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鹿の首七十五、耳の裂けた一頭――諏訪・御頭祭と御贄柱に縛られた少年、そして「モリヤ」の謎

## まず、首の話から始めよう
板の間に、鹿の首が並んでいる。七十五。数えたわけじゃない、そう伝わっている、という話だ。剥いだ皮ごと、耳もついたまま、切り口を下にして、まな板みたいな白木の台に据えられている。目は開いている。春先の諏訪だから、朝の空気はまだ痛いくらい冷たい。血の匂いは、たぶんそこまで強くない。冷えているからだ。かわりに、獣の毛が持っている、あの乾いた油みたいな匂いが、板張りの廊いっぱいに溜まっている。
その並びのなかに、一頭だけ、耳が裂けている鹿がいる。毎年いる。誰が用意したわけでもないのに、必ずいる。諏訪ではこれを高野の耳裂鹿と呼んで、七不思議のひとつに数えてきた。神の矛にかかった鹿だから耳が裂けているのだ、と言う。じゃあ神の矛はどこにあるんだ、という話は誰もしない。
そして、その首の列の手前に、木の柱が二本立っている。御贄柱(おにえばしら)という。柱の先は削がれ、藤の蔓が巻かれ、矢が結わえられている。ここに、紅い着物を着た八歳ほどの子どもが、縛られる。
……という話を、初めて読んだとき、俺は正直「盛ってるだろ」と思った。思ったんだけど、調べれば調べるほど、盛られているのは細部だけで、骨格のほうは本当に古い記録の中にある。今回はその骨格を、できるだけ骨のまま出していく。諏訪大社上社の御頭祭(おんとうさい)、別名を酉の祭。日本でいちばん、生贄という言葉に近い場所まで来てしまった祭りの話だ。
## 四月十五日、いま前宮で起きていること
先に現在形から書く。過去の話ばかりだと、これが博物館の中の出来事だと思われてしまうからだ。御頭祭は、今も毎年やっている。四月十五日。平日でも関係ない。
昼の一時前、諏訪市中洲の上社本宮に人が集まりはじめる。宮司、権宮司、氏子総代、地元の顔役。皆スーツか紋付で、境内の砂利を踏む音が妙にはっきり聞こえる。まず本宮で例大祭の神事があって、祝詞が上がり、玉串が捧げられる。ここまでは、正直どこの神社でも見る光景だ。参列者の背中は静かで、観光客は遠巻きに写真を撮っている。
空気が変わるのは、神輿が出るときだ。御霊代(みたましろ)を乗せた神輿が、雅楽を先頭に本宮を出る。この神輿が何なのかというと、大祝(おおほうり)の代役なのだ。かつて生き神として上段に座っていた人間の、その空席を埋めるための箱。明治になって世襲神職の制度が消えて、生き神がいなくなった。だから箱が行く。この一点を知っているかどうかで、行列の見え方が根本から変わる。
行列は長い。二百メートル近く伸びることもある。薙鎌(なぎがま)を掲げた神職、装束の列、それを警護する消防団。県道が片側通行止めになり、車が詰まる。本宮から前宮までは直線でおよそ一・五キロ、普通に歩けば二十分の道を、行列は一時間近くかけて進む。桜の時期と重なる年は、宮川沿いの桜並木の下を、白と紫の装束がぞろぞろと通っていく。地元の人は畑の脇に立って眺めている。子どもは飽きている。神は、俗世の真ん中をゆっくり移動していく。
前宮に着くのが午後二時前後。ここが本番だ。前宮は諏訪信仰の発祥の地とされる場所で、山の斜面に段々に築かれ、水が湧いている。その中腹に十間廊(じっけんろう)という建物がある。三間×十間、要するに細長い吹き放ちの廊だ。壁がない。だから外から中が見える。見えるのだが、神事のあいだは布が下ろされ、一般参列者は中に入れない。風で布がめくれた隙間から、ちらりと中が覗ける、その程度。
中では、神饌が運び込まれていく。野菜、餅、魚、酒。そして鹿の頭。今は剥製だ。三頭、あるいは年によって五頭。真ん中の一頭は、耳が裂けている。剥製にわざわざそう作ってある。伝承を、モノとして再現しているわけだ。ほかに、真空パックの鹿肉や鹿肉の缶詰も並ぶ。生きた雉が、紙に包まれて置かれていることもある。首だけ出して、目を白黒させている。あれを見た人はだいたい「気の毒」と書く。
笙と篳篥の音が、布の向こうから漏れてくる。祝詞。玉串。そして、神職が鹿の首の前で拍手を打つ。パン、パン、と乾いた音が二度。首に向かって手を打つ音というのは、聞くと妙に体に残る。あれは何に対して打っているのか。神にか、鹿にか、それとも鹿を通じて向こう側にいる何かにか。誰も説明してくれない。
三時前に神事が終わり、内御玉殿(うちみたまでん)と若御子社に参拝して、行列は本宮へ帰る。三時半にはもう境内は普通の顔をしている。所要、およそ二時間半。首を並べて手を打って、帰る。それだけの祭りだ。それだけの祭りが、七百年以上続いている。
## 七十五という数字は、どこから湧いてきたのか
御頭祭の代名詞になっている「鹿の首七十五頭」。この数字の初出をたどると、中世の文献に行き着く。
まず押さえておきたいのが『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』だ。成立は一三五六年、正平十一年・延文元年。書いたのは諏訪円忠、別名を小坂円忠という男で、諏訪の神職の家系である神氏の庶流に生まれ、室町幕府の奉行人をつとめていた。要するに中央の役人になった諏訪の血筋の人間が、自分の一族の神社の由緒を、絵巻物としてまとめた。全十二巻。うち五巻が縁起、七巻が諏方祭、つまり上社下社の年中行事の記録にあてられている。
