裏庭の隅っこに、赤い鳥居が三本並んでいた。高さは大人の腰くらい。塗りは剥げて、下地の白っぽい木肌がまだらに見えている。鳥居の先に石の祠がひとつ。屋根の形は宮造りを真似た切妻で、正面の観音扉は蝶番が錆びついて半開きのまま固まっている。中を覗くと、白い紙が丸まって落ちているだけだ。かつては御神璽が納まっていたはずの場所である。左右には陶製の狐が一対。片方は耳が欠け、片方は前脚の先が失われて、そこだけ断面が新しい白さで残っている。狐の首には、色の褪せた赤い前掛けが巻かれていた。もう赤というより、煉瓦色に近い。
祠の前の石の台には、供物の名残がある。素焼きの皿に、油揚げが一枚。いや、油揚げだったものだ。雨と埃を吸って黒く縮み、皿に貼り付いて、輪郭だけがかろうじて四角い。その隣に、口の欠けた徳利が二本。中身は当然、とっくに乾いている。台の脇には、ステンレスの水入れ。緑色の藻が沈んでいて、水面には落ち葉が浮いている。ここに毎月一日と十五日、誰かが水を替えていた。それがいつからか途絶えた。その「いつから」は、たいてい誰も覚えていない。
そして半年後、その一角は更地になった。
更地になった裏庭で、人は何を見てしまうのか
重機が入った日のことを、近所の人は妙にはっきり覚えているものだ。石の祠は思ったより重かったらしい。基礎がコンクリートで打たれていて、ユンボの爪で引っ掛けても最初は動かなかった。二度、三度と力をかけて、ようやく台座ごと傾いた。そのとき狐の像が地面に落ちて、頭から割れた。割れ口は白かった。長いあいだ風雨に晒されて灰色になっていた表面と違って、内側は驚くほど白かったという。
鳥居は簡単だった。柱の根元がとっくに腐っていて、手で押したら折れた。折れた断面から、湿った土のような匂いがしたそうだ。
作業は半日で終わった。祠の破片も、鳥居の残骸も、狐の胴体も、みんな同じダンプの荷台に積まれて運ばれていった。木材とコンクリートガラと陶器が一緒くたになって、産業廃棄物として処理される。書類上はそれだけの話だ。
翌週にはそこに砂利が敷かれ、白いラインが引かれ、月極駐車場になった。三台分。看板には管理会社の名前と電話番号。何十年もそこにあった赤色は、跡形もない。舗装の下に、まだ基礎のコンクリートが少し残っているかもしれない、という程度だ。
こういう更地を見たとき、人は何かを感じてしまう。感じてしまうというより、感じるようにできている。それが今回の話の入口だ。
「お稲荷さんは、一度祀ったらやめられない」
この一文を、どこかで聞いたことがない人のほうが少ないんじゃないか。実家の親から、近所の年寄りから、不動産屋から、あるいはネットの書き込みから。言い回しにはバリエーションがある。「稲荷は祟る」「稲荷は返せない」「やめると七代祟る」「三代絶える」。どれも似た顔をしている。
でも、この噂の正体を最後まで追いかけた人は、意外と少ない。だから追いかける。かなり奥まで行くつもりだ。
そもそも、庭の隅にいたあの神様は何者だったのか
まず整理しておきたいのは、庭にある小さな祠は「稲荷」である前に「屋敷神」だということだ。ここを取り違えると、話の筋がまるごと狂う。
屋敷神というのは民俗学の学術用語で、屋敷の一角、あるいは屋敷に付属した土地に祀られている、家と土地の守護神のことを指す。ここが重要なんだけど、原則として屋外に祀られる。神棚は屋内、屋敷神は屋外。この線引きがある。浄土真宗の勢力が強い地域を除いて、ほぼ全国に分布している。
学術用語である、というのがミソで、現場ではまったく別の名前で呼ばれている。東北や鹿児島では「ウチガミ」「ウジガミ」。鹿児島の一部では「ウッガン」。ほかにも「ジガミ」「ジヌシガミ」「チジン」「イワイジン」「荒神」。呼び名がここまでバラバラなのは、屋敷神という信仰の中身が、後から来た有名神社の名前で上書きされていったからだ。稲荷、熊野、白山、天神、八幡、若宮、神明、秋葉、祇園。こういう名前が後付けで乗っかっている。そして乗っかった中で、圧倒的に多いのが稲荷だった。
この分野の古典が、直江廣治の『屋敷神の研究』である。吉川弘文館から一九六六年に出た本で、副題を「日本信仰伝承論」という。直江はこの本で、屋敷神を祀る人の範囲によって三つの型に分けた。集落のほとんどの家がそれぞれ持っている「各戸屋敷神」、特定の旧家・本家だけが持っている「本家屋敷神」、そして本家の屋敷神を一族全員が集まって祀る「一門屋敷神」の三つだ。
面白いのはここからで、直江はこの三つを、単なる分類ではなく歴史の順番として読んだ。いちばん古い形が一門屋敷神。本家に一族がぞろぞろ集まって、共同で祀る。ところが同族の結びつきがゆるむと、分家が来なくなって本家屋敷神になる。さらに分家が経済的に自立して「うちはうち」という家意識が育つと、分家も自分の家に祠を建てはじめて各戸屋敷神になる。つまり、庭の祠の数は、その村で家がどれだけバラバラになったかのバロメーターなんだよな。
長野の記録を見ると、これがかなり生々しい。北信の江戸期の史料には、屋敷神を持っていた有力百姓の一族が没落して、その屋敷神が村持ちの社に切り替えられた例が残っている。文政七年、つまり一八二四年に、松代藩の社寺改めに合わせて村が願い出て村持ちにした。別の家では、社宮司の宮が一族の零落とともに組持ちの社になっている。潰れ百姓になった家の屋敷神を、百姓株を相続した別の人間が引き継いだ例もある。神様が家の格そのものだった時代、家が傾けば神様の帰属先も動いたわけだ。
ここまで来ると分かってくる。屋敷神というのは、信仰であると同時に、家の格式の可視化装置だったのだ。あの家には祠がある。うちにはない。あの家の初午には一族が集まる。それが村の中の序列そのものだった。
そして神格の面では、屋敷神は祖先神と地続きだと考えられている。その家の死者が三十三年忌あるいは五十年忌の弔い上げを済ませると屋敷神になる、と伝える土地がある。静岡の遠州地方に濃厚に分布する「地の神様」も、家の主が亡くなって五十年経つと土地の守り神になるから祀るのだ、と説明される。分家には地の神様がない、とも言われる。祭日は十二月十五日で、赤飯を盛り、海の物と山の物を供え、腰をかがめて拝む。祠は宅地の北西の隅、いわゆる乾の隅に置いて、南か東を向ける。
つまり庭の祠の中にいたのは、抽象的な「神様」じゃない。あんたの家のご先祖であり、この土地を最初に拓いた誰かであり、家の格そのものだった可能性がある。それを重機で割ったとき、人が背中に冷たいものを感じるのは、まあ、当然といえば当然なんだよな。
なぜ、どこもかしこも稲荷だったのか
じゃあどうして、屋敷神の中身がこうも稲荷に偏ったのか。
