## 腐らない体、という言い回しの居心地の悪さ
人は死んだら腐る。これは例外のない話だと、だいたいの人は思っている。ところがヨーロッパの教会に行くと、ガラスの棺の中に、何百年も前に死んだはずの人が寝ている。寝顔は静かだし、手にはロザリオが握らせてあるし、顔には血色さえあるように見える。これを不朽体という。インコラプティビリティ、つまり不朽性という言葉で呼ばれることもある。見た瞬間の反応は人によって全然違う。拝む人もいれば、こわがる人もいるし、タネは何だと即座に口を開く人もいる。この記事は、どの反応も否定しないで書こうと思っている。信仰の側の話も、科学の側の話も、どちらも真剣に追ってきた人がいる。両方並べてみて初めて、この現象は面白くなる。
## まず言葉の整理から。不朽体とは何か
カトリックの伝統の中で、埋葬後に掘り起こしたとき、想定されるべき白骨化や腐敗が進んでいない遺体を不朽体と呼んできた。完全に生前のままというケースはほとんどなくて、部分的に保たれている、乾いて固まっている、という状態が大半だ。そして決まって一緒に語られるのが、腐臭の代わりに花のような香りがしたという証言や、墓の周囲が光って見えたという話だ。こういう付属情報が一緒に伝わるのも、このテーマの特徴なんだよな。ちなみに、不朽体はカトリックだけの現象ではない。正教会にも似た伝承があるし、チベット仏教や日本にも、形は違うが遺体を保存して拝む伝統がある。人はどこの地域でも、腐らない体に意味を見出してきた。
## 教会が「奇跡」と言っていないという、地味だが重要な事実
ここで、多くの人が意外に思う事実を先に書いておく。現在のカトリック教会は、遺体が腐らなかったことを列聖の根拠にしていない。つまり、不朽体だから聖人だ、という論理は公式には採用されていない。列聖の審査で見られるのは、殉教したか、英雄的徳を生きたか、あるいは他者のために命を差し出したかといった生き方の内容と、取り次ぎとしての奇跡の検証だ。遺体の状態は、そのチェックリストに入っていない。信心深い人たちにとって不朽体が大切なのは、奇跡の証拠だからというより、復活への希望のしるしだからだ。この区別を抜きにして、教会が腐らない遺体を奇跡だと言い張っているかのように描くのは、単純に事実と違う。
## 十八世紀に、すでに線は引かれていた
しかもこの慎重さは最近始まったものじゃない。十八世紀の教皇ベネディクトゥス十四世は、列福・列聖の手続きについて膨大な論考を残した人物で、遺体が保たれる原因には自然なものがありうるとはっきり書いている。乾燥した土地、寒さ、棺の密閉性、防腐の処置。こういった条件が揃えば、信仰に関係なく遺体は残る。だから慎重に見定めなさい、というのがこの教皇の姿勢だった。三百年前のバチカンが、すでに現代の疑わしがり屋と同じことを考えていたわけだ。この事実は、もっと知られていいと思う。宗教は神秘を日常的に取り扱う専門家集団でもあるので、実はニセ奇跡の見分けには非常に厳しい。
## ルルドの少女、ベルナデッタ・スビルー
不朽体の話をするなら、まずこの人からだろう。ベルナデッタ・スビルー。フランス南西部のルルドで、十四歳のときに洞窟で聖母を見たとされる少女だ。貧しい粉屋の娘で、字もまともに読めなかったと伝わる。彼女の証言は何度も取り調べられ、後にルルドは世界有数の巡礼地になった。だが本人は注目を嫌い、ヌヴェールの修道院に入って静かに暮らした。体は弱く、結核に苦しんだ。一八七九年四月十六日、三十五歳で亡くなっている。この時点では、彼女の遺体が一世紀以上のちまでガラスの棺で見られ続けることになるなんて、本人も含めて誰も想像していなかったはずだ。
