展示ケースの向こうにいるのは誰なのか
皮膚を取り除き、筋肉や神経、血管まで見えるように処理された人体標本。走る姿勢を取るもの、ボールを投げるもの、胎児を宿した妊婦の姿を示すものまである。
こうした展示を前にすると、精巧さに驚く一方で、どうしても一つの疑問が残る。
この人は、生前、自分の身体が大勢の観客に見られることを本当に承知していたのだろうか。
人体標本展をめぐる噂の中で、とくに広く知られたのが「失踪した中国人女性が妊婦標本にされた」という話である。標本の顔立ちと失踪女性の写真が似ている、妊娠時期が一致する、権力者との関係を知ったため消された――。話は細部を足しながら、長いあいだウェブサイトや動画で繰り返されてきた。
しかし、この個人同定を裏づける公的な捜査記録、標本の取得書類、DNA鑑定結果は公開されていない。
だからといって、人体展示をめぐる問題がすべて作り話になるわけでもない。中国由来の標本について、本人の同意や取得経路を展示会社が独立して確認できなかった事例は実在する。
この話の怖さは、確認できない殺人説だけにあるのではない。
名前も意思も分からない遺体が、国境を越え、商品として展示されうる。その不透明さこそ、記録に残る問題である。
似た名前の展覧会を一つにしない
最初に整理しておきたいのは、世界各地で開かれた人体展示が、すべて同じ主催者、同じ献体制度、同じ標本を使った企画ではないという点だ。
よく知られる「BODY WORLDS」は、ドイツの解剖学者グンター・フォン・ハーゲンスが広めたプラスティネーション標本の展覧会である。運営側は献体登録制度を掲げ、公開展示を含む利用への同意を得ていると説明している。
一方、「BODIES…The Exhibition」や「Bodies Revealed」は、米国のPremier Exhibitions系企業が展開した別の企画である。こちらでは中国から取得した遺体の出所と同意をめぐり、米国で調査と訴訟上の対応が行われた。
日本には、一九九五年に日本解剖学会創立百周年記念事業として開かれた「人体の世界」があった。その後、各地を巡回した商業企画「人体の不思議展」もある。名称や展示方法に共通点はあっても、開催主体、標本の供給元、契約、同意の確認方法は個別に調べなければならない。
ところが、噂を紹介する記事では、ハーゲンスの技術、別会社が中国から調達した標本、日本の各展示会が一続きに語られやすい。
「プラスティネーション」という保存技術の名前が、いつの間にか特定企業の全事業を指すかのように使われることもある。この混同が起きると、ある展示で指摘された問題が別の展示へそのまま移され、逆に、ある運営者の献体制度を根拠として別会社の標本まで適正だったかのように扱われてしまう。
展示名と主催者を分けることは、細かな言葉遊びではない。
どの遺体が、いつ、誰から、どの契約で渡ったのかを追うための出発点である。
腐敗を止め、身体を長く残す技術
プラスティネーションは、身体の水分と脂肪を合成樹脂へ置き換え、組織の形を長期間保つ技術である。ハーゲンスが一九七〇年代後半から開発した。
固定した遺体を解剖し、低温のアセトンなどを使って水分や脂肪を除く。その後、真空環境でシリコーン樹脂などを組織へ浸透させ、姿勢を整えて硬化する。処理後の標本は腐敗しにくく、強い臭いも抑えられ、筋肉や血管を立体的に観察できる。
医学教育では、平面図や模型だけでは把握しにくい構造を実物で学べる。臓器の位置関係や神経の走行、関節のつながりを長期間保存できる利点は大きい。
問題は技術そのものより、誰の身体を、何の目的で、どこまで使ってよいのかにある。
献体者が医学教育のために身体を託したとしても、それだけで入場料を取る一般向け興行、芸術的なポーズ、広告写真、物販への利用まで同意したことにはならない。死後も展示期間が無期限に続くなら、それを生前に理解していたかも問われる。
保存技術が進めば、遺体は長く残せる。だが、技術的にできることと、倫理的に許されることは同じではない。
二〇〇八年、米国で問題になった出所
人体展示の由来問題は、単なるネット怪談ではない。
二〇〇八年、ニューヨーク州司法長官は、Premier Exhibitionsの人体展示について調査し、同社との合意を発表した。
合意で重視されたのは、中国から入手した遺体について、本人が展示に同意したことや、処刑された囚人の遺体ではないことを同社が十分に証明できなかった点だった。展示会場では、中国警察から提供された遺体を受け取ったため、収監者や処刑者の遺体ではないと独立して確認できない旨を明示することが求められた。
さらに、今後ニューヨークで新たな標本を展示する場合、死亡者の身元、死因、本人が展示へ同意したことを示す書類など、由来を追跡できる記録が必要とされた。希望する来場者への返金措置も合意に含まれた。
この出来事から確認できるのは、「取得経路と同意の証明が不十分な中国由来標本が展示された」というところまでである。
