頭を打った後に、突然ピアノが弾ける。眠りに落ちる瞬間、頭の中で爆発音がする。重い認知症の人が、亡くなる前に家族と会話を交わす。こうした現象は「現代科学にも解けない人体の謎」として、一つの棚に並べられやすい。
けれども、十の現象は同じ意味で未解明なのではない。臨床で知られた症候群、発生機序の一部が研究中の現象、少数の症例報告、原因名を誤って付けられた火災までが混ざっている。名前が付いていることは、原因がすべて分かったという意味ではない。逆に、原因に議論があることも超常現象の証明にはならない。
そこで各項目について、「実際に観察されているもの」「分かっていない部分」「物語として付け加えられた部分」を分けてみよう。順位を付ける客観的な物差しはないため、一位から十位までのランキングにはしていない。ここからが本題だ。
1 脳の損傷後に技能が現れる「獲得性サヴァン症候群」
サヴァン症候群とは、発達上または認知上の障害がある人に現れる状態を指す。記憶、計算、音楽、美術、暦計算など、特定領域の突出した技能がみられる。
生まれつき、あるいは幼い時期から現れる例が多い。一方、脳損傷、脳卒中、認知症などの後、それまで目立たなかった技能が現れたと報告されることがある。これが獲得性サヴァン症候群と呼ばれるものだ。
存在自体は症例報告やレビューに記載されている。ただし、世界で何人という確定した登録簿はない。「四十人だけ」「近年急増」といった数字の出典には注意がいる。
事故前の能力が本当に皆無だったか、事故後にどれほど練習したか、技能を誰がどう評価したか。すべての症例で同じ基準になっているわけではない。
説明候補には、損傷によって一部の抑制が弱まり細部への注意が強まる、残った神経回路が再編される、強い反復欲求によって練習量が増える、といったものがある。「脳の九割は眠っており、けがで封印が外れた」という説明は支持されていない。脳は普段から広い領域を使っている。
損傷は麻痺、失語、記憶障害、発作などを起こす危険の方が圧倒的に大きい。有名人の美術作品や計算能力が本物であっても、その一例で機序は決まらない。頭を打てば天才になれるという期待は危険である。
正直、ここは勘違いが起きやすい。けがの後に性格、興味、睡眠、衝動、技能が急に変わったなら、才能の覚醒として放置しない。外傷後の合併症を診てもらう必要がある。
2 外国語を知らないのに外国人のように話す「外国語様アクセント症候群」
脳卒中、頭部外傷、脳腫瘍などの後に発話の音が変わり、聞き手から外国語のアクセントのように知覚される。これが外国語様アクセント症候群という稀な状態である。神経の損傷が明らかな神経原性、心理・機能的要因が中心と考えられる機能性、両者が重なる例などが報告されている。
変わるのは、子音や母音の作り方、音の長さ、強弱、話す速さ、抑揚、音節の区切りなどである。いくつかの小さな変化が組み合わさると、聞き手が知る外国アクセントに似て聞こえる。ちなみに、本人の国籍や過去を知らない聞き手では、別の地域のアクセントだと判定されることもある。
ここで押さえたいのは、知らなかった外国語を突然習得する現象ではないという点だ。英語を学んでいない人が英語の語彙と文法を自在に使えるようになるわけではない。「前世で話した言語が戻った」とするには、単なる発音変化ではなく、学習歴のない言語知識を厳密に検証しなければならない。
突然ろれつが変わったときは、珍しい症候群の話を先に当てはめない。顔や手足の片側が動かしにくい、言葉が理解できない、激しい頭痛、めまい、意識の変化。これらを伴うなら、脳卒中などを疑う救急の場面である。発話の変化が残った場合は、原因の治療とともに言語聴覚療法が検討される。
3 眠り際に頭の中で轟音がする「爆発頭症候群」
寝入りばなや目覚めかけに、爆発、銃声、ドアが激しく閉まる音、電気が弾ける音を突然感じることがある。実際には外で鳴っておらず、通常は痛みを伴わない。爆発頭症候群という強烈な名が付いている。ただし、頭蓋骨や脳が物理的に爆発する病気ではない。睡眠と覚醒の移行時に起きる感覚性の睡眠随伴症として扱われる。