## 一九〇九年九月二十二日、一度目の検証
列福の手続きの一環として、死後三十年目にあたる一九〇九年九月二十二日、墓が開かれた。立ち会ったのはヌヴェールの司教とその代理人、二人の医師、そして修道女だった。報告されたのは、遺体が腐敗を免れているということだった。一方で、一緒に納められていた十字架やロザリオの金属部分は、しっかり酸化していたと記録されている。この対比が信心の側では強く強調され、金属さえ錆びたのに人の体が残った、と語られることになる。遺体は洗い清められ、新しい服を着せられて、二重の棺に納め直された。この手続き自体は、当時の手順に従った正規のものである。
## 一九一九年四月三日、二度目の報告書はもっと正直だった
二度目は一九一九年四月三日。このときの医学的な記述は、一度目よりはるかに具体的で、そして容赦ない。遺体は事実上ミイラ化しており、カビの斑が点々と広がり、カルシウム塩と思われる層がかなり厚く付着している。皮膚は場所によっては失われているが、大部分ではまだ残っている。こういう調子だ。つまり、生きているかのような完全保存ではない。乾いて、塩をかぶって、黒ばんでいる。この報告を読むと、不朽体という言葉から想像する美しいイメージと、実際の目の前のものとの間に、相当な距離があったことが分かる。この距離をどう埋めるかが、次の段の話になる。
## 一九二五年、そして蝋の面
三度目は一九二五年。このとき、ローマに送るための聖遺物が分けられ、同時に、人々の前に安置するための準備が進められた。ここで問題になったのが顔の色だ。黒ずんだ肌と、くぼんだ目と鼻。これをそのまま巡礼者に見せるのは、強い印象を与えすぎると判断された。そこで顔と手の型を取り、その型と写真をもとに、薄い蝋の面と手が作られて装着された。この事実は隠されていたわけではなく、当時の記録にちゃんと残っている。だから、ヌヴェールで見られるあの穏やかな寝顔は、厳密には彼女の皮膚そのものではない。下には、報告書に書かれたとおりの遺体がある。
## パリのマネキン職人、ピエール・イマンの仕事
この蝋の面を作ったのが、パリのピエール・イマンの工房だった。この人は当時、ファッション用のマネキンを作る職人として名を知られていた。百貨店のショーウィンドウに立つ、なまめかしい肌の人形を手掛けていた工房が、聖人の顔を手がけたわけだ。この組み合わせは、もし小説ならできすぎと言われるところだ。信仰の対象と、商業ディスプレイの技術が、この一点で交差している。悪意でやったことではない。巡礼者にとって見やすい安置をしたい、という当時の現実的な判断だ。でも結果として、不朽体の最も有名な実例は、見学者が目にする部分に人の手が入っていることになった。
## ヌヴェールのガラスの棺を見てきた人たち
実際に見に行った人の話を集めると、反応は面白いくらい分かれる。ある人は、片田舎の静かな礼拝堂に入った瞬間、想像していたよりはるか小さな人が、青と白の修道服で、本当にはっとするほど静かに横たわっていたと語る。もっとショッキングなものを想像していたのに、実際は、眠っている人を起こさないように静かに歩いた、と。別の人は逆に、顔が不自然に滑らかで、人形を見ているような違和感があったと書いている。蝋の面のことを知ってから行った人と、知らずに行った人で、感想は大きく分かれる。これは不朽体をめぐる体験全般に言えることで、事前情報が体験を作る。
## 「肝臓がほぼ正常だった」という報告
もうひとつ、ベルナデッタをめぐってよく引用される証言がある。三度目の検証に関わった医師コントの、一九二八年の報告だ。彼は、死後四十六年を経ているにもかかわらず、肝臓がほとんど正常な状態で見つかったことを異例として記している。内臓は本来もっとも早く崩れる部分だから、ここは確かに奇妙だ。信仰の側はこの一文を重視するし、懐疑の側は、保存処置や墓の環境、あるいは記述そのものの精度を問題にする。一世紀前の記述を、今の基準で検証するのは難しい。確かなのは、この一文が何年も人々の想像力を刺激し続けているということだ。
