一人の女王から始まった、見えない呪い
1837年、18歳でイギリス女王として即位したヴィクトリアは、9人の子をもうけた。その子どもたちをヨーロッパ各国の王侯貴族へ次々と嫁がせ、後世「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるまでになった。しかし彼女は同時に、決して意図しなかったもう一つの「遺産」も、ヨーロッパ中の王家に残すことになる。
それが血友病である。血友病は、血液を凝固させるために必要な凝固因子が生まれつき欠乏している遺伝性疾患だ。欠けているのは、第Ⅷ因子か第Ⅸ因子のどちらかだ。
一度出血が起きると、健常者ならすぐに止まる小さな傷でも、血友病患者の場合はなかなか血が止まらない。とりわけ危険なのは、関節内や筋肉内で起きる内出血だ。これが繰り返されると関節が変形し、激しい痛みを伴う障害へとつながっていく。
この病気の原因遺伝子はX染色体の上にある。だから発症するのはほぼ男性のみで、遺伝させるのは女性、つまり保因者のほうだ。極めて厄介な遺伝パターンを持つ病気なんだよな。ところが、ハノーヴァー朝の家系には、それまで血友病の記録が一切存在しなかった。
研究者たちは、ヴィクトリア自身の体内で新たに突然変異が発生した可能性が高いと見ている。両親が比較的高齢での出産だったことも、その一因として指摘されている。
理由がどうであれ、始まりはたった一人の女王の体内に生じた、小さな遺伝子の変化。それがその後100年近く、ヨーロッパ中の王室を苦しめることになった。最終的には一つの帝国の崩壊にまで関わることになるとは、誰も予想していなかった。
「無限に続く拷問」――王子レオポルドの短い生涯
では、その呪いは誰に降りかかったのか。ヴィクトリアの息子たちのうち、血友病を発症したのは四男レオポルド王子ただ一人だった。聡明で読書を愛する青年に育ったが、その人生は激しい痛みとの闘いの連続だった。
この痛みを、ちょっと想像してみてほしい。関節内出血が起きるたびに彼は苦しみ、周囲の人々はなすすべもなく見守るしかなかった。1884年、彼はフランスのカンヌで転倒して脳出血を起こし、31歳という若さでこの世を去っている。
ここで皮肉な事実を一つ。レオポルドはヴィクトリアの血友病の息子の中で唯一、結婚して子をもうけた人物でもあった。血友病の遺伝法則により、彼の息子は発症を免れたが、娘は必ず保因者になる運命にあった。
だが、話はここで終わらない。ヨーロッパの王室を本当の意味で揺るがしたのは、レオポルドの血ではなかった。ヴィクトリアの娘たちを通じて広がった、「見えない保因者の連鎖」のほうだった。保因者となったのは、ヴィクトリアの複数の娘や孫娘たちだ。その血は嫁ぎ先の王家、つまりドイツ、スペイン、そしてロシアへと静かに、しかし確実に浸透していったのである。
ドイツとスペインへ――繰り返される王子たちの悲劇
まずはドイツから。ヴィクトリアの娘アリスの娘イレーネは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の弟であるプロイセン公アルベルトに嫁いだ。この結婚から生まれた息子のうち2人が血友病を発症し、いずれも若くして命を落としている。
次はスペインだ。ヴィクトリアの末娘ベアトリスの娘ヴィクトリア・ユージェニーは、スペイン国王アルフォンソ13世の妃となった。この結婚でも息子2人が血友病を受け継ぎ、いずれも不慮の事故による出血が原因で早世した。
ヨーロッパの由緒ある王家は、婚姻政策によって互いの血縁関係を密にしていく。そうやって血が近づけば近づくほど、この「見えない病」は静かに、しかし着実に広がっていったのである。
当時の王侯貴族社会には、遺伝の仕組みに関する正確な知識がほとんどなかった。次々と男児が原因不明の出血で命を落としていく。その様は、まさに「呪い」としか表現しようのない不気味さをもって受け止められた。
ロマノフ家に生まれた「病気の皇太子」
