## 夕方の交差点で、あの唄が鳴っていた
子どものころ、横断歩道の青信号で「通りゃんせ」が流れていた記憶のある人は多いはずだ。あのオルゴールみたいな、ちょっと調子外れの、間延びした電子音。夕方の五時くらい、下校途中に聞くと妙に心細くなるやつ。あれをただの交通安全の音として聞き流していたのに、ある日ふと歌詞を思い出して背筋が冷えた、という体験を語る人がやたら多いんだよな。「行きはよいよい 帰りはこわい」。信号を渡らせるための音楽が、帰り道は怖いと歌っている。この気持ち悪さに一度気づくと、もう元には戻れない。しかもこの唄、掘れば掘るほど不穏な要素が出てくる。七歳という年齢の意味、城の中に閉じ込められた神社、帰りだけ厳しく調べられる門番、そして江戸時代の子どもの死。順番に見ていこう。
## まずは歌詞を、はじめから終わりまで
全部そらで言える人は意外と少ない。だいたいこうだ。「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神様の細道じゃ ちっと通してくだしゃんせ ご用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」。歌詞はこれだけ。四十秒足らず。だがこの短さのなかに、問答が二往復、時間が二回分ある。行きの場面と、帰りの予告。しかも最後の「こわいながらも通りゃんせ」は、誰が誰に言っているのか宙に浮いている。母親の独白なのか、門番の脅しなのか、それとも第三者のナレーションなのか。歌詞の一人称が揺れているせいで、聞き手はどうしても座りの悪さを覚える。この宙吊りが、この唄が百年以上こねくり回されてきた最大の理由だと思う。
## 「通りゃんせ」ってそもそもどういう言葉なんだ
「通りゃんせ」は「通る」の連用形「通り」に、敬意をあらわす助動詞「やんせ」がくっついた形だ。つまり「お通りなさいませ」。命令ではなく、丁寧な勧誘。「くだしゃんせ」も同じ系統で「ください」の丁寧形になる。この「やんせ」がどこの言葉かで、実は発祥地論争が一段ややこしくなる。関東の言葉とも、上方の言葉とも言われる。中日スポーツが名古屋発祥の可能性を取り上げたとき、国立国語研究所の朝日祥之が「可能性はなくはない、名古屋弁であってもおかしくない」とコメントして話題になった。根拠として『名古屋方言の研究 江戸時代編』に、江戸期の名古屋の遊里で「やんせ」が使われていた例が挙がること、尾張西部の稲沢あたりに「通らんせ」という言い回しが残っていたことが引かれている。名古屋がどこも発祥を名乗り出ていないのが逆に面白い。
## 天神様の細道とは、どこの道なのか
天神様は菅原道真だ。学問の神様として知られるが、もともとは大宰府に流されて憤死し、都に落雷と疫病をもたらしたとされる祟り神である。怒れる霊を祀り上げて鎮めた、いわゆる御霊信仰の代表格。この出自を頭に置いておくと、「天神様の細道」の湿度が変わってくる。参拝路が「細道」であることも効く。広い表参道ではなく、一人ずつしか通れない細い道。両側から木が迫って、日が差さない。そこを、七つの子どもの手を引いて歩いていく。天神社は全国に一万二千社もあると言われ、寺子屋のあるところには必ずと言っていいほど天神様が祀られていた。つまりこの唄の舞台は、特定の一社というより「どこの村にもある、あの細い参道」なんだよな。だから全国に広まった。
## 「ご用のないもの通しゃせぬ」——門番がいる
神社の参道に、通行を許可する人間がいる。ここが引っかかりどころだ。ふつうの村の鎮守なら、誰が入ろうが咎められない。用がなければ通さない、という管理が発生している時点で、この参道はただの参道ではない。関所か、あるいは城郭の内側か。だからこそ後述する川越説が強い説得力を持つ。そして母親は用件を申告する。「この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります」。身分証明ではなく、儀礼の申告で通行が許される。役所というより、境界の番人に対する呪文の唱和に近い。子どもの遊びとしてはここが最高に楽しいところで、通せんぼしている二人の腕の下を、正しい言葉を言えばくぐれる。言えなければくぐれない。境界を越えるには決まり文句がいる、という感覚を、子どもは遊びながら身体で覚えていたことになる。
