## まず、痛みの物差しの話から始めさせてくれ
痛みって、比べられないと思ってないだろうか。おれもそう思ってた。でも医療の世界には、痛みを言葉で測ろうとした人たちがいる。カナダのマギル大学のロナルド・メルザックとウォーレン・トーガーソンが一九七一年に作った、マギル疼痛質問票というやつだ。ずきずきする、刺すような、焼けるような、まとわりつくような。そういう痛みを表す言葉を七十八個並べて、二十のグループに分けた。患者は自分の痛みに当てはまる言葉を選ぶ。選んだ言葉の重みを足し算する。それでスコアが出る。
このスコアの一覧表が、ネット上をずっと出回っている。出産が三十くらい。がん性疼痛がそのあたり。四肢の切断がもう少し上。そして表のいちばん上、四十二という数字のところに、複合性局所疼痛症候群、CRPSという病名が載っている。カウザルギー、つまりCRPSのタイプ二にいたっては四十七という数字が出てくる版もある。人間が体験しうる痛みの中で、いちばん上。それがCRPSに与えられている位置だ。
先に正直なことを言っておく。この「四十二/五十」という表、実はかなり怪しい。マギル疼痛質問票の疼痛評価指数は満点が七十八であって、五十ではない。そもそもこの質問票は「疾患ごとの順位表」を作るための道具じゃない。目の前の一人の痛みを言葉で捉えるための道具だ。だから「CRPSは科学的に世界一痛い病気と証明されている」という言い方は、厳密には正しくない。患者会が啓発のために作った図が独り歩きした、というのが実態に近い。
でも、じゃあこの数字は嘘っぱちで、CRPSはたいした病気じゃないのか。まったく違う。むしろ話は逆だ。この表がここまで広まってしまった理由そのものが、この病気の本質を突いている。患者たちは、自分の痛みを他人に伝える手段を、それ以外に持たなかったのだ。傷はもう治っている。レントゲンには何も写らない。血液検査は正常。だから彼らは、数字にすがった。四十二という数字を掲げて、頼むから信じてくれ、と言い続けてきた。その切実さのほうが、数字の正確さよりずっと重い。
## 話は南北戦争の野戦病院から始まる
一八六三年の夏、ゲティスバーグの戦いのあと、フィラデルフィアの四百床の陸軍病院に大量の負傷兵が運び込まれてきた。ターナーズ・レーン病院という。ここに、サイラス・ウィアー・ミッチェルという若い医師がいた。フィラデルフィア生まれ、一八二九年生まれ。学生時代は決して優等生ではなかったらしい。だがこの男は、とんでもなく緻密な観察者だった。
ミッチェルと同僚たちは、神経を撃ち抜かれた兵士たちを片っ端から診た。そして奇妙なことに気がついた。銃創そのものは治っているのに、痛みが消えない兵士がいる。しかもその痛みが、普通じゃない。彼らは口をそろえて「焼けている」と訴えた。ある兵士は「赤く焼けたマスタードを塗りつけられているようだ」と言った。別の兵士は「真っ赤に焼けたヤスリで皮膚をこすられている」と言った。
もっと不気味だったのは、その部位が異常に過敏になっていることだった。ミッチェルはそれを「きわめて過敏で、触れるだけで痛みが増す」と書き残している。誰かが病室のドアを乱暴に閉めただけで、患者が悲鳴を上げる。ベッドのシーツがかすっただけで飛び上がる。兵士たちは常に苛立ち、眠れず、性格まで変わっていった。そして彼らが編み出した唯一の対処法が、患部をずっと濡らしておくことだった。水に浸した布を巻き、乾いたらまた濡らす。それを一日中、何ヶ月も続ける兵士がいた。
ミッチェルは、この痛みに名前をつけようとした。名づけ親になったのは同僚のロブリー・ダングリソン教授だ。ギリシャ語の「熱」と「痛み」を組み合わせて、カウザルギー。焼けるような痛み。この概念は当時、まったく新しいものだった。一八六四年の『銃創およびその他の神経損傷』、そして一八七二年の『神経の損傷とその帰結』で、ミッチェルはこの記述を世に出した。
ちなみにこの人、医者としてだけじゃなく小説家としても有名だ。一八六六年に『アトランティック・マンスリー』誌に匿名で発表した『ジョージ・デドロウの症例』という短編がある。四肢を失った兵士が、失ったはずの手足の存在を感じ続ける話。つまり幻肢だ。この短編は当時、実話だと信じた読者が病院に見舞いに押しかけたという逸話まで残っている。痛みという見えないものを、医学論文でも小説でも記述しようとした男。それがミッチェルだった。
## 病名が七回変わった病気の話
ここからが面倒くさい。この病気、名前がころころ変わる。
まず一九〇〇年、ドイツの外科医パウル・ズーデックが、外傷後に骨がスカスカになっていく現象を報告した。ズーデック萎縮、あるいはズーデック骨萎縮と呼ばれた。第一次大戦の頃には、フランスの外科医ルネ・ルリッシュが「これは交感神経のせいだ」と考えて、交感神経を切る手術をやり始める。実際に効く患者がいた。だから「交感神経が悪さをしている」という説が一気に主流になった。
そして一九四六年、アメリカのジェームズ・エヴァンスが「反射性交感神経性ジストロフィー」という名前を提唱する。英語の頭文字を取ってRSD。この名前が、その後五十年近く使われ続けた。ほかにも肩手症候群だの、外傷後骨萎縮だの、ズデック症候群だの、地域と時代でばらばらな名前がついた。同じ病気に、たぶん十以上の呼び名があった。
