雲南省の南、玉渓市通海県。県城から三キロほど離れた六一村という集落の、日の当たる中庭でのことだ。
九十歳に近い老女が盥に湯を張り、両足に何重にも巻かれた長い木綿の布を、端からゆっくりとほどいていく。布は何度も洗われて灰色になっている。ほどくにつれて、足の形が現れる。いや、足と呼んでよいのかどうか、初めて見た人間はそこで一瞬言葉を失う。
親指だけが上を向いている。残りの四本の指は、指として存在していない。足の裏側にめり込んで、指の腹だった部分がそのまま足裏の一部になっている。踵は不自然に厚く盛り上がり、土踏まずは深い谷になって、指先と踵がほとんど接近している。全長は十センチ前後。人間の足の長さの半分もない。
これが「三寸金蓮」だ。千年ものあいだ、中国という巨大な文明が女性の身体に対して行ってきたことの、最終形態である。
そしてこの光景は、二十一世紀に入ってからも実際に見ることができた。今はもう、ほとんど見られない。証言できる人が死に絶えつつあるからだ。
金の蓮の上で踊った、名前も曖昧な女
始まりの物語は、いつも同じところから語られる。
十世紀、五代十国の南唐。最後の君主である李煜――詩人としては中国文学史上屈指の名手で、政治家としてはまるで駄目だった男だ。彼の宮廷に、細身で舞のうまい宮女がいた。名を「ヨウ娘」という。漢字では目偏に穴と書く珍しい字で、日本語ではヨウジョウと読ませることが多い。
李煜は、高さ六尺の金の蓮の台を作らせたという。宝玉で飾り、色とりどりの帯や瓔珞を垂らし、台の中央に瑞蓮の花をあしらった。そしてヨウ娘に命じて、帛――絹の細長い布で足を縛らせた。指先を上へ屈めさせ、新月のような形にする。白い襪をはいた彼女が、その金の蓮の上で舞う。ふわりと回るその姿は「雲を凌ぐ風情」だったと記録は言う。
同時代の唐鎬という人物が、蓮の中の花はいっそう好く、雲の裏の月は永く新しい、という意味の詩を詠んだ。ヨウ娘のために作ったのだという。
この話が載っているのは『道山新聞』という書物で、元末の陶宗儀が『輟耕録』巻十の「纏足」の項に引用したことで広く知られるようになった。陶宗儀はその引用のあとに、自分の言葉でこう付け加えている。これによって知られる、足を縛るのは五代以来のことである、と。
さらに続けて、熙寧・元豊のころ――北宋神宗の年号で、西暦でいえば一〇六八年から一〇八五年あたり――以前は纏足をする者はまだ少なかったが、近年は人々が互いに真似をしあって、しない者を恥とするようになった、と書いた。
つまり十四世紀の知識人が、三百年前の状況について「あの頃はまだ珍しかったのに、今や誰もがやっている」と述べているわけだ。この短い証言は、纏足の歴史を考えるうえで恐ろしく重要な一節になった。
「誰も最初の一日を知らない」――起源をめぐる長い喧嘩
ただし、この起源説には昔から反論がある。しかも相当に執拗な反論だ。
まず、南唐より前の詩文に、小さな足を讃える表現がいくらでもあるという指摘。六朝の楽府に「双行纏」という題があり、新羅の繍いのある行纏、足の甲は春のように妍し、と歌っている。杜牧は鈿尺で裁ち量って四分を減らす、と詠んだ。李商隠にも、韓致光にも、それらしい句がある。
九世紀の『酉陽雑俎』には葉限という娘の物語が収められていて、継母に虐げられた娘が祭で落とした小さな靴によって国王に見出される。世界最古のシンデレラ譚と言われるこの話も、小さな足を美とする感覚がすでにあった証拠として引かれる。
一方で、反論への反論もある。
唐以前の詩人が女性を歌うとき、顔の化粧、髪飾り、衣装、裾のきらびやかさ、鬢、眉、唇、腰つき、手首の優美さまで舐めるように讃えているのに、足の「纖小」を讃えた句がただの一つもない、というのだ。『漢雑事秘辛』には足の長さ八寸とある。李白は「一双の金歯の屐、両足は霜のごとく白し」と詠んだ。素足の白さを讃えているのであって、小ささを讃えているのではない。唐以前の女の足に、上へ屈めて新月の形にしたものはなかった、というのが清代の考証家たちの見立てだった。
もっと古くまで遡ろうとする説もある。南朝斉の東昏侯が潘妃のために金箔を蓮の花の形に切って床に貼り、その上を歩かせて「歩々に蓮花を生ず」と言った、という有名な逸話。これを纏足の起源とする論があるが、これは足そのものを金蓮と呼んだのではなく、床に敷いた金の蓮花のことを言っているだけだ、と早くから否定されている。
商の紂王の妃である妲己の畸形の足から始まった、という俗説に至っては、清代の学者が「盲目の語り部が街の連中を騙すために作った話で、士大夫がそれを本気にするのは笑止千万だ」と切って捨てている。
考古学の側からの答えははっきりしている。千年前の女性の遺体の足の骨は、曲がっていない。天足だ。
物証として最も早い部類に入るのが、江西省徳安の周氏の墓で、南宋咸淳十年、西暦一二七四年の埋葬である。一九八八年に発掘され、遺体の保存状態がよかった。福州の茶園山にある南宋の墓は一九八六年の発掘で、墓の敷きれんがに淳祐十年、一二五〇年の銘があり、周氏よりさらに古い可能性がある。
そしてもっとも有名なのが、一九七五年十月に福州浮倉山で見つかった黄昇の墓だ。
黄昇は南宋の福州の名家の娘で、紹定二年の状元だった黄朴の子。祖母に育てられ、嫁いで一年足らず、十七歳で世を去った。福州第七中学が運動場を拡張する工事の最中に墓が現れ、衣服や絹織物が三百五十四点も出土した。南宋の服飾資料としては質量ともに最高クラスの発掘である。
その中に女性用の靴が六足あり、いずれも長さは十五センチに満たない。そして遺体には、長さ二百十センチ、幅九センチの布帯が足に巻かれていた。
十三世紀の官僚層の妻や娘が、布を巻いて足を小さくしていた。それが物として残っている。宮廷の踊り手の話がどこまで本当かは分からないが、宋代のある時点でそれが現実の身体加工になったことは、疑いようがない。
「しないのは恥だ」――宋から明清へ、加工はどんどん過激になる
宋代の纏足は、後世ほど過激ではなかったらしい。
中国絲綢博物館が所蔵する宋代の靴は、長さ二十八センチ、幅七センチ。先が尖って反り上がった、いわゆる弓鞋の形をしているが、清代の女性のように徹底的に縛り上げてはいない。宋元の縛り方は「側纏」と呼ばれ、主に足指を折り曲げ、あるいは変形させるにとどまった。足を「纖直」に――細くまっすぐに――するのが目標で、弓なりに反らせるところまではいかない。
これが変わるのが明代である。「折骨纏」の時代がやってくる。足指を曲げるだけでなく、足の裏そのものを変形させる。
江蘇泰州の明代の劉湘夫妻の合葬墓から出土した花緞鳳首尖足鞋、南昌の寧王朱奠培夫人呉氏の墓から出た緞面弓鞋は、いずれも長さ二十センチから二十三センチほどで、先端が上に反っている。履くと足の形が弓なりに見える。
万暦年間の二人の皇后の墓の副葬品では、一方の靴が十・八センチ、もう一方が十三・五センチ。踵と足首の占める割合が異様に大きく、前足部が極端に小さい。荊州魯家山から出た明末清初の六十代女性の遺体の足の形と、ぴたりと一致するという。
明代の男の目がどれほど狂っていたかを示す例として、しばしば『西遊記』が引かれる。呉承恩は、本来は男身であるはずの観音菩薩を美しい女性として描き、しかもその足を「金蓮」と表現した。仏まで小さな足になっていたのだ。明代の男が結婚相手を選ぶときの第一基準は足の大きさであり、妓楼に行っても妓女の纖足を弄ぶので「逐臭の夫」などと揶揄された。
清代に入ると、それが全階層に及ぶ。「三寸金蓮」という言い方が定着し、三寸――およそ九センチから十センチ――を理想とする。四寸以内なら「銀蓮」、四寸を超えれば「鉄蓮」と呼ばれて格が落ちる。
清代の方絢という男は自ら「評花御史」「香蓮博士」を名乗り、『香蓮品藻』という、女性の足を形状・寸法・装飾・匂いから分類品評する専門書を書いた。四照蓮、錦辺蓮、単葉蓮、仏頭蓮、穿心蓮、碧台蓮、並頭蓮、並蒂蓮、倒垂蓮、朝日蓮、分香蓮、玉井蓮、西番蓮――十八の名を与えて分類する。歩き方が八の字になる足、大きい指が跳ね上がった足、踵で歩く足、両脚が外に開く足、歩くと一直線になる足。どれもこれも、女性の障害の程度を美的に格付けしているにすぎない。
さらに彼は「香蓮五観」なるものを説く。風に臨むとき、梯子を踏むとき、階を下りるとき、輿に乗るとき、橋を渡るとき。この五つの瞬間を狙えば、女が足を隠しきれず、本当の姿がすっかり露わになる、というのだ。他人の身体の欠損を暴くための観察術に、こんな熱量を注いだ男がいた。それが文人の趣味として通用していた。
ついでに言えば、朱熹が纏足を熱心に勧めたという話も伝わっている。男女を隔離し、女性を深閨に静かに置くための基礎だ、というのがその理屈だとされる。歩けなくすれば女は「おとなしく」なる。ここまで来ると、美意識という言い訳すら剥がれ落ちる。
四歳の秋、吉日を選んで
以下は、歴史記録として残されている手順の概略である。再現のための手引きではない。むしろ、これがどれほど人体に対して破壊的な行為だったかを理解するための記述だと思ってほしい。
まず、日取りを決める。吉日を選んだ。季節としては秋が良いとされた。理由ははっきりしている。足が炎症を起こし、熱を持ち、耐え難い痛みを伴うからだ。涼しい時期に始めるほうが少しでも楽だという、あまりにも実際的な配慮である。日にちは陰暦八月二十四日、纏足の神である「小脚姑娘」の誕生日が選ばれた。あるいは陰暦二月十九日、子供の守護神である観音菩薩の誕生日が選ばれることもあった。
開始年齢は、資料によって二歳から八歳までばらつきがある。多くの記録は四歳から六歳あたりに集中し、五歳から七歳という証言も多い。足の骨が柔らかく、まだ完成していない時期であることが条件だ。土踏まずのアーチが出来上がってしまってからでは、望む形にならない。
施術するのは、ほぼ例外なく身内の女性である。母親。母親が耐えられない場合は祖母や叔母。あるいは「纏足婆」と呼ばれる専門の女性が呼ばれることもあった。娘の泣き叫ぶ姿に耐えられず自分では巻けない母親は、決して珍しくなかった。
工程は段階を追う。
