日照りが続くと、村はまず祈った。神社にこもり、僧を呼び、太鼓を叩いて踊った。それでも降らないと、次の手に出る。山の上で火を焚き、煙を空へ押し上げて雲を呼ぼうとした。それでも降らない。田は割れる。稲は立ったまま枯れていく。年貢は待ってくれない。
そこから先が、この記事の話だ。
村は最後に、神を怒らせにいった。
清らかであるほど霊験があるとされてきた池に、汚物を投げ込む。滝壺に獣の骨を沈める。誰も入ってはいけない淵に牛の生首を放り込み、その切り口から流れる血を岩に垂らす。水神は穢れを何より嫌うから、怒って暴れる。暴れれば風が起き、雲が湧き、雨が降る――そういう理屈だ。
祈るのではない。脅すのでもない。挑発するのだ。
雨乞いには三つの流儀があって、露骨に喧嘩腰なのは一つだけだ
日本の雨乞いは、大きく分けると五つほどの型に整理される。神社や寺に籠もって祈願するアマゴモリ。霊験のある社寺や淵から水や火種をもらってきて、自分の村の田や池に持ち込む「もらい水」「貰い火」。山頂で盛大に火を焚く千把焚き。鉦と太鼓を鳴らして踊る雨乞踊。そして、神聖なものへの禁忌をあえて破って神を怒らせる型。
ざっくり三つに束ねると、祈願型、共感呪術型、そして神を怒らせる型になる。
祈願型はわかりやすい。神職や僧侶が正規の作法で降雨を願う。国家がやれば大掛かりな祈雨儀礼になるし、村がやれば氏神への参籠になる。行儀がいい。
共感呪術型は理屈が面白い。似たものは似たものを呼ぶ、という発想だ。煙は雨雲に似ているから火を焚く。鉦の音は雷鳴に似ているから鳴らす。水は雨そのものだから、かけ合う。柄杓で参列者に水をぶちまける、川面を幟で叩く、藁の龍を池に沈める。全部これだ。天に向かって「こういうのが欲しいんです」と実演してみせる、いわば見本市である。
問題は三つ目だ。
普段は絶対に汚してはならないとされている場所を、わざと汚す。地蔵を縄で縛り上げて川に沈める。叩く。神社にいたずらをする。淵に牛馬の内臓を投げ込む。民俗学の整理では青森、秋田、福島、長野、岐阜、和歌山、兵庫あたりに濃く分布するとされるが、実際には九州から東北まで、日本中に散らばっている。
兵庫県姫路市を流れる夢前川の水源地に、亀ヶ淵という場所がある。ここは昔から「汚せば必ず雨が降る」と信じられていた。この評判が農民以外にも広まって、天候に商売を左右される相場師や投機筋が、牛馬の内臓を投げ込みに来たという記録がある。天候が荒れれば米相場が動く。だから金のために神を怒らせに来る奴がいた。村はたまらない。干天の日には見張りを立てて、淵を守った。
守るというのが妙な話だ。降ってほしいのは村のほうなのに、勝手に降らされるのは困る。雨乞いというのは、そのくらい「使いどころ」を選ぶ危険な技術だったということになる。
空海が神泉苑で龍を呼んだ話は、たぶん空海の話ではない
雨乞いの記録をさかのぼると、日本ではどこまで行けるのか。
年代記に残るものとして最も古いとされるのは、平安末期成立の『扶桑略記』に載る推古天皇三十三年、西暦六二五年の記事だ。高麗僧の恵灌に命じて雨を降らせた、とある。ただしこれは仏教が雨乞いを持ち込んだという話であって、それ以前の日本人が雨を祈らなかったわけではない。
より生々しいのは『日本書紀』皇極天皇元年、六四二年七月の条だ。日照りが続いたので、村々の祝部の教えるところに従って牛馬を殺して諸社の神を祭り、しばしば市を移し、河伯に祈った。だが効果はなかった。そこで蘇我蝦夷が諸寺で大乗経典を転読させたが、これも小雨止まり。八月になって皇極天皇自身が南淵の河上で四方を拝して天を仰いだところ、たちまち雷雨が五日続いた――そういう筋書きになっている。
ここで注目すべきは、牛馬を殺す方法が「効かなかった側」として書かれていることだ。しかも「村々の祝部の教えるところに従い」とわざわざ断ってある。つまり中央の正式な神祇祭祀ではない、在地の民間呪術という扱いなのだ。市を移す、河伯に祈るというのも中国由来の作法で、この一群はまとめて大陸風の祈雨だと見られている。
そしてこの殺牛は、国家から明確に禁止される。『続日本紀』延暦十年、七九一年九月十六日の条に、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊の百姓が牛を殺して漢神を祭ることを断ずる、とある。同日付の『類聚三代格』では、違反者には故殺馬牛罪を科すとされた。これは馬牛を故意に殺した罪で、徒一年、つまり懲役一年に相当する重い罪だ。それでも止まらなかったらしく、延暦二十年、八〇一年四月八日には越前一国に対して重ねて屠牛祭神が禁じられている。同じ国に二度出すというのは、要するに一度目が効かなかったということだ。
漢神というのは、大陸から渡ってきた祟る神のことだ。『日本霊異記』中巻第五縁には、聖武天皇の時代、摂津国東生郡撫凹村の富裕な家長が漢神の祟りを逃れようと毎年牛を一頭ずつ、七年で七頭殺して祭ったという話が載る。祭り終えた途端に重病になり、死んだ。冥途で牛頭人身の七人に縄をかけられ、閻羅王の前に引き出され、「我らを殺して切り刻んだように、お前も膾にしてやる」と迫られる。この説話から、殺牛の作法が「牛の肉を膾にして神に供え、祀る側も食べる」ものだったことが読み取れる、と指摘されている。
牛は当時、農耕の要だ。人に代わって働き人に養われる、と天平十三年、七四一年の詔にもある。それを一頭殺すというのは、いまの感覚でいえばトラクターを燃やすようなものだ。それを七年連続でやる。よほど追い詰められていたか、よほど深く信じていたかのどちらかである。
さて、雨乞いといえば必ず出てくるのが空海だ。
天長元年、八二四年。長引く旱魃に困った淳和天皇が、西寺の守敏と東寺の空海に祈雨を命じた。守敏が七日修法しても効果薄。次いで空海が神泉苑で修法するが、一滴も降らない。調べてみると、空海の名声を妬んだ守敏が国中の龍神を瓶に閉じ込めていた。ただ一体、天竺の無熱池にいる善女龍王だけが難を逃れていたので、これを勧請したところ大雨が降り、国中が潤った。逆恨みした守敏が空海に矢を放つと、地蔵菩薩が現れて代わりに受けた――京都の羅城門跡近くにある矢取地蔵は、これに由来するとされる。
いい話だ。あまりにも出来がいい。
近年の研究では、この神泉苑での空海請雨は史実ではなく、空海の死後に作られた伝承説話だとされている。籔元晶『雨乞儀礼の成立と展開』(岩田書院、二〇〇三年刊)の第二章第一節が、この成立過程を丁寧に追っている。最古の記述は寛平七年、八九五年成立の『贈大僧正空海和上伝記』で、そこには「天長年中に旱災あり、天皇が和上に勅して神泉苑で膏雨を祈らせた、自然と滂沱たり、その功により少僧都に任ぜられた」とあるだけだ。年が天長元年に特定され、善如龍王の勧請が加わり、守敏との験比べが付け加わっていくのは、その後の増広の過程である。記録の上で神泉苑で最初に雨乞いを行ったのは、貞観十七年、八七五年の真雅和尚とされる。