日本の労働者を対象にした横断調査がある。解析された1843人のうち46人、2.49%が爆発するような体験を報告した。23人、1.25%が用いられた診断基準を満たした。これは一つの職域・質問紙調査であり、日本人全体の確定有病率ではない。それでも、極端に例外的な怪談だけではないことは分かる。
発生機序は確定していない。眠りへ移る際に感覚系の活動がそろって低下せず、一時的な放電のような感覚が生じる仮説が検討されている。睡眠不足やストレスとの関係なども検討されている。
音に加えて閃光や身体の震えを感じる人もいる。恐怖で眠れなくなる場合はある。ただし、多くは身体を傷つけない。まあ、名前の派手さに比べれば穏やかだ。
一方、激しい頭痛を伴う、日中にも起こる、けいれんや意識消失がある、片側の麻痺が続く場合は別の原因を調べる必要がある。ケタミンなどを使った個別報告を、一般的な自己治療へ広げてはいけない。まず現象の説明、睡眠の確保、誘因の確認が行われる。頻回で苦痛が強いときに睡眠専門医などへ相談する。
4 重い認知症の人が一時的に会話を取り戻す「予期せぬ明晰」
長く意味のある会話が難しかった認知症の人が、突然家族の名を呼び、昔の出来事を語る。別れの言葉を交わした後、再び反応を失う。介護者や医療者から、このような報告が集められている。死の直前に限るものを終末期明晰、それ以外も含む広い概念を予期せぬ明晰、または逆説的明晰と呼ぶことがある。
米国国立老化研究所は研究会を開き、定義と測定方法を整える研究を支援している。家族からの聞き取りでは、短い明晰な出来事が珍しくない可能性も示された。ただし、「何年も失われた記憶が完全に戻った」と「普段より反応がよかった」の境界は一定していない。認知症にも日内変動があり、疲労、薬、感染、周囲の環境で反応は変わる。
死の数時間前に起こる例が印象に残りやすい。ただし、すべてが死の予告ではない。明晰にならず亡くなる人もいる。会話が成立したように見えた時点の脳活動を、多数例で連続記録したデータはまだ乏しい。
残存する神経回路が一時的に協調する、覚醒状態や炎症、薬剤が変化するなどの候補はあっても、決着していない。この現象を魂が脳から離れる証明とすることも、逆に家族の思い違いと片付けることも、観察の範囲を越える。短い会話が本人と家族にとって大切だった事実は残る。
急に反応が変わったときは、死の前触れと決めない。せん妄、感染、痛み、薬剤など治療可能な原因も医療者が確認する。
5 自分や物の大きさが変わる「不思議の国のアリス症候群」
手が巨大になった、部屋が遠ざかった、人の顔が小さくなった、時間が速く流れた。視覚、身体の大きさ、距離、時間の感じ方が発作的にゆがむ現象は、不思議の国のアリス症候群と呼ばれる。ルイス・キャロルの物語に似た体験から、1950年代に名付けられた。
症例はどれくらい集まっているのか。2016年の系統的レビューは、医学文献に報告された169症例を整理した。成人では片頭痛などの神経疾患、子どもでは脳炎を含む感染症が目立ち、てんかん、薬物、精神疾患など多様な関連が挙げられた。一般人口でも一時的な似た感覚は報告される。ただし、症候群としての統一診断基準や発生頻度には不確かさが残る。
物が実際に伸び縮みしているのではなく、視覚と身体感覚を統合する過程が一時的に変化したと考えられる。頭頂・側頭・後頭領域が交わるネットワークとの関係が提案されている。とはいえ、原因が違えば同じ経路だけで起きるとは限らない。
初めて起きた、繰り返す、発熱、頭痛、けいれん、意識変化を伴う場合は、幻想的な体験として楽しむ前に基礎疾患を調べる。子どもが「お母さんが小さくなった」と話しても、嘘や想像と決め付けない。開始時刻、持続時間、頭痛や感染症状を記録して受診時に伝えると役立つ。
6 「自分は死んでいる」と確信するコタール症候群
自分はすでに死んでいる、内臓が腐ってなくなった、血が流れていない、自分は存在しない。こうした虚無的な妄想を中心とする状態がコタール症候群である。19世紀にフランスの神経科医ジュール・コタールが記述した。独立した一つの病気というより、重いうつ病、精神病、神経疾患などのなかに現れる稀な症候として扱われる。
