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生きているのに脳がスポンジになる――クロイツフェルト・ヤコブ病と狂牛病、DNAもRNAも持たない「ただのタンパク質」が人を殺すまでの全記録

最初は、ただ「字が下手になった」だけだった

六十八歳の男性がいたとする。名前は仮にKさんとしておく。ここに書くのは、日本と欧米で積み上げられた孤発性クロイツフェルト・ヤコブ病の典型的な経過を、一人の人物にまとめ直したものだ。特定の誰かの話ではない。でも、実際に起きていることの並びは、ほぼこの通りだ。

最初の異変は、家計簿だった。Kさんの奥さんが気づいた。夫の書く数字が、なんだかふにゃふにゃしている。枠からはみ出す。前はもっときっちり書く人だった。奥さんは笑って言った。「あなた、老眼進んだんじゃないの」。Kさんも笑って「そうかもな」と答えた。そこで話は終わった。九月の終わりごろのことだ。

十月に入って、Kさんは階段でつまずくようになった。二回、三回。転んだわけじゃない。ただ、足がうまく段に乗らない。整形外科に行った。膝は何ともない。次に眼科に行った。視力はそこそこ落ちているが、白内障くらいで、転ぶほどじゃない、と言われた。医者は「疲れじゃないですかね」と言った。Kさんは町内会の役員をやっていて、その年は秋祭りの当番だった。忙しかったのは本当だ。

十一月。奥さんが本気で怖くなった出来事がある。Kさんが、玄関でずっと立っていた。靴を履こうとして、右足を上げたまま、固まっている。奥さんが「どうしたの」と声をかけると、Kさんは振り向いて、こう言った。「これ、どっちだったかな」。靴の左右の話だ。四十年連れ添った夫が、靴の左右がわからなくなっていた。

そこからは早い。ここがこの病気のいちばん残酷なところで、認知症といえば普通は年単位でゆっくり進むものだと、みんな思っている。Kさんの場合、十一月から十二月の一か月で、家族の顔がわからなくなった。孫の名前が出てこない。娘を「お姉さん」と呼ぶ。夜中に起き出して、玄関の鍵を開けようとする。しかも、その途中でまた固まる。

十二月の半ば、大学病院に入院した。ここで初めて「クロイツフェルト・ヤコブ病の疑い」という言葉が出た。脳波に周期性同期性放電という特徴的な波が出て、頭部MRIの拡散強調画像で大脳皮質がリボンのように光った。髄液からは14-3-3蛋白が出た。今ならRT-QuICという、髄液の中で異常プリオンに正常プリオンを食わせて増やす検査もある。医者は家族に説明した。治療法はありません、と。奥さんは聞き返した。「進行を遅らせる薬も、ないんですか」。医者は「ありません」と答えた。

年明け、Kさんの体はビクッと跳ねるようになった。ミオクローヌスだ。全身が、電気を流されたみたいに一瞬だけ縮む。眠っているときも起きる。音に反応して起きる。ドアが閉まる音で、ベッドの上のKさんの腕がバチンと跳ねる。奥さんは、それを見るのがいちばんつらかったと後で言った。「痛くないんですか」と看護師に聞いたそうだ。本人が痛がっているようには見えない。でも見ている側の心臓が持たない。

二月。Kさんは喋らなくなった。無動性無言という状態だ。目は開いている。まばたきもする。呼びかけると、目玉がわずかにこちらを向くこともある。でも動かない。声も出ない。手足はだんだん曲がったまま固まっていく。奥さんは毎日病院に通って、Kさんの手を握って、その日の天気とか、庭の水仙が咲いたとか、そういうことを話した。返事はない。三月の終わり、Kさんは肺炎を起こして亡くなった。最初に家計簿の字がおかしいと言われてから、七か月だった。

これが、孤発性クロイツフェルト・ヤコブ病だ。原因はわからない。感染したわけでも、遺伝でもない。ある日、脳の中のタンパク質が一つ、勝手に形を変える。それだけで、こうなる。

スポンジ、というのは比喩ではない

Kさんの脳を顕微鏡で見ると、そこには穴が空いている。無数の、小さな空胞。神経細胞と神経細胞のあいだが、ぼこぼこに抜けている。海綿状変性という。海綿、つまりスポンジだ。これは「スポンジのようにスカスカになる」という文学的な表現ではなくて、標本を見た人間が、見たままを言葉にしただけのものだ。

もっと厄介なのは、その穴が空いていく過程で、本人はまだ生きているということ。脳が壊れているのに、心臓は動いている。呼吸もしている。目も開いている。壊れかたが速すぎて、体のほうが追いつかない。生きているのに脳がスポンジになる、というのはそういう意味だ。

そして、この穴を開けている犯人が、とんでもないシロモノだった。

遺伝子を持たない病原体、という「あり得ない話」

生物学には長らく、動かせない前提があった。生き物であれ病原体であれ、増えるものは設計図を持っている。DNAかRNAだ。細菌もウイルスも、そこは同じ。設計図をコピーして増える。だから設計図を叩けば止まる。これが常識だった。