転機は一九九三年だ。国際疼痛学会が、アメリカのオーランドで専門家を集めて会議を開いた。そこで彼らはこう決めた。交感神経が原因かどうか、正直まだよく分かっていない。だったら原因を名前に含めるのはやめよう、と。こうして「複合性局所疼痛症候群」という、原因について何も言っていない名前が採用された。神経損傷が証明できないものをタイプ一、証明できるものをタイプ二。タイプ二が、かつてのカウザルギーにあたる。ミッチェルの兵士たちの子孫が、ここでようやく現代の疾患分類に着地した。
名前が原因を語らなくなった。これは科学的には誠実な態度だ。でも患者にとっては地獄の始まりでもあった。「複合性局所疼痛症候群」という名前を聞いて、内容が想像できる人間が世の中に何人いる。しかも「症候群」という言葉は、日本語でも英語でも、なんとなく「よく分からないもの」という響きを持ってしまう。名前が誠実になった分だけ、社会に伝わりにくくなった。
## バレエの稽古場で、何かが壊れた日
具体的な人生の話をしよう。シンシア・トゥーサンという女性がいる。カリフォルニアのバレエダンサーだった。一九八〇年代の初め、二十一歳のとき、彼女はレッスン中にバーで脚を上げていて、ハムストリングを痛めた。それだけだ。バレエをやっている人間なら誰でも一度は経験するような、ありふれた肉離れ。
数日で治るはずだった。治らなかった。痛みは引くどころか性質を変えていった。彼女はのちにこう表現している。脚にガソリンをかけて火をつけられたような感じだ、と。脚は変色し、腫れ上がった。彼女は医者に行った。医者は何も見つけられなかった。次の医者に行った。また見つからなかった。
そこから十三年だ。十三年間、彼女はどの医者からも同じことを言われ続けた。あなたの痛みは気持ちの問題です。ストレスでしょう。精神科に行きなさい。中には、もっと露骨に侮辱的な言葉を投げつけた医師もいたという。ダンサーとしてのキャリアは消えた。人間関係も壊れていった。痛みは脚から広がり、彼女は十年近くほぼ寝たきりになった。そして五年間、彼女は声を失った。CRPSが声帯にまで及んだのだ。しゃべれない。訴えることすらできない。
三十代半ばになって、ようやく一人の疼痛専門医が彼女を診て、CRPSという病名を告げた。彼女はその瞬間をこう振り返っている。人生で最悪の診断だった、でも人生で最良の日のひとつだった、と。もう一つ、彼女はこう言っている。これでもう二度と、誰もわたしを頭がおかしいとは呼べない。
十三年かかった診断は、しかし遅すぎた。病気はすでに全身に広がり、根治は不可能だった。彼女は車椅子の生活になった。パートナーのジョン・ギャレットは、この地獄の全期間、彼女のそばにいた。二〇〇二年、彼女は「フォー・グレイス」という団体を立ち上げる。慢性痛を抱える女性たちが、男性より軽く扱われ、精神的な問題として片づけられやすいという現実に、正面から抗議するための団体だ。彼女は車椅子から世界中で講演をし、『バトル・フォー・グレイス』という回想録を書いた。
彼女の言葉で、いちばん胸に刺さるのはこれだ。ベッドに横たわって、絶望している人たちが見える、と彼女は言った。彼女が団体を作ったのは、その人たちに「そこから戻ってこられる」と伝えるためだった。
## 引き金が、あまりにも理不尽だという話
ここが、この病気のいちばん不条理なところだ。
CRPSの発症のきっかけとして、いちばん多いのは骨折だ。研究によって幅はあるが、全体のおおよそ四割から五割弱を骨折が占める。次いで手術。そして捻挫、打撲。中には、はっきりした外傷がまったく思い当たらない例もある。
つまりだ。人生を丸ごと持っていくこの病気の入り口は、雪の日に転んで手首を折った、階段を踏み外して足首をひねった、その程度のことなのだ。手術で言えば、手根管症候群の手術とか、そんな日常的なものが引き金になる。誰もが一生に何度か経験するような、あとから思い出しても大した話じゃないはずの出来事。その百人に一人か、もっと少ないかの確率で、扉が開いてしまう。
発症率は地域や研究によってかなりばらつくが、人口十万人あたり年間五人から二十六人あたりの範囲で報告されている。女性が男性の三倍から四倍多い。上肢のほうが下肢よりやや多い。年齢は中年層が中心だが、子どもにも起きる。
この「理不尽さ」は、単なる感想じゃない。実は診断そのものの核心でもある。ブダペスト基準の一行目は「誘因となった出来事に不釣り合いな、持続する痛み」だ。不釣り合い。この一語が入っていることの意味は重い。医学が正式に、「原因と結果が釣り合っていないこと自体が、この病気の特徴である」と認めているということだから。
そして同時に、この一語こそが、患者を長年苦しめてきた元凶でもある。捻挫で十年苦しむ人間を見たとき、多くの人はまず「不釣り合いだ、だからおかしい」と考える。おかしいのは病気ではなく、この人の頭のほうではないか、と。
## 皮膚の色が変わり、毛が伸び、爪が歪んでいく
CRPSが恐ろしいのは、痛いだけじゃないところだ。体が、目に見えて変質していく。
まず色が変わる。片方の手だけが、真っ赤になる。あるいは紫がかる。あるいは蝋みたいに白くなる。日によって、時間によって変わることもある。温度も左右で違ってくる。片方の手だけが異様に熱い。あるいは氷みたいに冷たい。専門家はこれを温度非対称と呼ぶ。実際に体表温度計を当てれば数字として出る。数少ない、目に見える所見のひとつだ。
