車を持ち上げた母親の話
幼い子どもが車の下敷きになった。助けを求める声。母親はそれを聞いた。
普段なら動かせるはずのない車体。それを持ち上げた。そのまま子どもを救い出した。「火事場の馬鹿力」を説明する時、決まって登場する場面だ。
海外では「ヒステリカル・ストレングス」と呼ばれる。車や岩を一人で動かした。倒木や瓦礫を動かした。そんな救助談が紹介される。
日本でも似た話が語られてきた。地震や火災の直後に重い柱を持ち上げた。こんな証言もある。何人分もの荷物を抱えて逃げた。どこの国でも、人は同じ形の話を語りたがるらしい。
危機の最中にいつもより強い力が出ることはありうるし、そこは否定しない。
でも、世間で語られる怪力談が、全部きちんと計測された事実なわけじゃない。「人間は普段、筋力の三割しか使っていない」「アドレナリンが出れば二、三割強くなる」。ここまではよく耳にする。「脳の安全装置を外せば誰でも車を持ち上げられる」みたいな説明には、用心しておきたい。
危機で変わるのは筋力だけじゃなく、心拍、呼吸、注意、痛み、時間感覚、判断が一度に変わる。火事場の馬鹿力は、身体に隠された単純なスイッチとは違う。
危険を察知した身体で起きること
突然の爆発音。目の前に物が落ちてきて、大切な人が危険にさらされる。
その瞬間、脳は状況を評価し、自律神経系と内分泌系を使って身体を動員する。交感神経が優位になり、副腎髄質からアドレナリンやノルアドレナリンが放出され、本人が判断するより先に身体の側が動き始める。
心拍数が上がり、血圧が変化し、呼吸は速くなり、肝臓から利用可能なエネルギーが動員され、骨格筋へ血液を送りやすい状態になる。注意は目前の脅威へ強く向けられ、少し遅れて、視床下部、下垂体、副腎皮質を結ぶHPA軸も働き、コルチゾールが分泌される。
こうした反応は、危険から逃げるか立ち向かうために役立ち、そこが「闘争・逃走反応」と呼ばれる理由だ。ただ、実際には、身体が固まる、状況をうかがう、助けを求めるなど、反応は二つだけじゃない。
覚醒水準が上がれば、大きな筋群を一気に使う動作では有利になる場合があるし、ためらいが減って、普段なら痛みを恐れて中止するところでも動作を続けるかもしれない。
指先の細かな操作、複数の情報を比べる判断、正確な記憶のほうは、かえって悪くなることもある。危機に強くなる能力と、危機で失われる能力は、同じ身体の中に同時に存在する。
筋肉は普段、何割眠っているのか
「人は筋力の三〇%しか使っていない」という言葉は、火事場の馬鹿力を説明する決まり文句として定着している。でも、誰にでも当てはまる一定の割合はない。
人が意識して発揮する最大の力は最大随意筋力と呼ばれ、筋肉の大きさだけでは決まらない。
運動神経がどれだけ多くの運動単位を動員するか、発火のタイミングをどうそろえるか、反対の動きをする筋肉をどれだけ抑えるか、姿勢を保てるか。そういう条件が幾重にも関わる。
トレーニング経験、動作への慣れ、睡眠、疲労、痛み、恐怖、観客の有無。どれでも結果は変わる。初心者が初めて重いバーベルを持つ場合と、競技者が何年も練習した姿勢で持つ場合では、筋肉を使い切る程度が違う。握力計、膝伸展、全身を使う持ち上げ動作でも、比較できる数字は同じにならない。
筋力測定には、筋や神経へ電気刺激を加え、本人が随意的に発揮した力の上に追加の力が出るかを見る方法がある。こうした研究から、随意収縮が常に完全ではないと分かる。
それでも、身体のどこかに毎回七割分の力が封印されているわけじゃない。「安全装置を解除すれば三倍になる」という説明は、複雑な神経制御を一つの鍵に置き換えた。鍵を回せば開く、そんな作りじゃない。
危機で力が増す理由
切迫した状況で発揮力が変わる理由は一つじゃなく、いくつかが同時に重なる。
理由の一つは覚醒と注意が動作へ集中することで、周囲の目や失敗への不安は脇へ退き、救助という明確な目的だけが残り、ためらわず全身を使える。
交感神経系の働きによって循環とエネルギー動員も変わり、短時間の全力動作を支える条件が整う。
痛みの感じ方が変化することもある。急性ストレスの後、一時的に痛みへの感度が下がる「ストレス誘発鎮痛」は、動物と人の双方で研究されてきた。内因性オピオイド系や下行性疼痛抑制系など、複数の仕組みが関わる。