## この子の七つのお祝いに
七歳。ここが唄の心臓部だ。三歳でも五歳でもなく、七歳。七五三のうち、女児の帯解にあたる年齢とされるが、民俗の側から見ると七歳はもっと決定的な意味を持つ。村の氏子として認められ、名簿に載り、共同体の一員として数えられる年。逆に言えば、七つになるまでは共同体の正式なメンバーではなかったということだ。
### 七つ前は神の内、という言い方
「七つ前は神の内」という言い回しがある。七歳未満の子どもは人間ではなく神の側に属している、という考え方だ。だからわがままをしても、非礼をはたらいても責任を問われない。かわいい話に聞こえるが、裏返すと恐ろしい。人間として数えられていないのだから、いつ神のもとへ帰っていってもおかしくない。実際、江戸幕府の服忌令では、七歳未満の子どもが死んだ場合に忌服の期間を設けないと定められていた。喪に服さない。つまり、正式な死として扱われない。柳田国男が一九一四年の『神に代りて来る』でこの観念を論じ、その後に青森や茨城の事例報告が積み重なって、民俗学の定説として広まった。近年は「柳田が一般化しすぎた」という批判も出ているが、少なくとも江戸から明治にかけて、七歳が人生の関門だったことは動かない。
### 江戸の子どもは、どれくらい死んだのか
数字を見るとえげつない。江戸期の乳幼児死亡率は、一歳未満で十パーセント台後半、二歳までにおよそ二割が死んだとされる。五人産んで一人は二歳までに消える計算だ。そこから七歳までにさらに削られる。だから七つの祝いは、単なる成長の記念じゃない。ふるいにかけられて生き残った、という生存の確認式だ。母親が細い参道を子どもの手を引いて登っていく場面には、そういう重みが乗っている。
## お札を納めに参ります、の不気味さ
「納めに」であって「もらいに」ではない。ここに気づくと味わいが変わる。生まれたときに授かった守り札を、七つになったので返しに行く。役目が終わったから返却する。つまりこの参拝は、神様の保護契約の解除手続きなんだ。行きは神の子として神に守られながら登り、帰りは人の子として、守りを外された裸の状態で下りてくる。だから帰りが怖い。この読み方はネットの怪談系サイトでもよく紹介されていて、たぶんいちばん納得感がある。神域の外に出た瞬間から、この子は自力で世間を生きなければならない。守りを返した帰り道こそが、人生でいちばん危うい数十分だ、というわけだ。
## 「行きはよいよい 帰りはこわい」の四文字
この一句が唄のすべてを持っていっている。行きは良い、帰りは怖い。子どもが口ずさむ唄に、これほどはっきりした不吉の予告が入っているのは珍しい。しかも「こわい」の解釈で真っ二つに割れる。
### こわい=疲れた、という方言説
東日本の広い範囲、特に北関東から東北にかけて、「こわい」は「疲れた」「きつい」を意味する。北海道でも「こわい」は「だるい」だ。ご飯が硬いことを「こわめし(強飯)」と言うのと同根で、要するに「こわばる」。この読みを取ると、歌詞は一気に牧歌的になる。行きは元気だったけど、帰りはくたびれた。長い坂道を子どもを連れて往復したんだから当たり前だ。「よいよい」を「やっとのことで」と読む解釈も併せて紹介されることが多い。民俗学寄りの人はだいたいこの説を推す。夢はないが、たぶんいちばん現実的だ。
### こわい=恐ろしい、という素直な読み
ただし、疲労説だけで済ませるとこの唄は百年も語られていない。子どもたちが遊びながら「かえりはこわい」と歌うとき、彼らは間違いなく「怖い」と思って歌っている。意味の起源がどうであれ、受け取られ方が唄の命だ。しかも遊びのルールが恐怖側を補強する。歌い終わりに門が落ちて、誰かが捕まる。捕まった子はもう帰れない。歌詞と遊戯が完全に一致してしまっている。
## 発祥地争い、その一:川越の三芳野神社
いちばん有名なのが埼玉県川越市の三芳野神社だ。境内には「わらべ唄発祥の所」の碑が立っている。社名は『伊勢物語』に出てくる「入間の郡三芳野の里」に由来するとされ、川越城が築かれる前からこの地にあった。