この絵巻、肝心の絵のほうは早い段階で失われてしまい、いま残っているのは詞書だけを写した写本である。絵が残っていれば、七十五の首がどう並んでいたのか一目でわかったはずなのに、そこだけ抜け落ちている。歴史のこういう意地の悪さは、けっこうたまらない。ちなみにこの本、北方史の分野では別の意味で有名で、蝦夷ヶ島のアイヌについてまとまった記述がある最初期の史料としても扱われている。諏訪の神の霊験を語るために、日本の端まで話が伸びていくのだ。
『画詞』の諏方祭の巻には、旧暦三月の酉の日に上社で行われる神事として、鹿の頭を供えることが記されている。七十五という数も、この系統の記録に現れる。ここが重要なのだが、七十五は「その年に獲れた数」ではない。決められた数だ。定数である。狩りの成果を報告する祭りなら数は毎年ぶれるはずで、ぶれない数が固定されているということは、これは収穫報告ではなく呪術的な員数だということになる。
七十五という数は、諏訪ではやたらに出てくる。御射山の神事にも、御室の神事にも、七十五という数え方がついてまわる。日本の民俗のなかで七十五という数は「非常に多い」「満ちている」を表す常套の数で、七十五膳とか七十五日とか、そういう使われ方をする。だから七十五頭の首は、「たくさん」の別名だという読み方ができる。できるのだが、実際に七十五個の首を集めるのは「たくさん」なんて生易しい話ではない。諏訪郡中の村々に頭役(とうやく)が割り当てられ、御頭郷(おんとうごう)と呼ばれる担当地区が元日の占いで決められた。当たった郷は、その年、祭りの費用と獣を負担する。名誉であり、同時にえげつない出費である。中世の諏訪では、この負担が村の経済を左右した。
## 耳の裂けた鹿
七十五の首のうち、必ず一頭は耳が裂けている。これが高野の耳裂鹿(こうやのみみさきしか)である。諏訪大社上社の七不思議のひとつ。
伝承の説明はシンプルだ。諏訪明神は狩猟の神である。その神の矛にかかった鹿だから、耳に裂け目が残る。だから神饌のなかに必ずその印を持つ一頭が混じる。神が自ら獲った獲物が、必ず一頭は含まれている、というわけだ。人間が集めた七十五のうちの一頭は、神の取り分でもある。
冷静に考えれば、裂けた耳の鹿というのは、そんなに珍しいものではない。藪を走れば耳は裂ける。ダニや疥癬でも欠ける。角の生え替わりの時期に雄同士がやり合えば、耳は真っ先に破れる。七十五頭も集めれば、耳に傷のある個体が一頭も混じらないほうが不自然だ。つまりこれは「必ず起こることを、必ず起こる奇跡として語り直す」タイプの伝承である。諏訪の七不思議は、だいたいこの構造をしている。元日の蛙狩りだって、冬眠中の蛙は川底の泥を掘れば普通に出てくる。出てくるものを、出てくると宣言してから出す。それが不思議として運用される。
でも、この構造をバカにする気にはなれない。むしろ逆だ。必ず起こることを神の徴として繰り返し確認する行為には、共同体の時間を毎年リセットする機能がある。今年も裂けていた。じゃあ今年も神はいる。それでいい。現代の御頭祭でも、剥製の真ん中の一頭にわざわざ裂け耳を作ってあるのは、この確認作業を絶やさないためだ。実物が用意できなくなっても、印だけは残す。信仰というのは、だいたいこういうところでしぶとい。
## 天明四年、旅の男が十間廊で見たもの
御頭祭が「奇祭」として語られるようになった決定的な理由は、ひとりの旅人が残した記録にある。菅江真澄(すがえますみ)だ。
三河出身の本草家であり歌人であり、生涯を旅に費やして膨大な日記と図絵を残した男。のちに秋田で客死するこの旅人は、天明三年から四年、つまり一七八三年から一七八四年にかけて信濃を歩き、諏訪に滞在していた。そのときの記録が『すわの海』である。天明四年三月六日、真澄は前宮の十間廊に上がり、御頭祭を目の前で見た。そして、書いた。文章だけでなく、絵も描いた。
真澄が書き留めたのは、こんな光景だ。廊にはまな板のような台が据えられ、その上に鹿の頭が並ぶ。七十五。中には耳の裂けた一頭がある。神矛にかかったものだと聞かされた、と真澄は書く。首だけではない。松の棒に串刺しにされた白い兎がいる。鹿の脳を和えたもの、生の鹿、生の兎、切り分けた兎、煎った兎。鷺、雉といった鳥。鯛や海老といった海のもの。大きな魚、小さな魚、獣、鳥。それらが数え切れないほどの器に高く盛られて運び込まれる。神職たちは敷皮の上に居並び、供物を下げてはそれを食べる。神と人が同じものを食う、いわゆる神人共食の形だ。
血の穢れを嫌う、というのが神道の一般的な建前である。その建前の外側で、獣の首と脳と生肉を積み上げて、それを神と人が分けて食う。真澄が驚いたのはたぶんそこだ。同じ日本の中に、こんなに違う作法があるのかと。
そして真澄は、もうひとつ書いた。御贄柱に縛られた子どもの話である。
## 御贄柱という、一本の木
御贄柱は、桧の柱だ。今の御頭祭で立てられるものは一・五メートルほど。先端をコブシの枝や柏の葉で飾り、藤の蔓を巻きつける。かつては十間廊の前に左右二本立てられ、神長官が藤刀(ふじとう)と呼ばれる刀で柱の先を刻み、縄を結い、矢を結んで飾りつけたと伝わる。
藤、というのが諏訪ではやたらに効く。諏訪の建国神話では、先住の神である洩矢神(もりやのかみ)が鉄の輪を持ち、外から来た建御名方神が藤の蔓を持って戦い、藤が鉄に勝つ。鉄器の勢力に、蔓を持った側が勝ってしまう。この妙な神話が諏訪の統治構造そのものの説明になっていて、負けた洩矢の子孫が神事を握り、勝った側の子孫が神体になる、という奇妙なねじれを生む。だから御贄柱に藤が巻かれるのは、ただの装飾じゃない。あれは諏訪の権力構造そのものを一本の柱に巻きつける行為だ。