汗の出方もおかしくなる。片手だけがびっしょり濡れる。あるいはまったく汗をかかなくなる。むくむ。腫れる。指輪が入らなくなる。
そして栄養性変化。これがなかなか異様だ。患部の毛が、異常に濃く長く伸びることがある。あるいは逆に、全部抜け落ちる。爪が厚く、脆く、うねって変形する。皮膚が薄くなり、てかてかと光り、まるで別人の皮膚のようになる。骨からカルシウムが抜けていく。ズーデックが百年以上前に見つけたやつだ。レントゲンで、まだらな骨の抜け方として写ることがある。
運動機能も落ちる。力が入らない。震える。そして関節が、少しずつ固まっていく。動かすと痛いから動かさない。動かさないから固まる。固まるからますます動かせない。この悪循環が、この病気の進行の主要なエンジンのひとつになっている。だからリハビリが治療の中心に据えられる。痛くても動かさなきゃいけない。でも動かすと死ぬほど痛い。この矛盾の中に患者は置かれる。
昔の教科書には、この経過が三期に分かれると書いてあった。急性期、ジストロフィー期、萎縮期、みたいに。今はこの三期分類、あまり支持されていない。実際の患者はそんなにきれいに進まないからだ。かわりに現在よく使われるのが、温かいCRPSと冷たいCRPSという分け方だ。発症して間もない急性期はだいたい患肢が温かく赤い。これがおよそ七割。一方で慢性化すると、患肢が冷たく青白くなるタイプに移っていくことが多い。そしてこの冷たいタイプのほうが、予後が悪い。
## 触れただけで、悲鳴が出る
CRPSの症状の中でいちばん理解されにくいのが、アロディニアという現象だ。
日本語では異痛症と訳す。本来なら痛みを引き起こさないはずの刺激で、痛みが生じる。羽根で撫でる。ティッシュが触れる。シャツの袖が当たる。エアコンの風が吹く。それだけで、焼けるような、電流が走るような激痛になる。神経の側の「これは痛みではない」という仕分けが、根本から壊れている状態だと思えばいい。
似ているが違うのがハイパーアルゲジア、痛覚過敏だ。こっちは、本来痛い刺激が、異常に痛い。針でつつく程度の刺激が、ナイフで刺されたような痛みになる。
この二つが揃うと、日常生活が丸ごと崩壊する。患者が繰り返し語ることは、驚くほど共通している。服が着られない。長袖を通すときに患肢に布が触れるから、袖のない服しか着られない。あるいは何も着られない季節がある。シャワーが浴びられない。水滴が皮膚を叩く感覚が、砂利をぶつけられているのと同じになる。だから患者は片腕をビニールで覆ってシャワーを浴びたり、そもそも入浴をあきらめて拭くだけにしたりする。握手ができない。人前に手を出せない。誰かが親しみを込めて肩を叩こうとするのを、必死で避ける。
風だ。風が当たっただけで痛い。これはCRPSを語るときにいちばん引用される表現だが、比喩じゃない。文字通りの意味だ。だから患者は、扇風機の向きを気にし、電車のドアが開く位置を気にし、人混みを避け、季節の変わり目の風を恐れる。
ミッチェルが百六十年前に書いた「病室のドアを閉める音にすら患者は苦しんだ」という記述と、現代の患者が書くブログの内容が、ほとんど同じなのだ。医学は進歩した。でもこの痛みの手触りは、一世紀半、変わっていない。
## 自分の手が、自分のものじゃなくなる
もっと不気味な症状がある。身体知覚の障害だ。
CRPS患者の五割から八割強が、患肢に対して「これは自分のものじゃない」という感覚を持つと報告されている。ただ痛いのではなく、そこにある手足が異物に感じられる。自分の意思の外にあるもの、と患者は表現する。
大きさや形の感覚も狂う。手が実際の三倍に膨れ上がっているように感じる。あるいは指の一本がごっそり抜け落ちているように感じる。触ると冷たいのに、本人の感覚では燃えるように熱い。客観的な観察と主観的な体験が、まるで一致しない。
そして、ときに患者は切断を望む。ここが本当に重い。研究者が「もし切るとしたら、どこで切りますか」と尋ねると、患者は迷わず正確な位置を指し示すという。ここから先は自分じゃない、という境界線が、本人の中にはっきり引かれている。実際に切断を選んだ患者もいる。ただし切断で痛みが消えるとは限らない。幻肢痛として残ることもあるし、CRPSが断端に再発することもある。ミッチェルの幻肢の記述と、ここでまた線がつながる。
さらに「無視様症状」というのもある。患肢を視界に入れない。布で覆う。見ないようにする。触らないようにする。この回避行動が、脳への感覚入力をさらに減らして、身体イメージの歪みを強める。悪循環がここにもある。
患者が患肢に対して抱く感情も、研究では記録されている。憎しみ、怒り、嫌悪、そして生理的な拒否感。自分の体の一部を、心底憎んでいる。これは痛みの話であると同時に、自分とは何かという話でもある。
## 指が曲がったまま、戻らない
CRPSの中でもとりわけ重い病型として、ジストニアを伴うものがある。
指が内側に折れ曲がったまま固まる。手首が異常な角度でロックされる。足首が内反したまま戻らない。筋肉が勝手に持続的に収縮して、四肢が異常な姿勢に固定されてしまう。オランダのライデンで、ヤン・ファン・ヒルテンらのグループがこの病態を集中的に研究してきた。