### 城の中にある神社、という異常事態
問題はここからだ。太田道真・道灌父子が川越城を築いたとき、この神社は城郭の内側、天神曲輪と呼ばれる区画に取り込まれてしまった。城の中に、庶民が参拝する神社が残った。だから「お城の天神さま」と呼ばれる。現在の社殿は寛永元年(一六二四年)に川越藩主・酒井忠勝が造営したもので、翌年には天海大僧正を導師として遷宮式が行われている。明暦二年(一六五六年)には松平信綱の命で大改造が入り、江戸城二の丸の東照宮本殿が移築されたと伝わる。名だたる人物がずらりと並ぶ、格の高い神社だ。
### 帰りに調べられる、という関所説の核心
城の中なのだから、当然ながら出入りは管理される。年に決められた日だけ、庶民の参拝が許された。南大手門から複数の門を抜けて、細く曲がりくねった参道を進む。行きはまだいい。問題は帰りだ。城内を見た人間が出ていくとき、他国の間諜が紛れていないか、城の内情を持ち出していないか、番人が念入りに検める。荷物を開けさせ、顔をあらためる。子ども連れの母親も例外ではない。だから行きはよいよい、帰りはこわい。この説明は理屈が通りすぎていて、川越を訪れた人の多くが「なるほど」と唸って帰っていく。城下から江戸へ、江戸から全国へと唄が広がったという筋書きまで用意されている。ちなみに現在の参道は江戸期とは少し変わっていて、斜めに切られた妙な角度の道が残っている。あそこを夕方に歩くと、確かに帰りたくなくなる。
## 発祥地争い、その二:小田原の菅原神社
川越に真っ向から対抗するのが神奈川県小田原市だ。しかも小田原には候補が二つある。ひとつが国府津にある菅原神社。境内には「わらべうた 通りゃんせ 発祥の地」と刻まれた石碑が立っている。ただし説明板の類はほとんどなく、なぜ発祥なのかは石碑を見ても分からない。駐車場もトイレもない小さな神社で、参道も短い。参拝した人が「夕暮れに短い参道を歌いながら歩くと不思議な気分になる」と書き残しているのが妙に印象的だ。境内には天神信仰らしく撫で牛があり、多くの人に撫でられてすり減っている。曽我兄弟隠石という石碑もあって、仇討ち伝承とも結びついている。
## 発祥地争い、その三:小田原の山角天神社
もうひとつが小田原市南町の山角天神社。こちらも石碑があるが、「発祥の地」とは書いていない。あくまで唄との関わりを示すだけ。この控えめさを「奥ゆかしい」と評した参拝者がいて、うまいことを言うなと思った。高台にあって南側の眺めがよく、晴れた日には伊豆の大室山まで見える。境内は狭く、参拝はあっという間に終わる。同じ市内で二社が名乗りを上げている時点で、そもそも「発祥地」という発想自体が後付けなんじゃないか、という気もしてくる。わらべ唄は、どこか一箇所で生まれて広がるものではなく、各地で似たものが同時多発的に育つものだからだ。
## 記録の話:いつから紙に残っているのか
作詞者は不明。成立は江戸時代とされるが、確たる初出を突き止めるのは難しい。近代に入ってからは、本居長世が編曲・作曲したとも、野口雨情の作とも伝えられている。レコードに録音された一九二〇年前後には作者名が記載されるようになった。テレビで全国に定着させたのは一九六九年二月のNHK『みんなのうた』で、東京少年少女合唱隊の歌唱で放送された。つまり、われわれが知っている「通りゃんせ」の旋律とテンポは、実はかなり新しい。江戸の子どもが同じメロディで歌っていたとは限らないのだ。
## 遊びのかたち——門をくぐる子どもたち
遊び方は単純だ。二人が向かい合って両手をつなぎ、高く上げて門を作る。残りの子どもたちは列になって、その門をくぐりながら歌う。歌詞の終わり、「通りゃんせ」の最後の一音で、門役の二人が腕を下ろす。その瞬間に門の下にいた子が捕まる。捕まった子は門役と交代する、あるいは門の後ろに繋がれて次第に列が短くなっていく、という進行が一般的だ。ロンドン橋落ちたと構造がそっくりで、実際この二つはよく並べて語られる。
