「黄金の血液」Rhヌル型の恐怖――世界に43人、輸血できる者がほとんどいない血液型の話

病院の待合室で告げられた、あり得ない検査結果

スイス・ジュネーブ。ある少年が10歳のとき、ごく普通の入院検査で採血をした。ただの血液検査のはずだった。ところが検査室から戻ってきた技師の顔色は、明らかにおかしかった。「もう一度、採らせてもらえますか」。そう言われて再検査になった。何度採っても、結果は同じだった。少年の血液には、Rh式血液型を構成するはずの抗原が、ひとつも存在しなかったのだ。 A型、B型、O型、AB型――多くの人が知っているのはこの4種類のABO式血液型と、プラス・マイナスで表されるRh式血液型だろう。だが実際のRh血液型システムはもっと複雑で、50種類以上の抗原の組み合わせによって成り立っている。少年の赤血球は、そのすべてを欠いていた。

医師たちはこの状態を「Rhヌル(Rh null)」と呼ぶ。後年、彼はこう振り返っている。自分はただ普通に生きてきたつもりだったのに、血液という体の一番奥にある部分だけが、地球上でほとんど誰とも共有できない特殊なものだった、と。 Rhヌル型は、その圧倒的な希少性と輸血における特殊な価値から、医学界で「ゴールデンブラッド(golden blood)」――黄金の血液――という異名で呼ばれている。2010年時点で、世界で確認されていたのはわずか43人。その後の報告を含めても、これまで人類史上で確認された症例は約50人前後にとどまるとされる。

AB型Rhマイナス(いわゆる「AB-」)でさえ人口の1%に満たない希少型だが、Rhヌルの希少さはその比ではない。世界の献血バンクに登録されている実働ドナーは、10人に満たないとも言われている。

発見は1961年、オーストラリアの荒野から

Rhヌル型が医学文献に初めて登場したのは1961年のことだ。オーストラリア先住民(アボリジニ)の女性の血液を調べていた研究者たちが、彼女の赤血球にRh抗原が一切存在しないことに気づいた。当時のRh血液型研究の権威たちは騒然となった。というのも、それまでの学説では、Rh抗原――特に赤血球膜の構造を保つのに関わるとされるタンパク質群――を完全に欠いた人間は、そもそも生きて成人まで育つことはできないと考えられていたからだ。赤血球の細胞膜はRhタンパク質という「骨組み」によって形が保たれており、これがなければ細胞は変形し、壊れやすくなり、重度の溶血性貧血で命を落とすはずだった。 ところが、目の前にいる女性は生きていた。

もちろん健康そのものというわけではない。Rhヌル型の人の赤血球は、確かに構造的に弱く、球状に近い異常な形をとりやすい。慢性的な軽度から中等度の溶血性貧血、それに伴う倦怠感や息切れを抱えて生きている人が多い。しかし「生きられないはずの血液型」を持つ人間が現に存在するという事実は、赤血球膜の構造とRhタンパク質の役割について、医学界の理解を根底から書き換えることになった。この発見以降、Rhヌル型は「不可能を生きる血液」として、輸血医学と赤血球生理学の両分野で特別な研究対象になっていった。

先のジュネーブの少年――現在は成人し、フランス在住の献血者として知られる「トーマス」という仮名で紹介されることが多い――のケースには、さらに数奇な事実がある。血液学者ティエリー・ペイラール医師の調査によれば、トーマスのRhヌル体質は、父方・母方それぞれの家系で独立に起きた、まったく別の遺伝子変異が偶然重なって生じたものだった。彼の祖父同士は又従兄弟(はとこ)にあたる遠い親戚だったが、変異の経路そのものは無関係だったという。つまり、宝くじに二重に当選するような確率で、この「黄金の血液」は彼のもとにたどり着いたことになる。

ドナーになれる人間が、地球上にほとんどいないという恐怖

Rhヌル型が「黄金」と呼ばれる最大の理由は、その輸血における特異な価値にある。通常、O型Rhマイナスの血液は「万能ドナー」として知られ、緊急時にはほぼ誰にでも輸血できるとされる。しかしO型Rhマイナスの血液にも、Rh式血液型に含まれる他の抗原は存在している。ところが、Rh抗体を複数種類同時に持ってしまうような特殊な患者――たとえば輸血を繰り返した結果、免疫システムが複数のRh抗原に対して抗体を作ってしまった人――にとっては、O型Rhマイナスの血液さえも「異物」として拒絶反応を起こしてしまう可能性がある。 そうした患者にとって、唯一安全に輸血できるのが、Rh抗原を一切持たないRhヌル型の血液なのだ。