治療として試されたのが、バクロフェンという筋弛緩薬を脊髄腔に直接入れる方法だ。二〇〇〇年に『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌に、劇的に効いた症例の報告が出た。ところがその後、投与速度を変えて比較した二重盲検クロスオーバー試験では、有効性が示せなかった。効く人には劇的に効くが、集団としては証明できない。CRPS治療のほとんどが、この形をしている。
そしてこのジストニアをめぐって、医学界では激しい論争がある。一部の神経内科医は、外傷後に生じる固定性ジストニアの少なくとも一部は心因性、つまり機能性神経障害ではないかと主張してきた。臨床像が典型的な器質性ジストニアと違う、という理由だ。患者側からすれば、これはたまらない。またしても「気のせい」の変奏曲だからだ。
ただ、この論争を単純な善悪の話にしないほうがいい。機能性神経障害は「詐病」ではないし「気のせい」でもない。脳の運動出力のプログラムが本当に狂う、実在の障害だ。問題は、その区別が現場でしばしば「本物か偽物か」という乱暴な二分法に翻訳されてしまうことにある。痛みの医学が抱える不幸のかなりの部分は、この翻訳ミスから生まれている。
## ブダペストという名前の基準
「気のせい」と言われ続けた時代を終わらせたのが、診断基準だった。
一九九四年のオーランド会議で作られた最初の国際基準は、感度は高かったが特異度が低かった。つまり、CRPSでない人までCRPSと診断してしまう。この基準で診断すると、実際の三倍近い数の患者が生まれてしまうという批判が出た。診断が甘いと、今度は「CRPSという診断自体が信用できない」という反動が起きる。実際、そうなった。
そこで二〇〇三年、ハンガリーのブダペストで開かれた合意会議で、新しい基準が作られた。これが通称ブダペスト基準だ。二〇一〇年に大規模な検証研究が発表され、二〇一二年に国際疼痛学会が正式に採用した。
中身はこうだ。まず大前提として、きっかけとなった出来事に不釣り合いな、持続する痛みがあること。そのうえで、四つのカテゴリーを見る。感覚のカテゴリー、血管運動のカテゴリー、発汗と浮腫のカテゴリー、そして運動と栄養のカテゴリー。この四つについて、患者が自分で訴える「症状」が三つ以上のカテゴリーで存在し、なおかつ医師が診察して確認できる「徴候」が二つ以上のカテゴリーで存在すること。そして最後に、この症状をよりよく説明できる他の診断が存在しないこと。
この「症状は自己申告、徴候は他覚所見」という二段構えが、決定的だった。患者の訴えを診断の材料として正式に組み込みつつ、それだけでは診断させない。訴えを門前払いするのでもなく、訴えだけで診断するのでもない。この設計によって、感度をほぼ維持したまま、特異度を大きく引き上げることに成功した。ちなみに研究用にはもっと厳しい版もあって、症状を四カテゴリー全部で要求する。臨床用と研究用を分けたのも賢いやり方だった。
診断基準を満たさなくなった患者、あるいは一部しか満たさない患者のために、CRPS-NOSという分類も用意された。回復途上の患者が「あなたはもうCRPSではない」と言われて支援から切り落とされないための、実務的な工夫だ。
日本には日本の事情がある。日本では厚生労働省の研究班が独自にCRPSの判定指標をまとめ、臨床用と研究用に分けて公表した。日本ペインクリニック学会の指針にも収載されている。この背景には、日本で「CRPS」という言葉が、交通事故の後遺障害認定という文脈で使われすぎた、という事情がある。医学的な診断名と、賠償額を決めるための等級判定が、同じ言葉を共有してしまった。これがどれだけ話をややこしくしたか、想像がつくと思う。
## 「気のせい」と言われ続けた百五十年
CRPSの歴史は、そのまま「痛みを信じてもらえない歴史」だ。
長いあいだ、この病気は心因性ではないかと言われてきた。もっと踏み込んで、CRPSになりやすい特有の性格がある、と主張する論文まであった。神経質で、依存的で、抑圧的で、という具合に。いわゆる「CRPS人格」だ。
現在、この説はほぼ否定されている。三十一の研究をまとめた系統的レビューは、CRPSとうつ、不安、神経症傾向、怒りとのあいだに、全体として関連はないと結論した。しかも面白いことに、研究の質が高いものほど関連が出ない。質の低い研究でだけ関連が見えていた。つまり、あの「関連」は、研究デザインの粗さが作り出した幻だった可能性が高い。CRPS患者の心理検査のスコアは、他の慢性痛患者や精神科患者と比べて、平均かそれ以下だという報告もある。
じゃあ心理的な問題は無関係なのか。そうではない。ただし順番が逆だ。この病気になれば、誰だって滅入る。眠れない。働けない。信じてもらえない。孤立する。心が削れるのは、病気の原因ではなく結果だ。この順番を取り違えると、患者に二重の罰を与えることになる。痛みで苦しんでいる人に、その苦しみは君の性格のせいだと告げる。これほど残酷な誤診はない。
そして、この誤りは純粋な学術的ミスとして起きているわけではない。医療訴訟や損害賠償の現場では、「CRPSは心理的なものだ」という主張が、賠償を減らすための道具として使われてきた。日本でも、保険会社が被害者の精神的傾向を理由に賠償額の減額、いわゆる素因減額を主張する例がある。これを排斥した判例もある。医学的な議論が、金の話と分かちがたく絡まっている。