つまり、日本の雨乞いを象徴するもっとも有名なエピソードは、後から盛られた。にもかかわらず、この話は千二百年生き残った。人は事実より、よくできた物語を選んで運ぶ。この記事の後半で扱う話にも、まったく同じことが起きる。
牛の首を投げ込むという作法は、どこまで本当にやられていたのか
ここからが本題だ。
各地の雨乞い習俗を体系的に集めた仕事として決定版とされるのが、高谷重夫『雨乞習俗の研究』(法政大学出版局、一九八二年)である。この本には、池や泉に牛馬の糞や不浄の物を入れて雨の神を怒らせる型が、独立した類型として立てられている。同じ著者は一九七三年、『近畿民俗』通巻五十八号に「雨乞の一方法――汚穢による雨乞――」という論文も出している。汚穢による雨乞い。身も蓋もないタイトルだ。
高谷が集めた事例を、地域ごとにいくつか拾ってみる。
大阪では、箕面の滝に白馬の首を投じたという記録が安永七年、一七七八年と嘉永六年、一八五三年に。箕面の平尾前池には牛の首。豊中市長興寺では牛の首と血。兵庫では、武庫川支流の惣川に牛の首を投げ込んだ事例が大正十二年、一九二三年と昭和十四年、一九三九年に。生瀬の高座岩には黒犬の血、あるいは白馬の血。同じく生瀬の奥の滝に牛の首を投じたのが文政三年、一八二〇年。三田市下田中で明治十六年、一八八三年。三田市青野で牛の首と血。姫路の夢前でも牛の首。
年号の並びを見てほしい。江戸中期から昭和十四年まで、切れずに続いている。これは「大昔の野蛮な話」ではない。日中戦争のさなかまで生きていた作法だ。
兵庫県宝塚市の事例は、報告がとくに具体的だ。一九四一年に『民間伝承』六巻五号へ尾崎一雄が寄せた「宝塚の雨乞い式」によると、滝の落ち口の脇にある龍神岩に牛の生首を供え、その生き血の滴りが岩に落ちるようにする。血が岩に注がれると龍神が怒り、雨を降らせ風を起こす、とされていた。供えるが、喜ばせるためではない。汚すために供える。祭祀の形をした挑発だ。
同時代の新聞も、これを報じている。昭和十四年八月三十一日付の大阪朝日新聞に、こんな記事が載った。少女歌劇の宝塚にほど近い兵庫県川辺郡小浜村川面部落では、旱魃のとき武庫川支流の惣川上流に牛の生首を投げ入れて雨乞いすれば雨が降るという言い伝えがあり、三十日にこれを行った。「雨請」と書いた長旒を先頭に、百姓たちが牛首と牛血を入れたブリキ缶を担いだ――記事は最後に「グロな雨乞ひ」と書いている。
ブリキ缶、というのが来る。時代が一気に近づく。少女歌劇のレビューが上演されている街のすぐ隣で、ブリキ缶に牛の血を詰めて山へ運ぶ行列が組まれていた。昭和十四年は全国的な大干ばつの年で、西日本と中部日本の被害面積がとりわけ広かった年でもある。
こうした習俗を全国規模で追った本に、筒井功『殺牛・殺馬の民俗学』(河出書房新社、二〇一五年)がある。池、淵、滝壺といった水辺で牛を屠り、その首と血を流し入れる儀礼が、西日本を中心に広く行われていたことを追跡した仕事だ。この本が繰り返し強調するのは、記録の乏しさである。口外をはばかる傾向が強かったことが、記録の少なさにつながっている。秘密性の高い祭祀であり、秘義とみなされていたことは間違いない――そう書かれている。
ここが重要だ。この習俗は、やった側が隠したがった。だから資料が薄い。資料が薄いから「本当にあったのか」と疑われる。疑われるからさらに神秘化する。この循環が、後で述べる怪談の話につながっていく。
昭和十四年、ある夏の日の雨乞いを、資料から組み立て直してみる
以下は、複数の報告に残る要素を突き合わせて、当時の一日を再構成したものだ。特定の集落の記録そのものではなく、同時代の各地の記述から復元した「典型」として読んでほしい。
八月の下旬。梅雨明けから四十日以上、まとまった雨がない。溜池の水位は取水口の下まで落ちて、池底のひび割れが半分ほど顔を出している。稲は葉が巻いて、朝でも開かない。
前の晩、村の寄合が開かれる。すでに氏神への参籠は済ませてある。三日三夜と決めて交代で詰めた。降らなかった。次に太鼓と鉦を持ち出して、境内で夜通し囃した。これも降らなかった。子どもたちは学校から帰ると、井戸から釣瓶で水を汲み、やかんと土瓶に移して、一株ずつ稲の根元にかけて歩いている。焼け石に水だとみんなわかっているが、やらないと落ち着かない。
寄合で最後の手が決まる。年長の者が言い出し、若い者が黙ってうなずく。誰も大声では喋らない。
当日は午前二時から三時に集合。参加するのは成人男性だけで、二十人から三十人ほど。蓑と笠、わらじ。夏の夜中に蓑笠というのは異様な格好だが、これは雨を待つ姿を先に作っておく所作でもある。降ることを前提にした身なりで出かける。
先頭に「雨請」と墨書した細長い旗を掲げる。次に鉦。次に太鼓。太鼓は首から縄で吊るして腹に抱える。その後ろに、ブリキ缶を天秤棒で担ぐ二人。缶の中身については、道中誰も口にしない。屠場から譲り受けたものを、朝のうちに村外れまで運んでおいたのだ。
山道は暗い。松明を一戸につき一把か二把、持ち寄っている。火の粉が背中に落ちる。汗が蓑の内側にたまる。風はない。空は星が刺すように光っていて、それがまた腹立たしい。
水源の谷に着くのは夜明け前だ。ここは普段、村の者でさえ滅多に入らない。木を伐ってはならない、糞をしてはならない、女は入ってはならない――禁忌がいくつも重ねられた場所である。滝の落ち口の脇に、平たい岩が突き出している。龍神岩と呼ばれている。
ここで、それまで無言だった行列が急に賑やかになる。鉦が鳴る。太鼓が鳴る。誰かが大声で唄い出す。「雨たもれ、たもれ」。地面すれすれに太鼓を左右へ振って、足を交互に高く上げて叩く。踊りというより、地面を踏み荒らす動きに近い。神域で騒ぐこと自体が、この日は目的なのだ。
そして缶が開けられる。
首を岩の上に据え、切り口を下に向ける。血が岩の面を伝って、滝壺へ落ちていく。落ちた瞬間、太鼓が一段と激しくなる。誰も「お許しください」とは言わない。言ったら台無しだ。この儀式は、非礼を非礼のまま届けることに意味がある。
作法を終えると、村人は下山する。振り返ってはいけない、という条件を付ける土地もある。口外してはいけない、と言い渡す土地もある。静岡の沼の伝承では、儀式を口外すれば雨は降らないとはっきり言われていた。喋ったら効かない。だから記録が残らない。