ところが一九六六年、ティクヴァ・アルパーという研究者が、ロンドンでとんでもない実験結果を出す。羊のスクレイピーという病気の病原体に、紫外線を当てた。核酸を壊すには十分な量だ。ウイルスなら死ぬ。ところが感染力が落ちない。翌一九六七年、数学者のJ・S・グリフィスが、この結果を説明する仮説をNature誌に書いた。病原体は核酸を持たないタンパク質かもしれない、と。ただし、これはあくまで紙の上の話だった。誰も本気にしなかった。

本気にした男が一人いた。スタンリー・B・プルシナー。カリフォルニア大学サンフランシスコ校の神経内科医だ。研修医だった一九七〇年代のはじめ、彼は自分の患者がクロイツフェルト・ヤコブ病で死んでいくのを目の前で見ている。何もできなかった。そこから十年、彼はハムスターの脳をひたすらすり潰し、感染力のある成分だけを取り出そうとした。地味で、金がかかって、成果が出るかどうかもわからない仕事だった。

そして一九八二年、プルシナーはScience誌に論文を出す。スクレイピーの感染因子は、タンパク質分解酵素で壊れるが、核酸を壊す処理では壊れない。つまり、これはタンパク質だ。彼はこの因子に名前をつけた。プリオンである。タンパク質性の感染粒子、を意味する英語をひねって作った造語だった。発音しやすさを狙って、わざと文字を並べ替えたとも言われている。

学界の反応は、控えめに言って最悪だった。核酸なしで増える病原体、というのは当時の生物学の根っこを否定する話だ。多くのウイルス学者は、プルシナーがまだ見つかっていない「遅発性ウイルス」を見落としているだけだと考えた。標本の中に、微量のウイルス核酸が隠れているに決まっている、と。プリオン説は「異端」と呼ばれ、プルシナー本人は、記者に語りすぎる目立ちたがりだと批判された。研究費を切られかけたこともある。同僚から距離を置かれた時期もあった。

それでも証拠は積み上がった。プリオンタンパク質をコードする遺伝子が見つかり、それが正常な動物の脳にもともとあることがわかった。つまり病原体は、外から来た異物ではなく、自分の体が最初から持っているタンパク質の「形が変わったもの」だった。正常型と異常型は、アミノ酸の並びがまったく同じで、折りたたまれ方だけが違う。そして異常型は、隣にいる正常型に触れて、自分と同じ形に変えてしまう。ドミノだ。設計図をコピーするのではなく、形を伝染させる。

一九九七年、プルシナーはノーベル生理学・医学賞を受賞した。それでも論争が完全に終わったわけではない。日本でも生物学者の福岡伸一が、プルシナーの実験手法とデータの解釈には穴があり、未知のウイルスでも同じ現象を説明できる、という趣旨の議論を本にまとめている。ただ、現在の主流はあくまでプリオン説で、反対論は少数派にとどまる。試験管の中で人工的に作ったプリオンタンパク質だけで感染性が再現できた、という報告も出ており、旗色は年々はっきりしてきている。

その前に、人間はすでにこの病気を食べていた

プリオンという言葉が生まれる何十年も前、パプアニューギニア東部高地に住むフォア族の人々のあいだで、奇妙な病気が広がっていた。クールーという。震え、という意味だ。歩けなくなり、笑っているような表情になり、震えが止まらなくなって死ぬ。犠牲者の多くは女性と子どもだった。

一九五〇年代後半、アメリカの小児科医ダニエル・カールトン・ガジュセックが現地に入り、オーストラリア人医師のヴィンセント・ジガスと共に調査した。そして、フォア族には死者を弔うために遺体を食べる習慣があること、脳を分けてもらうのが主に女性と子どもであることを突き止めていく。ガジュセックはクールー患者の脳をチンパンジーに接種し、数年後にチンパンジーが同じ病気を発症するのを確認した。感染症だったのだ。彼は一九七六年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。ただしガジュセックは晩年、ニューギニアから連れ帰った少年らへの性的虐待の罪で有罪判決を受けており、その業績と人格は切り離して語られることが多い。

このクールーの潜伏期間が、また恐ろしい。食人の習慣は一九五〇年代に禁止されたのに、その後五十年以上経ってから発症した人がいる。プリオン病というのは、そういう時間感覚の病気だ。

何もしていないのに、なる。孤発性という型

プリオン病のうち、圧倒的に多いのがこの孤発性クロイツフェルト・ヤコブ病だ。日本のサーベイランス委員会が一九九九年四月から二〇二四年九月までに登録したプリオン病はおよそ五千二百六十例で、そのうち孤発性が三千九百八十八例、全体の七十六パーセントほどを占める。発症率は世界中どこでも人口百万人あたり年間一人前後で、日本でも欧米でもアフリカでも、ほぼ変わらない。文化も食習慣も違うのに同じ数字が出る、というのがこの型の不気味なところだ。

発症のピークは六十代から七十代。日本のデータでは七十代の罹患率が人口百万人あたり八点八三と最も高い。原因は、いまのところ「偶発的なミスフォールディング」としか説明できない。脳の中で毎日大量に作られているプリオンタンパク質のうち、たまたま一個が変な形に折れる。普段はそれを片づける仕組みが働くのだが、何かの拍子に片づけそこねる。すると連鎖が始まる。宝くじみたいな話だが、当たれば必ず死ぬ宝くじだ。

