- 村の外れに、腕を組んだ武者が立っている
- 「送る」という発想そのものが、もうおかしい
- 藁と紙でできた身代わり
- 茨城・爪木の人形送り、その一部始終
- 法眼様という役職
- 村境に立てる、という一点にすべてが集約する
- 鹿島大助、大助人形――名前の広がり
- 秋田の鹿島様は、身長四メートルある
- 菅江真澄が「草仁王」と書き留めた
- 鹿島流し――川に流すバージョン
- 雄物川沿い、夜十時半の送り出し
- 日付が地域でバラバラな理由
- 弘化三年の日記に、すでに書いてある
- 若者たちの行列が、ときどき暴走した
- 突き返された人形と、村同士の喧嘩
- 押しつけている、ということを、みんな分かっていた
- コト八日という、もうひとつの窓口
- 一つ目小僧が、帳面をつけに来る
- 目籠を掲げ、臭いものを並べて追い返す
- 三河のコトガミ送り人形は、三体一組だった
- トノサマとオクガタとオトモ
- 子どもが鉠と太鼓で送り出す
- 振り返るな、という禁忌
- 送られた人形を、拾ってはいけない
- 体験談その一 畑の畔で見つけたもの
- 体験談その二 「あれは隣の村のだ」
- 体験談その三 四十年ぶりに人形を作った年
- 疫病が来ると、人はまた人形を作る
- ネットの反応と、「押しつけ合い説」への反証
- ではなぜ、喧嘩になったのか
- なぜこれが怖いのか
- 境という場所の、道徳のグレーゾーン
- 送りの行事に共通する、三つの技術
- 終わりの合図がある押しつけと、ない押しつけ
- こちらを向いている人形を見てしまったとき
村の外れに、腕を組んだ武者が立っている
田んぼ道を自転車で走っていて、集落の切れ目にさしかかったところで、いきなりそれが立っている。藁でできた人形だ。真竹を芯にして、篠竹で作った大小の刀を差している。腕を組んでいて、顔にあたる部分には墨で目鼻が描いてある。藁と竹だけでできているのに、大小の刀を差して腕を組んだその立ち姿には、見る側をたじろがせる妙な迫力がある。
雨で少し崩れかけている。看板もないし、説明もない。ちょうど隣の集落との境にあたる場所で、こっちを向いてはいない。背を向けている。これはアートでもオブジェでもなくて、現役の装置だ。
この村で発生した災いを背負わせて、ここまで担いできて、置いていったもの。要するにこの人形は、ここから先は自分たちの問題じゃないという宣言なんだよな。誰がいつ置いたのかはどこにも書いていないのに、何のために置かれたのかだけは、見れば伝わってくる。
「送る」という発想そのものが、もうおかしい
病が流行ったとする。普通なら、神仏に祈って消してもらうとか、薬を探すとか、そういう方向を考える。でも日本の村落が選んだ方法は違った。祈って消すのでも薬で治すのでもなく、災いそのものを担げる形にして、村の外へ運び出す道を選んだ。
災いは消せない。だから、どこかへ移す。人形に移して、その人形を村の外へ送り出す。この発想の痛快なところと、同時にちょっと道徳的にヤバいところは、当時の人も十分に自覚していたらしい。なにしろ、送り先はしばしば隣村だったからだ。
疫病神を自分の村から追い出すというのは、向こうの村に押しつけるということでもある。このごくしぜんとしたロジックが、全国で百年単位で実行されてきた。自分の村の荷を軽くした分だけ隣の荷が重くなる勘定を、送る側は承知のうえで毎年くり返していた。
藁と紙でできた身代わり
使われる素材はいたって地味だ。稲藁、麦藁、竹、障子紙。どこの家にもあるものだけで作る。これは重要なポイントで、高価な材料を使ってしまうと「捨てる」ことができなくなる。金や手間をかけすぎた人形は惜しくて手放せないから、送り出す道具としては役に立たないわけだ。
人形は送ったらそれっきり。拾いに行かないし、修理もしない。雨に打たれて崩れて土に戻るのを待つ。だから藁なんだ。作った人たちは、送り出した人形が雨風に打たれてどこでどう朽ちていくのかを、わざわざ確かめに戻ったりはしなかった。
