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煮え湯の底の石を素手で拾わせて犯人を決めた――室町日本を三百年支配した「湯起請・鉄火起請」という名の公開処刑

釜の湯が煮え立つ音だけが聞こえていた

社殿の前に、大きな鉄の釜が据えられている。下では薪が赤く爆ぜ、湯はもう完全に煮え立っていて、白い湯気が板葺きの屋根の下でぐるぐる渦を巻いている。釜の底には拳ほどの石が沈めてある。役人が湯の中を柄杓でかき回して、石がちゃんとそこにあることを一同に見せる。見物人は境内を埋め尽くしている。誰も声を出さない。聞こえるのは、湯がごぼごぼ言う音と、薪の弾ける音だけだ。

呼び出された男が、白い麻の衣で進み出る。何日も精進潔斎をして、酒も肉も断って、体を洗い清めてきた。手には一枚の紙。社寺が配る護符の裏に、自分の言い分を書き、そのあとに神仏の名前をずらずら並べ、最後に、もしこの誓いに偽りがあれば、これらの神仏の罰を身に受け、来世まで地獄に堕ちてかまわない、と書いた紙。起請文である。それを読み上げ、両手を合わせ、そして袖をまくる。

役人が、参れ、と言う。

男は釜に手を突っ込む。

これは怪談ではない。日本でだいたい三百年、いや古代から数えれば千年以上、真面目に運用されていた裁判の光景だ。名を湯起請という。もっと後の時代には、湯の代わりに真っ赤に焼けた鉄の塊を素手で受け取らせるようになる。それを鉄火起請という。

村の境が決まらない。誰が盗んだのか分からない。証拠がない。証文もない。双方とも一歩も引かない。そういうとき、室町から江戸初期の日本人は、こうやって決着をつけた。神様に訊いたのだ。訊き方が、人間の手を焼くという方法だっただけで。

ここから先は、その全部の話をする。始まりの『日本書紀』から、七百年の空白、鎌倉の穏やかな神判、室町の爆発、将軍による濫用、江戸初期の血みどろの鉄火裁判、そして消滅まで。読み終わる頃には、たぶんあなたは、昔の人は迷信深かったんだねえ、という感想を持てなくなっている。むしろ逆だ。彼らは神を信じきっていたから釜に手を入れたのではない。信じきれなくなったから、釜を用意したのである。

始まりは甘樫丘だった

日本の熱湯裁判の初出は、はっきりしている。『日本書紀』巻第十三、第十九代允恭天皇の四年秋九月の条だ。西暦にすると四一五年ということになっている。もちろん記紀の年代をそのまま史実として扱うことはできないが、記録としてはここが最初である。

話はこうだ。允恭天皇が嘆いている。昔は人々がそれぞれの身の丈に合った氏姓を名乗っていて、混乱などなかった。ところが自分が即位して四年、上も下も争ってばかりで民が安らかでない。うっかり自分の本来の姓を失った者もいれば、わざと高い家柄を騙る者もいる。国が治まらないのはこれが原因だ。臣下たちよ、どうすべきか議論して申せ。

臣下たちは、陛下が過ちを正して氏姓を定めてくださるなら、我々は命がけでお仕えします、と応じる。そして同月二十八日、天皇が詔を出す。群卿百寮も国造たちも、みんな口をそろえて、自分は天皇の子孫だ、自分の先祖は天から降ってきた、と言う。しかし天地人が分かれてから途方もない年月が経ち、一つの氏が枝分かれして万の姓になっている。誰が本当のことを言っているのか、もう分からない。ゆえに、諸氏姓の人々は沐浴斎戒せよ。そして各自、盟神探湯をせよ。

そこで味橿丘、いまの奈良県明日香村の甘樫丘の、辞禍戸岬という場所に探湯瓮という釜を据える。天皇は集まった人々に告げる。真実を述べる者は無事であろう。偽る者は必ず傷つくであろう、と。

『日本書紀』はここに親切な割注を入れている。盟神探湯、これはくかたちと読む。あるやり方では、泥を釜に入れて煮立て、そこに手を突っ込んで湯の中の泥を探る。またあるやり方では、斧を火の色になるまで焼いて、それを掌に置く、と。

つまり最初期から、この神判には熱湯型と焼鉄型の二系統があったことを、記紀の編者自身が書き残している。後の湯起請と鉄火起請の対応関係が、すでにここにある。

そして人々は木綿の襷を掛けて釜に赴き、探湯をした。結果、真実を述べていた者は無傷、偽っていた者は皆やけどを負った。それを見て、嘘をつくつもりだった者たちは愕然として後ずさりし、前に進めなくなった。以後、氏姓は自ずから定まり、詐称する人間はいなくなった。それが『日本書紀』の書きぶりである。

甘樫丘のふもとには今も甘樫坐神社が鎮座していて、境内には注連縄を巻かれた立石がある。ここが盟神探湯の故地とされ、毎年四月の第一日曜日、この立石の前に釜を据えて盟神探湯神事が行われる。さすがに参拝者に熱湯へ手を突っ込ませるわけにはいかないので、手に見立てた笹の葉を釜の湯に浸す。葉の色が変わらなければ潔白、という趣向だ。宮司による神事のあと、地元の劇団が寸劇で往時の様子を再現する年もある。二〇二六年四月五日にも約八十人が集まって、宮司が笹の葉を釜の湯につけ、参拝客を清めたと報じられている。千六百年前の裁判が、いまは無病息災のお守りになっている。

蛇の壺、そして継体天皇紀の惨劇

『日本書紀』の盟神探湯は允恭紀だけではない。もう一つ、まったく調子の違う記事がある。継体天皇二十四年九月条だ。

倭国から任那へ派遣された近江臣毛野という人物が、現地で任那人と倭人のあいだに生まれた子供の帰属をめぐる争いを裁くことになった。ところがこの毛野、まともな審理をほとんどせず、やたらと誓湯、つまり盟神探湯を連発した。結果、やけどを負って死ぬ者が続出した。この報告を聞いた継体天皇は、毛野に召還命令を出している。

つまり『日本書紀』は、盟神探湯を真実を明らかにする有効な方法として賞賛する記事と、人々を無闇に苦しめる乱暴な方法として非難する記事の両方を載せているわけだ。この点を強く指摘したのが、中世史家の清水克行である。二〇一〇年五月に出た『日本神判史』の第一の主張がそこにある。古代の時点ですでに、神判は人々の全幅の信頼を受けるものではなかった。だとすれば、中世人の呪術観念や信仰心を実態以上に強調してきた従来の研究は、見直されねばならない、と。

ちなみに七世紀の中国側史料『隋書』倭国伝にも、倭国では小石を煮えたぎる湯の中に置いて争っている者に探らせ、理の曲がった者は手がただれると言う、あるいは蛇を瓮の中に入れて取らせ、曲がった者は手を噛まれると言う、という記述がある。蛇の壺に手を突っ込ませる方式も本当にあったらしい。外から見た日本の姿として、熱湯神判はそれなりに有名だったということだ。

七百年、記録が途絶える

さて、ここからが妙な話になる。『日本書紀』の三例を最後に、熱湯を用いた神明裁判の記録は、日本の史料からぱったり消える。奈良も平安も、まるまる空白だ。次に熱湯裁判が姿を現すのは、室町時代、応永年間である。その間、およそ七百年。

この空白をどう解釈するか。清水克行は断絶説を採る。理由は二つ。第一に、七百年にわたって熱湯裁判の実施を示す史料が一切確認できないこと。第二に、湯に手を入れる前に起請文を書くという手続きが、古代の盟神探湯には無く、中世の湯起請には必須だったこと。この二点から、両者は名前と道具立てが似ているだけの別物だ、というのが清水の立場である。

これに対しては当然、反論もある。法制史の側からの書評では、室町期まで熱湯裁判が行われなかったからといって直ちに別物と結論づけるのは早いのではないか、盟神探湯も湯に手を入れる前に神への誓約行為をしている点では共通しているではないか、数百年のあいだ人々の記憶の中にだけ留められていた熱湯裁判が、湯起請と名を変え、新しい機能を帯びて復活したと解釈する余地はまだ残っているのではないか、と指摘されている。

面白いのは、盟神探湯という言葉自体は生き延びたことだ。神判としての役割を終えたあと、この語は、神前に拝するとき身を清めるために沸かす湯、という意味に転じていく。湯立神楽の湯立、そして湯起請という言葉も、この意味での盟神探湯に由来するものだ、と説明されている。血なまぐさい裁判が、いつのまにか神事の湯気になっていた。

鎌倉時代の「優しい神判」

室町の湯起請にたどり着く前に、鎌倉時代を通らなければならない。この時代の主役は参籠起請である。

やり方はこうだ。疑いをかけられた人物に、まず起請文を書かせる。自分は潔白である、もし偽りがあれば神仏の罰を蒙る、と誓わせる。そのうえで神社の社殿などに一定期間こもらせる。三日、七日、二十一日と、期間はケースによって違う。その期間内に失と呼ばれる異変が起きなければ、潔白と認定される。