柱に縛る、という発想も諏訪では珍しくない。この土地は木の柱に神を降ろす。ミシャグジは木に降りて石に宿ると信じられてきた。柱は、天と地をつなぐ導線だ。そこに何を結わえるかで、意味が決まる。矢を結わえれば狩りの祈願になる。獣を結わえれば贄になる。
では、子どもを結わえたら、何になるのか。
## 紅の着物の子ども――神使(おこう)の正体
神使。おこう、あるいは御神と書いておこうと読む。八歳ほどの男児である。
制度としてはこうだ。元日の占いによってその年の御頭郷が決められる。そこから、まだ婚姻を経ていない童男が選ばれる。六人。彼らは三十日間の厳しい精進潔斎に入る。肉を断ち、火を分け、日常から隔離される。そのうえで、諏訪明神の霊威を身につけた存在として、上伊那をはじめとする信濃の聖地を巡り歩く。土地の神を鎮め、五穀豊穣を祈る。行く先々の村では、彼らは子どもではない。神の使いであり、実質的には歩く神そのものとして扱われる。
この巡行は一日二日の話じゃない。中世の記録を追うと、神使の役は年単位で人生に食い込んでくる。冬には御室神事がある。旧暦十二月二十二日の穴巣始(あなすはじめ)から翌年三月の寅の日まで、前宮に設けられた半地下の竪穴、御室(みむろ)に、大祝と神使たちが籠もる。藁で編んだ蛇の形代が三体、一緒に籠もる。ソソウ神と呼ばれるものだ。ミシャグジとソソウ神が交わる、と説明される秘儀がここで行われる。守矢家の記録には、この神事の内容について「くわしくせず」と書かれている箇所がある。書き残す立場の人間が、書かないと明記している。何をやっていたのか、もうわからない。
真冬の諏訪の、半地下の穴。八歳の子どもが、そこに三ヶ月籠もる。藁の蛇と一緒に。この時点で、御贄柱の話が出てくる前から、十分に怖い。
そして春、酉の日。神使は御頭祭に出る。真澄の記録に従うなら、そこで紅の着物を着せられた子どもが、御贄柱に縛りつけられる。藤の蔓で。神長官が小刀を持って現れる。刃が子どもに向く、まさにその瞬間、諏訪の国司からの使者が現れ、御宥免を告げる。中止せよ、と。縄が解かれ、子どもは柱から下ろされる。かわりに、獣が捧げられる。
……この段取りが、この祭りを世界的に有名にした。
## 大祝という生き神と、神長官という影
神使の話をするなら、その上にいる二人の話を避けて通れない。
ひとつは大祝(おおほうり)。上社の最高位の神職であり、諏訪明神そのものとされた存在だ。諏訪大明神に神体なし、大祝をもって神体となす。この一文が諏訪信仰の芯である。神社に本殿がない理由も、これで説明される。神は建物に入っていない。人間に入っている。だから箱はいらない。
大祝に立てられるのも、少年だった。多くは七歳から八歳。無垢であること、つまりまだ世俗に汚れていないことが条件になる。即位式は、神長官が仕切る。神長官が、ミシャグジの霊力を石や木に降ろし、それを少年の身体に移す。その瞬間に、少年は人間をやめる。以後、彼は神として扱われ、その言葉は神の言葉になり、その身体は諏訪明神の身体になる。中世には、この生き神を頂点にして武士団が編成され、諏訪の政治そのものが動いた。
もうひとつが神長官(じんちょうかん)。世襲したのは守矢氏である。神話でいえば、建御名方に負けたはずの洩矢神の子孫だ。負けた側が、勝った側を神にする権限を独占した。神長は大祝を補佐する立場でありながら、実際には上社の神事全般を掌握し、ミシャグジを降ろすことも上げることもできる唯一の人間だった。秘事は口伝で、一子相伝。つまり、生き神を作る技術を持っているのは、生き神ではなく、その隣に控えている男のほうだった。
この構造は、考えれば考えるほど背筋が寒い。神体である少年は、自分がなぜ神なのかを知らない。知っているのは神長官だけだ。少年は神として崇められ、儀式のたびに上段に座らされ、そして御頭祭では――少なくとも一度は――柱に縛られる。神が縛られる。神が刺されかける。神が赦される。
この制度は明治まで生きていた。明治四年から五年にかけて世襲神職の制度が廃止され、大祝職は消滅する。以後、十間廊の上段に座る者はいなくなった。かわりに、本宮から運ばれてきた神輿が置かれるようになる。いまの御頭祭で神輿が上段の間にそのまま担ぎ込まれるのは、そういう事情だ。空いた玉座に、箱を置いている。
## 守矢家文書という、一次資料の山
御頭祭の話をするときに、みんなが忘れがちなのが、この祭りは意外なほど文書が残っているという事実だ。オカルト的に語られる祭りは、たいてい史料がなくて語りやすいから語られる。御頭祭は逆で、史料があるのに語られる。
神長官守矢家には、およそ千六百点の古文書が伝わっている。長野県宝の指定を受けたものが百五十五点、茅野市指定の有形文化財が五十点。中世の一族の家に、これだけまとまって神事の記録が残っているケースはそう多くない。『年内神事次第旧記』は、一年間の神事の順序と作法を記した実務マニュアルだ。『御符礼之古書』は、御頭郷の割り当てと負担に関する記録で、どの村がどの年に頭役を負ったかがわかる。そこに『諏方大明神画詞』の写しも加わる。
つまり御頭祭は、伝説として空中に浮いているのではなく、誰がいつどこで何をどれだけ用意したかという、生々しい行政記録の裏づけを持って存在している。ここが、この祭りが単なる怪談で終わらない理由だ。首を七十五並べるには、七十五頭ぶんの獣を郡内から集める兵站が要る。その兵站の帳簿が、実際に残っている。
