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十五で家を追い出される――若者宿と娘宿、村が丸ごと子を預かった十年間

十五になった。おめでとう、と村の年寄りが言う。赤飯が炊かれる。祝いの酒が出る。そしてその晩から、自分の家では寝られなくなる。

これは比喩じゃない。ほんの七十年ほど前まで、日本の広い範囲で本当にそうだった。十五になった男の子は布団を担いで家を出て、村のどこかにある「宿」へ移る。女の子も同じで、母親が包んだ布団を背負って別の家に泊まりに行く。理由は罰でもなければ事故でもない。それが村の当たり前だったからだ。

制度の名前は地域によってバラバラだ。若者宿、若衆宿、泊り宿、泊り屋、寝宿、遊び宿、ネヤ、ネンヤ、トマリヤド、ワカヤ、アソビヤ。集団のほうも若者組、若衆、若連中、若勢、二歳組。呼び名が多すぎて統一名がないというのが、この制度の広がりと古さをそのまま物語っている。学者が後から「若者組」という札を貼っただけで、当の村人たちは自分たちのそれを制度だなんて思っていなかった。空気みたいなものだったんだよな。

そして、この空気は消えた。ほぼ完全に。今も本格的な形で残っているのは、日本でおそらく一か所だけだ。

布団を担いで家を出る、その日の段取り

順を追って再現してみる。地域差はあるが、骨格はどこも似ている。

まず年齢。数え年で十五が圧倒的に多い。國學院大學で民俗学をやってきた小川直之の整理によれば、戦後までの庶民世界で「大人」を判定する物差しは三本あった。年齢の物差しでは男十五歳、女十三歳。生理的な成熟という物差し。そして実力主義の物差しで、男なら鍬で田畑を一反耕せること、女なら反物を一反織れること。この三本が重なったところに「一人前」という線が引かれていた。

だから宿入りには試験がついてくる村もあった。米俵を担げるか。力石を持ち上げられるか。担げなければ入れてもらえない。逆に言えば、体さえできていれば十三でも入れた。愛媛の丹原町や別子山村瓜生野では十三で赤褌を締める「フンドシイワイ」があったと記録されている。褌を締めることが、そのまま大人になることだった。

儀礼の名前も面白い。男はヘコイワイ、フンドシイワイ。女はカネツケ、ユモジイワイ。褌と腰巻という下着の交換が、そのまま成人式だったわけだ。江戸期までは女は十三で眉を剃り、鉄漿を塗った。顔を見れば大人かどうかわかる社会だったんだよな。今の成人式が晴れ着と写真であるのに対し、あちらは身体そのものに印をつけた。

入宿の当日は、酒を持って行く。愛媛の久万町では十五でフンドシイワイをやり、その年から酒一升を持参して「若い衆」入りをした。長浜町青島では十五で成人と認められ、十七で親方に酒一升を持って行って「親分子分の縁」を結んだ。松山市高浜では十七の元服祝いを「ヤクがぬけてオセになった」と言った。松前町では十九で前髪を落とし、名前を変え、羽織を着るようになった。ひとつの村でも段階が何段もあって、十五で入って十七で認められて十九で一人前という具合に、少しずつ階段を上がっていく。

そして、その晩から宿に泊まる。愛媛の記録では、学校を出てから二十五になるか妻帯するまで宿に泊まる習わしだったとある。十年前後を、他人の家の二階か、村はずれの小屋で寝て過ごす。これが人生の設計に組み込まれていた。

四畳半の小屋で、上下関係だけが濃密に煮詰まる

宿の建物には二種類ある。誰かの家を借りるタイプと、専用の建物を持つタイプだ。

家を借りるほうが多数派で、愛媛では集落の公会堂か、「宿親」と呼ばれる篤志家の家が充てられた。宿親というのは要するに面倒見のいい家長で、自分の家の一室を若者たちに明け渡す。ただし場所を貸すだけじゃない。宿親は若者たちの躾から結婚の相談まで面倒を見た。愛媛の記録には、若者宿こそが「ムラにおける唯一の研修機関」だったという表現がある。学校でも家庭でもなく、宿が教育機関だったんだ。

一方、専用の建物を持っていた地域もある。高知県宿毛市山奈町芳奈がその代表で、ここには「泊屋」と呼ばれる高床式の独立家屋が、浜田、下組、道ノ川、靴抜という四つの集落にそれぞれ一棟ずつあった。うち浜田の泊屋は一九五七年六月三日に国の重要有形民俗文化財に指定されている。

この建物の作りが妙に印象に残る。四隅に立つのは、栗の木を根付きのまま使った自然木の通し柱。床下までは丸太のままで、室内に入る部分だけ角柱に削ってある。その上に載っているのが、たった四畳半の部屋だ。四畳半。ここに十四、五歳から結婚するまでの男たちが毎晩詰め込まれる。高床にしてあるのは湿気避けと、たぶん床下を集会や作業に使うためだが、地面から浮いた小屋に若い男が固まって寝ているという絵面そのものが、もう独特の圧を持っている。