第一段階は「試纏」。熱い湯で足を洗い、温かいうちに親指以外の四本の指を足裏へ向けて折り曲げる。指の間には明礬の粉を撒く。皮膚を収斂させ、化膿を防ぐためだ。そして八尺から十尺の長い布で、きつく巻いていく。緩まないように針と糸で縫い止める。最後に先の尖った布靴を履かせる。
第二段階では、締め付けを強くしていく。指の付け根から甲までの骨を足裏へ向けて折り曲げ、足の幅を決める。足指が完全に土踏まずに食い込み、指先が足の内側の側面まで届くようにして、その状態を固定する。
第三段階が「緊纏」あるいは「裹弯」と呼ばれる工程だ。足指の骨と踵の骨を逆方向に引っ張る。趾骨を後ろへ、踵骨を前へ。足の全長を縮めると同時に、土踏まずのあたりに窪みを作り、足の底を弓のように曲げる。
この段階になると足の筋肉は萎縮し、足の甲の皮膚は壊死して剥がれ落ちる。出血、化膿、潰瘍がつきまとう。小指が腐って脱落することさえあった。半年ほどかけて足の甲を高く隆起させ、足の底を深く窪ませる。完成した凹みの深さは四センチに達することもある。俗に「折腰」と呼ばれ、アーチ橋のような形になる。
理想形は、踵から爪先まで三寸。三寸金蓮である。
そして、ここが肝心なのだが、完成したら終わりではない。成人してからも縛り続ける。生涯だ。数日に一度の洗足のとき以外、布を緩めることは許されない。緩めれば形が戻ろうとして、また激痛が走る。関節痛、骨折、脱臼、皮膚の化膿。それらと一生付き合う。
十九世紀末に中国で暮らしたイギリス人宣教師の妻、アリシア・リトル――中国では立徳夫人と呼ばれた――は、纏足の少女たちの子供時代をこう記録している。
この三年間、中国の女の子の幼年時代は最も悲惨である。彼女たちに笑いはない。自分の背丈より高い杖に重く寄りかかるか、大人の背に伏せるか、あるいはただ座って悲しげに泣いている。目の下には深い黒い線が何本も走り、顔にはあの奇妙な蒼白さがある。纏足と結びつけたときにしか見られない蒼白さだ。母親はたいてい寝台の脇に長い竹竿を置いていて、それを使って立ち上がらせ、昼も夜も泣き叫んで家族を煩わせる娘を打つ。娘に許された唯一の解放は、阿片を吸うか、両足を小さな木の寝台に吊るして血の循環を止めることだった。
清朝の小説『夜雨秋灯録』には、こんな一節がある。人として生まれて最も惨いことは、女子が纏足されるときの声に及ぶものはない、と。主人が下女を叱る声、遣り手婆が新入りを罵る声、それらの残酷さすら及ばない、と続く。
「腐らないと小さくならない」――ある老女が語ったこと
一九九〇年代末、雲南通海の六一村に通っていた作家の楊楊が、ある日の昼過ぎ、大きな中庭で足を洗っている八十九歳の老女に出会った。呉楊氏と呼ばれる人だ。
楊楊は彼女から、自分の足がどうやって作られたかを聞き出している。これは纏足の記録の中でも、とりわけ直視しづらい部類の証言である。
彼女の足の形はなかなか思い通りにならなかった。土踏まずが凹まず、甲が盛り上がらない。そこで母親は、織機の部品である「射通」を、彼女の足の中ほどに横向きに当てがった。そのまま布で縛り上げ、歩けと言う。少しずつ、その部品によって足の中央部が押し折られていった。折れてから一か月あまり、彼女は寝台から降りられなかった。
それでも足はまだ腫れぼったく、醜いままだった。母親は言った。お前のこの男みたいな足、どうしてまだ腐らないんだろう。祖母が答えた。腐りにくいんだよ、そろそろ手を使わないとね。
祖母の指導のもと、母親は瀬戸物の碗を半分に割り、それを細かく砕いた。破片を彼女の足の裏、足の中ほど、足の甲に置き、その上から纏足布を巻いた。小さな靴を履かせて、地面を歩かせた。
足は切れた。血が布から滲み出し、黒くなり、生臭くなり、腐臭を放った。彼女は顔面蒼白になり、意識が朦朧とし、体重が激減した。自分の変形した足を触りながら、蠅が群れをなして寄ってくるのを見ていた。目の縁は赤く腫れ上がって、光すら入らなかったという。
祖母は杖をついて壁のところまで行き、古い壁の隙間から黒い虫を何十匹も捕まえてきた。それを生きたまま、血まみれの小さな足の中に巻き込んだ。最初、虫が中で這い回り、噛むのを感じた。やがて虫はすべて死に、刺激の強い何かに変わって、瀬戸物の破片と血肉と混ざり合い、鼻を突く悪臭を放った。
数日後、母親が布をほどいて、喜んで言った。膿んできた。ただ、膿と血がまだ少ないねえ。祖母が言った。腐らないと小さくならない。腐れば腐るほどいいんだよ。
母親はまた足を巻き直し、彼女を慰めた。もうすぐだよ、膿と血が出きったら痛くなくなるからね。それから毎日、母親は白い綿紙で膿を拭った。そのたび、彼女は鼻を押さえた。あの目眩のする匂いが怖かった。もちろん、一度も自分の足を見なかった。見なくても分かっていた。それはもう、自分の元の足ではない。
この証言のすべてが一般的だったわけではない。ここまでの荒療治は極端な部類だろう。だが、これが人間の家庭の中で、母と祖母の手によって行われたことは事実として記録されている。
洗足という儀式と、口に出しにくい匂いの問題
纏足の女性の日常で最も手間がかかったのが、足を洗うことだった。
数日に一度、湯を張った盥の前に座り、長い布をほどいていく。折れ曲がった指を一本ずつ伸ばしながら、隅々まで洗う。常に握り込んだ形になっているから、伸ばすだけでも一苦労だ。
北京で祖母の洗足を見ていたという女性はこう語る。骨から曲げた足を隅々まで洗うんだから、そりゃ大変だったわよ。なんて手間がかかるんだろうって思って見ていたわ、と。子供心に「痛くないの」と無邪気に尋ねると、祖母は「昔は痛かったけれど、もう痛くないわよ」と答えた。孫はそれを信じられなかったという。
洗って、爪と皮膚の余分なところを切り、明礬などの粉を撒き、また巻き直す。この一連の動作は、ほとんど儀式の性格を帯びていた。
楊楊が六一村で見た光景も同じだった。長い纏足布を魔術のように扱い、暗い部屋に身を隠して足を洗い、臭った靴と纏足布を干し、小さな足の胼胝を切り、足に葉を貼る。それらを行うとき、老女たちの手は細心で、顔は敬虔だった。少しでも油断すると、人に覗かれるか、足から血が出るからだ。
そして匂いの問題である。これは当時から公然の秘密だった。
乾隆年間に中国を訪れた朝鮮の使者、李某の記録は容赦がない。漢人の女は幼くして足を裹み、束ねること甚だ緊く、髑髏のようになり、色は醜く臭悪である。足の先は針のように尖り細いが、その脛は腫れ上がって太い。だから常に深く隠して護る。足の形の醜悪なことがこの通りだから、人に見られるのを恥じるのだ。歩くのも甚だ難儀で、鳧のように趨り雀のように歩き、道中で風に遭えばすぐに転ぶ――そう書いている。
にもかかわらず、その匂いを「香」と呼ぶ美意識が男の側にあった。纏足の七つの美点を並べた言い回しの中には、匂いがかぐわしいという項目まで入っている。汗と膿と垢が布の中で発酵した匂いを、ある種のフェロモンとして受け取る男たちがいた。
文人墨客のあいだでは、妓楼の纏足の妓女の靴に酒を注いで回し飲みする「行酒」という遊びが流行した時期がある。金蓮杯である。李漁は『閑情偶寄』などで、纏足の足を弄ぶ方法を四十八種類も挙げたと伝えられる。清末民初の辜鴻銘が女性の小さな足の匂いを嗅ぐのを偏愛したのは、有名な話だ。
弓鞋――足より雄弁だった靴
纏足の女性は、自分の靴を自分で作った。これが恐ろしく重要な文化だった。
素材は、甲の部分が絹か木綿。靴底はたいてい布か革で、ヒールには木が使われた。軽くて削りやすい柳が好まれた。十九世紀までは布製がほとんどだったが、二十世紀に入って纏足が廃れ洋装へ移行していく過渡期には、革製の西洋風の纏足靴が流行した時期もある。
色には決まりがあった。赤は祝い事。白は喪。黄は天子を象徴する色で、庶民がみだりに使ってはならない。若い娘は紅、緑、青、ピンク、オレンジといった華やかな原色を巧みに組み合わせた。年配者は黒、くすんだ青、灰色などの無彩色を身につけるが、還暦などの祝い事のときには紅い靴を履いた。
刺繍の図案には意味が込められた。花と蝶、魚、蔓草。魚の図案は豊かな暮らしへの願いである。男の子を産んで百日のあいだだけ履く靴、というものまであった。踵の布の部分に本物の古銭――乾隆通宝のような――を縫い込むこともあった。金運の向上を願う習慣で、長い年月のうちに硬貨の重みで布が裂けてしまった実物が残っている。
そして靴は、女の腕前を測る物差しでもあった。ある証言はこう言う。嫁に行くとき、人は花模様のついた靴を見て、靴を作るのが上手いかどうかを見る。嫁ぎ先に着いて夜になったら、箱を開けて、持ってきた纏足靴をみんなに見てもらう。上手に作れているか、模様が素敵かを見られる、と。
婚礼の嫁入り道具には纏足靴が含まれた。中国語の「鞋」の音が「諧」に通じるため、和諧、偕老といった祝福の意味を持たされた。子を授からない女性が観音廟に参り、供えられた纏足靴をこっそり一足持ち帰り、子を授かったら二足にして返す、という風習もあった。
墓に副葬された靴の話は前に触れた通りだ。そして最後の場面でも靴は要る。
北京のある女性は、祖母が死ぬときに履く靴を自分で作っていたのを覚えている。蓮の葉と蓮の花を刺繍した、紺色の絹の靴。蓮の花の靴を履くのが決まりなのだという。子供心に「もったいない」と思ったその靴を、祖母が亡くなったときに履かせた。彼女は今でも、あれより素敵な靴を見たことがないと言う。
香港文匯報の記者が二〇〇八年末から二〇一二年まで、甘粛から南下して十三省六十四地区を回り、大陸に存命の小脚女性およそ三百人の生存状態を記録した。二〇一二年の正月、新春の爆竹がまだ鳴っている頃、電話が入った。また五人の小脚女性が相次いで亡くなったという。彼女たちは全員、大紅大緑の寿衣を着て、足には例外なく、鮮やかな花を刺繍した、天国への道を踏むために作られた小さな靴を履いていた。
値札としての足
なぜ、母親は自分の娘にこれをしたのか。答えのかなりの部分は、婚姻市場にある。
「娘を育てるには脚が重要で、暮らしをするには火が重要である」。当時、そんな諺のような言い回しが流通していた。誰の家の嫁が美しいか醜いかを言うとき、人は顔ではなく足の大きさを見る。新しい嫁が外出するとき、誰もが最初に見るのは足だ。包み方が良くないと、娘の母親が罵られ、殴られることさえあった。