理由はいくつも重なっている。ひとつは、稲荷が農耕神から商業神へと守備範囲を広げたことだ。稲の神から食物神へ、食物神から工業・商業の神へ、さらに屋敷神へ。中世以降、都市に商工業が育つのと歩調を合わせて、稲荷は福徳開運の万能神になった。江戸時代には芝居の神にもなって、芝居小屋の楽屋裏には必ず稲荷の祭壇が置かれるようになった。
もうひとつ、そしてこっちが決定的なんだけど、稲荷は勧請の手続きが簡単だった。
勧請というのは、神様の御分霊を新しい場所に迎えて祀ることだ。伏見稲荷大社の公式な説明によれば、後鳥羽院の建久五年、一一九四年の行幸のときに勅許が下って、以後、本社から勧請する神体には「正一位」の神階を書き加えて授けることになった、という見解が社司のあいだで一子相伝されてきた。この「正一位」が効いた。町の隅の小さな祠にまで「正一位稲荷大明神」の幟が立つのは、この仕組みのおかげである。
ただし、実態はかなり混沌としていた。伏見稲荷側の記録にはこんな話が載っている。寛政四年、一七九二年の二月、奉行所から本社に照会が来た。大北山の百姓が自分の藪で狐の穴を見つけたところ、土御門家の弟子だという者が勝手に「正一位豊浦稲荷大明神」を勧請してやった、というのだが、本社以外の人間がこんなことをして構わないのか、という問い合わせである。本社はこれに対して、勧請の修法は一子相伝であって門弟に伝授したことはない、みだりに他所から正一位神体の勧請が行われては迷惑至極だ、と回答している。
要するに江戸中期には、稲荷の勧請が本社のコントロールを離れて増殖していた。関東では吉田家や白川家、さらに江戸の妻恋稲荷といったルートからも勧請証書が発給されていて、「正一位」の肩書きが半ば民間の私的神階として流通していた。狐に官位を授けるという感覚まで生まれている。
その結果が、江戸の町の稲荷の密度である。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」――江戸に多いものの代表として並べられた三つのうち、ふたつまでが実在の商家と神社だ。享保二十年、一七三五年の『続江戸砂子』は、江戸は稲荷の社が多い所で、初午には参詣の人が湧くようだと書いている。『東都歳事記』は、武家は屋敷ごとに鎮守の社があり、市中では一町に三社五社と勧請しないことはない、と記す。浅草新鳥越町の記録では、文政八年の時点で総家数五百八十七軒の町に、稲荷の社が四十三もあった。十四軒に一社である。
大名屋敷にも旗本の屋敷にも、中流以上の町屋にも稲荷があった。屋敷内に勧請できない裏長屋の住人は、辻の角に小さな祠を置いた。東京の下町を歩いていて、家と家の隙間みたいな路地に不意に赤い鳥居が現れるのは、この時代の地層が剥き出しになっているからだ。
そしてもうひとつ、伏見稲荷側が神経を尖らせていたのが「稲荷大神は狐霊ではない」という一点だった。稲荷勧請にあたっては、断じて怪異に及ぶものではない旨の請願書を提出させてから神璽を授与する、という運用までしていたという。つまり本社は、稲荷が狐の祟りとセットで語られることを、江戸時代からずっと嫌がっていたわけである。この点は覚えておいてほしい。後で効いてくる。
「やめると祟る」は、どこから湧いてきたのか
さて本題だ。「一度祀ったらやめられない」という俗信は、どこから来たのか。
結論から言うと、単一の起源はない。少なくとも四つの別系統の流れが合流してできている。順番に潰していく。
ひとつめは、荼枳尼天である。
荼枳尼天は、サンスクリットのダーキニーの音写だ。もともとはインドの鬼女神で、人の死を六か月前に知り、その心臓を食うとされた。密教では胎蔵曼荼羅の外金剛院に配され、奪精鬼として閻魔天の眷属になっている。半裸で血の器や短刀、屍肉を手にする姿だったものが、時代が下るにつれて白狐に跨る天女の姿へ変わっていく。日本では稲荷信仰と習合して、辰狐王菩薩、貴狐天王とも呼ばれた。
なぜ習合したかというと、狐だ。狐は古墳や塚に穴を掘って巣にするし、時には死体を食う。人の死を予知して告げるとも思われていた。荼枳尼と狐の結びつきは中国にすでにあって、それが日本の稲荷と接続した。近世になると荼枳尼天は、伏見稲荷の本願所である愛染寺、豊川稲荷こと妙厳寺、最上稲荷こと妙教寺、王子稲荷の別当だった金輪寺といった場所で、憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神として信仰された。
ここが肝心なんだけど、荼枳尼天には「効く代わりに、義理を欠くと怖い」という性格が最初からセットで語られてきた。願いはよく聞いてくれる。ただし、御利益にあずかった後で礼をしなかったり、不義理をしたりすると、その罰として祟りに遭う、と。この「取引の神様」というイメージが、そっくりそのまま神道系の稲荷にも流れ込んだ。神社の稲荷と寺の稲荷は本来まったく別のものなのに、庶民の頭の中ではとっくに混ざっている。屋敷の祠を「お稲荷さん」と呼びながら、その怖さの説明だけは荼枳尼天から借りてきている。この捻れが、噂の土台になっている。
ふたつめは、狐憑きと憑き物筋の系譜だ。
狐の霊が人に憑くという信仰は、日本各地に濃密にある。ただ「きつね」と呼ぶ地域もあれば、特別な名前を持つ地域もある。関東から東北にかけてはオサキ、オサキドウカ、イズナ。関東西部から中部にかけてはクダギツネ、管狐。山陰の一部ではトウビョウ、ニンコ。九州の一部ではヤコ、野狐。呼び名は違うのに、姿の伝承は不思議なほど一致していて、大きさは子猫ほど、色は茶褐色、眷属は七十五匹、というのが定番である。
國學院大學の紀要に載った研究は、憑く狐の歴史を五段階に整理している。霊獣としての狐、人に憑く狐と神使としての狐、狐使いに統御される狐と稲荷信仰の狐、祀られない霊獣としての野狐と統御されない狐、そして家筋に憑く狐。この四段階目、「祀られない狐」「統御されない野狐」というカテゴリーが江戸後期に出てくるのが、今回の話にとって決定的に重要だ。
つまり、当時の人々の世界観の中には、はっきり「ちゃんと祀られている狐」と「祀られなくなって野良になった狐」の区別があった。前者は神使で、後者は害をなす。江戸前期の『本朝食鑑』には、村や家にはもともと狐がいて常に隠れて見えないから、空き地があれば必ず小祠を構えて稲荷と称し、狐神を祭って福を祈り災いを祓うのだ、という記述がある。祠は、狐を鎮めておく容れ物として理解されていた面がある。
その容れ物を壊したらどうなるか。答えは、当時の人にとって自明だったろう。統御されない野狐が一匹増える。
みっつめは、飯綱と狐使いの系譜だ。江戸前期の『本朝食鑑』は、狐を使う術者がいて「飯綱の法を修す」と言われる、と記している。『塩尻』には、飯綱とは何かという問いに「陀祇尼天なり」と答える一節がある。飯綱信仰は荼枳尼天と結びつき、それを祀る山があるとされた。只野真葛が寛政期の仙台で聞き書きした『奥州波奈志』には「狐つかひ」の話がある。ここまで来ると、稲荷と荼枳尼と飯綱と管狐が、庶民の意識の中でひとつの塊になっているのが見えてくる。
