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フランチェスコ・レンティーニ――三本目の脚でボールを蹴った男が、最後まで言わなかったこと

スポットライトの下に、スーツ姿の男が立っている。小柄で、洒脱で、やたらと口が回る。彼は客席に向かって冗談を飛ばし、ひとしきり笑いを取ったところで、足元のサッカーボールに目を落とす。そして、三本目の脚を振り上げて、ボールをステージの端まで蹴り飛ばす。
客席がどっと沸く。これが十九世紀末から二十世紀半ばまで、アメリカ中のサーカスで繰り返された光景だ。男の名はフランチェスコ・レンティーニ。シチリア生まれ。芸名はザ・グレート・レンティーニ。人は彼を「三本足の男」と呼んだ。
見世物小屋の話というのは、たいてい悲惨に終わる。搾取されて、消費されて、捨てられる。でもこの男の話は、その型に入らない。彼は四十年以上ステージに立ち続け、同業者からは「キング」と呼ばれ、結婚して四人の子を育て、自分の家を買った。そして一つだけ、何度も繰り返した言葉がある。
## 一八八九年五月十八日、ロソリーニで起きたこと
シチリア島の南東、シラクサ県にロソリーニという町がある。バロック様式の石造りの建物が並ぶ、乾いた白っぽい町だ。一八八九年五月十八日、ここでフランチェスコが生まれた。十二人兄弟の五番目。姉妹が七人、兄弟が五人。普通の、子だくさんのシチリアの家族だ。
ところが、取り上げ婆が声を上げた。赤ん坊の背中、背骨の下端に、もう一つの腰から下の胴体がくっついていた。そこから完全な形の脚が一本伸びている。さらにその脚の側面に、小さな四本目の足がついていた。下半身には二組の生殖器があった。
後年の計測では、彼の普通の二本の脚は九十九センチと九十七センチ。三本目の脚は九十一センチで、先端は内反足になっていた。つまり三本目は、他の二本より少し短い。この数センチの差が、あとで彼の人生を左右する。短いからこそ、彼は三本目を引きずって歩かずに済んだ。短いからこそ、自由に振り回せた。
## 「奇跡」と「小さな怪物」――村がつけた二つのあだ名
当時のシチリアの田舎町で、こういう子が生まれると何が起きるか。二つの反応が同時に起きた。
ひとつは、畏れだ。シチリア方言で「ウ・マラヴィッギゥス」、つまり「奇跡」と呼ばれた。神が何かの意図をもって送り込んだ存在だ、という見方。カトリックの強い土地だから、この種の解釈は自然に出てくる。
もうひとつは、吐き気だ。「小さな怪物」と呼ぶ人間もいた。家族は町の目から逃れるために、彼を叔母の家に預けた。叔父コラード・ファルコの妻のもとだ。これを「家族に捨てられた」と取るか、「守られた」と取るかは難しい。たぶん両方だったと思う。十二人兄弟のうちの一人を、人目の少ない場所に移す。それで家の体面も守れるし、子も守れる。当時の取り得る選択肢は、そんなに多くなかった。
## 生後四ヶ月、医師は切除を諦めた
生後四ヶ月のころ、家族は専門医のもとへ彼を連れて行った。三本目の脚を切り落とせないか、という相談だ。
医師の答えは、無理だ、というものだった。この余分な脚は、単に外側にくっついているのではない。骨盤や脊柱の下部と、血管と神経のレベルで深くつながっている。切除しようとすれば、下半身の麻痺を起こすか、そのまま死ぬ危険がある。十九世紀末の外科でこれをやるのは、ほぼ自殺行為だった。
だから彼は、三本目の脚と一生付き合うことに決まった。この決定が、結果的に彼をスターにする。もし当時の外科がもう少し進んでいて、手術が成功していたら、彼はシチリアの町で普通に育ち、名前が歴史に残ることもなかっただろう。医学の限界が、一人の人生の方向を丸ごと変えた。
## 三本目の脚の正体――寄生性双生児という現象
彼の体で何が起きたのか。医学的には、寄生性双生児、専門的にはヘテロパガスと呼ばれる現象だと考えられている。