経過はKさんの例そのままで、急速に進む認知症、ミオクローヌス、小脳失調、そして無動性無言。発症から死亡までは、多くが一年以内。日本の統計では中央値でおおむね一年から一年半、二年を超えるケースは少ない。

眠れなくなる家系と、歩けなくなる家系

遺伝性のプリオン病もある。日本の登録では千百五十九例、全体の二十二パーセントで、これは世界的に見てもかなり高い比率だ。日本で多い変異はV180I、次いでP102L、E200Kと続く。

このうちP102Lという変異が起こすのが、ゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー病だ。一九三六年にオーストリアの三人の医師が報告した家系にちなんで名前がついている。この病気は、認知症より先に歩行のふらつきが来る。酔っ払っているようによろける。それが何年もかけてゆっくり進む。孤発性CJDが数か月から一年で駆け抜けるのに対して、こちらは五年、十年と続くことがある。長い分だけ、家族は長く見ていることになる。

そして、致死性家族性不眠症。プリオンタンパク質遺伝子の百七十八番目のコドンでD178Nという変異が起き、なおかつ百二十九番目のコドンがメチオニンだと、この病気になる。一九八六年、イタリアのボローニャ大学のエリオ・ルガレージらがNew England Journal of Medicine誌に報告した。舞台はヴェネト地方のある一族で、その家系図をたどると、記録は十八世紀まで遡れるという。一七六五年に、眠れなくなって死んだ男の記録が残っている。

この病気の経過は四段階で語られる。まず眠れなくなる。ただの不眠ではない。眠ろうとしても、脳が眠りに入る扉を閉ざしてしまう。同時に妄想や恐怖が出る。次に幻覚と自律神経の暴走。汗が止まらない、脈が速い、瞳孔が縮む、血圧が上がる。三段階目で、睡眠は完全に消える。まったく眠れないまま、意識だけがある。最後に認知機能が崩れて、死ぬ。平均でおよそ十八か月。壊れているのは視床という、脳の真ん中で睡眠を司る部分だ。ここに穴が空いていくから、眠れなくなる。眠らせてくれる薬も効かない。睡眠薬を入れると意識だけ濁って、眠りにはならない。この病気の説明を初めて読んだときに背筋が寒くなるのは、たぶん「眠れないまま死ぬ」という一行が、誰でも一晩の寝不足で想像できてしまうからだと思う。

治すための医療が、病気を運んだ

医原性CJD、という型がある。医療行為によってうつされたCJDだ。これがいちばん、人災という言葉が似合う。

一九七四年、角膜移植を受けた患者がCJDを発症した例が最初に報告された。次に問題になったのが、脳波を記録するために脳に刺す深部電極だった。CJD患者に使った電極を消毒して使い回したところ、次の患者が発症した。この電極は後にチンパンジーに移植され、そのチンパンジーも発症している。つまり消毒をすり抜けて、感染力が電極の表面に残っていた。

しかし規模で言えば、二つの経路が突出している。一つは、ヒトの死体の下垂体から抽出した成長ホルモンだ。低身長の子どもの治療のため、一九五〇年代から八〇年代にかけて世界中で使われた。多数の死体から下垂体をプールして精製するため、一人でも感染者が混ざれば大量のロットが汚染される。アメリカ疾病予防管理センターの総括によれば、成長ホルモン由来のCJDは世界で二百二十六例。フランスが百十九例、イギリスが六十五例、アメリカが二十九例。潜伏期間は五年から四十二年、平均で十七年だった。子どものときに打った注射で、四十歳を過ぎてから死ぬということだ。

もう一つが、ヒト乾燥硬膜だ。

ライオデュラ ―― 日本で百五十七人が死んだ

脳の手術をすると、脳を包む硬膜を切ることになる。閉じるときに足りない分を補うため、死体から採った硬膜を乾燥処理した製品が使われていた。ドイツのB・ブラウン・メルズンゲン社が製造した「ライオデュラ」という製品が、その代表格だった。

同じCDCの総括では、硬膜移植によるCJDは世界で二百二十八例。そのうち日本が百四十二例と、実に三分の二を占めていた。日本のサーベイランス委員会が二〇二四年時点で確認している硬膜移植歴のあるCJDは、累計で百五十七例に達している。潜伏期間は一年三か月から三十年、平均十二年。日本では年間二万枚ものパッチが使われていたと推定されている。世界で断トツに多く使われ、世界で断トツに多く死んだ。

問題は、危険を知る機会が何度もあったことだ。一九八七年二月、アメリカのCDCが、硬膜移植を受けた患者のCJD発症例を初めて公式に報告した。アメリカのFDAは同年四月に安全性警告を出し、六月には使用を禁じた。ところが日本では、その後もライオデュラの使用が続いた。回収と使用中止の指示が出るのは、一九九七年である。十年である。

一九九六年十一月、患者の谷たか子さんと夫の谷三一さんが、大津地裁に日本で初めての薬害ヤコブ病訴訟を起こした。国と輸入販売企業を訴えたのだ。その後、東京でも提訴があり、原告は四十二名にのぼった。二〇〇二年三月二十五日、国と企業が責任を認め、被害者に謝罪する確認書に調印して和解が成立した。和解では一時金の支払いのほか、原因究明、医薬品情報の公開、医学教育の改善、生物由来製品の安全確保、患者と家族への精神的ケアの仕組みづくりが約束された。