よっつめが、いちばん直接的な系譜だ。「祠を粗末にしたら祟られた」という体験談の集積である。
国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースを引くと、この種の事例がごろごろ出てくる。岡山県史の民俗編には、岡山市水門町の稲荷について、大正年間にある家の鎮守として勧請したものだが、その家が絶えたときに祠を壊したところ、祟りで病人が相次いだので、昭和のはじめに再建して祀り直した、という記録がある。これは今回のテーマにほぼ完全に一致する事例だ。家が絶える、祠を壊す、病人が出る、再建する。この四拍子が一〇〇年前の岡山ですでに完成している。
埼玉の事例では、上組で祀っていた稲荷の小祠を移転したところ不幸が連続して起こったので、元の敷地の近くに戻した、という記録が一九八六年の報告に残る。移転ですらこれである。青森では、夫が突然おかしくなって祈祷師に相談したところ、神木を切ったことと、戦地で息子を守ってもらったのに祠を粗末にしたことによる稲荷の罪障だと言われ、懺悔して祀り直したら元に戻ったという話が、一九八五年の論文に採録されている。長野の松本では、災難続きに耐えかねて行者に易を見てもらったら、所有地の隅の宮に障りがあると出て、調べてみると小作人の家の稲荷社の屋根に風で倒れた木が覆いかぶさっていた。それを取り除いて油揚げを持っていって拝んだら災難が止んだ、以後その祠を祀るようになった、という記録もある。
そして「何代祟る」という数字の出どころ。長野県下伊那郡下條村の伝承に、狐火が出て人を悩ませ、猟師が狐を撃ったところ姿が消え、後に老人の夢枕に立った狐が伏見稲荷の使いだと明かした、という話がある。それを祀ったが、猟師の家には三代祟ると言われ、家は絶えた。これが一九九七年に地方誌『伊那』に報告されている。
「三代祟る」である。七代ではない。
ここが面白いところで、「七代祟る」という言い方は現代のネット上では非常によく見かけるのに、民俗誌の記録で拾えるのは「三代」が多い。数字は伝わる過程で膨らむ。三が七になり、七が「末代まで」になる。噂というのは、細部が失われる代わりに、数字だけがインフレする性質を持っているらしい。
地域によって、この話はまるで違う顔をする
「稲荷を撤去したら祟る」という一文は全国共通に見えて、地域ごとに中身がぜんぜん違う。それぞれ独立した文脈を持っている。
遠州、つまり静岡県西部から中部にかけての「地の神様」の場合、そもそも祟りの話としてあまり語られない。ここでの地の神様は、家の主が亡くなって五十年経つと土地の守り神になる、という説明で理解されている。だから撤去への抵抗感は「祟られる怖さ」というより「ご先祖を捨てる後ろめたさ」に近い。祠は宅地の乾の隅に置いて、毎年十二月十五日に赤飯を供える。地域によっては、新藁で作ったツトと新竹の箸を用意して、社の屋根も新藁で葺き替え、柱も新竹で作り直す。毎年である。石造りの祠も見かけるけれど、本来は木で作るほうが望ましい、と地元の神社は説明している。毎年作り替える前提の神様だったのだ。この文脈での「やめられない」は、祟りの脅しではなく、単純に年中行事の重さの話だと分かる。
薩摩半島のウッガンサアはまた別だ。庭先に、大人の背丈より少し大きいくらいの木の祠が立っている。これを同じ姓の家が数軒から十数軒で共同で祀る。旧暦十一月にウッガン祭りがある。加世田の当房に伝わる祭りでは、公民館で直径八センチほどの丸い赤飯の握り飯が参拝者に配られ、それを食べてから裏山の頂上の社へ登る。途中の鳥居でしめ縄を取り替え、神柴を挿す。到着したら御神体の石に着せてある白紙を新しいものに着せ替えて、赤飯とシトギを供える。箸は近くの樫の枝で作る。社の外にも供え物を置くのは「鳥に食わせるため」と言われる。江戸時代の薩摩藩には門と呼ばれる一族単位の生産共同体があって、その神様がウッガンサアだった。開拓者八人が御神体だとも伝わる。ここでは屋敷神は完全に共同体の装置だから、一軒の家の判断で撤去するという発想そのものが成立しにくい。撤去が問題になるとしたら、それは信仰の問題じゃなくて、一族の合意形成の問題になる。
東日本の同族結合が強い地域では、直江の言う一門屋敷神の名残が生きていて、本家の庭の祠は「本家の物」であって「本家が管理する一族の物」でもある。だから本家の当主が代替わりして「もう畳みたい」と言い出したとき、いちばん強く反対するのが分家筋、というパターンが起きる。ネット上の相談で「親戚から絶対に触るなときつく言われている」という書き込みを見かけるのは、この構造だ。祟りが怖いから触るなと言っているように見えて、実質的には「本家が一族の象徴を勝手に処分するな」という要求である。
そして都市部。ここではもう祖先神も同族も関係なくなって、純粋に商売の守り神になっている。銀座の老舗が店の奥や屋上に祀ってきた稲荷、デパートの屋上の稲荷、雑居ビルの屋上の稲荷。この文脈での「やめられない」は「商売やってる限りは畳めない」という、極めて実利的な話に変質する。地方の「祖先が怒る」と都市の「商売が傾く」は、同じ文章で語られながら、実はまったく違う恐怖なんだよな。
屋上に上げられた神様たち
都市の稲荷の話をもう少し続けたい。ここが現代の噂の主戦場だからだ。
東京都心のビルの屋上には、驚くほどたくさんの神社がある。銀座や新宿の百貨店の屋上のものは目につきやすいけれど、高いビルから周囲を見回すと、雑居ビルの屋上に鳥居らしきものがぽつぽつ見つかる。ある不動産系の会社のブログでは、新橋のオフィスビルの屋上で神社を見つけ、そこから周りを見渡したらあちこちの屋上に鳥居が見えた、という体験が書かれている。
なぜ屋上なのか。理由は単純で、神様の上を人が歩くのは失礼だからだ。家の神棚でも、上の階がある場合は天井に「雲」と書いた紙を貼る。あれと同じ理屈で、建物に神様を祀るなら最上部に置く。もともと地面にあった稲荷社は、その土地がビルになる際に屋上へ引っ越すことになる。
新宿だけでも、小田急百貨店の屋上には豊川稲荷の分霊が祀られている。創建は昭和四十二年、七年余りをかけて小田急新宿駅ビルが完成したときに、守護の善神として拝請したものだ。豊川稲荷は曹洞宗の寺院だから、これは厳密には神社ではなく寺の系統になる。伊勢丹には朝日弁財天、高島屋には熊鷹社、京王には京王開運稲荷大明神。日本橋の三越の屋上には三囲神社があって、これは京都の豪商だった三井家が江戸へ出るときに守護神として持ってきた神社の流れを汲む。
