脳の半分を捨てる。文字にすると、たった六文字だ。でも意味を考えはじめた瞬間、たいていの人は椅子から半分ずり落ちる。腎臓なら片方でいい。肺も片方で生きられる。じゃあ脳は。あの、記憶と言葉と人格が入っているとされる、あの脳は。
結論から言う。取れる。そして生きられる。それどころか、名前も、好きな食べ物も、母親をからかうときのあの意地悪な笑い方も、ぜんぶそのまま残る。この記事は、その事実を百年かけて積み上げてきた人たちの話だ。
半分捨てるのが「いちばんマシな選択」になる日がある
まず誤解を潰しておきたい。この手術は、脳が余っているからやるんじゃない。真逆だ。片側の大脳半球が丸ごと壊れていて、しかもその壊れた半球が一日に何百回も電気の嵐を起こし、その嵐がまだ無事なもう片方の半球まで焼き尽くそうとしている。そういうときに、外科医は考える。この火事は消せない。なら、燃えている棟を建物ごと切り離すしかない、と。
ジョンズ・ホプキンス大学の神経内科医ジョン・フリーマンは、この手術についてこう言い切っている。半球切除は、それ以外の選択肢のほうがもっとひどいときにだけやるものだ、と。冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、これほど正直な要約もない。半分取るのが正解なのではない。半分取らないことの代償が、半分取る代償を上回ってしまった、というだけの話だ。
そしてここが人体の不気味なところなんだが、その「代償」を払ったあとの人間が、思っていたよりずっと元気なのである。
十四時間。手術室で時間が伸びる
一九九六年二月十三日、ジョンズ・ホプキンス小児センター。八歳の女の子が手術室に運ばれていく前、両親にこう言ったという。心配しないで、大丈夫だから。サッカーしてる夢を見るね。
彼女の名前はクリスティーナ・サントハウス。前年の八月、ケープメイの町のプールで遊んでいたとき、足首がぴくぴく震えはじめた。それが最初のサインだった。診断はラスムッセン脳炎。過去四十年で五十四例しか報告がないと当時言われた、極めて稀な自己免疫性の脳炎だ。翌年の初めには痙攣は左半身全体に広がり、一日に百五十回まで増えていた。学校には母親がビーンバッグチェアを届けた。発作で倒れたときに怪我をしないように。
彼女の右半球を取り除いたのは、当時のジョンズ・ホプキンスの脳神経外科医ベン・カーソンだった。手術は予定を大幅に超えて十四時間かかった。母親のリンは、集中治療室で管とモニターに囲まれた娘を見た瞬間、その場で気を失っている。
十四時間。この数字が、この手術の実態をいちばん正確に伝えている気がする。ドラマみたいに切ってポン、ではない。まず頭皮を開き、頭蓋骨の大きな骨弁を外し、硬膜を開く。そこから先は、はっきり言って血との戦いだ。大脳半球というのは、太い動脈と静脈がびっしり張りついた、柔らかくて出血しやすい塊である。小さな子どもの体には、そもそも循環できる血液の量が少ない。だから半球手術の最大の敵は、てんかんでも神経障害でもなく、出血量と体温低下だったりする。実際、初期の症例で人が死んだ原因の多くは、腫瘍でも脳の欠損でもなく、出血と術後の高体温だった。
手術室のなかで何が起きているかを、手順として書くつもりはない。ここはそういう記事じゃない。ただ雰囲気だけ伝えるなら、麻酔科医が輸血バッグの数を数え続け、外科医が顕微鏡越しに数ミリ単位で血管を処理し続け、そして時計だけが猛烈な速さで進んでいく、という時間が半日近く続く、ということだ。看護師の交代が一回では済まない。それが半球手術だ。
目が覚めたあと。「新生児をもう一度産んだ感じ」
手術が終わってからが、たぶん本当の物語だ。
モーラ・リーブという女の子がいる。彼女は生まれる前、母親のお腹のなかにいる妊娠後期の段階で、すでに左半球に大きな脳卒中を起こしていた。生まれたときは誰も気づかなかった。だが生後まもなく発作が始まり、二〇〇八年の初めには一日数百回に達した。生後九か月のとき、クリーブランドクリニックのウィリアム・ビンガマンが、彼女の左半球のほとんどを取り除いた。
母親のアンは、術後をこう表現している。手術は、要するに新生児をもう一人つくったようなものだった、と。寝返りすら打てなくなった。生後九か月の子が、ゼロに戻ったのだ。
そこからの記録が壮絶にいい。生後十八か月で座れるようになり、二十三か月で歩いた。文章を話しはじめたのは六歳半。そして十三歳のバット・ミツバー(ユダヤ教の成人式)では、「半分の脳で生きるということ」について、自分の言葉で短いスピーチをしている。
彼女の話し方は今もゆっくりだ。一語ずつ置いていくような、電報みたいな話し方だと医師は言う。でも彼女は駄洒落を言う。慣用句をわざと外して笑いを取る。サッカーをやるし卓球もやるし、クイズ番組が好きだし、朝はベッドから出たがらない、ごく普通のティーンエイジャーだ。
ここが大事なところで、術後の回復というのは「元通りになる」ことじゃない。「そこから作り直す」ことなのだ。半球を失った子どもは、運動も言語も、多くの場合いったんゼロ近くまで落ちる。そこから、残った半球が――本来なら別の仕事をするはずだった領域を動員しながら――もう一度全部を引き受け直していく。数か月ではなく、数年かけて。
一八八八年、脳を削った医者が笑い者になった
歴史を巻き戻す。半球切除術の話をするとき、最初に必ず名前が出るのがゴットリープ・ブルクハルトだ。
スイスの精神科医だった彼は、一八八八年、自分が院長を務める施設で、六人の患者の大脳皮質の一部を切除した。二十六歳から五十一歳の男女で、内訳は慢性躁病が一人、原発性認知症が一人、残る四人はいわゆる妄想性の精神病だった。彼は前頭葉、側頭葉、頭頂側頭部の皮質を削り取った。刺激が入ってくる場所を減らせば、患者の興奮も減るはずだ、という理屈である。