大津原告団長を務めた谷三一さんの言葉が残っている。二度と薬害を起こさないことこそが、亡くなった者への供養だ、という趣旨のことを彼は言った。妻のたか子さんは、脳腫瘍の手術のために硬膜移植を受け、その十年以上あとにCJDを発症した。夫は裁判を起こす前、妻がなぜこうなったのか、誰にも説明してもらえなかった。当時、硬膜移植を受けた日本人は数十万人にのぼるとみられている。その全員が、いつ発症するかわからない時計を抱えたまま生きることになった。和解が成立した二〇〇二年より後にも新たな被害者が判明していて、二〇〇八年には追加提訴もあった。潜伏期間が二十年を超えるという事実が、被害の終わりをいつまでも先送りにしている。

デイジーと、一三三号

一九八四年十二月、イングランド南部ウェスト・サセックス州のピッツハム農場で、一頭の乳牛の様子がおかしくなった。牛舎の記録番号から、後に「一三三号」と呼ばれることになる牛だ。往診した獣医のデイヴィッド・ビーは戸惑った。この牛は、体を震わせ、まっすぐ歩けず、そして異様に神経質になっていた。近づくと怯える。かと思えば攻撃的になる。当てはまる病名がない。牛は一九八五年の二月に死んだ。

一九八五年四月、今度はイングランド南東部ケント州の農場で、獣医のコリン・ウィテカーが同じような牛に呼ばれた。よく知られた語りでは、この牛は「デイジー」と呼ばれていたという。名前のある一頭の牛が、怯え、いらだち、脚が言うことを聞かなくなり、やがて立てなくなった。ウィテカーは考えられる病気を片っ端から潰していった。中毒でもない。感染症の心当たりもない。彼はこれを新しい病気だと判断して、政府の中央獣医研究所に牛の頭を送りつけた。最初は相手にされなかったが、彼は引かなかった。

そして中央獣医研究所の病理学者ジェラルド・ウェルズが、送られてきた脳の標本を顕微鏡で覗いたとき、そこに海綿状の空胞が並んでいた。羊のスクレイピーで見慣れた像に、よく似ていた。ただしこれは羊ではない。牛だ。牛にはこんな病気は知られていなかった。一九八七年、この新しい病気に名前がついた。牛海綿状脳症、略してBSEである。ウィテカーが最初の学術報告を行ったのもこの年だ。

彼は二〇二五年三月六日、ロンドンでの晩餐会からの帰りの列車で眠っている最中に心臓発作を起こし、八十三歳で亡くなった。追悼文には、彼の粘りがなければこの病気は発見も制御もされなかった、という趣旨のことが書かれている。

牛に牛を食わせるという、静かな共食い

なぜ牛にプリオン病が広がったのか。答えは飼料だった。

イギリスの畜産では、と畜場で出た内臓や骨や余った肉を集めて加熱・乾燥・粉砕し、「肉骨粉」というタンパク質飼料に加工して、家畜に食べさせていた。捨てるところを減らして、安く効率よく牛を太らせるための、極めて合理的な仕組みだ。牛は草食動物だが、乳を大量に出させるには高タンパクの餌がいる。だから牛に、牛や羊のなれの果てを食わせていた。

問題は、この肉骨粉を作るレンダリングという工程が、七〇年代から八〇年代にかけて省エネ化されたことだ。溶剤を使う工程が省かれ、処理温度が下がった。従来なら殺せていたかもしれない何かが、生き残る余地ができた。そこにたまたまプリオンが紛れ込むと、粉になって全国の牧場にばら撒かれる。感染した牛がまた肉骨粉になり、次の牛に食われる。増幅装置である。

イギリス政府が肉骨粉を反すう動物に与えることを禁じたのは一九八八年。脳や脊髄など危険部位を食用から除くことを決めたのが一九八九年。だが規制には抜け道があり、実際に感染牛が生まれ続けた。最終的に感染が確認された牛は十八万頭を超え、感染していた可能性のある牛は百万頭規模とも言われる。淘汰された牛は四百四十万頭にのぼった。

一九九六年三月二十日、下院の空気

その間ずっと、イギリス政府の公式見解は「イギリス産牛肉は安全だ」だった。一九八八年から八九年にかけて設置されたサウスウッド作業部会は、BSEが人に感染する可能性は極めて低い、と報告した。政府はその一行を旗印にした。

一九九〇年五月、当時の農相ジョン・ガマーが、テレビカメラの前で四歳の娘にビーフバーガーを食べさせようとする、という有名なパフォーマンスを行っている。娘が食べにくそうにしたので、結局は自分がかじってみせた。イギリス産牛肉は完全に安全です、と彼は言った。この映像は、その後何十年も繰り返し流されることになる。同じ一九九〇年五月には、マックスという名のシャム猫がBSEに感染していたことが判明していた。種の壁を越えている、という最初の警報だった。