## パドヴァのアントニオと、灰の中の舌
次は、もっと古い話だ。イタリアのパドヴァに、フランチスコ会の説教師として大人気だったアントニオという人がいた。彼は一二三一年に三十代の若さで亡くなる。とにかく話がうまい人だったとされ、彼の説教を聞くために街に人があふれたという記録が残っている。彼の遺体にまつわる伝承は、他の不朽体とはちょっと毛色が違う。体全体が残ったとは言われていないのだ。残ったのは、発声に関わる部分だけだという。体は土と骨になり、舌と顎だけが湿りを帯びて柔らかいままだった。話し手の舌が残る。できすぎているが、だからこそこの話は何百年も語り継がれてきた。
## 一二六三年、ボナヴェントゥラが棺を開けた
この発見の場にいたとされるのが、当時フランチスコ会の総長だったボナヴェントゥラだ。一二六三年、より大きな聖堂へ遺体を移す際に、墓が開かれた。三十年以上経っているのだから、骨しかないのは当然だ。ところが、舌だけが色を保ったまま残っていたと伝えられる。ボナヴェントゥラはそれを手に取り、神の言葉を伝えた器官が残されたのだという意味の言葉を口にしたという。後世の修道士の説明では、体はすべて灰と骨に帰していたが、発声器官だけが湿って柔らかかった、と表現されている。舌は別の容器に納められ、以降、パドヴァの聖堂で祀られ続けている。
## 七百年ぶりの二度目、一九八一年の検証
面白いのは、この墓が次に開かれるのが一九八一年だということだ。一月から二月にかけて行われたこの検証は、歴史上二度目とされる。七百年だ。人の一生の十回分、誰も手をつけなかったことになる。このとき、ボナヴェントゥラが遺体を新しい棺に移していたことが確認され、小さな遺物が丁重に取り分けられて容器に納められた。この年の調査は国際的な注目を集め、レントゲン撮影など今風の方法も使われた。遺体をオカルトの展示物にしないために、学術的な手続きを踏むという発想は、この頃にはすっかり定着していたことが分かる。
## 舌の祝日、という発想
ここで一つ、日本人の感覚だとむずかゆいことを書いておく。パドヴァには、舌の発見を記念する日がある。二月十五日で、地元では舌の祝日などと呼ばれる。人体の一部に祝日がある、というのは、よその文化圏から見ればなかなかの衝撃だ。だが、カトリックの聖遺物崇敬の伝統の中ではこれは不自然ではない。聖人の体は、神と人とをつないだ具体的な痕跡として扱われてきた。日本でも、仏骨や髪の毛を拝む伝統はあるし、高僧の遺品を宝として伝える寺はいくらでもある。違いは、体そのものを見える形で保存するかどうかだ。その一点に、文化の差が凝縮されている。
## フランシスコ・ザビエル、上川島の遺体
日本人にとって一番距離が近いのは、この人の話だろう。フランシスコ・ザビエル。一五四九年に鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えたイエズス会士だ。彼はその後中国を目指し、一五五二年十二月三日、広東沖の小さな島、上川島で病死している。十二月の島で、看取ったのはごくわずかな人間だけ。大伝道師の最期としては寂しすぎる幕切れだ。ところがこの人の遺体は、このあと四百七十年以上にわたって、人々に見られ続けることになる。本人が知ったら、さすがに面食らったんじゃないかと思う。
## 石灰をかけて埋めたのに、という話
不朽体の議論でザビエルのケースがよく出てくるのは、ある伝承のせいだ。遺体を将来運び戻すことを見越して、早く骨にするために石灰を使って埋葬したとされている。ところが数か月後に掘り起こされたとき、遺体は予想に反してしっかりしていた、というのが話の骨だ。このエピソードは、信仰の側にとっては非常に強いカードになる。腐敗を促すはずの処置をしてなお残ったのだから、と。一方で、当時の記録の信頼性や、島の土壌と湿度の条件、埋葬の深さなどを考えれば、一概には言えないとする見方もある。どちらの読みも、五百年前の史料を相手にしているという限界を抱えている。
