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腹に開いた穴から胃の中が丸見えだった男――1822年、軍医は彼を契約書で縛りつけ、生きた胃に絹糸で肉を吊るし続けた11年間

一八二二年六月六日、マキノー島の店先で鳴った一発

その朝、五大湖のまんなかに浮かぶ小島は、たぶん北米大陸でいちばん人口密度の高い場所のひとつだった。ミシガン湖とヒューロン湖のあいだに突き出したマキノー島。オジブワの言葉で「大きな亀」を意味するミチリマキナックが縮まってこの名になった。毎年初夏になると、冬じゅう森の奥で罠を張っていた毛皮猟師たちが、束ねた毛皮を担いでこの島に集まってくる。アメリカ毛皮会社の年次取引の季節だ。会社を興したジョン・ジェイコブ・アスターは、この毛皮で合衆国最初の億万長者になった男である。港には交易用のカヌーがびっしり並び、店の前には数百人の男たちが列をつくる。フランス語、英語、オジブワ語、それに酒の匂い。

その列のなかに、アレクシス・ビダガン・ディ・サンマルタンがいた。ケベックのベルティエ生まれのフランス系カナダ人。身長は百六十五センチくらい、髪も目も黒く、体つきはがっちりしていた。職業はボヤジャー、つまり毛皮を積んだカヌーを漕いで先住民の集落と交易所のあいだを往復する運び屋だ。読み書きはできない。当時の辺境の若者としては、それがふつうだった。

午前中、店の中で銃が暴発した。散弾銃だったとも、マスケット銃だったとも記録は分かれる。ただ、距離だけははっきりしている。銃口はサンマルタンの左脇腹から一メートル足らず、いや、もっと近かったかもしれない。その場にいた者はのちにこう書き残している。「詰め物が体内に入った。服の切れ端も一緒にだ。彼のシャツは燃え上がった。彼は倒れ、われわれは死んだものと思った」。

散弾は左の脇腹に食い込み、人の手のひらほどの面積の皮膚と筋肉をまるごと吹き飛ばした。第六肋骨の前半分が持っていかれ、第五肋骨が折れた。左肺の下葉が裂けた。横隔膜が破れた。そして胃に穴が開いた。焼けた布と骨の破片と鉛の粒が、胸腔の中まで押し込まれていた。

「この男は三十六時間ももたない」

砦へ使いが走った。丘の上のマキノー砦には、駐屯地付き軍医のウィリアム・ボーモントがいた。島でただひとりの医者だ。走って三分。ボーモントが人垣をかき分けて現場に着いたとき、男たちはサンマルタンを寝台に乗せ、焦げた服を脱がせているところだった。

ボーモント自身の記述が残っている。事故から二十五分か三十分後に到着した彼が見たのは、こういう光景だ。「七面鳥の卵ほどの大きさの肺の一部が、外側の傷口から突き出していた。裂け、焼けていた。そのすぐ下にもう一つの突出物があり、調べてみるとそれは胃の一部で、すべての層を貫いて裂けており、その朝に食べた朝食を、人差し指が入るほどの大きさの穴から流し出していた」。

ボーモントは散弾と焦げた布を一つずつ取り出し、壊死した組織を切り落とし、酢とアンモニアの湿布を当てた。そして、その場にいた交易商のスチュアート氏に言った。「この男は三十六時間ももたない。またあとで見に来る」。

二、三時間後にまた来た彼は、思ったよりずっと状態がいいことに驚いた。翌日、さらに散弾と布を取り出し、傷口のぼろぼろになった縁を切り落とした。そしてスチュアート氏に、今度はこう告げた。回復するかもしれない、と。

そこからが地獄だった。傷は化膿し、悪臭を放ち、高熱が続いた。現代の目で当時のカルテを読めば、汚れた傷からの敗血症としか思えない。十一日目に熱が下がった。傷が治りはじめた。ただし食べたものは全部、脇腹の穴から出てきてしまう。十七日間、サンマルタンは口から栄養を取ることができなかった。ボーモントは「肛門からの栄養注入」で彼を生かした。要するに、栄養剤を浣腸で入れ続けたのだ。

やがて、丸めたリントの布を穴に詰めて絆創膏で押さえれば、食べたものが胃にとどまるようになった。腸が動きはじめた。それでも肋軟骨の膿瘍が何度も再発し、そのたびにボーモントは切除し、ワインと薄めた塩酸とアサフェティダの抽出液を塗った。麻酔はない。消毒という概念もまだない。事故から一年後の一八二三年六月六日、傷はほぼふさがっていた。ほぼ、というのは、一箇所を除いてという意味である。

塞がらなかった穴――皮膚と胃がくっつくということ

治癒の過程で、とんでもないことが起きていた。胃の壁に開いた穴の縁が、自分自身とくっつく代わりに、腹壁の皮膚の穴の縁とくっついてしまったのだ。医学的には胃皮膚瘻、フィステルと呼ばれる。周囲二・五インチ、直径にして二センチほどの、体の外から胃の内部へ直通する恒久的な通路。

そのままでは食べたものが漏れ出す。だがここでも体が勝手に工夫をした。胃の内側の粘膜が伸びてきて、穴の上に弁のようなふたを形成したのだ。この弁は内容物が漏れるのを防ぐが、外から指で押すとあっさり内側に押し込める。押し込めば、そこには生きて動いている人間の胃の内腔が、まるで小さな窓のように開けている。

ボーモントは縫って塞ぐことを提案した。傷の縁を新鮮にして癒着を促す処置も何度か試みた。だがサンマルタンは断った。もう十分に切られ、焼かれ、押さえつけられていた。彼はこれ以上のメスを拒否した。この「拒否」が、のちに彼の一生を決めることになる。ちなみに後年、「ボーモントは実験のためにわざと穴を塞がなかったのではないか」という疑惑が繰り返し語られたが、記録を精査した医学史家たちはこれを否定している。ボーモントは何度も閉鎖を試み、患者本人に断られた。それが実際のところだ。