## 首の並んだ部屋――神長官守矢史料館
その守矢家の敷地に、いま史料館が建っている。神長官守矢史料館。茅野市高部、本宮と前宮を結ぶ道の途中だ。
設計は藤森照信。諏訪出身の建築史家であり、のちに独特な茶室で知られることになる人物の、これが最初の建築作品である。屋根には諏訪の伝統である鉄平石葺きを五十年ぶりに復活させ、外壁はサワラの割板で覆った。庇を突き破って四本の柱が突き出している。あの柱は明らかに御柱を意識している。建物そのものが、諏訪の信仰を語りにきている。
そして、入る。中は思ったより狭い。企画展のスペースがあり、古文書が並び、出土遺物がある。ここまでは普通の郷土資料館だ。問題は、その先の一室である。
御頭祭の神饌が、実物大で復元されている。天明四年に菅江真澄がスケッチした、あの光景だ。台の上に鹿の首が並ぶ。剥製である。だが、剥製であることを頭でわかっていても、あの視線の高さに首が並んでいるのを見ると、体のほうが先に反応する。多くの訪問者が同じことを書く。圧倒される、と。左隅には白兎の串刺しがある。松の棒が腹から背へ抜けている。猪の頭皮、鹿皮、脳を和えたもの。それらが、生々しい色と質感で並んでいる。
この展示は、要するに一七八四年の一日を、部屋ごと冷凍保存したものだ。真澄の記録がなければ、この部屋は存在しなかった。旅人が絵を描いておいてくれたおかげで、二百四十年後の我々は、その日の十間廊に立てる。訪問者の感想でいちばん多いのは、意外にも恐怖ではない。普段なにげなく食べている肉に対して、感謝と畏怖が湧いてきた、という種類のものだ。人は首を並べられると、自分が何を食っているかを思い出すらしい。
## モリヤという音――日ユ同祖論が諏訪に来た日
さて、避けて通れない話に入る。
御頭祭を検索すれば、必ずこの単語にぶつかる。日ユ同祖論。日本人とユダヤ人は祖先を同じくする、という説だ。そして数ある日ユ同祖論のネタのなかでも、御頭祭は最強のカードとして扱われてきた。理由は、話の骨格が旧約聖書の「イサク奉献」と、気味が悪いほど噛み合うからである。
創世記の話をおさらいしておく。アブラハムは神から、息子イサクを燔祭として捧げよと命じられる。モリヤの地の山へ行き、祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って祭壇の薪の上に載せる。刃物を取って、息子を屠ろうとする。その瞬間、天から使いが呼ばわる。その子に手を下すな、と。アブラハムが顔を上げると、藪に角をとられた雄羊がいる。彼はイサクの代わりにその羊を捧げる。
並べてみる。少年が柱に縛られる。刃物を持った祭司が来る。刃が振り下ろされる直前、使者が現れて中止を命じる。かわりに獣が捧げられる。舞台となる山の名は、守屋山。モリヤ。神事を仕切る一族の姓は、守矢。モリヤ。
出来すぎている。出来すぎているからこそ、この説は一九七〇年代以降のオカルト言説のなかで爆発的に増殖した。さらに追い討ちをかけるように、御頭祭が新暦四月十五日に行われることが、ユダヤ暦の過越の祭りの時期と近いと指摘される。十間廊の寸法が古代ユダヤの幕屋の寸法と一致する、という主張も出た。七十五という数がサマリア人のゲリジム山での供犠と関係する、という説まで出てきた。極めつきは、駐日イスラエル大使が御頭祭に参列したという話で、これはネット上で何度も蒸し返されている。
日ユ同祖論そのものの歴史も、ついでに押さえておこう。体系的に唱えた最初の人物は、スコットランド人のニコラス・マクラウドだ。一八七八年に日本古代史に関する本を出し、祇園祭の山車とユダヤの祭具の類似などを並べ立てた。この人物、日本だけでなく朝鮮についても同種の説を唱えていて、要するに行く先々を失われた十支族に結びつける癖のある人だった。日本側では明治期の英語教師である佐伯好郎が、渡来系氏族の秦氏をユダヤ人と結びつけて論じ、これが国内での土台になった。戦前には満蒙開拓や国際政治の文脈で利用され、河豚計画のような政策構想にまで顔を出す。戦後は宗教団体や翻訳出版を通じて広がり、一九八〇年代のオカルトブームで一般化した。
そして、そのブームの熱がいちばん強く当たった場所のひとつが、諏訪だった。
## イサク説を、一つずつ潰していく
面白いから、俺はこの説が嫌いじゃない。嫌いじゃないが、成立しない。理由を順に書く。
まず、時間が合わない。イスラエル十支族がアッシリアに連れ去られたのは紀元前八世紀から前七世紀のことだ。仮に彼らの一部が東へ流れて日本列島にたどり着いたとしよう。ところが御頭祭が史料に姿を現すのは、鎌倉から南北朝、つまり十三世紀から十四世紀である。あいだが千五百年から二千年空いている。この空白を埋める記録が、諏訪にも、途中の経路にも、どこにもない。二千年伝わったが記録は一行もない、という主張は、証明でも反証でもなく、ただの願望だ。
次に、名前の一致が根拠にならない。守屋山という山名も守矢という姓も、諏訪の文脈のなかで無理なく説明がつく。洩矢神の洩矢、これが守矢や守屋と表記を揺らしながら伝わってきた。洩矢神は諏訪の地主神であり、建御名方に敗れて祭祀の側に回った先住の神だ。土地の神の名が、その神を祀る一族の姓になり、その一族の背後に立つ山の名になる。これは日本各地でいくらでも見つかる普通の現象である。ヘブライ語のモリヤと音が似ているのは、単に日本語の音韻の組み合わせが有限だからだ。語呂合わせは、両言語の語彙を大量に用意すれば必ず何本か当たる。当たったものだけを並べれば、どんな二言語でも同祖に見える。