では失とは何か。これがなかなかすごい。鼻血が出る。飲食のときにむせる。病気になる。家族や親戚が事件を起こす。鳥に糞をかけられる。そういう類の、日常のちょっとした不運が全部、神が下した徴として数え上げられる。読書家のあいだで、鳥に糞をかけられて有罪になるんじゃたまらない、という感想が定番になっているのも無理はない。

ただし、清水克行が史料を集めて確認したところ、参籠起請で実際に失が認定されるケースは少なかった。つまり大半の被疑者は無事に籠りを終え、潔白のお墨付きを得ていた。清水はこれを、犯人を捕まえたり偽りを暴いたりするよりも、被疑者の汚名を晴らすほうに力点が置かれた優しいシステムだった、と評している。

鎌倉幕府はこの参籠起請を訴訟制度の中に組み込んでいた。一二三〇年代から四〇年代にかけて、幕府法廷で参籠起請文が使われた実例が集中して現れる。仁治元年、つまり一二四〇年の幕府法では、諸社の神人や神官が、自分の神社で起請文を書かせろ、と主張したのを退けて、京都では一律に北野社の社頭で書かせるよう六波羅探題に指示している。神仏の権威を持ち出してくる当事者たちに対して、統一基準を作ろうとしたわけだ。神様への誓いにも役所仕事のフォーマットが必要になる。この感覚が中世である。

落書起請――六百通の投票用紙が語る中世の犯人探し

もう一つ、忘れてはならない神判の形式がある。落書起請だ。

これは犯人不明の犯罪が起きたとき、対象地域の住民全員に、神仏に誓わせたうえで、怪しいと思う者の名前を無記名で書かせ、投票させるという方法である。いわば犯人を決める住民投票。管理された匿名性、と研究者が呼ぶ独特の仕組みだ。

その最も有名な実例が、延慶三年、一三一〇年の法隆寺である。七月五日の夜、法隆寺の子院である蓮城院に強盗が押し入った。寺は捜索に着手したが手がかりが得られず、懸賞金をかけて公開捜査に切り替え、さらに近郷十七ケ所に牒を送って郷民を召集した。同月十七日、龍田社において合同の大落書が挙行される。

法隆寺からは開き役として七人の僧が出仕した。ルールも事前に定められている。実際に見たという実誹として名前を書かれたものが十通以上、あるいは風聞によるものが六十通に達した場合、その者を犯人と断定する。集まった落書は六百余通。二日がかりで開票された。

ところが結果がまずかった。法隆寺の僧である定松房が二十余通、舜識房が十九通、名指しされてしまったのである。寺僧が犯人と目された。これを知った十七ケ所の郷民はいきり立って寺に押し寄せる。寺側は、寺の中のことは寺で処置する、となだめようとしたが納得せず、群衆は舜識房の坊舎へ向かった。因幡法橋と賢定房得業が人数を率いて駆けつけ、郷民を追い返す騒ぎになる。日が暮れてその日は解散したが、翌日の集会で二人は出仕停止処分を受けた。

物語には続きがある。同年十二月、この二人が初石八郎という男を盗品もろとも捕らえて寺に突き出した。寺はこれを真犯人と認定し、懸賞金二十貫文を出した。初石八郎は法隆寺の北にある極楽寺で首を切られ、その首は三日間さらされたという。

住民投票で寺の坊さんが犯人にされ、坊さんが名誉挽回のために自分で真犯人を捕まえてきて、そいつが首を刎ねられる。落書起請という制度が、共同体の空気そのものを判決に変換する装置だったことがよく分かる。ちなみに票を集めた定松房は、その半月前の六月六日にも刃傷事件を起こしている。日頃の行いというやつだ。神慮の名を借りた投票が、しっかり地元の評判を反映していたわけである。

室町、湯起請の爆発

そして湯起請が現れる。

文献上の初見とされるのは『教言卿記』応永十三年、一四〇六年七月十四日条の、湯起請事、宿老共沙汰有るべし、という記述である。これ以降、十五世紀の百年間、湯起請の記録は日本中に爆発的に増える。ピークは一四三〇年代。そして十六世紀に入るとぱたりと減り、鉄火起請に主役を譲る。永禄十三年、一五七〇年の近江国の例など散発的な記録は残るものの、湯起請はほぼ室町時代に固有の現象なのである。

清水克行は全国から湯起請の事例八十七例、鉄火起請の事例四十五例を拾い集めて一覧化した。断片的にしか残らない史料をつなぎ合わせて統計処理をした結果、いくつかの重要な事実が浮かんだ。

まず湯起請には二つのタイプがある。犯人探し型と、紛争解決型。比率はおよそ六対四で、犯人探し型のほうが多い。ところが、湯起請をやろうという話が出た案件のうち、実際に実施まで至った比率は低い。犯人探し型で四十三パーセント、紛争解決型に至っては二十七パーセントしかない。つまり、大半のケースでは、湯起請だ、と言い出した時点で、あるいはその準備の途中で、片方が折れるか、逃げるか、和解するかしていた。神判は最終手段であり、同時に最強の脅し文句でもあった。

そして実施された場合の結果。犯人探し型では、やけどが確認されて有罪とされた事例が約五十パーセント。紛争解決型では、片方だけがやけどをして決着がついた事例が約六十パーセント。裏を返せば、煮え立った湯に手を入れて、やけどをしなかった人間が五割近くいたということになる。この数字の意味は、あとで詳しく考える。

作法を細部まで――湯起請はこう行われた

史料と辞典類から復元できる湯起請の手順を、できるだけ細かく並べてみる。ただし、これは過去の記録の再現であって、間違ってもどこかで真似できるような性質のものではない。人間の手は普通に焼けるからである。

まず前提として、湯起請はいきなり始まらない。証文があるか、証人がいるか、双方の言い分にどれだけ食い違いがあるか。通常の審理を尽くしてもなお決着がつかない場合にのみ、湯起請が命じられる。命じるのは領主であったり、守護であったり、寺社であったり、幕府であったりする。逆に、住民の側から、湯起請でやらせてください、と要望する事例もある。上から押しつけられただけの制度ではなかった。

日取りが決まると、当事者は精進潔斎に入る。何日間かは案件によって違うが、酒肉を断ち、身を清め、社寺にこもる。当日は白装束で臨むのが通例だった。

会場は社寺の前である。神の目の前でやることに意味がある。奉行や検使役の役人が立ち会い、周囲には共同体の人間が集まる。これは秘密裁判ではなく、徹底して公開の儀式だった。むしろ公開されていることが本質だ。中世では湯立そのものが見物の対象にもなっており、『康富記』宝徳三年、一四五一年九月二十九日条には粟田口神明の湯立の記事が見える。

次に起請文を書く。書式には型がある。まず約束や主張の内容を書く前書。次に自分が信仰する神仏の名前をずらずら列挙する。梵天、帝釈、四大天王、日本国中大小神祇、といった具合だ。そして最後に、この誓いに偽りがあればこれらの神仏の罰を蒙る、という自己呪詛の文言。後半二つをまとめて神文あるいは罰文という。

料紙が重要である。鎌倉時代後期からは、社寺が配る牛玉宝印という護符の裏に起請文を書くのが通例になった。起請文を書くことを、宝印を翻す、とも言った。中でも熊野三山の牛王宝印、いわゆる熊野牛王符が好んで使われた。八咫烏をかたどったカラス文字で図案化された、独特の護符である。熊野の神は正直を尊び、嘘をついた者を罰する神とされていた。この紙に誓って約束を破ると、熊野の神使であるカラスが三羽死に、破った本人は血を吐いて地獄に堕ちると信じられた。これを熊野誓紙という。

ここに、恐ろしく生々しい作法がある。牛王宝印を焼いて灰にし、水に溶いて飲ませるという誓約の仕方だ。牛王を焼くと、熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬ。その罰が飲んだ本人に返ってきて、たちどころに血を吐く、とされていた。だから血を吐くのが恐ろしくて、牛王を飲ますぞ、と言われただけで、心にやましいところのある者はたいてい飲む前に自白した、と伝えられている。紙を飲ませるという行為が、そのまま自白装置として機能していたわけだ。神判の本体は釜ではなく、この恐怖のほうにあったのかもしれない。

さて、いよいよ釜である。神前に釜を据え、湯を沸騰させ、中に石を沈める。当事者は起請文を捧げたのち、湯に手を入れて石を探り、拾い上げる。ここからが独特で、拾った石はただ放り出すのではなく、かたわらに設えられた棚の上に載せなければならない。手順が定められているのだ。

失敗の判定も細かい。石を取り落とす。棚から落とす。そもそも湯に手を入れられない。これらはすべて失と認定される。さらに、湯起請の当日に他所へ出かけていた、あるいは会場に現れなかった、というのも失になる。逃げても負けなのである。これらは当座の失と呼ばれた。

そして最終判定。手を包んで封をし、二日から三日、あるいは七日、社寺に参籠させる。日数は先例やその場の取り決めによる。そのうえで役人が封を解き、手の状態を検分する。ただれていれば、その者の主張は偽りだと神が証言したとみなす。刑事案件ならば有罪、民事案件ならば敗訴である。