貧民として国外へ送り返されかけた男

一年経って、サンマルタンは生きていた。だが二度とカヌーは漕げない。ボヤジャーとして森に入ることも、重い毛皮の梱を背負うことも、以前のようにはできない。彼には金がなかった。故郷のベルティエまでは数百マイル。地元の当局は彼を「貧民」に分類し、カナダへ送り返す手続きを始めた。当時の辺境で貧民に指定されるというのは、要するに公費で厄介払いされるということである。船に積まれて放り出されたら、この体で生き延びられる保証はどこにもない。

そこでボーモントが動いた。一八二三年の春、彼はサンマルタンを自宅に引き取った。表向きの理由は「純然たる慈善の動機と、彼の命を救う、あるいは少なくとももう少し楽にしてやりたいという気持ち」である。ボーモント自身がそう書いている。

だが、その少し前に起きたある夜の出来事が、この慈善の中身を微妙なものにしている。一八二三年五月三十日、ボーモントはサンマルタンに下剤を与えようとした。当時の標準治療だ。ところがそのとき彼は、口から飲ませる代わりに、小さな漏斗を使って脇腹の穴から直接胃に流し込むことを思いついた。誰の発案だったのかは永遠にわからない。ただ、ボーモントはその夜、いささか芝居がかった調子でこう書いている。「私は下剤を投与した。天地創造以来、人間に対してこのようなやり方で薬が投与されたことはなかったと思われる」。

その翌日、彼はサンマルタンに、うちに来て住まないかと持ちかけた。

使用人として、そして実験台として

サンマルタンはボーモント家の住み込みの雑用係になった。薪を割り、水を運び、荷を担ぎ、草を刈る。妻のデボラと、同居していた少年メランクトン・スミスがいる家庭のなかで、彼は下働きとして暮らした。ボーモントはのちにこう書いている。「この期間、実験の合間に彼は一般的な使用人のあらゆる務めを果たした。薪割り、荷運びなど、その傷からくる苦痛や不便はほとんど、あるいはまったくなかった」。

苦痛や不便はほとんどなかった、というのはボーモントの評価である。サンマルタン本人がそれをどう感じていたかを記した文章は、ほとんど残っていない。彼は字が書けなかったからだ。この物語の最大の欠落がここにある。私たちは、片方の声だけを聞かされている。

一八二五年八月一日、絹糸に吊るされた牛肉とキャベツ

正式な実験の第一回は、一八二五年八月一日の正午に始まった。場所はニューヨーク州のナイアガラ砦。ボーモントはここへ転任し、サンマルタンを連れてきていた。

当時の医学界には、こんな説があった。胃は食べ物を種類ごとに順番に消化していく。だから一度の食事でいろんなものを食べると消化不良になるのだ、と。ボーモントはそれを確かめたかった。

彼の記述はこうだ。「私は穴を通して胃の中に、以下の食品を絹糸で吊るし、適当な間隔で結わえつけて、痛みなく入るようにして導入した。すなわち、香辛料をきかせたアラモード風の牛肉一片、生の塩漬け脂身豚肉一片、生の塩漬け赤身牛肉一片、茹でた塩漬け牛肉一片、古いパン一片、そして生のスライスしたキャベツ一束」。

一時間後、糸を引き上げる。キャベツとパンは半分ほど溶けている。肉は変化なし。戻す。午後二時、アラモード風の牛肉が部分的に消化され、生の牛肉は表面が少しふやけている。胃液の匂いと味は「わずかに酸敗している」。ボーモントはここで書いている。「少年は胸のあたりにいくらかの痛みと不快を訴えた」。それでも戻す。次に引き上げたときには「胃に相当な苦痛と不快を訴え」、頭痛も出ていた。食べ物の状態はさっきとほとんど変わらず、液体はより酸敗して刺激的になっていた。「少年がまだ訴えているので、私はもうそれらを戻さなかった」。

なお、このとき「少年」と呼ばれている男は二十代である。年齢の記録は資料によって十八歳、十九歳、二十歳、二十八歳と割れている。洗礼記録をたどると一八〇二年四月八日生まれで事故当時二十歳、一方で一七九四年生まれ説をとれば二十八歳になる。ややこしいのは、彼には同名の兄がいて、その兄が一八〇二年一月に死んだ直後に生まれた弟が、死んだ兄と同じ名前をつけられたという事情があるからだ。ボーモント自身が「少年」と呼び続けたことも、若く見積もられる原因になった。

温度計、ゴム管、鵞ペン――胃という実験室

八月七日の記録は、この研究の性格をよく表している。

午前十一時、十七時間絶食させたサンマルタンの穴に、ボーモントは球部つき温度計のガラス管を差し込んだ。胃本来の温度を正確に知るため、管をほとんど全長にわたって押し込んだ。十五分ほどで水銀は華氏百度、摂氏三十七度台後半で止まった。次に管を入れて純粋な胃液を一オンス採取した。それを茹でて塩味をつけたばかりの牛肉一片とともにフラスコに入れ、外から熱を加えて華氏百度を保った。四十分で肉の表面に消化が始まった。午後一時、細胞組織が崩れ、筋線維がほぐれて浮いた。九時、完全に消化された。

そして翌日、同じ大きさの同じ肉を、今度は絹糸に結んでサンマルタンの胃の中に入れた。こちらは二時間で溶けた。フラスコの中では十時間かかったものが、生きた胃の中では二時間。ボーモントは正しく推論した。「撹拌がフラスコ内の溶解を加速した。表面の消化された層が取り除かれ、残りの肉が胃液に包まれ、この液体が未消化の部分に到達できるようになったからだ」。つまり胃の運動は、化学反応を助ける補助装置なのだ。

温度計を深く突っ込むのは、当然ながら痛い。ボーモントはそれも記録している。「幽門側の端に、けいれんのような激しい痛みと苦悶を与える。未消化の食物が胃にあるときに人がしばしば訴える感覚に似ており、あとに鈍い痛みを残す」。彼はたいていそこで手を止めた。だが、止めなかった記述も残っている。

胃液の採取には、ゴム管や鵞ペンの軸が使われた。採った胃液は瓶に詰められ、封をされ、外部の化学者へ送られた。バージニア大学の生理学教授ロブリー・ダングリソン、イェール大学の化学者ベンジャミン・シリマン。シリマンの紹介でスウェーデンの大化学者ベルセリウスにも送られた。このときの梱包が念入りで、瓶を強い革と紐で封じ、ブリキの箱に入れ、蓋を半田付けした。「誰にも開けられないように」と添え書きされている。冷蔵輸送のない時代だから、着いた頃には腐っていて分析を断られたこともあった。