### 最後に捕まる子は、何なのか
ここが怖い。門が落ちるタイミングで誰が捕まるかは運任せだ。子どもたちはきゃあきゃあ言いながら走り抜けるが、必ず誰かが捕まる。そして捕まった子は「向こう側」に取り込まれる。この構造を、生贄を選ぶ儀式の名残と読む人がいる。選別。ふるいがけ。歌詞の中身が七つの祝いという通過儀礼で、遊戯の中身が誰か一人を選び出す装置だとすれば、両者はきれいに噛み合ってしまう。もちろん実証はできない。だが子どもの遊びは、意味が忘れられたあとも形だけが残る。それが民俗のいちばん不気味なところだ。
## 間引き・人減らし説はどこから来たのか
ネットで最も強い人気を誇るのが間引き説だ。飢饉と重税に苦しむ村では、生まれた子を育てきれないことがあった。七つになる前に「神のもとへ返す」という言い方で、口減らしが行われた地域があったと伝えられる。この文脈で歌詞を読むと、参道は返しに行く道になる。行きは子を連れているから重いが心は保っている、帰りは手ぶらで、その軽さが怖い。「こわいながらも通りゃんせ」は、それでも行かねばならない親への促しになる。かなり出来すぎた読みで、たぶん近代以降に組み立てられた解釈だ。ただ、この説がここまで受けるのは、江戸期の生存率という土台が実際にえげつないからだと思う。人が本当に減っていた時代の唄だ、という事実だけは動かない。念のため書いておくと、こうした慣行を特定の地域に結びつけて語るのは筋が悪い。伝承では、という受け方が正しい。
## 神隠し説と、帰ってこない子ども
もうひとつよく語られるのが神隠し説だ。細い参道の奥は神域で、そこは人の世ではない。七つまで神の内だった子どもが、返礼に行ったまま神の側に留め置かれてしまう。だから帰りが怖い。帰ってこられるとは限らないから。この読みは「行き」と「帰り」の非対称をきれいに説明する。行きは二人、帰りは一人かもしれない。天神様が祟り神としての顔を持つことも、この説と相性がいい。学問の神様という現代的な看板の下に、雷を落として人を殺した怨霊がいる。お札を返しに来た子どもを、その神が気に入ったらどうなるか。
## 埋蔵金、人柱、そのほかネットで膨らんだ説
これ以外にも説はいくらでもある。細道の先に人柱が埋まっているという人柱説。歌詞が埋蔵金の在り処を示す暗号だという説。参道が特定の集落へ通じる一本道だったとする説。最後のものは差別に直結するので扱いが荒っぽく、真に受けるべきではない。共通しているのは、どれも歌詞の空白を埋めようとしていることだ。この唄は情報量が異様に少ない。誰が、いつ、どこで、なぜが全部抜けている。空白があると人は埋めたくなる。「通りゃんせ」の解釈史は、要するに日本人の想像力のログなんだよな。
## 一九七五年、唄は信号機になった
ここからが現代パートだ。一九七五年、警察庁と厚生省、視覚障害者団体、学識経験者らによる委員会が、視覚障害者用の音響信号として二種類のメロディと二種類の擬音を制定した。メロディは「通りゃんせ」と「故郷の空」。擬音は「ピヨピヨ」と「カッコー」。この決定によって、江戸時代のわらべ唄が全国の交差点で毎日鳴り響くことになった。
### なぜ「通りゃんせ」が選ばれたのか
理由は単純で、誰もが知っていて、音数が少なく、電子音に落としても輪郭が崩れないからだ。「故郷の空」がスコットランド民謡系であることを考えると、日本の代表として「通りゃんせ」が入ったのは自然な人選ではある。ただ、通行を促す装置に「帰りはこわい」と歌わせる感覚は、いま考えるとかなり大胆だ。運用は都道府県警でばらばらで、警視庁、山梨県警、大阪府警、福岡県警などがメロディ式を積極的に採用した。中部・近畿・中国四国は擬音式中心で、メロディ式は山梨、大阪、広島くらいだったという。
### 二〇〇三年、唄は追い出された
転機は二〇〇二年の実証実験だ。視覚に障害のある人の半数以上が「擬音のほうが横断方向をつかみやすい」と答えた。メロディは横断方向の手がかりにならない、という当事者の声である。これを受けて二〇〇三年十月、警察庁は今後の設置を擬音式の異種鳴き交わし方式に統一するよう通達を出した。以後、機器更新のたびに「通りゃんせ」は消えていく。二〇〇三年時点で二千基以上あったメロディ式は激減し、二〇二二年三月時点で残るのは十三都道県、三百七基ほど。中国地方では島根に二基、鳥取に一基だけという。神奈川県は二〇一五年に県内の「通りゃんせ」を全廃したと言われている。つまりいま、あの音を聞ける場所は日本にほとんど残っていない。子どものころ毎日聞いていた音が、気づいたら国土から消えていた。この静かな消え方そのものが、けっこう怖い。