仕組みはこうだ。受精卵が分裂して一卵性双生児になる過程で、分離が不完全に終わる。ここまでは結合双生児と同じ。ただ寄生性双生児では、そのあと片方の胎児の発育がどこかの段階で止まる。心臓が形成されないか、機能しなくなる。血液の循環を維持できなくなった側は、もう一方の循環に完全に依存する形になり、体の一部分だけが成長を続ける。
結果として生まれるのは、「完全な一人の人間に、もう一人の断片がくっついている」状態だ。断片が腕のこともあれば、脚のこともある。頭部や胴体の一部のこともある。レンティーニの場合、その断片は骨盤と一本の脚と、余分な足という形をとった。
だから正確に言うと、彼は「脚が三本ある人」ではない。「双子の弟か妹だったはずのものの一部を、体に取り込んだまま生まれた人」だ。この言い方をすると、話の温度が急に変わる。彼の三本目の脚は、生まれなかった誰かの残りだった。
## 十六本の指と、四本目の足
レンティーニについて語られるとき、三本目の脚ばかりが注目されるが、体の異常はそれだけではなかった。
まず、三本目の脚の膝のあたりに、小さな四本目の足がついていた。実用にはならないが、はっきりと足の形をしていた。これも寄生性双生児の断片の一部だ。それから足指の本数。彼には合わせて十六本の指があったとされる。二組の生殖器も存在した。
彼の体で面白いのは、感覚のあり方だ。証言によれば、三本目の脚にもちゃんと感覚があった。つねられれば分かるし、温度も感じる。ただ、細かい動きの制御は本来の脚ほどきかない。彼はこの脚を、蹴る、支える、腰かけるといった大きな動作に使った。
腰かける、というのがポイントだ。彼はよく「私は椅子を持ち歩かない、脚がある」と冗談を言った。実際、三本目の脚を折り曲げて腰を落とすと、そのまま座れる。舞台の上で客に見せる定番の芸だった。人間の体でスツールを作る男。ネタとしては最高だ。
## 一八九八年、船でアメリカへ
八歳か九歳のころ、彼の人生を決める出会いが来る。ジュゼッペ・マニャーノという名の興行師だ。人形芝居を回していた男で、シチリアから移民として渡っていた。彼はレンティーニ家に接触し、少年をアメリカに連れて行く話をまとめる。
一八九八年、少年は父とともに大西洋を渡った。ボストンでマニャーノと合流したという記録が残っている。その後、家族はコネチカット州のミドルタウンに移った。
ここで一つ注意しておきたい。「見世物のために子どもが売られた」という筋書きで語られがちだが、実態はもう少し込み入っている。当時のシチリアは貧しく、大量の移民をアメリカに送り出していた。障害のある子どもが、故郷で職を得て自立する道はほぼゼロだった。一方アメリカの興行界には、身体的な特徴を持つ人間が高給で働ける市場が存在した。褒められた市場ではない。だが、その市場だけが彼らに賃金と居場所を用意していた、というのも事実だ。彼はのちに三十歳でアメリカ市民権を取得している。
## リングリング・ブラザーズの舞台へ
一八九九年にはもう、彼はリングリング・ブラザーズのサーカスに出ている。十歳だ。以後、彼はアメリカの主要な興行のほとんどを渡り歩いた。リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー、バーンズ、コニーアイランドのドリームランド。四十年以上にわたって、彼はこの世界の第一線にいた。
宣伝文句はえげつない。「三本足のシチリア人」。「史上最大の医学的驚異」。ポスターには、彼が三本の脚を広げて立つ姿が描かれた。この売り方に、いま俺たちは反射的に不快感を覚える。当然だ。
ただ、彼自身がこの興行界でどう扱われていたかは、宣伝文句とは別の話だった。同業の出演者たちは、彼を「ザ・キング」と呼んだ。芸の質、頭の回転、面倒見のよさ。単なる見世物ではなく、プロの芸人として一目置かれていた。この世界にも序列があって、彼はその頂点近くにいた。