ボーモントはサンマルタンの脇の下に胃液入りの小瓶を挟ませて歩き回らせることもした。体温が消化に与える影響を調べるためである。周囲の兵士たちは彼を「瘻孔のアレクシス」とか「胃にふたのついた男」と呼んだ。

逃亡――カナダへ帰り、妻を娶り、子をなす

一八二五年九月、バーモント州バーリントンを経てニューヨーク州プラッツバーグに滞在していたとき、サンマルタンは消えた。プラッツバーグからカナダ国境は目と鼻の先である。ボーモントの記録には、感情を押し殺したような一文がある。「その地から彼は私の同意を得ることなく、故郷であるカナダへ帰った」。

同意を得ることなく。この言い回しは、ボーモントがこの関係をどう理解していたかを端的に示している。

カナダに戻ったサンマルタンは、マリー・ジョリーと結婚した。子どもが生まれた。ハドソン湾会社と契約してボヤジャーに復帰し、また毛皮を積んだカヌーを漕いだ。脇腹に穴が開いたまま、である。彼の体はそれだけの労働に耐えた。この事実自体が、ある意味でこの物語の中でいちばん驚くべき部分かもしれない。

ボーモントは彼を探した。毛皮取引の伝手をたどり、モントリオールから五十七マイルほどの村で生活している彼を突き止めた。仲介者からの報告書には、「あなたの恩知らずな小僧」は結婚しており「筆舌に尽くしがたいほど貧しくみじめだ」と書かれていた。

連れ戻し、そして契約書

一八二九年、サンマルタンは家族をカヌーに乗せ、モントリオールからウィスコンシンのプレーリー・デュ・シーエンにあるクロフォード砦まで下ってきた。ボーモントはそこに四年間足止めされていた。

再開された実験は、以前より体系的になった。天候と胃の温度の関係。乾燥した日は上がり、湿った日は下がる。冷たい胃液は食物を溶かさない、つまり消化には熱が要る。野菜は肉より消化が遅い。牛乳は消化の初期に凝固する。運動は胃液の分泌を促す。空腹時の胃には胃液がたまっていない。

この最後の発見は美しい。一八三〇年三月十一日午前十時、胃は空だった。ボーモントは管を差し込んだが、胃液は一滴も出てこない。そこでパンくずをいくつか胃の内壁に触れさせた。すると胃液がたまりはじめ、管を通って流れ出した。彼はこう書いている。「パンくずは胃の内壁にくっついた。それはすぐにやわらかくなり、とけはじめた」。胃液は貯蔵されているのではない。刺激に応じて分泌されるのだ。この一点だけで、当時の消化理論はひっくり返る。

一八三一年四月、サンマルタン一家はまたカナダへ帰った。一八三二年秋、ボーモントは陸軍から休暇を取り、十月に彼を探し出した。妻子をプラッツバーグの実家に預け、サンマルタンを連れてワシントンへ向かった。

そしてこの一八三二年十月十六日、二人は契約書に署名した。ワシントン大学の医学図書館アーカイブに現存する「四箇条の合意書」である。内容は率直というより剥き出しだ。サンマルタンは、ボーモントの求めるあらゆる「哲学的または医学的実験」に自分の胃を供する。ボーモントは食事と住居と一切の経費を負担し、加えて一年につき百五十ドルを支払う。二年契約なら四百ドル。文書はボーモントの手で法律用語風に書かれ、末尾にサンマルタンは署名の代わりにバツ印を記した。字が書けなかったからだ。

これは、人体実験の条件を明文化した現存最古級の契約書とされている。同時に、被験者が読めない文書に印だけを押した契約書でもある。

ボーモントの当時の軍医としての給与は月額四十ドルだった。百五十ドルというのは、彼の四か月分近い給与に相当する。決してはした金ではない。だが、それが自由な取引だったかというと話は別だ。片方は職を失い、故郷から数百マイル離れ、家族を養えず、体に穴が開いている。もう片方は雇用主であり主治医であり、家主であり、名声を賭けた研究者である。

さらにボーモントは翌一八三三年、伝手を使ってサンマルタンを合衆国陸軍に軍曹として入隊させた。軍務の内容はただ一つ、ボーモントの実験台であること。契約に加えて軍規で縛ったわけである。

怒ると胃が白くなる

十一年間、二百三十八回。実験回数の数え方は資料によって二百三十八回、二百五十回、二百五十三回と揺れるが、公刊された記録の本数としては二百三十八が最も広く引かれる。

その中に、後世から見ると異様に先進的な観察がいくつも混ざっている。感情と消化の関係だ。

ボーモントは、実験を嫌がるサンマルタンが苛立ったときの胃の様子を記録している。胃の粘膜は色を失い、白っぽくなる。分泌が減る。食物が胃にとどまる時間が、機嫌のいいときの倍近くに延びる。そして怒りは胆汁を胃の中へ逆流させ、その溶解力を損なう、と彼は書いた。

現代の消化管心理生理学の言葉に置き換えると、これは情動による胃排出遅延と十二指腸胃逆流の記述である。二十世紀後半の研究で、感情の高ぶりが胃酸分泌を変化させ、胆汁逆流を起こし、胃排出を遅らせることは確認された。ボーモントは百五十年早くそれを見ていた。

ただし、この発見のためにボーモントが用意した「刺激」が何だったかを考えると、話は途端に生臭くなる。彼が観察した怒りの相当部分は、実験そのものに対する被験者の怒りだった。研究者が自分で作った苛立ちを、データとして採取していたのである。

一八三三年、自費出版された二百八十ページ

一八三三年、ボーモントはニューヨーク州プラッツバーグで『胃液と消化の生理に関する実験と観察』を自費出版した。印刷はF・P・アレン。定価三ドルの予定が、実際には二ドルで売られた記録が残る。紙質の悪さを揶揄する記事も出た。

内容は、二百三十八回の実験記録と、七章立ての生理学論考、そして末尾の五十一箇条の結論から成る。章立ては、食物について、空腹と渇きについて、満足と満腹について、咀嚼と唾液と嚥下について、胃液による消化について、絨毛膜の外観と胃の運動について、糜粥形成と胆汁および膵液の用途について。