## マラッカからゴアへ、動き続けた遺体
ザビエルの遺体は、その後も安定しなかった。一度マラッカに送られ、さらにインドのゴアへと運ばれた。船での長い旅だ。海を渡る遺体、という絵づらはそれ自体が異様だが、当時のエージェントたちは真剣だった。ゴアのボム・ジェズス教会に安置され、以降、この地の信仰の中心になった。現在では、おおむね十年に一度の割合で一般公開が行われている。直近では二〇二四年の末から公開が始まり、初日に一万二千人規模の人が訪れたと報じられた。この数字は、不朽体という現象が過去のものではないことを、一発で示している。
## 切り取られた右腕はローマへ
この遺体は、完全な形ではない。十七世紀初頭、右腕の一部が切り取られてローマに送られ、イエズス会の中心教会で祀られることになった。アジアの人々に洗礼を授けた腕だから、というのが理由だとされている。カトリックの聖遺物の考え方では、体は分割されても価値を失わない。むしろ、多くの場所で崇敬できるようになる。この感覚は、遺体を一体のものとして扱う日本の常識とはかなり違う。なお、この腕は近年も北米などを巡回し、行く先々で人を集めている。五百年前の人の腕が、今もツアーをしているわけだ。
## つま先を噛みちぎった女性の話
もうひとつ、もっと奇妙な逸話が伝わっている。ゴアでの初期の公開の際、あるポルトガル人女性が、崇敬のあまり遺体の足の指を噛みちぎって持ち帰ったというものだ。しかも、その部分から血が滴り、床に残った跡をたどって彼女の家まで追いつめられた、というおまけがつく。この話はもはや伝説の領域で、年代も人名も記録によって揺れる。しかしこの手の話が伝わっていること自体が、体を目の前にしたときの人間の興奮が、ときどき理性を超えることを物語っている。敬う気持ちと、欲しいという気持ちは、思っているより近い場所にある。
## シエナのカタリナ、頭部だけがシエナにある理由
不朽体と遺物の話をするなら、シエナのカタリナを外せない。彼女は一三八〇年四月二十九日、ローマで三十三歳の若さで亡くなった。教皇に手紙を書き送り、政治の真ん中で発言し、修道女としては異例の影響力を持った人物だ。問題は、彼女の体をめぐってローマと故郷シエナが引っ張り合ったことだ。ローマは当然手放さない。しかしシエナの人々は、自分たちの街の娘を自分たちの街に戻したかった。結果、一三八三年頃、彼女の頭部がシエナに移されることになる。現在もシエナのサン・ドメニコ聖堂で、金色の格子の向こうに安置されている。
## 袋の中身が薔薇の花びらになった、という伝説
この移送には、できすぎた伝説が付いている。ローマの門を出ようとしたところで衛兵に呼び止められ、袋の中を改められた。ところが袋を開けると、中にあったのは薔薇の花びらだけだった。衛兵は通し、門を出てしばらくすると、花びらはもとの姿に戻っていた。こういう話だ。歴史的な事実として受け取る人は少ないだろうし、教会側もこれを公式な奇跡として掲げているわけではない。でも、この手の色づけがつくこと自体が面白い。人は、遺体を動かすというややこしい行為に、必ず美しい物語を上書きしてしまう。
## 一九四七年のX線が示したこと
面白いのは、この伝説にも検証の手が伸びていることだ。一九四七年、シエナの頭部に対してX線検査が行われた。結果、頸椎が含まれていないことが確認されている。これは、遺体から頭部が別途分けられて運ばれたという話と矛盾しない。こういう突き合わせは地味だが、伝承のどの部分が史実で、どの部分が装飾なのかを分けていく上で重要だ。なお、カタリナの体はシエナとローマだけでなく、ヴェネツィアやフィレンツェなど複数の都市に分かれて伝わっている。中世の聖遺物の世界は、現代の感覚ではなかなか追いきれない。
## アビラのテレサ、二〇二四年八月に開かれた棺
不朽体の話は過去完了形じゃない。つい最近にも大きな出来事があった。スペインのアビラのテレサ。十六世紀の神秘家で、カルメル会の改革者だ。彼女の遺体はアルバ・デ・トルメスにある。二〇二四年八月二十八日から三十一日にかけて、この棺が開かれた。目的は遺物の学術的な調査と保存状態の確認で、バチカンの許可を得て、司教区とカルメル会、そして医学チームが立ち会っている。前回開けられたのは一九一四年八月。つまり百十年ぶりだ。現場の報告によれば、状態は一九一四年時点と変わっていなかったという。顔と足の一部が見える状態で、皮膚は乾いて色は失われている。