結果は悲惨だった。一人は術後五日で痙攣を起こして死亡。一人はいったん改善したが後に自ら命を絶っている。二人は無変化、二人は「静かになった」。合併症として、てんかん、運動麻痺、語聾、感覚性失語が出た。無傷で済んだのは六人中二人だけだ。
一八八九年、彼はベルリンの学会でこの結果を発表した。会場の反応は、ひとことで言えば嘲笑だった。エミール・クレペリンは、患者を落ち着かせるために大脳皮質を引っ掻き回すつもりか、という趣旨の痛烈な言葉を浴びせている。ブルクハルトは一八九一年に詳しい報告書を出したあと、この分野から完全に手を引いた。
彼は英雄ではない。同意も倫理審査もない時代の、暴走した実験だったと言われても反論しにくい。ただ、脳の一部を外科的に取り除いても人は生き延びる、という乱暴な事実を初めて世に突きつけたのは彼だった。この記事に出てくる百年の物語は、そこから始まっている。
一九二八年、ダンディの論文はこう始まる
次に登場するのがウォルター・ダンディ。ジョンズ・ホプキンスの、あの伝説的な脳神経外科医だ。
彼が発表したのは一九二八年、米国医師会雑誌に載った「片麻痺を伴うある種の腫瘍に対する右大脳半球の摘出――予備的報告」という論文である。ここに「過去五年間で五人」と書かれている。つまり最初の一例は一九二三年頃にさかのぼる。人間の大脳半球を丸ごと取り除いた、最初の記録だ。
ダンディの理屈は、今読むと危ういほどまっすぐだ。前頭葉も側頭葉も後頭葉も、それぞれ単独なら取っても精神は保たれる。ならば右利きの人間の右半球を丸ごと取っても、精神は大して変わらないのではないか。しかもこの患者たちは、すでに腫瘍のせいで反対側が麻痺している。つまりその半球はもう「役に立っていない」。
彼の言葉には、意外なほど患者への配慮がにじんでいる。麻痺したままでもいい、頭さえはっきりしていれば生きたい、と患者たちが強く望んだ、と彼は書いている。当時、神経膠腫は治らない病気だった。手を尽くさないという選択肢は、彼にはなかったのだろう。
結果は厳しい。五人のうち一人は術後四十八時間以内に、血管クリップがずれたことによる出血で死亡。一人は二週間後に肺炎で死亡。二人は腫瘍の再発で、それぞれ三か月後と三年半後に亡くなった。残る一人は術後二週間以降の記録がない。
そしてダンディは論文の最後にこう書いている。これはとても勧められる手術ではない、しかし過酷な条件下でも生きたいと願う人にとっては、他のどの治療よりも長い延命をもたらす、と。腫瘍治療としての半球切除は結局定着しなかった。しかし彼が開けた扉の先で、この術式はまったく別の病気の救世主になる。
面白い後日談があって、二〇二一年に発表された検証によると、ダンディの一九二八年論文を引用した八十八本の論文のうち、内容を正確に引用できていたのはわずか十一パーセント。七十六パーセントは何かしら間違えていた。伝説というのは、こうやって少しずつ形を変えていく。
一九三八年、矛先がてんかんに向いた
転機は一九三八年だ。カナダのケネス・マッケンジーが、シカゴで開かれた米国医師会の会合で、てんかんのために半球切除を行った症例を報告した。患者は外傷後に片麻痺と発作を抱えた十六歳。右半球を摘出したあと、発作は止まった。
腫瘍を取るための手術が、発作を止めるための手術になった瞬間である。ここで発想が反転している。壊れた半球を「取り除くべき異物」として見るのではなく、「発作を発生させ続ける工場」として見る。工場ごと閉鎖すれば、生産は止まる。
そして一九五〇年、南アフリカのローランド・クリノーが決定打を放つ。乳児片麻痺の子ども十二人に半球切除を行い、そのうち発作のあった十人中九人で発作が消えたと報告したのだ。しかも子どもたちは歩けたままで、運動機能も思ったより保たれていた。
この報告は世界中に火をつけた。一九五〇年代、半球切除術は一種のブームになる。難治のてんかんに、圧倒的に効く手術がある。しかも子どもは驚くほどよく回復する。当時の熱狂は想像に難くない。
二十年後にやってきた、鉄の毒
そして、しっぺ返しが来る。
問題は、手術直後ではなく何年も、ときには十年以上経ってから始まった。取り除いたあとの巨大な空洞に、じわじわと出血が繰り返される。血液が分解されると鉄が残る。その鉄が髄膜と大脳皮質に沈着していく。これが表在性脳ヘモジデリン沈着症だ。
患者は、頭痛、傾眠、そして進行性の神経症状に襲われる。水頭症を合併する例も多い。せっかく発作から解放された子どもが、成長して十代、二十代になった頃に、今度は鉄の毒でゆっくり悪化していく。しかも根本的な治療法がない。
一九六五年にウルリッヒが最初に報告し、一九七三年にはセオドア・ラスムッセンが、解剖学的半球切除を受けた患者のおよそ三分の一にこの合併症が生じると報告した。三分の一である。手術の成功率がどれだけ高くても、三人に一人が数年後に別の地獄に落ちるなら、その手術は勧められない。
一九六〇年代から七〇年代にかけて、半球切除術は世界的に急速に下火になった。歴史の教科書ならここで「暗黒期」と書かれるところだ。ただ、この話には続きがある。
ラスムッセンの逆転――「機能的には全部、解剖学的には一部」
この合併症を報告したラスムッセン本人が、突破口を開いた。
彼は妙なことに気づいていた。何らかの理由で半球を完全には取り切れず、一部を残した「亜全摘」の患者たちには、ヘモジデリン沈着症が起きにくいのだ。つまり、空洞が大きすぎることが問題なのではないか。組織を残せば空洞は小さくなり、出血の余地も減る。
そこから彼が考案したのが、一九七四年に報告された機能的半球切除術だ。発想が美しい。脳組織を全部取る必要はない。取らなくても、その半球から出て行く神経線維をすべて断ち切ってしまえば、発作の電気は他の場所に届かない。てんかん焦点としては死んでいるのに、組織としては生きて血流も保たれている状態を作る。彼自身の表現を借りるなら、「機能的には完全、解剖学的には亜全摘」の半球切除である。