日本の後遺障害認定では、CRPSは条件を満たせば七級、九級、十二級のいずれかで認定されうる。ただしその条件が厳しい。健側と比較して、関節拘縮、骨萎縮、皮膚の変化、この三つがいずれも明らかに認められること。裏を返せば、激烈な痛みがあっても、体が目に見えて変わっていなければ認められにくい。痛みそのものは、制度上、ほとんど数えられていないに等しい。
## 証言、その一――諫早の三十五歳
長崎県諫早市に住む三十五歳の人の話が、地元紙に載っている。
きっかけは、二月末の雨の日だった。濡れた外階段で足を滑らせ、両腕を打った。それだけだ。骨折もしていない。翌日、両手の様子がおかしいことに気づいた。
そこから始まった。両手がずっとピリピリと痛む。特に腕を下げているときがひどい、とその人は語っている。手は変色し、むくみ、こわばった。箸がうまくつかめない。手に汗をかき、しびれる。五月にCRPSと診断された。
生活は一変した。治療に専念するため仕事を休職した。車の運転もやめた。通院代は月に五万円を超えた。身体障害者手帳を取得して、いくらか負担は軽くなった。職場に戻れる見通しは、立っていない。
雨の階段で滑って腕を打った。それだけで、仕事も、運転も、箸を持つことも失われた。この落差が、CRPSという病気のすべてを表している。
その人はこう言っている。健康に見えても、つらい思いをしている人たちがいる。難病や共生社会への理解が広がってほしい、と。あわせて、ヘルプマークの認知度がもっと高まればいい、とも語っている。見た目に分からない。だからマークが要る。痛みが見えないという問題に対する、いちばん素朴で、いちばん切実な対抗手段がそれだ。
## 証言、その二――七つの大学病院を回った人
日本には「CRPS患者を支える会」という団体がある。設立の経緯が、そのままこの国の医療の現実を映している。
この団体を作った人の叔母が、二〇〇九年、仕事中の頭部外傷をきっかけにCRPSのタイプ一を発症した。彼女はそれから、七つの大きな大学病院を回った。七つだ。そのどこでも、出されたのは鎮痛薬と鎮静薬だけだった。そして医師の中には、この人の痛みは本物なのかと疑う者もいた。
団体はこう書いている。日本の多くの医師は、CRPSという診断名すら知らない。治療の知識も持っていない。彼らが指摘するのは、日本の医療が命の長さを重んじる一方で、生活の質、とりわけ痛みという問題を軽視してきたのではないか、という点だ。欧米では痛みそのものが治療対象の疾患として扱われ、真剣に研究され、早期介入の仕組みが作られている。その差は大きい。
この叔母は、最終的に脊髄刺激療法の手術を受けて、症状をかなり管理できるようになった。完全に痛みが消えたわけではない。それでも、そこまで来られた。団体が掲げる目的は、はっきりしている。これから病気になる人が、同じ道を歩まずに済むようにすること。七つの病院を回らずに済むようにすること。
## 証言、その三――韓国で、判決を武器にした男
もうひとつ、日本の隣で起きたことを紹介したい。立命館大学の研究者、大野真由子が調査した、韓国CRPS患友会の記録だ。
患友会の代表を務めたイ・ヨンウという人がいる。二〇〇二年、バスの急停車事故でCRPSを発症した。韓国国内では診断がつかなかった。彼はアメリカに渡って、そこで正式にCRPSと診断された。
帰国後、彼はバス会社と保険会社を相手に裁判を起こした。争点は因果関係だ。医学的に機序が完全には解明されていない病気で、事故との因果関係をどう立証するのか。判決は、衝撃を受けてから一ヶ月以内に症状が出ていることを重く見て、因果関係を認めた。同時にこの判決は、医学的に解明が困難な疾患について、被害者側に厳格な立証を要求することは法的救済を著しく困難にする、という判断を示した。
イ氏は、この判決を武器にした。患友会を組織し、ホームページで相談を受け、セミナーを開いた。救急の現場で患者が適切に扱われるように、CRPSカードを作って配った。政策提言を続け、医療費の本人負担率を六割から一割まで引き下げさせた。兵役の免除も実現させた。障害認定に向けても働きかけた。七年間で百本を超えるテレビや新聞の報道を引き出した。
大野の分析が鋭いのは、この運動の本質を「見えないものを可視化した」と捉えている点だ。痛みは測れない。写真も撮れない。だから彼らは、痛みを「判決」という文書と「カード」という物体に変換した。触れるもの、示せるもの、社会が扱えるものに。さらに疼痛専門医が患者会に籍を置くという異例の体制を作り、医学的な信用も確保した。
日本の患者会が苦戦する理由も、この論文は挙げている。患者自身が動けない。全国に散らばっている。社会的認知が低い。動けない病気の患者が、動くことでしか変わらない社会に働きかけなければならない。この構造的な難しさは、CRPSに限らず、多くの慢性疾患が共有している。
## 治療の実際――効くもの、効かないもの、よく分からないもの
CRPSの治療は、驚くほど多岐にわたる。それは裏を返せば、決定打がないということだ。
土台になるのはリハビリだ。動かす。使う。それが軸になる。ただし痛くて動かせないから、痛みを下げる手段と組み合わせる。神経障害性疼痛の薬、たとえばガバペンチノイドや三環系抗うつ薬が使われる。急性期にはステロイドが効くことがある。ビスホスホネートという骨粗鬆症の薬が、CRPSの痛みに効くという報告が複数あり、ネリドロン酸という薬剤については現在も大規模な第三相試験が進行している。骨の代謝と痛みが結びついているというのは、ズーデックの骨萎縮の観察を思い出させて興味深い。
