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チャン&エン・ブンカー――「シャム双生児」の語源となった兄弟、63年間ひとつの体で生き抜いた真実

メナム川で「奇妙な生き物」と間違われた少年たち

1824年、シャム(現在のタイ)を流れるメナム川。スコットランド商人ロバート・ハンターは、水面で泳ぐ二人の少年を目撃した。最初は「見たこともない奇妙な生き物」だと思い込んだという。

近づいてよく見ると、それは胸のあたりでつながった、生きた双子の少年たちだった。彼らの名はチャンとエン。まあ、遠目には無理のない見間違いだったのかもしれない。

二人の生まれは1811年5月11日。場所は当時のメクロン、現在のタイ・サムットソンクラームだ。父は中国系の漁師で、母はアヒルを飼って生計を立てていた。その家に生まれた結合双生児である。

この出会いがきっかけとなり、少年たちの運命は大きく動き出す。ハンターと船長のアベル・コフィンは、17歳になった二人を1829年8月、ボストンへと連れて行った。

契約では5年間の興行が定められていた。ところが双子側は、「約束された報酬が違う」と後に主張することになる。旅興行の初期、彼らはコフィン夫妻、特に妻スーザンから使用人同然の扱いを受けた。ささやかな要求すら拒まれる搾取的な環境に置かれていた。正直、これを対等な興行契約と呼ぶのは難しい。

見世物小屋からの独立、そして「シャム双生児」という呼び名の誕生

1832年、劣悪な待遇に耐えかねた二人は、興行主のもとを離れる。ここからが二人の本当の人生だ。独立した興行師として、自らのショーを運営し始める。

演出はそれまで「珍奇な見世物」の路線だった。ここから一転、上品な「サロン形式」のスタイルへと自らを再定義していった。アメリカ式の服装を身にまとい、流暢な英語で観客からの質問に応じる。

身体的な奇異さを見世物にするのではなく、教養ある一人の人間として観客の前に立つ。この戦略転換が功を奏し、彼らは大きな経済的成功を収めていく。

やがて二人につけられた呼び名が「シャム双生児(Siamese Twins)」だ。彼らの故郷がシャム(タイの旧称)であったことに由来する。この名で二人はアメリカ中に知れ渡った。

この呼称はやがて一般名詞化した。以後200年近くにわたって、あらゆる結合双生児を指す代名詞として世界中で使われ続けることになる。医学的な正式名称は別にある。それでも大衆文化の中で「結合双生児=シャム双生児」というイメージを決定づけたのは、このチャンとエンだった。

ノースカロライナへの定住、市民権、そして「バンカー」という姓

10年におよぶ巡業で、二人は財を築いた。1839年、ノースカロライナ州マウントエアリー近郊に土地を購入して定住する。当時の連邦法では帰化が制限されていた。それでも地元の郡書記官ジェームズ・グウィンの計らいにより、1839年10月、二人はアメリカ市民権を取得した。

1840年代後半になると、二人はある英語姓を名乗るようになる。「バンカー」だ。ニューヨークで出会い敬愛していた、ある女性にちなんだ名前だった。

以後、二人は「チャン・バンカー」「エン・バンカー」として、地域社会に根を下ろした一員として生きていくことになった。

姉妹との結婚、21人の子供、そして「奴隷所有者」という顔

1843年4月13日、二人は同時に結婚式を挙げる。式を執り行ったのはバプテスト派の牧師コルビー・スパークスだ。花嫁はエイツ家の姉妹――チャンはアデレード・エイツと、エンはサラ・エイツと結ばれた。

全国紙はこの結婚を激しく非難した。ただし地元での反応は、比較的穏やかだったという。結合したまま暮らす二組の夫婦。この前代未聞の家族の形は、以後30年以上にわたって続いていく。

チャンとアデレードの間には10人、エンとサラの間には11人。合計21人もの子供が生まれた。二人はマウントエアリー近郊に、それぞれ別の家を構え、3日ごとに互いの家を行き来する「交代制」の生活を送った。

滞在している側の家では、その家の主である双子の一方が主導権を持つ。もう一方は口を挟まず従う。そういう不文律があったと伝えられている。日常の些細な決定から夫婦関係に至るまで、常に「もう一人の自分」が物理的にすぐそばにいる。その暮らしを、二人は半生をかけて成立させていたのだ。

彼らはまた、南部の裕福な農園主として奴隷を所有していた。小麦・ライ麦・トウモロコシ・オート麦・ジャガイモなどを生産する農場を経営していたことでも知られる。当時の新聞は、彼らの奴隷への扱いを「特に苛烈だった」と伝えた。ただし二人自身は、虐待の疑いを否定していた。評判と本人たちの言い分は食い違う。