2005年から2018年までの69症例を分析した2020年のレビューでも、精神病性うつ、妄想・幻覚を中心とする群など、症状の組み合わせは一様ではなかった。脳画像や神経心理学から自己認識・感情処理の異常が論じられている。ただし、単一の損傷箇所ですべてを説明できるわけではない。
本人の確信は非常に強く、論理だけで訂正できないことがある。「死んでいるから食べなくてよい」と飲食を拒み、脱水や栄養失調になる場合もある。自分は不死身だとして危険な行動を取る、希死念慮を伴う場合もある。悪霊や憑依として扱い、治療を遅らせるのは危険である。
抗うつ薬、抗精神病薬、気分安定薬、電気けいれん療法などが、背景の病態と重症度に応じて用いられる。自分や家族が「すでに死んだ」「身体がない」と繰り返し訴え、食べない、自傷の恐れがある。そうした場合は、珍しい話として観察せず、緊急の精神科医療につなぐ必要がある。
7 人体だけが燃え尽きる「いわゆる突然人体発火」
椅子や床はわずかしか焼けていないのに、人の胴体がほぼ灰になり、手足の一部だけが残る。過去の火災記録には、このような異様な現場がある。そこへ「人体が体内から自然発火した」という原因名が付けられた。こうして突然人体発火の伝説が生まれた。
しかし、外部の着火源なしに人間が自然発火したと法医学的に確認された例はない。奇妙な焼け方は、灯心効果で説明できる。たばこ、暖炉、マッチなどで衣類や寝具に火が付き、皮下脂肪が熱で溶けて布へ染み込む。布がろうそくの芯、体脂肪がろうのように働き、小さな炎が長時間、局所を燃やす。
2002年の法医学実験は、人骨の燃焼と人体組織の燃焼熱を調べた。骨が強く破砕・変色し得ることや、炎が周囲へ広がりにくい条件を示した。さらに新しい例もある。2019年に報告された自焼例でも、外部着火と促進剤が確認された。それでも、上半身の大部分が焼失し、脚と周囲が比較的残る、突然人体発火に似た現場が生じた。
アルコールを飲んだ人の血液が燃えるという説明も誤解を招く。飲酒で血液が可燃液になるわけではない。飲酒、薬、病気、転倒などによって火元から逃げられず、長時間燃え続ける危険が高まることはある。
伝説の不可解さは、火がなかったことではない。火元が消失または見逃され、遺体が燃料を供給し続けた現場の見え方にある。
8 災害時の「火事場の馬鹿力」
車の下敷きになった人を家族が持ち上げた、倒れた家具を一人で動かした。緊急時に普段以上の力を出したという逸話は多い。強い脅威を感じると交感神経系が働き、心拍、血流、覚醒度が上がり、注意が目の前の課題へ集中する。痛みの感じ方が一時的に弱まり、ためらいなく力を出せることもある。
それでも、人間の筋力が瞬時に何倍にもなり、物理限界を越えると実証されたわけではない。事故現場の話では、持ち上げた車体のどの部分か、反対側の車輪が支点になったか、何人が手伝ったか、どの高さまで動いたか。そこが測定されていないことが多い。自動車全体の重量と、片側を数センチ浮かせるのに必要な力は同じではない。
普段の最大努力にも、けがを避ける抑制、恐怖、技術、姿勢が影響する。緊急時にはそれらが変化し、短時間だけ大きな出力が出る可能性はある。一方、筋肉や腱の限界が消えるわけではない。後から断裂、腰痛、横紋筋融解などが明らかになることもある。
英雄的な救助を否定する必要はない。ただし、数値を測っていない逸話から「脳が筋力の八割を封印している」といった一律の比率は導けない。念のため付け加えると、危険な重量物の下では、可能なら救助隊と器具を使い、二次災害を避けるべきである。
9 見ただけで起きる「あくびの伝染」
人が大きく口を開けてあくびをする映像を見る、あくびの話を読む。それだけで自分もあくびをしたくなることがある。あくびの伝染は実験でも観察され、人以外の一部の動物でも研究されている。
