「5」は赤く、「水曜日」は青い
紙に黒い数字の「5」が印刷されている。それを見た。その瞬間、赤を感じる人がいる。
インクが黒いことは本人にも分かっている。それでも、5という字を目にするたび、子どものころからずっと変わらない同じ赤が伴う。隣にある「2」は黄色、「8」は深い青で、曜日にも人名にも、それぞれ固有の色が割り当たっている。
音楽を聴いているあいだ、鳴っている音に合わせて色や形が目の前へ次々と現れる人もいる。色だけで終わらない。トランペットは橙色の三角、低いピアノ音は濃紺の帯。ある言葉を聞くと舌に味が生じたり、他人が触られるのを見て自分の身体にも触覚を感じたりする場合もある。
こんなふうに、一つの刺激が通常とは別の感覚や概念を自動的に伴う現象を共感覚という。本人が意識して想像しているのとは違う。幼いころから同じ組み合わせが続く。だから、ほかの人も同じように数字へ色を感じるものだと思い込んでいた。そういう人も多い。
先に言っておくと、共感覚はひとまとまりの特殊能力ではなく、性質の違う型をいくつもまとめた呼び名だ。霊感や超能力と同じものでもないし、病気と決めつけるものでもない。知覚と意味の結びつき方が人によってどれほど違うのか、共感覚はそれを示す現象として研究されている。
最も研究されてきた文字・数字と色
研究でいちばんよく扱われるのが、書記素色共感覚だ。紙の上でも画面の上でも、文字や数字を目にすると、その一つ一つに決まった色が自動的に伴う。
同じ文字でも、人によって色は違う。同じ「A」という一文字を見せられても、そこへ赤を感じる人もいれば、青を感じる人もいて、共通の正解はない。同じ家族のあいだで共感覚がみられても、どの文字がどの色になるかという対応まで完全に一致するとは決まっていない。
色の感じ方にも幅がある。文字の印刷面そのものが色づいて見える人、頭の中に色が浮かぶ人、色を「知っている」感覚だけがある人。
紙の上では黒い文字だと理解しながら、それでも追加の色を経験しているのかどうか、研究はそこを確認する。色覚異常や眼の病気のせいで、印刷された文字の色そのものを誤認している状態とは別物だ。
幼いころから意識せずに起こり、時間がたっても同じ文字と同じ色の対応がおおむね保たれている。そこが特徴になる。「今日は7を緑にしよう」と、その場の思いつきで任意に選ぶ連想とは、そこがはっきり区別される。
完全に一色不変でなければ共感覚ではない、という話でもない。日によって明るさや色調が少し変わる人もいるし、注意をよそへ向けているあいだは色が弱くなる人もいる。
音が色や形になる色聴
音楽や人の声を聞いたときに色を感じるこの型は、色聴、あるいはクロメステジアなどと呼ばれる。
音の高さ、音色、楽器の種類、調性、和音と、そのどれに対しても決まった色が対応する。音が鳴っている間だけ視野に形が現れる人もいれば、音のあいだじゅう頭の中に色の風景が広がる人もいる。
ここで一つ注意がいる。高い音は明るく、低い音は暗いという対応そのものは、共感覚がまったくない人にも広くみられる連想だ。小さい音を「細い」、鋭い音を「明るい」と言い表す人は、共感覚と関係なく多い。
だから共感覚を調べるには、こうして広く共有される比喩と、本人に固有で自動的な色経験を切り分ける手間が要る。見極めはそこからだ。
音楽家が色を使って自分の作曲を説明しても、それだけでそのまま共感覚者だと決めるわけにはいかない。舞台照明や絵画から学んだ対応、音楽理論上の比喩、あるいは作品そのものの構想なのかもしれない。
反対の向きも同じだ。共感覚者が芸術家だとも決まらない。色聴があっても楽器をまったく演奏しない人もいるし、色が目の前に出て邪魔になり音楽に集中しにくい人もいる。
