顔って、たぶん人間の体でいちばん「その人そのもの」に近い部品だ。
心臓は動いていることを他人に見せない。腎臓にいたっては、自分でも位置をよく知らない人のほうが多い。でも顔は違う。朝起きて洗面所で見る。写真に写る。免許証に貼られる。名前を呼ばれる前に、顔で認識される。誰かに好かれるのも嫌われるのも、たいていまず顔からだ。
その顔を、死んだ他人からもらって、自分の頭に縫いつけて生きる。
そういう手術が、この地球上でもう五十人近くに対して行われている。SFでも都市伝説でもない。麻酔をかけて、皮膚を剥がして、動脈と静脈を顕微鏡下で吻合して、神経を継いで、骨をプレートで固定する。ちゃんとした病院で、ちゃんとした保険の話や倫理委員会の議事録を伴って、実際に行われている。
で、ここからが本題なんだけど。
その手術を受けた人たちは、口をそろえて似たようなことを言う。鏡の中にいるのは、自分でもない、ドナーでもない、第三の誰かだ、と。
これが怖い。めちゃくちゃ怖い。そして同時に、どうしようもなく泣ける。今日はその話をする。
二〇〇五年十一月二十七日、アミアンの手術室で夜が明けた
まずはここから始めないと話にならない。世界で最初の症例だ。
フランス北部、パリから北へ百四十キロほどのところにアミアンという街がある。ゴシックの大聖堂で有名な、人口十数万の地方都市。そこのアミアン大学病院で、二〇〇五年十一月二十七日の日曜日から二十八日の月曜日にかけて、十五時間の手術が行われた。
執刀したのはベルナール・ドゥヴォシェルという口腔顎顔面外科医。チームにはシルヴィ・テステランという女性外科医、クリストフ・ムーレ、セドリック・ドートゥイユといった医師たちがいた。ベルギーのルーヴァン・カトリック大学からブノワ・ランジュレという形成外科医が加わり、リヨンのエドゥアール・エリオ病院からはジャン・ミシェル・デュベルナールが来ていた。デュベルナールは一九九八年に世界初の手の移植を成功させた男だ。つまり、体の一部をまるごと他人からもらうという分野の、その当時のトップランナーが二人、同じ手術室に立っていた。
患者はイザベル・ディノワール、三十八歳。北フランス、リールの近くに住む二人の娘の母親だった。
彼女がその年の五月、精神的に追い詰められて薬を飲み、意識を失って倒れていたところを、飼っていた雑種の大型犬が必死に起こそうとした。ラブラドールとボースロンの混じった犬で、名前はタニアといった。犬にしてみれば主人を起こそうとしただけだったのかもしれない。結果として、イザベルは鼻と唇と顎と頬の一部を失った。
目が覚めて、彼女は血だまりの中にいた。犬がそばにいた。そして、鏡を見た。
ここが残酷なところなんだけど、彼女の傷は「きれいすぎた」。犬の歯が入れた傷は鋭く、境目がくっきりしていた。皮弁を寄せて塞ぐような通常の再建外科では、鼻も唇も顎も、機能としては絶望的だった。口が閉じない。食べられない。しゃべれない。よだれが止まらない。そして人前に出られない。
医師団は、当時まだ誰もやったことのない選択肢を彼女に見せた。自分の背中や腿から皮膚を持ってきて貼る従来型の再建をした場合の予想図と、他人の顔の一部を移植した場合の予想図。彼女は後者を選んだ。
フランスの倫理委員会は前年、顔面移植のリスクは利益をはるかに上回ると評価していた。医学界の中からも猛烈な反対があった。命が助かる手術じゃないのに、なぜ一生の免疫抑制という毒を背負わせるのか、と。ドゥヴォシェルとデュベルナールは各方面に頭を下げて回った。免疫学者たちは最後まで渋った。
イザベルは同意書にサインした。手術室に向かう廊下で、医師たちはもう一度サインを求めた。彼女はもう一度サインした。当時の関係者はこう言っている。イザベルだけが決められる、決めるのは彼女ひとりでなければならない、と。
十五時間のあいだに何が起きていたか
準備は執拗だった。チームは五十人規模。外科医たちは何度も何度も遺体で予行演習をした。移植片の生着を確認するためのセンチネル・グラフト、つまり見張り役の小さな皮膚片を、顔ではなく彼女の乳房の下に一緒に移植することも決めていた。拒絶反応が出ていないかを調べる生検を、いちいち顔の皮膚を切って行わなくて済むようにするための工夫だ。地味だけど、これがすごい。顔を傷つけないために、別の場所に予備の顔を埋めておく。
ドナーは、リールで亡くなった四十六歳の女性だった。自ら命を絶ったと報じられた。遺族は事故だったと主張し、その点はのちのちまで揉めた。フランスの法律では、レシピエントがドナーの身元を知ることは永遠にできない。