なかでも銀座の靍護稲荷の来歴は、都市と屋敷神の関係を考えるうえで示唆的だ。この稲荷はもともと、一八一五年に松坂屋の舎宅があった根岸に生まれた稲荷社が起点で、京都の伏見稲荷から勧請されたと伝わる。白狐に導かれてたどり着いた場所に豊川稲荷の札があったのでそれを祀った、という話も残っていて、神道系と仏教系の稲荷が一柱の中でごっちゃになっている。松坂屋銀座店の屋上には、そこから分祠された。大正時代の大火のとき、この稲荷とその周辺は無事だったので、火伏せの神として霊験あらたかとされた。
問題はその後だ。松坂屋銀座店が閉じ、その区画が隣の街区と統合されて銀座SIXになるとき、この稲荷は存続の危機に立った。敷地の権利者が複数になり、かつての松坂屋は新しいビルの敷地の六割ほどでしかない。ここで注目すべきは、オーナー連合の合意によって稲荷を残すと決まったことだ。ビルの建設中は鶯谷の本宮に一時遷座し、竣工後に屋上へ戻された。松坂屋時代は屋上の南西の角、新しいビルでは対角の北側の角。鬼門を守る位置である。神様が二回引っ越したことになる。
つまり、正しい手順を踏めば、屋敷神は動かせる。壊さずに畳むことも、預けることも、戻すこともできる。これは大事な事実なので、太い字で頭に入れておいてほしい。
撤去した会社で事故が続いた、という噂の構造
とはいえ、都市の稲荷にまつわる怖い噂も当然ある。というか、都市部のほうが噂は増殖しやすい。
いちばん有名なのは、羽田の大鳥居だろう。かつて羽田には穴守稲荷神社があり、周辺一帯は羽田穴守町と呼ばれていた。終戦直後の一九四五年九月、羽田飛行場を軍事基地として拡張するため、GHQから住民と神社に強制退去命令が下る。社殿も他の鳥居も取り壊されたが、門前の赤い大鳥居だけが残った。
ここから先が噂の領域になる。ロープで引き倒そうとしたらロープのほうが切れて作業員が怪我をした。工事を再開したら責任者が病死した。撤去を請け負う業者がいなくなった。「穴守さまのたたり」という噂が流れて、稲荷信仰など縁もゆかりもないGHQも、結局そのまま残すことにした。
こうして大鳥居は、駐車場の真ん中に何十年も立ち続けた。一九九〇年代に入って羽田空港の沖合展開事業で新B滑走路の障害になるため撤去計画が出たが、地域住民から、穴守稲荷や強制接収された旧住民のシンボルとして残したいという要望が上がった。結果、一九九九年二月に弁天橋のたもとへ移設され、今もそこにある。移設工事のとき、土台の周りを掘ってみたら、鳥居はロープで引き倒せるような造りではまったくなかったことが判明したという。クレーンで吊り上げた瞬間、それまで晴天続きだった空がにわかに雨風になってワイヤーが揺れた、という話も付いているが、工事自体は二日で滞りなく終わった。
この一件は、噂の構造を解剖するのに都合がいい。まず、核に検証可能な事実がある。神社が強制接収されたこと、鳥居だけが残ったこと、住民の反対で保存されたこと。ここは動かない。その周りに、真偽の確かめようがない挿話が層になって巻き付く。作業員の怪我、責任者の病死、業者が逃げた。そして最後に、それを一言で説明する呪文が乗る。「祟り」。
しかも、この話には別の説明も併記されている。強制的に住居を追われた元住民が、反抗心からわざと鳥居を残したのだ、という説だ。祟りではなく人間の意志だった、という読み方である。どっちが本当かは分からない。分からないところが、この手の噂の生き残る場所になる。
同じ構造の噂は各地にある。青森県八戸には、かん子稲荷という名前の稲荷がある。この地には、かん子という女性が川に突き落とされて殺されたという伝説が二種類伝わっていて、大正期にこの近くでセメント工場が開業したとき、開業当初に事故が続発して死傷者が出た。地元の漁師たちはこれをかん子の祟りだと噂した。工場側が銀杏の木の根元に供養碑と稲荷を建てて霊を慰めたところ、事故も怪異もぴたりと収まったという。
ここでは順番が逆になっているのが面白い。撤去したら事故が起きたのではなく、事故が起きたから稲荷を建てたのである。つまり「工場の事故」という説明のつかない出来事に、後から物語を接続して、祠という物理的な装置で決着をつけた。祠は、原因不明の不幸を格納するための箱として機能している。
そして現代の噂は、この八戸型を裏返した形で語られる。「あのビル、屋上の稲荷を撤去してから事故が続いてるらしい」。事故が先にあって理由を探すのか、撤去が先にあって不幸を数え直すのか。どちらにせよ、人間の頭の中でやっていることは同じだ。
三つの証言
ここからは、実際に語られている話を三つ紹介する。いずれも公開されている書き込みや記事をもとに、個人や物件が特定できないよう細部を整理してある。
ひとつめ。ある家の話だ。
もともと農家だった祖父の代から、自宅の敷地内に稲荷の祠があった。書き込み主が建て替えを検討していて、祠を移動して土地を分筆すれば、新しい家を建てながら旧宅から引っ越すのが楽になる。田舎だから容積率も建ぺい率も余裕がある。ところが、この稲荷には家の中で語り継がれている出来事があった。父親が白血病で亡くなる数年前、その祠を移動させて少し手直しをした。すると、その直後から具合が悪くなり、そのまま亡くなった。母親は今も、あれは祟りだったと言っている。親戚からも、あの稲荷にだけは絶対に触るなときつく言われている。
書き込み主自身は、そう単純に信じているわけではない。ネットで調べると、祠というのは容れ物にすぎないから、お祓いさえすれば動かしても撤去してもいい、という意見が多い。ただ、羽田の鳥居の話もあるし、何が正しいのか判断がつかない。そもそも土着の信仰で、近くに有名な稲荷神社があるわけでもない。社の中を開けても札も何も入っていなかった。お祓いを頼むにしても、どこに頼めばいいのかが分からない。
この話でいちばん重たいのは、祟りの部分じゃない。「どこに頼めばいいのか分からない」のほうだ。信仰は残っているのに、その信仰を扱う窓口が失われている。この宙吊りが、恐怖の温床になっている。
ふたつめ。実家を畳んだ人の話。
継ぐ人もいない。姉妹ばかりで、父も母も亡くなった。残された農地と実家をどうするかの算段はついた。家の中の物を全部業者に運び出してもらい、敷地内の井戸と稲荷と神棚については、不動産屋の助言で町の神社に頼むことにした。塩と米と日本酒など、用意するように言われた物を揃えて、神主に来てもらった。これまでの加護に感謝し、井戸の神に礼を言い、稲荷にお返しをお願いした。
そこまでは滞りなく進んだ。ところが神主がふと言った。「もうひと柱、おられますね」。
神棚ならさっき済ませたはずだが、と戸惑うと、神主は「いえ、こちらの畑の先に」と言う。行ってみると、土蔵の脇の竹藪の中に埋まるようにして、石の祠があった。三十センチ四方ほどの小さなものだ。「こちらですね」と神主は供え物を受け取り、「土地の方のようですので、うちのほうにお移しでよろしいですかね」と言った。姉妹はうんうんと頷いた。