言葉を味わう
語彙味覚共感覚では、言葉や人名を耳で聞いたり目で読んだりしたとたん、口の中に特定の味や食感が生じる。
ある名前は焼いたパン、別の曜日は金属、駅名はミント。意味と味の関係がなんとなく分かりやすい場合もあれば、本人にもまるで理由が分からない組み合わせもある。
幼少期に覚えた食べ物の名、似た音、家族との記憶。そのあたりが言葉と味の対応を作ったのではないか、その可能性が研究されている。一つの語を聞くたび同じ味が自動的に出る。味は選べない。そこが普通の思い出との違いになる。
味が実際に口の中へ広がる人もいれば、口は動いていないのに味の存在を強く思い出すように感じる人もいる。吐き気を起こすほど不快な味の対応が一つでもあれば、その言葉を聞くたび、それだけで日常生活の重い負担になる。
報告例の珍しい型になると、本人の語りだけがほとんど唯一の判断材料になってしまう。長い期間を空けてから同じ語の味をもう一度答えてもらい、答えの一貫性を調べる方法が使われる。
人の痛みを自分にも感じる
鏡触覚共感覚では、他人の顔や腕が触られるのを見ると、自分の対応する場所にも触れられた感覚が生じる。
他人が左頬を触られた。それを見て自分の右頬へ感じる鏡像型と、同じ左頬へ感じる型。どちらも報告される。軽い圧迫、くすぐったさ、温度の変化など、自分の側に起こる感覚の質も人によってずいぶん異なる。
他人がけがをする映像を見ているだけで、自分はどこも触られていないのに痛みを感じてしまう人もいる。ただ、これは共感性が高いという性格評価とは別の話だ。自分の身体に触覚が起こる経験と、相手を思いやる感情は、つながりがあるとしても別の要素になる。
暴力的な映像や人でごった返した場所が、そのまま強い負担になる人もいる。才能の一言では足りない。「特殊な才能」と称賛するだけでは、本人が避けたい刺激や、そこから来る疲労を見落とす。
念のため書いておく。共感覚がなくても、他人が針を刺される映像を見れば、誰でも一瞬は身をすくめる。研究では、そのありふれた共感反応と、身体の特定部位へ一貫して触覚が起こる共感覚を分けて考える。
空間に並ぶ数字と時間
数字、曜日、月、年が、頭の中や身体の周囲へいつも決まった一定の配置で並ぶ人がいる。頭の中に地図がある。
1から10が直線ではなく途中で曲がる。1年は楕円形で、12月が左上、夏が身体の前にあり、歴史上の年代ははるか遠くの空間へ伸びていく。
これを空間系列共感覚などと呼ぶ。カレンダーを思い浮かべる普通のイメージと連続する部分もあるが、配置が自動的で長年変わらず、計算や予定確認に使われる場合がある。
この空間地図が記憶を助ける人もいる。困るほうへ転ぶ人もいる。一般のカレンダーや表計算ソフトの並びが自分の中の配置と合わず、そのたびに混乱してしまう。
ちなみに、この配置があるからといって「記憶力が高い」「数学の天才」と単純には結びつかない。特定の課題で利点が出ることはあっても、そこからすべての認知能力がまとめて底上げされる話でもない。
本当に共感覚かをどう確かめるか
共感覚には、血液検査の数値や一枚の脳画像だけで白黒が決まる、そういう診断はない。
研究でよく使われるのが一貫性テストだ。数字や文字ごとに感じる色を多数選んでもらい、順序を変えて繰り返し、時間を空けても似た色を選ぶかを見る。
普通の人も「Aは赤っぽい」と連想できる。ただ、たくさんの項目を順序を変えて短時間で繰り返すと、前に選んだ色をすべて覚えておくのは難しい。共感覚者にはもともと自動的な対応があるため、何度やり直しても答えに高い一貫性が出る。