普段なら関節や筋へ強い負荷を感じ、反射的に中止する動作を、危機の最中は続ける場合がある。ブレーキが緩む、という言い方が近い。
掛け声の影響も考えられる。最大努力の際に大声を出すと、無言の場合より握力や発揮力が増えた。そんな実験があり、声を出すことで覚醒が上がり、呼吸と体幹固定のタイミングが変わったのかもしれない。
ただ、実験室で確認された小さな増加を、災害現場の巨大な怪力へそのまま広げることはできない。叫べば誰でも安全に限界を超えられる、という意味でもない。
「車を持ち上げた」の重量をどう考えるか
普通乗用車の車両重量は一トンを超えることが珍しくなく、人が車を持ち上げたと聞けば、一トンを腕だけで頭上へ持ち上げた姿を想像しやすい。
ところが、実際の救助場面は、それほど単純じゃない。
車には四つのタイヤとサスペンションがあり、すでに車体重量の多くを地面が支えている。片側のフェンダーやバンパー付近をわずかに持ち上げるなら、車両全体の重量を垂直に持つわけじゃない。
路面の傾き、車体の重心、持ち上げた位置。タイヤの接地、他の人が押していたか、車が揺れたか、そうした条件によって必要な力は変わる。
下敷きになった人を引き出すために必要な隙間も数センチかもしれない。完全に持ち上げ続けず、車体を一瞬揺らした間に別の人が救出した可能性もある。
これは救助を軽く見る話じゃない。何が実際に起きたのかを知るには、「車を持ち上げた」という見出しだけでなく、力学的な条件まで見ないといけない。
報道記事でも、現場の興奮の中で重量が概算され、後の記事がその数字を繰り返す場合がある。車種、持ち上げた場所、映像、複数の証言。それがなければ、発揮した力を正確に逆算することはできない。
災害時の怪力談を記録として読む
大地震の体験談には、こんな話が残る。家具が倒れた。それを一人で動かした。
ほかにも証言がある。柱を持ち上げた。歩けない家族を背負って逃げた。
極端な状況で人が思いがけない行動をした記録は、災害史の大切な一部だ。
でも、証言から「アドレナリンで筋力が何%増えた」と計算することはできない。
災害直後は時間、重さ、人数を正確に記録する余裕がなく、救助した本人も、後から自分の行動を断片的に思い出すこともある。周囲の人の記憶と混ざる場合もある。
倒壊した物は、完全な建物の部材と同じ重量が一か所にかかっているとは決まっていない。別の瓦礫が支点となり、てこのように動くこともある。
複数人が同時に押した。それが一人の英雄的な話へ整理されることもある。
証言が不正確な可能性と、本人が必死に救助した事実は両立するので、ここを取り違えないでほしい。
怪力を証明する材料として消費するのは惜しく、状況、協力者、負傷、救助後の経過まで記録したほうが、災害から学べることは多い。
昔の怪力譚
火事場で人が普段以上の働きをする話は、近代の生理学より前から語られてきた。そちらの方がずっと先輩だ。
火災で家財や米俵を一度に運び出した。戦場での負傷。それでも大きな武器を振るった。
型はどれも似ている。人物が追い詰められた。岩や門を動かした。
こうした逸話は、説話、軍記、地誌、後世の伝記へ入りやすい。
でも、「古典に書かれている」と紹介する時は、作品名だけでは足りない。『太平記』ならどの巻のどの場面か、原文は何と書かれているかを確かめないといけない。
江戸の大火について『江戸名所図会』が証言しているとする記事もある。でも、同書は天保年間に刊行された。一六五七年の明暦の大火と同時代の記録じゃない。そこに怪力を発揮した女性の話があるというなら、巻、丁数、原文、挿絵を示さなければ検証できない。
古い物語は、当時の人が危機と力をどう理解したかを知る手掛かりにはなる。でも、語り継がれた怪力譚を、そのまま筋力計のデータに置き換えることはできない。
痛みが消えても、けがは消えない
事故の直後には動けた。なのに、落ち着いてから強い痛みが出ることもある。急性ストレス下で痛みが抑えられた場合、けがが治ったわけじゃない。筋肉、腱、靱帯、骨に損傷があっても、その場では気づきにくい。