五十一の結論のうち重要なものを並べると、こうなる。純粋な胃液は透明で無臭、わずかに塩辛く、はっきりと酸性である。それは塩酸を含む。胃液は空腹時には分泌されず、食物が胃に入ると分泌される。胃液は体外に取り出しても、適切な温度を保てば食物を溶かす。胃の運動は消化を助けるが、消化そのものではない。野菜は肉より消化が遅い。牛乳は最初に凝固する。健康な胃の粘膜は淡いピンク色をしている。胃の自然な温度は華氏百度である。運動は温度を上げ、横になっての休息は下げる。

これらは今日ではあまりに当たり前で、なぜわざわざ書くのかと思うかもしれない。だが一八三三年当時、胃が何をしているのかは本気で分かっていなかった。石臼のように食物をすりつぶしているのだという説、体内の熱で「煮ている」のだという説、発酵しているのだという説、腐敗しているのだという説が並立していた。イギリスの高名な解剖学者ウィリアム・ハンターは、この論争をこう茶化している。「ある生理学者は胃は石臼だと言い、別の者は発酵桶だと言い、また別の者は煮込み鍋だと言う。しかし私の見るところ、それは石臼でも発酵桶でも煮込み鍋でもない。諸君、胃は胃である」。

背後にはもっと大きな争いがあった。生気論である。生命には物質や化学では説明できない「生命力」が宿っている、という考え方だ。消化は非生命を生命に変換する現場だから、生気論者にとっては最重要の陣地だった。そこに、体外の瓶の中でも肉を溶かす液体が実在するという証拠が投げ込まれた。ボーモントはこの論争を知らなかった。辺境の軍医だったからだ。彼はただ、見えたものを几帳面に書いただけである。だからこそ強かった。

一八二四年にイギリスのウィリアム・プラウトが動物の胃液に塩酸が含まれることを示していたが、あまりに強い酸なので体内に無害で存在しうるとは信じられていなかった。ボーモントはそれを人間で確定させ、さらに胃液が胃の内壁から分泌されることを突き止めた。のちにテオドール・シュワンがペプシンを命名し、ボーモントの観察に化学の裏付けがついていく。

本はまずヨーロッパで評価され、それから逆輸入のかたちでアメリカで評価された。フランスのクロード・ベルナールが関心を示し、イギリスとドイツの生理学者たちが引用した。アメリカ人が書いた最初の世界的な生理学書だった。

証言一・その場にいた男の記録

事故の目撃者の証言は、のちの伝記で繰り返し引かれてきた。文章はこうである。

「六月六日の朝、若いフランス系カナダ人のアレクシス・サンマルタンが会社の店の前に立っていた。仲間の一人が散弾銃を持っていて、それが暴発し、装薬のすべてがサンマルタンの体に入った。銃口は彼から三フィートも離れていなかった。私の考えでは二フィート以下だ。詰め物が体内に入った。服の切れ端も一緒にだ。彼のシャツは燃え上がった。彼は倒れ、われわれは死んだものと思った。砦の外科医ボーモント医師がただちに呼ばれ、ごく短時間で、おそらく三分ほどで負傷者のもとに着いた。われわれはちょうど彼を寝台に乗せ、服の一部を脱がせているところだった。医師は散弾の一部と服の切れ端を取り出し、傷を丁寧に手当てしたあとで彼を残し、こう言った。『この男は三十六時間ももたない。またあとで見に来る』。二、三時間後に再び訪れたとき、彼は予想よりよい状態であることに驚きを表した。翌日、さらに散弾と服を取り出し、傷のぼろぼろの縁を切り落としたあと、私の面前でスチュアート氏に、回復するだろうと思うと告げた」。

短い文章だが、情報量は多い。まず、ボーモントは三分で来た。田舎の軍医としては驚異的な初動である。次に、彼は「三十六時間」と宣告してから、それでも「またあとで見に来る」と言い残した。見捨てていない。そして翌日には見通しを修正している。この人物の観察力の速さと、記述の正直さがすでに出ている。それから、この目撃者の証言によって「暴発した銃は散弾銃だった」「距離は二フィート前後だった」という数字が固定された。あとの医学史はこの一節に依存している。

証言二・ボーモント自身が書いた最初の一段落

医学史でいちばん有名な段落は、たぶんこれである。

「彼は一ヤードと離れていない距離から発射されたマスケット銃によって、偶然に負傷した。武器の内容物、すなわち火薬と鴨撃ち用の散弾は、彼の左脇に入った。装薬は斜め前方内側に向かい、人の手のひらほどの広さの皮膚と筋肉を文字どおり吹き飛ばし、第六肋骨の前半分を持ち去り、第五肋骨を骨折させ、左肺の最下葉の下部を裂き、横隔膜と胃を穿孔した。発射物の全量が衣服の断片とともに、筋肉と胸腔の中へ打ち込まれていた。事故の約三十分後にボーモント医師が最初に見たとき、七面鳥の卵ほどの大きさの肺の一部が外傷から突出しているのが見つかった。突出した肺は裂け、焼けていた。そのすぐ下にもう一つの突出物があり、それは全層にわたって裂けた胃の一部であることが判明した。人差し指が入るほどの大きさの穴から、彼が朝食に取ったものの残りが染み出していた」。

この文章が異様なのは、書き手が興奮していない点である。手のひら大の欠損、七面鳥の卵大の肺、指の入る穴。どれも凄まじい形容なのに、文体は淡々と即物的だ。ボーモントは徒弟修業だけで医師免許を得た男で、大学で科学の訓練を受けたことは一度もない。にもかかわらず、彼の記述はほとんど近代的な症例報告の書式になっている。若い頃から症例記録と剖検所見を執拗に書き溜める癖があったという証言もある。この几帳面さがなければ、瘻孔は単なる珍しい傷跡で終わっていた。

同時に、この文章にはサンマルタンという人間がいない。あるのは器官と組織と穴である。この視線の性質が、以後十一年の関係のすべてを規定した。

証言三・サンマルタンが送った手紙

サンマルタンの声はほとんど残っていない。字が書けなかったからだ。彼の名で残る手紙は、村の司祭か家族が代筆したものである。それでも数通が現存し、そこにははっきりと意思が刻まれている。