神経ブロックもよく使われる。とくに交感神経節ブロック。ルリッシュの時代からの発想の延長線上にある。効く人には効く。ただし、交感神経が原因だという仮説そのものが今は絶対視されていないので、位置づけは昔ほど中心的ではない。
面白いのは、鏡を使う治療だ。ミラー療法。ヴィラヤヌル・ラマチャンドランが幻肢痛のために考案した手法が出発点になっている。鏡を体の正中に置いて、健側の手を映す。すると患側があるべき場所に、動く健康な手が見える。脳を騙す。この延長にあるのが段階的運動イメージ療法だ。オーストラリアのロリマー・モーズリーらが開発した。まず手の写真を見て左右を判別する訓練をし、次に動きを想像する訓練をし、最後に鏡を使う。段階を追って、脳の身体地図を作り直す。
モーズリーらの試験では良好な結果が出た。ところが、実際の臨床現場でやってみたら効かなかった、という報告も出た。二〇一二年にジョンソンらが発表したもので、研究環境と実臨床のギャップが議論になった。CRPSの治療研究では、こういう「再現できない」問題が繰り返し起きる。
脊髄刺激療法もそうだ。二〇〇〇年、オランダのケムラーらが『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』誌に、慢性CRPSに対する脊髄刺激療法のランダム化比較試験を発表した。六ヶ月時点では明らかな痛みの軽減があった。二年時点でも効果は保たれていた。ところが五年後の最終追跡では、刺激療法群と対照群のあいだに、痛みの強さでも生活の質でも有意差がなくなっていた。長期の追跡研究では、五年以内に一割から三割の患者が機器を抜去しているという報告もある。効果が一、二年で薄れる例、リード線がずれる例、感染する例。
だから現在の評価は慎重だ。二〇二〇年の系統的レビューは、CRPSに対する脊髄刺激療法の有効性の根拠は、確実性が低いか非常に低いと結論している。ただし、これを「効かないから無駄」と読むのは間違いだ。集団平均で有意差が出ないことと、目の前の一人に効かないことは別の話だ。実際、日本でも脊髄刺激療法で人生を取り戻した患者はいる。より新しい後根神経節刺激という手法も出てきている。
## ケタミン、あるいは五日間の眠り
そして、いちばん極端な治療の話をしよう。ケタミン昏睡療法だ。
ケタミンは麻酔薬だ。NMDA受容体という、中枢神経の感作、つまり「痛みの回路が焼き付いてしまう」現象の中心にある受容体をブロックする。低用量の点滴でCRPSの痛みが下がるという報告は複数あり、これは現在も比較的よく行われている。
だが、その先がある。ドイツのチュービンゲンで、ラルフ・トーマス・キーファーとペーター・ロールという医師が、麻酔量のケタミンを五日間持続投与して、患者を意識のない状態に置くという治療を試みた。集中治療室で、人工呼吸器につないで、五日間眠らせる。発想としては、暴走した痛みの回路を一度完全にシャットダウンして、再起動させる、というものだ。
報告された結果は衝撃的だった。二十人の患者のうち十六人が、少なくとも六ヶ月にわたる完全寛解を得た。ドイツで治療を受けた三十八人のうち、少なくとも十二人が五年以上、痛みがないかごくわずかな状態を保ったという報告もある。アメリカのドレクセル大学のロバート・シュワルツマンや、南フロリダ大学のアンソニー・カークパトリックといった医師たちが、この治療に注目した。
ただし問題が山積みだ。まずアメリカ食品医薬品局はこの治療を承認していない。国際的な試験の実施免除も認めなかった。だから治療はドイツと、メキシコのモンテレイにある病院で行われてきた。費用は自費で、メキシコでおよそ二万ドル。保険は効かない。低用量の外来点滴でも一万ドル前後。
安全性についても、報告している医師たち自身が「非常に安全だが、本質的なリスクは明らかに存在する」と書いている。五日間の全身麻酔だ。体重減少、睡眠障害、不安、そして集中治療にともなうあらゆる合併症のリスクがある。ケタミンの神経認知への影響を調べた研究も行われている。そして、全体としては五割以上の患者で痛みが戻ってくる。
それでも、この治療を求めて海を渡る患者がいる。二万ドルを工面して、保険の効かない国の集中治療室で、五日間眠りにつく。この事実そのものが、CRPSの痛みがどれほどのものかを、どんな数字よりも雄弁に語っている。
## なぜ「自殺病」と呼ばれるのか
この病気には、恐ろしい通称がある。自殺病。英語圏でもそう呼ばれてきた。
まず補足しておくと、この通称はCRPSだけのものではない。三叉神経痛にも同じ呼び名が使われてきた歴史がある。共通しているのは、痛みが極端に強く、極端に長く続き、そして周囲から理解されにくいという三点だ。
この呼び名がどこから来たかというと、要するに、絶望の深さからだ。終わりが見えないこと。何をしても効かないこと。そして何より、周囲に信じてもらえないことだ。患者の手記や調査を読んでいると、痛みそのものより「信じてもらえないこと」のほうがつらいと書いている人が本当に多い。シンシア・トゥーサンが診断された日を人生最良の日のひとつだと言ったのは、痛みが減ったからではない。ようやく自分の苦しみに名前がついたからだ。