中の序列は容赦がない。多くの地域で、宿の中は年功で厳密に切られていた。小若衆、中若衆、大若衆。あるいは小若い衆、中若い衆。その上に頭、宿老、取立といった役がつく。同じ宿で寝る仲間は「宿朋輩」「ツレ」「ドシ」と呼び合い、一生ものの関係になる。

一日の流れも決まっていた。昼の仕事を終え、夕飯を家で食う。それから宿に集まる。夜は遊んでいたわけじゃなく、縄をない、草鞋を編み、漁具を直し、藁仕事をする。いわゆる夜なべだ。そのあいだ、年長者が延々と喋る。村の由来、漁場の癖、天気の読み方、隣村との因縁、祭りの段取り、そして人づきあいの機微。これが授業だった。

宿での躾は具体的で細かい。ある地域の記録には、船に乗るときは舳先から乗って艫から降りろ、荷を担ぐときは他人の分から持て、休むときは自分が最後に休め、といった条項がずらりと並んでいる。仕事の場でどこに立ち、どの順で動き、誰から先に労わるか。それを文字通り箇条で叩き込まれた。夜警の立ち方、火の番の回り方、普請での人足の出し方、来客への口上。ムラで生きるためのマニュアルが、口伝えで毎晩流し込まれていく。

新入りの扱いは、どこも似たようなものだ。最初の一年は雑用に走らされ、先輩の言うことに口答えできず、寝る場所も一番端。二年目になると少し上がり、下が入ってくる。この繰り返しで十年。抜けるのは結婚したときだ。

十七か条の村憲法。掟は口伝えじゃなく、紙に書かれていた

若者組を野蛮な風習だと片付けたがる人がよくいるけど、実際に残っている史料を見ると印象が変わる。彼らは掟を紙に書いていた。しかも組織的に。

三重県伊勢市楠部町の区有文書に『元禄十四甲巳年 若衆従古来仕来帳』というものがある。元禄十四年、つまり一七〇一年の日付を持つ帳面で、「若衆従古来申合」として十七か条にわたる組内規約が書き込まれている。会合での心構え、村仕事での動き方、牛馬の扱いといった内容だ。

罰則がまた厳しい。掟を破れば過料、つまり罰金を取られる。悪質な場合は「仲間ヲ除」く。除名だ。さらに、仲間内で贔屓をした者は「仲間ヲはね」られる。えこひいきが除名対象になっているところに、この組織の性格が出ている。若者組は情実で動かない、という建前を自分たちで守ろうとしていたわけだ。しかも過料で集めた金は、逆に功のあった者への褒美に回された。賞罰の会計が回っている。

こういう成文規約は各地にあって、「若者条目」「若者仲間定書」などと呼ばれる。教育学者の田嶋一が一九七七年に『教育学研究』へ発表した論考では、静岡や愛知の村に残る条目が紹介されている。宝暦十年の書付、文化十年の申合書。十八世紀半ばから十九世紀にかけて、同じような文書が全国で作られていた。

内容は驚くほど実務的だ。祭礼の段取り、若者の身なり、他村との交際、婚姻の届け出、博打の禁止、夜遊びの制限、そして掟破りへの制裁。祭りで誰が何日に何をやるかを日付つきで書き並べた条目もある。要するに、これは村の下部組織の業務規程であり、同時に若者自身を縛る自主規制でもあった。

そして肝心なのは、この規約が村の総意で作られていたことだ。若者だけの内輪の遊びじゃない。庄屋や村役人が承認し、時には親たちが連署している。村ぐるみで十五歳以上の子を預かる、という契約書なんだよな。

誰が最初にこれを「記録」したのか

この制度が民俗学の対象になったのは、実は制度が壊れかけたあとだ。

まとまった研究として早いのは、中山太郎の『日本若者史』。一九三〇年、昭和五年の刊行で、全国から集めた若者組の事例を史料とともに並べた本だ。中山は民俗学のなかでも、他の研究者が避けたがる領域に踏み込むタイプの人で、この本もその流儀で書かれている。

柳田國男は若者組を正面から扱った単著こそ残していないが、あちこちで繰り返し言及している。柳田の関心は、若者組が「一人前」を作る装置だったという点にあった。そして、それを国家が別のものに置き換えてしまったことへの苦い評価を、随所に書き残している。学校が青年を村から切り離してしまった、村が持っていた自前の教育が消えた、という趣旨の批判だ。この評価をめぐっては、柳田自身が夜這い文化圏の出身でありながら性の側面をほとんど書かなかったことを、後年の赤松啓介がかなり厳しく突いている。何らかの思想的な理由で触れたくなかったのではないか、というのが赤松の見立てだ。

女性側、つまり娘組と娘宿を正面から扱ったのは瀬川清子だ。『若者と娘をめぐる民俗』は一九七二年に未来社から出ている。瀬川は柳田の門下で、女性の民俗を一貫して追いかけた人で、この本は男の若者組ばかり見ていた研究の視野を強引に広げた。娘宿がどう機能し、若者宿とどう連動していたかは、瀬川の仕事なしには語れない。

制度史として体系化したのが平山和彦の『青年集団史研究序説』で、上下巻の大冊だ。平山は百科事典の「若者宿」「娘組」の項目も執筆していて、今ネットで辞書を引いて出てくる説明の骨格は、だいたいこの人が作った。