三つ目。イサク奉献との構造的一致は、実はそこまで特殊ではない。人身供犠が寸前で獣に代替される、という話型は、世界中の神話と儀礼に散らばっている。ギリシャのイピゲネイアは犠牲になる直前に鹿と入れ替えられる。中国にも日本にも、人柱を立てようとして代わりの物を沈める話がいくらでもある。人を捧げる段階から獣や人形を捧げる段階へ移行するとき、その移行の記憶が「寸前で止められた」という物語の形をとるのは、宗教史ではむしろ定型なのだ。つまり諏訪とヘブライが似ているのではなく、両方が人類のありふれた移行過程を保存している、と考えるほうがずっと自然である。
四つ目。日付の一致は、そもそも一致していない。現行の四月十五日という日取りは、明治の改暦以後に固定されたものだ。もともとは旧暦三月の酉の日。年によって日付は動く。過越と近い年もあれば、離れる年もある。近代の暦の都合で決まった日付を、古代の暦と重ねて論じるのは順序が逆だ。
五つ目、これが決定的だと思うのだが、御頭祭の側に「イサク的な物語」がまったく伝わっていない。諏訪には縁起も神話も豊富にある。洩矢と建御名方の戦いも、甲賀三郎の物語も、諏訪明神の霊験譚も残っている。しかし、なぜ子どもを柱に縛るのか、なぜ寸前で赦されるのかを説明する伝承が、諏訪の側には一切ない。もし本当に父祖の記憶を二千年運んできたのなら、儀礼だけが残って物語が全部消えた、ということになる。これは不自然だ。普通は逆で、物語のほうがしぶとく残り、儀礼が先に消える。
そして最後に、遺伝学の話がある。集団遺伝の解析で、日本列島の集団と近東の集団のあいだに、そうした直接的な系統関係を示す痕跡は見つかっていない。ここは学術的にほぼ決着がついている領域だ。
八戸の神社の神職が、この説について問われて書いた文章がある。趣旨はこうだ。文化の類似と起源の同一は、区別しなければならない。似ていることは、そのまま同じ祖先であることを意味しない。そして諏訪大社の側に伝承として残っていない以上、外から来た者が確定的なことを言うべきではない。この距離感は、賛成にも反対にも寄りすぎていなくて、いちばん誠実だと思う。
ついでに書いておくと、イサク説をいちばん熱心に語る人たちが依拠している「少年が刺されかけて赦される」という記述そのものが、実はかなり微妙な足場に立っている。真澄の記録に子どもが柱に縛られる場面があるのは事実として引用され続けているが、そこから「神長官が小刀を振り上げた」「国司の使者が御宥免を告げた」という段取りの細部に至るまでを、江戸期の一次記録がどこまで支えているかとなると、後世の解説や再話の中で膨らんだ部分が確実に混じっている。孫引きの孫引きで、劇的な演出が一段ずつ足されていく。怪談が育つときの、いつものやつだ。俺はこの膨らみ方も含めて面白いと思っているし、だからこそ、膨らんだ部分は膨らんだ部分として書いておきたい。
## 異説を、ひとつずつ
イサク説を退けたところで、じゃあ御頭祭は何なのか。これは今も定説がない。有力な読み筋をひとつずつ見ていく。
### 狩猟儀礼としての読み
いちばん素直な読み方だ。諏訪は縄文以来の狩猟の土地であり、八ヶ岳南麓では中世を通じて年に四度の御狩神事が行われていた。鹿や猪が贄として捧げられ、その頭が神前に並ぶ。獣を殺して食う集団が、殺した獣の頭を神に返し、来年もまた獲らせてくださいと祈る。この形は北方の狩猟民の儀礼に広く見られるもので、熊送りの構造とも近い。頭を返すのは、獣の魂を送り返して再生させるためだ。この読みなら、七十五という数も、耳裂鹿も、鹿食免も、全部きれいに一本の線に乗る。
### 農耕予祝としての読み
だが、御頭祭は春の祭りである。狩りの季節ではない。むしろ農事の始まりの時期にあたる。だから、この祭りは狩猟の顔をした農耕儀礼だ、という読みが出てくる。神使が信濃の各地を巡って土地の神を鎮め、五穀豊穣を祈る。この巡行こそが祭りの本体であり、十間廊の首の列はその出発を飾る儀式にすぎない、と。映画『鹿の国』を撮った監督も、この祭りを狩猟の神事であると同時に豊穣を予祝するものだと語っている。狩りと稲作という、本来は別々の生業のリズムが、諏訪では一枚の布に織り込まれている。
### 人身供犠の記憶としての読み
そして、いちばん語られる読み。かつて本当に人を捧げていた時代があり、その記憶が「縛るところまではやるが刺さない」という形式に化石化して残った、という説だ。証拠はない。証拠はないが、この説には妙な説得力がある。というのも、神使という制度そのものが、生きた人間を神に差し出す制度だからだ。八歳の子を三十日精進させ、真冬の穴に三ヶ月籠もらせ、信濃中を歩かせる。それはもう、命を丸ごと神に納めている。柱に縛る所作は、その納入をいちばん剥き出しの形で可視化した一瞬にすぎない、とも言える。
### 数の呪術としての読み
七十五という数そのものが本体だ、という読み方もある。諏訪の神事には七十五が繰り返し現れる。七十五は満数であり、これを揃えることで一年の秩序が完成する。だから本体は鹿ではなく数のほうで、数さえ満ちれば供物の中身は何でもよかった。実際、明治以降に本物の首が使えなくなっても祭りが続いたのは、この祭りの芯が数と形式にあったからだ、という説明になる。