だからここで、はっきり書いておきたい。この通称は、この病気の予後を宣告するものではない。むしろ逆に、放っておかれた場合にどれだけ人が追い詰められるかを示す、社会への警告として読まれるべきものだ。
そして押さえておきたいのは、この病気に対して現代医学が持っている手札は、決してゼロではないということだ。早期に診断がつき、早期にリハビリと薬物療法が始まった患者の予後は、明らかに良い。子どもや思春期の患者では、集中的な運動療法で高い割合が回復するというデータもある。診断さえつけば、ペインクリニックという専門領域があり、脊髄刺激療法という選択肢があり、心理的サポートを組み合わせた集学的治療という枠組みがある。日本には患者会があり、韓国にもアメリカにもイギリスにも患者会がある。
いま痛みで追い詰められている人がいるなら、伝えたいことはひとつだ。孤立しないこと。疼痛の専門医、ペインクリニック、患者会、公的な相談窓口。つながる先は必ずある。痛みを「気のせい」と言う医者に当たったなら、それはあなたが間違っているのではなく、その医者がこの病気を知らないだけだ。七つ回って駄目でも、八つめがあるかもしれない。実際にそうやって道を見つけた人が、いる。
## 痛みは、見えない
この病気の話をずっと追ってきて、結局いちばんの核心はここだと思う。痛みは見えない。
血糖値は測れる。腫瘍は写る。骨折は写る。だが痛みには、いまだに客観的なバイオマーカーがない。医者が知りうるのは、患者が語った言葉だけだ。これは医学の根っこにある不都合な真実で、CRPSはその真実がいちばん残酷な形で露出する場所にすぎない。
だからCRPSの歴史は、そのまま「他人の主観をどこまで信じるか」という問いの歴史になっている。ミッチェルは信じた。南北戦争の野戦病院で、傷が治ったのに痛いと訴える兵士たちの言葉を、詐病だと切り捨てなかった。それは十九世紀の医学としては相当な決断だったはずだ。だがその後の百年、医学はしばしばその信頼を裏切った。心因性という言葉で、訴えを黙らせてきた。
ブダペスト基準の設計思想が偉かったのは、この問題に対して技術的な解決を与えたことだ。訴えを診断に組み込む。でも訴えだけでは診断しない。信じるか信じないかという不毛な二択から、医療を引きずり出した。
ただ、制度のほうはまだ追いついていない。日本の後遺障害認定は、関節拘縮と骨萎縮と皮膚の変化という「見える所見」を要求する。つまり、体が壊れた証拠がないと痛みは数えられない。痛みそのものは、いまだに制度の中でほとんど無資格だ。
慢性痛をめぐる研究では、性差の問題も繰り返し指摘されてきた。女性の痛みの訴えが、男性より心理的な問題に帰されやすいという指摘だ。CRPS患者の三倍から四倍が女性であることと、この病気が長らく「心因性」と言われてきたことのあいだに、何の関係もないと言い切るのは難しい。シンシア・トゥーサンが慢性痛の女性のための団体を作ったのは、まさにそこだった。
## で、この病気の本当の恐ろしさは何なのか
ここまで書いてきて、この病気が人を惹きつけ、そして恐れられる理由を整理してみたい。
第一に、入り口が日常にあることだ。呪われた洞窟に入ったわけでも、稀な感染症に触れたわけでもない。転んだ。ひねった。ギプスをした。誰もが通る道だ。にもかかわらず、そこに突然、桁違いの結果が接続されている。この因果の不釣り合いが、人間の理解の枠組みを壊す。
第二に、痛みが「触れる」という行為を裏切ることだ。触れることは、人間にとって本来もっとも安全で、もっとも親密な行為のはずだ。それが激痛の引き金になる。抱きしめられない。手をつなげない。握手できない。この病気は、身体の痛みであると同時に、関係の切断でもある。
第三に、体が変わっていくことだ。色が変わり、毛が伸び、爪が歪み、骨が抜けていく。しかも、それでもなお「見えるほどではない」ことが多い。中途半端に見えるということが、いちばんたちが悪い。完全に見えないなら疑いようもなく主観の話になるが、少し見えると、他人は「その程度で」と言い出す。
第四に、自分の身体が異物になることだ。切断線を指差せてしまうこと。憎むこと。自分という輪郭が、痛みによって書き換えられていく。
そして第五に、信じてもらえないことだ。この五番目が、たぶんいちばん重い。他の四つは病気そのものが与える苦しみだが、五番目だけは、周囲が与える苦しみだ。つまり、減らせる余地がある苦しみだ。
## 損傷の信号としての痛み、というモデルが壊れる場所
ここまでを踏まえて、もう少し腰を据えて考えたい。
CRPSという病気が現代医学に突きつけている問いは、突き詰めると「痛みとは何か」だと思う。長いあいだ、痛みは損傷の信号だと考えられてきた。組織が壊れる。侵害受容器が発火する。信号が脊髄を上がって脳に届く。脳が痛いと感じる。損傷の量に比例して痛みが生じる。素朴で、直感的で、そして大部分の場面では実用的なモデルだ。だが、このモデルではCRPSは絶対に説明できない。損傷はとっくに治っている。にもかかわらず痛みは残り、しかも増大し、隣の四肢に飛び火し、体の反対側に現れることさえある。損傷の信号としての痛みという枠組みが、ここで完全に破綻する。