近年のものだと、答志島の寝屋子を追った澤田英三の資料研究が二〇一四年に安田女子大学の紀要に、村本由紀子と遠藤由美による社会心理学的なエスノグラフィーが二〇一五年に『社会心理学研究』に載っている。愛媛の事例は大本敬久が近代の資料をもとに整理している。安藤耕己は戦後の青年団論のなかで「若者組」がどう理想化されてきたかを検証していて、これがなかなか意地悪で面白い。

起源については決着していない。室町時代の惣村、つまり村の自治組織にさかのぼるという説があり、近世に入ってから成立したという説がある。若者組が史料に大量に出てくるのは十七世紀後半以降で、それ以前は影が薄い。ただ、成年式そのものは古代からある。裳着や元服の庶民版がどこかで年齢集団と結びついた、というあたりが穏当な見方だろう。

娘宿という、語られなかったほうの半分

若者宿ばかり話題になるが、多くの地域には娘宿がセットで存在した。

三重県の記録では、娘組は十二、三歳以上の未婚女性で構成され、中勢から南勢、志摩、東紀州にかけて分布していた。呼び名はネヤ、ネンヤ、トマリヤド、ワカヤ、アソビヤ。愛媛では小学校を終えると、母親が布団を持たせて娘宿に泊まりに出した。

娘宿の夜は、若者宿と同じく労働の時間だ。夕食のあとに集まって、縄をない、草履を作り、裁縫をし、糸を繰り、苧を績む。粉を挽く。要するに家事技術の集中訓練で、ここで一人前の女とされる腕を身につけた。宿には宿親がいて、娘たちを躾け、そして配偶者選びの相談相手になった。

若者と娘の接点は、この娘宿にあった。若者たちが娘宿を訪れ、仕事を手伝いながら喋り、歌を歌う。三重では「ムスメアソビ」と呼ばれた。ここで一組が周囲に認められると、宿親が話をつけて正式な婚姻へ持っていく。つまり娘宿は、村公認の縁組システムのハブだった。

そしてここが、現代の目にいちばん引っかかる部分でもある。いわゆるヨバイも、この延長線上に置かれていた。三重の記録には、若者は自分の親にヨバイの相手を相談し、宿親も娘も承知したうえで進む、オープンな配偶者探しの手段だったと書かれている。愛媛の資料も、この語が必ずしも自由奔放な男女関係だけを指すわけではない、とわざわざ注釈をつけている。

このあたりは、今の価値観から見れば当然のように問題含みで、しかも当時の記録が男の側から書かれたものに偏っているから、実態がどうだったかは慎重に扱うしかない。熊本の水俣周辺の村を追った森栗茂一の調査では、女性の側に相手を選ぶ権利があり、断りたければ「泊まらんな」と言えばそれで済んだという証言が拾われている。一方で、村の秩序が個人の意思より上に来る場面がなかったとは、とても言えない。研究者のあいだでも、村の共同性の表れとして見る立場と、暴力の温床として見る立場が割れたままだ。歴史学の服部英雄のように「ふつうの恋愛だった」と現地調査から言い切る人もいれば、若者組による統制の側面を重く見る人もいる。

はっきり言えるのは、村が婚姻を管理していたということだ。誰と誰が結ばれるかは、本人だけの問題じゃなかった。若者組は他村の男が村の娘と交際することを露骨に嫌い、他村者への排他性は際立って激しかったと記録されている。婚姻圏を村の内側に閉じ込めておくのが、若者組の重要な仕事のひとつだった。恋愛の管理は、村の人口と土地の管理だったんだよな。

高知の泊り屋。酒が飲めることも訓練科目だった

地域ごとに、この制度はまるで別の生き物だった。まず宿毛の芳奈に残る泊屋の話に戻る。

ここでは男子は十四、五歳で若衆組に入り、結婚するまで所属した。年功序列は徹底していて、先輩が後輩に村のしきたりとマナーを厳しく教え込む。

面白いのは、大酒が飲めるようになる訓練が正式な科目として存在したことだ。土佐の男の条件は「大酒なんぼでも飲める」ことで、それを宿で仕込んだ。今の感覚だと完全にアウトだが、当時は酒席の作法と酒量が社会的な信用に直結していた。宴席で潰れる男は交渉役を任されない。だから訓練した。理屈は通っている。通っているのが怖い。

この泊屋が現役だったのは昭和三十年頃までだ。風紀を乱すという理由で徐々に廃れ、建物だけが四棟残った。うち一棟が国の文化財になっている。制度が死んで、器だけが保存された格好だ。

三重・答志島。たった一つ、生き残った

三重県鳥羽市の答志島。伊勢湾でいちばん大きな島で、東西六キロほど、南北一・五キロほどの細長い島だ。ここの答志地区に、寝屋子と呼ばれる仕組みが今も動いている。日本で本格的な形を残しているのはここだけ、というのが研究者たちの共通見解になっている。

仕組みはこうだ。中学を卒業する頃、親たちが「寝屋親」を探す。条件は二つ。子どもたちをまとめられる人格者であること。そして、何人も一度に泊められる大きな家を持っていること。娘がいるかどうかは関係ない。むしろ、自分より若くて地域で活発に動いている人に頼むのが通例だという。頼まれた側は「俺に子どもたちの教育を任せるんやな」と確認してから引き受ける。