十一月二十六日、ドナーが見つかったという連絡が入る。摘出チームがリールに飛び、採取された顔の三角形が救急車でアミアンへ運ばれた。鼻、唇、顎、そして頬の一部。ドゥヴォシェルはのちにこう振り返っている。イザベルの顔の穴の上にその移植片を置いたとき、それは蝋のように白く、まったく色がなかった、と。
そこからが微小血管外科の時間だ。血管の直径はおよそ一・五ミリ。顕微鏡を覗きながら、髪の毛より細い糸で縫っていく。ひとつの血管につき二針か三針。小さなクランプで血流を止めて縫い、クランプを外して血を通す。
そして、色が変わる。
ドゥヴォシェルの言葉が印象的だ。いちばんよかった瞬間は、皮膚がだんだんピンクになっていくのを見たときだ。そして唇だ。唇が生命の色になって、ふくらんできた。まるで完全な再誕だった。
この手術では二十本の筋肉が移植され、何百という神経の断端が繋ぎ直された。十五時間。日曜の夜から月曜の朝へ。
三日後の十一月三十日、イザベルはリヨンに移送される。そこでドナーの骨髄由来の幹細胞を注入された。拒絶反応を抑えるための、当時としてはかなり攻めた免疫学的アプローチだ。
十二月二日、報道が世界を駆けめぐった。十二月二十一日、最初の拒絶反応の兆候が出た。薬で叩いて抑え込んだ。一月六日、彼女はアミアンに戻ってきた。
「私はもう、みんなと同じ顔をしています」
二〇〇六年二月六日。アミアン大学病院で記者会見が開かれた。世界中の記者が詰めかけた。手術から七十一日目、彼女が意識のないまま搬送されてきた日から数えて八か月ちょっと。
会見を望んだのは、実は病院側ではなく彼女自身だったという。退院するために、この騒ぎに一区切りをつける必要があった。
現れた彼女は、こう言った。私はもう、みんなと同じ顔をしています、と。
これは奇妙な発言だ。だって彼女の顔は、定義上、みんなとは違う。三角形の他人の組織が真ん中に貼られている。でも彼女が言いたかったのは、そういうことじゃない。人間の顔をしている、という意味だ。街を歩いても悲鳴を上げられない顔をしている、という意味だ。
彼女は続けた。今は口を開けられるし、食べられるし、唇も鼻も使える。ただしリハビリと薬は続けなければならない、と。そして、もしひとつだけ変えられるなら、この件が私の家族や近所の人たち、それにドナーの家族にかけている圧力をなくしたい。今日でそれが終わることを願っています、と言った。
会見でジャーナリストのひとりが、みんなが心の中で思っていたことを聞いた。いわゆる「ハリウッド的な質問」だ。犯罪者が身元を隠すために顔をまるごと取り替えることは、技術的に可能なのか。
ドゥヴォシェルの答えが最高だった。可能です。でも、その患者はドナーには似ません。あなたの見た目を決めているのは顔の肉ではなく、あなたの骨格です。それに、そんな手術を引き受ける外科医が簡単に見つかるとは思えない。少なくともフランスでは。
鏡の中に、ふたりが見える
ここからが、この話のいちばん深いところだ。
手術は成功した。イザベルは食事ができるようになり、しゃべれるようになり、キスができるようになった。彼女の伝記のタイトルはフランス語で「イザベルのキス」という。二〇〇七年に出版された、ノエル・シャトレという作家による本だ。シャトレは患者本人と、アミアンとリヨンの両チームに長時間のインタビューを行い、事故から二〇〇六年二月の会見までの九か月を再構成した。
でも、うまくいったからといって、心が追いつくわけじゃない。
彼女の家には、鏡がほとんどなかった。当たり前だ。鏡は、この二年半のあらゆる瞬間を彼女に突きつける装置だった。犬に襲われた直後に覗き込んだ鏡。病院で、残された鼻と口と顎の残骸を見つめた鏡。
二〇一二年、手術から七年後のインタビューで、彼女はこう語っている。いちばん難しいのは、事故の前の顔をした、あの頃の自分自身を取り戻すことだ。でも、それが不可能だということは分かっている、と。
そして、こう続けた。
鏡を見ると、ふたりが混ざっているのが見える。ドナーはいつも私と一緒にいる。
これだ。これがこの話の核心にある不気味さであり、同時に救いでもある。
彼女は落ち込むことが多かった。うつの波が来た。手術直後は、身元を絶対に知ることができないはずのドナーの情報をインターネットで探し回った。それでも、と彼女は言った。落ち込んだとき、私はもう一度鏡を見て、彼女のことを考える。そして自分に言い聞かせる。あきらめることは許されない、と。彼女が私に希望をくれる。