麓の寺に戻ると、住職たちが大般若経を転読している。表と裏、両方を用意しておくのだ。神を怒らせる係と、仏に取りなしてもらう係。同じ村の同じ人間が、同じ朝に両方をやる。
その日の午後、積乱雲が立った――と、多くの記録は結ばれている。降らなかった記録は、そもそも語り継がれない。だから雨乞いの伝承はいつも成功譚になる。この非対称は覚えておいたほうがいい。
東北の潟は、馬の骨を投げ込まれることを警戒していた
「神を怒らせる型」の分布は、西日本に偏っていると言われることが多い。だが記録を当たると、東日本にも東北にも普通にある。
秋田の事例が興味深い。一九六九年の報告によると、雨が降らないとき、仁鮒の集落は田代潟や八森神社の滝などに参った。作法は共通していて、馬の骨を水中に投げ、主を怒らせて雨を乞う。ここまでは他と同じだ。
問題は続きだ。効きすぎて大雨が降るので、田代では馬の骨を投げ込まれることを警戒していた、と書かれている。
投げる側と投げられる側がいる。上流の水源を持つ集落からすれば、下流の連中が勝手に骨を投げに来るのは迷惑千万だ。降るのはいいが、降りすぎたら自分たちの田が流れる。姫路の亀ヶ淵で村が見張りを立てたのと同じ構図が、東北の潟でも起きていた。雨乞いは村の内側だけで完結しない。水系全体を巻き込む、一種の実力行使なのだ。
岩手では一九二九年の報告として、盛岡近くの村で日照りのとき岩手山に登り、オカマやオナシロと呼ばれる場所に牛馬の骨を投じた、とある。これによって神が怒り、雨を降らせるという。
長野の事例には、正直すぎる一節がある。一九五六年、伊那郷土史学会の会誌『伊那』通巻三三九号に中島繁男が寄せた「雨乞い」という報告だ。南佐久郡の話として、雨乞いのために馬の骨を滝に投げ込んだ。ところがすぐに降り出したので、怖くなって雨宿りをした――と書いてある。
怖くなって、雨宿り。
これは笑ってしまうが、笑ったあとで背筋が寒くなる。効いたのだ。彼らの実感としては、確かに効いた。そして効いた瞬間、自分たちが何をしたのかを理解してしまった。この滝壺には主の大鯰がいるとされ、いじめるために石灰を流し込んだり焼き石を投げ込んだりもしたという。石灰と焼き石。もはや呪術というより攻撃である。
富山では、雨乞い淵と呼ばれる三枚滝に小石を投げると主の蛇が怒って雨が降るとされ、上市町の千石では金物や馬の首を投げ入れた。蛇は金物を嫌うから、古鎌を投げ込むという型もある。広島では、竜王山の麓の蛇淵を汚せば必ず雨が降るというので、牛馬の骨を投げ込んだ。山梨では、四尾連湖に牛の頭を入れると雨が降ると言われていた。これは一九五九年に山梨民俗の会の『ひじろ』四号で池田俊平が報告した「市川大門町聞書」に載る。神奈川では、法印を先頭に雨乞岳へ登って祈願し、帰りに黒滝へ木の枝を投げ込むと竜神が怒って雨を降らす、という形だった。木の枝というところに少し柔らかさがあるが、原理はまったく同じだ。
熊本の阿蘇からも報告がある。一九三五年、『旅と伝説』通巻八十九号に八木三二が書いた「阿蘇郡の雨乞ひ」によれば、泉水山へ鳴り物を先頭に一同異様な格好をして向かい、源泉付近で騒いだり、水に物を投げ込んで龍神を怒らせた。これを地元では「神様に悪戯する」と言った。
悪戯。ワザ、と読ませている。神への悪戯という言い方が、この型の本質を一番よく言い当てているかもしれない。破壊ではなく、いたずら。相手を本気で怒らせるためには、殺意より悪意のほうが効く。
讃岐では踊り、埼玉では三トンの龍を担いだ
汚す型ばかり見ていると偏るので、他の型もきちんと見ておきたい。同じ村が同じ夏に、順番に全部やるからだ。
香川県まんのう町佐文に伝わる綾子踊は、雨乞いの祈願を本旨とした風流踊である。昭和五十一年、一九七六年五月四日に国の重要無形民俗文化財に指定され、令和四年、二〇二二年十一月三十日には「風流踊」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録された。四国で初のユネスコ登録だった。
起こりの伝えはこうだ。干ばつに苦しむ村の様子を、綾という女性が旅の僧に話した。僧は龍王に願いをこめて雨乞い踊りをすれば雨が降ると教えた。村人と綾夫婦が鉦鼓と太鼓に合わせて踊ったところ、一瞬にして滝のような雨が降った。以来、水不足のたびに綾が踊ると雨が降ったので、誰ともなく綾子踊と呼ぶようになった。
踊りの次第は、まず棒振りと薙刀振りが踊り場の四方を祓い、問答を行う。花笠に羽織袴、大団扇を持った芸司が口上を述べ、踊りが始まる。曲目は「水の踊」「四国船」「綾子踊」「忍びの踊」など十二曲。踊り手は小踊、大踊、側踊に分かれ、小踊と大踊はみな女装の男子で、その芸態には初期歌舞伎踊の面影が残るとされる。もともとは干ばつ時に臨時で行う不定期の行事だったが、現在は隔年、八月末から九月初めの日曜に加茂神社へ奉納されている。
埼玉県鶴ヶ島市の脚折雨乞は、規模で圧倒してくる。
麦わらと孟宗竹と荒縄で作る蛇体を「龍蛇」と呼ぶ。竹八十本、麦わら五百七十束を使い、長さ三十六メートル、重さ約三トン。頭の高さは四メートル五十センチ、開いた口の直径は一メートル六十センチ。これを開催のたびに一から作る。
当日、白鬚神社の前で入魂の儀を行うと、藁の造形が「龍神」になる。約三百人の男たちが担ぎ、善能寺を経由して雷電池まで約二キロを練り歩く。池に着くと、担ぎ手は龍神とともに入水し、「雨降れたんじゃく、ここに懸かれ黒雲」と叫ぶ。最後は一斉に解体され、頭部の金色の宝珠は縁起物として奪い合いになる。
この行事には筋の通った由来がある。もともと雷電池には雷と雨をつかさどる大蛇が棲んでおり、ほとりの雷電社に祈れば必ず雨が降ると言われていた。ところが寛永年間の新田開発で池が狭くなり、大蛇は上州板倉、いまの群馬県邑楽郡板倉町へ移ってしまった。以後は雨乞いが効かなくなる。そこで板倉の雷電神社で降雨祈願をし、そこの池の水を持ち帰ったところ、たちまち空が曇って雨が降った――という話だ。新田開発で池が縮み、神が引っ越したという言い方が生々しい。開発は水の恵みを増やしながら、同時に何かを追い出していく。
脚折雨乞は昭和五十一年、一九七六年八月一日に市指定無形文化財、平成九年、一九九七年三月十八日に埼玉県の選択無形民俗文化財、平成十七年、二〇〇五年二月二十一日に国の選択無形民俗文化財となった。