別の女性の言葉。美人さんで顔が良くても、足が大きかったら嫁ぎ先を探すことができない。顔はちょっと難があっても、足が小さかったら良い嫁ぎ先を見つけることができる。足が小さいと、全身が良く引き立って見えて、かっこいい。
また別の女性はこう言う。足を包まなければ、仲人はあんたに紹介してくれない。大きな足の女をどこの家がもらうのか、と人は言う。花嫁駕籠を下りるや否や、人はまずあなたの足の大きさを見る。「わ、大きな足だ、大きな黄色い猫が下りてきたぞ」と。
古い言い回しに、娘を愛するなら足を縛れ、息子を愛するなら学問をさせろ、というものがある。息子には科挙、娘には纏足。どちらも家の階級移動のための投資だと考えられていた。
そして纏足は、単なる美の記号ではなかった。それは「この娘は数年間の激痛に耐え抜いた」という証明書だった。姑の側から見れば、纏足に耐えた娘は謙譲と忍耐と道徳性を備えている。文句を言わずに従う嫁になる。仲人や姑が息子の許嫁に纏足を要求したのは、まさにその推論があったからだ。
結婚は本人同士が決めるものではなかった。親が決める。ある女性は言う。あの頃の結婚は、親が決めた人と結婚させられる。ロバに乗って人がやってくる。お互いに知らない人でも結婚させられ、親が目の見えない人と決めたら、その人と結婚させられるし、足が悪い人ならば足が悪い人と結婚させられる。
つまり、纏足は「男が性的に好むから女がそうした」という単純な図式には収まらない。決定権を持っていたのは親であり、しばしば母と姑という女性たちだった。纏足は個人の問題ではなく、家の問題だったのだ。
「座らせるための拘束具」だった、という衝撃の説
これまで長いこと、纏足は上流階級のステータス・シンボルだと説明されてきた。働かなくてよい家の女だから足を縛れる。労働から解放されていることの証明である、と。
この説明を根本から疑ったのが、カナダのマギル大学名誉教授ローレル・ボッセンと、米中央ミシガン大学名誉教授ヒル・ゲイツの共同研究だ。
二人は一九九〇年代初頭に四川で集めた約五千人分のインタビューに加え、二〇〇六年から二〇一一年にかけて中国内陸の十一省二十県で千八百人あまりの高齢女性に聞き取りを行った。一人あたり二百問を超える質問である。
浮かび上がってきたのは、まったく別の像だった。
纏足の女性たちは、暇な飾り物ではなかった。彼女たちは働いていた。糸を紡ぎ、布を織り、莚を編み、袋を作り、漁網を編み、麦稈帽子を作り、果物を摘み、油を絞った。中国の何億という人々が着て、掛けて寝た布のほとんどは、彼女たちの手から出ていた。しかも貧しい農村ほど纏足が多かった。貧しい家は、働かない人間を養う余裕などない。
では、なぜ縛ったのか。
ボッセンとゲイツの答えは冷徹だ。七歳の女の子を、夜明けから日暮れまで、綿を紡ぎ続ける椅子に座らせておくにはどうすればいいのか。母が織機に向かっているあいだ、その子はなぜ逃げ出さないのか。
纏足は、労働規律の道具だった、と二人は結論づけた。
五歳から十歳ごろまで、足の骨を痛めつけられ、燃えるように腫れた足で眠れない夜を過ごし、アーチが折れて座るか這うかしかできない日々を送る。その相対的な不動状態の数年間が、母親にとっては娘に家内生産の技術を仕込む絶好の期間になった。緩めようとすれば脅され、殴られる。
そしてこの仮説には、鮮やかな傍証がある。彼女たちが追跡したところ、纏足の衰退は、その地域に機械製の綿糸と綿布が届く時期と平行していた。安い工場製品が入ってくると、母親たちは纏足をやめた。娘は依然として母の監督下で働き続けたが、動けなくしておく必要がもうなかったからだ。
同じデータを統計的に処理した論文もある。商業目的の手工業を行っていた娘は、そうでない娘に比べて纏足されている確率が有意に高かった。逆に、政府の禁止令を娘時代に知っていたかどうかは、纏足されたかどうかとまったく相関しなかった。役所のお触れは効かなかったが、経済構造の変化は効いた、ということだ。
台湾を舞台にした研究も似た結論を出している。日本統治下の台湾では、一九〇五年から一九二〇年のあいだに、纏足の成人女性の割合が約六十八パーセントから十一パーセントへ急落した。中国本土より遥かに速い。この時期は台湾の製糖業の急成長期と重なる。サトウキビ栽培は稲作より女性労働への需要が大きく、纏足を解いたほうが得になった。サトウキビ専用の鉄道の敷設状況を操作変数にして分析すると、キビ栽培の拡大が放足を有意に引き起こしていた。
千年続いた身体加工が、最後は綿糸と砂糖の値段で終わった。身も蓋もないが、たぶんそれが実態にいちばん近い。
しなかった人たち
中国の全女性が纏足していたわけではない。この点は誤解されやすい。
まず満洲族。清朝を建てた女真の人々は、女性も馬に乗る文化を持っていた。旗人は纏足をしない。清朝を通じて、旗人の女性が纏足した例はほとんどない。
ところが面白いことに、満洲族の女性たちは漢族の纏足女性がよろよろと揺れながら歩く姿に憧れた。そこで彼女たちが愛用したのが「旗靴」、いわゆる花盆底鞋である。普通の靴に高い厚底を継ぎ足したもので、履くと歩行が不安定になり、纏足のような歩き方を演出できた。足を壊さずに、纏足の「見た目」だけを模倣したわけだ。
次に客家。福建、広東、江西、広西に広がったこの人々の女性は、原則として纏足しなかった。理由については学界で議論があり、大きく三つの説がある。開墾労働のために悪習を退けたという説。逃亡と移住を繰り返す暮らしのために抵抗したという説。近隣の少数民族に倣ったという説。
いずれにせよ、実際的な話であることに変わりはない。
成都東山の客家の大姓である廖氏が光緒十二年、一八八六年に編んだ族譜の序文には、こう書かれている。田家の作は苦しく、内外協力せねばならぬ。耕す者は必ず自ら耕さねばならず、そうでなければ雇い人ばかり増えて収穫は僅かになる。必ず健やかな婦の助けを得ねばならぬ。その身が柔弱で、その足が纖小な者は、操作に任ずることも、夫子を助けて耕稼することもできない――と。
『清稗類鈔』にはこうある。客家の婦女は向に纏足せず、身体は頑健にして運動自在、脂粉を施さず花も挿さず、日出でて作し、日入りて息む。
アメリカ人宣教師が書いた客家についての本には、こう記されている。客家においては、少しでも重い仕事はほとんどすべて婦人の責任である。市場で商いをする者、駅や埠頭の苦力、村で田畑を耕す者、深山へ薪を採りに行く者、家を建てるときの粗い仕事、灰窯や瓦窯で重労働をする者、ほとんど全部が女である、と。
太平天国が纏足を禁じたのも、この客家文化と地続きだった。広西の「大脚蛮婆」たちは太平軍の重要な戦力だった。額に赤い布を巻き、草鞋を履いて、なかなか矯健に戦ったという記録がある。天京に都を定めた太平天国は放足令を出した。広西の女たちが「小脚の女は何の役にも立たない」と言い、彼女たちが責任者となって「脚帯を除かせた」。従わない者は軽ければ鞭打ち、重ければ武器で打たれた。
ただし、これを近代的な意味での女性解放と呼ぶのは無理がある。動機は明らかに、弓鞋と羅襪を捨てさせて即座に労役に就かせるためだった。戦争の必要である。
しかもすでに骨の固まった年長の女性にとって、放足は解放ではなく新たな拷問だった。大きい者は小さくできず、小さい者も大きくできない。十本の指で地を踏んで歩けと言われれば、蜂に刺されるような激痛が走り、よろめいて転ぶ。当時の記録に、女たちの嘆きが残っている。誰のせいだ。ただ恨むのは、あの年、母が私にこの害を残したことだ、と。
地域差はほかにもある。広東と広西では省城の住民だけが真似をし、農村はまったく縛らなかった。雲南、貴州の少数民族も同様。蘇州は城内の女は足が小さいのを貴んだが、城外の農婦は皆裸足で田を作り、縛らなかった。台湾では、大正年間の人口調査で福建南部系の女性の約六割が纏足していたのに対し、客家女性の纏足者は一パーセントに満たなかった。同じ島の、同じ漢族で、この差である。
禁令の千年、あるいは国家が負け続けた記録
清朝ほど熱心に纏足を禁じ、そして無惨に失敗し続けた政権もない。
最初の禁令は清の入関前にさかのぼる。崇徳元年、一六三六年、漢人の官民男女の衣装をすべて満洲式に従わせるとし、漢人女子が髪を結い、足を纏うことを厳禁した。崇徳三年、一六三八年にはさらに踏み込み、纏足を叛国行為と見なす。大清国に身を置きながら、心はなお他国にある、というわけだ。裹足すれば足を切って殺す、とまで書かれている。
一六四四年に北京を占領した清朝は、剃髪、衣冠、禁纏足という三点セットを進めた。男は髪を剃り、女は足を放し、衣冠は清の制に従う。身体の外観から夷夏の別を消す政策である。
順治元年、纏足の女子を宮中に入れた者は斬るという上意が出た。順治二年、以後生まれた女子の纏足を厳禁。順治十七年には、旨に抗って纏足した者は、その夫か父を杖八十、三千里の流刑とした。
康熙三年、一六六四年に前令が重ねて申し渡される。康熙元年以後に生まれた女子の裹足を禁じ、違反した場合、その父が官吏なら吏部と兵部で処分を議し、兵民なら刑部で四十板を打って流刑、家長が調査を怠れば枷一か月と四十板、監督すべき総督・巡撫以下の文官も処分の対象、という徹底ぶりだ。
それでも止まらなかった。
清人の筆記『菽園贅談』には、笑い話のような記録がある。康熙元年に禁令が出たとき、ある高官が「臣の妻がまず大脚を放つ事につき奏上いたします」という上疏を出し、聞いた者はみな笑い話として語り伝えた、というのだ。士林と官界の本音がここに出ている。
さらに厄介な副作用もあった。密告の風潮である。康熙元年より前に生まれた娘を、元年より後の生まれだと偽って通報する者が現れ、無実の家が巻き込まれた。結局、康熙七年、一六六八年に左都御史の王熙の請いに従って、朝廷は禁令を緩めざるを得なかった。以後、纏足の風はかえって燃え盛る。
漢人の側には、「男は降るが女は降らず」という理屈があった。男は辮髪にされたが、女の足は漢族の風俗として守り抜く。異民族支配のもとで、纏足はある種の民族的アイデンティティになってしまった。モンゴルの元朝が中国を支配して以降、漢族の女性だけが行う纏足は、民族の誇りの略号として機能した。禁じられれば禁じられるほど、それは意味を帯びた。