これで話が変わった。空洞が小さくなり、遅発性の合併症が減った。半球切除術は復活した。
そして「切除」ですらなくなった
一九九〇年代に入ると、さらに徹底される。組織を切り取るのが目的ではなく、つながりを断つのが目的なのだから、切り取る量をもっと減らせばいいじゃないか。こうして生まれたのが半球離断術だ。
離断の要素は、突き詰めると二つしかない。脳梁を切ること。そして内包に向かう投射線維を切ること。この二つを完全にやれば、その半球は他のどこにも信号を送れなくなる。
到達方法によって大きく二つの流儀がある。シルビウス裂の側から入る水平法と、半球間裂から縦に入る垂直法だ。水平法の代表がヴィルミュールとダニエルが提唱した島周囲半球離断術で、島の上と下に窓を開け、島を処理し、脳梁と放線冠を離断し、海馬と扁桃体を含む内側側頭葉を処理する、という組み立てになっている。ドイツのシュラムはこれをさらに小さな開頭で行う経シルビウス裂キーホール法へと洗練させた。
一方、垂直法の代表がフランスのオリヴィエ・ドラランドらが報告した垂直傍矢状半球離断術だ。頭頂部から側脳室と脳梁を経由して縦に降りていく。解剖学的な位置関係が把握しやすく、離断を完全にしやすいうえに、半球の大部分を血流のある状態で残せる。ドラランドらは二〇〇七年に八十三人の子どもの長期成績を報告している。
利点と欠点は、それぞれある。解剖学的半球切除は発作を止める効果が最も確実だが、出血量が多く、遅発性の水頭症や慢性硬膜下液貯留、そして表在性脳ヘモジデリン沈着症のリスクを背負う。機能的半球切除はそこを大きく改善したが、離断が不完全だと発作が残る。半球離断術は侵襲が最小で回復も早い反面、狭い術野で完全な離断を達成する技術的なハードルが高く、離断残存があると再手術になる。そして術式にかかわらず、水頭症は最大の合併症であり続けている。報告によって幅はあるが、シャント術を要する水頭症は一割から五割の範囲で報告され、多施設のまとめでは全体で二十三パーセントという数字が出ている。
誰がこの手術を受けるのか
適応疾患を三つ挙げておきたい。どれも、片側の半球だけが徹底的に壊れる病気だ。
ラスムッセン脳炎は、その名の通りラスムッセンが記載した病気で、細胞傷害性T細胞を主役とする自己免疫性の炎症が、なぜか片側の半球にだけ起こる。平均発症年齢は九歳前後で、成人発症例もある。日本国内の患者数は百人未満と推定されている。始まりは焦点発作で、約半数に持続性部分てんかんという、体の一部がずっとぴくつき続ける独特の発作が出る。そこから段階的に悪化し、片麻痺が出て、認知機能が落ち、MRIで片側の半球が萎縮していくのが見える。抗てんかん薬も免疫治療も、決定打にならないことが多い。これが、半球手術がいちばん劇的に効く病気でもある。
スタージ・ウェーバー症候群は、GNAQ遺伝子の体細胞変異が関わる病気で、顔面のポートワイン母斑、頭蓋内の軟膜毛細血管奇形、そして緑内障や脈絡膜血管腫が三徴とされる。約半数が薬剤抵抗性のてんかんを起こし、三割から六割に知的障害が出る。日本で医療費助成を受けている患者は百人未満だ。
片側巨脳症は、片側の大脳半球が異常に大きく育ってしまう脳形成異常で、mTOR経路の遺伝子変異が関与することがわかっている。難治てんかん、不全片麻痺、精神運動発達遅滞が三大主徴。日本の患者数はやはり百人未満。半球離断術によっておよそ六割の症例で発作消失が期待できるとされている。
このほか、周産期の脳梗塞による孔脳症、片側痙攣片麻痺てんかん症候群、急性脳症後の半球萎縮、広範な皮質形成異常なども対象になる。
二〇一九年、カリフォルニア工科大学が見たもの
ここからが、この記事のいちばんの山場だ。
二〇一九年十一月十九日、カリフォルニア工科大学のドリット・クリーマンとラルフ・アドルフス、リン・ポールらのチームが、セル・リポーツ誌に論文を発表した。タイトルを訳せば「単一の大脳半球を持つ成人における脳の内因性機能的結合」。研究対象は、子どもの頃に半球切除を受け、成人になった六人である。
参加者の内訳が興味深い。右半球を失った人が四人、左半球を失った人が二人。原因はラスムッセン脳炎が三人、周産期の脳卒中が二人、皮質形成異常が一人。手術を受けた年齢は、生後三か月が一人、四歳、六歳、七歳、八歳、十一歳。撮像時の年齢は二十歳から三十一歳。全員が言語理解指数で九十から百十八台、つまり平均かそれ以上の範囲にいる。
研究チームは、彼らが何もせずに横たわっているときの脳活動を高解像度で撮り、健康な対照六人、さらに公開データベースの千四百八十二人と比較した。使ったのは、健常者のデータから作られた七つの標準的な安静時ネットワークの地図だ。デフォルトモードネットワーク、注意ネットワーク、制御ネットワーク、辺縁系、体性感覚運動、視覚、といったおなじみの区分である。
まず驚くべきことに、健常者から作った地図が、半球が一つしかない脳にそのまま当てはまった。同じ区画のなかの活動は似ていて、同じネットワーク内は次に似ていて、ネットワークの外は似ていない。この階層が、きれいに再現された。
さらに、指紋照合のような手法で、同じ人の二回のスキャンを千人以上のなかから照合できるかを試したところ、六人中五人で成功した。これは対照群とまったく同じ成績である。半球が一つしかなくても、その人固有の機能的な接続パターンは、ちゃんとその人のものとして安定している。
そして本題。ネットワークの内部の結合の強さは、対照群とほぼ同じだった。ここは変わっていない。ところが、異なるネットワーク同士のあいだの結合は、はっきりと強まっていた。六人のうち四人が、大規模データの九十五パーセンタイルを超え、もう一人が九十パーセンタイルを超えていた。しかもそれは一部のネットワークに限った話ではなく、七つすべてで観察された。特に体性感覚運動ネットワークと視覚ネットワークで顕著だった。