## 「三本足のフットボール選手」の芸
彼の芸のなかで最も有名なのが、三本目の脚でボールを蹴るやつだ。これのおかげで「三本足のフットボール選手」という異名がついた。
蹴るだけじゃない。彼は三本の脚で自転車に乗り、ローラースケートを履き、縄跳びをした。三本の脚で縄跳びをする、というのが物理的にどうなるのか、いまでも想像がつかない。タイミングの取り方が完全に別競技だ。これを彼は毎日、何十年もやっていた。
面白い証言がある。コネチカット州ウェザーズフィールドに住んでいたディック・ラッシャーという人物が、一九三一年の秋、レンティーニの息子フランク・ジュニアとタッチフットボールをして遊んでいたときの記憶を語っている。ブリムフィールド・ロードの家の近くだ。そこにレンティーニ本人が現れて、ボールを三本目の脚で蹴ってみせた。ラッシャーは「プレースキックだった」とわざわざ付け加えている。適当に足を当てたんじゃなくて、ちゃんとした蹴り方だった、と。
舞台の上だけじゃない。近所の子どもの前でも、この人は同じことをやっていた。芸が生活と地続きになっている感じが、なんかいい。
## 「靴は三足買うのか?」への返し
彼のインタビューは、記録を読んでいて素直に楽しい。頭の回転が異様に速い。
靴はどうしているのか、と聞かれたときの答えが残っている。二足買って、余った片方は片脚の友人にやっている、と。完璧な返しだ。事実として合理的で、しかも笑える。この一言だけで、彼が「見られる側」から「場を仕切る側」に立場を移してしまっているのが分かる。
彼は自分の体について、驚くほど率直に語った。記者から性生活について踏み込んだ質問をされても、逃げずにユーモアを混ぜて答えている。当時の道徳観からすると相当に際どい質疑だが、彼は動じなかった。
そして一番よく引用されるのがこれだ。どうやってその体で生きているのか、と聞かれて、彼はこう返した。もしみんなが片腕しかない世界に住んでいたら、あなたは二本の腕をどうやって扱うだろうか、と。
これ、めちゃくちゃ強い返しだと思う。「異常」というのは多数派が決めた基準にすぎない、という話を、彼は学術用語をひとつも使わずに、質問者の頭に直接ぶち込んでいる。しかも嫌味なく。四十年間毎晩客をさばいてきた人間の言語運用能力だ。
## 障害児施設で見たものと、あの言葉
彼の生涯を語るとき、必ず出てくるエピソードがある。若いころ、彼は障害のある子どもたちが暮らす施設を訪ねた。そこで、自分よりずっと重い障害を抱えた子どもたちを見た。
その体験について、彼はのちにこう語ったとされる。あの日以来、自分は不平を言う権利を失った、と。彼が繰り返し口にした言葉として伝わっているのが、「私は一度も不平を言ったことがない。人生は美しいと思うし、生きることを楽しんでいる」というものだ。
正直に書いておくと、このエピソードは複数のバージョンで語られている。訪ねた施設が盲学校だったという話もあれば、病院だったという話もある。何歳のときだったかも一定しない。半世紀以上のあいだ、興行の宣伝と本人の語りと記者の脚色が混ざりながら伝わってきたものだから、細部は固まっていない。
それでも、この話が彼の人物像の中心に居座り続けているのには理由がある。この言葉には、他人を慰めようとする気配がない。「みんなも頑張って」という方向を向いていない。ひたすら自分に向けて言っている。俺は文句を言わない、と自分に言い聞かせている。この自分向きの厳しさが、たぶん本物っぽいんだよな。
## テレサ・マレーとの結婚と、四人の子ども
一九〇七年、十八歳のレンティーニは、マサチューセッツ出身のテレサ・マレーと結婚した。舞台に立つ女性だったとされる。二人のあいだには四人の子どもが生まれた。長女ジョゼフィン、通称ジェニーは一九〇九年にスコットランドで生まれている。興行の巡業先だ。次にナターレが一九一七年にコネチカットで、フランク・ジュニアが一九二〇年に同じくコネチカットで、そして末子ジェームズが一九二二年にペンシルベニアで生まれた。