一九九六年三月二十日、保健相のスティーヴン・ドレルが下院で発言した。若年者に発症している十人の新しいタイプのクロイツフェルト・ヤコブ病について、BSEに感染した牛肉との関連を否定できない、と。八年間言い続けた「安全です」が、その日ひっくり返った。

反応は爆発的だった。イギリスの牛肉消費は暴落した。学校給食から牛肉が消えた。三月二十七日、EUがイギリス産牛肉の全世界向け輸出を禁止した。この禁輸は十年続き、国によっては二〇一九年まで解けなかった。スーパーの棚から牛肉が消え、農家は牛を売れなくなり、と畜場に牛が積み上がった。

二〇〇〇年十月に公表されたフィリップス卿を長とする調査委員会の報告書は、政府と農漁食料省、そして当時の首席医務官の対応を批判した。ただし報告書は、誰か個人が悪意を持って隠したのではなく、「国民をパニックにさせない」という発想が結果として情報を歪めた、という筋立てを取った。この結論には、被害者遺族から強い不満が出た。誰も責任を取らなかった、と。

スティーヴン・チャーチル、十九歳

最初の犠牲者とされているのは、ウィルトシャー出身のスティーヴン・チャーチルという青年だ。彼が死んだのは一九九五年五月二十三日。十九歳だった。

彼の症状は、最初、うつ病に見えた。ふさぎ込む。人と会いたがらない。ものを覚えられない。若い男の子がそうなったとき、医者が最初に考えるのは精神科の病気だ。誰も脳が溶けているとは思わない。それから体のバランスが崩れ、歩けなくなり、およそ半年で亡くなった。彼が死んだ時点では、まだこの病気に名前すらなかった。

エディンバラの国立CJDサーベイランスユニットが、若年者に集中する見慣れない症例を集め、脳の病理像が既存のCJDと違うことを確認したのが一九九六年。脳には「花弁状プラーク」と呼ばれる、花のような形の斑が並んでいた。従来のCJDにはない特徴だった。これが変異型クロイツフェルト・ヤコブ病、vCJDと名付けられる。

イギリスでのvCJDによる死者は、これまでに百七十七人から百七十八人。世界全体でも二百数十人にとどまっている。発症のピークは二〇〇〇年で、最後に確認された英国内の症例は二〇一六年だ。数字だけ見れば、恐れられたような数百万人規模の大流行にはならなかった。だがこの病気には、まだ気持ち悪い数字が残っている。

イギリスで虫垂の手術検体を大規模に調べた研究で、三万二千四百四十一検体のうち十六検体から異常プリオンが検出された。単純計算で百万人あたり四百九十三人、およそ二千人に一人だ。イギリスに二万人から三万人の「感染しているが発症していない人」がいる可能性がある、ということになる。

そして、vCJDで発症が確認された人は、ほぼ全員がプリオン遺伝子の百二十九番目のコドンでメチオニンを二つ持つ型だった。この型は白人の四割程度しかいない。残り六割は、単に潜伏期間が長いだけかもしれない、という懸念がずっと言われてきた。二〇〇四年には輸血による人から人への感染も報告され、イギリスでは一九八〇年以降に輸血を受けた人からの献血が恒久的に禁止された。

三つの証言

一つ目は、スコットランドのハミルトンに住んでいたグラント・グッドウィンさんの母、マーガレット・グッドウィンさんの話だ。グラントさんはエンジニアで、三十歳だった。最初は無口になって、体重が落ちた。医者はうつ病だと言った。グラスゴーの病院の専門医がvCJDと診断したのは、二〇〇八年の暮れ。診断から三か月で歩けなくなり、喋れなくなった。診断から四か月後の二〇〇九年一月、エアドリーのホスピスで亡くなっている。母親の記憶に焼きついているのは、息子から投げられた質問だった。僕はどうやって死ぬの、死ぬときって何が起きるの、と彼は聞いた。母親はこう答えたという。私が抱いているからね、あなたは眠りに落ちて、そうしたらもう痛くないからね、と。彼女はまた、周囲から、息子が死にかけていることを隠して誰にも話さないでほしい、という圧力を感じたとも語っている。父親のほうは、二百人近くが死んでこれからも死ぬのに、誰一人責任を問われていない、と語った。なおグラントさんは、コドン百二十九がメチオニンとバリンのヘテロ型で症状を出した最初の患者とされ、潜伏期間の長い第二波が来るのではという議論を呼んだ。

二つ目は、日本の薬害ヤコブ病だ。谷たか子さんは、脳の手術を受けたときに硬膜を移植された。それが十年以上あとに彼女を殺すことになるとは、本人も家族も知らなかった。夫の谷三一さんは、なぜ妻がこうなったのかを知りたかっただけだった。しかし調べようとすると、必要な情報が出てこない。どの製品が使われたのか。誰が承認したのか。いつからリスクは知られていたのか。彼は結局、一九九六年十一月に大津地裁で訴えるという方法を選ぶことになる。裁判が始まってから、アメリカでは一九八七年の段階で使用が禁じられていたことがわかってくる。原告団長になった谷さんは、和解のあとも、潜在患者を掘り起こす活動を続けた。彼が繰り返し語ったのは、金の話ではなく、二度と繰り返さないという一点だった。被害者と家族が作ったヤコブ病サポートネットワークは、今も情報提供と相談を続けている。