ストループ課題を下敷きにした。そういう方法も使われる。本人が5を赤く感じるのに、実際の画面では5が青で表示される。すると色の回答が遅くなる。自動的な共感覚色と外部の色がぶつかるせいだ。
万能の物差しはない。テストの点数だけで本人の経験すべてを決められない。年齢や注意によって感じ方が変化した。そういう例や、色以外の型、対応が複雑な型になると、色を選ばせる既存のテストがそもそも合わない場面もある。
何人に一人いるのか
共感覚を持つ人が全体のどれくらいいるのか、その有病率の推定は研究によって大きく違う。
古い資料は「2000人に1人」という、いまから見ればずいぶん低い推定を載せていた。女性のほうがはるかに多い、という数字も並んでいた。ただ、自分から研究へ応募してきた人を数えると、共感覚に気づきやすく参加意欲の高い人のほうへ偏る。
のちに一般人口を対象にした研究が出た。広い意味の共感覚が数%、書記素色共感覚は1%前後。そんな推定も報告された。
推定の幅はそれだけ広い。2015年の研究は、書記素色共感覚を持つ人を1.39%と推定した。従来言われた極端な女性偏りについては、自己応募による影響が大きいと論じた。
数字を比べるときは、どの型を含むか、自己申告だけか、一貫性テストを使ったか、年齢と文化を確認する。
使う文字体系が違えば、色と結びつく書記素そのものが、集団ごとに変わってくる。研究の結果はアルファベットを使う集団で得られた。そこで得られた結果を、漢字、ひらがな、数字という別の文字体系を使う集団へそのまま当てはめられない。
正直、「何人に一人」という一つの数字より、定義と調査法によって見え方が変わることを覚えておくほうが正確だ。
生まれつきか、遺伝するのか
共感覚は一つの家族の中に複数みられる場合があり、そこから遺伝的な影響が考えられている。
どこかにある一つの「共感覚遺伝子」があって、そのスイッチ一つで決まる、という単純な話とは違う。複数の遺伝的な要因と、生まれてからの発達の過程、そして幼少期の学習が重なって絡んでいそうだ。同じ家族でも型や色の対応は異なる。
文字と色の組み合わせには、幼児期に使った色付き磁石、教科書、玩具、カレンダーの影響が見つかった。出どころは身の回りの品だった。そういう例もある。ある家族が同じ教材を長く使えば、遺伝だけでなく身の回りの環境まで共有する。
だからといって、すべてを後から覚えた。そういう話でもない。本人はもう教材のことを忘れていても、色の対応だけが残り、自動的に現れる場合がある。
「先天性か後天性か」というきれいな二択に収まる話でもない。感じやすさの個人差と、学習された記号の対応。その二つが発達の中で組み合わさったとみておく。
脳のどこが違うのか
書記素色共感覚では、文字の形を処理する領域と色を処理する領域の結びつきが強い、という仮説がある。通常なら抑えられているはずのフィードバックが、そのまま意識へ上がる、という見方も出ている。
脳画像研究では、共感覚者が色を感じているときに色覚関連領域の活動が変わる、という報告が出た。脳の白質や、領域どうしの機能的結合にも違いがあるという報告が、そのあとも続いた。ただ、話はそこで固まらない。
2015年の批判的レビューは、そこへ待ったをかけた。小規模な研究が多かった。統計の方法にも問題。結果が再現しない例も目立つ。当時の画像研究から明確な神経相関までは決められないと、レビューは指摘した。
2024年には「Human Connectome Project」の方法を使った事前登録研究も出た。共感覚者には広い脳構造・機能の差がある。そう報告された。研究は進んでいる。一つの脳領域だけで共感覚のすべての型を説明できる段階には、研究はまだ届いていない。