寝屋子たちは中学卒業から、誰かが結婚する二十五、六歳頃まで、およそ十年をともに過ごす。夜八時頃になると寝屋親の家に集まってきて、他愛のない話で盛り上がり、あてがわれた一部屋で寝る。朝になればそれぞれ自宅に帰る。食事は家でとる。寝るところだけを共有するから寝屋なんだ。

加入したての頃の空気を、澤田英三の資料はうまく捉えている。毎日が修学旅行気分で、夜遅くまで喋ったりゲームをしたりして騒ぐことも多い、と。仰々しい儀式の話ばかり読んでいると忘れそうになるが、実際には十五歳の男の子が友達の家に毎晩泊まっているだけなんだよな。ただし十年間、村公認で。

正月と盆に、寝屋子は寝屋親に贈り物をする。返礼として寝屋親がごちそうを振る舞う。これを寝屋子振舞いと言う。誰かが結婚すれば寝屋は解散するが、そこで縁が切れるわけじゃない。解散後は「朋友会」を作り、互いを「朋輩」と呼び合って生涯つきあう。そして誰かが結婚するとき、仲人は二組立つ。通常の仲人と、寝屋親夫妻だ。

数字で見ると、一九九八年三月の時点で十六の寝屋があり、寝屋親と寝屋子の年齢差は十一歳から四十四歳までと幅広かった。鳥羽市の資料では、現在残っている寝屋は約十軒。かつては毎日集まっていたのが、今は週に一、二回。島外の高校や大学に通う子が増えたからだ。昭和三十五年頃までは寝屋の中に年齢の階段があったが、今は同い年の集まりに変わった。寝屋子になるのは家を継ぐ長男と決まっていたのが、次男三男も入るようになった。

一九八五年、昭和六十年に鳥羽市の無形民俗文化財に指定されている。答志地区の高齢化率は三割を超えた。それでも続いているのは、この島の漁業が今も協力を必要とするからだ、というのが研究者の見立てだ。制度が制度として生き残るには、それを必要とする生業がいる。

同じ鳥羽でも、隣の桃取町では一九六〇年頃に寝屋子が廃止された。坂手島の「宿屋制度」は大正の末に消えている。かつては伊勢志摩一帯にあったものが、一か所だけ残った。

村本由紀子と遠藤由美の調査には、寝屋親の重さがよく出る証言が拾われている。若い衆が何かやらかせば、島の人間は「あれ、どこの寝屋子や」と言う。子の失敗が寝屋親の看板に跳ね返る。だから寝屋親は本気で叱る。他人の子を、他人の子として叱れない構造になっているわけだ。

愛媛。十三、十五、十七、十九と、階段が刻まれていた

愛媛の記録を並べると、年齢の刻みが村ごとに全部違うのがよくわかる。丹原町と別子山村瓜生野は十三で褌。瓜生野はさらに十七で若連中入り。久万町は十五でフンドシイワイと同時に若い衆入り。長浜町青島は十五で成人扱いだが、十七で親方に酒を持って親分子分の縁を結ぶ。松山市高浜は十七で元服祝い。松前町は十九で前髪落とし。柳谷村柳井川は二十で宮参り。

娘のほうも、瀬戸町塩成では娘宿、伊予三島市富郷では娘組への入会が成女式の意味を持った。初潮を迎え、着物の肩の縫い上げを下ろすと一人前とされた。

若者組の仕事は、盆踊りの運営、祭礼の神輿かき、農産物出荷の仲仕役。集落の行事を実際に回していたのは彼らだ。娘宿はこの地域では平成の初め頃にはすでに消滅していたと記録されている。

熊本の山村。解体の瞬間が記録に残っている

熊本県水俣周辺の村を追った森栗茂一の一九九三年の論考は、宿がどう壊れたかを一番具体的に見せてくれる。深川村では男が十五、女が十六で組に入り、「青年頭」が絶対的な権限を持っていた。女性の宿は母屋から離れた場所に設けられた。

崩れ方は連鎖的だった。大正の中頃、県の指導で青年宿が青年団に改組される。これで村の自治から国家の管理へ看板が架け替わる。同じ頃、村の外に現金が稼げる仕事が現れる。坑木、樫皮、石炭、鉱山、荷馬車、そして工場。明治末から大正にかけて、村人の生活が村の外の経済に接続されていく。

すると、婚姻と交際の意味が変わる。昭和の初めには、村内の関係と結婚が切り離されていく。相互扶助の講が金銭の講に変わり、詐欺が起き、助け合いの回路自体が壊れた。宿という装置は、村の内側で人と物と婚姻が完結していることを前提にしていた。前提が消えれば、装置も止まる。

薩摩の郷中。似ているようで、系統が違う

南九州には二歳組という呼び方があり、薩摩藩の郷中教育がよく引き合いに出される。稚児から二才へ、そして長老へと年齢で区切られ、年長者が年少者を鍛える仕組みだ。西郷隆盛や大久保利通を育てたと語られるやつだ。