その後、何事もなく過ごしている。ただの少し不思議な話である、と語り手は締めている。あわてて用意した榊料のほかに車代を包んだけれど、その神主は原付で来ていた、というオチまで付いている。
この話が示しているのは、屋敷神の忘却がどのくらい簡単に起きるかということだ。四姉妹の誰も、竹藪の中の祠を知らなかった。管理者不在は、悪意でも怠慢でもなく、ただ世代が変わるだけで発生する。
みっつめ。分霊を本社に返した人の話。
ある家の敷地には、稲荷の社が建っていた。伏見稲荷の山中にある社の分霊を受けたもので、家の当主が神社庁に相談したところ、この土地を担当する神様だと教えられ、その分霊をもらい受けて建立したのだという。当主は晩年、自分が動けなくなる前に神社を京都へお返ししたい、と言っていた。しかし社の建て替えの途中で亡くなった。
遺言なら果たさねばならない、と息子は動きはじめる。まず本社に電話して、当主の死去を報告し、講員の登録を止めてもらう。ついでに「神社をお返ししたいのですが」と相談したが、最初の電話ではしどろもどろで要領を得なかったという。そもそも、こういう電話をしていいのかどうかも分からなかった。
そこから、遠回りが始まる。神社本庁のサイトを見て、実家の住所を伝え、どこに相談すればいいかを尋ねる。県の総まとめの窓口を教えられ、そこから実家近くの神社を紹介され、その神主に相談する。神主は丁寧に話を聞いてくれたうえで、結論としてこう言った。由来の分かっている分霊なら、御霊をお返しする先はその本社ですよ、と。
そこでようやく本社への相談が本格化する。手順としては、社の中の御神体を本社に持参して、祈祷所で御霊を返す祈祷を受ける。すると分霊が本体に戻る、という説明だった。実際に祈祷を受けた際は、玉串を捧げて二礼二拍手一礼し、長年家を見守ってくれたことに心の中で礼を言った。当主の死去から母の死去を経て、コロナが落ち着くまでの一年半、手探りで進めた末のことだった。
そして、この話には核心的なやりとりがある。
生前、当主が返却の相談で京都へ向かうタクシーの中でその話をしたら、運転手に「返してしまうと、お返しがありますよ」と言われた。当主はひるんでしまい、結局その日は相談をせず、普通に参拝だけして帰ってきたという。
息子は同じ疑問を神主に直接ぶつけた。返答は明快だった。そんなことは絶対にありません、と。ないがしろにして、ちゃんと返すこともせず打ち捨てるようなひどいことをしているなら話は違うかもしれないが、大事にしてきて、畳むことになってきちんとお返しする人に、祟りのようなものはありません、と。電話口の別の職員もはっきりそう言ったという。
三つの証言を並べると、輪郭が見えてくる。恐怖の中身は「祟り」ではない。「窓口が分からない」「誰も知らない」「返せないまま時間だけ過ぎる」という、手続きの不能感なんだよな。
神社の側は、実のところ何と言っているのか
じゃあ実務の話をしよう。ここが記事の背骨になる。
まず用語。祠や神棚を撤去するとき、その前に行う神事を一般に御霊抜き、御魂抜きと呼ぶ。神道側の呼び方としては「神上げ」という言い方もある。逆に新しく祀るときは御霊入れ、御霊入である。祠を建て替える場合は、古い社から御霊を抜き、新しい社に入れ直す。これを合わせて遷座と言う。
首都圏のある神社は、出張祭典のメニューとして邸内社・稲荷神社の遷座祭を掲げている。家庭や会社の敷地内に祀られている神様を移動したり、やむを得ず廃止したりするときに行う祭で、これまでの守護に感謝して、元の御座にお還りいただく、と説明されている。祈祷料は三万円からで、雅楽や巫女舞を伴う場合は五万円から。当日は祭壇と道具、そして神主を車で送迎する必要がある、といった実務的な注意まで書かれている。
群馬のある稲荷神社のブログは、もっと率直だ。近頃は神棚や稲荷宮を新しく設けるご依頼よりも、撤去に伴う神上げのご依頼のほうが増えてきた、と書いている。誰も住まなくなった実家の解体、世代が変わって世話が難しくなった稲荷宮、更地にして売却するための樹木伐採や井戸埋め。事情はさまざまだが、依頼者に共通しているのは、神様に対して最後まで丁寧に対応したいという気持ちである、と。
別の神社のブログには、稲荷講そのものが解散することになり、稲荷社の前で御霊抜きを行ったという記録が載っている。長きにわたって守っていただき、災いなく平穏に過ごせたことに感謝申し上げるとともに、事情あって祭を続けていくことが難しくなった旨と、解体工事の安全を祈願して奉告した、と。
不動産業界側の説明も、驚くほど淡々としている。祠のある家を売るときの手順として、まず神社や寺院に依頼して御霊抜きの日程を決める。当日は白米、酒、塩、水などを供えて儀式を行う。そのうえで解体業者に頼むか自分で撤去する。廃材を運搬して処分する。費用の目安は、御霊抜きの祈祷が一万円から三万円程度、供物と出張費を含めて五万円前後になることが多い。祠や鳥居単体の解体で一点あたり三万円から五万円という見積り例がある。簡易な木造なら数万円台に収まるが、重機が必要な大型の石造なら数十万円に達することもある。
そして、業界側がいちばん強く注意しているのは、祟りではなく権利関係だ。共有の祠は必ず自治会や町内会、氏子総代、地元の神社に確認してから撤去せよ、と。撤去した事実は不動産会社に共有して、買い主に説明してもらったほうがいい、と。
ここまでの実務を並べると、神社側の見解は一貫している。祟るかどうかという問いには乗らない。代わりに「手順がある」と答える。そして問題視されているのは、撤去そのものではなく、放置と無断撤去のほうだ。
先ほどの分霊返却の話に出てきた神主の言葉が、この立場を端的に言い表している。ないがしろにして打ち捨てるならともかく、丁寧に畳んで返す人に祟りはない。つまり神社側にとって、恐れるべきは神の怒りではなく、人の側の不誠実なのである。
伏見稲荷が江戸時代から「稲荷大神は狐霊にあらず、怪異に及ぶものではない」という立場を取り続けてきたことを、ここで思い出してほしい。総本宮は二〇〇年以上前から、祟りの噂と戦ってきた側なんだよな。
神様には、税金と登記の問題がある
ここからは、いちばん地味で、いちばん現代的な話をする。
庭の祠には、税法上の名前がある。「庭内神し」という。読みは「ていないしんし」。国税庁の通達に出てくる正式な用語で、屋敷内にある神の社や祠など、御神体を祀って日常礼拝の用に供しているものを指す。御神体というのは、不動尊、地蔵尊、道祖神、庚申塔、稲荷などで、特定の人や地域住民の信仰の対象になっているもののことだ。