脳画像で集団の平均的な差が見つかっても、そのまま個人を「共感覚者」と判定する装置にはならない。集団差と個人診断は別ものだ。
共感覚は病気なのか
発達性の共感覚は、たいてい本人にとって生まれたときからの普通の知覚であり、わざわざ治療を必要としない。
文字色が記憶を助ける、音楽の構造を把握しやすい、創作の手掛かりになる。そういう人もいる。目の前の色が外部の表示と合わなくて資料が読みにくい、言葉の味が不快、他人の痛みを見るのがつらい。そんな負担もある。
本人が何も困っていないのに、その能力を消す治療をわざわざ勧める話でもない。学校や職場では、教材や資料の色が本人の対応と衝突する場合、白黒版を用意するなどの調整が役立つ。
共感覚があるからといって統合失調症や幻覚の病気だ、という結論にもならない。発達性共感覚では刺激との対応が長年安定していて、現実の外部刺激と追加の感覚をきちんと区別できる人が多い。
そこは線を引きたい。成人後に色や音の知覚が突然始まった。そういう場合や、意識障害、薬物使用、頭部外傷を伴う場合は、発達性共感覚と自己判断せず医療機関へ相談する。
後から生じる共感覚
脳損傷、感覚を失った後の脳の変化、片頭痛、薬物。こうしたものに伴って、それまで何ともなかった人に、共感覚によく似た経験が人生の途中から現れる場合がある。
生まれつきの発達性共感覚と、獲得性・一過性の現象。この二つは分けて考える。突然、音が色に見えるようになった。それを体質が開花したとだけ解釈しない。
ここは区別したい。幻覚作用のある薬物で音や色が混ざる経験も、長年一貫する発達性共感覚とは別だ。危険な薬物を使えば共感覚能力を得られる、というたぐいの情報は誤解を招く。
視覚や聴覚を失った。そういう人に別の感覚が現れる場合、脳が入力の減少へ適応する過程が絡んでいるらしい。治療やリハビリの状況と合わせて評価する。
発症時期、持続時間、刺激との対応、ほかの神経症状。そのあたりを最初から記録しておけば、次に何を調べるべきか判断しやすくなる。
天才や芸術家の証明ではない
歴史上の画家、作曲家、作家が共感覚者だった。そう紹介される場合がある。本人が色聴をはっきり口にした例もあった。後世が作品の比喩から推測しただけの例もあった。
色彩豊かな作品を作ること、音を色へ置き換える表現。それだけでは共感覚の証拠にならないし、そもそも芸術家は比喩や象徴を意図的に使う。
共感覚者は創造性や記憶力が高いという研究も出た。それでも、全員が芸術や数学に優れる話にはならない。共感覚を持たないまま優れた作品を残した。そういう芸術家も多数いる。
ここは大人の側が気をつけたい。子どもが数字に色を感じると言った。そこで「天才の証」と持ち上げると、本人が期待へ合わせて答えるようになる。否定も特別扱いもせず、どんなふうに感じるのかをそのまま聞く。
能力の価値より、本人の知覚の違いとして理解する。そこが出発点になる。
人の知覚は同じではない
共感覚が教えるのは一点だ。目や耳から入ってくる同じ刺激は、そのまま全員へ同じ世界を作ってくれない。
黒い5を見て、赤を感じない人が多数だ。赤を感じる人も、黒い印刷を見誤っているのとは違い、黒いインクという外部の色と、赤という追加の色を同時に持つ。
誰かの主観的経験を直接のぞき込めない。それでも、一貫性テスト、反応時間、脳活動、家族研究を組み合わせれば、経験がどんな性質を帯びるかを調べられる。
研究にはまだ対立が残る。脳の接続、発達、概念の意味、注意のどれが中心か、型によって仕組みが同じかどうかも確定していない。
まあ、分からない部分を霊感や前世の証拠にしなくていい。脳が感覚と意味を結びつける仕組みそのものが、私たちの想像よりずっと多様にできている。共感覚はそこを見せてくれる。