一年で消えることが前提の儀式具。顔だけはやたら丁寧に作る地域が多い。崩れて消えるのが決まっている人形なのに、顔にだけは作り手が手間を惜しまなかった。
墨で描いたり、面を彫ったり、現代だとサインペンで書いたりする。顔がないと、災いが乗り移らないと思われていたらしい。雑なのに顔だけ真剣というバランスが、人形を妙に不気味にしている。目鼻を入れてはじめて、ただの藁束が災いを受け取れる器として扱われるようになった。
茨城・爪木の人形送り、その一部始終
茨城県鹿嶋市に、「人形送り」という名前で記録された行事がある。主な記録地は爪木地区。記録に残っているのは、藁人形を抱えて家から家へ回り、最後に村境へ送り出すまでの一連の流れだった。
最初に各家を回る。藁人形を手に持って家の中に入り、左右に振りながら「悪魔拂い」と三回唱える。これを村中の家で繰り返す。人形は、集落全戸の悪いものを順番に拾って回る容器なんだ。人形を持った一行が玄関から上がり込んで振って回るのだから、どの家も、自分のところにたまった災いを残らず差し出す格好になった。
全戸を回り終えると、人形は集落分の災いを全部背負った状態になる。ここからが本番だ。集落の人たちは熊野神社の前に集合し、列を組む。一軒ずつ集めて回った災いを抱えたまま、一行は神社の前から村の外れへ向かって歩き出した。
先頭に立つのは、村の最年長者だ。
法眼様という役職
爪木の行事では、行列を率いる人を「法眼様」と呼んだ。ここが面白い。法眼というのは本来僧侶や医師に与えられた位階の名前だが、ここでは村の最年長者がその役を務める。専門の宗教者を差し置いて、一番長く生きている人に災いを送る権限がある。僧侶や医師の位の名前だけを借りてきて、中身は村の年寄りに任せてしまうというところに、ムラらしい割り切りが見える。
これはムラの儀礼としてはずいぶん古い形を残していると見ていい。寺や神社の神職が主導する以前の、共同体自体が自分で災いを処理していた段階の面影。外から誰かを呼んでくるでもなく、村はいちばん年を重ねた一人を立てて、自分たちの手で災いを外へ運び出していた。
ちなみに行列は太鼓と鉠を鳴らしながら進む。静かにとは正反対に、大音量で行く。これは送られる側に「今から行くぞ」と告知しているようにも見える。こっそり捨てに行くのとは違って、音を立てて歩くことそのものが、送りの一部に組み込まれている。
村境に立てる、という一点にすべてが集約する
行列の目的地は、大掛辺田の下の宮中との村境だった。ここに人形を立て、念仏を唱えて、帰る。この「境に立てる」という行為の意味は重い。爪木の人たちは、村の中でも隣村の中でもない一本の線の上まで、わざわざ人形を運んで立てた。
境は、こちらとあちらを分ける線だ。そこに立てるというのは、災いを線の上に置いてくるということ。内側には戻さない。かといって向こうの完全な内側までは送り込まない。向こうへ押しつけきるでもなく、こちらで抱え込むでもない、どっちつかずの場所をわざと狙っているわけだ。
この微妙な位置取りは、示唆的だと思う。完全に隣村の中に置いてきたら、それはもう喧嘩の種になる。線の上に置くというやり方は、揉め事を避けながら災いを手放すための、ぎりぎりの落としどころだったんだと思う。
境なら、ちょうど半分だ。でもムラの人間は全員分かっている。これは向こう側に顔を向けているということを。線の上に置いたところで、人形の顔の向きひとつで、置いた側の本音は隣の村にもそのまま伝わってしまう。
鹿島大助、大助人形――名前の広がり
同じものが、地域をまたぐと名前を変える。鹿嶋市域以外では「鹿島大助」「大助人形」などと呼ばれている。大助というのは人名めいた響きだが、これが鹿島神宮の神の使いだという解釈と、疫病神そのものだという解釈の両方がある。ここがこの行事のややこしいところで、送られていく人形は災いの化身でもあり、災いを退ける神でもある。悪いものを縛って行く強い神様だと考えれば道徳的な罪悪感は消える。