そこから直ちに「展示された人物は政治犯だった」「特定の失踪者だった」「展示のために殺された」とまでは言えない。
記録の欠落は深刻な問題だが、空白へ好きな物語を入れてよいわけではない。
同時に、特定人物説が証明されていないからといって、運営側の由来管理まで問題なしになるわけでもない。「噂は未確認」と「透明性の欠如は実在する」は両立する。
「妊婦標本は失踪した張偉傑」という噂
日本語圏で広まった説では、妊婦標本の正体は、中国・大連のテレビ局で働いていたとされる張偉傑という女性だと語られる。
話の筋書きは、おおむね次のようなものだ。
張偉傑は当時の有力政治家と親しい関係にあり、妊娠した。公の場で関係をほのめかした後に消息を絶ち、のちに中国から海外へ渡った妊婦標本が本人ではないかと疑われた。顔の輪郭や身長が似ており、妊娠月数も一致するという。
だが、比較画像で人を特定することはできない。
プラスティネーション標本は皮膚や脂肪が取り除かれ、筋肉が露出し、固定時に表情や姿勢も変わる。顔つきの印象を左右する軟部組織の多くが失われた状態で、写真と見比べて「似ている」と判断しても、鑑定にはならない。
そもそも、ネット上の説明は張偉傑の経歴、失踪年月、妊娠の根拠、標本の展示開始時期について出典が一定しない。記事同士が互いを参照し、最初の資料が見えなくなっている場合も多い。
特定人物だと確かめるには、標本番号と調達記録、死亡証明、搬送記録、処理施設の作業記録が連続していなければならない。本人の親族と比較する適法なDNA鑑定、捜査機関や裁判所が扱える証拠も必要になる。
現在広まっている写真、身長の推定、政治的な背景話だけでは、その条件を満たさない。
したがって「妊婦標本が張偉傑だった」は、現時点では個人を特定できる証拠のない噂として扱うほかない。
なぜ、この噂は本物らしく見えるのか
話が長く残った理由は、荒唐無稽な要素だけで作られていないからだ。
本物の人体が展示されている。中国由来標本の取得経路に不透明な事例があった。失踪したと語られる人物がいる。展示された妊婦標本の映像も存在する。これらの断片は、それぞれ強い印象を与える。
そこへ「顔が似ている」という画像比較が置かれると、離れた出来事が一本の線で結ばれたように見える。
人は、説明のない空白を見ると物語で埋めたくなる。とくに権力者、失踪、妊娠、海外へ運ばれた遺体という要素は、秘密を暴いた話として非常に強い。
また、同じ写真に赤い丸や矢印を付け、「耳の形が一致」「身長が同じ」と説明する動画は、証拠を検討しているような外見を持つ。だが、比較対象の写真がいつ撮影されたのか、標本の寸法を誰が測ったのか、別人である可能性をどう排除したのかが示されなければ、検証にはならない。
出典のない記事が十本並んでも、独立した証拠が十件になるわけではない。
多くは同じ噂を言い換えているだけである。
標本の目が動いた、涙を流したという怪談
人体展示には、個人同定とは別の怪談も付きまとう。
閉館後に標本の向きが変わっていた。視線が観客を追った。妊婦標本の目から涙が流れた。展示された身体に似た失踪者を知っている人が会場で取り乱した――。
こうした話は、会場名、開催日、目撃者、当時の記録を欠くものが多い。
人の姿をしたものから視線を感じるのは珍しくない。眼球を残していなくても、眼窩の向き、照明、観客の移動によって「見られている」という感覚は生じる。美術館の肖像画や人形、マネキンでも起きる。
透明な樹脂、保存処理の残留物、結露、照明の反射が、液体や涙のように見える場合もある。だからといって個別の体験を一律に錯覚と断定することもできないが、記録がなければ再検証は不可能である。
本物の死者が目の前にあるという緊張は、通常の模型を見る時とは違う。身体の一部が残り、しかも生きているような姿勢を取っている。その違和感が、静止した標本へ意思や感情を読み込ませる。
怪談は、その不安を「標本本人が何かを訴えている」という形へ変えたものだろう。
日本では何が求められているのか
日本の死体解剖保存法は、死体の解剖と保存、死因調査を適正に行い、公衆衛生、医学教育、研究へ役立てることを目的としている。
同法第二十条には、死体の解剖や保存を行う者は、取り扱いにあたって「特に礼意を失わないように注意」しなければならないという趣旨が明記されている。
ただし、海外で処理された標本を輸入し、一般向けに巡回展示する行為を、この法律の一条だけで簡単に評価できるわけではない。遺体がどの国で取得され、どの国で処理され、どの契約で日本へ入ったのかによって検討すべき制度は変わる。
日本解剖学会は二〇一〇年、「人体標本の展示に関するガイドライン」を公表した。
そこでは、公の場での展示は、人体の構造や機能を扱う、営利を主目的としない学術的・教育的企画で、展示する必然性が認められる場合に限るとしている。さらに、人体標本として使用することについて、献体者本人から文書による事前同意を得るなど、人の尊厳を損なわない最大限の配慮を求める。