皮肉なことに、儒学者たちはもともと纏足を軽薄なものとして非難していたのに、いつのまにか儒教への忠誠と纏足への忠誠が一つに溶け合った。
光緒二十八年、一九〇二年には西太后が詔を下し、漢人婦女は率ね纏足し、由来すでに久しく、造物の和を傷つけるものがある、務めて婉やかに切に勧め導き、次第に積習を除くべし、と述べた。同じ年、十八省の総督がすべて戒纏足の告示を出した。
光緒三十年には『勧行放足歌』という歌詞入りの詔が出る。照らし見るに女子の纏足は中華の悪俗の最たるもの。纏足するとき、日夜の号哭に任せて、対面していながら聞かぬふりをする。女もまたその酷を甘んじて受ける。その理由をたずねれば、世俗に縛られているにすぎず、こうしなければ美しくない、人に怨まれると思っているだけだ。美醜は天賦によるのに、なぜここまで斫り削るのか――と。
皇帝の名で歌まで作らせて、それでも止まらなかった。
天足会と不纏足会――最大の壁は倫理ではなく縁組だった
近代の反纏足運動を最初に始めたのは、西洋の宣教師たちだった。
記録に残る最初の組織は、一八七四年ないし一八七五年、廈門の教会でジョン・マクゴーワン牧師が立ち上げた「戒纏足会」である。年に二回集まり、子供に纏足させないと決めた者が会で約定書を作り、署名して割り印を押し、半分ずつ持つ。後に背いた者は会衆が共に責める。強制ではなく自らの意志による、と規約に書かれていた。設立から三年で、入会して約定した家が八十余りになったと『万国公報』が一八七九年に報じている。ただし影響は信徒の範囲を出なかった。
流れが変わるのは一八九五年だ。この年の四月、上海に暮らす西洋の女性十数名が「天足会」を設立した。中心にいたのは、イギリス人商人アーチボルド・リトルの妻、アリシア・リトル。創設会員の夫たちは、上海駐在の外交官、工部局の董事、洋行の主人といった租界の権力エリートである。
天足会の章程には、どの国どの宗教の人でも自由に入会できる、初めは西洋人が中心だが、将来は中国人の会員が年々増え、いずれ全て中国人の手で運営されるようになってほしい、と書かれていた。外国人の組織だったため清朝政府の制約を受けず、活動を華人にまで自由に広げられたのが強みだった。
同じ年、康有為が広東で「粤中不纏足会」を作る。彼は一八八七年にも郷里の南海県で開明的な士紳と組んで不纏足会を立ち上げたが、民衆の反対で失敗していた。二度目は違った。彼の娘たちが率先して纏足しなかったことで「粤の風が大いに移った」と言われる。
康有為が書いた『戒纏足会啓』の文章は激烈だ。天が人を生むに、指も甲も完美である。それを咫尺に縮め、拳のように曲げ、腫れ上がらせる。これは足を切り落とす刑を加えるのと同じだ。女子に何の罪があって足切りの刑を加えるのか。しかもそれを行うのが他人ではなく父母である。生きた人の肌を専ら傷つけ、骨肉の恩を壊し、天倫の親を損なう。天下に道理に悖り道を傷つけるもの、これに過ぎるものはない――。
一八九七年に運動は一気に広がる。広東順徳県の不纏足会には百人以上が入会。梁啓超が『戒纏足会叙』を書いた。六月三十日、上海不纏足総会が成立し、福州、天津、澳門にも同様の組織ができる。長沙には湖南不纏足会が生まれ、黄遵憲、熊希齢らが董事に名を連ねた。
彼らが直面した最大の壁は、実は倫理ではなく縁組だった。娘の足を放したら嫁にやれない。だから会の規約はこの点に集中する。
上海不纏足会は「会中の同志は互いに婚姻を通じることができ、憚るところがない」と定めた。直隷天足会の章程は、入会前にすでに纏足している娘については縁組に会は関与しない、入会した男の家は纏足した娘と婚約してはならない、と定めた。会員は会内で縁組せよ、会外の者と縁組するなら相手も入会させてから、という規定もあった。
一九〇〇年、蔡元培が出した求婚の条件が世間を驚かせた。女性は天足であること、字が読めること。男は妾を持たないこと。意見が合わなければ離婚できること。夫が先に死ねば妻は再婚してよいこと。翰林の身でありながら、不纏足を第一条件に掲げたのである。
一九〇五年一月十日、上海の議事庁で開かれた天足会の会議には八百人以上が集まった。三月二十五日の年会は「肩を摩し踵を接し」、後から来た者には隙間もなかったという。同年、天足会が上海、成都、西安で配った宣伝資料は十万冊を超えた。四川総督は『不纏足官話浅説』を五万冊印刷した。直隷総督の袁世凱、湖広総督の端方が自ら勧戒の文章を書いた。
そして一九一二年三月十三日、臨時大総統に就任した孫文が全国に通令を発する。纏足の起こりは考えようもないが、一二の好尚の偏りに起こって、ついに滔々として改めがたい弊風となった。悪習の流伝すること千百年、家を害し国を凶ならしめること、これに過ぎるものはない。国力の堅強を図ろうとするなら、まず国民の体力の発達を図らねばならない。纏足の一事は肢体を残毀し、血脈を阻む。害は一人に加えられるが、病は実に万姓に施される――そう述べて、各省に一体して勧禁するよう命じた。
ここで見落としてはならないのは、反纏足の論理が「女性の痛みが可哀想だから」に留まらなかったことだ。日清戦争の敗北を機に立ち上がった変法派の言葉には、「強種」という語が繰り返し現れる。強い種を残すために母体を健全にせよ。女性の身体は、今度は国家の身体として語られ始めた。所有者が父から国家に移っただけだ、という見方も可能である。
解いてからが、また地獄だった
一九一二年の禁令のあと、実際に何が起きたか。教科書はここを飛ばすが、証言はここに集中している。
北伐が成功したあと、南方より纏足の多かった北方で、強硬な放足運動が始まった。各省で禁纏足の大キャンペーンが張られ、県ごとに放足委員会が組織され、天足勧導員が配置され、放足成績の点検隊が派遣された。河南、陝西、甘粛を押さえた軍人の馮玉祥は、この運動をとりわけ苛烈に推し進めた。
ある女性の証言。馮玉祥が来た頃になって放足が呼びかけられ、街でだけでなく警察が毎日家まで調べに来る。婦人警官は時にはトイレの中まで調べに来た。女はトイレくらいにしか隠れられない。見つかったら、足を包んだ布は外の車に置いて皆に見せられた。私も調べられたことがあり、祖母がついてきて、大通りで大声でこう叫んだ。「私の真似をさせるな、私が孫娘の足を包んだんだ」。警官は行ってしまって調べなかったが、それでもまだ包むつもりだった。その後は調査が厳しくなった。一日に何度も調べられ、何度も探されて、纏足を完成させることができず、包むのをやめて足の成長に任せることにした――。
別の女性。馮玉祥が来て、古い廟を整理したり、纏足を解かせたり、断髪させたりすると、外出すらできなくなった娘たちもいて、声を上げながら隠れている。その後、纏足をやめない人がいたら、その纏足布を首にかけて街中を引き回して晒し者にした。怖いったらない。後に規約が緩んで、裸足で歩けない人たちはみんな「筋を伸ばす薬」を買った。私は三袋飲んだら指は伸びたけれど、骨はすでに折れているので、まっすぐには伸びなかった――。
もう一人。私は十二歳の春に纏足をやめた。女の役人がそれを調べに来た。私は家の廟の後ろに駆け込んで隠れた。それも上手くいかず、探し出されてしまった。見つかって、座ってそれを見たとたん「あなたはまだ足を縛っているのか」と言って、一気に纏足布を裂かれて、私は震え上がった。父を引っ張って纏足布を首に掛けさせ、町を練り歩いて晒し者にしようとしたが、役人に二元握らせて父が晒されるのは逃れた。その時から震えて、二度と足を縛ることはなかった――。
これらの語りに共通するのは、恐怖である。それまで足を人前に晒すことを最大の恥としてきた社会で育った女性たちが、今度は無理やり人前で布を裂かれる。近代化と啓蒙の名のもとに行われたことだが、当事者の体験としては、公開の場での辱めでしかない。
そして肉体の問題がある。放足は「解放」ではない。すでに折れた骨は戻らない。
ボッセンとゲイツの記述は正確だ。最も極端な形の纏足は本質的に不可逆であり、政治運動が布を外すよう求めたとき、その「解き放たれた」足で歩くことは、再び縛らなければ苦痛か、そもそも不可能だった。骨の構造が破壊されていたからだ。比較的緩い縛り方――四本の指を足裏に曲げるだけの「胡瓜足」「半坡足」――なら解きやすかったが、それでも多くの場合、指は足裏に埋まったままだった。
ある証言。纏足を解き放つことも非常に辛く、両足は腫れてとても太くなる。纏足をやめて足を解き放つと、それまで纏足をしていた人たちは立っていられず、歩くこともできない。当時はお上の規定と言われ、解かなくてはならなかった。人々はこっそり「これには反対だ」と話していた。少し軽めに包んでいた脚は、解いてからつま先を伸ばすことができる。私はしっかり強く包んであったので伸ばすことができず、今もまだ伸ばせない。四本のつま先はまだ足の裏にはりついたままだけれど、私はそれに慣れている――。
一九四九年以降はさらに強硬になる。新政権にとって纏足は、女性を経済活動から排除する封建の残滓だった。検査官が村々を回り、誰がまだ縛っていて誰が解いたかを調べた。文化大革命の時期には、「四旧」――旧習慣、旧風俗、旧文化、旧思想――を打破する運動の中で、纏足は反革命的行為と見なされた。
写真家のジョー・ファレルはこの点について、うまい言い方をしている。もともと彼女たちは纏足によって賞賛されたのに、一九四九年にはそれが恥ずかしいものになった。一つの人生の中でその両方を経験するというのは、途方もないことだ、と。
証言その一 許淑鳳、山東省生まれ
一九九〇年代初頭、中国の研究者たちが「二十世紀中国女性口述史」プロジェクトの一環として、纏足経験者への大規模な聞き取りを行った。編者の李小江が編んだ記録集は、纏足について男性文人が書いた膨大な文献に対する、決定的な反証の書になった。女性自身の言葉で語られた纏足の記録は、驚くほど少なかったのである。
許淑鳳は山東省の漢族。彼女の語りは、纏足を支えていた社会の空気そのものだ。