一八三四年六月二十六日、カナダのベルティエから、プラッツバーグのボーモント宛て。内容は端的に言って拒絶である。妻が反対しているのでそちらへは行けない、というのがその理由として記されている。妻マリーの反対という形をとってはいるが、これが最後の別離になった。以後四十六年、二人は二度と会わない。

一八七九年の手紙では、老いた彼はこう書かせている。六年前から病んでいる、胃瘻から少し苦しんでいる、消化はかつてないほど悪くなっている、と。同じ時期の関連書簡は、彼と家族の極貧を伝えている。モントリオールの弁護士ベビー判事は、八十代のサンマルタンについて「大変な飲酒癖があった」と述べている。

もうひとつ、一八五六年の記録がある。ボーモントの死から三年後、サンマルタンはセントルイスのボーモント邸を訪ねている。会ったのは未亡人のデボラだった。何を話したのかは分からない。その後も彼はボーモントの息子イズラエルと手紙のやりとりを続けた。

拒み続けた男が、相手の死後にその家を訪ねる。この一点に、この関係の割り切れなさが全部詰まっている。

証言四・弟が語った、葬儀の日の話

サンマルタンの葬儀の席で、弟のエティエンヌがある話をしたという。兄を「胃にふたのついた男」と呼んで嘲った男を、自分は刺した、と。

この短い証言は、他のどの資料よりも雄弁かもしれない。学術論文でも、伝記でも、契約書でもない。家族の記憶である。そこから見えるのは、二百三十八回の実験でも五十一の結論でもなく、村で笑い物にされ続けた一人の男と、それに耐えられなかった弟の姿だ。

医学史はサンマルタンを「幸運な症例」と呼んできた。彼を看取った人々にとって、彼は見世物にされた兄だった。

二十年の手紙攻勢、そして氷の階段

ボーモントは諦めなかった。一八三四年に陸軍でセントルイスのジェファーソン兵舎に配属され、一八三七年にはセントルイス大学医学部の外科教授になり、一八三九年に軍を辞めて開業医として成功した。そのあいだじゅう、彼はサンマルタンに手紙を書き続けた。

一八三六年、一八三七年、一八三八年、一八四〇年、一八四二年、一八四六年、一八五一年、一八五二年。手紙の内容は次第に必死になっていく。セントルイスへ来てほしい。講義で君を見せたい。ヨーロッパへ一緒に行こう。フランスにも行ける。フランス語話者の君が行きたがっていた国だ。報酬は上げる。家族の生活費も出す。仲介者を立て、旅費を前渡しし、最後には自分の息子を直接ケベックへ送り込んだ。

サンマルタン側の返事はいつも似ている。病気で旅ができない。天候が悪い。家族に不幸があった。冬のあいだ家族を残していけない。行けない。行けない。行けない。

書簡集を編んだウィリアム・オスラーが指摘しているように、ボーモントは手紙のなかでサンマルタンを「わが友」と呼び、子どもたちの様子を尋ね、息子が死んだときには悔やみを述べている。情がなかったわけではない。だが同時に、彼は最後まで自分の被験者を「取り戻す」ことを諦めていない。この二つは、彼のなかで矛盾していなかったらしい。

一八五三年三月、往診の帰りに、ボーモントは氷の張った階段で足を滑らせた。頭を強く打った。傷は軽いと見なされたが、彼は完全には回復しなかった。四月二十五日、首の癰が直接の死因となって死んだ。六十七歳。セントルイスのベルフォンテーヌ墓地に葬られている。

自宅の階段で転んで死んだ。人間の胃の中を初めて覗き込んだ男の最期としては、あまりにありふれている。

主人の死後――見世物と、断り続けた老人

サンマルタンはボーモントより二十七年長く生きた。その後半生は、平坦ではなかった。

ボーモントの死後、彼はバンティングと名乗る医師に伴われて合衆国とカナダを巡業した。金を取って瘻孔を見せる興行である。扱いはひどかったと伝えられる。この評判はP・T・バーナムの耳にも入り、興行師が彼の身柄を欲しがったという話まで残っている。

一八七九年、シカゴのラッシュ医科大学のジェームズ・H・エセリッジ医師から手紙が来た。医学講義のためにシカゴへ来て、学生たちの前で瘻孔を見せてほしい。報酬の交渉が七月から九月まで続いた。手紙はサンマルタン本人と、息子のアレクシス・ジュニアと、仲介者のあいだで往復した。話はまとまらなかった。

老人は断り続けた。カナダの故郷で、貧しく、酒を飲み、薪を割って暮らした。七十代後半になっても「コード単位で薪を割っていた」という新聞記事がある。妻マリーがいて、子どもは十七人いたと記録されている。あの穴を抱えたまま、彼は生き、働き、老いた。

一八八〇年六月二十四日、八フィートの墓

一八八〇年六月二十四日、アレクシス・サンマルタンはケベック州サン=トマ・ド・ジョリエットで死んだ。享年七十八とも八十三とも八十六とも記録される。事故から五十八年が経っていた。

そこから先が、この物語のいちばん強烈な場面である。

死の知らせは、すぐに医学界へ伝わった。モントリオールにいた若きウィリアム・オスラー――のちに近代臨床医学の父と呼ばれる、あのオスラーである――が動いた。剖検をさせてほしい。せめて胃だけでも譲ってほしい。ワシントンの陸軍医学博物館に収めるべき標本だ。彼はそう申し入れた。ほかにも同種の要請が複数あった。

遺族は全部断った。断っただけではない。彼らは遺体を六月の暑さのなかで自宅に置いたまま、腐敗するのを待った。科学にとって少しでも役に立たないようにするためである。四日後の六月二十八日に葬儀が行われたときには、遺体の腐敗はひどく、教会の中に入れることができなかった。棺は建物の外に置かれ、ミサはそのまま執り行われた。

埋葬にあたって、家族は墓穴を通常の六フィートではなく八フィート掘らせた。「レザレクショニスト」、つまり死体を掘り返して医学校に売る墓荒らしの手が届かないようにするためだ。墓標は立てなかった。どこに埋めたか分からないほうが安全だからである。

生涯を通じて、彼の体は他人の関心の対象だった。死んでもなお欲しがられた。それに対する遺族の答えが、腐らせることと、二メートル半掘ることと、名を刻まないことだった。