相続税法の第十二条は、墓所、霊びょう、祭具、およびこれらに準ずるものを非課税財産と定めている。庭内神しはこの「これらに準ずるもの」に含まれる。ここまではずっと変わらない。
問題は、その敷地だった。国税庁は長らく、庭内神しとその敷地は別物であって、敷地は非課税の対象にならない、という扱いをしてきた。ところが、これを争う訴訟が起きる。東京の相続案件で、自宅の土地のうち、弁財天と稲荷を祀った祠の敷地部分を非課税財産として申告したところ、税務署が認めなかった。相続人が処分の取消しを求めて提訴した。
原告の予備的な主張が、実に興味深い。庭内神しは祟りを恐れて別の場所に移すことが難しいというのが世の中の実態であり、仮に移すにしても御霊抜きなどの儀式が必要で、移設後の跡地に建物の基礎を乗せて建てることに躊躇を覚える人が極めて多い。だから庭内神しのある宅地は売却が難しい物件の典型例とされている。よって評価減が必要だ、と。祟りの俗信が、法廷で不動産価値の議論に使われたわけである。
東京地裁は平成二十四年六月二十一日の判決で、この敷地を非課税と認めた。理屈はこうだ。庭内神しとその敷地が別個の物であるというだけの理由で一律に「これらに準ずるもの」から排除するのは相当ではない。設備と敷地、附属設備の位置関係、敷地への定着性、現況といった外形と、建立の経緯・目的、現在の礼拝の態様といった機能の両面から見て、社会通念上一体の物として日常礼拝の対象とされていると言ってよい程度に密接不可分の関係にある相当範囲の敷地であれば、一体の物として非課税になる。この件の祠は、非課税目的で建てたのではなく真に日常礼拝の目的で建てられたもので、祭事には敷地に幟が立てられ、空間全体を使って日常礼拝が行われている。よって非課税。
そして同年七月、国税庁はこの判決を受けて取扱いを変更した。既に相続税の申告をした人でも、対象になるものがあれば適用がある、という異例のアナウンス付きで。
何が言いたいかというと、庭の祠は「気持ちの問題」ではなく、財産評価の対象であり、判例が存在する法律問題でもあるということだ。撤去するかしないかは、信心の問題であると同時に、税と登記と売買の問題でもある。
さらに厄介なのが、法人格を持たない祠だ。氏子や町内会が管理している、いわゆる「まち持ち」の神社は、全国に無数にあるとみられている。宗教法人ではないから、法的な管理主体が曖昧なまま何十年も来てしまう。
具体例として、名古屋の大須にあった小さな神社の話が報じられている。片側三車線の道に面した一角にあり、境内は十坪ほど。戦国時代の武将が祀ったと伝わり、明治三年に神殿が改修された記録がある。地域住民が信仰の対象としていたが、宗教法人ではなかった。近くの神社が祭事に協力していたが、土地には古くから多くの地権者がいて、代替わりが進むうちに維持管理をする人がいなくなった。登記簿には、明治以前とおぼしき十三人の所有者の名前が今も残っていたという。最終的に、ある所有者の子孫の意向で神社をなくすことになり、住民とともに最後の祈祷をして宮じまいをした。跡地は真新しいコインパーキングになった。神社の痕跡を示す案内も看板も、どこにもない。
宗教社会学の研究者は、この種の事態について、土地や建物の所有者を確認しないまま現在に至っている例が多い、と指摘している。特に都市部では、長い年月で世代交代が進み、祭事や行事が減り、氏子も土地を去ったり家系が途絶えたりして、維持管理が困難になる事態が増えている。住民が神社を身近な公園のように親しんでいても、いざ建て替えとなると権利関係が複雑で支援が集まらない。維持が難しくなった神社は、境内にマンションを建てたり、ビルの屋上に移したりするケースもある、と。
宗教法人の神社も減っている。文化庁の宗教統計調査によれば、二〇二二年末時点の神社の数は八万六百八社で、過去十年で年間三十から九十ほどが姿を消している。より長いスパンで見ると、一九九四年に八万一四二四社あったものが二〇二四年には七万八六八九社になった、という数字もある。
そして「不活動宗教法人」という言葉がある。活動が継続できなくなっても、宗教法人法に定める解散や合併の手続きを取らない限り、法人格だけが残り続ける。文化庁の調査では、令和四年末時点で三三二九の法人が不活動と確認されている。放置すると法人格が第三者に不正に取得されて脱税や営利目的に悪用される恐れがあるため、所轄庁の責務として整理を進めることが求められている。解散命令の要件には、一年以上にわたって宗教団体の目的のための行為をしないこと、礼拝の施設が滅失して二年以上その施設を備えないこと、一年以上にわたって代表役員とその代務者を欠いていること、が挙げられている。
ここに構造的なジレンマがある。解散したくても、老朽化した建物と資産価値のない土地が残る。取り壊し費用も捻出できない。合併の受け皿になる法人も、負債同然の不動産を引き継ぎたがらない。島根のある寺院では、解散を決めたものの解体費用が出せず、財務省と協議して土地建物を国有化した例がある。宗教法人法の規定に基づく全国初の事例だったという。約十二万平方メートルの山林が国有化されたが、活用の見通しは立っていない。
愛媛のある神社では、管理団体が二〇〇七年度に解散して以来、管理者が誰なのか分からないまま十五年以上放置されている。天井に穴が開き、床が抜けているのが外から見えるほど荒れているが、町が修復に着手できない。政教分離の原則に抵触する恐れがあるからだ。敷地は町と複数の個人が所有していて境界が定まらず、建物の登記もないので社殿の所有者が分からない。扉には南京錠がかかっていて鍵は町が預かっているが、預かった経緯すら不明である。倒壊の恐れがあるから何とかしてほしい、という住民の声が上がっても、動けない。
これが現代における「稲荷をやめられない」の実態である。祟りではない。合意形成と登記と費用と行政の壁だ。
ネットは、この噂をどう扱ってきたか
掲示板やSNSでの反応を眺めていると、はっきり三つの派閥に分かれる。
第一が、体験談派だ。うちの家系では祠を動かした直後に不幸が起きた、という話を語る。数十年前の出来事が家族の中で語り継がれ、祟りとして固定されている。ある書き込みでは、父が信仰していた稲荷社を片付けて実家を相続した途端、二十年以上にわたって嫌がらせが続いた、と書かれていた。今は祀り直して水と油揚げを供えているが、やらないと大変なことが起きるとも。信仰の再開が、恐怖の管理手段になっている。
第二が、否定派。というより「そもそも前提が間違っている」派だ。オカルト板の稲荷信仰スレや住宅系の掲示板には、驚くほど筋の通った反論が並んでいる。いわく、稲荷は祟り神ではない。稲荷は狐を祀っているのではなく、狐は神使にすぎない。祟るとされているのは管狐であって、稲荷とは全く別のものだ。神主に聞いたら、神に向かって「祟りがある」と言うこと自体が失礼千万だと言われた。神は不徳者に罰を与えることはあっても祟ったりしない。そんなことを言うのは、言う人間のほうが不徳だからだ、と。