香川県三豊市仁尾町の雨乞い竜も負けていない。寛政十一年、一七九九年の大干ばつが起こりとされる。雨乞い行者として知られた和蔵という人物に村人が祈祷を頼むと、龍を作って海に流せばよいと答えが返ってきた。稲わらで大きな龍を作り、村中を練り歩き、沿道の人々が貴重な残り水をかけ、浜から海へ流した。和蔵は社の前で祈り続けた。その夜、黒雲が湧き、雷光とともに大粒の雨が降った。以後、仁尾では大干ばつのたびに藁の龍を作る神事が行われる。昭和十四年を最後に途絶えたが、昭和六十三年、一九八八年の瀬戸大橋博覧会を機に約五十年ぶりに復活し、いまは毎年八月の祭りとして続いている。「そぉれ、雨乞いじゃ」「そぉれ、竜に水あぶせ」の掛け声で、担ぎ手にも龍にもバケツの水が浴びせられる。
岐阜県山県市の伊自良に伝わる雨乞いは、三つの型を全部やる総合力が特徴だ。まず各地区が別々の晩に、松明を持ち蓑笠をつけて氏神に集まり、火を焚く。鉦と太鼓を叩き、雨乞い音頭を唄いながら火の周りを回る。それでも降らないと、村長が全地区に召集をかけ、午前二時三時に釜ヶ谷の山頂へ集める。刈った青柴を一箇所に積み、十地区の区長が一斉に火を付ける。青い柴は恐ろしいほどの煙を上げる。これが千把焼だ。さらに「竜廻し」がある。長さ五間、胴回り四尺五寸ほどの竹細工の龍を雌雄二尾こしらえ、完成すると腹に本物の蛇を入れて精を込める。夜明け前、六本の支え柄で高く掲げ、地区の境界ごとに受け渡しながら川原を伝って登り、水源の淵に龍を納める。
祈って、燃やして、担いで、沈める。使えるものは全部使う。効くかどうかより、やり尽くしたという事実のほうが村には必要だった。
千把焚きは、煙で雲を作るという発想の到達点だ
火を焚く型は、全国でもっとも広く分布する。長野県上田市などに伝わる千駄焚き・百八手は、日照りの年に山頂やため池の土手で松明を灯し、藁束に火をつけ、「雨降らせタンマイナ」と唱えた。祈りの言葉と方法は、集落ごと、ため池ごとに少しずつ違う。
滋賀の伊吹山麓では、山頂前で松明をつがえて千把焚きを行った。番場では三日三晩祈願して雨がないと、龍宮山の頂上で付近の木を伐採して大火を焚いた。その火は長浜からも見えて、「番場の雨乞い祈願だ、いまに雨が降る」と期待されたという。
大分県豊後高田市では、昭和三十三年、一九五八年に未曾有の大干害となり、八月に猪群山で千把焚きが行われた記録が広報に残る。同じころ屋山でも行われ、写真が残っている。猪群山では神社で祈祷したあと、屋山では寺の住職の祈祷とともに火が焚かれた。神仏習合の国東半島らしい風景だ。
国東半島にはもう一つ、面白い型がある。潮汲みだ。干ばつのとき、川や海の水を汲んで持ち帰り、神域や家庭に供えたり撒いたりする。田染荘では、軽いうちは近くの川で汲む。深刻になると下流の鎧淵で潮汲みをする。それでも降らないと、行列を組んで海の玄関口まで行き、船を出して神主が祈祷しながら大潮汲みをした。この行列には修正鬼会でおなじみの鬼が登場し、鬼が暴れるほど雨が降るとされていた。
そして最終手段が川勧請だ。竹筏を作り、神輿を乗せて鎧淵に繰り出す。雨が降るまで神輿は川の中に浮かべたまま、川岸でお籠もりを続ける。聖なるものを水に漬けて龍神に迫る。昭和四年、一九二九年に実施され、そのときの写真と、様子を描いた絵馬が地元の八幡宮に残っている。
和歌山県北部の雨乞いを二十年以上かけて調査した研究では、この地域の事例が社寺での祈祷、神仏や宝物を持ち出しての祈祷、川や滝での祈祷、水にまつわる山での祈祷、火振り・火焚き、相撲などの芸能に分類されている。一つ目で降らなければ次、次でも降らなければその次、と積み上げていく。火焚きには修験者の柴燈護摩の影響が強く見られ、高野山の灯明から火をもらう習俗は江戸中期に広まった可能性が高いという。
水は足りないほうが普通だった――そして人が死んだ
雨乞いが「祈り」の話に見えるのは、水争いを見ていないからだ。
伊予、いまの愛媛県松山市南部の一帯には、麻生水論という長い争いの記録が残っている。重信川から取水する二本の用水路が並行して走り、しかも一方が一箇所で他方の上を掛樋で横切っていた。堰を止めれば下流五か村が干上がる。関係する村々の領主も、大洲藩、新谷藩、松山藩、天領とばらばらだった。干天の年には、ほぼ必ず争いが起きた。
元禄十六年、一七〇三年に端を発し、享保九年、一七二四年の干ばつでも争論となり、定法を定めて一度おさまった。宝暦以後は頻発する。宝暦五年、一七五五年の大干ばつでは双方二百人あまりの投石闘争。宝暦十二年、一七六二年には八百人対二百人の衝突まで起きた。
決定的だったのが明和八年、一七七一年である。この年も大干ばつだった。六月八日、七百人の集団が古樋井手を切り落とし、矢取川で乱闘となった。即死六、七十人と噂が飛んだが、実際の死者は二名だった。それでも天領から死者が出たため、藩は幕府に公式に届け出なければならなくなる。同年十二月十五日、勘定奉行から関係者を備中代官所へ差し出すよう命令が下り、翌明和九年二月、庄屋・組頭・百姓代ら三百八人が備中へ出頭した。
上下両麻生村の者は最初から加害者扱いで牢に入れられ、一年以上投獄された。乱闘の最中に誰が発議者かなど、わかるはずがない。白状のしようもない。審理が長引くなか、下麻生村の組頭・兵右衛門が「発議者は自分だ」と名乗り出た。安永三年、一七七四年二月二十三日、倉敷で判決。兵右衛門は死罪、他は重追放・村追放・科料。刑は即日執行された。
村を代表して一人が死ぬ。水のために。
こうした話は特別ではない。九十九里平野の水争いは、江戸時代から昭和までに訴訟を伴う大きなものだけで五十数回記録されている。明治二十七年、一八九四年には栗山川の水をめぐって両岸の農民二百数十名が、鍬、鋤、竹槍、日本刀、仕込杖を手に白装束で激突し、二人の犠牲者が出た。長野の梓川では大正十三年、一九二四年の日照りで両岸の農民が鎌や棒を持って対峙し、投石と殴り合いの末に多数の警官が出動した。摂津では文禄元年、一五九二年の新堰をめぐる争いで六人が死亡し、庄屋七人が京都四条河原で斬罪となったと記録されている。
こういう世界に、雨乞いは置かれていた。
神を怒らせる雨乞いが「非合理」だという批判は、たぶん半分しか当たっていない。効くかどうかは別にして、あれは村がやれることを全部やったという証明でもあった。全部やった、それでも降らなかった、だから隣村の堰を切るしかない――その順序が、共同体の中で言い訳として機能する。宗教と実力行使は、地続きに並んでいたのだ。
雨乞いを本気で怖がっていたのは、神ではなく村人のほうだった
ここからは、記録に残る怪異譚をいくつか腰を据えて紹介したい。どれも短い報告だが、読み込むほどに気味が悪くなる。
一つ目は、さっき少し触れた長野の話だ。
一九五六年、伊那郷土史学会の会誌に載った報告の一節である。南佐久郡のある集落で、雨乞いのために馬の骨を滝に投げ込んだ。作法どおりだ。主を怒らせるための骨だから、丁重に扱う必要はない。放り込んで、退散する。