ただ、これは武士の組織で、村落の若者組とは出自が違う。武士階級で若衆宿的な合宿慣行が明確に見られるのは薩摩の郷中くらいで、かなり例外的だという指摘もある。似た形が武家と農漁村の両方に現れるのは、年齢で人を組む発想そのものが、この列島にかなり根深く共有されていたからだろう。

「叱られたのは、親からじゃなかった」

ここからは、語られた記憶を三つ並べたい。

答志島で寝屋子を経験した世代が語る話には、共通の形がある。中学を出た春、親が頭を下げて回って寝屋親を決めてくる。決まった家に、同い年の男が数人、荷物を持って集まる。最初の晩は、はしゃいで眠れない。修学旅行が終わらないような気分だ。

だが数か月もすると、それが日常になる。夜八時に集まり、喋り、寝て、朝には家に帰って漁に出る。そのうち、島の中で何かやらかす。喧嘩でも、盗みかけでも、船の扱いのミスでもいい。すると寝屋親が呼ぶ。そして怒鳴られる。親に怒られるのとは種類が違う、と経験者は言う。親は自分の子だから怒る。寝屋親は、自分が預かった子が島に迷惑をかけたから怒る。逃げ場の質が違うのだ。

そして怒鳴ったあと、飯を食わせる。正月と盆にはこちらが手土産を持って行き、向こうがごちそうを出す。この往復が十年続く。二十五を過ぎて誰かが嫁を取ると寝屋は解散するが、そのときに結婚式の高砂に二組の仲人が並ぶ。実の親でも媒酌人でもない大人が、人生の節目にもう一組立っている。これがどれだけ心強かったか、という語りは繰り返し出てくる。

「布団を背負って、母が黙って送り出した」

愛媛の娘宿については、記録が男側より薄い。それでも断片は残っている。小学校を終えたばかりの娘に、母親が布団を持たせる。行き先は同じ集落の、少し大きな家。そこの主婦が宿親だ。

夜、娘たちが集まる。灯りの下で縄をない、草履を編み、繕い物をする。手が動いているあいだ、宿親が喋る。嫁ぎ先の見つけ方。姑との距離の取り方。産の作法。針の運び方。母親が娘に直接言いにくいことが、他人の口から流れてくる。この構造が肝だった。

若者たちがやって来ることもある。手を貸しながら喋り、歌う。誰と誰がいい仲になったかは、宿の中ではすぐに知れる。宿親はそれを見て、頃合いを計り、双方の親に話を通す。恋愛が私事ではなく、共同体の見守りのなかにあった。

その娘宿が消えるとき、多くの場合、消したのは同世代だった。処女会や女子青年団に入った娘たちが、宿へ行くのをやめましょう、と決議する側に回る。母から布団を持たされて宿へ行った人が、自分の娘には行かせなかった。この断絶の一世代分が、制度の終わりそのものだった。

「泊り屋の柱に、名前が彫ってあった」

高知の泊り屋を知る世代の話は、建物の話から始まることが多い。四隅に立つ栗の丸太。床下は素通しで、そこに漁具や祭りの道具が突っ込んである。梯子を上がると四畳半。夏は蒸し、冬は隙間風が容赦なく吹き上げる。

そこで先輩が延々と喋る。村の由来。誰と誰が親戚か。どこの浜が危ないか。祭りで誰が何を担ぐか。そして酒。飲めるようになるのが仕事のうちだったから、新入りは飲まされ、潰れ、翌朝は真っ青な顔で仕事に出る。

柱には歴代の若衆が小刀で名前を彫っていた、という話がよく出る。何十年分もの名前が重なって刻まれた柱。自分の名を彫った日のことを、七十を過ぎてから思い出す。昭和三十年頃、その泊り屋への出入りは止まった。風紀を乱すという理由がついた。建物は残り、名前も残り、そこで教わったことを使う場面だけが、村から消えていった。

消防団の前身であり、私刑の実行部隊でもあった

若者組を美談だけで語るのは無理がある。この組織は、村の実力部隊だったからだ。

平時の仕事は明快で、火事が出れば消し、津波や洪水が来れば救助に走り、山火事を叩き、道を直し、橋を架け、井戸を浚い、屋根を葺き替える。夜警に立ち、村の入会山を見張る。伊勢の楠部村の記録には、防犯防災、災害救助、普請での労働力提供、祭礼の補助、獅子舞や盆踊りの上演、そして入会山の監視を含む「諸番」の勤務が並んでいる。今で言えば消防団と自警団と青年会と芸能保存会を全部足したものだ。実際、日本の消防団の系譜をたどると、この若者組に行き着く。

祭りも彼らが回した。神輿を担ぎ、囃子を打ち、獅子を舞い、芝居をかける。伝承芸能の担い手がそのまま若者組だった地域は多い。だから若者組が消えると、芸能も一緒に消えた。

そして、村の秩序を維持する力仕事も彼らの担当だった。掟を破った者への制裁は、若者組が実行する。仲間内なら過料と除名。村人に対しては、もっと重い扱いが待っていた。いわゆる村八分の執行者が誰だったかというと、しばしば若者組だ。ある地域の記録には、除名や絶交を決める寄合が年に二度あり、そこで「八分」の適用と解除が審議されたとある。詫びを入れれば戻れる余地もあった。裁く仕組みと赦す仕組みが、両方セットで組み込まれていた。