三つ目は、ソニア・ヴァラブさんの話だ。二〇一〇年、彼女の母カムニさんが、五十代で急速に認知機能を失って亡くなった。診断は致死性家族性不眠症だった。当時ソニアさんはハーバードのロースクールを出た弁護士で、医学とは何の縁もなかった。翌二〇一一年、彼女は自分の遺伝子検査を受けた。結果は陽性。母と同じD178N変異を持っていた。ほぼ確実に、同じ死に方をする。まだ何の症状もない二十代の女性が、自分の死因を先に知らされた。彼女と夫のエリック・ミニケルさんは、そこで仕事を辞めた。二人そろって大学院に入り直し、生物学の博士号を取り、現在はブロード研究所で自分の病気の治療法を探す研究室を率いている。二人が進めてきたのは、プリオンタンパク質そのものの産生量を減らすアンチセンス核酸という戦略だ。異常な形に折れるタンパク質が減れば、ドミノは倒れない、という理屈である。製薬企業と組んだ臨床試験は登録を終え、結果を待つ段階に入っている。ソニアさんはまだ発症していない。彼女の研究は、間に合うかどうかという文字通りの競走をしている。

燃やしても死なない

プリオンがなぜここまで厄介かというと、壊れないからだ。

普通の感染対策は効かない。アルコール消毒、無意味。ホルマリン固定、無意味。それどころか、ホルマリンで固めた標本の中でプリオンは感染力を保つ。紫外線も効かない。通常のオートクレーブ、つまり百二十一度二十分の高圧蒸気滅菌でも足りない。医療現場でプリオン対策として求められる条件は、百三十四度で十八分という、通常よりはるかに過酷な設定だ。それと二パーセントの次亜塩素酸ナトリウムや、pH十二以上の高アルカリ洗浄を組み合わせる。それでも「完全」とは言い切られていない。

しかも通常の滅菌インジケーターでは、この条件を満たしたかどうかを確認できない。プリオン用に設定された専用インジケーターが要る。

そして極めつけの実験がある。二〇〇〇年に米国科学アカデミー紀要に載った、ポール・ブラウンらの報告だ。彼らはスクレイピーに感染したハムスターの脳組織を、灰になるまで焼いた。六百度である。有機物は残らない。それでも、その灰をハムスターに接種したところ、わずかながら感染が成立したケースがあった。この結果は解釈が難しく、著者ら自身が、複製の鋳型として無機的な何かが働いている可能性を示唆した、と書いている。他の研究では、六百度でほぼ消える、という結果も出ている。だからこれを「プリオンは焼却しても死なない」と単純化するのは正確ではない。ただ、六百度で焼いた灰から感染性が検出されうるという一報が学術誌に載っている、という事実だけで十分に不気味だ。

手術台という、静かな回路

この壊れなさが、そのまま医療現場の悩みになる。

プリオンは、ステンレス鋼にべったり吸着する。手術用のメスやピンセットは、まさにステンレスだ。脳、脊髄、硬膜、神経節、網膜、視神経といった部位はプリオンが濃く存在する高リスク部位で、そこに触れた器具は特別扱いになる。脳外科、脊椎の整形外科、眼科、耳鼻科が、いずれもこの問題を抱えている。

厄介なのは、多くの場合、術前にはその患者がプリオン病だとわからないことだ。急速に進む認知症でも、最初は精神科の病気やアルツハイマー病と診断されることがある。脳の生検をして初めてわかる、というケースもある。つまり、確定診断前の患者に使った器具が、次の患者に使われている可能性は、理屈のうえではゼロではない。

イギリスの専門家からは、酵素と洗剤を組み合わせた有効な除染法が開発されていたのに、実際の医療現場には導入されなかった、という指摘も出ている。現状の運用は、リスクの高い症例を事前に拾い上げて器具を専用化・廃棄するという、人間の判断に頼るやり方が中心だ。

日本では厚生労働省の研究班がプリオン病感染予防ガイドラインを整備し、二〇〇八年版を経て改訂が重ねられている。診療ガイドラインも二〇二六年版まで更新されてきた。制度としては、かなり整ってきた。それでも「絶対に大丈夫」とは誰も言わない。言えないからだ。

陰謀論と、その反証

一九九〇年代のイギリスでは、公式説明への不信から、いくつもの対抗説が生まれた。いちばん有名なのが、有機農家のマーク・パーディが唱えた有機リン説だ。イギリスでは牛のウシバエ対策として、有機リン系殺虫剤のホスメットを背中に塗る処置が義務づけられていた地域があった。パーディは、この殺虫剤が牛の神経系を傷つけ、プリオンタンパク質の異常を引き起こしたのだ、と主張した。彼は自分の農場で殺虫剤を使わず、そこではBSEが出なかったと訴えた。さらに後年、彼はマンガン過剰と銅欠乏の組み合わせが原因だという説を展開し、世界各地の風土病発生地を回ってミネラル濃度を測って歩いた。

パーディの説は、フィリップス調査委員会にも証言として提出され、真剣に検討された。だが決定的なところで説明が破綻する。まず、有機リン処置が行われていない国や地域でもBSEは発生した。逆に、同じ処置を長年やっていた地域でBSEが出ないところもあった。そして何より、BSEに感染した牛の脳をすり潰して他の動物に接種すれば、その動物は発症する。殺虫剤の中毒なら、こんなことは起きない。伝染するという事実が、中毒説の息の根を止めた。