ところが、すぐに降り出した。
ここが恐ろしい。彼らは雨を望んでいた。何日も望んでいた。それが目の前で叶ったのに、記録はこう続く。怖くなって雨宿りをした、と。
つまり彼らは、雨を喜ばなかった。喜べなかった。あまりに反応が早すぎて、「聞いていた」ことがわかってしまったからだ。滝壺の主は本当にそこにいて、骨が沈むのを見て、怒った。その事実だけが確定した状態で、彼らは雨の下に立っている。同じ滝壺には、主として大鯰がいるとされていた。村人はこの鯰をいじめるために、石灰を流し込んだり、焼き石を投げ込んだりもしたという。焼けた石を淵に投げる。想像すると、水の中でじゅっと音がする。その音を聞いた回数だけ、彼らは相手の存在を確認していたことになる。
二つ目は、岐阜の竜骨の話だ。
揖斐郡揖斐川町の六所神社には、竜骨と呼ばれる宝物が伝わっていた。竜骨というのは、多くの場合は化石や大型動物の骨だが、地元では龍の骨とされ、雨乞いに霊験があるとされていた。この種の宝物は各地にあって、群馬県前橋市富士見町の赤城山上、常光寺の竜骨もその一つだ。赤城神社の水を受けてきて、盥に竜骨を入れて水をかけると雨が降る、とされていた。
揖斐川の六所神社の竜骨も、同じように「出せば降る」と言い伝えられていた。ある旱年、村はこれを持ち出した。
言い伝えのとおり、大雨になった。
そして、止まらなかった。ついに洪水になった。
報告はここで終わる。以後、竜骨は封印してしまいこんである、と。
この結末が個人的に一番こたえる。呪具は壊されていない。捨てられてもいない。効くとわかっているから、封をして保管されている。いつでも使えるが、二度と使わない。そういう物が、いまも日本のどこかの社の奥にある。
三つ目は、明治の若者たちの話だ。高知市春野の郷土資料に採録されている。
岐の谷の東側の山を鼓鳴山という。真夜中にこの山から鼓の音が聞こえてくると言い伝えられていた。頂上近くには不入権現と呼ばれる小さな社があり、昔から女性がこの山に入ると大雨になると言われていた。
明治十四、五年ごろ、長い日照りが続いたので、集落の若者十人ほどが山に入り、社の前で雨乞いをすることになった。日が暮れて暗闇が迫るなか、一番年長の柳井馬次という人が祈りを始めた。一同はしばらく神妙に頭を下げていた。
そこは若者のこと、一人が面白半分におならをした。
一同が吹き出した、その瞬間である。背筋を何かが走る気配がして、あっと思う間もなく、全員が二メートルほど下の平地へ放り出された。あとは何がなんだかわからない。気がつくと、みんなは下の平地の楊梅の木の根元に倒れていた。馬次さんだけが元の場所に残り、切れぎれの声で祈りを続けていたという。
これは笑い話の顔をして始まって、途中から急に別のものになる。しかも構造が皮肉だ。ここで彼らがやったのは、規模の小さい「神を怒らせる型」そのものである。神域で不敬を働けば神が動く。彼らはそれを、意図せず実演してしまった。願ってやれば雨乞い、うっかりやれば祟り。境界線は動機のほうにしかない。
四つ目、静岡県御殿場の牛淵の話も挙げておきたい。
富士山を源流とする鮎沢川に、牛淵と呼ばれる一角がある。昔、村人が飼っていた牛が暴れ、追われて崖の上まで行きついた。牛が深い淵に転落すると、激しい雷雨となり、連日連夜雨が降り続いた。淵の中からは牛のうめくような音が、ときどき聞こえてきたという。以後、水不足のときには実物に似せて作った偽牛を淵に投げ入れて雨乞いをすれば雨が降る、と伝えられている。
うめき声という細部が効いている。牛は死んでいない。というより、死んで終わりにならない。淵に落ちた牛は、水の中でまだ鳴いている。人が牛を落として雨を得た、という後ろめたさが、この一行に凝縮されている。江戸末期まで神事が続き、いったん途絶えたのち、昭和五十四年、一九七九年に鮎沢川漁業協同組合の組合長の呼びかけで復活し、四十年以上続いている。いまは張り子や藁で作った牛を落とす。そして、投げ落とした牛はちゃんと回収している。
五つ目は、雨乞いを頼まれた僧の話だ。浜松の市野に伝わる。
文化年間のある年の夏、ひどい日照りが続いた。春から一滴も降っていない。このままでは稲が枯れ、年貢が納められない。村人は相談の末、宗安寺の和尚に雨乞いを頼むことにした。
和尚は言った。祈祷をすれば大雨が降り、洪水が起きる、と。
村人は答えた。それでも構わないから、やってくれ。
和尚はすぐ祈祷を始めたが、満願の七日目になっても一粒も降らない。不安がる村人に、和尚は最後の祈りをするから米津浜に一緒に来いと言い、二つの大きな長持を運ばせた。中身は誰も知らない。浜で和尚が海の竜神に向かって一心に祈っていると、空が曇り、豪雨になった。和尚は長持を開けさせた。中には笠がいっぱい入っていた。村人は笠をかぶり、喜びながら家路についた。
そして和尚の言ったとおり洪水が起き、田は水浸しになった。それでも村人は「日照りよりはまし」と、楽しげに田んぼを眺めたそうだ。
この話には、雨乞いをめぐる感情がほぼ全部入っている。代償を先に告げる誠実さ。それを承知で押し切る村。用意されていた笠。そして被害を出しておきながら「まだましだ」と笑う逞しさ。
最後に、静岡の沼の伝承をもう一度出しておく。浅畑沼には、この池に牛の頭を沈めて雨乞いをすればどんな日照りでも雨が降る、という言い伝えがあった。ただし条件が付く。その儀式を口外すれば、雨は降らない。
近くの竜爪山には、夜中に人目を忍んで牛の首を捧げると雨が降るという伝承がある。中村羊一郎「竜爪山信仰の変遷」では、これを龍神に牛を生け贄として捧げた雨乞い儀式の痕跡と捉えている。同じ地域で、牛の首を納める場所が沼から山上へ移っていったことも指摘されている。竜の棲家が水から山へ移ったのか、沼そのものが姿を変えたのか。祭祀の場所は、地形が変われば移動する。神が引っ越すという言い方は、案外正確なのかもしれない。
なお、この一帯にはお盆の茄子と同じ理屈で、初茄子がとれると竜爪山の方角に向けてから食べるという風習があったという報告もある。茄子は牛に見立てられる野菜だ。牛の首の代わりに茄子。儀礼は消えるのではなく、薄まりながら日常に溶けていく。
「牛の首」という怪談の名前は、どこから来たのか
ここで、ネットとオカルト界隈の話をしたい。
「牛の首」という言葉を聞いて、雨乞いを思い浮かべる人はほとんどいない。多くの人が思い浮かべるのは、日本でいちばん有名な都市伝説のほうだ。