外向きの顔はもっと剣呑だ。他村への排他性は際立って激しいと記録されるほどで、隣村の若者との喧嘩は日常的だった。祭りの場で境界をめぐって衝突する。他村の男が村の娘のところへ通えば、実力で追い返す。婚姻圏を守るというのは、そういう物理的な話でもあった。

この暴力性は、幕府にとっても頭痛の種だった。一八二八年、文政十一年に幕府は若者組の取り締まりを触書で出している。それ以前から各藩や各村で、博打の禁止、夜遊びの制限、他村との争いの禁止、婚姻の妨害の禁止といった条項が繰り返し出されている。繰り返し出されているということは、守られていなかったということなんだよな。

国家が宿を潰すまで

制度の終わりは、意外なほどきれいに追跡できる。

まず明治維新の直後から、府県レベルで若者仲間の禁止が出る。明治二年、一八六九年に発せられた布達には、若者と称して党を組み、みだりに集まり、品行を乱し、動もすれば村の用に差し支える、といった調子の非難が並ぶ。明治七年にも同様の達しが出ている。新政府にとって、村の中に自前の武力と裁判権を持つ年齢集団がいるのは、単純に邪魔だった。徴税も徴兵も戸籍も、村を素通りして個人に届かないと困る。

性の慣行にも直接手が入った。一八七六年、明治九年に新潟県が夜這いの禁止条例を出している。富国強兵の建前のもと、一夫一婦制と純潔思想が上から降ろされた。

決定的だったのは、若者組を潰すのではなく、置き換えるという手法だった。明治十年代から各地に青年会、夜学会といった新しい組織が生まれる。既存の若者組の器を借りつつ、中身を入れ替えていく。宿泊をやめさせ、夜遊びをやめさせ、代わりに講話を聞かせ、実業補習教育を施す。日露戦争前後にこの動きが加速し、地方改良運動の一環として村ぐるみで再編が進む。一九〇六年、明治三十九年頃の地方誌には、若者団体を改良せよという論説が堂々と載っている。

そして大正四年、一九一五年九月十五日。内務省と文部省が連名で青年団体に関する訓令を出す。青年団体ハ青年修養ノ機関タリ、という一文で性格が定義された。翌一九一六年十一月三日には東京に青年団中央部が置かれる。ここで、村の年齢集団は国家の末端組織になった。

女性側も同じ経路をたどる。処女会、のちの女子青年団が組織され、娘宿は名指しで批判の対象になった。三重の記録は具体的だ。一九一一年、畔名村の処女会が表彰を受けたときの決議には「寝屋ニ行カサルコト」がはっきり書き込まれている。大正期には越賀村で新聞に非難記事が出たのをきっかけにアソビヤが廃止された。一九一八年には船越村の処女会で、会長が寝屋に泊まらず自宅で起き伏しするよう指導している。有滝ではワカヤを存続させるかどうかで青年団の内部が真っ二つに割れ、最終的に消えた。

村の慣行が、村の若者自身の手で否定されていく。しかもその若者は、国家が用意した組織の会員として否定している。この構図が、解体の実像だ。

柳田國男が苦い顔をしたのはここだ。若者組が持っていた自前の教育機能を、学校と青年団が奪い、しかも同じ質のものを返していない、という批判である。ただし、柳田を含む戦後の青年団論が若者組を過度に理想化してきた面もあって、安藤耕己の研究はそこを検証している。実際の若者組は牧歌的な共同体教育の楽園じゃなく、暴力も序列も排他も抱えた組織だった。そこを飛ばして「昔はよかった」に着地するのは、資料の読み方として雑だ。

テレビが来て、宿は静かに終わった

とはいえ、若者組にとどめを刺したのは国家じゃない。経済だ。

戦後、農山漁村から若者が消えた。集団就職の列車が中学卒業生を都市へ運び、高校進学率が上がり、村に残る十五歳が激減した。宿に泊まる人間がいなくなれば、宿は成立しない。

電気が来て、灯りがついた。夜が明るくなると、夜なべの共同作業をわざわざ一か所に集まってやる意味が薄れる。ラジオが来て、テレビが来た。年長者から夜通し聞かされていた村の由来や世間話より、ブラウン管のほうが面白い。宿でしか手に入らなかった情報が、家の茶の間に配送されるようになった。

生業も変わった。動力船が入り、化学肥料が入り、機械が入る。人手を寄せ集めなければできなかった仕事が、少人数でできるようになる。若者組は共同労働のための組織でもあったから、共同労働が要らなくなれば存在理由が半分落ちる。

結婚も変わった。村内婚が減り、村外の相手と結ばれるのが普通になる。娘宿という縁組システムを通さなくても、職場や学校で相手に出会える。瀬川清子らが指摘したとおり、村外婚の増加が娘組の衰退と直結していた。

高知の泊り屋が現役だったのは昭和三十年頃まで。愛媛の娘宿はもっと早く消えた。桃取町の寝屋子は一九六〇年頃に終わった。全国でだいたい同じ時期に、同じ理由で、静かに終わっている。誰かが廃止を宣言したわけじゃない。集まる人間がいなくなって、自然消滅した。