民事の後始末にも決まりがあった。両当事者ともに手がただれていた場合、争っている土地や物は幕府に没収される。どちらも無傷だった場合は、係争地を当事者の間で折半する、いわゆる中分となる。永享十一年、一四三九年の室町幕府の意見状には、境界争いについて、湯起請の失の浅深は、境界に打った目印の杭の曲がり具合による、という趣旨の判断が示されている。やけどの深さの度合いが、境界主張の正しさの度合いに対応する、という発想だ。神は正誤を白黒で答えるのではなく、程度で答えてくれる。ここまで来ると、もはや神託というより計測である。

実例その一――呼ばれた日に誰も来なかった

具体的な事例を見ていこう。まず和歌山県海南市に伝わる話である。

海南市に願成寺という古刹がある。久寿二年、一一五五年に、熊野と縁の深い僧である湛慶が紀貞正から土地を譲られ、山林荒野を開いて建てた寺だ。この願成寺の周辺の村々では、南北朝から室町にかけて、人足役をめぐる争いがしょっちゅう起きていた。人足役とは労働で納める税である。

最初の争いは康暦元年、一三七九年。願成寺とその門前の村は三上荘重禰郷の内にあったが、願成寺領だけは他の重禰郷の村々と違って人足役を免除されていた。重禰郷の百姓たちは、たとえ願成寺の領地であっても、人足役は郷内で同じだけ負担すべきだ、と訴える。願成寺領の百姓は、久寿年中以来、寺領の百姓は特別に免除されてきた、と反論。訴えを受けた役人が重禰郷の百姓に、証拠書類はあるか、と尋ねると、ない、という答えだったので、訴えは退けられた。

ところが応永三年、一三九六年には、願成寺領の百姓にも人足役が賦課されていたらしい。今度は願成寺領の百姓が訴訟を起こし、昔から人足役を勤めた例はないという証拠書類を提出して、あらためて免除を認めさせている。ここまで二回の裁判は、いずれも証拠書類を審査したうえで判決が下されていた。

それなのに応永二十四年、三度目の訴訟が起きる。このときの判決は趣が違った。判決を出したのは沙弥、すなわち紀伊国守護の畠山満家である。両方の主張を聞いた満家は、湯裁文で決めよ、と指示した。湯裁文とは湯起請のことだ。

しかし、この湯裁文は実施されなかった。重禰郷の百姓たちが、湯裁文の場に現れなかったのである。無理な訴えをしている自覚があったから恐れをなしたのか、真相は分からない。結果として願成寺領の百姓の主張が改めて認められ、それ以後この争いは記録から消える。

学芸員はこう書いている。湯起請という過激な問題解決の方法を提案したことで、頻繁に起こっていた争いに抑止効果があったのかもしれない、と。まさにこれが、実施率が低いことの意味だ。湯起請は、使わないことによって最も効果を発揮する制度だった。抜かない刀のほうが怖い。

実例その二――近江の山論と、万人恐怖の四文字

もう一つ、実際に湯起請が行われた事例。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』に記録されている。

伏見宮家の所領のひとつに近江国山前荘があった。この山前荘と、隣の荘である観音寺との間で、山の境をめぐる争いが起きる。山は薪であり炭であり肥料であり秣であり、村の生存インフラそのものだ。境が一町ずれれば、何十年分の暮らしがずれる。だから山論は死ぬほど揉める。

永享八年、一四三六年三月、この山論に湯起請が行われた。伏見宮という高位の公家の所領で、その日記に淡々と記録されるほどには、この時期の湯起請はふつうの手続きだったということである。

同じ『看聞日記』の記主である貞成親王が、その二年前の永享七年二月八日条に書きつけた四文字が、後世に有名になる。万人恐怖。商人が斬首されたことに触れて、万人恐怖、言うなかれ言うなかれ、と親王は書いた。この恐怖の主が、湯起請の歴史における最大の登場人物である。

万人恐怖の将軍――足利義教と神判政治

室町幕府六代将軍、足利義教。彼を抜きに湯起請は語れない。

そもそもこの人の将軍就任からして神判である。応永三十五年、一四二八年正月、四代将軍足利義持が風呂で尻の腫れ物を掻き破ったのが元で感染症を起こし、危篤に陥った。息子の五代将軍義量はすでに酒毒で早世している。重臣たちが死の床の義持に後継指名を懇願するが、義持は最後まで誰の名も出さずに死んだ。

困り果てた重臣たちは、醍醐寺三宝院の満済の助言を容れ、籤で決めることにした。候補は義満の子息四名。籤を作ったのが満済、封をしたのが守護大名の山名時熙、引いたのが管領の畠山満家。石清水八幡宮で正月十七日に籤が引かれ、翌十八日の義持死去のあとに開封された。中に書かれていたのは青蓮院義円、のちの義教である。世に言う籤引き将軍の誕生だ。

現代人の感覚では、将軍をくじ引きで決めるなんて適当すぎる、となるが、当時の籤は運任せではない。神意を問う神聖な儀式である。石清水八幡宮は源氏の氏神で、武家にとって特別な場所だ。八幡神が決めたと言えば、誰も文句をつけられない。誰が決めても恨みを買う状況で、神が決めた、ことにする、実に政治的な知恵だった、と評する研究者もいる。もっとも、事前に仕組まれた八百長だったとする説も昔からある。史料的根拠はないが、東京大学史料編纂所の本郷和人のように、くじは八百長で後継者は決まっていたと考える研究者も現代にいる。

問題は、この籤で選ばれた本人が、その物語を本気で信じたらしいことだ。義教は、自分は神慮によって室町殿になった、という王権神授の意識を持っていた、と説明される。そして訴訟に強い関心を持ち、評定衆や引付頭人を再置して制度改革を試み、訴訟受理の権限を将軍に集中させ、御前沙汰と呼ばれる形で政務決裁を掌握していく。永享二年から二年間の義教自身の裁許記録は『御前落居記録』として残り、重要史料になっている。

その義教が、裁断にあたって多用したのが湯起請と籤だった。神の権威を借りて重臣や公家の衆議を退け、自らの独裁権を確立するためだったとも、自分は神意で選ばれたという意識の表れだったとも言われる。興味深いのは、義教の神判が主に境界問題と朝廷関連に限られ、守護人事や軍事には使われなかったことだ。使いどころを選んでいる。神を信じているというより、神をカードとして切っている。

清水克行の分析はさらに踏み込む。湯起請は義教の発明ではない。彼が将軍になる前から、仏教寺院などで行われていた。ただし義教は、それを桁違いの件数で使った。理由として挙げられているのが、独裁志向を持ちながら、先代から引き継いだ老臣たちに邪魔されて思うように政治を動かせなかったこと。だからこそ、短兵急に結論を出せる湯起請に頼った。清水は義教期の湯起請事例を政権初期・前期・後期に分けて、その使われ方の変化まで追っている。

義教の苛烈さは伝説的で、些細なことで厳罰を下し、流罪や死罪を命じられた者は身分の貴賤を問わず二百名を超えたという。将軍を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたという理由で公家の所領を没収して蟄居させた話、日野義資の家に祝いの客が集まったと聞いて訪問客を全員調べ上げて処罰した話、僧の日親を投獄して灼熱の鍋を頭からかぶせ舌を切ったという伝承まである。比叡山を包囲し、坂本に火をかけ、招いた四人の僧の首を刎ね、延暦寺の僧たちが根本中堂に自ら火を放って焼身するに至る。京の街で比叡山の噂をする者は斬首すると触れを出して、噂そのものを圧殺した。

そして嘉吉元年、一四四一年六月二十四日、赤松満祐の邸に招かれた義教は、その場で首を取られる。嘉吉の変。神に選ばれた将軍の、あまりに人間的な最期である。朝廷はしばらく満祐追討の綸旨を出し渋った。義教の恐怖政治を終わらせた満祐への同情が、宮中にも多かったからだという。

数字が語ること――なぜ半分の人はやけどしなかったのか

ここで先ほどの統計に戻る。湯起請を実施して、やけどをしなかった人間が五割近くいた。この事実をどう説明するか。

物理学のほうから持ち出されるのがライデンフロスト効果である。液体を沸点よりずっと高温に熱した固体の上に垂らすと、接触面で蒸発した蒸気の層が両者のあいだに挟まり、熱伝導を妨げる。熱したフライパンの上で水滴が玉になって滑る、あの現象だ。これを応用すると、湿った手を高温のものに一瞬触れさせても、間に挟まった蒸気の層が熱を遮り、やけどを免れることがありうる。落ち着いて静かに手を入れ、静かに引き上げれば可能性はゼロではない。逆に恐怖で手が震えれば、層が壊れて熱が直に伝わる。だから湯起請は事実上の嘘発見器だった、という説明が、こうした文脈でよく語られる。

ただし正直に言えば、この説明で全部を片づけるのは無理がある。ライデンフロスト効果が効くのは瞬間的な接触の話で、沸騰した湯の底に沈んだ石を探って掴んで取り出すという工程には、ずいぶん時間がかかる。熱湯そのものは水滴と違って蒸気膜を作りにくい。火渡り神事の説明にライデンフロストを持ち出す議論に対しても、ゆっくり歩く行者がやけどしない例があるではないか、といった反論が出ている。