内容はこうだ。「牛の首」というとても恐ろしい怪談があり、これを聞いた者は恐怖のあまり身震いが止まらず、三日と経たずに死んでしまう。作者は多くの死者が出たことを悔いて仏門に入り、二度とこの話を語らずに世を去った。だからいま伝わっているのは、「牛の首」という題名と、それが無類に恐ろしい話であったという事実だけである――。
中身がない怪談である。中身がないことこそが中身になっている。
流布の起点としてよく挙げられるのが、小松左京が一九六五年二月八日号のサンケイスポーツに発表した短編『牛の首』だ。怪談好きの「私」が内容を教わろうと尋ね回るが、誰もが「あんな恐ろしい話はきいたことがない」と言うばかりで中身を語らない。やがて「私」は真相に気づく。題名と、非常に恐ろしい話だということしかわかっておらず、中身は誰も知らないのだ、と。
ただし小松自身が、これは自分の創作ではないと述べている。「牛の首」という話があることは知っていた、何十年かごとにミステリー界で流行った、と語った記録がある。筒井康隆は一九七三年五月の夕刊フジ連載エッセイでこれを取り上げ、作家の今日泊亜蘭から聞いた話だと書いた。都市伝説蒐集家の松山ひろしは、作家仲間内のネタが筒井のエッセイをきっかけに世間へ広まった、と分析している。
さらに古い層もある。大正十五年、一九二六年三月号の『文藝市場』第二巻第三号に、石角春洋、本名は石角春之助が「牛の首」という題の記事を書いている。こちらは中身がある。雪の夜、危篤の娘の薬を求めて峠を急ぐ父親の前に牛の首が浮かび上がる、という物語だ。都市伝説版との直接の関係は不明とされる。
問題はここからだ。
二〇〇二年五月、二ちゃんねるのオカルト板に「牛の首」の真相と称する書き込みが投稿された。内容は、天保の飢饉のとき、罪悪感を減らすために牛の頭をかぶせた人間を狩り、その肉を食べた、という筋書きだった。それゆえこの話は繰り返されてはならず、話されてもならない話となり、呪いの言葉がついた――と締められている。
これは星野之宣の漫画『宗像教授伝奇考』の一篇「贄の木」のほぼ丸写しだった。元作では舞台は丹波、被せるのは猪の頭である。それを秋田の寒村と牛頭に置き換えただけだ。しかも投稿者自身が直後に「僕の考えた怖い話だよ、みんな褒めて」と創作である旨を明かしている。
にもかかわらず、この文章は「真・牛の首」として独り歩きした。元の漫画の設定に説得力があったことが災いして、これこそ真相だと信じ込む人が一定数現れた。誤解はいまも引き継がれ、動画サイトやまとめサイトで再生産され続けている。
一方で、まったく別の角度から「牛の首」に迫った考察がある。怪談研究の吉田悠軌が二〇二〇年に発表した文章だ。
論の骨子はこうなる。西日本を中心に、池や淵や滝壺で牛を屠り首と血を流し入れる殺牛儀礼が広く行われていた。それは神への饗応ではなく、死体と血の穢れによって神を怒らせ、雨を降らせるための行為だった。この習俗は口外をはばかられ、記録も記憶も消されていった。隠蔽された歴史は、しばしば怪談という歪んだ形で噴き出す。かつて「牛鬼」の怪談に姿を変えたその秘密が、現代に近づくにつれ「牛の首」の怪談へ変容したのではないか――と。
「牛の首について語るべからず」。その禁忌の正体が、雨乞いの秘義なのではないか、という仮説である。
傍証はいくつも挙げられている。小松左京が育ったのは西宮と尼崎で、兵庫は牛にまつわる現代怪談が異常に多い土地だ。牛女、クダン。小松の代表的短編『くだんのはは』も、牛頭とタブーの物語である。そして兵庫は同時に、牛の首を投げ込む雨乞いの記録が集中する土地でもある。
面白い。面白いが、ここは冷静に反証を並べておきたい。
まず、この仮説を裏づける直接の史料は一つもない。吉田自身が「明確な証拠を示すことのできない、ただの想像」と断っている。殺牛儀礼が実在したことと、「牛の首」という怪談の題名がそこから来たこととは、まったく別の主張だ。前者には史料がある。後者にはない。
次に、時系列が合いにくい。都市伝説としての「牛の首」が文化人の間で囁かれるようになったのは、確認できる範囲で戦後だ。一方、殺牛型の雨乞いは昭和十四年まで新聞に載る程度には公然と行われていた。「誰も語らなくなった秘密」というほど隠されてはいない。少なくとも大阪朝日新聞は堂々と写真入りで報じている。
三つ目に、「語ってはいけない話」という枠組み自体が、そもそも怪しい。人身御供の伝承を研究した論者たちが繰り返し指摘してきたのは、こうした話が常に「かつては行われていたが、今はもうなくなったもの」として語られる、という点だ。しかも「語ってはいけない」とされる話ほど、実際にはひっそり語られる。禁忌は語りを止める装置ではなく、語りを特別にする装置なのだ。牛の首も、鮫島事件も、構造は同じである。
それでも、この仮説には捨てがたい魅力がある。なぜなら、雨乞いの記録を読んでいると、確かに「語らない」という条件が何度も出てくるからだ。浅畑沼では口外すれば降らないと言われた。竜爪山では夜中に人目を忍んで捧げた。筒井功の調査でも、秘密性の高さが繰り返し指摘されている。
隠されたものが怪談になるのか、それとも怪談が後から由緒を欲しがって過去を探しに行くのか。どちらが先かは、たぶん永遠に決まらない。
雨乞いはなぜ消えたのか――気象台とコンクリートの話
雨乞いが廃れた理由は、二段構えで説明できる。
一段目は、天気が「読めるもの」になったことだ。
日本の気象業務は明治八年、一八七五年六月一日に始まった。内務省地理寮の構内、いまの東京都港区虎ノ門あたりに東京気象台が置かれ、雇われイギリス人のジョイネルが一日三回の観測を担当した。明治十六年、一八八三年二月十六日に全国からの気象電報が集まるようになり、その日から天気図の作製が始まる。五月二十六日には初の暴風警報が発表された。そして明治十七年、一八八四年六月一日、毎日三回の全国天気予報が始まる。最初の天気予報の文面は、こうだ。
全国一般、風の向きは定まりなし、天気は変わりやすし、ただし雨天勝ち。
全国を一文で片づける豪快さである。当たるも八卦に近い。だが、これが分水嶺だった。空の機嫌を、神の気分ではなく気圧配置として語る言語が、この日から公式に流通し始めたのだ。東京気象台は明治二十年、一八八七年に中央気象台と改称され、明治二十三年、一八九〇年に法令上の正式な組織となる。
ただし、予報ができても雨が降るわけではない。だから雨乞いは、意外なほどしぶとく生き延びた。
昭和九年、一九三四年の大干ばつで、香川県知事がとった応急対策が象徴的だ。県は師団に山砲による実弾射撃を要請し、五門で三百発を撃たせている。同時に各市町村へ「八月三十日から三日間、篝火を焚き一斉に雨乞いせよ」という通達も出した。大砲と篝火が同じ行政文書の中に並んでいる。昭和十四年の記録的大干ばつでは、市町村に雨乞い祈願の実施と、学童が朝夕に稲一株ずつ土瓶で水をかける「土瓶水」を通達した。