つまりRhヌル型は、通常の万能ドナーであるO型Rhマイナスをも上回る、「究極の万能血液」としての価値を持つ。だからこそ「ゴールデンブラッド」と呼ばれる。 だが、ここに底知れない恐怖が潜んでいる。世界中でこの血液を提供できる人間は、片手で数えられるほどしかいない。ある国でRhヌル型の患者が緊急の輸血を必要とした場合、国内はおろか、近隣国にすら適合する血液が存在しないことが珍しくない。過去には、Rhヌル型の血液を別の大陸から国境をまたいで空輸し、間一髪で患者の命をつないだという事例も報告されている。輸血医療の現場では、Rhヌル型患者のための血液は「その一滴一滴が、文字通り黄金よりも価値がある」と語られることがある。

さらに恐ろしいのは、当のRhヌル型を持つ人自身が輸血を必要とする事態に陥った場合の話だ。自分と同じ血液型を持つ人間が世界に数人しかいないということは、事故や大出血を伴う手術のとき、自分自身の血液以外に頼れるものがほとんど存在しないことを意味する。そのため医師たちは、Rhヌル型と判明した人には、あらかじめ自分の血液を採取し、冷凍保存しておくことを強く勧める。前述のトーマスも、18歳になってからは定期的にフランス国内で献血を続けている。欧州の献血制度では移動費や時間の補償がないため、彼は身銭を切って病院まで足を運び、自分の血を「世界のどこかにいる、まだ見ぬ患者」のために差し出し続けている。

子どものころは、感染症や外傷のリスクを恐れた両親の判断で、サマーキャンプへの参加すら許されなかったという。大人になった今も、彼は運転には人一倍気をつかい、十分な医療設備のない国への渡航は避けるようにしている。財布には、自分の血液型を記した書類を常に携帯している。

「私はドナーであり、いつか患者にもなる」――当事者たちの声

Rhヌル型を持つ人々の証言には、共通した緊張感がにじむ。ある女性ドナーは、自分の血液が世界のどこかの新生児を救ったという知らせを受け取ったとき、「まるで自分の一部が、会ったこともない誰かの体の中で生き続けているようだった」と語ったと伝えられている。妊娠・出産はRhヌル型の女性にとって特に重大なリスクを伴う。胎児との血液型不適合、出産時の大量出血――通常の妊婦なら輸血で対応できる場面で、Rhヌル型の妊婦には後ろ盾となる血液がほとんど存在しない。実際、過去の医学報告の中には、Rhヌル型と診断された妊婦が出産に際して極度の緊張下に置かれ、事前に本人の血液を複数回に分けて採取・保存し、万一の出血に備えたケースが記録されている。

血液学の専門医たちも、Rhヌル型患者を担当することの重圧を口にする。「もし今夜この患者が大量出血を起こしたら、私たちには打つ手がほとんどない」。そう語る医師の言葉は、決して大げさな脚色ではない。実際にRhヌル型患者の緊急輸血が必要になった症例では、国内の血液センター、海外の姉妹機関、さらには過去に登録された数少ないドナー本人にまで直接連絡を取り、間に合うかどうかのタイムリミットと戦いながら手配が進められる。

ネットで語られる「黄金の血液」――なぜ人はこの話に惹きつけられるのか

Rhヌル型の話がインターネット上で繰り返し拡散される理由は、単なる医学的珍しさにとどまらない。「自分の血液型が実は特殊かもしれない」という漠然とした不安、そして「世界にたった数十人しかいない」というスケールの物語性が、都市伝説的な想像力をかき立てるのだ。SNS上では「Rhヌル型の人は寒さに強い」「感染症にかかりにくい」といった、医学的根拠のない噂も繰り返し流布してきた。実際にはRhヌル型は免疫的な優位性をもたらすものではなく、むしろ赤血球膜の脆弱性による貧血傾向という「マイナス」の特徴のほうが医学的には重視されている。それでも「選ばれし血液」というイメージは根強く、フィクションや都市伝説の題材として繰り返し引用され続けている。