本当のところ、この二重性は意図的に保たれていたのかもしれない。どちらにも読めるからこそ、村は安心して送れたんだ。神の使いとして担ぎ出せば胸は痛まないし、疫病神として見れば送り出す理由もはっきりしていた。
秋田の鹿島様は、身長四メートルある
北関東から東北へ北上すると、この人形は巨大化する。秋田県に分布する「鹿島様」は、湯沢市岩崎地区だと高さ四メートルほどになる。人間の倍以上だ。集落の入口にこれが仁王像みたいな面をつけて立っている。自転車で通りかかって出くわしたら、見上げないと顔が分からないほどの大きさだ。
しかも地域によっては男女一対で作られ、性器がはっきり強調されている。子孫繁栄の願いが乗っているからだ。疫病を防ぐ神であり、道祖神であり、子を授ける神でもある。この多機能ぶりは、境に立つものの典型的な性質だ。疫病よけの神の役も、道祖神の役も、子を授ける神の役も、村の入口に立つたった一体の藁の巨人へまとめて背負わせているのが面白い。
境は危険であると同時に、新しいものが入ってくる口でもある。外から来る悪いものを止める場所と、新しいものを迎え入れる場所が、村の入口という同じ一本の線の上で重なっている。
菅江真澄が「草仁王」と書き留めた
この巨大人形の古さを知る手がかりが、江戸後期の旅行家・菅江真澄の記録だ。真澄は東北各地を歩き回って庶民の暮らしを細かく写生した人で、集落の入口に立つ藁の巨人を見て、これを「草仁王」と記している。草でできた仁王。寺の門に立つ金剛力士の役割を、藁の人形が集落の入口で果たしているという見方だ。
二百年前に、すでにこの風景があった。これは、この行事が近代の発明ではないことの強い証拠になる。藁の人形は崩れて土に戻るから実物は残らず、書き留めた人の記録だけが古さを伝える手がかりになった。真澄は、寺の門にいるはずの仁王が藁でできていて、しかも村の入口に立っているという姿に目を留めて、それを書き残した。
真澄のスケッチというのは、民俗の世界では本当に貴重な資料なんだよな。絵や文で残してくれた人がいなければ、藁の巨人がいつから立っていたのかさえ、今では分からなかった。
鹿島流し――川に流すバージョン
村境に立てる代わりに、川や海に流すやり方もある。これが「鹿島流し」だ。紙や藁で人形を作り、小さな舟に乗せて、川に流す。境に立てて崩れるのを待つ人形と違って、こちらは水の流れに乗せて、村から目の届かないところまで運んでいく。
こっちのほうが、考えようによってはクリーンだ。隣村に押しつける代わりに、流れに乗せてこの世の外へ送り出す。現実には、川は下流に別の村を抱えている。上流から流れてきた人形を、下流の村はどう見たのか。上流の村にとってはすっかり手放したつもりでも、下流の村にとっては、見知らぬ災いを乗せた舟が向こうから勝手に流れてくる。
この問題は現に問題化していて、下流側が網で引き上げてさらに下に流しなおしたという話や、河口まで監視したという話が各地に残っている。下流の村の人たちは、上から流れてきた人形を、自分たちの前をただ通り過ぎていくものとして眺めているだけでは済ませなかった。川に流せば後腐れがない、というほど話は簡単ではなかった。
雄物川沿い、夜十時半の送り出し
一九八三年三月に出た秋田県立博物館の研究報告に、雄物川町深井の鹿嶋行事を中心にした精密な記録がある。これがとにかく具体的で、当日の進行を分単位で追える。報告は、祭りの一日の段取りを時刻まで押さえながら、順番に書き留めていた。
七月十六日。鹿嶋人形を乗せた屋形船の上で、小学四年から六年の女の子が手踊りを披露する。夜になって、午後十時三十分、八幡神社前で人形を鹿嶋舟に移す。そこから雄物川の河床敷まで担いでいき、川へ流す。
