月に出るものではない。記録によれば、季節外れの茅の輪が立つのは百四十三年ぶりだったという。理由は言うまでもない。新型コロナウイルスだ。

この年、祇園祭の山鉾巡行は中止になった。境内では鈴緒が触れないように引き上げられ、西楼門は医療従事者への感謝を示すブルーにライトアップされた。そういう景色の中に、疫病退散を願う茅の輪だけが、季節を無視して立っていた。

祇園祭のあいだ、八坂神社と山鉾町では厄除け粽が授与される。笹の葉を束ねたもので、食べ物ではない。玄関の軒下に吊るす。この粽に巻かれた札に書いてあるのが「蘇民将来之子孫也」だ。京都の古い町家を見上げると、軒先に去年の粽が下がっているのがよく見える。

コロナ禍では、江戸時代の妖怪アマビエが爆発的に注目された。だがそのとき同時に、もっと古い疫病除けとして蘇民将来にも光が当たった。長岡京市の埋蔵文化財センターは、あの二・七センチの木簡を、アマビエより千年以上古い日本最古のウイルス対策関連遺物として紹介している。役所の広報にしては、なかなか攻めた書き方だと思う。

疫病が来ると、人は必ず古い札を掘り返す。千二百年前の長岡京でも、貞観年間の京都でも、二〇二〇年の日本でも、やっていることの構造はほぼ変わらない。

そもそも祇園祭の起源も疫病だ。貞観十一年、西暦八六九年に疫病が全国に広がったとき、神祇官の卜部日良麻呂が勅を受けて、六月七日に六十六本の矛を立てた。六十六というのは当時の日本の国の数だ。国の数だけ矛を立てて、疫神を集めて送り出す。この御霊会が祇園祭の始まりだと『祇園社本縁録』は記す。その六年前、貞観五年には神泉苑で最初の御霊会が行われている。

疫病を祟りとして理解し、祟る神を祀り上げて宥める。それが祇園信仰の骨格だ。牛頭天王もスサノオも、疫病を流行らせる行疫神であり、同時に疫病を防ぐ神でもある。同じ神が、殺す側と守る側を兼ねている。蘇民将来の説話が皆殺しの話であるのは、実はこの構造にきれいに合致しているんだよな。

明治政府が「牛頭天王」の名を消した日

千年続いた信仰に、行政が手を突っ込んだ時期がある。明治初年の神仏分離だ。

慶応四年から始まった一連の通達で、神社から仏教的な要素を切り離す方針が打ち出された。祭神の名や社名に仏教語を使うことが禁じられた。牛頭天王は権現などと並んで名指しで挙げられ、公式には消えた。

京都の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に改組された。全国の祇園社、天王社は次々に社名を変え、祭神をスサノオに一本化していった。備後の江熊祇園牛頭天王社も、このとき素盞嗚神社になった。

つまり、今の私たちが八坂神社の神様はスサノオだと自然に思っているのは、百五十年ちょっと前の行政判断の結果でもある。それ以前、鎌倉時代の卜部兼方が「武塔天神の御名は世の知る所なり」と書いた時代には、この神の名は武塔天神であり牛頭天王だった。

ただ、面白いのは、名前が消えても護符は消えなかったことだ。八坂神社は今も「蘇民将来之子孫也」と書いた粽を配っている。信濃国分寺は寺だから神仏分離の対象外で、六角柱の符を作り続けた。伊勢の玄関からしめ縄が消えることもなかった。

行政は神の名前を書き換えられる。だが、家の玄関にぶら下がっている板までは書き換えられなかったんだよな。

ネットが見つけた「ヤバい神話」と、その周りの議論

蘇民将来がネットで語られるとき、話題はだいたい二つに絞られる。

ひとつは、よく読むと蘇民将来も死んでいる、という問題だ。この話は定期的に発見され直しては拡散する。原文に当たった人が、娘一人を置いて皆殺しって蘇民本人も入っているじゃないか、と気づいて驚く。そこから、日本の神様は理不尽すぎる、これ厄除けじゃなくて脅迫では、といった反応が広がる。実際、原文の書きぶりを素直に取ればそうとしか読めないので、この驚きは正当だ。

反論の側は、後世の縁起本では蘇民の娘が巨旦に嫁いでいるという設定になっており、そちらを前提にすれば矛盾は消える、と指摘する。中世以降に神社で語られてきたのはむしろそちらの版だ、というのは事実として正しい。ただ、それは原文の不気味さを消す説明にはならない。中世の人が説明を足したくなるほど、原文が座りの悪い文章だった、ということでもあるからだ。

もうひとつよく出るのが、旧約聖書の過越との類似だ。出エジプト記で、神がエジプトの初子を撃つ夜、イスラエルの民は子羊の血を家の門柱に塗るよう命じられる。血の印のある家は災いが過ぎ越す。印のない家では初子が死ぬ。印による選別、災厄の通過、そして生き延びた側がその夜を毎年記念する祭りを行う。構造だけ見ると、蘇民将来の話と驚くほど似ている。