では何が起きていたのか。おそらくもっと身も蓋もない要因がいくつも重なっている。湯の温度が本当に沸騰点だったのかどうか、史料は保証してくれない。釜の場所によって温度は大きく違う。石をどこに沈めるか、湯をいつ火から下ろすか、どれだけの時間手を入れさせるか、そのすべてに人間の裁量が入り込む余地がある。そして何より、判定するのも人間である。三日後に封を解いて手を検分し、これは失ありや、失なしや、を決めるのは、その場に立ち会う役人であり共同体だ。

つまり、湯起請は神が判定する装置の形をしていながら、実際には人間が結論を出せる余地をたっぷり残していた。清水克行が神判の背後に、神の名を借りた合理的精神を見出したのは、まさにここである。為政者にとっては自分の意を通す方便になり、共同体にとっては集団を平和に保つための装置になり、当事者にとっては汚名を晴らす機会になる。それぞれの思惑が、煮え立つ釜のまわりで交差していた。

鉄火起請へ――信じられなくなるほど、道具立ては過激になった

十六世紀に入ると湯起請は減り、代わって鉄火起請が盛んになる。火起請、鉄火、火誓とも呼ばれる。ピークは一六〇〇年前後、関ケ原の前後である。

やり方は湯起請よりもさらに直截だ。相論の対象となる集団から、それぞれ代表者を指名する。代表者はまず精進潔斎する。立会いの役人らの前に出て、掌に牛王宝印を広げる。その上に、灼熱した鉄片あるいは鉄棒を乗せる。牛王宝印を敷いておくのは、正しい者は熊野権現の力によって灼熱から護られる、と信じられていたからだ。そして、それを素手で持ったまま歩き、かたわらの棚の上まで運ぶ。運びきれるかどうか、どこまで運べたか、その完遂の度合いによって、所属する集団の主張の当否が判定される。

鉄火起請の統計も清水克行が出している。まず、湯起請と同じく犯人探し型と紛争解決型があるが、鉄火起請では後者の割合が約八割を占める。境界争いの決着手段として特化していたわけだ。そして、湯起請と比べて実施率がかなり高い。言い出したらだいたい本当にやる。脅しではなく、決着そのものになっていた。

ここに、この記事でいちばん大事な逆説が現れる。より過激な神判が登場したのは、信仰が篤くなったからではない。信仰が薄れたからである。

清水の議論はこうだ。中世も終わりに近づき、人々は神仏を素朴に信じられなくなっていた。だからこそ、灼熱の鉄片を素手で握るという極限状態を用意して、そこまでやればさすがに神慮が現れるだろう、と考えた。神を信じているから試すのではない。信じたいけれど信じきれないから、試すのだ。

清水自身がこの心理を説明するのに使った比喩が絶妙なので紹介しておく。小学四年生になった彼の息子が、サンタクロースの存在に疑念を抱きはじめた。学校では、サンタは父親だ、という噂が広まっている。そこで息子は宣言した。ボクはサンタはいると思う。だから今年は欲しいものを家族には言わないことにする。本当にサンタがいるなら、口に出さなくてもちゃんと持ってきてくれるはずだから、と。神の存在に疑念を抱きはじめ、それでも神を信じたいと思ったとき、人は神を試す。湯起請を思いついた室町人と同じ発想がそこにある、というわけだ。ちなみに清水家のサンタは息子の直近の言動から推理して、みごとに希望の品を届けたそうである。

起請文そのものの変質も、この流れと符合する。室町を経るにつれ、起請文に勧請される神仏の数がどんどん増えていく。一柱あたりの価値が下がっていることの裏返しだ。単に神仏に誓うだけでは足りず、血判を押すことが必須になっていく。さらには起請返し、起請許しといって、いったん立てた誓いを撤回するためのお祓いまで登場する。都合よく神仏を利用しながら、神仏への信頼は落ちていく。戦国期にはそれが著しい。

実例その三――近江日野、元和五年九月十八日の鉄火裁判

鉄火起請の実例として最も詳しい記録が残っているのが、近江国日野の一件である。『山論鉄火裁許之訳書』という文書が伝わり、地元には碑まで建っている。

争われていたのは日野山という山の入会権だった。江戸時代に入って日野山が幕府直轄地になると、蒲生郡日野町などの東郷九ケ村が年貢を請け負う代わりに入山を許される方式に改められた。すると、それまで立ち入っていた石原村など西郷九ケ村が閉め出されることになり、猛反発する。多数の村を巻き込む大規模な山論に発展した。

訴訟は大坂の陣などの影響もあって遅々として進まない。出訴からおよそ十年が経った元和五年、一六一九年。石原村で養われていた浪人の角兵衛という男が、庄屋に提案する。読み書きもそれなりにでき才知のある者、と評された人物だ。角兵衛はこう言った。長々しい御裁許を待つよりも、神慮に任せて綿向の神前で鉄火を取り、無事に取れたほうを利、取れなかったほうを非とすれば、すぐに落着するでしょう。もしそう決まったなら、私はこの村に何年も世話になった御恩返しとして、鉄火を取る役をお引き受けします、と。

西郷から東郷へこの話を持ちかけると、東郷の寄合では誰一人として鉄火役に志願する者がいなかった。それを気の毒に思った村井横町の九郎左衛門という男が、神は正直を照らし給う、何の恐れがあろうか、と言って役目を引き受ける。当事者双方の合意ということで幕府に伺いを立て、鉄火起請による裁判が正式に認められた。

ここで一つドラマが挟まる。音羽村の庄屋に喜助という男がいた。弁舌に優れ、役所との交渉も村々との折衝も一手に引き受けていた実力者である。この喜助に嫉妬していた西郷の人間が、こう嘲笑した。これまで何事も口先で言い回してきたが、鉄火だけは取れまい、と。挑発に乗った喜助は、拙者、鉄火を取ってみせ申す、と返答する。本人たっての希望で、東郷の鉄火役は急遽、九郎左衛門から喜助に変更された。

西明寺、正明寺、金剛定寺の三ケ寺は、わずかな柴草のために人命が失われることを嘆いて、鉄火裁判をやめさせようと動いた。しかしすでに江戸の老中の決裁を経ていたため、どうすることもできなかった。

元和五年九月十八日、当日。綿向神社の神前に棚が設けられ、その上にそれぞれの村から提供された、斧の形をした鉄の塊が置かれた。棚から五間、およそ九メートルほど南に、東西に分けて炭火を熾す炉が設けられる。待機していた鍛冶師が鉄を受け取り、江戸から下ってきた幕府役人の検視のもとで、双方まったく同じように焼き赤らめた。

刻限になり、両者が掌にへぎ板を敷いて鉄を受け取ろうとした、まさにその矢先。検視の役人が待ったをかける。鉄に何か不正な仕掛けがないかと用心して、東郷から提供された鉄を西郷の者に、西郷から提供された鉄を東郷の者に渡すよう命じたのである。

白木綿の衣裳で現れた喜助と角兵衛が、それぞれ赤熱した鉄を掌に受け取る。喜助は三間、およそ五メートル半を走り抜けて、元の棚に鉄を投げ入れた。角兵衛は掌が焼けただれ、その場で鉄を取り落とした。逃げようとしたところを役人に捕らえられ、翌日、町内を引き回されたうえ、西之野の仕置場で磔に処された。今の日野町上野田の雲雀野という場所である。

『山論鉄火裁許之訳書』の書き手は、この結末にこう評を加えている。角兵衛はいささか奸智のある者だったから、無益なことを言い出して人を苦しめようとしたのだが、天罰は逃れられず、かえって我が身を滅ぼしたのは恐るべきことだ。またこういうこともあろうかと、鉄を取り替えて渡させた御上の明察こそ恐れ入るべきだ、と。

つまりこの記録の書き手自身が、角兵衛は鉄に混ぜ物をして熱くならない細工をしていたのだろう、と読んでいる。役人がそれを見抜いて事前に鉄を交換したため、悪知恵が仇になった、という筋書きだ。神慮の裁判だと言いながら、当日の現場では、不正がないか、を役人が必死に監視している。この二重性が、鉄火起請という制度の実像を露骨に示している。

後日談も濃い。日野山の山論は東郷の勝訴となり、幕府から褒美として喜助には蔵王村の砥山が、九郎左衛門には村井町の南に三畝あまりの田地が与えられた。この田は俗に鉄火田と呼ばれた。そして喜助の子孫は神恩感謝のため、裁判のあった九月十八日、新暦では十月十八日の早朝に綿向神社を参拝する鉄火祭を毎年欠かさず続けるようになる。江戸時代後期の国学者、平田篤胤も『古史伝』の中で、喜助の家から毎年この社へ献物をして、これを鉄火祭と言う、と書き留めている。

昭和三十年に設立された綿向山財産区と大山財産区は、昭和四十二年、綿向神社境内に共有山林顕彰碑を建立して喜助の功績を顕彰した。町内の雲迎寺には別に、喜助翁鉄火記念、と刻んだ石碑もある。四百年前に手を焼いた庄屋が、今も地元で英雄なのである。