夜の川面に、灼かれた人形を乗せた舟が浮かんで、ゆっくり下っていく。これを岡で見送るというのは、相当な光景だったはずだ。昼の手踊りのにぎわいから夜の川べりの暗さまで、同じ一日のうちに移り変わっていった。
日付が地域でバラバラな理由
同じ報告を見ると、秋田県内だけでも日付は大きくバラつく。大館市根下戸は六月一日。八森町は六月末だ。秋田市新屋は旧暦五月二十一日。大曲市大川西根は五月二十七日だ。
雄物川町深井は七月十六日。湯沢市柳川は旧暦六月二十四日だ。幅にして二ヶ月以上ある。これは行事が上から降ってきたものではない証拠だ。上からなら日は揃う。
それぞれの集落が、自分たちの農作業の区切りや病の流行る時期に合わせて日を決めていた。号令ひとつで一斉に動く行事なら、こんなふうに日取りが県内でばらけるとは考えにくい。
だから隣同士で日がちがうこともある。このズレが、あとで面倒なことになる。日取りが村ごとに違う以上、隣の村がいつ人形を送ってくるのか、こちらの村からはまったく見当がつかないこともあった。
弘化三年の日記に、すでに書いてある
この行事の古さを裏付ける史料として、小沢文兵衛の『歳中必要日記』がある。弘化三年、西暦で一八四六年の記述に、六月十八日に鹿島祭を行い、餅をつき、夜には灯籠をつけたという意味のことが書かれている。幕末の村の人が、今年もやったぞと日記にメモしているわけだ。儀式の神聖さというより、年中行事のルーティンとして淡々と記録されているところがいい。
文兵衛は、祭りの日にやったことを、特別な感想も添えずに書き残した。
彼らにとってこれは、病気を送る奇祕な儀式とは違って、毎年やることだった。毎年やることになっていたからこそ、数百年続いたんだろう。特別な日というより、毎年同じころにめぐってくる当たり前の用事として、送りは村の暦に組み込まれていた。
若者たちの行列が、ときどき暴走した
同じ報告に、目を引く古老の証言が載っている。旧大森町では、鹿嶋舟を担いだ若者たちが、日ごろのうっぷんをはらすノリで特定の家を目掛けて突入し、破損を与える騒ぎになったことがあった、という。これは儀式の逆機能としてめちゃくちゃ面白い。災いを送るという目的のもとで、若者集団が普段なら許されない暴力を行使できる状態になる。担いでいるのは神の人形だから、自分の意志でやっていることにならない。
神がその家に行きたがった、という言い方ができてしまう。儀式は時として、こういう抜け道を作ってしまう。ふだんなら家の人に詰め寄られるような乱暴も、神の人形を担いでいる間だけは責任の置き場がぼやけた。
突き返された人形と、村同士の喧嘩
もっと重い記述が続く。村々でも鹿嶋流しをきっかけに、村同士のけんかになったことがたまたまあった。それがもとで、鹿嶋流しの行事自体が大方取り止めになってしまったというんだ。これは重大な証言だ。村同士のけんかの火種になったのは、ほかでもない、自分の村を災いから守るために毎年送り出していたはずの人形だった。
この行事は、相手のある儀式だった。送る側がいれば、送られる側がいる。受け取った側が黙っていないこともある。うちの境に何置いていくんだという話になる。拾って送り返す、という実力行使も起きる。
送ったはずの災いが、翌日には自分の村の境に戻っている。これほど不気味な光景もない。ちゃんと境まで送り届けて、これで今年はもう安心だと思っていた村にとって、これほど気味の悪い返事はほかに無かったと思う。
押しつけている、ということを、みんな分かっていた
この行事をやっていた人たちは、自分たちのやっていることの意味を十分に理解していた。ここは確認しておきたい。無知な農民が迷信で人形を作っていたわけじゃない。人形をどこに置くかを選ぶときも、どちらを向かせるかを決めるときも、村の人たちは送り先の隣の村のことを頭に置いていた。