## 体験談その一:渡りきれなかった交差点
二〇〇〇年代前半、東京の西のほうに住んでいたという男性の話。彼は当時小学四年生で、塾帰りの午後八時ごろ、いつも同じ大きな交差点を渡っていた。その交差点の音響信号が「通りゃんせ」だった。ある冬の日、青になって歩き出したところで、彼は妙なことに気づいた。音がいつもより遅い。テンポが落ちて、音程が微妙にぶら下がっている。電池が切れかけたおもちゃみたいな鳴り方だった。それでも半分まで渡ったとき、音が「行きはよいよい」のところでぴたりと止まった。信号は青のままなのに、音だけが消えた。彼は横断歩道の真ん中で立ち止まってしまい、渡りきるべきか戻るべきか分からなくなったという。数秒後、音は何事もなかったように「帰りはこわい」から再開した。走って渡り、振り返ったが、交差点には誰もいなかった。翌日その信号は工事中の三角コーンで囲われていて、以後メロディは鳴らず、カッコー音に変わっていた。彼は今でも「あれは機械の故障だと思う、思うんだけど、止まった場所が悪すぎる」と言っている。
## 体験談その二:三芳野神社の参道で
川越を訪れた三十代の女性が、休日の夕方に三芳野神社へ寄ったときの話。本丸御殿を見たあと、時間が余ったので寄っただけで、唄の発祥地だという知識はぼんやりとしか持っていなかった。境内は誰もおらず、社殿の朱色だけが妙に鮮やかだった。碑を読んで「ああ、あの唄か」と思い、鳥居のほうへ戻ろうとしたとき、参道の途中で子どもの声が聞こえた。歌声ではなく、数を数える声だったという。「いち、に、さん」とゆっくり。振り返ったが誰もいない。近くの小学校か公園の声が風で運ばれてきたのだろうと思って歩き出したら、今度は背後で「とおりゃんせ」と一言だけ、はっきり聞こえた。彼女は走って鳥居を抜けた。鳥居を出た瞬間、音は完全に止んだ。あとで調べて、江戸時代の参拝客が帰りに厳しく検められたという話を読み、「あそこは出るときに何かに見られる場所なんだ」と納得したそうだ。ちなみに彼女は御朱印をもらいそびれ、二度目は行っていない。
## 体験談その三:夜勤の病院で流れた唄
これは介護施設で働いていた男性が語ったもの。深夜二時すぎ、彼はナースステーションで記録をつけていた。フロアは静まりかえっていて、聞こえるのは加湿器の音くらい。そこに、廊下の奥からオルゴールのような音が流れてきた。「通りゃんせ」だった。施設に音の出るおもちゃはない。音楽療法で使うCDプレイヤーは別の階の鍵付き倉庫にある。彼は懐中電灯を持って廊下を歩いた。音は突き当たりの空き部屋から聞こえていた。前月まで入居者がいたが亡くなって以来、誰も入っていない部屋だ。ドアを開けると音は止み、部屋には何もなかった。ベッドのマットレスだけが剥き出しで、窓の外は真っ暗。戻ってから同僚に話すと、その同僚は顔色を変えずに「あの部屋、前にもあったよ」と言ったという。彼はその後まもなく転職した。転職先の施設では、そういう話は一度も聞かなかったそうだ。
## 掲示板とSNSは、この唄をどう扱ってきたか
ネット上で「通りゃんせ」が定期的に燃えるのには波がある。二〇〇〇年代前半、匿名掲示板の怖い話系スレッドで「実は間引きの唄」というコピペが大量に貼られ、まとめサイト経由で一般層まで届いた。二〇一〇年代に入るとオカルト系ブログや動画考察が台頭し、川越説と小田原説を対決させる構図が定番になる。近年はショート動画で「怖い童謡」として切り抜かれ、歌詞の一部だけを不気味なアレンジで流す形式が定着した。面白いのは、どの時代も新説が出ているわけではないことだ。関所説、間引き説、神隠し説、この三つがずっと回り続けている。ただしメディアの器が変わるたびに、届く層が入れ替わって、初めて聞いた人が同じように震える。都市伝説の寿命が長いのは、内容が更新されるからではなく、聞き手が入れ替わるからなんだよな。