彼の埋葬地に石板が置かれたのは、それから八十二年後の一九六二年である。カナダ生理学会が建てたその板には、この近くの無名の墓に埋葬されている、と記されたうえで、最後にこう刻まれた。「彼はその苦難を通じて、全人類に奉仕した」。

美しい言葉だ。同時に、あまりに一方的な言葉でもある。彼が奉仕することを選んだ場面が、この物語のどこにあっただろうか。

「同意」はあったのか

近代の研究倫理は、いくつかの柱で立っている。自発的で、情報を与えられ、理解したうえでの同意。強制や不当な誘導がないこと。利益と危険の釣り合い。被験者がいつでも降りられること。これらが明文化されるのは、一九四七年のニュルンベルク綱領、一九六四年のヘルシンキ宣言、一九七九年のベルモント・レポートを待たなければならない。ボーモントの時代には、書かれた規則はどこにもなかった。

だからボーモントを現代の基準で断罪するのは筋が悪い、という擁護は昔からある。彼は当時の慣行の中で行動した。むしろ契約書を作った点で、同時代の多くの研究者より進んでいたとさえ言える。彼は自費で研究し、政府に補助を請願して断られ、それでも続けた。純粋な好奇心に動かされていた。金銭も払った。医療も与え続けた。全部本当である。

その上で、いくつかの事実は動かない。

第一に、被験者は文書を読めなかった。契約書はボーモントが書き、サンマルタンはバツ印を押した。内容が読み上げられ、通訳され、理解されたという記録はない。フランス語話者に対して英語の法律文書が渡されている。

第二に、拒否のコストが釣り合っていなかった。実験を降りるということは、住居と食事と収入と医療を同時に失うということだった。しかも唯一の主治医が実験者である。逃げるという選択はあったし、彼は実際に逃げた。だが逃げた先には貧困が待っていて、そのたびに彼は戻ってきた。「彼は自由に契約した」という説明は、選択肢の集合を見ないふりをしている。

第三に、実験は治療ではなかった。温度計を幽門まで押し込むことも、十七時間絶食させることも、生牡蠣を十二個直接胃に入れることも、彼の健康には一ミリも寄与していない。治療関係の外にある侵襲を、治療者が治療関係の権威を使って行った。研究倫理がのちに「治療上の誤解」と呼んで最も警戒するようになった構図が、そのまま出ている。

第四に、痛みの記録が残っている。ボーモント自身の手で。痛みを訴える記述があり、それでも続けた記述がある。彼はそれを隠さなかった。隠さなかったということは、それが咎められるべきことだと考えていなかったということでもある。

医学史の研究者アレクサ・グリーンは、この関係を「雇用と奉公と年季契約と兵役の言語で理解されていた」と分析している。つまり当時のアメリカには研究倫理という枠組みがなく、代わりに労働関係の枠組みが流用されたのだ。主人と使用人。雇主と年季奉公人。将校と兵卒。ボーモントがサンマルタンを軍に入隊させたのは、その象徴だ。研究参加という概念がないところでは、人は労働契約として身体を差し出すしかない。

ロナルド・ナンバーズが一九七九年に書いた論文以来、この事例は「アメリカにおける人体実験倫理の原型」として繰り返し検討されてきた。原型というのは、良い意味でも悪い意味でもある。契約という発想が生まれた原型であり、力の差がそのまま契約の顔をする原型でもある。

タスキギー、ヘンリエッタ・ラックス、そして共通する構図

サンマルタンの事例は、しばしば二つの二十世紀の事件と並べて論じられる。タスキギー梅毒研究と、ヘンリエッタ・ラックスである。

タスキギー梅毒研究は、一九三二年から一九七二年まで四十年にわたって、合衆国公衆衛生局がアラバマ州メイコン郡の黒人男性六百人余りを対象に行った観察研究である。うち約四百人が梅毒に感染していた。研究の目的は、治療しない梅毒が人体をどう蝕むかを見届けることだった。被験者たちは病名を知らされず、「悪い血」の治療を受けていると信じ込まされていた。一九四〇年代にペニシリンという確実な治療法が普及したあとも、彼らは治療から遠ざけられ続けた。一九六五年に医師アーウィン・シャッツが初めて正式に道義的な異議を申し立てたが、公衆衛生局はこれを無視した。一九七二年、記者ジーン・ヘラーの報道で全米が知るところとなり、議会公聴会を経て、国家研究法と国家委員会が生まれ、ベルモント・レポートが書かれた。

ヘンリエッタ・ラックスは、一九五一年にジョンズ・ホプキンス病院で子宮頸がんの治療を受けた三十一歳の黒人女性である。診断のために採取された腫瘍組織の一部が、本人にも家族にも知らせずに研究に回された。その細胞は史上初めて実験室で無限に増殖し続けるヒト細胞株、HeLa細胞になった。彼女は同じ年に亡くなった。細胞は生き続け、ポリオワクチンから遺伝子研究まで無数の成果を生み、巨額の商業的価値を生んだ。遺族は何十年ものあいだ、そのことを知らされてすらいなかった。

この三つを並べると、共通する骨格が見えてくる。

一つ目は、権力の非対称である。辺境の無学な移民労働者。南部の貧しい小作農。人種隔離下の黒人女性患者。いずれも医療者に対して交渉力を持たない位置にいた。研究対象になったのは、彼らが医学的に特別だったからだけではない。断りにくい位置にいたからでもある。

二つ目は、説明の欠如である。サンマルタンは読めない契約書に印を押した。タスキギーの男たちは「悪い血」と言われた。ラックスの家族は何も言われなかった。情報を与えないことは、同意を無効にする最短経路だ。

三つ目は、成果の帰属である。ボーモントは国際的名声を得て、彼の名を冠した病院と医科大学が今も存在する。タスキギー研究は論文になった。HeLa細胞は産業になった。被験者側は、極貧、無治療、無名のままだった。サンマルタンの墓に石板が置かれたのは死後八十二年、タスキギーへの大統領の公式謝罪は一九九七年、ラックス家との協議が始まったのは二〇一三年である。承認はいつも、遅れてやってくる。