この派閥の中には、稲荷の流行そのものを軽く見る意見もある。江戸時代の稲荷ブームは、崇める神としてよりも大衆文化として流行った側面が大きい。現代に例えるなら、自宅にクリスマスイルミネーションを飾るようなもので、しかも一年中飾っておいてOKなのが稲荷である、と。ハロウィンもクリスマスも喜んで受け入れる日本人が、なぜ稲荷だけをそこまで怖がるのか、と。
第三が、実務派。そして人数としてはこの層がいちばん多い。祟るかどうかは知らないが、とりあえず神主を呼んで数万円の初穂料で祀ってもらってから壊す、という判断をする人たちだ。ある書き込みは、実際には祟りでも何でもないかもしれないのに、何かあったときに神様のせいにするのもおかしな話だ、と前置きしたうえで、それでも何もしないで壊すのはどうかと思うから神主を頼む、と書いている。異変が起きるかどうかは、まさに神のみぞ知る、と。
この実務派の態度が、たぶんいちばん健全だ。信じているわけではない。でも、儀式にはコストに見合う効能がある。それは神への効能ではなく、自分の中の後ろめたさへの効能である。数万円で「私はちゃんとやった」という感覚が買えるなら、安い。
そして反証の話をしておかないとフェアじゃない。祠を撤去した家で不幸が起きた、という話は無数にある。しかし、祠を撤去したのに何も起きなかった家は、それ以上に無数にある。ただ、何も起きなかった家は語らない。語る動機がないからだ。「うちは十年前に稲荷を片付けたけど、特に何もない」という書き込みは、体験談として面白くないので拡散しない。生き残るのは怖い話だけだ。この選択の偏りを勘定に入れずに事例を並べれば、祟りの証拠はいくらでも積み上がってしまう。
もうひとつ。祠を撤去する家というのは、そもそも撤去せざるを得ない事情を抱えている。相続が発生した。親が亡くなった。事業が傾いた。誰も住まなくなった。高齢化して世話ができなくなった。つまり「不幸が起きやすい局面」にいる家が、選択的に祠を壊しているのだ。壊したから不幸になったのか、不幸の只中にいるから壊すことになったのか。時系列は簡単にひっくり返る。撤去のあと数年のうちに誰かが亡くなる確率は、その家がすでに高齢者を抱えているなら、そもそも高い。
なぜ、この話はこんなに怖いのか
理屈は分かった。それでも怖い。なぜか。
第一に、対象が小さくて具体的だからだ。壮大な神話は怖くない。裏庭の、腰の高さの、塗りの剥げた鳥居は怖い。日常の風景の中に埋め込まれた異物であり、しかも手で触れる距離にある。抽象は恐怖にならないが、質感のあるものは恐怖になる。欠けた狐の耳。黒く縮んだ油揚げ。緑色の水。この解像度が効いている。
第二に、契約の構造を持っているからだ。稲荷信仰は、荼枳尼天の系譜も含めて「効く代わりに義理が要る」という取引として理解されてきた。取引には契約不履行がある。契約不履行にはペナルティがある。人間は取引を理解できるから、この構造の恐怖は直感的に飲み込める。祟りは、罰ではなく違約金として想像されている。
第三に、時間軸が長いからだ。「三代祟る」「七代祟る」。この設定が凶悪なのは、検証を永久に不可能にする点にある。撤去して五年何もなくても、それは「まだ来ていない」だけになる。孫の代で誰かが病気になれば、それが祟りの証拠になる。反証を封じる構造を持った噂は、絶対に死なない。
第四に、責任の所在が拡散するからだ。祠を壊すのは、たいてい家族の誰か一人の判断ではない。相続人が複数いて、親戚が意見を言い、業者が段取りを組み、不動産屋が助言する。誰も明確に責任を負わないまま、神様が消える。そして何か起きたとき、全員が「あれのせいかもしれない」と思う。分散した罪悪感は、共有された恐怖に変わる。
第五に、ここが本質なんだけど、現代日本には「畳み方」の作法が失われているからだ。祀りはじめる作法は残っている。神主を呼んで御霊入れをする。でも、やめる作法を知っている人はほとんどいない。神社の側にはちゃんとある。神上げがあり、遷座があり、本社への返納がある。ところが、その存在自体が一般には知られていない。知らない人にとって、選択肢は「永遠に祀り続ける」か「黙って壊す」の二択に見える。二択しかないと思い込んだ瞬間、後者が罪になる。
そして、なぜ広まったのか。
ひとつは、この噂が実利的に有用だったからだ。屋敷神は家の格式であり、同族の結束の象徴だった。それを個人の判断で処分されては困る人たちがいた。「触ると祟る」という一文は、共有財産の無断処分を防ぐための、最も安価で最も強力な社会的装置である。法律も契約書も要らない。一言で済む。
もうひとつは、江戸の稲荷の絶対数の多さだ。一町に三社五社、十四軒に一社という密度で祠があれば、どの町にも「あの祠を粗末にした家がどうなったか」という話が一つや二つ発生する。母数が巨大なら、偶然の一致も巨大になる。稲荷の祟り話が他の神様より圧倒的に多いのは、稲荷が怖いからではなく、稲荷が多いからだ。
さらに、下級宗教者の存在も無視できない。江戸の町には、加持祈祷や厄祓い、町内持ちの稲荷社の社守で生計を立てる人たちがいた。天保十三年、一八四二年には、幕府がこの層の町方居住を禁じている。彼らは稲荷神の御利益と厄除けの効能を謳って歩いた。御利益を売る人間は、同時に不敬の恐ろしさも売る。ご利益と祟りは、同じ商品の表と裏である。稲荷寿司の棒手振りが「お稲荷さん」と呼ばれ、六根清浄の祓詞や狐の意匠を借用して商売していたという記録まで残っているのだから、信仰と商売の距離はゼロだった。
最後に、現代の要因。二〇〇〇年代以降、この噂が再燃したのは、相続と実家じまいの時代が来たからだ。団塊の世代の親が亡くなり、地方の実家が空き家になり、庭の祠をどうするかという問題が同時多発的に発生した。ネットには相談が溢れ、体験談が集まり、まとめサイトが束ね、動画が拡散する。江戸の俗信が、令和の不動産事情に接続されて、二度目の全盛期を迎えている。
それで、あの更地はどうなったのか
冒頭の駐車場に戻る。
あの家の人たちが何をどう決めたのか、外からは分からない。神主を呼んだのかもしれないし、呼ばなかったのかもしれない。分霊の出どころが分かっていて本社に返したのかもしれないし、そもそも何も入っていない空の祠だったのかもしれない。近所の人にできるのは、砂利の上に引かれた白いラインを見ながら、勝手に物語を作ることだけだ。
そしてたぶん、これから何年かのうちに、あの家の誰かに何かが起きる。人間はそういうものだから、必ず何かは起きる。そのとき近所の誰かが言うだろう。「あそこ、お稲荷さん壊したからね」と。