クリーマンはこう語っている。半球を丸ごと失っているにもかかわらず、健康な脳にあるのと同じ主要ネットワークがすべて見つかった、と。そして、ネットワーク自体は異常に見えないが、ネットワーク同士のつながりのレベルが増えている、と。
念のため、健常者のばらつきの範囲が単に広がっただけではないか、という可能性も検証されている。答えは否だった。対照群のばらつきの分布と、半球切除者に見られた変化の場所は重なっていない。つまりこれは、正常な個人差の増幅ではなく、新しい再編成だと考えられる。
素人の言葉に翻訳すると、こうだ。半分になった脳は、残った半分のなかに元の設計図をそのまま維持している。ただし、各部署のあいだの内線電話が、明らかに鳴りっぱなしになっている。人手が半分になった会社が、組織図は変えずに、部署間の連絡を密にすることで仕事を回している、というイメージがいちばん近い。
言語野の引っ越しには締め切りがあるのか
ここで、多くの人が引っかかる疑問がある。言語野は普通、左半球にある。じゃあ左を取ったら喋れなくなるんじゃないのか。
答えは、条件つきでノーだ。そしてその条件が、脳の可塑性という話のいちばん面白い部分に直結している。
一九九七年、ロンドンのファラネ・ヴァルガ・カデムらが、ブレイン誌に一本の症例報告を発表した。アレックスという少年の話だ。彼は左半球を侵すスタージ・ウェーバー症候群で、幼少期を通じてまったく言葉を話さなかった。単語や簡単な指示の理解も、三歳から四歳相当のところで止まったままだった。
八歳半のとき、彼は左半球の皮質除去術を受ける。そして九歳を過ぎて抗てんかん薬をやめたあと、突然、言葉を獲得しはじめた。九歳から十五歳まで定期的に測定された記録によれば、最終的に受容言語と表出言語の年齢相当は八歳から十歳の水準に達した。しかも、幼少期にきちんと言葉を身につけたうえで左半球切除を受けた他の九人の患者と比べても、長い無言の期間による永続的な不利は認められなかった。
論文の結論は、当時の常識をひっくり返すものだった。明確に発音され、よく構造化された、適切な言語は、九歳という遅い時期に、右半球だけで初めて獲得されうる。臨界期という考え方への、真正面からの挑戦である。
もっと古い記録もある。一九七五年に報告された、五歳半で左半球切除を受けた男の子の二十一年後の追跡では、言語能力も知能も平均を上回るまでに発達していた。
とはいえ、可塑性は万能ではない。ここは正確に書かないといけない。同じヴァルガ・カデムらのグループが後年、三十人の患者を横断的に調べた研究では、左右どちらの半球が残っているかにかかわらず、受容語彙については同程度の水準に達しうるものの、生まれつきの病変や、後天的な左半球の損傷は、言語に実質的な障害を残し、それが短期言語記憶の制約として現れることが示されている。またラスムッセン脳炎で、五年以上正常な言語発達を経てから左半球を切除された子どもたちの研究からは、五歳を過ぎても右半球の可塑性は残っている、と示唆されている。
つまり、締め切りは一本の線ではない。ぼんやりとした濃淡のあるグラデーションで、しかも病気の種類、発症年齢、手術までの期間、残った半球がどれだけ健全か、といった要素が全部絡む。若ければ若いほど有利という傾向は確かにあるが、「何歳を過ぎたらもう駄目」という単純な閾値は引けない。
大阪市立総合医療センターが二〇一五年から二〇二四年に一歳未満で半球離断術を行った九例をまとめた報告では、手術時の月齢の中央値は四か月、体重の中央値は六・六キロ。九例中六例で発作が消失し、片側だけにてんかん原性が限られていた七例に絞れば六例、八十六パーセントで消失している。長期に追える例では、上肢の細かい動きに不器用さは残るものの、粗大運動は獲得でき、独歩に至り、言語理解や簡単な会話も獲得できていた。一方で水頭症が三例に生じており、これは過去の報告より高い。三例とも背景疾患は片側巨脳症だった。
何が失われ、何が残るのか。ここを雑に書いてはいけない
この手術の話は、感動的な部分だけを切り取ると簡単に嘘になる。だから、失われるものを先に、はっきり書く。
まず、手術と反対側の身体に片麻痺が残る。特に手指の細かい動きは、多くの場合、機能的に使えるレベルまでは戻らない。歩行は獲得できることが多いが、装具を要する人も少なくない。クリスティーナ・サントハウスも、左手の実用的な機能を失い、歩くのに脚の装具を必要とした。
次に、反対側の同名半盲。両目のそれぞれで、視野の半分が欠ける。片目を失うのとは違う。「左側の世界が見えない」という状態だ。運転や、混雑した場所での歩行に影響する。
そして、水頭症をはじめとする合併症のリスク。周術期の死亡は現代のシリーズでは一パーセント未満まで下がったが、ゼロではない。ジョンズ・ホプキンスの一九六八年から一九九六年までの五十八人のシリーズでは、周術期に四人が亡くなっている。
さらに言えば、発作が完全には止まらない人もいる。同じジョンズ・ホプキンスのシリーズでは、生存した五十四人のうち五十四パーセントが発作消失、二十四パーセントが日常生活に支障のない程度の発作、二十三パーセントは生活に影響する発作が残った。十二か国の三十二施設、千二百六十七件を集めた国際共同研究では、術後一年時点での発作消失は八十五パーセントだが、追跡期間中央値二十四か月では六十六パーセントに落ちる。魔法ではない。
そのうえで、残るものを書く。名前も、家族の顔も、好きな音楽も、幼い頃の記憶も、ユーモアのセンスも、怒りっぽさも、粘り強さも、残る。人格が入れ替わったという報告はない。記憶が半分になったという報告もない。ジョンズ・ホプキンスの一九七五年から二〇〇一年までの百十一人のシリーズでは、八十六パーセントが発作消失または日常生活に支障のない発作にとどまり、記憶と人格は正常に発達したと報告されている。ボウリング部のキャプテンになった人がいる。州のチェス大会で優勝した人がいる。大学に進んだ人がいる。