ここから日ユ同祖論の方向に話を持っていく本やサイトはかなりの数ある。祇園祭とシオン、蘇民将来とヘブライ語、といった連想が延々と展開される。ただ、この手の議論には決定的な弱点がある。まず遺伝学的な研究は日本人集団とユダヤ人集団のあいだに特別な近縁性を示していない。次に、音の似ている単語を並べる手法は、どの二言語間でもいくらでも成立してしまう。そして何より、備後国風土記の逸文と過越を結ぶ具体的な伝播経路の史料が一切ない。

ではなぜ似るのか。人類学的な説明のほうがずっとすっきりする。よそから来た者をもてなしたかどうかで運命が分かれる、という話型は、世界中に散らばっている。異人歓待譚と呼ばれるパターンだ。ギリシャ神話にも、キリスト教の聖人伝にも、日本各地の大師講の伝承にもある。折口信夫が「まれびと」と呼んだ観念もこの系列で、共同体の外から周期的に訪れる存在をどう遇するかが、その共同体の運命を決めるという発想だ。

共同体の外から来る者は、恵みも持ってくるし、病も持ってくる。実際、疫病はほとんどの場合よそから人が運んでくる。旅人を泊めるかどうかという選択は、そのまま感染するかどうかの選択でもある。この生々しい経験が、世界のあちこちで似た形の物語を独立に生み出したと考えるほうが、はるかに無理がない。

なお、この話型には暗い裏面もある。六部殺しのように、泊めた旅人を殺して財を奪った家が祟られる、という怪談の系統だ。もてなしと殺害は同じ選択の表と裏なんだよな。蘇民将来の説話が扱っているのは、その分岐点そのものだ。

護符の伝播経路については、民俗学の側から堅実な指摘がある。飯島吉晴は、蘇民将来符に晴明判、つまり五芒星が刻まれている例があることなどから、この護符を全国に運んだのは修験者や陰陽師といった宗教者だろうと論じている。青森の岩木山神社では紙札に呪文と晴明紋が入るし、千葉の円福寺では木の板に梵字と呪文が書かれる。仙台の陸奥国分寺薬師堂は八角柱に房付き、山形の笹野観音も八角柱、埼玉の竹寺と愛知の津島神社と神戸の祇園神社は六角柱のこけし型。栃木の八雲神社は六角柱の吊り下げ型だ。形と装飾のバリエーションは、それを運んだ人間集団の系統を反映している。

なぜこの話は、千二百年も生き延びたのか

最後に、この説話の強さについて考えたい。

理由のひとつは、単純に、実装コストが低いことだと思う。この信仰を実践するために必要なものは、茅が一本と、板が一枚だ。神殿もいらない。経典の暗記もいらない。修行もいらない。子どもでもできる。首から下げる、腰に巻く、玄関に吊るす。それだけだ。長岡京の木簡が二・七センチだったことを思い出してほしい。あの小ささが、千二百年生き延びた最大の理由かもしれない。

二つ目は、この信仰が「疫病は理不尽に来る」という事実に正面から噛み合っていることだ。疫病は善人を選ばない。真面目に働いていても死ぬし、悪党でも生き残る。医学のない時代に、この不条理をどう説明するか。蘇民将来の説話が出した答えは、印のあるなしで決まる、だった。人格ではなく標識だ、というこの割り切りは、残酷なようでいて、実は救いでもある。なぜなら、標識は後から手に入れられるからだ。生まれや行いは変えられないが、札は今日買える。

三つ目は、話が怖いことそのものだ。宿を貸しただけの善行が、家族の全滅と引き換えになる。神は感謝しているのに殺す。この論理の飛躍が気持ち悪いから、忘れられない。よくできた教訓譚は忘れられるが、腑に落ちない話は残る。人は説明のつかないものを何度でも語り直すからだ。実際この千二百年、人はこの話を語り直し続けてきた。娘を嫁に出したことにしたり、生き残りを二人に増やしたり、死体を鏡餅や粽に変えたり。改変された回数の多さは、この話が人の頭に居座り続けた証拠なんだよな。

そして四つ目。これがいちばん怖いところだと思うんだが、この護符は今も現役だ。博物館の中の話ではない。二〇二〇年に八坂神社の茅の輪は百四十三年ぶりに三月に立ったし、伊勢の玄関には今日も木札が下がっている。上田の門前では今年の十二月一日にまたドロヤナギが削られる。

つまり、あの約束はまだ有効ということになっている。疫病が流行ったら、この印のある者だけが助かる。逆に言えば、印のない者は助からない。千二百年前に交わされたその条件は、一度も撤回されていない。

「宿を貸す」という、命を賭けた博打

ここまで書いてきて、あらためて気になるのは、この説話が宿を貸すという一点にすべてを賭けている構造だ。

古代の旅というのは、宿泊施設のある移動ではない。街道沿いに宿屋が整備されるのはずっと後の話で、逸文の世界では旅人は基本的に野宿するか、通りがかりの家に頼み込むしかない。日が暮れる前に泊めてくれる家を見つけられなければ、獣に襲われるか、寒さで死ぬ。だから宿を請うという行為は、生死を他人の判断に預ける行為なんだよな。