その時の人々は皆「娘を育てるには脚が重要で、暮らしをするには火が重要である」と言っていた。誰の家の息子の嫁が美しいか、誰の家の嫁が醜いかを言うときには、脚の大きさを見る。嫁取りをしたとき、誰かの家の嫁の足が小さければ、その嫁は容姿に優れているということだ。新しい嫁が外出をするとき、誰もが最初に見るのは彼女の足である。娘のいる家では纏足で足を小さくすることが重要で、包み方が良くないと、娘の母親は罵られ、殴られることさえある。
彼女はまた、放足についてもこう語っている。纏足を解き放つことも非常に辛い。両足は腫れてとても太くなる。当時はお上の規定と言われ、解かなくてはならなかった。少し軽めに包んでいた脚は、解いてからつま先を伸ばすことができる。私はしっかり強く包んであったので伸ばすことができず、現在もまだ伸ばせない。四本のつま先はまだ足の裏にはりついたままだが、私はそれに慣れている。
「私はそれに慣れている」。この一言が重い。八十年近く、彼女はその足で生きてきた。もはや痛みでも障害でもなく、身体そのものになっている。
証言その二 郭増蓬、一九一五年生まれ、河南省
彼女の父は元は小学校長で、後に教育局長になった人物だった。だから、女性は纏足すべきではないという主張を持っていた。ましてや自分の娘に纏足させるつもりなど、まったくなかった。
ところが彼女自身が、纏足を望んだ。
私は小さな足こそ綺麗だと思ったので、母に足を縛ってほしいと言った。母は「小さいときは巻きやすいのに、お父さんはあなたに巻くように言わず、今は足がこんなに大きくなって、あなた自身もこんなに大きくなって、それだから骨はどれも大きくなってしまったから縛れない」と言って縛ってくれなかった。私が再三言っても縛ってくれないので、私は「細く割いて纏足布にする四角い布をください」と言った。
彼女の世代の従姉妹たち、伯母たち、叔母たちは皆、纏足をしていた。朝になると足を巻いて集まり、纏足の比べっこをしていたという。
さて、足を縛り終えて靴を履いたところ、どうだろう。歩くこともできない。足の不自由な人のように、木の近くを歩けば木につかまり、壁の近くを歩けば壁につかまる。それなのに「足が痛い」「足を縛らなくて良い」と言う人は一人もいなかった。そこでは競い合うように、彼女たちは自分の足がどれほどうまく巻かれているかを言い合う。そのうちに、自分は素晴らしい、自分の足は他の人よりも優れていて、誰もが自分を尊敬している、と思うようになる。毎朝このようにして自慢しあっていた。
時々、足の束縛がきつくて、歩くときに壁にもたれかかることがあった。母は「あなたは痛がっているように見えるから、縛りを少し緩めましょう」と言った。私は緩めたくなかった。ただ纏足が小さくならないことを恐れて、緩めなかった。私は比較的頑固だったので、私が嫌だと言えばそれで済んだけれど、やるんだったら他の人と同じようにやらなければならない。でないと私の足はこんなに大きいから、どこへ行っても足が大きいと言われる。それは嫌だから、足を小さくするために一生懸命だった――。
この証言は、纏足を「男に押しつけられた」という一枚絵で理解しようとする発想を、真正面から破壊する。
父は反対した。母も痛がる娘を見て緩めようとした。それでも娘は自分で布を求め、自分で縛り、緩めることを拒んだ。同世代の女の子たちの輪の中で自分だけが違うこと。それが、五歳から十歳の子供にとって世界で最も恐ろしいことだったのだ。
証言その三 譚愛芝、湖南省
対極にあるのが、譚愛芝の語りだ。
私が五歳の時、母は纏足の細い布を持ってきて私に巻いてくれた。私の足を折ってきつく縛り、特別に作られた纏足靴を履くのだが、とても痛くて、私は泣きわめいて、縛らせようとしなかった。私の母は何人かの人を呼んで助けを求め、縛りながら「困った娘よ、泣かないで、足を縛るのは決まりなんだから、女の人は足を縛らないと女らしくないよ……」と言った。それ以来、私は見つからないように、夜にこっそりととても慎重に足を緩めていた。
五歳の子が抵抗し、大人が数人がかりで押さえつけて縛る。この光景の中で、母親が娘に言っている言葉に注目したい。決まりなんだから。実際には、纏足を強制する法律などどこにも存在しなかった。それでも母親には「決まり」に見えていた。そして、子供が夜中にこっそり緩めるという抵抗しか許されなかったのは、縛る相手が母や祖母という、逃げ場のない身内だったからである。
譚愛芝はその後、放足運動の到来を語る。数年後、私たちのところで纏足解放運動が始まった。当時、才能のある若い女性が外地から来て、駕籠に乗ってやってきた。彼女は纏足をしておらず、両足を駕籠を担ぐ棒の上に載せて、纏足をしない利点を世に広めていた。纏足解放運動の中で、私は最初に呼びかけに応えた。纏足をやめると、とても嬉しくて快適に過ごすことができた。
彼女は夜ごと密かに緩め続けていたおかげで、足を大きく戻せた側の少数派だった。今は三十六号の靴を履いている、小さな足とは言えない、と誇らしげに語っている。骨は少し損傷して形が変わったままだが。
もう一人、彭林頌の言葉も引いておく。彼女は纏足を憎んでいた側だ。
纏足をしている時は、二重に糸を通し、纏足の布を留めるように言われる。その痛みは布団の中で体を伸ばせないほどで、外では凍るような感じになる。足が痛くて、昼も夜も、どこに座っていようと歩けないほど痛かった。纏足の足の表面は黒く腫れていて、紫色に鬱血している。旧社会で纏足の理想とされた三寸金蓮とは、こういうものだったのさ。
当時、足を包みたかったですかと問われて、彼女はこう答えている。誰が包みたいものか。あんなに痛かったら、誰だって包みたくない。でも包まないといけないんだ。物事の分別がつかなかった時は、母に包んでもらった。物心がつくようになってからは、一人で包んだのさ。
証言その四 六一村の女性たち
二〇一七年、雲南省通海県の六一村と長河村で、日本の研究者が民国生まれの纏足女性八名に聞き取りを行った。この時点で、彼女たちの証言は「最後」に極めて近いものになっていた。
一九二五年生まれの馬さんは、六一村一組の住人。七歳、一九三二年に足を縛られた。縛りつけられた直後は毎日痛くて、ご飯も食べられなかった。それでも農作業などはしていた。ただ、足裏の骨が折れて形が次第に整ってくると、痛みが軽くなったと感じる時もあった、という。
彼女はこう語った。その時纏足の取り締まりはすでに始まっていたが、私は母に纏足を施され、その後ほどいたことがない。取り締まりを行う人が来たら隠した、と。
一九二六年生まれの王さんは六一村六組の人。母が亡くなっていたので、祖母に纏足を施された。当時、纏足を取り締まる役人に捕まえられたら罰金を払わなければいけない。だから逃げるために、みんなかなり苦労した。役人の目に触れないよう、大きな「放脚靴」を上から履いて誤魔化す者もいた。
一九二七年生まれの長河村の王さんも、取り締まりから逃れるためにさまざまな工夫をした一人だ。きれいな小さい足を作るために、何年も外に出ない人がいた。足を縛っては解き、解いてはまた縛ることを何度も繰り返す者もいた。そうやって取り締まりから逃げ続けた。
聞き取りを行った研究者は、彼女たちに一つ、踏み込んだ質問をしている。纏足をさせた両親や祖母を憎んだことはあるか、と。
彼女たちはほぼ全員、こう答えた。憎んだことはない。周囲の人々は纏足するのだから、自分も結婚のために纏足をしなければならなかった――。
六一村――中国最後の小脚部落
なぜ雲南の一つの村に、これほどの数の纏足女性が残ったのか。楊楊のルポルタージュ『中国最後の小脚部落』が、その謎を掘り下げている。
六百年ほど前、明の兵士たちが南京を発ち、沐英に従って雲南通海に至った。羅、楊、李、飛、海、王といった姓の集団が杞麓湖の南岸に配置され、六つの軍営のような村を築いた。上羅家営、下羅家営、楊李家営、飛家営、海家営、王家営。これらが後の六一村の母体になる。彼らは彝族、白族、タイ族、ハニ族といった土着の民族を武力で追い払って土地を得た。当然、報復と奇襲が絶えなかった。村は誕生の日から、攻撃性と防御性に満ちていた。
楊楊が村に入ったとき、高い石垣の門をくぐって薄暗い路地を歩くと、城門のような柵子門があり、石の門板と門臼があった。古い家の堂屋の裏や窓の外には、無傷の紡車と壊れかけた織機が残っていた。母屋の妻壁には、主人が外の匪賊に向けて銃を撃つための穴が今もはっきり見えた。
この城塞のような村で、兵士たちの連れてきた女たちが、地元の娘たちを片端から小脚にしていった――と楊楊は書いている。彼女たちは江南の良家の子女のように門から出ず、外に出るときは兵たちに囲まれた。そしてここの纏足の技術水準は上がり続けた。小・尖・弯・香・軟といった基準は、古都南京のそれに近かったという。
やがて兵たちが女を養えなくなると、彼女たちは蚕を飼い桑を植え、絹糸で滑らかな「通海緞」を織り出した。だが重税がそれを許さない。彼女たちは桑と蚕を捨て、男に衣食を求めて跪くしかなかった。男たちは彼女たちを閨秀ではなく奴僕と見なすようになった、と楊楊は容赦なく書く。
一九一〇年、雲南とベトナムを結ぶ鉄道が開通した。洋糸と染料が村に届いた。小脚の女たちは田から家に戻り、名高い「河西土布」を織り出す。梭で、傾いた衣食の扉をこじ開けた。当時の六一村は、名実ともに紡織の町だった。県内に二か所しかなかった土布の交易市場のうち、主要な一つがここにあった。
そして、ここに纏足が長く残った理由が見えてくる。手仕事で織物を売る村。女の手が家計を支える村。ボッセンとゲイツの仮説を、そのまま絵にしたような場所である。
天足運動が最高潮に達したまさにその時期に、六一村の女たちは隠れて纏足を始めていた。楊楊自身の母、周秀英は一九四六年に纏足し、一九五二年に放足した。皮桂珍は一九四三年に纏足、一九五六年に放足。李翠芬は一九四三年に纏足、一九五〇年にいったん解き、一九五一年にまた縛り、一九五八年にようやく放足した。彼女たちは典型的な「解放脚」である。八十代九十代の老女たちも一度は放足したが、結局どうしても元に戻らず、そのまま縛り続けるしかなかった。
中国最後の纏足施術は、一九五七年、雲南省通海県で行われたとされている。