もちろん違いもある。タスキギーは有効な治療を意図的に与えなかった点で、能動的な加害だ。ボーモントは少なくとも命を救い、医療を提供し続けた。ラックスの件では組織の採取自体は治療の一部であり、問題はその後の利用にあった。三者を同じ罪状で並べるのは乱暴だろう。

それでも並べる価値はある。なぜなら、悪意のある研究者はむしろ例外だからだ。ボーモントは誠実な人間だったと思う。几帳面で、勤勉で、患者を見捨てず、金を払い、記録を改竄しなかった。それでもこの関係は歪んでいた。倫理の問題は、悪人が現れるから起きるのではない。善意の人間が、圧倒的な力の差の上に立って、それに気づかないから起きる。だから規則が要る。ニュルンベルク綱領の第一原則が「被験者の自発的同意は絶対に不可欠である」という一文から始まるのは、そういうことだ。

なぜこの話は二百年経っても語られるのか

この物語が持つ引力には、いくつかの層がある。

まず単純に、絵として強い。人間の腹に穴が開いていて、指で押すと胃の中が見える。医者がそこに紐で肉を吊るして、時間ごとに引き上げる。この画は一度聞いたら忘れられない。ホラーではなく実話であることが、さらに効く。

次に、この話には「見る」ことの禁忌が含まれている。人体の内側は、本来なら死体を切り開いたときにしか見えない。生きたまま内臓を覗くというのは、生と死の境界の反則である。放射線も内視鏡もない時代に、その反則が偶然に許可されてしまった。医学の進歩の大半は、この「見えないものを見る」という一点に賭けられてきた。ボーモントの物語は、その原初の場面なのだ。

そして三つ目に、この話は誰の側にも立てない。ボーモントを悪役にすると、彼が救った命と、彼が作った学問と、彼が最後まで払い続けた金銭が説明できない。サンマルタンを純粋な被害者にすると、彼が四度も戻ってきたことと、生涯にわたって手紙をやりとりし続けたことが説明できない。二人の関係は、搾取でも友情でもなく、その両方が同じ形をしていた。人はそういう話を、簡単には手放せない。

四つ目。この物語には、はっきりした「勝ち」がある。人類は消化の仕組みを知った。胃酸が肉を溶かすことを知り、感情が胃を変えることを知り、それが後の胃カメラにも、胃瘻栄養にも、消化性潰瘍の治療にもつながった。今日、鎮静剤でうとうとしているあいだに終わる胃内視鏡検査の系譜をたどっていくと、その根元にサンマルタンの脇腹の穴がある。犠牲が無駄ではなかった、と言いたくなる。だがその一文を口にした瞬間に、私たちはボーモントと同じ論法を使っていることになる。ここが、この話が二百年経ってもきれいに終わらない理由である。

疑われてきたこと、否定されたこと

この事例には、繰り返し語られてきた俗説がいくつかある。整理しておく。

「ボーモントは実験を続けるためにわざと瘻孔を閉じなかった」という説。これはかなり広く流布したが、記録の裏づけがない。ボーモントは複数回にわたって癒着を促す処置を試み、最終的に瘻孔を切除して縫合する手術を提案している。断ったのはサンマルタンのほうだ。一九五〇年代の医学雑誌でも「意図的に開いたままにしたと言われることがあるが、権威ある調査はこれを否定している」と明記されている。

「サンマルタンは十八歳だった」という説。これも定着しているが、洗礼記録との照合から一八〇二年四月生まれで事故当時二十歳とする説が有力である。一方で一七九四年生まれとする資料も少なくなく、その場合は二十八歳になる。享年も七十八、八十三、八十六と揺れる。ボーモントが著書のなかで彼を一貫して「少年」と呼んだことが、若年説を強化した。

「実験は二百三十八回」という数字。公刊記録の集計として最も広く使われるが、非公式の観察を含めれば二百五十回超とする資料もあり、マキノー島の史跡の記述では約二百五十回とされている。ボーモント自身は出版前の広告文で「約二百回」と書いていた。数え方の問題であって、どれかが嘘というわけではない。

「銃はマスケットか散弾銃か」。目撃者は散弾銃と述べ、ボーモントは著書でマスケットと書いた。装薬は火薬と鴨撃ち用の散弾だったという点では一致している。当時の辺境では滑腔銃に散弾を詰めるのが普通で、呼び名の違いにすぎない可能性が高い。

「ボーモントは無学な田舎医者だった」という語り。徒弟修業のみで免許を得たのは事実で、大学教育も科学の訓練も受けていない。だがオスラーが「バックウッズの生理学者」と呼んだのは揶揄ではなく敬意である。設備も同僚も文献もない場所で、彼は仮説を立て、条件を変え、対照を取り、結果を記録した。方法論を教わらずに方法論を実践した。この点は、どれだけ倫理を問題にしても差し引かれない。

穴は前例があった。十一年間離さなかったことのほうが異常だった

改めて全体を見渡すと、この事件の核心は「穴」ではなく「関係」にあると思う。

腹に開いた穴そのものは、実は前例がないわけではない。ボーモントの伝記を編んだジェシー・マイヤーは、サンマルタン以前の胃瘻症例の文献を三百ページ近い巻末で列挙している。銃創で、刃物で、あるいは腫瘍で、胃と体表がつながってしまった人間は過去にも記録されていた。だがそのどれも、まとまった知見を生まなかった。理由は単純で、そういう患者はたいてい死ぬか、医者のもとを離れるか、医者のほうに十一年間ひとりの人間を追い続ける執念がなかったからだ。

つまり、この物語を成立させたのは瘻孔ではなく、十一年間にわたって同じ被験者を確保し続けたという事実である。そして、その確保のために使われた手段が、住居であり、食事であり、賃金であり、契約書であり、最後には軍籍だった。科学史が「二百三十八回の実験」と呼んでいるものの実体は、二百三十八回の交渉と説得と拘束の記録でもある。