境のことでもめるのは、送り先を意識している証拠だ。押しつけているという自覚がなければ、揉め事にならない。だからこの行事は、村落と村落の外交の問題でもあった。どこに置くか、何時に置くか、どちらを向かせるか。
すべてが交渉の対象だったと思ったほうがいい。神事の皮をかぶった、ずいぶん生俗な交渉だ。表向きは神様のための行事の顔をしていても、その中身は、隣の村とのあいだの駆け引きとして毎年回っていた。
コト八日という、もうひとつの窓口
人形送りの話をすると、必ずもうひとつの行事が絡んでくる。事八日、通称コト八日。二月八日と十二月八日の年二回が基本形で、地域によっては十一月八日や四月八日、一月八日、三月八日、七月八日、十月八日なども報告されている。
中部以東では両日やることが多く、北陸から西日本は十二月が中心。近畿や中国地方だと十二月のみというところが多い。青森、山形、福島の一部の地域では旧暦で行う例もある。同じコト八日という名前で呼ばれていても、土地によって年に一回だったり二回だったり、新暦だったり旧暦だったりと、やり方の幅はずいぶん広い。
この日に何が起きるかというと、外から何かが来る。
一つ目小僧が、帳面をつけに来る
やってくるものの名前は地域で違う。一つ目小僧、箕借り婆、疫病神、ダイマナコ。共通しているのは、こいつらが家に入ってくると災いが起きるという点。一つ目小僧でも箕借り婆でも、呼び名はばらばらだが、家の中へ災いを持ち込んでくる外からの客、という点では同じ顔ぶれだ。
特に神奈川や関東の伝承では、一つ目小僧が帳面を持って家々を見て回り、悪い家の名前を控えていくという。その帳面をどこかに置き忘れて、后日取りに戻ってくる。だから二月と十二月の二回ある。
病気や災いに「名簿」という事務的なイメージを与えているのが、気味悪いなと思う。災いはランダムには降りかからず、リストに基づいて選別される。誰が帳面に書かれるかで災いの行き先が決まるのだから、名前を控えられる側はたまったものじゃない。
目籠を掲げ、臭いものを並べて追い返す
こいつらを防ぐ方法がめちゃくちゃ具体的だ。目籠を竹竿の先に差して軒先に掲げる。目がたくさんあるから、一つ目の化け物が驚いて逃げるという理屈だ。他にもハリセンボン、蜂の巣、ヨモギ、山椿、唐辛子、ニンニク、柊鰯などを戸口や軒下にぶら下げる。
トゲと臭いと目。この三つの組み合わせは、日本の境界防衛の基本セットだ。面白いのはこれらがすべて「入ってこさせない」方向の対策であること。目籠の目で脅かし、ハリセンボンのトゲで刺し、ニンニクや柊鰯の臭いで追い払うという、それぞれ違う手で同じ相手を戸口で止めていた。
人形送りが「出してしまう」方向の対策だから、この二つはセットで使われやすい。外から来るものは戸口の目籠や柊鰯で止めて、それでも中に入り込んでしまったものは人形に移して送り出す、という分担だ。
三河のコトガミ送り人形は、三体一組だった
愛知県の山間部に、えらく細かく記録された事例がある。北設楽郡設楽町田峯の「コトガミ送り人形」。現在も豊田市下山地区羽布や、岡崎市額田地区の大代・雨山に同種の行事が残っている。この人形が面白いのは、一体じゃないところだ。
三体一組で作る。高さは三十五センチほど、幅は二十五から三十センチ。麦ワラで体を作り、障子紙を被せて着物にする。顔は現代ではサインペンで描く。麦ワラの体に障子紙の着物を着せて、顔まで描いてあるので、小さくても人の姿として見えるように作られていた。
竹に挿して担げるようになっている。小さい。
でも、小さいからこそ子どもが担げる。
トノサマとオクガタとオトモ
三体には名前と役割がある。一体目はトノサマで、刀を差した男。二体目はオクガタで、女だ。三体目はオトモで、新小麦を背負った男。一行は、武家の主人とその妻と供の三人旅なんだ。