子どもたちの出生地がばらばらなのが、この一家の生活を何より雄弁に語っている。スコットランド、コネチカット、ペンシルベニア。テントとテントのあいだで子どもが生まれ、育っていった。
夫婦は一九三五年ごろに別れる。その後、彼はヘレン・エレノア・シュープという女性と生涯をともにした。
この結婚と離別の話を、ある種のまとめサイトは「怪物にも家庭があった」みたいな驚きの語り口で扱う。それがいちばん失礼な扱い方だと思う。四十年働いて、四人の子どもを育てて、結婚生活がうまくいかなくなって別れて、新しいパートナーを見つける。どこにも驚く要素はない。ただの人生だ。
## コネチカット州ウェザーズフィールド、ブリムフィールド・ロード百八十一番地
家の記録が残っているのがいい。一九二六年四月二十九日、レンティーニ夫妻はコネチカット州ウェザーズフィールドのブリムフィールド・ロード百八十一番地の物件を購入した。合計七千七百五十ドルの抵当を引き受けての取得だ。一家は一九三八年までここで暮らした。
一九三〇年の国勢調査に、フランクの職業が「サーカス芸人」と記載されている。国のリストに、そう書かれて残っている。
一九二八年十月十九日と二十日には、ハートフォードのアサイラム通りにあるアリン劇場で、「世界でただ一人、脚を三本持つ男」を含む興行が行われる旨の告知が、ハートフォード・クーラント紙に出た。地元紙に広告が載る、地元の劇場に立つ、地元の子どもとフットボールをする。世界巡業の合間に、彼はきちんとした「近所の人」をやっていた。
ただ、この家の話には後日談がある。一九三七年十月二十日、彼は物件を一ドルでテレサに譲渡した。そして一九三八年九月、住宅所有者貸付公社によって差し押さえられている。夫婦の別離と大恐慌の余波が、そのまま登記簿に刻まれている。四十年輝いた芸人の生活にも、こういう現実的な破綻の記録が残る。
## 見世物興行という産業の、光と影
ここで少し、彼が生きた業界そのものの話をしておきたい。
十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、アメリカにはフリークショーと呼ばれる興行の巨大な市場が存在した。P・T・バーナムがビジネスとして完成させた形式だ。身体的な特徴を持つ人々が舞台に立ち、客が金を払って見る。倫理的にどう考えるべきかは、いまも議論が続いている。
搾取だったのは間違いない。宣伝は誇張と嘘にまみれていたし、興行主が出演者から不当に取り分を吸い上げる例も多かった。だが同時に、この産業だけが彼らに現金収入と、仲間と、社会的な役割を与えていたのも事実だ。当時、障害のある人間に用意されていた選択肢は、家族の厄介者になるか、施設に入れられるか、物乞いをするか、興行に出るかだった。四番目だけが、稼げて、旅ができて、尊敬されうる道だった。
そして二十世紀半ば、この産業は急速に消えていく。医学の進歩で症例そのものが減ったこともあるし、テレビの登場で娯楽の形が変わったこともある。そして何より、こういう見世物は倫理的に許されないという社会の合意ができた。それは正しい変化だ。ただ、その変化のなかで、稼ぎの場を失った出演者たちがどうなったかについては、あまり語られない。レンティーニは死ぬまで巡業していた最後の世代の一人だった。
## 一九六六年九月二十一日、テネシー州ジャクソン
一九六六年九月二十一日、フランチェスコ・レンティーニはテネシー州ジャクソンで死んだ。七十七歳。死因は肺の機能不全とされる。巡業先での死だった。最後まで舞台に立ち続けた人生だ。