実例その四――会津、胴塚と首塚と足塚

日野の一件と同じ元和五年、東北でも鉄火が取られている。こちらは日野よりさらに凄惨だ。

会津藩領の綱沢村、縄沢村とも書く、その綱沢村と松尾村のあいだで、境にある山の帰属をめぐって相論が起きた。場所は現在の福島県西会津町のあたりとされる。小村である綱沢村が藩に訴え出た。

当時、会津の当主である蒲生忠郷は若年だった。そこで奉行の稲田貞右と町野幸和が代わって仲裁にあたる。ところが両村ともこの仲裁を拒否し、火起請での決着を望んだ。奉行はやむなく、火起請の管理は藩が行うこと、敗者は処断すること、この二条件をつけて認めた。

同年八月、実施。綱沢村の代表は青津二郎右衛門、松尾村の代表は長谷川清左衛門。鉄火を取った結果、青津の勝利となった。

敗れた長谷川清左衛門は、その場で絶命した。そして遺体は三つに斬られ、決定された境目の三か所に埋められた。胴塚、首塚、足塚と呼ばれる境塚が築かれ、その塚を結ぶ線が村の境界となった。人間の体を分割して埋め、それを境界標にする。境界争いの決着として、これ以上ないほど物理的で、これ以上ないほど呪術的である。

文化年間に完成した『新編会津風土記』には、後日談が記されている。この時代になってもなお、綱沢村の住民は青津家の農作業のときには火起請の際の約束を違えず、人を出して手伝う慣行が続いている、と。二百年間、村は勝者の家を養い続けたのだ。

これは特殊な例ではない。近江国神崎郡佐目村では、翌元和六年、蒲生郡甲津畑村との山相論で火起請を行うにあたって、村掟を定めている。鉄火を取る人に対しては、村として諸公事を二代にわたって免除する。もし鉄火を取り損なったとしても、この規定は変更なく、すべての諸公事を免除する、と。

勝っても負けても、村が面倒を見る。勝った代表者も、火傷で手が使えなくなり不具になる場合が珍しくなかった。だから鉄火を取った者とその家族は、集団が責任をもって養うべきものとされた。鉄火起請は、代表者一人の身体を共同体全体で買い上げる契約だったのである。しかも代金は世代をまたぐ。

清水克行が現地取材で確認したところによると、焼けた鉄を握れば当然その後は手が使えないので、その人の農地は他の村民が共同で耕し、十九世紀に至るまで共同体が彼の家を助け続けていた例まであるという。伝承は最近まで生きていた。さらにすごいのは、そうやって決着をつけた村同士が、今でも双方で、あっちはズルをした、と思い続け、互いに結婚することもないほど交流しない例があることだ。四百年前の一回の裁判が、いまだに冷戦を続けている。

実例その五――横浜と川崎の市境を作った鉄火松

もう少し身近な例も挙げておこう。横浜市青葉区と川崎市麻生区の市境である。

横浜市青葉区に鉄町という地名がある。読みはくろがねちょう。隣は川崎市麻生区の早野。この二つの村のあいだに、昔、村境をどこにするかで争いがあった。両者とも一歩も引かず、争いは長く続いた。

話が村役人の耳に入り、裁きが役人に委ねられる。村の有力者の立会いのもとで双方が言い分を述べたが、いくら聞いても裁定がつかない。そこで役人は鉄火の法で決めると言い出した。鉄の棒を灼熱に焼き、それを握らせる。主張が正しければ、焼けた棒は熱くなくいつまでも握っていられる。主張が間違っていれば、手はたちまち黒く焼け焦げる。

先に鉄村の代表が真っ赤に焼けた鉄棒に触れようとしたが、すぐに手を離してしまった。次に早野の代表が灼熱の棒をぎゅっと握り、いつまでも握り続けた。こうして早野村の主張が通り、勝ち取った境界に目印として松が植えられた。人はこれを鉄火松と呼んだ。

松は実在した。第二次世界大戦中に枯れ、昭和二十二年に伐採されたと伝わる。のちに早野の老人クラブが鉄火松跡の碑を建てた。碑は今も横浜市と川崎市の市境に立っている。住宅地から西へ広がる森林地帯、鎌倉古道と呼ばれる尾根道を歩いていくと、右手に石碑が見えてくる。

この話は地域の民話として語り継がれ、地元の紙芝居一座が紙芝居にして各所で口演している。設立十周年で十三の話を紙芝居にしたうち、鉄火松は初期に作られ、最も多く演じられてきた演目のひとつだという。灼熱の鉄棒を握る我慢比べの場面で、明暗が分かれる。

面白いのは、その結末が今も揺れていることだ。地元である鉄の側が負ける筋書きなので、最近は鉄村が勝つ筋書きも出てきました、と一座の代表は語っている。紙芝居は民話通りに作ったが、鉄が勝つ案も出た、と。四百年前の判決に、いまだに納得していない人がいるわけである。

境界を決める鉄火の伝承は各地にあり、火起請の結果として築かれたと伝えられる鉄火塚が残っている地域も存在する。清水克行によれば、横浜と川崎の市境も江戸初期の鉄火で定められたということになる。私たちが今もカーナビの上で見ている自治体の境界線の一部は、誰かが手を焼いて引いた線なのだ。

実例その六――信長が自分で鉄火を取った話

『信長公記』に、若き日の織田信長の逸話がある。年次の記載はない。

被告の左介という人物が鉄片を取り損じた。本来なら有罪である。ところが左介は信長の乳兄弟である池田恒興の被官だった。恒興の威勢を笠に着て、左介をかばおうという不正が行われかけた。

そこへ鷹狩から偶然帰ってきた信長が、物々しい状況を見て問い質す。不正に気づいた信長は宣言した。自分が火起請を取って成功したら、左介を成敗する、と。そして焼いた手斧を掌に乗せ、三歩先の棚まで運んでみせた。信長は左介を成敗した。

主君自ら鉄火を取ることで、誰にも文句を言わせる隙を与えなかった、という話である。同時にこの逸話は、神明裁判の現場で不正が普通に行われていたことも示している。神が判定するはずの場で、有力者の顔色を見て結果が曲げられる。そんなことが起きるから、信長のような人物が、では自分がやる、と言い出すのだ。日野の裁判で役人が鉄を交換した話と、まったく同じ構造がここにもある。

神が人を焼くという矛盾

さて、ここで立ち止まって考えたい。おかしくないだろうか。

神は正直な者を守るはずである。にもかかわらず、神判の作法は、その正直な者の手を煮え湯に沈め、灼熱の鉄を握らせる。守ってくれる相手を、まず自分から傷つけにいく。しかも、守ってくれるなら傷つかないはずだ、という論理で。

これは信仰というより、挑戦である。ヨーロッパの神学者たちはこの点を早くから見抜いていた。神判は神による試しではなく、神への試しだ、という批判である。アウグスティヌスに由来する原則、つまり理性的な手段が手元にあるのに神を試してはならないという原則が、繰り返し持ち出された。人間が自分の都合で奇跡を要求する行為だから、教会はこれを忌避した。

日本には、そこまで明晰に定式化された神学はなかった。だが実務のレベルでは、同じ矛盾に人々はちゃんと気づいていたと思う。だからこそ、湯起請と言い出しておいて実施率は三割から四割に留まったのだし、鉄に細工をする者が現れたのだし、それを疑って鉄を交換する役人がいたのだし、有力者の被官をかばおうとする空気が生まれたのだ。神慮を求める儀式の内側は、人間の思惑でびっしり埋まっていた。

では、神判は何をしていたのか。清水克行の答えを私なりに言い換えると、こうなる。神判が生産していたのは真実ではない。納得である。

考えてみてほしい。中世の村にとって、境界争いはただの民事訴訟ではない。負ければ暮らしが立たない。だから当事者は死ぬまで争う。実力行使に出る。刈田をやり、小屋を焼き、人を殺す。実際、村同士の抗争は百年単位で続いた。そういう世界で、いちばん高価なものは何か。証拠でも法理でもない。もうこれで終わりにしよう、と全員が納得できる何かだ。

書類で決めれば、負けたほうは、書類は偽物だ、と言う。役人が決めれば、あいつは買収された、と言う。多数決で決めれば、数の暴力だ、と言う。しかし、村の代表が神前で真っ赤な鉄を握り、手を焼いて倒れたなら、そこには誰も文句のつけようがない。神が答えを出したからではない。人が身体を賭けたからだ。

だから勝者は英雄になり、その家は何代にもわたって村に養われる。だから敗者は三つに斬られて境に埋められ、その塚が境界標になる。共同体は、代表者の身体を通貨にして納得を購入していたのである。値段は法外に高いが、代わりに永続する。四百年後の紙芝居で、鉄村が勝つ筋書き、が出てくるくらいには、その納得は強度を持っていた。

世界の神判――ヨーロッパの熱鉄・熱湯・水審

日本だけの話ではない。神判は世界中にあった。

ヨーロッパの中世は神判の宝庫である。ラテン語で神の裁きを意味する言葉が使われ、無実の者のために神が奇跡を起こしてくれる、という前提で運用された。ハンムラビ法典やウル・ナンム法典にまで遡る古い系譜を持ち、ゲルマン諸民族の法慣習の中で大きく発展した。