病気や害虫を、この三人に背負わせて旅に出してもらう。オトモが新小麦を背負っているのは、道中の食べ物だ。しっかり弁当を持たせている。この気遣いが、この行事の芯を表していると思う。災いを背負わせて追い出すだけの相手に、村の人たちはわざわざ道中の食べ物まで用意して持たせた。
追い出しているのに、道中で困らないように食料を持たせる。完全に敵対しているわけではない。丁重に、下手に出て、帰ってもらう。
子どもが鉠と太鼓で送り出す
この行事の実行部隊は、子どもたちだ。鉠や太鼓を打ち鳴らしながら列を組んで、ムラの西端まで人形を送り出す。西という方位が指定されているのは、西方浄土の方向だからだろう。鉠と太鼓のにぎやかな音を立てながら、子どもたちの列は三体の人形を担いで、ムラの西の端まで進んでいった。
子どもにやらせるのには理由があって、子どもはまだ完全にムラの一員ではないと考えられていた。神側に近い。だから境を越えても帰ってこられる。大人が境に行くと危ないが、子どもなら大丈夫だという発想は、全国の境の行事で広く見られる。
子どもは境を渡る使者なんだ。大人が行くと危ない境の線を、まだ神側に近い子どもだけは行って帰ってこられるという考え方が、この役目を支えていた。
振り返るな、という禁忌
ここで、もっとも有名なルールが登場する。人形を置いて帰るとき、振り返ってはいけない。振り返れば、疫神が取り付く。この禁忌は各地にすごく強く存在していて、送り系の行事ではほとんど例外がない。
理屈は分かる。振り返るのは、向こうと目を合わせるのと同じだ。目が合えば関係が再接続する。せっかく切った縁が、もう一度つながる。だから子どもたちは、人形を置いた瞬間に前だけを見て走って帰る。
この瞬間を想像すると、相当怖い。背後に何かがいると分かっていて、見ないで走る。背中のほうに人形を置いてきたまま、後ろを見たくなるのをこらえて前だけ向いて走り続けるのは、子どもにとって相当つらかったと思う。
送られた人形を、拾ってはいけない
もうひとつの禁忌が、送られてきた人形に触れるなというもの。これは送られる側のルールだ。村境に見知らぬ人形が立っていても、触らない。倒さない。燃やさない。
そのまま崩れるのを待つ。子どもには「あれには近寄るな」と厳しく言い聞かせる。なぜなら、人形は容器だからだ。中身が入っている。
触れば、中身がこちらに移る。この感覚は、子どものエンガチョとまったく同じ回路で動いている。災いは接触で移る。
だから境に置いて、誰も触らない。完璧なロジックだ。送る側も送られる側も、災いは触れると移るという同じ理屈を信じていたから、この押しつけの仕組みはちゃんと回っていた。
体験談その一 畑の畔で見つけたもの
二〇〇〇年代の初め、東北のある集落で、中学生の頃、自転車を漕いで帰っていた少年が、畑の畔に倒れている藁人形を見つけた。高さは自分の胸くらい。顔があって、何かの紙が胸に巻いてあった。
好奇心で拾い上げて、紙をめくってみた。無理もない話だ。墨で何か書いてあったが、にじんで読めなかった。家に帰って祖母に話したら、祖母の顔色が変わった。
すぐに手を洗わされ、塩をかけられ、その日のうちに祖母が長靴を履いて現場に行き、手を合わせて元の向きに戻してきたという。少年はその後一週間、理由の分からない熱を出した。本人は今でも「ただの風邪だと思うんだけどな」と前置きしてから、この話をするらしい。その日のうちに長靴を履いて出かけていった祖母の動きの素早さからすると、祖母にとってあれはただの落とし物で済むものじゃなかった。
体験談その二 「あれは隣の村のだ」
別の地域の話。小学生のころ、祖父と山菜採りに行った帰り道で、小さな峠の上に人形が三体並んでいるのを見た。子どもが「なんこれ」と聞いたら、祖父は足を止めずに「あれは隣の村のだ」とだけ言った。
どういう意味かと聞いても答えない。ちょっと早足になって、峠を下り切るまで一言も話さなかった。足を止めずに言った祖父の短い一言も、そのあとの早足も、それ以上は聞くなという合図のようなものだ。後年、その人が郷土史を調べて、当地に確かに送りの行事があったことを知った。