数の推移も記録されている。一九八〇年代の調査では、五百人から六百人の纏足女性がいた。ほとんどが七十歳から九十歳。一九九〇年代末には二百人以上、二〇〇〇年代初頭には三百人以上という数字も出ている。二〇〇七年にはおよそ五十人。近年は二十人前後、あるいはそれ以下。全員が八十代後半から九十代である。
金蓮舞踊隊、そしてゲートボールで天足チームに勝った話
六一村の物語で最も意外なのは、彼女たちが「解放されるのを待つ受動的な存在」ではまったくなかったことだ。
ある時期、村の小脚の老女たちは舞踊隊を組織した。他の村の女性たちと踊りを競い合った。皮桂英という七十一歳の女性はその一員で、当時の舞のステップを覚えていた。観光客が来ると、村の中心に集まって踊り、人形のような小さな靴を手縫いして見せた。
さらに愉快なのは、彼女たちが天足のチームとゲートボールで対戦し、勝ってしまったという記録があることだ。
二〇一四年に六一村を訪れたアメリカの写真家が、村の高齢者センターで八十六歳の王麗芬という女性に会っている。彼女はかつて観光客向けに踊る纏足女性の舞踊隊にいた。二〇〇〇年代初頭には村にまだ三百人近い纏足女性がいた、と彼女は語った。彼女自身は七歳のとき母に足を縛られた。母は、これが良い夫を得る唯一の方法なのだと言った。
こうした事実は、彼女たちを一方的な被害者として描く報道への、静かな反証になっている。中国の研究者が「金蓮絶唱」という言葉で分析したのはまさにこの点だ。近代以来の反纏足の言説を引き継いだメディアは、彼女たちを受動的な被解放者として描く。しかし六一村の女性たちの生活史を時代をまたいで掘り起こすと、彼女たちがどのようにして身体の限界を超え、新しい社会の中で立ち位置を作ったかが見えてくる。彼女たちは解放を待っていた集団ではなく、伝統的女性の自己構築を見せていた――と。
もっとも、これは苦痛を帳消しにする話ではない。楊楊の見た呉楊氏の足も、ゲートボールに勝った足も、同じ足である。
写真家たちが記録したもの
イギリス人写真家ジョー・ファレルの仕事は、この主題の記録として決定的なものになった。
きっかけは二〇〇五年、上海のタクシーの後部座席だった。彼女は消えゆく文化的慣習を記録することを一貫したテーマにしてきた写真家で、運転手と纏足の話になった。彼が「祖母は纏足だった」と言った。ほとんどの人は、あれはあまりに古い伝統で、もう生きている人はいないと言っていた。ファレルは運転手の祖母の村へ向かった。
最初に撮影したのが、そのタクシー運転手の母、張雲英だった。それから八年、彼女は中国各地の農村で五十人以上の女性を撮り、話を聞いた。ほぼ全員が山東省と雲南省の住人だ。ハッセルブラッドのカメラで撮り、白黒フィルムを自分で現像し焼いた。撮影対象を見つけるのは、たいてい口づてだった。
彼女の記録した女性たちは、宮廷の美女ではない。全員が土地を耕す農民である。刺繍の美しい靴と贅沢な暮らしという、学術文献に描かれがちな纏足像とは無縁だ。彼女たちは畑で働き、文化大革命を生き延び、多くは九人か十人の子を産んだ。壊れた足を十センチの靴に押し込み、踵で体を支えながら、そのすべてをやった。
そして、ファレルが驚いたのは、彼女たちの誇りだった。
ある女性は自分の足を喜んで見せた。彼女は村で「最も美しい足の女」として知られていたからだ。八十七歳の女性のところでは、言葉が通じなかったが、彼女はファレルの手をずっと強く握っていた。通訳に尋ねると、こう答えた。彼女はあなたに帰ってほしくないんです、と。その女性は二〇一三年に亡くなった。私は彼女を特別で、記憶される存在だと感じさせた、彼女のこの人生の道のりに意味があったのだと感じさせた――ファレルはそう振り返っている。
同時に彼女は、多くの女性が「もう一度人生をやり直せるなら足は縛らない」と打ち明けたことも書き留めている。誇りと後悔は、同じ人の中に同居する。
日本人研究者の川端厚子は、一九九三年から九四年にかけて、上海市と江蘇省海安で、一八九三年から一九二〇年のあいだに生まれた纏足女性五十人を調査した。足のレントゲン写真を撮り、詳細な聞き取りを行っている。レントゲン上ではハイヒール型が多いが、意外にも骨の成長は明らかに存在していた。纏足に関わる症状は、頻度の高い順に腰痛、歩行困難、足の痛み、足の腫れ、そして足の匂いへの困惑。
彼女が集めた言葉は身も蓋もない。纏足は当時は当たり前で、家庭でほぼ強制的なもので、結婚にもしていないとマイナスだった。辛亥革命以後に禁止令が出て役所の人間がやめるように言っても、家族は反対して纏足をさせた。貧しい家庭の子供は纏足をしていなかった。纏足をした当初は痛みがひどく、夜眠れない。小指が折れているので歩けない。足は二、三年腫れが続いた。小さいときに分からないまま纏足されて、恨んでいる。八十五歳になるが、体が不自由で歩けない。生きる時代を間違えた――。
川端は、纏足してよかったという声は全く聞かれなかったと書いている。一方で彼女は、纏足の女性たちが封建社会の中で肉体的・精神的に苦しい宿命を背負いながらも力強く生き、子育てをして命を支えてきたことを高く評価している、と調査の動機を述べてもいる。この二つは矛盾しない。
一九三〇年代の北京在住の纏足者百九十三人を対象にした研究では、およそ四割が転びやすいと答えた。歩行は八の字に外を向き、股関節と腰だけでバランスを取り、前かがみになって小刻みに進む。年を取ると転倒による骨折の率が跳ね上がる。
災害時の死亡率が男性より高かったという記録もある。一九〇六年の梅山地震では女性の死者の割合が男性より遥かに高く、それを機に台湾では年長者たちが「地震のときに逃げられるように」と、家の女の子に纏足させないことを認め始めた。理屈でも啓蒙でもなく、瓦礫の下から出てこられなかった娘たちが、この慣習を終わらせた。
その足は、誰のものだったのか
さて、いちばん厄介な問いに行こう。纏足された女性の身体は、誰のものだったのか。
伝統的な答えは「男のもの」だ。男の性欲、男の支配欲、男の父権、女に貞操を強いる装置。実際、そう読める材料は山ほどある。四十八種類の弄び方を数え上げた文人。妓女の靴で酒を飲む遊び。足の匂いを嗅ぐことを偏愛した学者。歩けなくすれば女は逃げられないという、朱熹に帰される理屈。明清小説の中で、纏足の足を女性の第三の性器のように扱う表現。
しかし、この答えだけで千年を説明するのは、やはり無理がある。
第一に、施術したのは女性である。母、祖母、叔母、纏足婆。父親が反対した家でも母が縛った例が、記録に山ほどある。第二に、婚姻の決定権を持っていたのも、しばしば母と姑だった。仲人と姑が纏足を要求したのは、男の性的嗜好の代弁というより、労働力と従順さの品質保証を求めてのことだ。第三に、女性自身が纏足を望んだ証言が、無視できない量で存在する。父に反対されても布をねだった娘。母が緩めようとしても拒んだ娘。毎朝集まって足の巻き具合を自慢しあった従姉妹たち。
歴史学者ドロシー・コウは、纏足を「愚かな破壊行為ではなく、女性自身の目から見て意味のある行為だった」と書いた。彼女によれば、男が纏足を欲したのは性的倒錯というより、文化的ノスタルジア、地域間の対抗意識、男性特権の主張といったもっと大きな関心に結びついていた。そして女性の側は、自分と娘の足を縛ることで、身分と自尊を表明していた。女らしさは身体労働と家事労働に結びついており、きちんと縛られた足と美しく作られた靴は、どちらも世代を超えて受け継がれる精緻な技術と知識を要した。彼女は纏足を、抑圧の物語ではなくファッションの歴史の領域に置いた。
坂元ひろ子は、家父長制に基づく男性・女性軸だけでは不十分だとして、貴賎の区分、種族固有の風俗の保持、婚姻に有利、という要素を挙げた。ジェンダー・イデオロギーが絡むのは間違いないが、それでも完全に受動的でしかなかったとも言えない、と。安定した生活を求めるために、またファッションとしても、女性の側から選択したという側面がある、と。
では、纏足は抑圧ではなかったのか。そんなはずはない。
ここで一番腑に落ちる整理は、こうだ。女性の身体は父のものでも夫のものでもなく、「値がつく市場に投げ込まれた資産」だった。その市場のルールを作ったのは男たちの美意識と権力構造だが、市場で実際に売買の実務をしたのは女たちだった。
母親は、娘の足を縛る以外に娘の将来を守る手段を持たなかった。縛らなければ嫁の貰い手がなく、貰い手がなければ生涯にわたって辛い思いをする。だから縛った。娘たちは、そのルールを空気のように吸って育ち、やがて自ら縛ることを望むようになった。それを「自発的」と呼ぶのは、たぶん言葉の使い方として誤っている。だが「強制」の一語で片づけるのも、彼女たちの人生を平板にする。
ジョー・ファレルの結論は、この問題への最も率直な答えかもしれない。この企画から学んだ最も大きなことは、私たちは伴侶を見つけるためなら極端なところまで行くのだ、ということだ。彼女たちの大半は、実の母親に足を縛られた。母親自身も纏足を経験しており、自分の子にどんな痛みと責め苦を与えているかを知っていた。それでも、娘を社会に受け入れられる存在にするために、娘に最善の人生を与えるために、これはやらねばならないことだった。どれほど胸が張り裂けようとも。私たちは皆、受け入れられたい。愛されたい。子供にもそうあってほしい――。
お歯黒、コルセット、そして今のわたしたち
比較の話をしよう。都合よく「あれは中国の奇習だった」で終わらせないために。
日本にはお歯黒があった。既婚女性や成人女性が歯を黒く染める習慣で、村々では女性の一生の各段階における通過儀礼であり、誇りある装飾だった。黒い歯の女性の美しさを歌う唄が地域社会にあった。
明治に入り、公家や皇族を対象とした染歯禁令が出た。「開化」を志向する知識人や新聞投稿者は、染歯を文明と対立するものと捉えた。明治十年代になると、近代歯科医学の展開とともに、洋方の歯科医たちがお歯黒有害論を展開する。彼らは歯科医学を「文明」の枠内に位置づけることを目指し、廃絶を自らの責任と捉え、疑似科学的な装いをまとわせた言説を広めた。婦人矯風会をはじめとする女性団体がそれに乗った。ただし最終的に、一般女性の染歯を法的に禁じる規制は設けられなかった。