もう一つ根強かったのが、これは羊のスクレイピーが牛に移っただけで、羊のスクレイピーは何百年も人に害を出していないのだから安全だ、という論法だ。これは政府側も長らく寄りかかっていた説明で、実際、当初のサウスウッド報告もこの発想に近かった。だが、種を一つ越えるときにプリオン株の性質が変わりうることが後にわかった。BSE由来のプリオンは、羊のスクレイピーとは分子の性質が違い、そしてヒトへの壁が低かった。実験的に、BSEのプリオンとvCJDのプリオンを動物に接種すると、同じ潜伏期間、同じ病理像が再現される。これが両者を結びつけた決め手になった。

日本でも二〇〇一年に国内初のBSE牛が確認されると、情報の混乱が起きた。牛肉が売れなくなり、外食産業が打撃を受け、国は世界でも例のない全頭検査に踏み切った。この全頭検査は消費者の不安を鎮める効果は大きかったが、感染初期の牛は検査で拾えないため、科学的には過剰だったという評価が後に出ている。さらに、混乱に乗じた牛肉の産地偽装事件が相次いだ。真面目にやっていた生産者や、検査に当たっていた獣医の中には、追い詰められて自ら命を絶った人もいる。恐怖と情報の空白は、病気そのものとは別の犠牲者を作る。

それで、なぜこんなに怖いのか

理由はいくつもあるが、整理するとこうなる。

第一に、正体が「自分の一部」であること。ウイルスや細菌は外から来た侵入者だ。だから免疫が反応する。熱が出る。炎症が起きる。ところがプリオンは、もともと自分が持っているタンパク質の折り目が変わっただけだから、免疫系が敵と認識しない。炎症が起きない。だから発熱もないし、白血球も上がらない。血液検査は正常。静かに、粛々と、脳だけが穴だらけになっていく。

第二に、時間軸が人間の生活と合っていないこと。潜伏期間が数年から数十年。硬膜移植で三十年、成長ホルモンで四十二年という記録がある。クールーに至っては五十年以上だ。そんなに前の出来事と、今日の死を結びつけて考えられる人間はいない。原因を突き止めたときには、責任の所在も証拠も、とっくに風化している。

第三に、発症した瞬間から死ぬまでが一直線であること。孤発性CJDなら一年、vCJDでも十三か月前後。診断がついてから家族が状況を理解するまでの時間より、病気の進行のほうが速い。そして治療法がない。進行を遅らせる薬もない。医者にできるのは、けいれんを抑え、痛みを取り、誤嚥を防ぎ、床ずれを作らないことだけだ。

第四に、消せないこと。焼いても、煮ても、消毒しても、確実には消えない。汚染された器具は、多くの場合、捨てるしかない。感染性のあるものを「無かったことにする」という、人類が数千年かけて磨いてきた衛生の技術が、この相手にだけは通用しない。

第五に、そして最後に、これが人間の作った仕組みによって拡がったこと。牛に牛を食わせる飼料、死体から集めた成長ホルモン、死体から作った硬膜のシート。どれも、効率と善意から生まれたものだ。捨てるものを減らそう、小さい子を大きくしてあげよう、手術のあとをきれいに閉じよう。その全部が、うまくいっていた。ある日までは。

「わからない」を「安全」と言い換えた十年が、二回あった

ここまで書いてきて、いちばん引っかかるのは「情報の速度」という論点だ。プリオン病の物語には、必ず遅れが出てくる。イギリス政府がBSEと人への感染を結びつけて公表するまでに、最初の牛が倒れてから十年以上かかった。日本がライオデュラの使用を止めるまでに、アメリカが禁止してから十年かかった。この二つの「十年」は、性質が違うようでいて、根っこは同じだと思う。どちらも、確実な証拠が揃うまでは動かない、という判断が下されている。そして、その判断は当時の基準では、決して非合理ではなかった。ここが本当に怖い。

一九八八年から八九年にかけてのイギリスで、BSEが人に感染するという直接の証拠は、実際どこにもなかった。羊のスクレイピーは何百年も人に害を出していない。だから牛のBSEも大丈夫だろう、という類推は、当時の知識の範囲では筋が通っていた。フィリップス報告書が、政府に悪意はなかったが対応は不適切だった、という微妙な結論に着地したのも、そこを見ていたからだ。ただ、報告書はもう一つ見逃せない指摘をしている。政府は国民をパニックにさせないことを最優先にし、その結果、不確実性そのものを国民に伝えなかった。「わからない」を「安全」と言い換えた。ジョン・ガマー農相が娘にバーガーを食べさせようとした映像が今も繰り返し流されるのは、パフォーマンスの滑稽さのせいではない。あれが、不確実性を隠すという意思決定の、いちばんわかりやすい可視化だったからだ。