自分の集落と隣の集落で行事の日が一週間ずれていたことも分かった。あの日見た人形は、こちらが送る前に向こうが送ってきたものだったのかもしれない。祖父が黙った理由が、いまなら分かるという。
体験談その三 四十年ぶりに人形を作った年
二〇二〇年の春から夏にかけて、全国の集落で奇妙なことが起きていた。長らく中断していた送りの行事を、人々が自発的に復活させはじめたんだ。典型的なパターンはこうだ。
公民館での会合で、八十代の参加者が「昔、うちの集落では病が流行ると人形を送ったもんだ」と口にする。最初は誰も相手にしない。行事が次々に中止になり、やることがなくなっていくうちに、「じゃあ作ってみるか」となる。公民館で八十代の参加者が口にした、誰かの思い出話にすぎなかったはずの人形送りが、その年は本当に集落の手で作られることになった。
藁の束ね方を覚えているのは一人か二人しかいない。その人を囲んで、十人ほどで半日かけて作る。できあがったものを見て、誰かが「こんな顔だったかな」と言う。その場にいた人は、そのやり取りが一番印象に残っていると言う。正解を知っている人は、もういない。
疫病が来ると、人はまた人形を作る
この復活現象は、民俗学的にはずいぶん面白い事例だと思う。行事というのは、ニーズが消えると形骸化して廃れていく。ニーズが戻ってくると、形骸から復元される。長いあいだ使われずに消えかけていた作法が、必要とされた途端に、年寄りの記憶の底から引っぱり出されてきた。
しかもこのとき復元されるのは、厳密には元の行事ではない。覚えている人の記憶と、残された写真と、郷土史の記述と、現代の事情を混ぜた新しい行事だ。でもそれでいいんだ。もともとこの手の行事は、その年の不安を形にして外へ出すための装置だった。
不安がある年に、形が必要になる。人形を作るというのは、不安を一度手で触れる作業なんだよな。みんなで藁を束ねて、顔を描いて、人形の形に仕上げていくあいだだけは、形のない不安にも、ちゃんと手ざわりがあった。
ネットの反応と、「押しつけ合い説」への反証
この風習がネットで紹介されると、だいたい反応は二つに分かれる。ひとつは「隣村に病気を押しつけるとか鬼畜すぎる」という反応。もうひとつは「いや隣村も同じことやってるからフェアだろ」という反応。両方とも部分的には正しい。
ただ、押しつけ合い説には重い反証がある。実は、送り先として想定されているのは、隣村とは決まっていない。村境にぽつんと立つ人形を見ると、どうしても隣の村に向けたものに見えてしまうが、伝承のほうはもっと遠くを指している。
多くの伝承で、人形は「海の彼方」や「川の下流」や「西方」へ行くことになっている。目的地はこの世の外で、村境はその入口にすぎない。境に置くのは、隣に渡すためでなく、この世の端っこに置くためだという読み方。
ではなぜ、喧嘩になったのか
とはいえ、現実に村同士のけんかが起きている以上、理念と運用はズレていた。ここがこの行事の一番人間臭いところだと思う。建前では、人形はこの世の外へ旅立つ。でも現実には、境に物理的な藁人形が残る。送る側は遠くへ旅立たせたつもりでも、受け取る側から見えるのは、自分の村の端に立つ藁の塊だった。
それを見た隣村の人は、建前を知っていても、良い気はしない。特に自分の村で病人が出たタイミングだったら、因果関係を結びつけないほうが難しい。建前と現実の隣接。このギャップが、百年単位で小さな摩擦を生んできた。
なぜこれが怖いのか
幽霊も妖怪も出てこないのに、この風習はすごく怖い。理由はいくつかある。ひとつ目は、災いが物理的な実体として扱われていること。見えないはずの病や不幸が、藁の中に入って、担げる重さを持って、道を移動する。