主な形式はいくつかある。熱鉄。被告が真っ赤に焼けた鉄の棒を持って一定の距離を歩く。アングロサクソンでは九フィートと決まっていた。あるいは赤熱した鋤の刃、ふつう九枚の上を裸足で歩かせる。日本の鉄火起請とほとんど同じ発想だ。

熱湯。六世紀のサリカ法典にすでに記載がある。煮え立った釜あるいは壺に手を突っ込み、沈めてある石を取り出させる。油や鉛が使われることもあった。取り出したあと、腕を包帯で巻いて封印する。三日後に封を解き、腕の状態を見て有罪無罪を判定する。

お気づきだろうか。日本の湯起請と、細部までそっくりである。沸騰した湯。沈めた石。素手で取り出す。手を包んで封じる。数日後に開いて検分する。この一致は偶然だろうか。直接の伝播を示す証拠はない。だが人間が神に訊くと決めたとき、思いつく方法の型はそう多くないのかもしれない。

もう一つ、水審がある。冷水審だ。被告を縄で縛って水に投げ込む。沈めば無罪、浮けば有罪。理屈としては、聖別された水が罪ある者を受け入れず、押し返すから浮く、というものだ。この形式は近世の魔女裁判で復活し、十六世紀から十七世紀にかけて猛威をふるった。

面白い記録も残っている。六世紀末、トゥールの司教グレゴリウスが書き残した非司法的な事例だ。カトリックの司祭ヤキントゥスが、アリウス派のライバルと熱湯の腕試しをした。ヤキントゥスは煮えたぎる釜から指輪を取り出すのに約二時間かかったという。湯の沸き立ちが激しかったせいだと書かれている。一方、続いて挑んだアリウス派のほうは、肘まで一瞬で皮が茹だってしまった。宗派の勝敗が熱湯で決まる。ヨーロッパの神判も、なかなかのものである。

神判はなぜ終わったのか――ヨーロッパの場合

ヨーロッパの神判に終止符を打った出来事は、日付まではっきりしている。一二一五年、インノケンティウス三世が召集した第四ラテラノ公会議の第十八条だ。

この条項は、聖職者が流血をともなう司法判断に関与することを禁じる文脈の中で、神判を二種類に分けて扱った。片側だけが試練を受ける単方向型、つまり熱水、冷水、熱鉄については、聖職者が儀式に用いる要素を祝福したり聖別したりすることを禁じた。双方が戦う双方向型、すなわち決闘裁判については、過去の公会議の非難を更新した。

注目すべきは、単方向型の神判そのものを世俗の司法から禁止したわけではないことだ。禁じたのは、聖職者が祝福することだけである。しかし、これが決定的に効いた。中世の神判では、聖職者による要素の祝福と聖別が儀式の中核を占めていた。聖職者が手を引けば、儀式は民衆に対する説得力を失う。実際、イングランド、ノルマンディー、デンマークでは即座に効果が現れた。イングランドの訴訟記録には、一二一九年にヘンリー三世が廃止を承認して以降、神判の事例が一件も出てこない。

これは思いつきの決定ではない。十二世紀を通じて、ボローニャやパリの学校で長い知的準備が積み重ねられていた。ローマ法学者は神判をローマ起源でないものとして基本的に無視した。教会法学者たちは、神判は慣習に由来するものにすぎない、凶悪犯罪の抑止のために設けられたものだ、単方向型は隷属身分に限定すべきだ、といった留保や例外を積み上げていった。そして先ほど触れたアウグスティヌスの原則が、繰り返し引かれた。

もちろん、ラテラノ公会議だけが原因ではない。より合理的な訴訟手続きへの全般的な流れがあった。教会法とフランス法における糾問手続の導入、イングランドにおける陪審裁判の発達、ヨーロッパ全域での商人法の登場。神判は、そうした代替手段が育ってきたから捨てられた面が大きい。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は一二三一年のメルフィ憲章で、神判を非理性的として明示的に禁じた初めての君主になった。

アフリカの毒審――そして現代まで続いた神判

視野をさらに広げよう。アフリカには毒審がある。神判の中でも、飛び抜けて死亡率の高い形式だ。

西アフリカのリベリアやシエラレオネで行われてきたサシーウッドは、その代表格である。中核となるのは、オーディールツリーと呼ばれる木の樹皮から作った毒の煎じ薬を飲ませるという方法だ。この樹皮にはエリスロフレインという猛毒のアルカロイドが含まれている。摂取すると運動失調、呼吸困難、心停止を起こし、急死に至ることがある。

一八五〇年のアメリカ植民協会の年次報告書に収録されたコネリー牧師の記述が引用されている。サシーウッドの樹皮は強力な麻薬性を持ち、その濃い煎じ液を強制的に飲まされる。胃から毒を吐き出せば無罪と宣告される。下剤として作用した場合は有罪とされ、さらに煎じ液を飲まされ、その他の残虐な扱いを受けて速やかに死に至る、と。

毒学的にはよくできた仕組みだという指摘がある。樹皮に含まれるタンニンが胃の粘膜を刺激し、毒が吸収される前に嘔吐を誘発する。だから死亡率が、神判として機能する程度には低く保たれる。

ナイジェリアのオールドカラバル、現在のクロスリバー州に住むエフィク人が用いたエセレ、すなわちカラバル豆による毒審はさらに有名だ。ここには奇妙な科学史の分岐がある。イギリス陸軍の軍医で植物学者でもあったウィリアム・フリーマン・ダニエルが、一八四〇年から四五年のあいだに国王の許可を得てこの儀式を目撃し、一八四六年にエディンバラの民族学会で報告した。種を砕いて水に浸し、乳白色の液体を作る。被告に飲ませ、しばらく歩き回らせる。その間に嘔吐すれば無罪で釈放、死ねば有罪。

スコットランドの宣教師たちがこの様子を本国に報告し、豆のサンプルを送った。そこから活性成分フィゾスチグミンが単離される。この物質の研究が、アセチルコリンの発見と化学的神経伝達の解明につながり、一九三六年のノーベル生理学医学賞に至った。西アフリカの村の裁判が、現代薬理学の出発点のひとつになったのである。

そしてサシーウッドは、過去の話ではない。二〇〇六年十一月、リベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領はサシーウッドによる神判の実施許可をすべて取り消した。二〇〇七年五月には国連の報告書が、リベリアでは神判と儀礼殺人が続いており、内戦後の人権状況の改善を妨げていると指摘している。二〇〇九年六月、南東部のリバージー郡で魔女とされた七人が死亡し、うち少なくとも二人は毒を飲んだことによる死だった。この事件を受けて、同年十月、リベリア政府は正式に禁止を発表した。

にもかかわらず、根絶は難しい。地方には機能する裁判所がほとんどなく、多くの人は法律相談を受けられず、そもそもサシーウッドが違法だと知らない人も多い。国連安保理の二〇〇七年の報告は、リベリアの司法制度を老朽化した状態と描写し、インフラ不足、有資格者不足、案件処理能力の欠如、管理不全、改革意思の欠如に阻まれていると述べた。対照的にサシーウッドは三十分足らずで終わる迅速な解決策である。

経済学者の中には、機能不全の国家司法よりサシーウッドのほうが地域社会にとってプラスに働きうる、と論じる者さえいる。迅速だから地元の犯罪に対する抑止力になる、という理屈だ。もちろん、結果がランダムであることと、煎じ薬を作る祭司に権力が集中することを考えれば、この議論には強い反論がある。だが、この論争の構図そのものが、六百年前の室町の村に起きていたことを不気味なほど正確に反射している。裁判が遅くて信用ならないとき、人は自前の神を呼ぶ。

日本の神判はなぜ消えたのか

そこで最後の問いだ。ヨーロッパには第四ラテラノ公会議があった。中国には法家の思想が早くから浸透し、神判は早い時期に姿を消した。では日本は。

日本には、神判を否定する強力なイデオロギーの介入がなかった。教会も公会議もない。にもかかわらず、鉄火起請は江戸初期に急速に消えた。火起請は自検断の一種として、江戸幕府の成立後は禁止され、遅くとも元和年間には廃れる。ただし、それ以前に行われた火起請の結果までは否定されず、村掟などの形で存続したものが多い。過去の判決には手をつけない。この線引きが実に幕府らしい。

火起請が実際の紛争で話題に上った最後の例として確認できるのは、万治三年、一六六〇年、武蔵国足立郡大和田村と中丸村のあいだの馬草場相論である。この時点ではもう、話題に出るだけで実施はされていない。

清水克行が挙げる要因はいくつかある。一つは、鉄火起請という究極の形式まで行き着いてもなお神慮は確認できないことが、実際に鉄火を目撃した人々のあいだに広まってしまったこと。極限まで過激にして神を試したのに、返ってきたのは焼けた手だけだった。そうなれば、この方法にもう用はない。