Rhヌル型が持つ本当の恐怖は、超能力めいた特別さではない。「もし自分がこの血液型だったら、輸血が必要になったとき、誰も助けてくれないかもしれない」という、極めて現実的な孤独にある。医学が進歩した現代においてなお、たった一つの血液型を理由に、命綱となる輸血が世界中どこを探しても見つからないかもしれないという事実――それこそが、この「黄金の血液」にまつわる物語が、単なる珍談ではなく、静かな恐怖として語り継がれる理由なのだろう。

今回の取材では、Rhヌル型(golden blood)に関する複数の医療系メディアおよび科学ジャーナリズムの記事を横断的に確認した。

1961年にオーストラリア先住民女性から世界で初めて報告されたこと、赤血球膜構造とRh抗原の関係が「生存不可能」とされていた通説を覆したこと、2010年時点で世界の確認例が43人程度であったこと、実働可能なドナーが世界で10人に満たないとされることなどが、複数の一次的な医療解説記事・科学ジャーナリズム記事で共通して確認できた。

特にフランス在住の「トーマス」氏の事例は、血液学者ティエリー・ペイラール医師の調査に基づき、父方・母方で独立した二つの遺伝子変異が偶然重なったケースとして詳細に報告されている。主な参照元は次の通り。

Cleveland Clinic「Discover Golden Blood: The Rarest Blood Type」(health.clevelandclinic.org)、Oklahoma Blood Institute「The World’s Rarest Blood Type Is Rhnull」(ourbloodinstitute.org)、

Mosaic Science「The man with the golden blood」(medium.com/mosaic-science)、Here、Here) & Now(WBUR)「What Does It Mean When Only 40 People Have Your Blood Type?」、New Statesman「The man with the golden blood」、Science(AAAS)「The story of a man with ‘golden blood’」。

輸血不適合時の症状(発熱、悪寒、黄疸、腰背部痛、血尿、腎不全)についてはMedicalNewsToday等の医療解説記事に基づく。

Rhヌル型が「黄金の血」と呼ばれる理由

赤血球の表面には多数の血液型抗原があり、Rh血液型もD抗原だけで決まるわけではない。Rhヌル型では、Rh系の抗原が赤血球上にほとんど、またはまったく発現しない。世界で報告例がきわめて少ないことから「黄金の血」と呼ばれるが、血液そのものが金色なのではなく、希少な輸血資源としての価値を表す通称である。

Rhヌル型の人が輸血を必要とする場合、一般的なRh陰性血なら安全というわけではない。Rh系の抗原に対する抗体ができると、適合する血液を見つけるのが難しくなる。一方、Rhヌルの赤血球は、Rh系の複数抗体を持つ患者に適合する可能性があり、国際的な希少血液ネットワークで保管・調整される。凍結保存にも設備と期限があり、必要なとき無限に使える万能血ではない。

「世界に43人」という数字は特定時点の報道で広まったもので、新たな確認や死亡、登録状況によって変わり得る。人数を固定した事実として繰り返すより、いつの資料で、確認例か登録ドナー数かを明記したい。希少性を強調するあまり、本人の国籍、居住地、氏名を探し出せば、献血を迫る圧力や個人情報侵害につながる。

Rh関連タンパク質は赤血球膜の構造にも関わるため、Rhヌル型では軽度から中等度の溶血性貧血、赤血球形態の変化がみられることがある。単に「輸血相手がいない」だけの状態ではない。妊娠や手術に備え、本人の血液を計画的に保存する場合もあるが、医療機関が個別に判断する。

映画の秘密結社や富豪が血を奪うという筋は創作として成立しても、現実の希少血ドナーは医療制度と同意の下で献血している。血液型カードやSNSの自己申告だけではRhヌル型を診断できず、専門機関での抗原検査や遺伝学的検査が必要になる。恐怖の焦点を「特別な人間」へ向けず、希少血を国境を越えて届ける仕組みと、ドナーを守る倫理を伝えたい。

参照:日本赤十字社「まれな血液型」https://www.jrc.or.jp/donation/blood/knowledge/

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