クリスティーナは十七歳で運転免許を取り、高校のボウリングチームのキャプテンになり、二〇一〇年に言語聴覚の分野で修士号を取得し、言語聴覚士として働いている。技術系の高校の教師の一人からは、電話番くらいしかできないんじゃないかと言われたことがあるという。その予言は外れた。
ここが、この記事でいちばん誤解されたくない部分だ。「半分の脳でも普通に暮らせる」という言い方は、半分正しくて半分残酷である。麻痺も半盲も、消えたわけではない。彼女たちは障害を抱えたまま、その障害と一緒に生きている。すごいのは「障害がないこと」ではなく、「障害があってもその人の人生が続いていること」だ。この二つを混ぜてはいけない。
ネットは何を言ったか。そして「脳は十パーセント」の亡霊
半球切除の話がSNSで拡散すると、コメント欄はだいたい三つの層に分かれる。
第一層は素朴な驚愕。半分でいけるのかよ、という反応。これは健全だ。
第二層が厄介で、必ずこう書く人が現れる。ほら見ろ、やっぱり人間は脳の十パーセントしか使ってないんだ、と。
これは完全な誤りで、しかも古くてしぶとい。この俗説の起源はだいたい一八九〇年代のウィリアム・ジェームズやボリス・サイディスあたりの「人は潜在能力の一部しか使っていない」という主張の歪曲だとされる。一九二九年の世界年鑑には「科学者と心理学者は、我々が脳力の約十パーセントしか使っていないと言う」という記述が載った。デール・カーネギーの一九三六年の本の序文で、ローウェル・トーマスがこの数字をジェームズに誤って帰属させたのも大きかった。
反論はいくつもある。バリー・バイヤースタインは六つの角度から整理している。脳のほぼどの部位も、損傷すれば何らかの機能が失われる。PETやfMRIで見ると、睡眠中でさえ脳の全領域が活動している。脳は体重の二パーセントしかないのにエネルギーの二十パーセントを消費しており、九割が無駄なら進化がとっくに削ぎ落としている。数十年の脳機能マッピングで、機能を持たない領域は見つかっていない。単一ニューロン記録でも、脳全体でニューロンは活動している。そして使われないニューロンは変性するが、正常な成人の脳に大規模な変性は見られない。
そもそも、半球切除の症例そのものが、この俗説への最強の反証になっている。もし脳の九割が余っているなら、半球を取った人は何も困らないはずだ。だが実際には、確実に麻痺が残り、確実に半盲が残る。取った分だけ、ちゃんと機能は失われる。失われた分を、残った半球が別のやり方で肩代わりしているだけだ。余っていたのではない。奪われたうえで、作り直したのである。
第三層はもっと深い。意識は半分になるのか。人格は連続しているのか。この人は手術前と「同じ人」なのか。この問いは、次の二つの節を経てから扱いたい。
脳梁離断術との違い。分離脳は「半分」ではない
半球切除の話をすると、必ず分離脳の話と混ざる。混ぜてはいけないので整理する。
脳梁離断術は、左右の半球をつなぐ脳梁という巨大な線維束を切る手術だ。半球はどちらも残る。取らない。目的も違う。半球切除が「壊れた半球を切り離して発作の発生源そのものを封じる」根治を狙う手術であるのに対し、脳梁離断術は「発作が反対側へ広がるのを防ぐ」緩和手術である。日本の解説でも、これは根治術ではないと明確に位置づけられている。転倒発作で怪我が絶えない患者の、その転倒を減らすための手術だ。
一九六〇年代、ロジャー・スペリーとマイケル・ガザニガが、ボーゲンとヴォーゲルの手術を受けた患者たちを調べて、有名な実験結果を報告した。左視野に見せたものについて、患者は口では「何も見えない」と答えるのに、左手ではその物を正しく選び出せる。ここから、話せる左半球と、話せない右半球という、二つの独立した意識主体が一つの頭蓋のなかに同居しているのではないか、という解釈が生まれた。この解釈は統合情報理論やグローバル・ワークスペース理論にも影響を与え、今も一般向けの本に繰り返し登場する。
ただ、この解釈は現在かなり揺らいでいる。ヤイル・ピントらは二〇一七年以降、分離脳患者は視野全体にわたって刺激を検出し位置を答えられること、左手で答えても右手で答えても口で答えても成績がほとんど変わらないこと、特定の条件では左右をまたいで視覚情報が統合されることを示した。彼らの表現を借りれば、知覚はより分かれているが、反応はおおむね統一されている。二〇二〇年のレビューは、意識が分裂しているのか統一されているのかを判定するには証拠がまだ足りない、と結論している。部分的な統一、段階的な意識、意識体験と報告可能性の乖離といった、中間的な考え方が検討されている段階だ。
だから話を整理するとこうなる。分離脳では、二つの半球が残っていて、そのあいだの通信が切れている。半球切除では、半球そのものが一つしかない。前者は「二つの何かが対話をやめた状態」であり、後者は「そもそも一つしかない状態」だ。後者のほうが解剖学的には過激なのに、後者のほうが心理的な奇妙さは少ない。ここに、意識という問題の核心が顔を出している気がする。
ロボトミーとの決定的な違い
もう一つ、絶対に混ぜてはいけないのがロボトミーだ。
エガス・モニスが最初のロイコトミーを行ったのが一九三五年。一九四九年にはノーベル生理学・医学賞を受賞している。ウォルター・フリーマンが一九四六年に経眼窩式ロボトミーを開発し、簡便になったことで爆発的に広まった。米国で約四万人、英国で一万七千人、デンマークとノルウェーとスウェーデンの三国で約九千三百人。米国での実施のピークは一九四九年の五千七十四例である。日本では一九四二年、新潟医科大学の中田瑞穂が最初に実施した。