そして受ける側にとっても同じことだ。得体の知れない人間を家に入れるというのは、家族全員の安全を賭ける決断になる。強盗かもしれない。病を持っているかもしれない。

つまりこの説話が描いているのは、単なる親切の有無ではなく、命を賭けた相互の博打だ。巨旦将来が断ったのは、必ずしも吝嗇だからとは限らない。守るべきものが多い人間ほど、リスクを取らない。屋敷を百も持っていれば、失うものも百ある。逆に蘇民将来には失うものがほとんどなかった。粟の茎と粟飯しかない家は、他人を入れても減るものが少ない。

そう考えると、この説話は「貧しい者は施し、富める者は施さない」という道徳の話ではなく、「持たざる者のほうが賭けに出やすい」という身も蓋もない観察になる。中世の縁起本が蘇民一族を最終的に富貴にしてしまうのは、この不都合な構造を教訓の形に押し込め直す作業だったのかもしれない。

印は守るためのものであり、指差すためのものでもある

もうひとつ深掘りしたいのが、印による選別という発想の射程だ。

ここまで茅の輪と木札の話ばかりしてきたが、印による生死の分岐という発想は、疫病の場に限らず何度も現れる。城の門に貼られた札、疫病の年に軒に立てられた笹、村の入口に張られた注連縄。境界に印を置いて、こちら側とあちら側を分ける。

この作法は、感染症対策として実際に機能した側面もある。境界に印がある村は、よそ者が入りにくい。人の出入りが減れば、伝播も遅れる。呪術が結果的に検疫として働く、という現象は世界中で観察されている。

だが同時に、印は排除の道具でもある。印を持たない者は助からない、という宣言は、裏を返せば「あの家には印がない」という指差しを可能にする。疫病の流行期には、必ずといっていいほど誰かが排除される。歴史上、疫病と差別はほぼ常にセットで現れてきた。

蘇民将来の護符が持つ明るい側面と暗い側面は、同じ一枚の板の表と裏だ。玄関に「蘇民将来子孫家門」と掲げるという行為には、うちは大丈夫だという安心と、あそこは掲げていないという視線が、分かちがたく同居している。

この説話を千年語り継いできた人々が、その両面をどこまで自覚していたのかはわからない。ただ、逸文の作者は明らかに自覚していたと思う。でなければ、恩人である蘇民将来本人まで殺す、などという書き方は出てこない。あの一文は、印というものの冷たさを、これ以上ないほど正確に描いている。神は感謝の対象を守るのではない。印のあるものを飛ばすだけだ。

祈りというのは、無力の管理装置なんだと思う

三つ目に考えておきたいのは、この信仰が現代でどう変質しつつあるか、という点だ。

二〇二〇年前後、疫病除けの護符は明確にリバイバルした。だがそのときの受け止め方は、かつてとは違っていたはずだ。多くの人は、木札が本当にウイルスを防ぐとは思っていない。それでも茅の輪をくぐり、粽を軒に吊るした。効くと信じているからではなく、何かをせずにいられなかったからだ。手洗いも消毒もマスクも全部やった上で、それでもどうにもならない部分が残る。その残りを引き受ける装置として、千二百年前の札が呼び戻された。

これは信仰の衰退だろうか。私はそうは思わない。むしろ、この護符が最初から持っていた機能が剥き出しになっただけだと思う。粟飯を出した男の話も、六十六本の矛も、二・七センチの木簡も、疫病を止められると本気で思って作られたかどうかは怪しい。人間にできることをやり尽くしたあと、それでも収まらない恐怖をどこかに置くための場所として、これらは作られた。祈りというのは、無力の管理装置なんだよな。

そして黒石寺の蘇民祭が二〇二四年に幕を下ろしたことも、この文脈で考えたい。担い手の高齢化と後継者不足。極めて現代的な理由だ。氷点下の川に入って一時間袋を握り合うという形式は、確かに続けるのが難しい。だが祭りが終わっても、護摩祈祷は残る。信濃国分寺のドロヤナギ削りは十五軒で続いている。伊勢の玄関の木札に至っては、業者が作って売る商品として完全に流通に乗っている。形式は絶えず選別され、続けられるものだけが残っていく。

千二百年前、長岡京の市場のそばで誰かが首から下げていた小さな板。その板の子孫が、今も日本中の玄関に下がっている。あいだの千二百年で、この国では数え切れないほどの疫病が流行り、数え切れないほどの人が死んだ。そのたびに人は札を握り直した。効いたかどうかは誰にもわからない。だが、握るものがあったという事実だけは残る。

神は皆殺しにすると言った。同時に、逃げ道も一本だけ用意した。その一本の細さこそが、この話が千二百年生き延びた理由なんだと思う。

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