その一言が生まれる瞬間を、たぶん誰も止められない。噂というのはそうやって、更地の上に生えてくる。
「祟り」は昔、屋根の倒木を見つけるための索引だった
ここまで書いてきて、いちばん引っかかっているのは「祟り」という言葉の使われ方の変質である。
古い記録を丁寧に読むと、祟りという語には本来、かなり具体的な意味があった。長野の松本の事例を思い出してほしい。災難が続いて行者に見てもらったら、所有地の隅の宮に障りがあると出た。調べに行ったら、稲荷社の屋根に風で倒れた木が覆いかぶさっていた。それを取り除いて油揚げを供えて拝んだら、災難が止んだ。この話の構造は、実は極めて実務的である。祟りとは、放置されている物理的な異常を発見するための索引だったのだ。神様が怒っているという言い方を経由して、人は自分の管理下にある土地を点検している。倒木を確認し、屋根を直し、供物を置く。祟りの物語は、点検作業を駆動するためのエンジンだったと言っていい。
ところが現代のネット上で流通する「稲荷の祟り」は、この点検の機能を失っている。何を直せばいいのかが書かれていない。ただ「壊すと祟る」「返せない」という結論だけが独り歩きしている。恐怖から実務が抜け落ちて、恐怖だけが残った状態だ。だから話がどんどん抽象的で、どんどん救いのないものになる。七代という数字が出てくるのは、その象徴だと思う。三代なら、まだ人の一生の視界に入る。実際に確かめようという気持ちが働く余地がある。七代は完全に視界の外だ。確かめる気を最初から放棄した数字である。
そしてもうひとつ、俗信の「祟る」と、神社側の言う「失礼にあたる」の非対称にも触れておきたい。伏見稲荷大社は江戸時代の段階で、稲荷大神は狐霊ではなく怪異に及ぶものではない、という立場を明確にしていた。勧請の際には、怪異に及ぶものではない旨の請願書を提出させてから神璽を授与していたという。二三〇年以上前から、総本宮は「祟る稲荷」という民間イメージと戦っている。現代の神職も同じ立場を繰り返している。丁寧に畳んで返す人に祟りはない、と。それでも俗信は消えない。なぜかというと、俗信のほうが説明力が高いからだ。理不尽な不幸に見舞われたとき、「たまたまです」という説明は人を救わない。「あの祠のせいです」という説明は、少なくとも因果の形をしている。因果があれば対処ができる。祀り直せばいい。詫びればいい。人は無意味な不幸より、意味のある罰を選ぶ。それが俗信の生命力の源泉だと思う。
だから、この記事を読んでいる人にとって実際に役に立つ話を、最後にもう一度整理しておきたい。庭に祠がある家で、それをどうにかしたいと思ったとき、まずやることは怖がることではない。由来を調べることだ。どこから勧請したものなのか。分霊の出どころが分かっているなら、返す先はその本社になる。分からないなら、地元の氏神の神社に相談する。相談先が分からなければ、都道府県の神社庁が窓口になる。実家じまいで分霊を伏見に返した人の話が示していたのは、この経路が実際に機能するという事実だった。神社本庁から県の窓口へ、県の窓口から近所の神社へ、近所の神主から本社へ。手探りで一年半かかったが、たどり着いた。そして、たどり着いた先には、はっきりした答えが用意されていた。
同時に、この記事は「必ず神主を呼べ」と言いたいわけでもない。ましてや、高額な祈祷を受けなければ危ない、という話には絶対にしたくない。相場は先に書いたとおりで、御霊抜きの祈祷は一万円から三万円程度、出張費と供物を含めて五万円前後が一般的なラインだ。それを大きく超える金額を提示して「これをやらないと祟る」と迫ってくる相手がいたら、それは信仰の問題ではなく別の問題である。恐怖につけこむ商売は、稲荷とは何の関係もない。江戸の下級宗教者が御利益と祟りをセットで売り歩いた話を先に書いたが、あれは歴史の話であって、模範ではない。
狐憑きについても一言。この記事では憑き物の民俗を歴史資料として扱ったが、憑き物筋という差別の歴史が実際にあったことは忘れてはいけない。特定の家が狐を憑かせると信じられ、その家とは通婚しないという扱いを受けた地域が、山陰や四国の一部に近代まで存在した。民俗学の調査が進むにつれて、その構造と原因が解明されてきたが、実在の家に対する具体的な人権侵害だったという事実は動かない。狐憑きを面白い怪談として消費するのは自由だが、それを現実の誰かに当てはめる方向へ持っていった瞬間、この話は怪談ではなく加害になる。同様に、心身の不調を安易に霊的な原因に結びつけて医療から遠ざける方向に使うのも、絶対にやめたほうがいい。
そのうえで、この話の一番面白いところを言わせてほしい。庭の祠というのは、家の記憶を保存する装置として、異常なほど優秀なんだよな。文書は失われる。写真も散逸する。口伝も三代で消える。ところが石の祠は残る。誰が建てたかも、なぜ建てたかも、何が入っているかも忘れられたまま、物体だけが庭の隅に居座り続ける。四姉妹の誰も知らなかった竹藪の中の三十センチの石の祠が、まさにそれだった。中身が忘れられても、存在だけは残る。そして、忘れられた存在ほど怖い。中身が分かっていれば返しに行ける。分からないから動かせない。恐怖の正体は、神様ではなく、情報の欠落なのである。
言い換えれば、屋敷稲荷の祟りの噂とは、日本社会が家の記憶を継承しそこねてきたことの、物理的な証拠なんだと思う。江戸の商家が商売繁盛を願って勧請し、明治の農家が家格を示すために建て、昭和の会社がビルの屋上に上げた。それぞれの時代に、それぞれの合理性があった。合理性が失われた後も、赤い鳥居だけが残る。残されたほうは、なぜそれがそこにあるのかを知らない。知らないものは、怖い。怖いものには、物語がつく。物語がついたものは、触れなくなる。触れないから、さらに放置される。この循環が何十年も回った先に、天井に穴が開き床が抜けたまま誰も手を出せない社殿や、登記簿に明治以前の十三人の名前が残ったままの土地が生まれる。
だから、もし今この記事を読んでいるあなたの実家に祠があるなら、やっておいたほうがいいことは一つだけある。祟りの対策じゃない。記録を取ることだ。いつ、誰が、どこから勧請したのか。まだ聞ける人がいるうちに聞いておく。写真を撮って、扉を開けて中に何が入っているかを見て、メモを残す。それだけで、将来あなたの子どもか孫が同じ問題に直面したとき、「どこに頼めばいいか分からない」という宙吊りから解放される。窓口さえ分かっていれば、この話は怖い話ではなくなる。手続きの話になる。
祠を壊すのが怖いんじゃない。壊した後で、それが何だったのかを永遠に確かめられなくなることが怖いのだ。噂が本当に語っているのは、たぶんそっちのほうなんだよな。