日本のライオデュラの件は、もう少し性質が悪い。こちらには、遅れを正当化しにくい材料が揃っている。一九八七年二月に米国の公衆衛生当局が硬膜移植後のCJDを報告し、四月に安全性警告、六月に使用禁止という流れがあった。判断材料は同じ時期に日本にも届いていた。にもかかわらず、日本では回収と使用中止の指示が一九九七年まで待たれた。この空白の十年に硬膜移植を受けた人の中から、実際に発症者が出ている。医療の現場が悪意で動いたとは思わない。ただ、外国の規制情報を、自国の規制判断に直結させる回路が細すぎた。和解の確認書に、医薬品情報の公開と生物由来製品の安全確保が明記されたのは、まさにそこを指している。日本の薬害の歴史を並べてみると、サリドマイド、スモン、薬害エイズ、そして薬害ヤコブ病と、同じ構図が繰り返し出てくる。海外で問題が指摘されてから国内で止まるまでの、あの空白だ。

もう一つ、この題材に向き合うときに考えざるを得ないのが、「大流行しなかった」という結末をどう扱うか、という問題だ。一九九六年から二〇〇〇年ごろにかけて、イギリスでは数十万人、最悪で数百万人がvCJDで死ぬというシナリオが真剣に語られていた。実際の死者は百七十七人前後で止まった。この落差だけを取り出せば、「あの騒ぎは大げさだった」という総括もできてしまう。実際、日本の全頭検査についても、科学的には過剰だったという評価が後から出た。だが、この見方には落とし穴がある。被害が小さく収まったのは、恐怖に押されて実行された大量淘汰と危険部位の除去、飼料規制、輸血制限といった対策が効いたからだ、という可能性を切り捨てているからだ。予防が成功すると、予防の必要性そのものが疑われる。これはBSEに限った話ではなく、あらゆる公衆衛生の宿命でもある。二千人に一人が異常プリオンを保有しているかもしれないという虫垂検体の推計と、コドン百二十九のメチオニン・バリンヘテロ型で初めて発症したとされるグラント・グッドウィンさんの症例を並べると、この物語がまだ終わっていない可能性は、消えていない。潜伏期間が数十年の病気について「もう終わった」と宣言するのは、たぶんまだ早い。

そして、この題材でいちばん静かに恐ろしいのは、プリオンが例外ではなくなりつつある、という研究の方向だ。タンパク質が異常な形に折れ、隣の正常なタンパク質を同じ形に変え、それが脳の中を伝播していく。この仕組みは、今ではプリオンだけの専売特許ではないと考えられている。アルツハイマー病のアミロイドベータやタウ、パーキンソン病のアルファシヌクレインでも、似た「鋳型伝播」が起きている可能性が指摘されてきた。もちろん、それらの病気が人から人にうつるという話ではない。人から人へ伝染するという意味の感染性は、プリオン病の際立った特徴のままだ。ただ、脳が壊れていくメカニズムの根っこの部分で、プリオンは特殊な怪物ではなく、もっとありふれた現象の極端な例なのかもしれない。プルシナーが四十年前に異端と呼ばれた理屈が、いま神経変性疾患の共通言語になりつつある、というのは皮肉としか言いようがない。

治療については、ようやく光が見え始めた段階だ。ソニア・ヴァラブさんとエリック・ミニケルさんが進めてきた、プリオンタンパク質そのものの産生を抑えるアンチセンス核酸のアプローチは、理屈としてはきれいだ。異常型に変換される材料がなければ、ドミノは倒れようがない。動物実験では生存期間の延長が確認され、ヒトでの臨床試験も登録を終えた。遺伝子編集で永続的に発現を抑える研究も、二〇二五年に大きな前進が報告されている。日本でも、大学の薬学系の研究室から治療薬候補の探索が続いている。ただ、ここで重い問題が立ちはだかる。孤発性CJDは、症状が出てから診断がつくまでに数か月かかり、その時点で脳はすでにかなり壊れている。仮に薬が完成しても、間に合うのかという話だ。おそらく最初に恩恵を受けるのは、発症前に遺伝子変異がわかっている家族性の患者だろう。ソニアさんのように、自分の死因を先に知ってしまった人たちだ。自分の遺伝子検査の結果が、そのまま人生の設計図を書き換えてしまうという状況は、これから遺伝子情報が身近になるにつれて、もっと多くの人が直面する種類の問題でもある。

最後に、この病気を怪異として見たときの話をしておきたい。世の中の怖い話の多くは、境界を侵すことについての話だ。生と死の境界、人と獣の境界、内と外の境界。プリオン病は、その全部を同時に踏み越えてくる。生きているのに脳がスポンジになっているという、生と死の中間の状態。牛を食べた人間が牛の病気で死ぬという、種の境界の消失。外から来た敵ではなく自分自身のタンパク質が敵になるという、内と外の反転。しかも、そのどれもが実話で、日付があり、名前があり、裁判記録がある。フォア族が死者の脳を食べて震えて死んだ話と、イギリス人が牛の脳を粉にして牛に食わせて死んだ話が、まったく同じ生物学的メカニズムで説明できてしまう。文明と未開を分けていたはずの線が、顕微鏡の下では消える。この病気が読んでいて落ち着かない気分になるのは、たぶん、そこが理由だ。人間は何度でも、同じかたちで同じ穴に落ちる。そして落ちたことに気づくのは、いつも十年くらい後になってからだ。

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