面白いのは、村の女性たち自身の受け止め方だ。歯科医が広めた有害論とは反対に、彼女たちは自らの経験に基づいて、歯を染める材料を「無害有効」と認識していた。そして染歯習俗が衰退したのは、法的規制や知識層の啓蒙という抑圧によってではなく、村の女性たちが変化する時代の中でそれを「当世の風潮」「新奇の流行」と捉え、自ら歯を染めないという選択をしたからだった、と研究は述べている。纏足の終わり方と、驚くほど似た構図である。
イギリスにはコルセットがあった。十九世紀後半、女性たちは蜂のように細い腰を作るためにコルセットを締め上げた。肋骨の変形、内臓の圧迫、失神。中国の纏足と西洋のコルセットは、服飾史における女性身体抑圧の両極端の例として、しばしば並べて論じられる。両者に共通するのは、身体の自然な発育と運動を制限し、形状・色・質感・匂いを一時的あるいは永久に改変し、そこに肉体的・精神的な苦痛が伴うことだ。
そして違いもある。ある研究者の整理では、纏足は男性のイデオロギーの中での権力の追求だったのに対し、コルセットは神と人間のあいだの権力闘争だった。乱暴な整理だが、示唆的ではある。コルセットは脱げる。纏足は脱げない。ここは決定的な差だ。
さらに現代へつなげるなら、ハイヒールがある。纏足を経験したある女性は、インタビューで大声で笑いながらこう言った。纏足は、あんたたちがハイヒールを履いてカッコよく歩いているのと同じさ、と。
日本の#KuToo運動が問題にしたのは、まさにここだった。職場で女性にヒール靴やパンプスを強要すること。好きで履くのと、履かなければいけない状況で履くのとでは、まったく違う。韓国の脱コルセット運動は、化粧、ダイエット、美容整形、脱毛、ハイヒールを「美のコルセット」と呼び、常に親切で思いやりがありルールを守れという期待を「道徳的コルセット」と呼んだ。
聖心女子大学が開いた展示は、纏足とコルセットの歴史を並べ、#KuToo運動を捉え直すという構成を取っていた。現代の私たちから見れば不合理としか思えない装いの背後には、それを生み出した社会特有の文化と価値観があった。そしてこれらの風習は今ではなくなったが、性別により特定の装いが求められる場面がなくなったわけではない――という問いかけだ。
纏足を「野蛮な過去の奇習」として消費するのは簡単だ。だが千年続いた慣習を支えたのは、狂気ではなく、ごく普通の判断だった。娘に良い縁組をさせたい。仲間はずれになりたくない。認められたい。愛されたい。その判断が、四歳の子の足の骨を折らせた。判断そのものは、今日もどこにでも転がっている。
なぜこの話が、いつまでも怖いのか
怪談ではない。祟りも呪いも出てこない。それなのに、纏足の話は多くの人の背筋を凍らせる。理由はいくつか思い当たる。
一つは、加害者と被害者が同じ人間だからだ。母は、かつて自分が縛られた側だった。自分の足がどう痛んだかを、身体で覚えている。それでも娘を押さえつけ、布を巻く。娘は成長し、やがて自分の娘を押さえつける。この連鎖には、外から侵入してくる悪意がない。だから止められない。
二つ目は、逃げ場のなさだ。夜中にこっそり布を緩める。それが最大の抵抗である。誰かに助けを求めることもできない。助けてくれるはずの人が、縛っている人だからだ。
三つ目は、不可逆性である。骨は戻らない。人生の後半で世界のルールがひっくり返り、賞賛されたものが恥に変わっても、足は戻らない。一つの人生の中で、身体が誇りから恥へと反転する。しかもその身体は、脱ぐことも取り替えることもできない。
四つ目は、これがつい最近まで生きた人間の日常だったことだ。最後の施術は一九五七年。二〇〇〇年代にも六一村には三百人近い当事者が暮らしていた。二〇一四年になっても、村の高齢者センターで八十六歳の女性がその話をしていた。遠い王朝時代の話ではない。祖母の世代の話だ。
そして五つ目。この慣習を終わらせたものが、正義でも人道でもなかったという事実だ。清朝の禁令は三百年失敗した。皇帝の歌も効かなかった。宣教師の説得は信徒の輪を出なかった。効いたのは、機械で紡いだ安い綿糸と、サトウキビ畑の求人と、地震のときに逃げられなかった娘たちの死だった。もし経済の都合が逆を向いていたら、この慣習は今も続いていたかもしれない。人間の身体に対する破壊が、道徳ではなく採算で終わったこと。それがいちばん、怖い。
香港の記者は、こう書いている。彼女たちはこの古い土地の上で、一筋の細い煙のように、「三寸金蓮」の最後の一枚の枯葉を持ち去ろうとしている。多くの人は知らない。三寸金蓮とは詩情と血腥さの交錯であり、今の人間には理解できない人間悲劇の一幕一幕を演じてきたのだ、と。
数億人の身体に起きたことなのに、本人の証言はほぼ空白だった
ここからは、本編で触れきれなかった論点を腰を据えて掘り下げる。史料の読み方の癖、数の問題、地域差の構造、そして纏足を語るときに現代人が必ずはまる落とし穴について。
まず、史料の偏りの話をしておきたい。
纏足について書かれた文献は膨大にある。だがその大半は、男が書いた。方絢の『香蓮品藻』も、李漁の随筆も、詞人たちの弓鞋の句も、清朝の官僚の上奏文も、宣教師の報告書も、全部そうだ。当事者である女性が自分の言葉で纏足を語った記録は、二十世紀の終わりまでほとんど存在しなかった。これは驚くべきことだ。何億人の身体に起きたことについて、当の本人の証言がほぼ空白だったのである。
理由はいくつも考えられる。多くが読み書きを習っていない。足を人に見せることが最大の恥とされていた。研究者の側もほぼ男性で、女性は家の奥にいて接触しにくい。彼女たちの仕事は家と中庭という私的空間で行われるため、同じ村の男にすら見えていなかった。
ボッセンとゲイツはこの点を強調している。二十世紀初頭の写真で纏足の女性が写っているものは、ほぼ全部が座っているか、写真館で正装して立っているポーズだ。村の男が屋外で働いている写真は無数にあるのに、纏足の女性が屋外の公共の場にいる写真、まして何かの作業をしている写真は、極端に少ない。
この「見えなさ」が、纏足についての誤解の温床になった。働かない女、養われる女、飾りの女。実際にはそうではなかったのに、記録に残らなかったから、そう思われてきた。
李小江が編んだ口述史のプロジェクトも、ボッセンとゲイツの千八百人の聞き取りも、六一村での八人への調査も、ジョー・ファレルの五十人の写真と証言も、川端厚子の五十人のレントゲンと聞き取りも、すべてこの空白を、当事者が死に絶える直前に埋めようとした作業だった。間に合ったのか、間に合わなかったのか。おそらく半分ずつだろう。
次に、数の問題。纏足を経験した女性は全部で何人いたのか。誰も正確には知らない。
ボッセンとゲイツが試みた粗い推計はこうだ。清末の人口を一九〇〇年時点で四億五千万として、その約九割、四億五百万を漢族とする。女児殺し、遺棄、育児放棄による女性の超過死亡を考慮して男女比を百十対百と保守的に見積もれば、女性はおよそ一億九千二百万人。そのうち纏足が行われていた地域に住んでいたのが半分だとすれば、十九世紀後半だけで約九千六百万人が縛られたことになる。平均寿命を四十年から五十年と甘めに見て、十九世紀前半の人口を四億三千万とすれば、さらに九千二百万人。つまり十九世紀の百年だけで、二億人近い。
もちろん、これは仮定の積み重ねだ。だがオーダーは掴める。数億人である。
数の話をもう一つ。清代の記録によれば、咸豊年間、北京の内城の民女で足を裹まない者は十人に五、六人。郷間で裹まない者は十人に三、四人。つまり都市部のほうが纏足率が低い。これは直感に反するかもしれないが、内城には旗人が多く住んでいたからだ。
『清稗類鈔』は、天足の分布を執拗に列挙している。順天所属の大興と宛平の土着民は、旗人が元から天足なのに加えて、小さい家の婦人も皆縛らない。直隷の盧龍、豊潤、易州、承徳、宣化では満洲・蒙古の婦女が天足。奉天、吉林、黒竜江の三省は漢・満・蒙が雑居していて天足が甚だ多い。山東では徳州と益都に満・蒙二族の天足がいる。河南の開封、山西の太原も同様。江蘇は大江の南北にあり、農桑漁樵畜牧および雑役に従事する者。江西と福建の諸県には天足が多く、しかも天秤棒を担いで商売をして男を食わせる女がいて、男のほうが子を抱いて炊事と水汲みをしている。広東と広西の諸県は天足が多く、耕樵漁牧と輿かきに従事する。貴州は苗族の女以外にも天足が間々ある。蒙古、西蔵、青海は皆天足――。
この列挙から読み取れるのは、纏足の分布が民族と職業と地形にきれいに沿っていたということだ。縛れる家は縛った。縛れない仕事をしている家は縛らなかった。そしてその境界線は、しばしば同じ県の中を走っていた。蘇州は城内の女が足の小ささを貴んだが、城外の農婦は裸足で田を作った。数キロ離れているだけで、女の身体に起きることがまったく違った。
地域差といえば、縛り方そのものにも南北の流派があった。すでに十七世紀の時点で、南方の縛り方では足指が比較的まっすぐ、北方では親指以外の指がすべて靴底に向かって曲げられ、足がより不安定になった、と記録されている。明代の文人が『留青日札』の中で詳しく描写している。「西部」では蹄のように小さく縛られ、北方の労働女性は足元が安定しないため、厚い黒土の上に膝をついて作業した、という記述もある。膝立ちで畑を耕す。それが日常だった女性たちが、確かにいた。
娘は資産だった。足を縛られた資産だった
ここで、纏足を「身分の記号」として説明する古い理論の弱点をもう一度整理しておこう。
この説は、纏足が労働からの免除を示すという前提に立つ。だが実際には、農村の貧しい家ほど纏足していた地域があり、しかもその女性たちは激しく働いていた。
ボッセンとゲイツが千八百人に聞いて出した数字と、四川の五千人近いデータを重ねて統計処理した結果は明快だ。商業目的の手仕事をしていた娘は、していない娘に比べて、纏足されている確率が高かった。中国全体で一・二四倍、四川では一・〇五倍。差は大きくないが、有意である。そして、政府の禁令を娘時代に知っていたかどうかは、纏足の有無とまったく相関しなかった。