考えてみてほしい。一八八九年、シチリアの田舎町に生まれた男が、一九六六年、アメリカ南部で死ぬ。そのあいだに二度の世界大戦があり、大恐慌があり、テレビが普及し、人類は宇宙に飛んだ。彼はその全部を、三本の脚で歩き抜いた。
そして生後四ヶ月のとき「切除は危険すぎる」と判断されたあの脚を、彼は七十七年間ずっと持ち歩いた。あの医師の判断は、結果として正しかったことになる。
## なぜレンティーニは「例外」になれたのか
彼と同じ時代に舞台に立った人々の多くは、悲惨な晩年を送っている。アルコール、貧困、興行主とのトラブル、早世。そのなかで、なぜ彼だけがこれほど穏やかな軌跡を描けたのか。
要因はいくつか思いつく。まず、彼は喋れた。しかも異様に上手かった。見世物の出演者の多くは「ただ見られる」役割だったのに対して、彼は自分で舞台をコントロールした。次に、彼には芸があった。蹴る、跳ぶ、乗る。体の特徴を静的に見せるのではなく、動きの技術に変換した。これは大きい。見られる対象から、演じる主体への移行だ。
そして三つ目に、彼は自分の体を恥じていなかった。少なくとも、恥じている姿を人前に出さなかった。この態度が、周囲の態度を変えた。人は、相手が自分の何かを恥じていると察知すると、そこを攻撃する。恥じていないと分かると、攻撃の足場を失う。
ただ、彼が本当のところ何を感じていたかは、誰にも分からない。「不平を言ったことがない」というのは、不平がなかったという意味じゃない。言わなかったという意味だ。四十年間、毎晩笑いを取り続けた男が、楽屋で何を考えていたかまでは記録に残っていない。この空白こそが、彼の話でいちばん重い部分かもしれない。
## 生まれた町が、百二十七年後に彼を呼び戻した
彼が生まれたロソリーニは、長いあいだこの息子のことを語らなかった。恥だったからだ。「小さな怪物」と呼んだ町だ。
ところが二〇一六年、状況が変わる。ロソリーニで、彼を記念する催しが開かれた。生まれた町が、百年以上たってから彼を郷土の人物として迎え直したわけだ。かつて家族が世間の目から隠すために叔母の家に預けた子が、町の誇りになって戻ってきた。
この逆転が起きるのに百二十七年かかった。長い。長すぎる。でも、起きないよりはずっといい。そして、この逆転を可能にしたのは、レンティーニ本人が生前ずっとやり続けていたこと、つまり「隠れなかったこと」だ。彼が舞台に立ち続け、インタビューに答え続け、記録を残し続けたから、百年後に呼び戻す対象が存在した。
## 名前が変形されていく、という現象
最後に、情報の伝わり方の話を一つ。レンティーニについてネットで調べていると、細部がやたらとブレる。指の本数が十六本だったり二十本だったり。三本目の脚の長さが違う。渡米した年が一八九八年だったり一九〇〇年だったりする。施設訪問のエピソードの舞台が変わる。
理由ははっきりしている。彼の情報の多くは、もともと興行の宣伝素材だったからだ。ポスターも、パンフレットも、記者に渡した「事実」も、客を呼ぶために作られた文書だ。誇張が最初から仕込まれている。そこに百年ぶんの伝聞と翻訳と、まとめサイトのコピペが重なった。
だからこの人の話を読むときは、どこまでが記録でどこからが看板かを意識したほうがいい。国勢調査、登記簿、地元紙の広告、近所の人の証言。こういう地味な記録のほうが、派手なエピソードよりずっと確かだ。一九三一年の秋にプレースキックを見た少年の記憶が、たぶんいちばん本物に近い。
## 追いかけ終わって残ったのは、居心地の悪さだった

レンティーニの話をひととおり追いかけたあとに残るのは、痛快さでも感動でもなく、なんとも言えない居心地の悪さだ。その正体を、最後に整理しておきたい。