### 御室神事の裏面としての読み
冬の御室と春の御頭を、ひとつのセットとして読む立場もある。冬、大祝と神使は半地下の穴に籠もる。藁の蛇と一緒に。籠もりは、死と再生の擬態だ。そして春、彼らは穴から出て、柱に縛られ、赦されて、外へ歩き出す。つまり御頭祭は、冬の籠もりから始まった一連の再生劇の、最後の場面だという読みである。縛られて解かれるのは、殻を破って出てくるのと同じ動作だ。この読みだと、御贄柱は殺しの道具ではなく、生まれ直すための産道になる。
## 鹿食免――殺していい、という札
御頭祭を語るなら、鹿食免(かじきめん)の話をしないわけにはいかない。
仏教が入り、殺生禁断が建前になった国で、諏訪だけが堂々と獣を神前に並べ、堂々とそれを食っていた。その理屈を一枚の札に落としたのが鹿食免である。この札と、鹿食箸(かじきばし)と呼ばれる箸を持っていれば、獣肉を食っても罪にならない。要するに免罪符だ。
その理屈を支えているのが、諏訪の勘文と呼ばれる短い偈である。業尽有情、雖放不生、故宿人天、同証仏果。ざっくり訳すとこうなる。すでに業の尽きた生き物は、放してやってももう生きられない。だから人の身に宿らせてやれば、ともに仏果を証することができる。つまり、殺して食うことは殺生ではなく、獣を救済する行為である、と。
理屈としては相当に強引だ。強引だが、これが数百年にわたって効いた。江戸期には諏訪の御師たちが全国の村々を回り、鹿食免と鹿食箸を配って歩いた。信仰の頒布であり、同時に神社の重要な収入源でもあった。山村の猟師にとって、この札は生業の免許証だった。獣を獲る。獲れば殺す。殺せば罪だと寺は言う。その罪を、諏訪の神が引き受けてくれる。そういう仕組みだ。
いまも鹿食免は授与されている。求めるのは猟師だけではない。畜産業の人、飲食業の人、革を扱う人。命を扱う仕事の人間が、この札を持ちに来る。狩猟解禁前に諏訪へ寄って札を受けてから山に入る、というハンターは今も普通にいる。千年前の免罪符が、令和の狩猟者の懐に入っている。
御頭祭で首を並べる作法と、鹿食免を配る商売は、まったく同じ思想の表と裏だ。殺す。神に見せる。神が引き受ける。だから罪にならない。この回路が、諏訪という土地の宗教的発明の核心だと思う。
## 見た人たちの話
ここからは、実際に行った人たちの話をいくつか。
ひとつめ。二〇二四年の夏に東京から茅野に移住してきた人が、翌年の四月十五日に初めて御頭祭を見た。移住前から狙っていた祭りだったという。当日、まず宮川沿いの桜並木で花見をして時間を潰した。行列が来るのは一時四十五分ごろだろうと踏んでいたのだ。ところが実際に来た行列は、想像を大きく超えていた。片側通行止めの道路を、後ろが見えないほどの列がぞろぞろと歩いてくる。この人はそこで一度、この土地の本気を見た気がしたと書いている。前宮に着くと十間廊には布が下ろされていて、中には入れない。風でめくれる隙間から、装束の色がちらちら見えるだけ。笙と篳篥だけが漏れてくる。手持ち無沙汰になって、神事の最中に裏の斜面を登り、峰のたたえと呼ばれる場所まで行って、イヌシデザクラの古木を眺めて時間を潰した。降りてきたら祭りは終わっていた。そのあと、内御玉殿での神事が続いているあいだに、無人になった十間廊の供物を見た。そこで紙にくるまれた生きた雉と目が合った。気の毒だ、と書いてある。祭りそのものより、その雉の記憶のほうが強く残ったらしい。それでも、古い土地の祭りに触れられて心底わくわくした、と締めている。
ふたつめ。ジビエの取材で御頭祭を追った人の記録。この人は狩猟と食肉の側から祭りを見ているので、視線がまったく違う。午後二時に神輿が前宮に到着し、御霊代を乗せた神輿がそのまま上段の間に運び込まれて鎮座するところから記録が始まる。神職と氏子が着座し、野菜、餅、魚と献饌が進む。祭壇には鹿の頭が二つ。剥製だ。そして、その耳の先が、ちゃんと二つに裂けている。この人はそこに強く反応している。伝承として語られてきた耳裂鹿が、剥製という形で忠実に再現されている。信仰が形式として生き延びるとはこういうことか、と。供物には鹿肉の缶詰もあった。缶詰と鹿の首が同じ台に載っている光景を、この人は特に茶化さずに書いている。神事のひとつひとつの意味と、狩猟との繋がりを楽しみながら知ることができた、というのがまとめだ。
みっつめ。前宮の神事を見に来た人が、天気の話を書いている。二〇二五年四月十五日は平日だったが人が多く、地元の重役や名士らしき人々が列に並んでいた。その日は空模様が異様に落ち着かず、突然雨が降り出しては、すぐに晴れ間が差す。それが何度も繰り返された。この人はそれを「神事にふさわしい天気」と受け取っている。理屈ではないのだが、こういう日の記憶は残る。そして帰りに、現代の自分たちがどれだけ食うことと祈ることを切り離してしまったかを考えた、と書いている。首を並べる祭りを見た人が最後にたどり着く感想は、なぜかこの手の話に収束することが多い。
よっつめ。祭りではなく、史料館のほうの体験。神長官守矢史料館に入った訪問者の記録だ。藤森照信の建物を外から眺めて、庇を突き破る四本の柱を「素敵な形」と褒めている。守矢家の祭祀そのものはすでに失伝し、資料は茅野市に引き継がれて保管されている、という前提を書いたうえで、館内に入る。そして、鹿の首に圧倒された、と書く。左隅に白兎の串刺しがある、と付け加える。串刺し、脳の和え物、そういうものから狩猟文化の匂いを濃厚に感じたという。この人は、鹿肉が古代から食材であり、仏教伝来後の肉食忌避に対抗するために鹿食免と鹿食箸が用いられたという流れまで、その部屋の中で腑に落としている。展示というのは、うまくいくとこういう働きをする。