もう一つ興味深いのは、商業的に糸を紡いでいた娘は、家庭内消費のためだけに紡いでいた娘より、結婚前に働く年数が長かったという発見だ。金になる技術を持った娘は、実家が手放したがらなかったのである。娘は資産だった。足を縛られた資産だった。
ここまで来ると、纏足の「終わり方」の意味が変わってくる。
清朝は禁令で終わらせられなかった。宣教師も終わらせられなかった。孫文の通令も、蒋介石の禁令も、単独では終わらせられなかった。終わらせたのは、機械が娘の手仕事を無価値にしたことだった。工場で紡いだ糸が村に届いた瞬間、母親が娘を椅子に縛りつけておく経済的な理由が消えた。台湾では、サトウキビ畑が女手を求めた瞬間に、十五年で纏足率が六十八パーセントから十一パーセントに落ちた。
この構図を見ると、「有害な伝統的慣行」一般についても考えざるを得なくなる。実際、ボッセンらの論文はこう述べている。この研究の含意は、政府による禁止の有効性についての前提を再検討する必要があるということ、そして現代でも少女や女性を管理し閉じ込める慣習――アフリカの女性性器切除や南アジアの名誉殺人の脅威――が、同様に経済的な基盤を持っているかどうかを再評価する必要があるということだ、と。
啓蒙のパンフレットを配ることと、女の労働に別の値段をつけること。どちらが効くのか。歴史はかなりはっきりした答えを出している。
禁令が、纏足に民族的な意味を注入してしまった
次に、纏足と「民族」の問題を深掘りしておきたい。ここが清朝の失敗の核心だからだ。
清朝は纏足を禁じた。それは女性の健康を思いやってのことではない。剃髪令と衣冠令とセットで打ち出された、身体からの同化政策だった。男の髪型、女の足、そして服装。この三つで「夷夏の防」を消そうとした。だから漢人にとって、纏足を守ることは抵抗になった。男は髪を剃られたが、女の足は守る。「男降女不降」という言い回しが生まれた。
つまり清朝の禁令は、纏足に民族的な意味を注入してしまったのである。禁じられる前は、纏足は流行であり、婚姻戦略であり、労働規律だった。禁じられたあと、それに加えて「漢族であることの証」という意味が乗った。禁令が慣習を強化するという、政策として最悪の結果だ。
そして満洲族女性の反応が、この構図をさらに複雑にする。彼女たちは纏足を禁じられていたが、纏足の歩き方に憧れた。だから花盆底の旗靴を履いた。踵の中央に高い木の台をつけた靴で、履くとバランスが取りにくく、上体が揺れる。纏足の女性の歩き方に似せられる。支配民族の女性が、被支配民族の女性の身体加工の「見た目」を、身体を壊さない形で模倣した。文化の力の向きが、政治権力の向きと逆に流れている。
清朝末期には、この構図がもう一度ひっくり返る。日清戦争の敗北のあと、纏足は「中国が弱い理由」として名指しされた。阿片、辮髪と並ぶ、近代中国の三大恥辱の一つに数えられた。かつては漢族の誇りの記号だったものが、四十年ほどで民族の恥の記号になった。同じ足である。意味だけが反転した。
このとき使われた論理が、また厄介だ。「強種」である。強い種を残すには母体が健全でなければならない。纏足した母から生まれた子は弱い。だから足を放せ。この論法では、女性の身体は個人のものではなく、民族の生殖装置として語られている。父の所有から国家の所有へ、と言い換えることもできる。反纏足運動が女性解放の側面を持ったのは事実だし、教育の機会が開かれたことは疑いなく前進だった。だが動機の中核に優生的な国家主義が座っていたことは、記録しておく価値がある。
太平天国の放足令も同じ構造だ。あれは女性解放の先駆けとして持ち上げられがちだが、動機は戦力の確保だった。弓鞋と羅襪を捨てて即座に労役に就かせる。従わない者は鞭打つか武器で打つ。しかも同じ天国の中で、指導者の一部が「姿色端麗」な男児を宦官にして、纏足させ、女装させて王宮で使役していたという記録もある。解放とは呼びづらい。
俗説を四つ、片づけておく
纏足をめぐる考察の中で必ず出てくる俗説に触れておく。
一つめ。「纏足の女性は足裏に力が入らないぶん、股関節や骨盤が異常に発達し、性交時に男性へ強い快感をもたらす」という説だ。清代から近代まで、真顔で語られてきた。医学的な根拠はない。歩行様式が変わることで臀部と大腿の筋肉の使い方が変わるのは事実だが、そこから先は完全な想像である。にもかかわらず、この俗説は纏足を正当化する強力な物語として機能した。男が自分の欲望を「女のためになる」形に翻訳するとき、こういう理屈が生まれる。
二つめ。「纏足の女性は歩けない」。これも事実に反する。多くの女性は歩けた。畑で働き、山道を登り、天秤棒を担いだ。二〇〇〇年代に入ってからも、七十代八十代の纏足女性が水田で働いている地域があった。十九世紀から二十世紀初頭には、纏足の踊り手が人気を博し、跳ねる馬や走る馬の上に立つサーカスの演者までいた。ただし、歩けたことと苦痛がなかったことは別だ。歩けたのは、彼女たちがそれ以外の生き方を許されなかったからでもある。
三つめ。「纏足は上流階級だけ」も間違いだ。十九世紀には全階層の女性のおよそ半分が纏足していたという推計がある。写真家ジョー・ファレルが記録した五十人は、全員が農民だった。刺繍の美しい靴と優雅な暮らしという纏足像は、学術文献と文人の詩が作り上げた幻影の側面が強い。
四つめ。「文化大革命で終わった」というのも、やや雑な整理だ。文革期に「四旧打破」の対象になったのは事実だが、実際の終息は地域ごとにバラバラで、一九五〇年代にはほぼ新規の施術が止まっていた。最後の施術とされるのが一九五七年の雲南通海。文革が始まる九年前である。文革がやったのは、すでに縛られている老女たちを辱めることのほうだった。
なぜ六一村だけが、最後まで残ったのか
ここで、六一村という場所の特異性をもう一度考えてみたい。
県城からわずか三キロ。決して山奥ではない。それなのに、天足運動の掛け声が最も高かった時期に、この村の女たちは隠れて纏足を始めていた。
楊楊の観察は詩的だが的確だ。彼女たちは県城に走って行って、あの平凡な世界に、純粋な生活に浸り、スローガンを叫び、旗を振り、爆竹を鳴らし、戦歌を歌って、小さな足と魂を解き放つべきだった。しかし祭りを前にして、六一村の多くの女たちは荒れた庭や小さな楼や暗い部屋に隠れ、男は田を耕し馬を追って商いをし、女は子を産み糸を紡いで布を織るという、あの幽かな夢を続けていた――。
なぜか。答えは経済にあると私は思う。あの鉄道が洋糸を運んできて、六一村は「河西土布」の産地になった。県内に二つしかない土布交易市場の主要な一つがここにあった。女の手が現金を生む村だったのだ。ボッセンとゲイツの仮説がここに当てはまる。手仕事の商品価値が高いあいだ、母親は娘を座らせておく理由を持ち続けた。
そして、この村の纏足女性たちが二十一世紀にどう生きたか。彼女たちは舞踊隊を組織し、観光客の前で踊り、人形のような靴を縫って売り、天足のチームとゲートボールで戦って勝った。中国国内のメディアは彼女たちを「受動的な被解放者」として描いてきたが、生活史を追うと、まったく別の像が現れる。身体の限界を超えて新しい社会に足場を作り、伝統的女性の自己構築を見せた集団だ、という分析がある。
正直に言えば、この評価にはやや危ういところもある。「彼女たちは強かった」という物語は、加えられた暴力を薄める方向に働きうるからだ。だが同時に、「可哀想な被害者」という枠だけで九十年の人生を語られるのも、彼女たちにとっては別種の暴力だろう。楊楊が見た呉楊氏の足は、正面から見ると火傷のあとに皮膚と肉が剥け落ちて変形した肉の塊のようだった、と描写されている。その足の持ち主が、七十年後に踊っていた。この二つを両方とも書き残すことしか、たぶんできない。
この主題に触れるときの、最低限の作法
最後に、倫理について書いておきたい。
纏足は、格好の見世物になりやすい。奇形化した足の写真は強烈で、SNSでもよく流れる。だが、写真の中の足には持ち主がいる。彼女たちは生涯、夫以外の男に素足を見せなかった。それを晒すことが最大の恥だという価値観の中で八十年、九十年を生きてきた。近年になってカメラの前で語り始めた人がいるのは、彼女たち自身の判断と、記録者との関係の積み重ねがあったからだ。
ジョー・ファレルが八十七歳の女性の家を出ようとしたとき、言葉の通じない彼女がファレルの手を強く握って離さなかった、という話を先に書いた。通訳が言った。「彼女はあなたに帰ってほしくないんです」。ファレルは、この企画を通じて老いというものと、彼女たちがいかに「見えない存在」にされているかを学んだと語っている。多くの場合、彼女たちは誰かが自分の話を聞きに来てくれることを、ただ喜んだ。
日本人研究者の川端厚子は、纏足女性たちが封建社会の中で肉体的・精神的に苦しい宿命を背負いながらも力強く生き、主人に尽くし、立派に子育てをして、人間が生きて子孫を存続していくための命の根底を支えてきたことを高く評価している、と自分の調査動機を書いた。そして調査を終えて、こう記している。本調査を通じて纏足者の真実の声を聞き、纏足者の生きざまを知り、生き証人としての彼女たちの生活を見聞できたことは、後世に送る最大のメッセージであると思っている、と。
これに対して、戦前戦中に日本人医学者が中国で行った纏足女性の生体計測の研究は、当時の医学としては意味があったにせよ、今日の医療倫理から見れば大いに問題があった、と指摘する研究者もいる。奇妙なもの、変わった存在を記録するという態度である。同じ足を測っていても、そこにある関係はまったく違う。
千年の慣習は終わった。最後の当事者たちも、あと数年でこの世からいなくなる。そのとき、纏足は完全に文献と写真の中の出来事になる。だが、四歳の子の足の指を折って布で縛るという決断を、母親が何十世代も続けてきたという事実は残る。
その決断を可能にしたのは、悪魔でも狂気でもない。娘に良い縁組をさせたいという気持ちと、周りと違うことへの恐怖と、他に選べる道がないという諦めだった。三つとも、今の私たちの生活の中に、姿を変えて残っている。この話を読んで背筋が寒くなるとしたら、それは千年前の中国が怖いからではない。たぶん、自分の中にも同じ回路があると気づくからだ。