次に、それを子どもが担いでいること。それから、境に置いて、振り返らずに帰ること。この一連の所作が、災いを完全に実体化してしまう。一番怖いのは、このシステムが本当に安心を供給していたことだろう。
人形を送った夜、村の人は安心して寝ていた。でも境には、何かが立っている。送った側の村の人たちがぐっすり眠っているあいだも、藁の人形は明かりのない暗い境で、黙って立ち続けていた。
境という場所の、道徳のグレーゾーン
日本の村落は、境にとにかくいろんなものを置いてきた。道祖神、地蔵、自然石、大きな草鞋、しめ縄、それに人形。境は防衛ラインであり、同時に廃棄場でもある。内側に置けないものを、外には出さないまま、境に置く。
このグレーゾーンの発明は、ものすごく実用的だ。問題は、すべての境は同時に別の共同体の境であるということ。この国は隣接した集落でびっしり埋まっていて、どこにも「外」なんてない。こちらの村の外れは、そのまま隣の村の入口でもあるから、境に置いたものはいつでも誰かの目の前にある。
外に出したつもりのものは、必ず誰かの内側のすぐ外にある。この事実を、村の人もちゃんと知っていた。知っていて、それでも送った。
送りの行事に共通する、三つの技術
人形送りという一群の行事を並べてみると、すべてに共通する三つの技術が見えてくる。一つ目は、見えないものを見える形に変換する技術。病、不作、災難。これらは本来、手で触れることができない。
ところが藁を束ねて人形を作り、各家を回って「悪魔拂い」と唱えた瞬間、災いはこの人形の中にいることになる。二つ目は、空間を内と外に分ける技術。この行事は必ず村境をゴールに設定する。境という線は、自然にはどこにも無い。
人間が引いたものだ。儀式を繰り返すことで、この線は実在のものになっていく。毎年同じ場所まで人形を運んで置いてくるという儀式を繰り返したからこそ、目に見えない線が、村人にとって本物の境になった。
三つ目は、役割を分担して責任を分散する技術。人形を作るのは大人、作法を知っているのは年長者、担ぐのは子ども。誰も一人では災いを扱わない。この分散が、儀式に必須の安全装置になっている。
終わりの合図がある押しつけと、ない押しつけ
もうひとつ改めて考えておきたい。この行事は、現代にも形を変えて生きている。不安を形にして、境界の向こうに置いてくる。この手続きを、人は今でもやっている。
悪いことは全部あいつのせいだという国内の議論も、場所を変えた人形送りの一種に見えてくるときがある。共同体の不安をひとつの対象に集約し、全員で担いで、境の外へ送り出す。違いは、昔の行事にはルールがあったことだ。
日付が決まっていて、役割が決まっていて、送る先が決まっていて、終わりの合図が決まっていた。境に置いて、振り返らずに帰る。そこで終わり。翌日からは普通の日々に戻る。
この「終わりの合図」が、儀式の一番大事な部分だったんじゃないか。怒りや恐れには終了手続きが必要で、それを作らなかった場合、災いはいつまでも集落の中を回り続ける。境に置いて振り返らずに帰れば終わり、と決まった儀式だったから、村の人たちは送ったあとで、何事もなかったように暮らしに戻れた。
こちらを向いている人形を見てしまったとき
最後に、境に立つ人形の視線の話をしておきたい。秋田の鹿島様は、多くが集落の外側を向いて立っている。内を守っているからだ。送り出された人形は違う。
あれは集落から出ていくものだから、本来なら外を向いているはずなんだ。ところが実際に境に立っている人形を見に行くと、向きはバラバラだ。倒れていることもあるし、風で回ってしまっていることもある。ときどき、こちらを向いているやつがある。
送ったはずのものが、村のほうを見ている。これを見てしまったときの心地の悪さが、この風習の本当の正体だと思う。災いを外に出すというのは、外に災いを置くということで、その外は、自分たちの家から歩いて二十分の場所なんだ。