重要なのは、単に「医学のために献体します」という同意では足りない場合があることだ。
不特定多数へ裸体を公開すること、写真や動画で拡散されること、外国を巡回すること、長期間保存されること、入場料を取る企画で使われることまで、本人が具体的に理解して選べたかが問われる。
同意書があれば、すべて解決するのか
本人の明確な同意は最低条件である。けれども、署名が一枚あれば、どのような展示も無条件に許されるとは限らない。
まず、同意を撤回できる期間と方法が必要になる。生前に気持ちが変わった場合、登録を取り消せるのか。死後に遺族が重大な事情を知った場合、展示の中止を申し出られるのか。標本が複数の国や企業へ譲渡された後も、その意思が引き継がれるのか。
展示目的も問題になる。
病変を示す臓器、筋肉や神経の位置関係を学ぶ標本と、チェスやスポーツをする姿勢に固定された全身標本では、教育上の必要性が同じとは言い切れない。解剖学への理解を深める演出なのか、死者の身体を使った見世物なのか。その境界は展示ごとに検討しなければならない。
妊婦、胎児、子どもの標本には、さらに慎重な扱いが要る。本人による意思表示が不可能だった胎児を誰が、どの範囲まで、何の目的で展示に同意できるのか。母体と胎児を一体として見せる展示は、来場者へ強い衝撃を与える一方、医学教育として不可欠なのかという問いが残る。
学術論文でも、プラスティネーション展示をめぐる中心的な論点として、自由意思に基づく十分な説明後の同意、営利性、死者の尊厳、遺族や社会への配慮が挙げられている。
同意は出発点であって、倫理的な検討の終点ではない。
由来をたどれる仕組みがなぜ必要か
人体標本の信頼性を支えるのは、展示された説明板の美しい文章ではなく、遺体が標本になるまでの記録である。
生前の登録と同意書、死亡の確認、引き渡した機関、搬送日時、処理施設、標本番号、展示先、返還または最終的な埋葬までが結びついていれば、第三者が経路を点検できる。
記録の途中が切れていれば、本人の同意を取り違えた遺体、身元不明者、収容施設で死亡した人、引き取り手のない遺体が混入しても発見しにくい。
とくに、国家機関や警察、仲介業者を経由して国外へ出る場合、供給側の証明をそのまま信じるだけでは不十分である。受け入れる展示会社にも、独立して書類を確認し、疑義があれば使用しない責任がある。
ここでの「追跡可能性」は、個人名を来場者へ公開することとは違う。
献体者のプライバシーを守りながら、監督機関や倫理委員会が由来を検証できる仕組みを持つという意味である。匿名性と透明性は両立できる。
見る側にも残る問い
人体標本展は、教科書では伝わりにくい身体の構造を見せる。喫煙で変色した肺、関節を動かす筋肉、全身へ枝分かれする血管を目の前で見る経験が、健康や医学への関心につながることはある。
一方で、入場券を買った観客が、本物の遺体を「珍しいもの」として消費していないかという問いも消えない。
撮影可能な展示なら、標本の写真は来場者の端末からSNSへ広がり、文脈を失った画像として残り続ける。献体者が展示室で見られることへ同意していても、切り抜かれ、冗談の素材にされる将来まで想像していたとは限らない。
教育と娯楽を完全に分けるのは難しい。人を引きつける工夫がなければ展示は見てもらえず、過度に刺激を強めれば死者を商品化する。
だからこそ、運営者には目的、由来、同意の範囲、撮影規則、収益の扱いを説明する責任がある。観客の側にも、目の前にあるのは模型ではなく、かつて生活し、人間関係を持っていた誰かの身体だと忘れない姿勢が求められる。
噂を否定して終わってはいけない
「失踪した女性が妊婦標本にされた」という説には、個人を特定できる証拠がない。顔が似ているという印象だけで、実在人物の殺害や政治家の関与を事実として書くことはできない。
しかし、噂を「デマ」の一語で片づければ、現実にあった出所確認の不備まで見えなくなる。
二〇〇八年のニューヨーク州で問題にされたのは、まさに、展示会社が遺体の由来を独立して証明できないという事態だった。日本解剖学会が公の人体展示に本人の文書同意と非営利的な教育目的を求めたことも、社会がこの問題を重く見てきた証拠である。
確かなことと、まだ分からないことを分ける。
特定の標本が張偉傑だったとは確認されていない。処刑囚や政治犯だったという個別の主張も、標本ごとの証拠がなければ断定できない。一方、同意と取得経路の不透明さは、実際に行政上の対応が必要となった問題である。
人体標本展の核心にあるのは、標本が動いたかどうかではない。
その身体の持ち主が、自分の死後に何が起きるかを知り、自分の意思で選べたのか。展示する側が、その意思を最後まで証明できるのか。
展示ケースの前で感じる不安は、その二つの問いに明瞭な答えがない時、もっとも強くなる。