## 十本の鍵が要る棺
このケースで個人的に一番好きなのは、棺を開けるのに十本の鍵が必要だったという話だ。三本はアルバ・デ・トルメスの側、三本はアルバ公家、三本はローマの修道会総長、残り一本は王室の鍵だという。三つの権威と王室が揃わなければ、遺体には誰も触れられない。この仕組みは、遺体がどれほど政治的な存在だったかをよく表している。聖人の体は信仰の対象であると同時に、巡礼者を呼び、街を潤し、権威を裏付ける資産でもあった。盗難のリスクも常にあった。十本の鍵は、ロマンでもなんでもなく、切実なセキュリティ対策だったということだ。
## 二〇二三年、ミズーリ州ガワーの騒動
さて、ここからが現代の話だ。二〇二三年の春、アメリカのミズーリ州の、人口数千人のガワーという町に、とんでもない数の人が押し寄せた。目的はただひとつ、ある修道女の遺体を見ることだ。ベネディクト会系の小さな修道会が、創設者の遺体を修道院の聖堂に移すために掘り起こしたところ、四年近く埋葬されていたはずの体が、白骨化していなかった。この知らせがカトリック系メディアとSNSを通じて一気に広がり、五月の連休には道路が渋滞するほどの人が集まった。十二世紀の伝承じゃない。スマホを持った人間が並んだ、二〇二三年の出来事だ。
## シスター・ウィルヘルミナという人
この人がどういう人生を送ったかは、知っておいたほうがいいと思う。メアリー・エリザベス・ランカスター。一九二四年、セントルイス生まれのアフリカ系アメリカ人女性だ。人種隔離の時代に育ち、十七歳で黒人女性の修道会に入った。五十年以上にわたって教師や音楽の担い手として働き、一九九五年、七十代になってから新しい修道会を立ち上げている。二〇〇五年に共同体はミズーリの田舎に移った。二〇一九年五月二十九日、九十五歳で亡くなっている。ちなみにこの修道会はグレゴリオ聖歌のアルバムを出してヒットさせていることでも知られていた。
## 四月二十八日、その朝に見つかったもの
掘り起こしが行われたのは二〇二三年四月二十八日。目的は修道院の聖堂への改葬で、修道女たちは骨を収めるつもりでいた。彼女は防腐処置を受けておらず、密閉されていない木製の棺に納められていた。墓には水がたまっていたとされる。棺自体はひどく傷んでいた。ところが中の体は、顔も手も、そして修道服までもが、白骨化とは程遠い状態だった。現場にいた修道女たちは、しばらく言葉が出なかったと後に語っている。彼女たちは何かを期待して掘り起こしたわけじゃない。事務的な改葬のはずが、予想外のものになった。この順序は大事だ。
## 五千人が並んだという週末
五月に入ると、遺体は一般に公開された。メモリアルデーの連休には、現地の法執行機関の話として、金曜日だけでおよそ五千人が訪れたという数字が報じられている。コロラド、カンザス、ネブラスカ、アイオワ、ミネソタ、ミシガン、イリノイ、インディアナ、ノースカロライナ。州の名前を並べるだけで、この拡散の規模が分かる。田舎道に車が連なり、駐車場はあふれ、修道会は対応に追われた。五月下旬には遺体はガラスのケースに納められ、聖堂内に安置された。千五百年前のローマでなく、自動車とスマホの現代で、同じことが起きている。
## 見学者の証言を、いくつか拾ってみる
現地で取材を受けた人たちの言葉は、面白いくらいバラバラだ。ミズーリ州内から来たという男性は、これは電撃的だと表現し、信仰を持つ人も持たない人もひっくり返している、と語った。ネブラスカ州リンカーンから二時間かけて来た女性は、この旅は贈り物のようなものだったと話している。メイン州から来たという男性は、自分たちが正しい道を歩いているという確認のようなものだと受け取っている。そしてカンザスシティの女性は、亡くなった修道女がアフリカ系アメリカ人だったことに強い意味を見ていた。一生に一度のことだ、と。同じ遺体を見ても、受け取る意味は人の数だけある。