## ネットは御頭祭をどう食べたか
御頭祭がネットで消費されるときのパターンは、だいたい三つに分かれる。
ひとつめは、生贄・奇祭として扱うパターン。鹿の首七十五、兎の串刺し、少年を柱に縛る。この三点セットだけを抜き出して並べると、たしかにこれ以上ないほど絵になる。オカルト系のまとめや動画で回っているのは基本これだ。ここでは前後の文脈、つまり狩猟民の生業とか、神使の巡行とか、鹿食免の思想とかは、まるごと落とされる。落としたほうが怖いからだ。
ふたつめが、日ユ同祖論のパターン。守屋山、守矢氏、御贄柱、寸前の中止。この四点でイサク奉献と接続する。このパターンの強いところは、否定しようとすればするほど話が広がることだ。「学者は認めない」「隠されている」という構図に持ち込めるので、反証が燃料になる。イスラエル大使が来たという話も、この文脈で何度も繰り返し引用される。
みっつめが、諏訪という土地そのものを怖がるパターン。御柱で人が死ぬ、御神渡りが神の通り道、諏訪湖の底に何かがいる、そして御頭祭で首が並ぶ。これらを全部つなげて「諏訪はヤバい」という総論にする。実際に検証記事を書いている人もいて、七不思議の多くは自然現象で説明できるし、そんなに構えて参拝する必要はない、という穏当な結論を出している。それはそれで正しい。正しいのだが、こういう検証記事が出ること自体が、怖がられている証拠でもある。
面白いのは、実際に現地へ行った人の記録が、この三パターンのどれにも乗らないことだ。行った人はだいたい、雉が気の毒だったとか、天気が変だったとか、行列が長すぎて足が疲れたとか、そういうことを書く。そして最後に、食うということについて考える。恐怖より先に、生活が来るのだ。
## で、結局なぜこの祭りは怖いのか
理由を三つに畳んでおく。
第一に、この祭りが「殺しを隠さない」からだ。現代の日本人は、肉を食う。毎日食う。だが、食う直前まで、それが生きていたことを一度も見ない。パックの中で肉は最初から肉である。御頭祭は、その省略を拒否する。首を並べる。目を開けたまま並べる。串を刺した兎を、隠さずに置く。恐怖の正体は、獣ではなく、自分が普段どれだけ目を逸らしているかを突きつけられることにある。史料館で首を見た人が「感謝と畏怖が湧いた」と書くのは、恐怖と倫理がここで同じ場所に立っているからだ。
第二に、子どもが出てくるからだ。柱に縛られる八歳。三十日の精進。真冬の穴に三ヶ月。信濃を歩く巡行。そして、生き神に立てられる七歳の大祝。諏訪の宗教装置は、繰り返し、子どもの身体を使う。無垢であること、まだ何者でもないことが、神の器としての条件になる。ここには、我々が近代に獲得した「子どもは守られるべき存在である」という感覚が、まったく通用しない領域が広がっている。怖いのは残酷さそのものより、そこに残酷さという概念が存在しなかったという事実のほうだ。
第三に、赦されるからだ。もしこの祭りが本当に子どもを殺す祭りだったなら、話はもっと単純だった。ただの野蛮として片づけられる。だが御頭祭は、刃を振り上げてから止める。縛ってから解く。この「途中でやめる」という形式が、いちばん人の想像力を殴ってくる。なぜ止めるのか。止めるということは、止めない時代があったということではないのか。この問いは、どれだけ史料を積んでも完全には閉じない。閉じないから、二百四十年前の旅人のスケッチが、いまもネットの海で拡散し続けている。
## 整理しきれなかったところを、もう少しだけ掘る

ここまで書いてきて、自分でも整理しきれていない部分を、もう少し掘っておきたい。
まず、御頭祭という祭りの本当の主語は誰なのか、という問題だ。我々はこの祭りを「鹿の首を並べる祭り」として認識している。だが中世の記録を追っていくと、上社の年中神事のなかで御頭祭が占める位置は、そういう単発のイベントではない。祭りは十三日間に及ぶこともあったと伝わり、しかもそれは神使の巡行という、はるかに長い行程の出発点にすぎなかった。神使は御頭祭のあと、信濃の各地を回る。回りながら、行く先々で土地の神を鎮める。つまりこの祭りの本体は、十間廊の内側ではなく、そこから外へ出ていく動きのほうにある。首を並べたのは、彼らを送り出すためだったのだ。
そう考えると、御贄柱の意味も変わってくる。柱に縛られるのは、殺されるためではなく、送り出されるためだった可能性が高い。人を旅に出す前に、いったん動きを止める。縛って、固定して、そのうえで解く。解かれた瞬間から、その人物は別のモードに入る。この構造は世界中の通過儀礼に共通する。分離、境界、再統合。境界の局面では、人は象徴的に殺される。縛られ、暗い場所に置かれ、名前を奪われる。そして解放された瞬間に、新しい身分で戻ってくる。真冬の御室に籠もる三ヶ月は、まさにこの境界の局面そのものだ。半地下の穴は、要するに墓であり、同時に子宮である。そこから出てきた子どもが、春に柱に縛られ、赦されて歩き出す。あれは処刑の中断ではなく、誕生の儀式なのだ、と読むほうが、諏訪の年間サイクル全体には整合する。