もう一つは、公権力の側の変化だ。中世は政治権力も宗教権威も多元的に並立していた。誰の判決も最終判決にならないから、神慮という上位審級が必要になる。ところが近世に入ると、権力と権威が一元化されていく。幕府の裁許が最終判断として機能しはじめれば、神を呼ぶ必要は薄れる。実際、慶長十四年、一六〇九年の常陸国で、大窪村と助川村が金山の帰属をめぐって争ったとき、代官頭の伊奈忠次が、明鏡に鉄火をもって相定むべし、と鉄火を命じたのに対して、地元の有力寺院である大雄院と普済寺が仲裁に入り、諏訪川を境とすることで内済、つまり示談が成立している。鉄火をやれと言われても、やらずに済ませる回路が生まれていた。

そして、法制度の名宛人が広がったこと。上層階級だけでなく、一般大衆、百姓層までが法の対象として組み込まれていく過程で、神慮に訴える手法は不要になっていった。

清水自身が最後に投げかけるのは、こういう問いだ。ヨーロッパのように強力なイデオロギーの介入もなく、中国のような法家思想の浸透もなく、日本の神判は結局イデオロギーによらずに自然消滅した。これは日本の特殊性なのだろうか。

この問いには反論もある。マンガ評論家の夏目房之介は、著者本人との対話の中で異を唱えている。金融や流通の発達が自然に合理的思考を生み、社会の世俗化圧力が高まった結果なのだから、むしろ特殊ではなく自然な過程だったのではないか。こちらから見れば、強力なイデオロギーの垂直性と人間社会の世俗的な水平性を無理やり統合しているヨーロッパのほうが特殊に見える、と。近代思想があちらで生まれたせいで、あちらが基準になってしまっているだけではないか、というわけだ。

決着はついていない。だが、この論争の存在自体が、湯起請と鉄火起請という主題の射程の広さを物語っている。煮え湯に手を突っ込ませる話が、いつのまにか近代とは何かという問いに接続してしまう。

なぜこの話はここまで怖いのか

最後に、怖さの正体を分解しておきたい。

湯起請と鉄火起請が怖いのは、痛そうだからではない。もちろん痛い。想像するだけで手が縮む。しかし本当に背筋が寒くなるのは、これが正式な司法手続きだったという一点だ。無法者の私刑ではない。守護大名が命じ、幕府が認可し、江戸から役人が検視に下ってきて、鍛冶師が炉で鉄を焼き、不正がないよう鉄を交換させ、記録が文書に残される。手続きは完璧に整っている。整っているのに、中身が人間の手を焼くことなのである。

もう一つの怖さは、これがみんなの決定だったことだ。誰か一人の悪意ではない。村の寄合が決め、双方が合意し、代表者が志願し、寺が止めようとしても老中の決裁が降りているから止められない。喜助は嫉妬した誰かの嘲笑に乗って、自分から鉄火役を買って出た。角兵衛は恩返しのつもりで名乗り出た。誰も悪人ではない。それでも人が磔になる。組織と共同体が滑らかに人を殺していくときの、あの独特の摩擦のなさが、この記録にはある。

そして三つめ。この制度は、参加者全員が薄々インチキだと分かっているのに、そのことを口にできないという構造の上に立っていた。鉄に細工をする者がいる。細工を疑って鉄を交換する役人がいる。有力者の被官だからと結果を曲げようとする空気がある。信長が、では自分が取る、と割り込んでくる。全員が、これは神の裁きではなく人の力比べだと知っている。それでも、誰もこれは無意味だとは言わない。言った瞬間、村の争いを終わらせる手段が消えてしまうからだ。

これは室町の話だろうか。私にはそうは思えない。私たちも、内心では機能していないと知っている儀式を、それを外すと何も決まらなくなるという理由だけで回し続けていることが、たぶんある。名前が違うだけだ。煮え湯の代わりに、別のものに手を突っ込んでいる。

統計が壊した「迷信」という読み方

ここからは、本文で触れきれなかった論点をまとめて掘り下げる。神判という主題は、掘れば掘るほど昔の変な風習から遠ざかっていく。

まず、湯起請と鉄火起請を中世人の迷信として片づける読み方が、なぜ間違っているのかを整理しておきたい。清水克行の『日本神判史』が学界に与えた衝撃の核心は、統計にある。八十七例の湯起請と四十五例の鉄火起請を一覧化するという地道な作業から、実施率という数字が出てきた。犯人探し型で四十三パーセント、紛争解決型で二十七パーセント。この数字は、湯起請が神慮に全てを委ねる盲信の産物だったという理解を根本から覆す。

なぜなら、六割から七割のケースで、人々は湯起請を回避しているからだ。回避のパターンはいくつもある。片方が出頭しない。紀伊の重禰郷の百姓のように、当日その場に現れない。あるいは事前に和解する。あるいは訴えを取り下げる。あるいは仲裁者が入る。つまり湯起請は、司法制度における最悪のシナリオとして設計され、その最悪さゆえに交渉を成立させる圧力として機能していた。現代の司法における懲罰的損害賠償や、労働争議におけるストライキ権に似た位置にある。抜かれない刀としての神判。

だとすれば、湯起請が命じられたという記録を見つけたとき、私たちが真っ先に問うべきは、本当に実施されたのか、である。史料はしばしば命令までしか書かない。日野の鉄火裁判のように克明な実施記録が残っているケースのほうが、例外的に幸運なのだ。

次に、犯人探し型と紛争解決型の違いについて。この二分法は清水の分析の骨格をなすが、両者の性格はかなり違う。

犯人探し型は、共同体内部で盗みや放火などの犯罪が起き、犯人が特定できないときに使われる。ここで神判が担うのは、実は犯人の摘発よりも疑いの解除である場合が多い。鎌倉の参籠起請が優しいシステムだったという清水の指摘は、この文脈で理解すべきだ。共同体は、疑われた者を排除したいのではなく、疑われた者を共同体に戻したい。だから、多くの場合は失なしで終わる。犯人が見つからないことより、疑心暗鬼が続くことのほうが、村にとってはよほど有害なのである。

これに対し紛争解決型は、共同体と共同体の外部境界をめぐる争いだ。ここでは相手を戻す必要がない。むしろ相手を負かさなければ話が終わらない。だから紛争解決型は必然的に苛烈になる。鉄火起請で紛争解決型が八割を占め、しかも実施率が高いのは、この構造の帰結だ。会津で長谷川清左衛門が三つに斬られて塚に埋められたのは、彼が犯罪者だったからではない。彼が向こう側の代表だったからである。

敗者の刑罰が異常に重い理由

三つめの論点。神判の敗者に科された刑罰の異常さについて。

湯起請で失が認定された者は、刑事事件なら有罪として処断された。民事なら敗訴で、係争地を失う。ここまでは分かる。分からないのは、鉄火起請の敗者に加えられた刑罰の激しさだ。引き回しのうえ斬首。磔。五体を引き裂いて複数の塚に分けて埋める。単なる敗訴の帰結としては明らかに過剰である。

これを神を欺いた罰として説明するのが通例だ。神前で起請文を書き、偽りがないと誓ったうえで鉄を取り損ねたのだから、この者は神を欺いたことになる。神への冒涜には極刑がふさわしい、という論理である。だが、それだけだろうか。

私はもう一つの機能があったと思う。判決の不可逆化だ。境界争いは何度でも蒸し返される。福井県遠敷郡の中ノ畑村と上根来村の争いは、寛永期から明治中期まで二百五十年余り繰り返された。和解が成立しても、数十年後に地租改正や測量をきっかけにまた燃え上がる。傘連判状を作り、内通者は村追放と定め、氏神に誓約してまで結束を固めても、争いは終わらない。

そういう世界で、判決を本当に終わらせる方法は何か。人が死ぬことである。しかも、その死体が境界標として地面に埋まっていることである。胴塚、首塚、足塚。この三つを結んだ線を、誰が動かせるだろう。文書は焼ける。証文は偽造できる。境の杭は夜のうちに抜ける。だが、人の骨が埋まっている塚は動かない。会津の村人が二百年後も勝者の家の農作業を手伝い続けたように、鉄火起請は判決を村の身体記憶に書き込む技術だった。文書主義の限界を、人体で補っていたのである。

四つめ。牛玉宝印という紙の役割を、もう少し丁寧に見ておきたい。

起請文の料紙に護符を使うという発想は、鎌倉後期に定着した。熊野牛王符が代表格だが、那智滝の宝印や、各地の社寺が独自に発行する牛王宝印もあった。天文二十年、一五五一年に北条氏康が古河公方の家臣である簗田晴助に宛てた起請文は、那智滝の宝印を捺した料紙を使っている。神文には梵天帝釈、八幡大菩薩、天満大自在天神、三嶋大明神、伊豆箱根両所権現、そして日本国中の大小神祇が列挙された。

面白いのは、この時代の起請文が、誓約が後々まで効力を維持する例はほとんどなかった、と指摘されていることだ。北条氏康と簗田氏の関係も、その後激化し、天正二年に簗田氏は関宿城を明け渡している。神仏に誓っても破る。破ることを前提に、それでも誓紙を交わす。そういう時代だった。

だからこそ、鉄火起請で掌に牛王宝印を広げ、その上に灼熱の鉄を受けるという作法が生まれたのだと思う。紙の誓いはもう効かない。ならば、その紙の上で自分の肉を焼いてみせるしかない。誓約のインフレーションが、身体の投入を要求する。血判が必須になり、勧請される神仏の数が増えていったのと同じ運動である。