一九六五年にメルザックとパトリック・ウォールがゲートコントロール理論を出したとき、痛みの理解は大きく転回した。脊髄の後角に「門」があって、そこで信号が調節される。痛みは受動的な伝達ではなく、能動的な処理の産物だという発想だ。ちなみに脊髄刺激療法という治療法そのものが、この理論から直接生まれた。太い神経線維を電気で刺激して門を閉じる、という発想だ。理論が装置になった、珍しい例でもある。
その後、痛みの理解はさらに進んだ。中枢感作。脊髄や脳のレベルで、痛みの回路そのものが増幅装置と化す現象だ。グルタミン酸とNMDA受容体がその中心にいる。ケタミンがCRPSに使われるのは、まさにここを狙っているからだ。それから神経原性炎症。サブスタンスPやカルシトニン遺伝子関連ペプチドといった神経ペプチドが末梢で放出され、腫れと赤みと熱を作り出す。CRPSの患肢がなぜ「炎症しているように見えるのに感染も外傷もない」のかを、これが説明する。さらに自己免疫の関与だ。二〇一一年前後から、CRPS患者の血清中にベータ二アドレナリン受容体やムスカリン性M2受容体に対する自己抗体が見つかるという報告が相次いだ。長期のCRPS患者の血清由来の免疫グロブリンGをマウスに移入すると、患肢に似た変化が生じたという実験もある。もしこれが本筋だとすれば、CRPSは「痛みの病気」であると同時に「免疫の病気」でもあることになる。そして最後に、脳の身体地図の変容だ。患肢に対応する一次感覚野の領域が縮んだり歪んだりする。だから患者は自分の手の大きさを見誤り、自分の手を自分のものと感じなくなる。ミラー療法や段階的運動イメージ療法は、この地図を描き直そうとする試みだ。
こうやって並べてみると、CRPSという名前がなぜ「複合性」なのかが分かってくる。末梢の炎症、免疫、自律神経、脊髄の感作、脳の再編成。これらが同時並行で走り、互いに増幅し合っている。単一の病因を探すやり方が通用しない。だから治療も、単一の決定打が出てこない。ビスホスホネートも、ケタミンも、脊髄刺激も、ミラー療法も、それぞれが違う層に効こうとしている。効く人と効かない人が分かれるのは、患者ごとに支配的な層が違うからではないか、という仮説は自然に出てくる。実際、症状に応じて機序を推定し、それに合わせて薬を選ぶという「機序に基づく治療」の考え方が、近年の総説では繰り返し提唱されている。まだ理想論の段階だが、方向としては正しいと思う。
もう一つ、書いておきたいことがある。この病気の予後をめぐる情報の混乱についてだ。ある大規模な地域住民ベースの研究では、七割以上の患者が、発症から平均一年ほどで自然に軽快したという結果が出ている。一方で、診断から六年近く経った時点で、六割以上がまだ診断基準を満たしていたという研究もある。系統的レビューは、この落差の理由を丁寧に分析している。診断基準が緩い研究ほど成績が良い。カルテの見直しで判定した研究ほど成績が良い。逆に、実際に患者を診察した研究、専門施設で集めた研究ほど成績が悪い。要するに、軽い人まで拾えば治る人が多く見え、重い人だけを見れば治らない人が多く見える。当たり前といえば当たり前だが、この当たり前が、患者と家族を振り回してきた。診断された直後に「七割は治るらしい」という情報と「一生治らない」という情報を同時に浴びる。どちらも嘘ではないが、どちらも自分に当てはまるとは限らない。
そのうえで、事実として言えることを整理するとこうなる。血管運動症状、つまり色の変化や温度の異常や腫れは、比較的よく改善する。逆にいちばん長く残るのは運動症状だ。力が入らない、こわばる、動く範囲が狭い。痛みそのものは、消える人と残る人がはっきり分かれる。そして統計上、多くの患者は最終的に何らかの形で仕事に復帰している。ただし、痛みの平均点が十点満点の一点台まで下がった集団でも、六割以上が日常生活に制限を抱えているという報告がある。これは大事な数字だ。痛みが下がることと、生活が戻ることは、同じではない。
最後に、この病気を「怪異」として語ることの意味を考えておきたい。CRPSは超常現象ではない。れっきとした病気で、診断基準があり、専門医がいて、治療がある。それでもこの病気が怪談めいた手触りを持つのは、それが人間の因果感覚を裏切るからだ。小さな原因、巨大な結果。誰にでも起こりうる出来事、誰にも起こらないはずの帰結。そして、当人以外の誰にも見えない。目撃者がいない現象、というのは怪談の基本構造そのものだ。
だが決定的に違う点がある。怪談は、語られることで消費される。この病気は、語られることでしか改善しない。韓国の患友会が判決とカードで痛みを可視化したこと、長崎の三十五歳がヘルプマークの認知度を願ったこと、シンシア・トゥーサンが車椅子から語り続けたこと、日本の団体が「叔母と同じ道を誰にも歩ませない」と書いたこと。全部、同じ方向を向いている。見えないものを、どうにかして見える形に変換しようとする作業だ。ミッチェルが百六十年前、兵士の「赤く焼けたヤスリ」という言葉を書き留めたのも、その最初の一歩だった。医学が痛みに対してできる最も基本的なことは、いまだにそれなのかもしれない。相手の言葉を、疑わずに、正確に書き留めること。技術も薬もそのあとに来る。
この病気の本当の恐ろしさは、痛みそのものではない。痛みが誰にも届かないことだ。逆に言えば、届くようにすることは、医者でなくてもできる。そこが、この長い話の唯一の救いだと思う。