だが、そう読み切ってしまうと、今度は別の疑問が残る。ではなぜ、その誕生の儀式に、七十五の首が要るのか。通過儀礼としてだけなら、獣の頭は一頭でも用が足りる。七十五という過剰さは、明らかに別の論理から来ている。俺はここに、諏訪という土地の二重構造が露出していると思っている。すなわち、狩猟民の論理と、農耕王権の論理が、同じ舞台に同時に乗っている。
狩猟民の論理では、頭は返すものだ。獲物の魂を送り返し、再生させ、来年また獲らせてもらう。だから頭が並ぶ。農耕王権の論理では、祭りは領域の確認である。郡内の村々に頭役を割り当て、負担させ、その負担の総量を可視化する。七十五という定数は、諏訪という支配領域が確かに機能していることの証明書だ。占いで御頭郷を決めるという仕組みも、選ばれた村にとっては名誉だが、実態としては税である。首の列は、供物であると同時に、決算報告書だった。神の前に並んでいるのは獣の頭であり、同時に、その年の諏訪の統治能力そのものだった。
この見方をとると、御頭祭が明治以降にあっさり簡略化された理由も見えてくる。中世の御頭祭を成立させていたのは、信仰だけではなく、頭役という賦課システムだった。世襲神職の制度が消え、大祝が消え、御頭郷の割り当てが機能しなくなれば、七十五という数を集める兵站がまず崩れる。信仰が薄れたから首が減ったのではない。集める仕組みが先に死んだから、数が減った。剥製三頭という現在の形は、信仰の衰退の証拠というより、行政の消滅の跡地なのだ。
もうひとつ、掘っておきたいのが、神長官守矢氏という存在の異常さである。日本の神社の社家というのは、基本的に祭られる神の側の系譜を主張する。ところが守矢氏は違う。彼らは、負けた神の子孫だと自称し続けた。建御名方に敗れた洩矢神。その敗者の子孫が、勝者の子孫を神に仕立て上げる技術を独占した。しかも、その技術は一子相伝で、外に出さない。大祝は自分がなぜ神なのかを知らず、知っている神長官は自分が神ではない。この分業は、権力構造としてはとんでもなく巧妙だ。神体を握るのではなく、神体を作る手順を握る。作れる者は、作らないこともできる。
そう考えると、御贄柱に縛られた子どもの前に、小刀を持って立つのが神長官である、という配役が効いてくる。神を殺す権利を、形だけとはいえ、敗者の家が保持している。そして、それを止めるのが諏訪の国司の使者、つまり外部の世俗権力から来た人間である。この三者の配置は、諏訪の歴史そのものの縮図だ。先住の祭祀者、外来の神、そして中央から来る統治者。祭りが毎年その三角形を再演していたのだとすれば、これは宗教儀礼であると同時に、極めて政治的なパフォーマンスだったことになる。
日ユ同祖論の話にもう一度だけ戻る。この説を、俺は史実としては採らない。理由は本文に書いたとおりだ。だが、この説がなぜこれほど強い引力を持ったのかは、別途考える価値がある。答えはたぶん、御頭祭の側に説明がないからだ。諏訪には縁起も神話も豊富にあるのに、なぜ子どもを縛るのかを語る物語だけが、すっぽり抜けている。空白がある。人間は、空白を見つけると、そこに手持ちのいちばん強い物語を差し込みたくなる。近代日本にとって、旧約聖書は最強の外部物語だった。だからそれが刺さった。刺さって、なぜかぴったりはまってしまった。はまってしまったから、二度と抜けなくなった。
つまり日ユ同祖論は、諏訪の謎の答えではなく、諏訪の謎の形を測るための型取りだ。あの説がぴったりはまるということは、御頭祭の空白部分が、ちょうどイサク奉献と同じ形をしている、ということを意味する。それは同祖であることの証明ではないが、この儀礼が人類の宗教史のなかでどのタイプに属するかを教えてくれる。人身供犠から動物供犠への移行。その移行を、物語ではなく所作として保存した集団。諏訪とヘブライは血縁ではなく、同じ坂道を下った二つの集団だった。それだけで十分に凄い話だと思うのだが、どうか。
最後に、いまの御頭祭の話をして終わりたい。二〇二五年には、諏訪大社の特殊神事を追ったドキュメンタリー映画が公開された。監督は、ネパールに滞在していたときに供犠儀礼と農耕儀礼の結びつきに気づき、そこから諏訪へ向かったという。作中では、すでに廃絶した御室神事の芸能の再現にまで踏み込んでいる。記録には残っているが、いまは誰もやっていない神事。それを映像として立ち上げようとする試み。監督は、この映画を観て、自分たちは本来こういう国の人間だったのかと感じてほしい、と語っている。
俺が引っかかったのは、鹿は「命を巡らせる力」の象徴だという言葉のほうだった。あらゆるものがつながって循環していることの象徴。首を切って並べる行為が、循環の象徴になる。ここには矛盾がない。切るから巡る。並べるから戻ってくる。この論理を、諏訪の人々は千年単位で運用してきた。そして鹿食免という札に落とし込んで、全国に配って歩いた。業の尽きた生き物は、放しても生きられない。ならば人の身に宿らせて、ともに仏果を証させよう。乱暴きわまりない理屈だが、これほど正面から「食う」ことに向き合った宗教的言語を、俺は他に知らない。
四月十五日、前宮の十間廊で、剥製の鹿の首の前に神職が立ち、拍手を打つ。パン、パン。あの音は、七十五頭ぶんの首が並んでいた時代から、ずっと同じ音のはずだ。数は減った。生き神はいなくなった。頭役の帳簿も、御室の穴も、藁の蛇も消えた。それでも音だけが残っている。残っているうちは、この祭りは終わっていない。今年も耳の裂けた鹿がいた。だから今年も、神はいる。

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