答志島だけが例外になった理由も、この裏返しだ。漁業が今も人手の協力を必要とし、島という単位が閉じていて、相互扶助が実際に役に立つ。制度が生き残るには、制度を必要とする現実がいる。逆に言えば、他の地域では現実のほうが先に消えたということだ。

ネットでこの話が回るとき、決まって歪むところ

ここ十年くらい、この制度はネットで定期的に話題になる。だいたい二つのパターンだ。

ひとつは「日本の闇の風習」枠。十五歳で家を追い出され、村の宿で夜な夜な何が行われていたか、という煽り方をされる。オカルト系のまとめでよく見る形だ。もうひとつは真逆で、昔の日本にはこんな素晴らしい教育の仕組みがあった、という礼賛枠。地域共同体の再生を語る文脈で、若衆宿を理想のモデルとして持ち出す論者は昔からいる。

どっちも半分当たっていて、半分外している。

闇枠の主な間違いは、宿を性の場としてだけ描くことだ。実際の宿の主な用途は労働と教育と防災で、記録に残る条目の圧倒的多数は仕事の作法と祭りの段取りと喧嘩の禁止だ。四畳半の小屋で先輩から縄のない方と船の乗り方を叩き込まれる時間のほうが、量としては比較にならないほど多い。性に関する慣行は確かに制度と接続していたが、それは村が婚姻を管理していた結果であって、宿の目的ではない。

しかも、この手の記事は必ず特定の地名を出して「奇習の村」的に扱う。これは端的に不当だ。若者宿は全国にあった。西日本の沿海部に濃く分布していたのは事実だが、東北にも北陸にも仕事宿の類は広くあった。どこかの村が特殊だったんじゃなく、日本がそうだった。今もその土地で暮らしている人がいることを忘れた書き方は、単に他人の家を覗いて笑っているだけになる。

礼賛枠のほうの間違いは、都合の悪い部分を落とすことだ。村八分の執行、他村への排他性、逆らえない年功序列、酒を飲めるようになるまで飲まされる訓練。宿は逃げ場のない場所でもあった。合わない子どもが十年間そこにいなければならなかったとき、何が起きたか。その記録はほとんど残っていない。残っていないこと自体が、この制度の性格を示している。

考察系でよく出る「若者組が今の暴走族や体育会系の原型」という説も、面白いけど飛躍がある。年齢で人を組み、年長者が年少者を仕込むという形式は世界中にあって、日本の若者組だけが特別なわけじゃない。若者組と現代の集団を直結させるより、年齢集団という仕組みが人間社会でどこにでも生えてくることのほうが、たぶん本質に近い。

もうひとつ、ネットでほとんど言及されないのに外せない論点がある。宿の記録は、ほぼ全部が男の側から書かれているという点だ。娘宿については史料が薄く、聞き取りも遅れた。瀬川清子がその穴を埋めようとしたが、それでも男側の資料量とは釣り合わない。この制度を評価するとき、記録が最初から片側に偏っていることは押さえておいたほうがいい。

で、この話のどこが怖いのか

怖さの正体は、たぶん「合意していないのに、逃げられない」という一点にある。

十五歳の子どもは、宿に入るかどうかを選べない。断れば村での立場がなくなる。入ったら、序列の一番下から十年やる。相手を選ぶことも、抜けることも、基本的にはできない。抜ける方法はただひとつ、結婚することだ。人生の出口が結婚しか用意されていない期間が十年ある、というのは、想像するとけっこう重い。

しかも、この閉じ込めは悪意でできていない。村は本気で子どものためを思っていた。宿親は本気で他人の子を叱った。掟は本気で公平を目指して書かれた。えこひいきを除名対象にするような組織が、悪意だけで回るわけがない。善意と必要と伝統で編まれた檻というのが、いちばん出にくい檻なんだよな。

もうひとつの怖さは、この制度が驚くほど最近まで生きていたことだ。昭和三十年頃まで現役だった。今八十代の人が、若い頃に泊り屋に上がっている。祖父母の世代の話だ。歴史の教科書の向こう側じゃない。地続きなのだ。そして、その地続きの部分が、たった二十年ほどでほぼ完全に消えた。文化というのはこんなに脆いのか、というのがいちばん怖い。

同時に、失ったものもはっきりしている。他人の子を本気で叱れる大人が、村に何人もいた。親でも先生でもない大人が、十年間そばにいた。困ったときに相談できる相手が、血縁の外に用意されていた。結婚式で仲人が二組立つ社会。今、これを制度として持っている場所は、答志島くらいしかない。

十五で家を出た子どもたちは、そこで大人にされた。良くも悪くも、村が総出で。その仕組みを、私たちはまるごと捨てて、代わりに学校と会社を置いた。置いたものが同じ質の何かを返しているかどうかは、たぶんまだ答えが出ていない。

これは教育でも風習でもなく、村の人事制度だった

改めて全体を眺め直すと、若者宿というのは村という組織の人事制度だったと考えたほうが、いろんな辻褄が合う。

村は毎年、決まった数の労働力と防災要員と祭礼の担い手を必要とする。ところが人間は勝手に育たない。放っておけば、船の乗り方も知らず、火事のときにどこに立つかも知らず、隣村との因縁も知らない大人ができあがる。それでは村が回らない。