そして一九七五年五月十三日、日本精神神経学会が精神外科を否定する決議を可決し、日本でのロボトミーは終わった。
違いは四つある。
第一に、適応が違う。ロボトミーの対象は、統合失調症をはじめとする精神疾患だった。行動を鎮めることが目的だ。半球切除の対象は、画像で病変が見え、脳波で発作起始が確認でき、しかもすでに片麻痺や半盲といった神経症状が出ているか、その進行が不可避と予測される、器質的な難治てんかんである。日本のガイドラインでもこの条件は明記されている。曖昧さの度合いが根本的に違う。
第二に、目的が違う。ロボトミーは人格や情動を変えることそのものを狙った。フリーマンは結果を「外科的に誘導された子ども時代」と表現している。半球切除は逆で、人格を変えないことが成功の条件だ。発作を止めて、その人がその人のまま人生を続けられるようにするのが目的である。人格が変わったら、それは失敗として扱われる。
第三に、検証が違う。半球切除には、術前の長時間ビデオ脳波モニタリング、MRI、FDG-PET、発作時SPECT、脳磁図、必要に応じた頭蓋内脳波という、何段階もの非侵襲的および侵襲的な検査がある。術後には発作転帰の国際的な分類があり、多施設で数字が集計され、千二百件規模のデータから予測スケールまで作られている。効いているかどうかが、検証可能な形で測られている。ロボトミーには、それがほとんどなかった。
第四に、倫理審査という枠組みそのものが違う時代のものだ。ニュルンベルク綱領が一九四七年、ヘルシンキ宣言が一九六四年、そして研究倫理の三原則を打ち出したベルモント・レポートが一九七九年。ロボトミーの全盛期は、この枠組みが整う前だった。現在の半球手術は、包括的てんかん専門施設の多職種カンファレンスで適応が議論され、家族への十分な説明と同意を経て行われる。子どもの手術である以上、代諾の妥当性についても慎重な検討が求められる。
同じ「脳を切る」でも、この二つはまったく別の生き物だ。半球切除をロボトミーの延長線上で語るのは、輸血を瀉血の延長線上で語るのと同じくらい的外れである。
日本ではどうなのか
日本のてんかん外科は、正直に言えば欧米に比べて数が少ない。年間の実施数は二〇一一年の約六百例から二〇一九年には約千二百例まで倍増したが、そのうち四百例は迷走神経刺激術だ。薬剤抵抗性てんかんのうち手術を受けている割合は、米国が約一・一八パーセントであるのに対し、日本は約〇・五六パーセント。おおむね半分である。てんかんの年間発症率から試算すると、日本では年間およそ千七百人の手術適応症例が発生している計算になるが、実際の手術件数は千件から千百件程度にとどまる。
理由として指摘されているのは、適切な診断を経て三次てんかん診療センターに紹介される体制が十分でないこと、そして根底にある、てんかんという病気に対する社会的な偏見と認知度の低さだ。手術という選択肢が存在することを、患者も家族も、ときには主治医も知らないまま時間が過ぎてしまう。
そのなかで半球離断術は、てんかん外科のなかでも稀な手技に分類される。日本の教科書的な解説でも、稀ではあるが発作抑制効果が高く重要な手技、と位置づけられている。静岡てんかん・神経医療センター、国立精神・神経医療研究センター、東京大学、東北大学、大阪市立総合医療センターといった施設で行われており、垂直法の解剖学的理解を深めるための遺体脳を用いた検討や、垂直法と水平法の比較研究も、日本の術者から国際誌に報告されている。二〇〇七年には川合謙介と清水弘之による、大脳半球切除術と大脳半球離断術の適応と成績、術式の歴史的変遷をまとめた総説が日本語で発表されている。
対象疾患のほうも、いずれも指定難病だ。ラスムッセン脳炎が難病百五十一番、片側巨脳症が百三十六番、スタージ・ウェーバー症候群が百五十七番。それぞれ国内の患者数は百人未満と推定されている。数百人規模の患者を、限られた専門施設が支えている構図である。
なぜ、この話はこんなに怖いのか
冷静に考えると、変な話だ。腎臓を片方取る話で人は震えない。肺葉切除の記事を読んで眠れなくなる人も少ない。なぜ脳の半分だけが、こんなに背筋を寒くさせるのか。
たぶん理由は三つある。
一つめは、脳が「私が入っている場所」だと信じられているからだ。腎臓が減っても私は減らない。でも脳が半分になったら私も半分になるんじゃないか、という直感が働く。この直感は強烈で、しかも証拠と真っ向から矛盾する。矛盾したまま両方が頭に残るから、気持ちが悪い。
二つめは、不可逆性だ。取ったものは戻らない。移植もできない。人工臓器もない。この手術には「やっぱりやめます」がない。子どもの脳について、親がその決断をしなければならない。その重さを想像すると、他人事なのに動悸がする。
三つめは、こちらのほうが本質的だと思うのだが、この手術がうまくいくという事実そのものが怖い、ということだ。もし半球切除の患者が全員植物状態になるなら、話はむしろ単純だった。脳は大事、以上。ところが実際には、彼女たちは大学に行き、修士号を取り、駄洒落を言い、サッカーをする。それはつまり、「私」というものが、思っていたより特定の場所に固定されていない、ということだ。私を私にしている何かは、右半球にも左半球にも、たぶんどちらか片方だけでも成立してしまう。その事実が怖い。
意識と人格は、どこにあるのか
というわけで、最後の問いに来た。
もし右半球を取っても私が私のままなら、そして左半球を取っても私が私のままなら、手術前の私のなかには「私」が二つ入っていたのだろうか。それとも、どちらでもない何かが一つあって、それがどちらの半球にも宿れるということなのだろうか。