## 主要な説と、その反証
関所説の弱点は、川越城内での参拝という限定的な状況が、なぜ全国のわらべ唄になれたのかを説明しづらい点だ。城下から江戸へ広がったという筋書きはあるが、決め手になる記録は乏しい。間引き説の弱点は、歌詞に間引きを直接示す語が一つもないことだ。「お札を納めに」は明確に儀礼の言葉で、口減らしの隠語だったとする証拠はない。神隠し説は情緒としては最も強いが、これも後代の読みだ。疲労説は言語学的にいちばん堅いけれど、「こわい」を疲労の意味で使わない地域でもこの唄が歌われてきたことを説明しきれない。要するに、どの説も完全ではない。完全な説がないから語り継がれる、という循環が起きている。
## なぜこの唄はこんなに怖いのか
理由は三つあると思う。ひとつは、子どもが歌うということ。無邪気な声で不吉な内容が歌われるとき、人は最も落ち着かない気分になる。ふたつめは、行きと帰りという時間構造だ。この唄は未来を予告している。まだ起きていない恐怖を、これから起きると宣言している。予告された恐怖は、起きた恐怖より粘つく。三つめは、遊戯としての反復だ。歌詞の意味を知らない子どもが、毎日毎日、門をくぐり、誰かが捕まる。意味を知らないまま形だけが正確に受け継がれる。この「意味なき正確さ」が、いちばん怖い。
## 恐怖を作っているのは歌詞じゃない、聞いている本人だ
ここまで書いてきて、あらためて思うのは、「通りゃんせ」という唄が異常に効率のいい恐怖装置だということだ。歌詞はたった百字ほど。登場人物は名前すら与えられていない。舞台も「天神様の細道」という以外に指定がない。それなのに、この唄は聞いた人間の頭のなかで勝手に物語を組み立てさせる。細道の幅、木漏れ日の量、子どもの背丈、母親が握る手の湿り気。全部、聞き手が埋める。恐怖の作り手は歌詞ではなく、聞いている本人なんだよな。ホラー作品でよく言われる「見せないほうが怖い」の完成形が、江戸時代のわらべ唄にすでにあったことになる。
そしてこの唄には、時間の落とし穴がある。行きと帰りという二つの時制を、四十秒足らずのなかに入れてしまったことだ。ふつうの怪談は「起きたこと」を語る。この唄は「これから起きること」を語る。しかも、起きることの中身は言わない。ただ「こわい」とだけ言って、続けて「こわいながらも通りゃんせ」と背中を押す。危険だと分かっていて、それでも行かせる。この構造は、実は人生の通過儀礼そのものだ。七歳になれば神の庇護は外れる。外れることを親も本人も止められない。守られた側から守られない側へ、境界を一方通行で越えていく。境界を越える儀式が怖くない社会など、たぶん存在しない。
発祥地争いについても、ひとつ言っておきたい。川越の三芳野神社にも、小田原の菅原神社にも山角天神社にも、それぞれ石碑が立っている。三つとも「うちが発祥」と言う。研究者はどれも決定打を欠くと言う。だが、この状況こそが唄の正体を教えてくれている気がする。わらべ唄は、ひとつの起源から枝分かれするのではなく、似た条件の場所で似た形が独立に育ち、あるとき互いに影響し合って一つに収束する。細い参道があり、七つの祝いがあり、行きと帰りで気分が変わる。その条件は日本中どこにでもあった。だから日本中で似た唄が生まれ、いつしか同じ歌詞に落ち着いた。発祥地が複数あるのではなく、発祥地という概念が最初から成立しないタイプの唄なんだ。
最後に、信号機の話に戻る。この唄がいちばん多くの日本人の耳に届いたのは、江戸でも明治でもなく、一九七五年から二〇〇三年までの二十八年間だったはずだ。全国二千基以上の交差点から、毎日、朝も夕方も夜も、あの旋律が流れ続けた。当時の子どもは歌詞の意味など考えず、ただ渡っていた。そして二〇〇三年の通達以後、その音は静かに消えていった。いま残るのは三百基あまり。あと十年もすれば、実質ゼロになるだろう。つまり、われわれは「通りゃんせ」を毎日聞いていた最後の世代の、そのまた最後の尻尾にいる。この唄は、行きはよいよい、帰りはこわいと歌いながら、自分自身が帰らない道を歩いていったことになる。門をくぐって、腕が下りて、捕まって、向こう側に連れていかれた。夕方の交差点で、もう誰も引き止めなかった。そう思うと、あの間延びした電子音を最後に聞いたのがいつだったか、思い出せないことがやけに落ち着かない。あなたは、覚えているだろうか。
通りゃんせ――「行きはよいよい 帰りはこわい」、七つの祝いに何が起きていたのか