ここで気づくのは、近代の臨床研究がいま抱えている問題と、構造がほとんど変わっていないことだ。長期の追跡研究において、被験者をどう繋ぎ止めるか。謝礼はいくらまでなら「不当な誘導」にならないか。経済的に困窮している人が高額の謝礼につられて危険な試験に参加するとき、その同意はどこまで自発的か。ベルモント・レポートが「不当な影響は、過度の、不当な、不適切な、あるいは不正な報酬の提供によって生じる。通常なら許容される誘因も、被験者が特に脆弱な場合には不当な影響になりうる」と書いているのは、まさにこの問題である。百五十ドルは、ボーモントにとっては四か月分の給料、サンマルタンにとっては生存の条件だった。同じ金額が、二人にとって別の意味を持っていた。この非対称は、二〇二六年の治験でも消えていない。

もうひとつ深掘りしておきたいのは、記録の非対称についてである。

この事件について私たちが知っていることの九割以上は、ボーモントの手による。実験ノート、著書、書簡、伝記。対するサンマルタン側の一次資料は、代筆された数通の手紙と、家族の口伝と、村の記録だけだ。しかもその代筆された手紙ですら、多くは司祭が書いており、そこに彼自身の言葉がどれだけ残っているかは分からない。

歴史というのは、文字を書ける側が書くものだ。この事例はその原理をあまりに露骨に体現している。だから後世の研究者たちは、わずかな痕跡を必死で読んできた。「少年は胸に痛みを訴えた」という一行。「彼は私の同意なくカナダへ帰った」という一行。「妻が反対している」という断りの手紙。葬儀で弟が語った刺傷の話。腐敗を待った四日間と、八フィートの墓穴。これらは全部、記録の隙間からこぼれた抵抗の痕跡である。

とりわけ最後の場面には、はっきりした意思がある。オスラーが胃を欲しがった。遺族は断った。断るだけなら簡単だが、彼らはそれでは足りないと判断した。だから腐らせた。教会に入れられないほど腐らせた。そして二メートル半掘って、名を刻まずに埋めた。あれは葬儀ではなく、防衛である。生涯にわたって観察対象であり続けた人間の遺体を、観察の対象から永久に外すための、家族による最後の実力行使だった。

この「腐敗を待つ」という選択は、医学史のなかでほとんど唯一と言っていい種類の抗議だと思う。声明も訴訟も抗議集会もない。ただ、遺体を役に立たなくすること。それだけで、彼らは学問という巨大な装置に対して勝った。オスラーは胃を手に入れられなかった。陸軍医学博物館の棚に「サンマルタンの胃」というラベルの標本は存在しない。

そのことを、私は少し痛快に思う。同時に、そこまでしなければならなかったのか、とも思う。

ボーモントについても、もう少し公平に見ておきたい。彼はサンマルタンを最後まで気にかけていた。「わが友」と呼び、子どもの安否を尋ね、息子の死に悔やみを述べた。医療を提供し続けた。金を送った。彼のなかでは、この関係は搾取ではなかっただろう。おそらく彼は、自分は命を救い、生活を与え、報酬を払い、そのうえで人類に貢献しているのだと本気で信じていた。

問題は、その信念が正しかったかどうかではない。その信念を検証する仕組みが、当時どこにも存在しなかったことである。倫理審査委員会は、研究者が悪人だから存在するのではない。研究者が自分の善意を過大評価する生き物だから存在する。ボーモントには、それを止める人も、問い直す仕組みもなかった。彼の周囲にいたのは、彼を賞賛する同僚と、断りにくい被験者だけだった。

そう考えると、この物語の教訓は「昔の医者はひどかった」ではない。「一人の善意ある人間に、他人の身体をめぐる判断を独占させてはいけない」である。これは今日の医療にも研究にも、そのまま当てはまる。

科学的な遺産についても整理しておく。ボーモントの五十一の結論のうち、現代の生理学から見て明確に誤っているものはほとんどない。胃液の主成分が塩酸であること、それが胃壁から分泌されること、分泌が食物の刺激に応答すること、消化が化学過程であること、運動がそれを促進すること、食品によって消化速度が異なること、体温が消化に必要であること、感情が消化を変えること。この八点だけで、消化生理学の基礎がほぼ揃っている。彼は栄養素を単一の「アリメント」と考えるなど、間違った一般化もしている。だが観察そのものは正確だった。

そして、その延長線上に何があるかを考えると眩暈がする。一八三六年のペプシン発見。一九〇〇年前後のパヴロフによる胃液分泌の神経性調節の解明。二十世紀の胃酸分泌機構の研究。H2ブロッカーとプロトンポンプ阻害薬。ヘリコバクター・ピロリの発見。内視鏡の発達。そして、口から食べられなくなった人の栄養路として人工的に作られる胃瘻という技術そのもの。サンマルタンの脇腹に偶然できたものが、いまや外科的に、あるいは内視鏡的に、意図して作られる医療手技になっている。彼の不幸が、そのまま治療の形になった。

最後に、この物語がホラーとして語られるときの手触りについて。

怖いのは血ではない。怖いのは、あの淡々とした文体である。「少年は胸のあたりにいくらかの痛みと不快を訴えた。私はそれらを胃に戻した」。この二文のあいだにある空白が怖い。訴えを聞いた。記録した。そして続けた。悪意はどこにもない。ただ、目の前の人間が痛がっていることと、実験を続けることが、書き手のなかで矛盾していない。その平然さが、読む者の背筋を撫でていく。

怪談は、人ならざるものが人を害するから怖い。この話が怖いのは、まったく人間らしい人間が、まったく合理的な手順で、目の前の人間を素材として扱いきったからだ。そしてそれが、二百年後の私たちが恩恵を受けている知識の出どころだからである。

胃カメラを飲んだことがある人なら、あの検査台の上でぼんやり考えてみてほしい。喉を通っていく細い管の先には、二百年前にマキノー島の店先で鳴った一発の銃声がつながっている。腹に穴の開いた男が、絹糸に吊るされた牛肉を胃に入れられて、痛いと言い、それでも十一年間そこにいた。その記録の上に、今日の医療は載っている。

彼の墓には名前が刻まれなかった。刻まれたのは、死後八十二年経ってから置かれた石板の上の一文だけである。「彼はその苦難を通じて、全人類に奉仕した」。

奉仕という言葉は、選んだ者にしか使えないはずの言葉だ。彼が選んだ場面を、私はこの記録のどこにも見つけられなかった。だから、せめてこう書き直しておきたい。全人類は、彼から受け取った。受け取ったことを、忘れないでいる。それが、同意を取り損ねた側にできる唯一のことである。

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