## 二〇二四年、司教が出した見解
騒動から一年以上をかけて、カンザスシティ・セントジョゼフ司教区は医学的な検証を進めた。二〇二四年に公表された内容は、慎重だがはっきりしている。遺体に腐敗の兆候が見られないこと、その状態は死後四年近くという期間と、埋葬環境を考えれば非典型的だということ。土壌の分析でも、保存を説明できるような特殊な成分は見つからなかった。しかし司教は同時に、不朽体であることは聖人の印ではないことを重ねて述べ、現時点で列聖の手続きを開始する予定はないと明言している。このブレーキの踏み方は、さっき書いた十八世紀以来の態度と一貫している。
## SNSがこの話をどう運んだか
一方で、ネット上の拡散はもっと乱暴だった。短い動画に切り取られ、修道女の遺体が完全に生前のままだというナレーションが付けられ、司教区の慎重な表現は落ちた。反対に、全部ヤラセだ、実は防腐処理されているのを隠している、という断定も大量に流れた。どちらも、実際の発表を読むと支持しにくい。不朽体の話題は、充実した中間領域があるのに、ネットだと奇跡かインチキかの二択になりがちだ。実際には、予想より保存が良かったという事実と、それを何と呼ぶかという解釈は、別の層の話なんだよな。
## 科学の側の説明、屍蝋という現象
では科学はこの種の保存をどう説明するのか。一番よく出てくるのが屍蝋化だ。英語ではアダポセール、あるいは墓の蝋とも呼ばれる。仕組みは石鹸化で、体の脂肪が微生物の酵素によって分解され、カルシウムなどの成分と結びついて石鹸状の物質に変わる。これが体の形を保ったまま固まると、白っぽい蝋の像のような遺体ができ上がる。必要な条件は、湿っていること、酸素が乏しいこと、適度な温度、そして脂肪があること。条件が揃えば数週間から数か月で形成が始まり、一度できると何百年も安定するとされる。墓に水がたまるという状況は、実はこの現象にとって都合がいい。
## 乾燥、密閉、土壌、そして偶然
屍蝋だけじゃない。逆に、極端に乾燥した環境では自然ミイラ化が起きる。イタリアのパレルモにあるカプチン会の地下墓所は、数千体の遺体が乾燥した状態で並んでいることで有名だし、あそこには十九世紀末から二十世紀初頭の防腐技術で保存された、眠っているように見える幼児の遺体もある。この児のケースは後年CTで調べられ、防腐剤の処方まである程度復元されている。つまり、保たれた体には保たれた理由があるケースが多い。土壌の成分、地下水位、棺の材質、地下室の換気、気候。変数は多く、しかも数十年後に検証するのは難しい。
## 防腐処理と修復の話をどこまで書くか
もうひとつ、避けて通れない論点がある。有名な不朽体のいくつかは、顔や手に蝋やシリコーンの覆いがある。ベルナデッタがそうだし、二十世紀の有名な修道士や教皇の遺体でも同様の処置がなされていることが知られている。これを「騙し」と呼ぶのはやや乱暴で、なぜなら多くの場合、処置の事実は公になっているからだ。ただし、実際に見に行く人の大半はその背景を知らないし、現地で丁寧に説明されるわけでもない。結果として、見た目の印象だけが一人歩きする。情報の非対称が、誤解を育てている。
## バチカンの調査官が言ったこと
この問題について、内側から相当に厳しい発言をしている人がいる。列聖の審査を扱う部署で四十年近く働いたモンシニョール・ロバート・サルノは、不朽体などというものは存在しないという趣旨のことを、取材ではっきり述べている。保存は環境の結果であり、有名な例の多くは優れた化粧技術の賜物だ、というのが彼の言い分だ。信仰を否定しているわけではない。むしろ、信仰の中心を遺体の見た目に置くな、という警告に近い。信じる側でも、神秘を守るために神秘を削ることがある、というのは覚えておきたいところだ。