よく知られる説明は、他者の状態を写し取るミラーニューロンや共感性との関係である。親しい相手のあくびほど移りやすいとする研究や、発達に伴う変化はある。しかし、共感性テストが高い人ほど必ず伝染するわけではない。2017年の批判的レビューは、共感との関係を調べた証拠は不一致で、注意や社会的抑制などの交絡があると整理した。
328人にあくび映像を見せた研究がある。伝染の個人差は、同じ人のなかで比較的安定していた。ただし、測定した共感性や眠気などでは大部分を説明できず、年齢が最も一貫した関連要因だった。あくびが移らなかったことを理由に、共感がない、発達障害だ、冷酷だと人物判定することはできない。
刺激への注意、時刻、疲労、呼吸、集団の状況がどう組み合わさるかは研究中である。未解明なのは、現象が存在するかではない。なぜ人によって伝染しやすさが違い、それが社会的な関係とどこまで結び付くかである。
10 治療なしにがんが縮む「自然寛解」
治療を受けていない、または効果を期待しにくい状況で、悪性腫瘍が縮小または消失したとみられる症例は報告されている。自然退縮、自然寛解と呼ばれる。乳児の特定型の神経芽腫のように、自然退縮が比較的よく知られ、経過観察が治療計画に組み込まれるがんもある。
一方、「世界保健機関が奇跡として数百例を認定した」という一律の制度や集計は確認できない。自然寛解を判断するには、最初の診断が組織学的に確かだったか、病期は正しかったか。感染や免疫反応があったか、手術や放射線、薬の遅れた効果がなかったか。そこを症例ごとに検討する必要がある。
免疫系が腫瘍を認識した、血流が途絶えた、腫瘍細胞が成熟・死滅した、感染による免疫活性化が関わったなど、がん種に応じた候補がある。しかし、稀な一例を再現可能な治療法へ変えるのは難しい。理由が完全には分からない症例があることは、祈祷、断食、特定サプリメントががんを治した証拠にはならない。
先に断っておく。米国国立がん研究所の定義では、寛解は徴候や症状が減少または消失した状態である。完全寛解でも、体内にがんが残っている可能性がある。
寛解と治癒は同義ではない。再発を調べる経過観察が必要になる。自然寛解の存在を理由に標準治療を中断すれば、進行する多数のがんに対する治療機会を失う。
「説明できない」という言葉を四つに分ける
十の現象を並べると、未解明には少なくとも四つの意味があると分かる。第一は、現象と関連疾患は知られているが、個々の脳内機序を一つに絞れないもの。外国語様アクセント症候群やアリス症候群がこれにあたる。第二は、予期せぬ明晰のように、観察方法と定義を整えている途中のもの。第三は、獲得性サヴァンや自然寛解のように、稀な症例があり一般化が難しいもの。
第四は、突然人体発火のように、現象の見え方は奇妙でも、名前に含まれる原因が支持されないものだ。
火事場の怪力やあくびの伝染は日常的に実感しやすい。ただし、細かな仕組みや個人差が残る。コタール症候群や爆発頭症候群は、名だけを聞くと怪奇現象に思える。とはいえ、臨床上の扱いと受診の目安がある。
分からない部分を明示することは、科学の敗北ではない。何を観察したか、何を測れていないか、どの仮説が競合しているか。それを分けるのが研究である。空白をすぐ霊、前世、未知のエネルギーで埋めると、確かめるべき病気や火元を見失う。
不思議な体験を記録するとき
発話や知覚が急に変わったときは、開始した時刻、何分続いたか、頭痛、発熱、麻痺、意識消失、服薬、睡眠時間を記録する。動画を撮れる状況でも、救急対応を遅らせない。突然のろれつ障害、片側の麻痺、けいれん、激しい頭痛は救急へつなぐ。死んでいるという確信、飲食拒否、自傷の恐れは緊急の精神科医療へつなぐ。
睡眠時の爆発音だけで痛みや神経症状がなく、短時間で終わるなら、起きた回数と睡眠状況を記録したうえで相談できる。まずは記録してみてほしい。知覚のゆがみが繰り返す子どもには、怖い想像だと叱るより、感染や片頭痛の徴候を確認する。
人体は、分かったことの上にも未解決の問いを残している。だが、十項目を同じ「科学不能」の箱へ入れる必要はない。実在する体験を丁寧に扱い、伝説と診断、仮説と実証、寛解と治癒を分けるほど、奇妙さの輪郭はむしろ鮮明になる。