救助のために最大の力を出した人が、後で肉離れ、腱断裂、腰や関節の損傷に気づく場合もある。重い物を不安定な姿勢で持ち上げれば、背骨や血管への負担も大きい。
反対のことも起きてストレスで痛みが強まる場合もあり、痛みの反応は一方向じゃない。脅威の種類、予測可能性、過去の経験、慢性ストレス。それによって変わる。
「危機なら痛みが消える」と思い込むのは危ない。救助後は、興奮が残っている本人が「平気だ」と言っても、出血、変形、呼吸状態、意識、強い痛みの有無を確かめたい。
再現トレーニングが危険な理由
火事場の馬鹿力を日常で使う方法として、いくつかの練習が紹介されることもある。息を止める、大声を出す、怒りを思い出す、失敗できない状況を作る、補助者なしで限界重量を持つ。
正直に言って、こうした方法で人工的に恐怖や極度の興奮を作るべきじゃない。
息を止めたまま強くいきむと胸腔内圧と血圧が大きく変動し、立ちくらみや失神が起きれば、重量物を持ったまま転倒する。過換気でめまいが起きることもある。
強い怒りや恐怖は、正確なフォームを崩し、周囲への注意を狭くする。通常なら中止する痛みを無視すれば、筋肉や腱の損傷につながる。
筋力を高めたいなら、段階的な負荷、きちんとしたフォーム、休養、補助者や安全設備を使う。競技での掛け声や呼吸法も、経験者の指導の下で目的に合わせて行う。地味だが、結局はこれが近道だ。
危機反応を再現することと、安全に強くなることは別だ。
現場で先に動かすのは腕力じゃない
人が車や瓦礫の下敷きになっている場面に出会った時、単独で持ち上げるのが最善とは決まっていない。車両が動き出す、燃料が漏れる、電線や建物が崩れる。どれも二次災害の危険。無理に引き出すことで、負傷者の脊椎や出血を悪化させる場合もある。
やることの順番は決まっていて、周囲の安全を確認し、消防や救急へ通報する。車ならエンジンを止め、可能なら動かないようにし、周囲へ協力を求め、ジャッキや支柱など目的に合った器具を使う。持ち上げた物が再び落ちないよう、支えを入れることも大事になる。
目の前に生命の危険があり、専門救助を待てない状況では、その場の判断が必要になる。それでも、「自分にも火事場の馬鹿力が出るはずだ」と一人で無謀な動きをすることは、救助者まで負傷者に変える。救助は、力比べじゃない。
火事場の馬鹿力は実在するのか
危機で交感神経系が働き、心拍、呼吸、エネルギー動員、注意が変わるのは事実だ。痛みが一時的に弱まり、普段よりためらわず大きな力を出すこともありうる。声を出す、競争する、強く動機づけられるみたいな条件で、最大随意筋力が変化する研究もある。
でも、人間の筋力に一律の未使用領域があり、アドレナリンがその封印を一定割合だけ解除する、という単純な仕組みじゃない。
車を動かした救助談も、車両全体の重さを一人で持ったとは決まっておらず、重量と力を正確に測った事例は少ない。多くは切迫した現場の証言。
火事場の馬鹿力は、完全な作り話でも、自由に呼び出せる超能力でもない。危機によって身体と行動が一時的に変わり、状況の力学と強い動機が重なった時、本人も周囲も驚く働きが生まれる。その現象を、昔から親しみのある言葉で呼んできたわけだ。
肝心なのは、怪力の物語を安全な訓練法と取り違えないことだ。危機の身体は、人を助けるほど働くこともあれば、自分のけがや周囲の危険を見えにくくもする。
記憶の中で大きくなる力
怪力談を読む時には、出来事が語り直される過程にも目を向けたい。
救助直後の本人は何キロの荷重がかかっていたかを測っていないし、目撃者も、危険が迫る中で角度や時間を記録してはいない。後日の取材で「車を少し浮かせた」が「一トンの車を持ち上げた」と短くなり、見出しやテレビ番組を経て「人間離れした力」へ変わることもある。
本人が後になって「どうやったか覚えていない」と話すと、そこへ「脳のリミッターが外れた」という説明が加わりやすい。強いストレスの最中は注意が狭まって出来事の記憶が断片的になるから、記憶の空白そのものは不思議じゃない。
大げさになった部分があっても救助の価値は変わらず、動かした距離が数センチでも、その隙間が命を救うことはある。
必要なのは英雄譚を否定することじゃなく、証言、物理的条件、生理学的な説明を、同じものとして扱わないことだ。