行政が雨乞いを命じている。近代とはそういう時代だった。
二段目が決定打になる。水そのものを、天から切り離したことだ。
用水の整備、ため池の改修、揚水機と発動機の導入、ダムの建設。岡山県南では昭和十四年の旱魃を機に、農家組合ごとに揚水機や石油発動機を購入し、川底を掘り、井戸を掘った。旱害との闘いが、農業機械化の先進地を生んだ。
香川の場合はもっと劇的だ。昭和四十三年、一九六八年に着工した香川用水事業は、吉野川から讃岐平野へ水を引く計画である。共用区間は昭和五十年、一九七五年三月に完成し、幹線用水路が全面通水したのが昭和五十三年、一九七八年六月十一日だった。工事中の昭和四十八年、一九七三年、香川は未曾有の大渇水に見舞われる。高松砂漠と呼ばれるほどの給水制限が行われ、県の内場ダムは干上がり、市内の一部は終日断水した。このとき、未完成の幹線用水路を使って満濃池の水を高松市へ緊急送水するという離れ業が行われている。
香川用水が本格通水するまで、香川県の農業用水は日照りによる水不足に悩まされ続けた。逆に言えば、そこから先は違う。祈らなくても、水は来る。
和歌山県北部の調査でも同じことが報告されている。呪術的と思われる雨乞いは昭和初期には衰退し、火焚きなどは昭和中期まで盛んに行われた。その後は用水の整備と、稲作から果樹への栽培作物の転換によって、雨乞いはほとんど行われなくなった。
作物が変わる、というのが地味だが重い。水稲は水がなければ死ぬ。果樹はそこまで即死しない。何を植えるかを変えることで、天候との契約条件そのものを書き換えたのだ。
それでも、人は雨乞いに戻ってくる
消えたはずのものが、あちこちで戻ってきている。
脚折雨乞の記録を見ると、この転換点が痛いほど鮮明だ。戦後の雨乞いは昭和二十二年、一九四七年と昭和二十四年、一九四九年に行われ、以後は干天で陸稲が傷んでも長らく行われなかった。次に実施されたのは昭和三十九年、一九六四年で、実に十五年ぶりだった。この年の関東の水不足は深刻で、東京都心は約一か月におよぶ大渇水に見舞われる。新聞には「東京サバク」「東京水キキン」の見出しが並び、深夜にポリバケツを持って給水車を待つ行列の写真が載った。飲食店や理髪店が休業し、給水車が足りず自衛隊が災害出動した。
その年の雨乞いを振り返った聞き取りには、「最後だから」「最後の本当の雨乞い」「本気でやった最後」という言葉が並ぶ。当事者たちには、これが終わりだという自覚があった。同じ年の十月には東京オリンピックが控え、高速道路と新幹線とモノレールが次々に開通する。村も区画整理で市街地化が進んでいた。
そして一度、途絶える。
復活は昭和五十一年、一九七六年八月八日。十二年ぶり、干支が一回りした辰年だった。前年に地元住民が保存会を結成していた。ただし、戻ってきたものは同じではない。位置づけは農家の降雨祈願から地域の伝統行事へ、実施主体は農家集団から保存会と自治会へ、開催時期は農家の協議次第から夏季五輪の年に固定へと変わった。水神の依代の呼び名も、大蛇から龍蛇、龍神になった。
一方で、堅持されたものもある。依代の素材と製作方法、祈願形式の細部、そして「切実な背景を持った雨乞神事であり、祝祭的なお祭りとは一線を画す」という趣旨だ。
似た事例は各地にある。香川県三豊市仁尾の雨乞い竜は昭和十四年を最後に途絶え、昭和六十三年、一九八八年に約五十年ぶりに復活した。静岡県御殿場の牛淵雨乞いは昭和五十四年、一九七九年に漁協組合長の呼びかけで復活した。島根県吉賀町蔵木の田野原地区では、明治六年、大正十年、昭和十四年に行われた記録が残る雨乞い神事を、平成四年、一九九二年に復活させた。前回が昭和十四年だから、知っている人も子どもの頃の記憶しかない。会長は当時をこう語っている。記憶が点でしか残っていない、いろんな人に話を聞いて回り、記憶の断片を拾い集めた、部分部分でしかない記憶を想像を頼りに一つにまとめ、なんとか現在の形を作り上げた、と。
想像を頼りに、というのが誠実で、そして少し怖い。復活した行事は、失われた行事とは別のものだ。だが別のものであることを引き受けながら、それでも人は形を作り直す。
なぜか。
たぶん、雨乞いが「水がないと死ぬ」という記憶を身体で保存する装置だからだ。蛇口をひねれば水が出る生活を何十年続けても、三トンの藁の龍を三百人で担いで池に飛び込めば、水は分けてもらうものだという感覚が一日だけ戻る。それは説明では戻らない。
結局、この話のどこが怖いのか
牛の首を池に投げ込む雨乞いは、残酷だから怖いのではない。
怖いのは、あれが徹底して合理的な行為だという点だ。
村人は神を信じていなかったのではない。逆だ。信じすぎていた。神が確実に存在し、確実に反応し、確実に力を持っていると信じていたからこそ、その力を引き出すために最も効率のいい手段を選んだ。祈って動かないなら、怒らせれば動く。相手を敬うのは、相手が動くと信じているからだ。怒らせるのも、同じ理由からである。
この発想は、宗教というより交渉に近い。人が神に対して交渉のテーブルにつく。しかも自分たちが不利な立場にあることを完全に理解したうえで、相手の弱点――穢れを嫌うという性質――を突く。これは信仰の敗北ではなく、信仰の極北だ。
もう一つ怖いのは、代償の意識がはっきりしていることだ。牛は財産で、当時の農家にとって家一軒に匹敵する価値を持つこともあった。それを一頭潰す。しかも供物として喜ばれるためではなく、汚物として投げ捨てるために潰す。見返りは、雨が降るかもしれないという可能性だけ。村はその賭けを何度も張った。
そして張ったあと、彼らはちゃんと怖がった。骨を投げてすぐ降り出したら雨宿りをした。竜骨で洪水を起こしたら封印した。淵に落ちた牛のうめき声を、何十年も語り継いだ。投げ落とした偽牛を、律儀に回収してきた。
やってしまったことの重さを、彼らは正確に測っていた。測ったうえで、翌年また日照りが来れば、同じことをやったのだ。
雨乞いが消えたのは、人が賢くなったからではない。賭けなくてよくなったからだ。ダムと用水路とポンプが、天との交渉から人間を降ろした。それは間違いなく進歩で、その進歩のおかげで、いまの私たちは牛の首を担いで山を登らずに済んでいる。
ただ、代わりに一つ失ったものがある。空を見上げて、本気で誰かに向かって話しかける、あの回路だ。あの回路が生きていた時代、空の向こうには確かに何かがいて、こちらを見ていて、汚されれば怒った。