南北戦争の時代には、彼らの結合状態そのものが政治的な寓意として利用されることもあった。『ニューヨーク・トリビューン』紙は、こんな寓話的な記事を掲載した。チャンが二人をつなぐ靭帯を黒く塗りたいと主張し、エンがそれに反対する。

黒は、奴隷制という争点を象徴する色である。そして当時の政治家が、この分離問題は両者にとって危険だと結論づける。そういう風刺を展開している。

戦後、二人は財産と奴隷の多くを失い、再び巡業生活に戻ることを余儀なくされた。今度は成功した壮年期の見世物としてではなく、病を抱えた息子たちを連れた、同情を誘う老いた双子としての巡業だった。

医学的な結合の実態――剣状突起で結ばれた「5インチの帯」

チャンとエンは医学的には「剣状突起結合双生児(xiphopagus twins)」に分類される。胸骨の下端、みぞおちのあたりから伸びる帯によって、二人は結ばれていた。帯の正体は、長さ約13センチメートルの柔軟な軟骨と皮膚である。

二人の肝臓はこの結合部を通じて融合しており、栄養や血液の一部が共有されていたとみられる。感覚が共有されていたのは、この結合バンドのちょうど中央部分のみだったと伝えられている。

当時の医学では、分離は極めて危険とされ実行されなかった。ただし現代の外科技術をもってすれば、比較的安全に分離できたであろう。そういう指摘も後年なされている。

死――「兄が死んだなら、私も逝く」

1870年、チャンは脳卒中を発症し、右半身に麻痺が残った。それでも二人は巡業や日常生活を続けた。1874年1月、チャンは気管支炎にかかる。

1月15日、寒さの厳しい中、家族は二人をエンの家へと移動させた。1月17日の朝、エンの息子の一人がチャンの死を発見した。そしてエンに、こう告げたと伝えられている。「チャンおじさんが死んだよ」。

それに対しエンは、こう答えたという。「それなら、私も逝くことになる」。

その言葉通り、エンはチャンの死からわずか2時間ほど後に息を引き取った。チャンの死因は解剖の結果、脳内血栓(脳血栓症)と判定された。一方でエンの死因は今も議論が分かれている。

当時の医師たちは「ショック死(恐怖による死)」と説明した。別の見方もある。死んだ兄の体へ血液が結合部を通じて逆流し、大量出血を起こしたのではないかとも推測されている。二人の融合した肝臓は、現在もフィラデルフィアのミュッター博物館に保存されている。150年以上経った今も、この特異な兄弟の存在を静かに物語り続けている。

ちなみに2006年の時点で、二人の子孫はおよそ1500人にのぼる。その中には、各界で活躍する人物も含まれている。空軍少将のケイレブ・V・ヘインズ、2013年ピューリッツァー賞受賞の作曲家キャロライン・ショウがいる。フロリダ州の元財務長官アレックス・シンクもそうだ。

結合双生児という現象そのもの――発生率と分類

結合双生児は、受精卵の卵割(細胞分裂)が不完全なまま進行することで生じるとされる。発生頻度はおよそ4万9000―18万9000出生に1組と推定されている。東南アジアやアフリカでやや発生率が高い傾向があるとも言われる。

出生児の約半数は死産である。生存して生まれても、さらに約3分の1が生後24時間以内に亡くなる。極めて厳しい現実がある。結合の部位によって、いくつかのタイプに分類される。

もっとも多いのが「胸臍帯結合双胎(約28%)」だ。胸部から臍にかけて結合し、多くの場合心臓を共有する。次いで多いのが「胸部結合双胎(約18.5%)」で、こちらは常に心臓を共有する。「臍結合双胎(約10%)」は、心臓は分離しているが他の臓器を共有することがある。

片方の発育が著しく不完全なのが「寄生型双胎(約10%)」である。頭蓋骨同士が結合し身体は分離しているのが「頭蓋結合双胎(約6%)」だ。そのほかにも、いくつかのタイプが知られている。

頭蓋結合の症例として世界的に知られるのが、1974年生まれのイラン人姉妹、ラダンとラレ・ビジャニのケースだ。成人してから2003年、シンガポールの病院で分離手術に臨んだ。ところが手術中に大量出血を起こし、姉妹は共に命を落とした。

一方で、分離を選ばず生きる道を選んだ例もある。有名なのが、1990年生まれのアビゲイル・ヘンゼルとブリタニー・ヘンゼル姉妹だ。骨盤の側部で結合した状態のまま、分離手術を受けることなく成人した。それぞれが教師の資格を取得して教壇に立つなど、社会人として自立した生活を送っていることで知られる。

結合の部位や共有臓器の重要度によっては、「分離手術を行わない方が生存率は高い」とされるケースも少なくない。結合双生児にとって「分離するかしないか」は、単なる医学的判断を超えた問題だ。家族の人生そのものを左右する重い選択となる。