哲学ではこれをよく思考実験の形で扱う。半球を左右に分離して、それぞれ別の身体に移植したら、どちらが「元の私」なのか、というやつだ。デレク・パーフィットの分裂の思考実験に近い。半球切除は、この思考実験の片側だけを現実にしてしまった手術だと言える。片方が消えて、片方が残った。そして残ったほうは、自分が半分になったとは感じていない。
カリフォルニア工科大学のデータは、この問いに直接答えてはいない。だが、示唆はしている。半分になった脳のなかで、七つのネットワークはそのまま存在し続け、その人固有の接続パターンも保たれていた。変わったのは、ネットワーク同士の会話の量だ。もし「私」というものが特定の細胞の塊ではなく、ネットワークがどう組み合わさるかという「配置のパターン」の側にあるのだとしたら、素材が半分になってもパターンが再現できる限り、私は残る。この解釈は、かなり気持ちがいい。
ただし、ここで安易に断定するのは危ない。当事者が「自分は自分だ」と感じることと、外から見て人格が連続していることと、意識の主体が数として一つであることは、実は全部別の問題だ。分離脳の議論が二十世紀のあいだずっとぐるぐる回り続け、二〇二〇年の総説が「判定するには証拠が足りない」と結論せざるを得なかったのは、まさにこの三つが分離できないからである。
私が唸ったのは、この問いに対して、当事者たちがまったく別のレイヤーで答えを出していることだ。モーラは自分の成人式で、半分の脳で生きるということについてスピーチをした。クリスティーナは言語聴覚士になった。彼女たちは「意識は半分か」という問いに理論で答えたわけではない。生きることで答えている。それが答えとして不十分だと言える人が、この地球上にどれだけいるだろう。
「切除」から「情報遮断」へ――目的と手段が入れ替わった日
ここから先は、上で書ききれなかったことを、もう少し腰を据えて掘る。
まず、この百年の歴史を一本の線で見たときに何が見えるか、という話をしたい。私はこの取材で、術式の変遷が「引き算から引き算へ」ではなく、「引き算から情報遮断へ」の移行だったことに一番唸った。ブルクハルトもダンディも、悪いものを物理的に取り除けば良くなる、という素朴な発想で動いていた。マッケンジーとクリノーは、それをてんかんに応用して、驚くほどうまくいった。だが五〇年代の熱狂は、十年から二十年遅れで届いた表在性脳ヘモジデリン沈着症という請求書によって冷やされる。ここで普通なら、この術式は歴史から消える。実際、六〇年代から七〇年代にかけて、ほとんど消えかけた。
消えなかったのは、ラスムッセンが問題の構造を読み替えたからだ。彼が気づいたのは、「大きな空洞が悪い」という一点である。そして「じゃあ空洞を作らなければいい」という一手で、目的と手段を切り離した。目的は発作を止めること。手段は組織を取ることだと思われていたが、本当に必要だったのは組織を取ることではなく、信号を止めることだった。この読み替えが起きた瞬間、手術は「切除」から「離断」へと性質を変え、そこから三十年かけて、開頭の大きさも出血量も入院期間も、どんどん縮んでいった。
これはてんかん外科に限った話ではない。医学の進歩の多くは、新しい道具の発明よりも、「本当は何が必要だったのか」の再定義から生まれる。半球切除の歴史は、そのいちばん劇的な標本だと思う。
次に、数字の読み方について注意喚起をしておきたい。この記事にはいくつも成績の数字が出てきた。ジョンズ・ホプキンスの五十八人で五十四パーセント発作消失、百十一人で八十六パーセントが発作消失または非障害性、国際共同の千二百六十七件で一年時点八十五パーセント、追跡中央値二十四か月で六十六パーセント、日本の乳児九例で六十七パーセント、片側だけに焦点が限られる例に絞ると八十六パーセント。
これらは同じものを測っているようで、実は微妙に別のものを測っている。転帰の分類が違う。追跡期間が違う。何より、患者の背景疾患の構成が違う。ラスムッセン脳炎のような進行性の病因は成績がよく、次いで片側巨脳症などの発達性、そして周産期障害などの獲得性の順に成績が下がっていく、という傾向が繰り返し報告されている。ジョンズ・ホプキンスのシリーズでも、ラスムッセン症候群の子どもの八十九パーセントが発作消失または非障害性であるのに対し、皮質形成異常群と血管性の群は六十七パーセントだった。だから、施設Aの九十パーセントと施設Bの六十パーセントを並べて優劣を語るのは、たいてい無意味である。
そしてもう一つ。二〇二一年に発表された半球手術転帰予測スケールは、発作発症年齢、全般化した発作症候の有無、手術と反対側のFDG-PETでの代謝低下、病因、過去の非半球性切除術の既往、という五項目から発作消失の確率を出す道具として作られた。曲線下面積は〇・七二。その後、年齢や点頭てんかんの既往、MRI病変を加えた計算機がオンラインで公開されている。ところが二〇二三年、六十人の単一施設コホートでこのスケールを検証した研究では、多変量ロジスティック回帰でもベイズ解析でも有意にならず、妥当性が確認できなかった。予測ツールというのは作るのは早いが、他所の患者集団で通用するかどうかは別問題だ、という教訓である。医療の数字と付き合うときの、いい戒めだと思う。
三つめに掘っておきたいのが、可塑性の「非対称性」の話だ。左半球を取っても言語が育つ、という事実は華々しく語られる。だが同じくらい重要なのに語られないのが、逆方向の話である。右半球を早期に失った子どもは、言語には大きな問題が出ないことが多い。しかし空間認知や、顔と単語の同時処理のような機能には影響が出る。ペンシルベニアの研究グループが半球を失った四十人を調べた結果によると、残ったのが左半球でも右半球でも、子どもたちは顔も単語も認識できた。ただし正答率は約八十パーセントで、通常の対照群の九十パーセント超には届かなかった。残った半球は、本来なら分業していた二つの仕事を両方引き受けられる。引き受けられるが、完璧にではない。