いまの空は、何をしても怒らない。
それが安全ということなのだと思う。思うのだが、東北のある潟が、馬の骨を投げ込まれることを警戒していたという一行を読むたびに、少しだけ落ち着かなくなる。警戒していたのは誰なのか。村なのか、潟なのか。あの一行は、そこを曖昧にしたまま報告書に残っている。
大陸から来た牛は、日本に着いた途端に意味が裏返った
ここまで各地の事例を並べてきたが、最後にもう一段、深いところを掘っておきたい。
まず整理しておくべきは、「神を怒らせる雨乞い」が日本固有の発想ではない、という点だ。高谷重夫は、朝鮮半島の雨乞い儀式では動物はあくまで供え物、つまり供犠であって、日本のように雨の神を怒らせるために不浄物を与えるという考えはなかった、と推論している。一方で、起源そのものは大陸にある。『漢書』于定国伝には、郡中が三年枯旱したとき、太守が牛を殺して孝婦の家を祭ったところ天がたちまち大雨を降らせたという記事がある。『広州記』には、旱のときは百姓が牛を殺して雨を祈り、牛の血を泥に混ぜて石牛の背に塗ったという記述がある。血を塗る。これは日本の龍神岩に血を垂らす作法と、ほとんど同じ動作だ。
つまり、材料は大陸から来た。ところが日本に着いた時点で、意味が反転している。向こうでは「捧げて喜ばせる」ための牛が、こちらでは「汚して怒らせる」ための牛になった。この反転はなぜ起きたのか。
一つの説明は、日本人にとって牛馬が食用動物ではなかったから、というものだ。食べない動物は、神へのごちそうになりようがない。ごちそうにならない肉体は、ただの死体であり、死体は穢れである。穢れは神が最も嫌うものだ。だから同じ行為が、饗応から挑発へ意味を変えた。輸入された儀礼が現地の食文化と穢れ観に噛み合わなかった結果、まったく逆向きの呪術として定着してしまった。文化の翻訳ミスが千年生き延びた、と言ってもいい。
次に考えたいのは、なぜ律令国家がこれをあれほど嫌ったのか、という点だ。表向きの理由は明快で、牛が農耕の労働力だからである。天平十三年、七四一年の詔にも、馬牛は人に代わって働き人に養われるものだから先に禁じてある、と書かれている。国郡が取り締まれず百姓がなお屠殺している状況を指摘し、まず杖罪百を科したうえで法どおり処罰せよ、と罰則を強化してもいる。それでも殺牛祭神はなくならなかった。延暦十年の禁令、延暦二十年の越前一国への再禁令と続くのは、そのためだ。
だが、経済合理性だけでは説明しきれない部分がある。禁令が出された国々の顔ぶれには、渡来系の人々が濃く暮らした地域という共通点がある。渡来系の信仰への政治的圧力を読み取る立場もあれば、藤原種継暗殺事件に絡んで死んだ早良親王の怨霊が桓武天皇を悩ませていた時期であることから、祟る神を民間が勝手に祀ることへの警戒を見る立場もある。
ここで一つ、面白い緊張関係が見える。国家は延暦六年、七八七年十一月五日に、生贄の獣肉を焼いて天帝を祭る「燔祀」を行っている。中国式の国家儀礼としての生贄は自分でやりながら、四年後には民間の殺牛を禁じた。国がやれば祭祀、民がやれば犯罪。呪術の統制とは、いつでも「誰がやってよいか」の統制なのだ。
そして村は、禁じられた側に立ち続けた。千年以上にわたって。
三つ目に掘りたいのは、この習俗が「秘密」として扱われたことの意味だ。筒井功の調査は、記録の乏しさの原因を口外をはばかる傾向に求めた。浅畑沼は口外すれば降らないと言い、竜爪山は人目を忍べと言う。禁忌は二重にかかっている。神域を汚すという禁忌を破り、そのことを喋らないという禁忌を守る。
この二重構造が、実は雨乞いの効力を支えていたのではないか、と私は考えている。
考えてみてほしい。もしこの作法が公開の祭りとして毎年行われていたら、それはただの年中行事になる。降っても降らなくても、来年またやるだけの話だ。だが「本当は絶対にやってはいけないこと」を、村の総意でこっそりやる場合、話はまるで違う。参加者は共犯者になる。共犯であることが、村の結束を一段深くする。そして誰も外に喋らないから、失敗した回は歴史から消える。残るのは成功譚だけだ。
つまりこの儀礼は、成功率が高いのではなく、失敗が記録されない設計になっていた。統計的にはどんな夏でも、いずれ雨は降る。八月下旬まで待てば前線も台風も来る。効いたという記憶だけが蓄積され、効かなかった記憶は禁忌の中に埋まる。合理的な検証が原理的に不可能な仕組みの中で、確信だけが積み上がっていく。
これはオカルトの話ではなく、情報設計の話だ。そして現代のネット上で「牛の首」の真相と称する創作が事実として流通し続けるメカニズムも、まったく同じ構造をしている。検証不能な空白があり、そこに誰かが物語を注ぎ込み、注ぎ込まれた物語だけが拡散し、否定情報は拡散しない。二〇〇二年の掲示板投稿が創作だと投稿者本人が認めているにもかかわらず、二十年以上たっても「真相」として動画になり続けているのは、その証拠だ。
雨乞いの村と現代のネット民は、同じ穴を掘っている。片方は水を求めて、片方は恐怖を求めて。
最後に、この話が現代に残す実感について書いておきたい。
昭和四十八年、一九七三年の全国的な干ばつは、農作物被害が八百九十四億円に達した。広島の製鉄所は水不足で保安操業に追い込まれ、神奈川から船で水を運んだ。宇和島では炎天続きで水温が異常に上がり、養殖ハマチが八十万匹熱死した。東北では十三の発電所が止まった。この年、日本は先進工業国であり、天気予報は毎日流れ、ダムもポンプもあった。それでも、これだけのことが起きた。
雨乞いが消えたのは、水の問題が解決したからではない。水の問題を、個々の村が背負わなくてよくなったからだ。負担は国家規模のインフラへ移された。移されただけで、消えてはいない。むしろ規模が大きくなった分、失敗したときの被害も大きくなった。
牛の首を担いで山を登った人たちを、非科学的だと笑うのは簡単だ。だが彼らは、自分の村の水を自分たちの手で何とかしようとしていた。手段が呪術しかなかったから呪術を使った。使える手段が全部そろっている現代の私たちが、では自分の使う水がどこから来ているのか答えられるかというと、たいてい答えられない。
蛇口の向こう側を想像しなくてよくなったこと。それが近代の恩恵であり、同時に、私たちが手放したものだ。
夏の夕方、遠くで雷が鳴る。ひと昔前なら、誰かが山で火を焚いたか、誰かが淵に何かを投げたのだと思う人がいた。いまはレーダーの画像を見ればわかる。わかるのはいいことだ。
ただ、あの潟のように、投げ込まれることを警戒している水は、たぶんまだどこかにある。誰も投げないから、静かなだけで。