チャンとエン・ブンカーの生涯を振り返る。そこにあるのは単なる「見世物としての奇形」の物語ではない。極限状況下で二つの人格がいかにして共存を成立させたか、という壮大な人間ドラマである。

二人は身体的に決して離れることができない。その絶対的な制約の中で、二人は常人には想像もつかない生活のルールを自ら作り出していった。それぞれが独立した妻を持ち、それぞれ大人数の子供をもうけ、それぞれの家で「自分の時間」を確保する。そういうルールである。

3日交代という取り決めは、単なる不便さへの対処ではない。二つの独立した人格を一つの身体の中でどうにか両立させるための、涙ぐましいまでの生存戦略だったと考えられる。同時に、彼らが南部の奴隷所有者であったという事実は、この物語を単純な「感動秘話」として消費することを許さない。

見世物として搾取される側から出発した二人が、後には人を所有し搾取する側に回った。この皮肉は、19世紀アメリカ南部という時代背景の残酷さを色濃く映し出している。そして何より象徴的なのが、その最期である。

「兄が死んだなら、私も逝く」というエンの最後の言葉。これは単なる感傷的な逸話ではない。剣状突起という肉体的な結合を通じて、二人は血液循環すら一部共有していた。その二人にとっては、文字通りの生理学的な現実だった可能性が高い。

医学は「死」を個人単位の出来事として扱う。それに対しチャンとエンの死では、二つの意識と一つの循環系が同時に終焉を迎える。現代の医学倫理ですら完全には説明しきれない特異点だったのである。

彼らの名は「シャム双生児」として二世紀近くも語り継がれている。単に見世物として有名だったからではない。「一つの身体で二つの人生を生き抜く」という、人類がめったに直面しない生のかたち。それを63年間という驚くほど長い年月をかけて体現してみせたからに他ならない。

呼び名が背負った二百年

「シャム双生児」という語は、チャンとエンの出身地に由来する。二人の興行名から一般化した歴史的呼称である。現在の医療では「結合双生児」が用いられる。出生地や民族を病態名に結びつけない呼び方だ。

念のため書いておくと、古い呼称を引用する場合はひとこと添える必要がある。二人がそう名乗る民族的類型だったのではない。特定の兄弟の知名度から広がった語である。

二人を「一つの体に二つの人格」と表すのも正確ではない。それぞれに頭部、胴体、四肢、心臓がある。胸骨下部の組織と肝臓の一部で結合していた二人の人間である。生活上の意思決定を調整したことと、医学的に一つの循環器を共有していたことは同じではない。

国立医学図書館が紹介する解剖記録では、結合した肝組織と血管が確認されている。十九世紀の分離が安全だったとは言い難いとされる。

死因は一つの逸話へ固定できない

一八七四年の死後、遺族の同意を得てフィラデルフィアで解剖が行われた。解剖に関する書簡、議事録、契約、支払い記録、分離手術の可能性を検討した報告。これらは資料群として、College of Physicians of Philadelphiaの歴史医学図書館に残る。現在ミュッター博物館に伝わる結合肝と石膏型も、この調査の過程に由来する。

チャンの死後、およそ二時間でエンも亡くなった。この経過は確かだ。ただしエンの死因を「恐怖」または「血液が兄へ流れたため」と一つに決めることはできない。解剖記録は結合部の構造を示す。しかし死亡直前の循環動態を連続測定した資料ではない。

後世の説明には、ショック、失血、血行動態の変化など複数の推測がある。最後の言葉とされる台詞も、家族の回想を経た記録として扱いたい。臨終時の録音のように引用しない方がよい。

「現代なら容易に分離できた」という断定にも注意が要る。画像診断、麻酔、輸血、血管外科が進歩した現在でも、結合部位、共有臓器、血管走行は症例ごとに異なる。分離の可否は同じ分類名だけでは決まらない。二人が分離を望むかという意思の問題もある。

分けることを当然の治療目標とせず、結合したままの生活の質と危険を本人中心に評価する。それが現代の医療倫理に近い。

自立と加害の歴史を同時に見る

二人は興行主の管理を離れ、自分たちで契約と舞台を運営し、英語を身につけ、土地と家族を得た。人種差別と身体の見世物化が強い社会で、観客の視線を収入と交渉力へ変えた。その主体性は軽視できない。

その一方、ノースカロライナで奴隷を所有し、奴隷労働を農場経営へ組み込んだ。この事実も消せない。搾取された経験が後の加害を免責するわけではない。

南北戦争後に資産を失い再び巡業した経過も、「自由を失って見世物へ戻った」という一方向の物語では収まらない。彼らは家族を支えるため、自らの身体と家族像を興行へ用いた。契約、新聞広告、写真、医学検査には、本人の選択と興行市場の圧力が同居している。

二人の生涯を、感動的な克服譚か残酷な見世物史のどちらかへ寄せない。その両方が重なった十九世紀の記録として読む必要がある。

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