これは半球切除に限った話ではなく、脳の可塑性というものの本質的な性格を表している気がする。可塑性は「代替できる」という意味であって、「無料で代替できる」という意味ではない。同じ面積に二倍の仕事を詰め込めば、どこかで精度が落ちる。カリフォルニア工科大学の見つけたネットワーク間結合の増加も、たぶん同じことの裏返しだ。分業が減って、兼務が増えた状態。効率がよくなったのではなく、そうしないと回らなくなったのだ、という読み方のほうが正確だろう。
四つめ。当事者と家族の視点について、もう少しだけ書いておきたい。クリスティーナの母リンは、この手術について、こんな主旨のことを語っている。そんな手術は聞いたこともなかった、野蛮に思えた、腎臓は一つでも生きられるけれど、まさか脳が半分で生きられるなんて誰が思うだろう、と。
この言葉には、この記事のすべてが詰まっている。医学的な合理性と、親の直感のあいだにある断絶。専門家にとっては「エビデンスのある選択肢」でも、親にとっては「我が子の脳の半分を捨てる決断」である。この二つを橋渡しするのが、本来はインフォームド・コンセントという手続きのはずだ。だが実際にそれをやるのは、途方もなくしんどいことだと思う。しかも判断は、たいてい急がなければならない。発作は待ってくれないからだ。
モーラの家族も同じ場所を通っている。生後九か月で、一日数百回の発作。手術を選ばなければ、発達も、命そのものも危うい。選べば、寝返りも打てない状態からやり直しになる。どちらも取り返しがつかない。この記事を書きながら、その判断の重みだけは、いくら調べても自分には届かないな、と何度も思った。
五つめに、SNSでこの話題が回るときの、私が気になっているパターンを書いておく。半球切除の話は、しばしば「感動ポルノ」の形で消費される。半分の脳で修士号、という見出しが独り歩きする。そして次に来るのが、「だからみんな限界を決めるな」みたいな自己啓発への接続だ。
これは、当事者に対してかなり失礼な使い方だと思っている。彼女たちが乗り越えたのは、精神論ではない。何年ものリハビリと、装具と、視野の欠けた世界での日常と、周囲の無理解と、その全部だ。しかも同じ手術を受けても、発作が残る人がいて、重い障害が残る人がいて、亡くなった人もいる。成功例だけを切り出して「気の持ちよう」の話にすり替えるのは、うまくいかなかった人たちを二重に傷つける。
同時に、逆方向の失礼もある。障害があるから何もできない、という決めつけだ。クリスティーナに「電話番くらいしかできないんじゃないか」と言った教師は、まさにそれをやった。麻痺があることと、能力がないことは、まったく別の話である。この記事で私が一番気をつけたのは、そこを混ぜないことだった。残る障害は正確に書く。保たれる能力も正確に書く。どちらかを盛ってもいけないし、どちらかを消してもいけない。
六つめ。日本の状況について、もう少し踏み込む。薬剤抵抗性てんかんのうち手術に至る割合が米国の半分、という数字は、単に手術件数の問題ではないと思う。その手前に、診断の遅れと、紹介経路の断絶がある。てんかんという診断がついてから、この患者は薬では止まらないと判断され、包括的なてんかん専門施設に紹介されるまでに、何年もかかることがある。その何年かのあいだに、発達の窓は少しずつ閉じていく。可塑性の議論を思い出してほしい。早いほうが有利だ、という傾向は、はっきりある。
日本では、半球離断術は稀な手技として扱われている。稀であること自体は悪いことではない。適応が厳しく限られているのだから、むしろ乱発されるほうが恐ろしい。問題は、必要な人にちゃんと届いているかどうかだ。そしてその答えは、たぶん「まだ十分ではない」だろう。指定難病の患者数がいずれも百人未満というのは、それだけの少数の人が、たまたま近くに専門施設がなかったというだけの理由で、選択肢を知らないまま過ごしている可能性がある、ということでもある。
なお、念のためはっきり書いておくが、この記事は治療方針の助言ではない。半球手術は極めて限定された適応の、極めて侵襲の大きい選択肢であり、その判断は必ず専門的な検査と多職種の議論を経て行われる。ここに書いた数字はどれも、特定の誰かの結果を予測するものではない。実際の治療については、必ず担当の医師と、必要ならセカンドオピニオンを通じて相談してほしい。
最後に、私がこの取材で一番長く手が止まったところを書いて終わりにする。
カリフォルニア工科大学の論文の、指紋照合の部分だ。千人以上の脳のデータのなかから、この人の脳はこの人の脳だ、と機能的な接続パターンだけで同定できるかどうか。半球が一つしかない六人のうち、五人でそれが成功した。健常者の対照群とまったく同じ成績である。
これは、脳を半分失った人が、「自分の脳らしさ」を失っていなかった、ということだ。解剖学的には、これ以上ないほど大きな変化が起きている。にもかかわらず、その人の脳の「筆跡」は残った。
私はここで、素直にぞっとして、そのあと少し安心した。ぞっとしたのは、じゃあその筆跡はどこに書かれていたんだ、という問いが立つからだ。失われた半球にも同じ筆跡があったはずで、それは消えた。なのに残ったほうにも同じ筆跡がある。筆跡は複製されていたのか。それとも書き手のほうが別にいるのか。
安心したのは、少なくとも当事者にとっては、この問いはそれほど切実ではないらしい、ということだ。彼女たちは、自分が自分でなくなったとは感じていない。哲学がまだ答えを出せていない問いに、身体のほうが先に答えを出してしまっている。人体の謎というのは、たいていそういう順番でやってくる。理屈が追いつく前に、事実がもう起きている。
脳の半分を取り除いても、その人はその人のままだった。この一文が事実として成立してしまうこと。それが、私がこの三週間で見たもののなかで、いちばん静かで、いちばん恐ろしくて、いちばん救いのある事実だった。