## 日本の即身仏は、まったく別の話だ
ここで日本の話に移る。よく、不朽体と即身仏を同じもののように並べる解説を見かけるが、フレームは全然違う。不朽体は、本人の意図と無関係に、死後に発見される現象だ。埋めて、掘り起こして、あれとなる。対して即身仏は、当人が修行の果てとして目指した結果であるという点が決定的に違う。信仰の中では、仏として現世に留まり、人々を救うための行とされてきた。この記事では、歴史と信仰の記録としてだけ触れる。具体的な方法や手順については一切書かないし、現代においては法的にも倫理的にも成り立たないこととして、はっきり線を引いておく。
## 湯殿山の行者たちと、十八体という数
現存する即身仏は、国内で十八体ほどとされる。集中しているのは山形県で八体、うち庄内地方に六体、置賜地方に二体。隣の新潟県に四体、福島・茨城・神奈川・長野・岐阜・京都にそれぞれ一体といった内訳になる。山形に多いのは、湯殿山信仰の存在が大きい。江戸期、一世行人と呼ばれた宗教者たちが厳しい修行を重ね、民衆の間を回って広く信仰を集めた。代表的なところでは、大日坊に伝わる真如海上人が一七八三年、注連寺の鉄門海上人が一八二九年とされる。明治以降は新たな即身仏が生まれることはなくなった。
## 高野山の弘法大師入定信仰
もうひとつ、日本では外せないのが高野山奥之院だ。弘法大師空海は死んだのではなく、入定して今も封印された場所で禅定を続けている、という信仰がある。だから今も毎日、食事が運ばれる。定期的に衣を替える行事もある。この信仰の面白いところは、遺体を見せないことにある。ヨーロッパの不朽体がガラス越しに見せることで信仰を支えるのに対して、こちらは見せないことで支えている。確かめないからこそ、千二百年も信仰が持続するという見方もできる。どちらが優れているという話ではなく、信仰のデザインが真逆なのが面白い。
## なぜ人は腐らない体に惹かれるのか
ここまで書いてきて、結局この話の中心にあるのは、遺体ではなくて見ている側の心の動きだと思う。人間にとって腐敗は、死の中でも特に受け入れがたい部分だ。いなくなるだけでなく、崩れる。顔が失われる。だから、崩れていない体は、死のルールの外側にある例外のように見える。宗教的には、それは復活の前触れとして読まれてきた。信仰を持たない人にとっても、何百年も顔を保った人の前に立つというのは、時間の感覚が一瞬乱れる体験になる。怖いのは遺体じゃない。自分もいずれこうなるという事実のほうだ。不朽体は、その事実を一瞬だけ保留にしてくれる。
## 信じる人と疑う人のあいだに橋はかかるか
最後に、このテーマでいちばん難しいところを書いておく。信じる側は、科学的説明を信仰への攻撃と受け取りがちだ。疑う側は、信仰を無知と同じものと見なしがちだ。でも実際には、屍蝋化で説明できるケースも、現時点ではうまく説明できないケースも、どちらも存在する。そして教会の公式見解は、奇跡に飛びつかないで慎重に見ろというものだ。この三つを同時に保持するのは、実はそんなに難しくない。分からないことを分からないと言い、人がそこに見たものを否定しない。オカルトを楽しむにも、この姿勢が一番長持ちすると思っている。
## 七百年ぶんの棺を、もう一度並べ直してみる
ここからは、このテーマをもう一回、別の角度から編み直しておきたい。まず時系列だ。一二三一年にパドヴァのアントニオが死に、一二六三年に舌が見つかる。一三八〇年にシエナのカタリナがローマで死に、三年後に頭部がシエナへ移る。一五五二年十二月三日、ザビエルが上川島で死に、二年後にゴアへ。十七世紀に右腕がローマへ。一五八二年にアビラのテレサが死に、その遺体は一七五〇年と一九一四年に確認され、二〇二四年八月に百十年ぶりに開かれた。一八七九年にベルナデッタが死に、一九〇九年、一九一九年、一九二五年に検証。そして二〇一九年にシスター・ウィルヘルミナが死に、二〇二三年四月に掘り起こされ、二〇二四年に司教区の見解が出た。七百年以上にわたって、同じ形の出来事が繰り返されていることが分かる。