ここからが本題だ。この血の連鎖が最も劇的な結末を迎えたのが、ロシア帝国だった。ヴィクトリアの孫娘アリックス、のちのアレクサンドラ皇后は、ロシア皇帝ニコライ2世に嫁いだ。二人の間には4人の娘が生まれたのち、1904年7月30日、ついに待望の男児アレクセイが誕生する。
ロマノフ王朝の後継者誕生に帝国中が沸いたのも束の間、生後わずか数ヶ月で異変が起きた。へその緒の傷口からの出血が、なかなか止まらない。アレクセイは血友病だったのである。
皇后付きの女官アンナ・ヴィルボワは、この時期の宮廷の空気を後年こう振り返っている。「男の子にとっても、私たち一人一人にとっても、無限に続く拷問だった」。
関節に血液が浸潤するたびにアレクセイは激しい痛みで泣き叫び、その声は宮殿の廊下にまで響いたという。医学史家たちの記録には、こうある。「血液は骨と腱を破壊し、そのせいで彼は手足を曲げ伸ばしすることさえできなくなった」。
当時の医学には、内出血した関節にたまった血液を安全に取り除く手段も、症状を根本的に和らげる治療法も存在しなかった。まあ、当時の医学ではどうにもならなかったわけだ。皇帝夫妻はロシア中から名医を呼び集めたが、誰一人として決定打を打ち出せずにいた。
スパラの奇跡――ラスプーチンが宮廷に君臨した夜
アレクセイの容態が最も深刻な危機を迎えたのは、1912年秋のことである。ポーランド領内のスパラ狩猟宮殿へ向かう旅の途中、皇太子は馬車の激しい揺れをきっかけに内出血を起こした。鼠径部がみるみる腫れ上がっていった。10月6日には体温が39度を超え、激痛のため身動きすらできなくなる。
ペテルブルクから侍医セルゲイ・フェドロフと老医ラウフスが急遽呼ばれた。だが二人とも、内出血がさらに悪化する危険を恐れて手術に踏み切ることができなかった。二人が皇帝夫妻に告げた言葉は、「回復の見込みは百分の一に満たない」。宮廷ではすでに最後の秘跡、終油の儀まで準備され、新聞各紙には皇太子逝去の号外の準備すら整えられていたと伝わっている。
絶望的な状況のなか、皇后アレクサンドラはシベリア出身の放浪の祈祷師グリゴリー・ラスプーチンに電報を打った。返ってきた電文は、簡潔だがあまりにも力強い言葉だった。「病は危険なものではありません。医者たちに彼を疲れさせないように」。続けて彼は、自分の祈りが神に届いたと伝えてきた。
そして、偶然か、あるいは自然経過による回復だったのか、その直後からアレクセイの容態は劇的に好転し始めたのである。医学的には、内出血がたまたま体内で自然に吸収され始める時期と重なった可能性が高いと現代の医師たちは分析している。だが当時の皇后にとって、それは紛れもない「奇跡」だった。
この出来事を境に、アレクサンドラのラスプーチンへの信頼は絶対的なものとなる。そして彼は、宮廷の奥深くにまで入り込む異例の存在へと変貌していく。
怪僧の権勢と、宮廷内の反発
ラスプーチンがアレクセイの発作をどうやって鎮めたのか、正確な記録は残っていない。医学史家の多くは、催眠術的な暗示の可能性を指摘している。彼が皇太子を精神的に落ち着かせ、その結果として血圧が下がり、出血が緩やかになった、という見立てだ。
理由はどうであれ、「ラスプーチンが皇太子の容態を良くした」という事実。あるいは、そう信じられた事実。その積み重ねが、第一次世界大戦下のロシア宮廷で、大臣の任免すら左右するほどの異常な政治的影響力を彼に与えることになった。貴族や皇族の間では、無学な放浪僧が皇后の寝室にまで自由に出入りし、国政に口を挟むことへの反発が急速に強まっていった。
1916年12月30日深夜、フェリックス・ユスポフ公をはじめとする皇族・貴族の一団によって、ラスプーチンは毒殺・銃撃の末に暗殺される。享年47。彼の遺体はネヴァ川に沈められたと伝えられている。
「呪われた血」が帝国を滅ぼした日
ラスプーチンの死からわずか2か月後の1917年、ロシア革命が勃発する。皇后アレクサンドラがラスプーチンに国政まで委ねていたことへの、国民の不信。そこに戦争による疲弊が重なり、ロマノフ王朝はついに崩壊した。