だから村は、十五歳という時点で子どもを家庭から引き上げ、共同体直轄の訓練課程に十年間放り込むことにした。カリキュラムは口伝えで、教官は五歳上の先輩で、教室は四畳半で、卒業要件は結婚。修了後は消防団に入り、次に漁協に入り、やがて組合幹部になる。年齢階梯制というのは、要するに村全体を貫く終身雇用の等級表なんだ。答志島の記録に残る、子ども、青年団、消防団、漁業組合、組合幹部という並びは、そのまま職級表として読める。

この見方に立つと、若者組の暴力性も理解しやすくなる。人事制度は必ず評価と処分を伴う。過料、除名、そして村八分。伊勢の楠部村の元禄十四年の帳面が、罰と褒美を同じ会計で回していたのは象徴的だ。あれは村の懲戒規程であり賞与規程だった。えこひいきを除名対象にしたのも、人事の公平性を担保する条項だと読める。組織の維持を最優先にすれば、掟破りに対する制裁は容赦のないものになる。若者組が私刑の実行部隊になったのは逸脱ではなく、設計どおりの動作だった。

そして、国家がこれを潰した理由も同じ枠で説明がつく。明治政府が困ったのは、村の中にもうひとつ完結した人事と司法と武力の体系があったことだ。徴兵も徴税も就学も、村の頭越しに個人へ届かなければ機能しない。だから明治二年の布達から大正四年の内務省・文部省訓令まで、およそ半世紀をかけて、村の年齢集団は国家の青年団に架け替えられた。

青年団体ハ青年修養ノ機関タリ、という定義文は、村が持っていた実務機能を全部そぎ落とし、精神修養だけを残すという宣言だ。消防機能は消防組へ、教育機能は学校と実業補習学校へ、婚姻管理機能は近代家族と戸籍へ。ばらばらに解体して各省庁に配分した。柳田國男が苦い顔をしたのは、この分割によって「一人前を作る」という一本の道筋が失われたからだろう。もっとも、戦後の青年団論が若者組を理想郷のように語ってきたことについては、安藤耕己が指摘するとおり相当に割り引いて読む必要がある。若者組は牧歌的ではなかった。

娘宿を終わらせたのは、娘たち自身だった

娘宿の消え方には、また別の重さがある。

三重の記録に出てくる一九一一年の畔名村処女会の決議、大正期の越賀村でのアソビヤ廃止、一九一八年の船越村での指導。これらに共通するのは、外から役人が来て潰したのではなく、同世代の女性たちが自分たちの手で終わらせたという点だ。

新聞に風紀を非難され、表彰と引き換えに決議を書き、自宅で起き伏しするよう申し合わせる。近代的な自己規律を身につけることが、そのまま伝統の否定になった。母から布団を持たされて宿へ通った人が、自分の娘には通わせなかった。この一世代分の断絶が、制度の死そのものだ。

しかも、その断絶を選んだ人たちを責めるのは難しい。彼女たちには彼女たちの理由があった。宿が自由の場だっただけでなく、逃げられない場でもあったことを、いちばんよく知っていたのは当事者だからだ。

答志島が残った理由を、単に離島だからで片付けるのも雑だ。村本由紀子と遠藤由美の分析が面白いのは、生業の必要から生まれた慣行が、やがて生業から半ば独立して「社会環境」として自律的に維持されるようになった、と見る点にある。つまり寝屋子は、もはや漁の効率のためだけに続いているのではない。寝屋親を頼まれることが名誉であり、朋輩が生涯の関係であり、結婚式に仲人が二組立つことが誇りである。そういう意味の網が、制度を支えている。

実利で始まったものが、意味で続く。だからこそ週一、二回に減っても、次男三男が入るようになっても、形を変えて残った。逆に言えば、他の地域では実利が消えたとき、支える意味の網がもう残っていなかったということになる。

最後に、この題材を扱うときに毎回引っかかる点を書いておく。若者宿の記録は圧倒的に男の側から書かれている。条目も、聞き書きも、研究史の中心も。瀬川清子が一九七二年に娘の側から書いた仕事は、その意味で例外的な重さを持つ。

そして、記録に残らなかった声もある。宿の序列に馴染めなかった子。十年を耐えるしかなかった子。掟に引っかかって村八分にされた家。彼らの言い分は、条目にも聞き書きにも残りにくい。制度がうまく機能したという証言ばかりが後世に伝わるのは、うまくいかなかった人が語らないまま死ぬからだ。若者宿を懐かしむにしても批判するにしても、手元にある資料が最初から生存者の側に偏っていることは、忘れないほうがいい。

十五になった子を、家から引き剥がして村が丸ごと預かる。そんなことが、この国のあちこちで、つい昭和三十年代まで平然と行われていた。今その仕組みを復活させるのは無理だし、するべきでもない。ただ、あれが解決していた問題、つまり親でも教師でもない大人が若い人間のそばにいるという問題は、制度が消えたあとも消えていない。宿は無くなった。宿が引き受けていた役目のほうは、今どこにあるんだろうな。

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