この反復の中で、決定的に変わったものが一つある。検証の方法だ。中世では、墓を開けて、そこにいた高位聖職者がこれは奇跡だと宣言すれば、それで確定した。十八世紀には、自然な保存と奇跡を区別せよという基準が上から提示された。二十世紀には医師が立ち会い、報告書にカビや塩の層、皮膚の欠損が記録されるようになった。二十一世紀には、土壌分析や画像検査が入り、司教が「非典型的だが列聖の根拠にはならない」という、非常に慎重な言い回しをするようになった。奇跡のハードルは、何百年もかけて上がり続けている。この方向性は、外部からの批判ではなく、内部からの厳格化であることは強調しておきたい。
次に、保存のメカニズムをもう少し丁寧に整理しておく。人の体が残るパターンは、大きく分けて三つある。一つ目は乾燥で、水分が飛んで微生物が働けなくなるパターン。高地、砂漠、風通しのいい地下室などで起きる。二つ目が屍蝋化で、こちらは逆に湿っていて酸素が少ない環境で起きる。三つ目が人の手によるもので、防腐処置や密閉、低温保存だ。この三つは排他的じゃなく、しばしば混ざる。だから、この遺体は自然か人工か、という問いはそもそも粗い。もっといい問いは、どの要因がどの程度寄与したのかで、それを数十年後に確かめるのは、正直かなり難しい。
さらに、このテーマを語るときに見落とされがちな視点をひとつ提示しておきたい。不朽体の多くは、富裕な層の人間のものではない。ベルナデッタは貧しい粉屋の娘だった。シスター・ウィルヘルミナは人種隔離の時代を生きた黒人女性で、十七歳で修道院に入って五十年以上を子供たちの教育に使った。カタリナも、当時の女性としては行動の自由があったわけではない。不朽体の信仰が広がるとき、そこにはたいてい、生前に十分な注目を浴びなかった人が、死後に改めて見つけ直されるという構図がある。ミズーリのケースで、取材に答えた女性が、亡くなった修道女がアフリカ系アメリカ人だったことに意味を見ていたのは、この構図を直感的につかんでいたからだろう。奇跡の話は、同時に誰が覚えられるかという話でもある。
そして、拡散のメカニズムについて。不朽体が拡散するとき、必ず登場するのは一枚の画像だ。顔だけが写っていて、背景も文脈もない。その一枚は、何百年前の標本なのか、数年前のものなのか、蝋の面が乗っているのか、何も語らない。文脈がない画像は、見る側の期待をそのまま反射する鏡になる。信じたい人には奇跡に見え、疑いたい人にはフェイクに見える。両方の陣営が同じ一枚を見て、正反対の結論に達する。これは不朽体に限った話じゃなくて、現代の情報環境全般に言えることだ。だからこの記事では、日付と手続きと報告書の中身をしつこく書いてきた。文脈を戻すことが、この手の話に対するいちばんの防御になる。
最後に、なぜこのテーマがいまこれほど読まれるのかを考えておわりにしたい。現代の先進国に生きていると、人は死体をほとんど見ない。病院で亡くなり、専門業者が整え、短い面会のあとに火葬される。死は衛生的に管理され、日常から切り離された。だから、何百年も前の人がガラスの向こうに横たわっているという光景は、俺たちが普段見ないことになっているものを、一気に目の前に戻してくる。しかも、腐らないという例外付きで。人はそこで二重に揺さぶられる。一つは、死体を見てしまったという衝撃。もう一つは、これは本当に死体なのかという揺らぎだ。この二重の揺さぶりこそが、不朽体という題材のエンジンだと思う。信仰を持つ人にとっては希望のしるしであり、持たない人にとっては、自分の終わり方について考えさせられる静かな装置である。どちらの立場でも、ガラスの前ではちょっとだけ黙るのが礼儀だと思うのだ。
腐らない遺体の謎――不朽体と呼ばれる人々、蝋の面、そして「奇跡ではない」と言う教会