ニコライ2世は退位を余儀なくされ、アレクセイの皇太子としての地位も同時に失われた。そして1918年7月17日深夜、エカテリンブルクの地下室で、ニコライ2世一家はボリシェヴィキ勢力によって銃殺される。血友病に苦しみ続けたアレクセイ皇太子は、わずか13歳でその短い生涯を終えた。
歴史学者の多くは、アレクセイの病がラスプーチンという異物を宮廷の中枢に引き入れたと分析している。それが皇室への信頼失墜と革命を加速させた「間接的な引き金」の一つだった、というわけだ。一人の女王の体内に生じた小さな遺伝子変異が、巡り巡って一つの帝国を終焉に導いた。これほど劇的な因果の連鎖は、世界史においても稀である。
現代科学が解き明かした「呪いの正体」
2009年、ロマノフ家の遺骨から採取されたDNAが分析された。研究チームが突き止めたのは、アレクセイと母アレクサンドラが実際に患っていた病の正体だった。一般的な「血友病A」、つまり第Ⅷ因子欠乏ではない。より稀な「血友病B」、第Ⅸ因子欠乏だったことが、遺伝子レベルで確認された。
この研究は、ヴィクトリア女王の体内で発生した突然変異の正体を、100年以上を経て科学的に裏付ける画期的な成果となった。もはや「呪い」ではない。正体はX染色体上の、たった一つの遺伝子変異。極めて具体的でありながら、当時の人々にはどうにもならなかった生物学的事実だったのである。
なぜ今も「呪われた血」として語られるのか
この物語がオカルト・都市伝説系のコンテンツで愛される理由は明快だ。「一人の女王の血が、国境を越えて複数の王家に忍び込み、最終的に一つの帝国を滅ぼした」。この筋書きは、まるでよくできた呪いの伝説そのものである。しかも、そこには怪僧ラスプーチンという、いかにもオカルト的な人物が絡んでくる。
祈りと電報だけで瀕死の皇太子を「救った」とされる逸話。そして彼自身が暗殺という劇的な最期を遂げた事実。この二つが、物語全体に強烈な超常的色彩を与えている。実際にはX染色体上の劣性遺伝という、極めて医学的で説明可能な現象である。それでも結果があまりにも劇的だったがゆえに、後世の人々は「呪い」という物語の型に当てはめずにはいられなかったのだろう。
今日でもドキュメンタリーや歴史系ユーチューブ、SNSの歴史雑学アカウント。そういう場所で、この「ヴィクトリアの呪われた血」は繰り返し語り直され続けている。
王家を渡った血友病遺伝子
ヴィクトリア女王の子孫に広がった血友病は、当時の王族が「呪われた血」を持っていた証拠ではない。血友病AとBは、血液凝固因子の不足によって出血が止まりにくくなる疾患である。多くはX染色体に関係する遺伝形式を取る。女性が保因者で、息子が発症する組合せが生じやすい。ただし女性にも症状が出る場合があり、単純な男女二分だけでは説明できない。
ヴィクトリアの息子レオポルドは血友病を患い、その血は娘のアリスとベアトリスの系統を通じて複数の欧州王家へ遺伝した。ロシア皇帝ニコライ二世の皇后アレクサンドラはアリスの孫で、皇太子アレクセイが血友病を発症した。王家同士の婚姻が多かったため、希少な変異が国境を越えて見える形になったのであり、王族だけを狙う病ではない。
ラスプーチンがアレクセイの出血を止めたという話には、複数の説明がある。祈り、催眠、皇后への安心、医師の治療中止。当時用いられたアスピリンが出血を悪化させた可能性も指摘される。ただし、どの発作で何が投与されたかを記録ごとに確かめる必要がある。回復した出来事だけを選べば超能力に見え、回復しなかった時を含めなければ効果は評価できない。
2009年にはロマノフ家の遺骨から得たDNAの研究により、凝固第IX因子に関わる変異が報告された。王家に広がった病気は血友病Bだった可能性が強まった。歴史上の人物の遺伝情報を扱う研究には、試料の同定や汚染管理も必要になる。病気がロマノフ朝崩壊の一因として政治へ影響したことと、遺伝子が王朝を意志的に滅ぼしたという「呪い」は、分けて語りたい。
現在は凝固因子製剤や非凝固因子製剤など、治療も進んでいる。王家の悲劇を語る際も、血友病のある人を「呪われた血」の持ち主として扱わない配慮が欠かせない。