そして起請返し、起請許しの存在。いったん立てた誓いを撤回するためのお祓いが、制度として用意されていた。これはもう、神仏を信じているのか信じていないのか分からない。というより、彼らにとって神仏は信仰の対象であると同時に、社会的な契約を担保する公証制度でもあった。公証制度なら、契約解除の手続きも当然必要になる。合理的である。恐ろしく合理的である。

真実は探すものではなく、集計するものだった

五つめ。落書起請から見える、中世共同体の真実観について。

法隆寺の大落書で、六百通の投票のうち二十余通と十九通を集めた二人の僧が犯人と断定された。全体から見ればごく少数の票である。それでも、事前に定めた基準を満たしたから犯人になった。

ここには近代的な意味での事実の探究がまるでない。犯人とは、共同体の中で最も多くの人から怪しいと思われている人物のことである。真実は探すものではなく、集計するものだ。

そして注目すべきは、この方式が江戸時代の村にまで生き延びていることだ。文化六年、一八〇九年、越後国頸城郡梶村で稲の窃盗が起きたとき、村人たちは集会を開いて証文を交わした。怪しいと思う人物の名前を書いた札を投票し、最も多く書かれた人物を犯人として村から追放する、その結果に不平を言わない、という取り決めである。入札という。実際の票数まで残っていて、甲に十二票、乙に十八票、丙に八票、以下ばらばら。一枚の札に複数人の名前が書かれたものや、女性の名前が書かれたものもある。村内の人間関係が透けて見える。

そして、この投票で犯人とされた者が本当に村を追放されたかというと、多くの場合そうならない。年貢を納める働き手を村として減らしたくないから、家族や親類、五人組、旦那寺などが保証人になって関係各所に詫びを入れ、村に留まれるように取り計らう。

犯人を決める。しかし追放はしない。この一見矛盾した処理こそ、共同体の司法の本質だろう。目的は真犯人の処罰ではない。宙に浮いた疑いを、誰か一人の名の下に着地させ、そのうえで日常を再開することだ。湯起請も落書起請も入札も、機能としては同じものである。事件を終わらせる技術。

六つめ。神判と籤の関係について、もう少し。

足利義教が湯起請と並んで多用したのが籤引きだった。今谷明の『籤引き将軍・足利義教』は、皇位継承をめぐる卜占の歴史にまで遡って、籤という決定方式の精神史を追っている。堀川天皇の譲位に際しての軒廊御卜、後鳥羽天皇の践祚と卜占、四条天皇の夭折後の抽籤。中世の日本では、決めがたいことを神に投げるという回路が、王権の中枢にまで組み込まれていた。

籤と湯起請の違いは何か。籤は誰も傷つかない。湯起請は人を焼く。ではなぜ、傷つかない籤があるのに、わざわざ人を焼く方法が採用されたのか。

おそらく答えは重さだ。籤は軽い。誰も痛くない分、負けたほうにやり直せるのではという余地を残してしまう。人を焼く方法は、取り消しがきかない。取り消しがきかないという性質そのものが、決着の強度を担保する。だから、絶対に蒸し返されては困る境界争いには、籤ではなく鉄火が選ばれた。将軍の後継者は籤で決まり、村の山境は鉄火で決まる。どちらが重い決定かと言えば、村人にとっては後者なのである。

七つめ。アイヌ社会に伝わったサイモンという神判について、触れておきたい。

アイヌ民族のあいだでも、日本本土とほぼ同じ方式の神判が行われていた。熱湯の沸く鍋の中の石を掴み取らせ、無事なら無罪、火傷を負えば有罪。名称はサイモンという。考古学者の瀬川拓郎は、この名称について、中世の日本本土において湯起請を取り仕切っていた陰陽師や修験者が語る祭文に由来するのではないか、という説を唱えている。

これが正しいとすれば、湯起請は室町の中央だけの現象ではなく、日本列島の周縁にまで、担い手ごと運ばれていったことになる。誰が湯起請を取り仕切っていたのかという問題は、実はあまり掘られていない。神前で釜を据え、湯を沸かし、起請文を書かせ、判定する。この一連の作法には専門知が要る。陰陽師や修験者といった、村と村のあいだを渡り歩く宗教者が、その技術を運んでいたとすれば、神判の分布地図はそのまま彼らの巡回路の地図でもあったことになる。

八つめ。中世の神判が、実は世界的な同時性を持っていた可能性について。

中田薫が整理した神判の類型は八種あり、そのうち火、神水、沸油、抽籤の四種によく似た方法が、日本で古代から近世初頭にかけて行われていた。火神判は鉄火に、神水神判は神水起請に、沸油神判は盟神探湯と湯起請に、抽籤神判は籤取りに対応する。

そして四世紀の中国、東晋の時代に書かれた志怪小説『捜神記』には、扶南の王である范尋の話が出てくる。現在のベトナム南部からカンボジア付近にあった国だ。范尋は被疑者の真偽を探るのに、熱湯に入れた金の指輪を掴み取らせた。無実なら無事、有罪なら火傷。それ以外にも、被疑者を虎や鰐に投げ与えて、無事なら無罪とする神判を行っていたという。

熱湯の中の指輪。グレゴリウスが記録したヤキントゥスも、煮えたぎる釜から指輪を取り出している。四世紀の東南アジアと六世紀のイタリアで、同じ道具立てが使われている。伝播なのか、それとも人類が同じ結論に至ったのか。答えは出ない。だが、こういう一致を並べていると、神判というのは人間の司法が原理的に抱えている欠落、つまり証拠がないときにどうするかという欠落に対する、ほとんど生理的な応答なのだと思えてくる。

いま神判を語ることの意味

九つめ。この主題が現代のフィクションを通じて広まった経路について。

日本で鉄火起請という言葉が一般に知られるようになったきっかけのひとつは、二〇一六年の大河ドラマ『真田丸』である。読書メーターの感想には、真田丸で鉄火起請が登場してからどんなことなのかずっと気になっていた、という書き込みがある。二〇一〇年刊行の『日本神判史』は、著者の友人によれば、一見、何を書いてあるかわからんタイトル、のせいで売れ行きが伸び悩んだそうだが、ドラマをきっかけに読者を得たわけだ。

清水克行はその後、二〇二一年に『室町は今日もハードボイルド』を出し、こちらは大きな話題になった。全十六話の最終話、合理主義のはなし、で、補陀落渡海と熱湯裁判を並べて論じている。補陀落渡海は、僧が小舟に乗って南方の観音浄土をめざして船出する行為だ。信仰の極致に見えて、実は信仰の揺らぎの産物ではないか、という読みが、湯起請の議論と重ねられている。

同書で清水が挙げる中世の三つの特質、すなわちすべてを当事者の自力で解決する自力救済原則、神仏に対する呪術的な信仰心の篤さ、政治経済社会の諸分野における多元的多層的な実態は、そのまま湯起請と鉄火起請が育った土壌の説明になっている。中央政府が弱く、暴力には暴力で対抗するのが当たり前で、百姓も商人も刀を差して歩いていた社会。そこで境界争いが起きたら、放っておけば戦争になる。神判は、戦争の代わりだったのだ。

十番目。最後に、いま神判を語ることの意味について書いておきたい。

リベリアのサシーウッドをめぐる議論を思い出してほしい。国家の裁判所が機能しない。地方には裁判所がない。あっても数日かかる距離にある。法律相談も受けられない。そこにサシーウッドがある。三十分で終わる。だから使われる。経済学者の一部は、迅速さゆえに犯罪抑止に有効だとさえ論じる。

これは室町の村と同じ状況だ。幕府の裁許は遅い。守護は当てにならない。証文はない。あっても偽物かもしれない。争っているうちに刈田や放火が始まる。そこで湯起請がある。数日で終わる。だから使われる。

つまり神判は、司法の不在が生む空白を埋めるために出現する。宗教的熱狂の産物ではなく、制度的欠落の産物なのだ。そして司法が機能しはじめると、静かに消える。ヨーロッパでは陪審と糾問手続が育ち、日本では幕府の裁許が最終判断として定着し、神判はそれぞれの理由で退場した。リベリアで消えないのは、埋めるべき空白がまだ埋まっていないからである。

だとすれば、私たちが煮え湯の話に感じる不気味さは、遠い過去への恐怖ではない。制度が壊れたとき、人間はすぐにこれを再発明する、という予感への恐怖だ。三十分で結論が出て、全員が納得して、誰も蒸し返せない方法。それが提示されたとき、私たちがそれは非合理だと言い続けられる保証はどこにもない。

甘樫丘の立石の前で、いまも毎年四月に釜が据えられる。参拝者は笹の葉を熱湯に浸し、色が変わらないのを確かめて、お守りとして持ち帰る。無病息災を祈る、穏やかな春の行事だ。だがその釜の湯気は、千六百年前に人の手を焼いた湯の記憶と、六百年前に村の代表者が石を探った湯の記憶と、四百年前に真っ赤な斧を握った掌の記憶を、まだ細く引き継いでいる。手を入れるかわりに笹の葉を浸すようになるまでに、日本人はずいぶん長い時間をかけた。その時間の長さこそが、この話のいちばん怖いところかもしれない。

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