まず、彼の人生は「見世物興行の被害者」という枠にも、「逆境を跳ね返した英雄」という枠にも、どちらにもきれいには収まらない。八歳で興行師に連れられて海を渡った子どもは、明らかに大人の都合で動かされている。当時の児童労働の基準で見ても、褒められた話じゃない。一方で、その同じ道が彼に賃金と技能と社会的地位を与え、彼はそれを掴んで四十年走り切った。彼から搾取した産業が、同時に彼を自立させた唯一の産業でもあった。この矛盾を片方だけ切り取ると、どちらも嘘になる。
## 入場料を払わなくなっただけで、やっていることは同じだ

そして、俺たちがいまこの話をどう扱っているかという問題がある。フリークショーはとっくに滅びた。倫理的に許されないという合意ができたからだ。ところが、その合意ができたあとの世界で、彼の写真はネットに大量に流通している。まとめサイトに並び、ショート動画に切り貼りされ、「衝撃の身体を持つ人物ランキング」みたいな企画に組み込まれる。入場料を払わなくなっただけで、俺たちは同じことをやっている。むしろ悪化しているかもしれない。かつては彼自身が舞台に立ち、自分の口で喋り、客との関係をコントロールし、金を受け取った。いま拡散されている画像のなかの彼は、喋らないし、稼がないし、文脈も持たない。ただ消費される。この記事だって、その構造から自由ではない。書きながらずっとそれが引っかかっていた。
## 彼が蹴っていたのは、生まれなかったきょうだいでもあった

もう一つ深く考えたいのが、三本目の脚の「意味」だ。医学的には、あれは双子として生まれるはずだったもう一つの命の断片だ。心臓が形成されず、独立した個体になれなかった側が、片割れの循環に取り込まれたまま体の一部として育った。これを冷静に受け止めると、彼は生涯にわたって、生まれなかったきょうだいの一部と一緒に暮らしていたことになる。彼がそれをどう感じていたかを示す証言は見つからなかった。当時、寄生性双生児のメカニズムがどこまで理解され、本人に説明されていたかも定かではない。ただ、この事実を知ってからあのサッカーボールを蹴る写真を見ると、見え方が完全に変わる。彼が蹴っていたのは、自分の体でもあり、自分ではないものでもあった。
そして「不平を言う権利はない」という言葉について。この言葉は、多くの記事で感動的な人生訓として引用される。俺は少し違う読み方をしたい。あれは、彼が自分に課したルールだ。しかも相当に厳しいルールだ。障害のある子どもたちの施設を見て、自分はまだましなほうだと判断し、以後不平を封じる。一見すると健全な諦観に見えるが、裏返せば、他人と比べて自分の苦しみに順位をつけ、順位が下だから黙る、という自己抑制でもある。四十年間毎晩ステージに上がり、体を見せ、性生活まで質問され、笑いを取り、それでも文句を言わない。そのルールを守り抜いた人間の内側が、本当に平穏だったのかどうか。俺には分からない。ただ、彼が「人生は美しいと思うし、生きることを楽しんでいる」と言い続けたなら、その言葉を信じないのも、また失礼な気がする。
## 見られる側から、演じる側へ回るという戦略

最後に、この人物が現代に残した実務的な教訓を一つだけ挙げるなら、それは「動きに変換する」という戦略だと思う。彼は自分の体を、静止した見世物として提示するのをやめた。蹴り、跳び、乗り、喋った。技術を身につけ、芸に変えた瞬間、観客の視線の質が変わる。珍しいものを見る目から、上手いものを見る目へ。同業者が彼を「キング」と呼んだのは、脚が三本あるからではない。舞台がうまかったからだ。百年以上前に、シチリア生まれの男が、視線の権力構造をこの方法で引っくり返していた。これは十分に、いま考える価値のある話だと思う。
ロソリーニの町が二〇一六年に彼を呼び戻したとき、そこにいたのはもう「三本足の男」ではなく、フランチェスコ・レンティーニという名前の人物だった。名前が肩書きを追い越すまでに、百二十七年。それが早いか遅いかは、読んだ人がそれぞれ決めればいい。

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