彼女はいつか、ドナーの家族に会いたいと言っていた。彼らの「魔法のような贈り物」に礼を言うために。その願いは、最後まで叶わなかった。
執刀医のドゥヴォシェルは、二〇〇八年にロンドンで開かれた会議でこう述べている。この患者は移植前から非常に強い人で、手術直後に鏡を見たときも、まったく揺らがなかった。移植はきわめて速やかに彼女の人生に統合された。それは彼女という人間の一部になったのだ、と。
そして同時に、周囲の人間はこうも観察していた。彼女は、犬に襲われる前の女性にも似ていないし、顔を提供した死んだ女性にも似ていない。似ていないのだ。二人のどちらでもない、まったく新しい第三の顔がそこにある。
拒絶反応、免疫抑制剤、そして二〇一六年四月二十二日
美談で終わらないのが、この話の誠実なところだ。
顔面移植を受けた人間は、死ぬまで免疫抑制剤を飲み続ける。飲むのをやめれば顔が壊死する。飲み続ければ、感染症にかかりやすくなり、腎臓を痛め、そして癌のリスクが跳ね上がる。免疫抑制状態にある移植患者の新規発癌リスクは、一般人の二倍から四倍と言われている。
イザベルは移植後、二度の急性拒絶反応を経験している。一度目は手術から一か月後、二度目は一年後。どちらも薬の調整で乗り切った。だが、彼女の体はずっと戦い続けていた。感染症、腎機能の問題、高血圧。全部、治療に紐づいたものだ。
そして二〇一五年の冬、体が移植された組織を本格的に拒絶しはじめた。彼女は唇の機能の一部を失った。十年かけて手に入れた「みんなと同じ顔」が、少しずつ剥がれていった。
さらに、長年の強力な抗拒絶治療の結果として、二つの癌が生じていた。
イザベル・ディノワールは二〇一六年四月二十二日に亡くなった。四十九歳だった。死去が公表されたのは同年九月六日。遺族が静かに喪に服す時間を確保するため、病院が発表を伏せていた。
病院の声明の一文が、やたらと重い。彼女の経験は、顔面移植というものが抱える賭けの大きさを完璧に示している、と。
手術を担当したシルヴィ・テステランは、当時こう反論している。やるべきじゃなかったと言うのは簡単だ。でも彼女の人生は変わった。買い物に行き、休暇に出かけられるようになった。それ以前は、彼女は生きられなかった。自分で自分が分からなくて、自分で自分が怖かった。あんなふうには生きられないんです、と。
どちらも正しいんだと思う。だからしんどい。
バルセロナの二十四時間、名前だけを名乗った男
二〇一〇年三月、スペインのバルセロナ、バル・デブロン大学病院。
ジョアン・ペレ・バレットという外科医が率いる三十人以上のチームが、二十四時間かけて、世界で初めての「全顔面移植」を行った。それまでの十例はすべて部分移植だった。この手術は、顔まるごとだった。
患者は三十歳の男性。二〇〇五年に銃器による事故で顔の大部分を失っていた。九回の再建手術を受けたが、いずれも十分な結果を出せなかった。ドナーは脳出血で亡くなった四十一歳の男性。
移植されたものを並べるとぞっとする。筋肉、鼻、唇、上顎骨、口蓋、歯全部、頬骨、そして下顎骨。柔らかい組織だけでなく、顔の骨格そのものが入れ替わった。
同年七月、彼はテレビカメラの前に姿を現した。オスカル、とだけ名乗った。苗字は明かさなかった。三十一歳になっていた。ドナーの家族と、自分に顔をくれた医療チームに感謝を述べた。
バレットによれば、患者は新しい外見を見たとき満足していたという。額と首に傷はあるが、いずれ目立たなくなるだろう、と。首を横切る一本の線だけが、しわのように残っている。それが、彼が別人の顔を着けている唯一の外的な証拠だった。
論文として発表された経過は、決して穏やかではない。静脈の吻合部に血栓ができた。口と皮膚のあいだに瘻孔ができた。耳下腺に唾液の溜まりができた。急性拒絶反応が二回起きた。それぞれ、吻合のやり直し、大量の洗浄、免疫療法の調整で乗り切った。彼は術後四か月で退院した。感覚はほぼ全域で戻り、運動機能も部分的に回復し、心理的な問題はなく、新しい顔をきわめてよく受け入れていた、と記録されている。
イギリスの顔面移植研究チームは、この手術を、おそらく世界でこれまでに行われた中で最も複雑な顔面移植手術だ、と評した。ただし「世界初の全顔面移植」と呼ぶことについては、そこまで言い切るのを避けた。この手の「世界初」の綱引きも、この分野の正直な一面だ。
銃創で顔の八割を失い、それでも十一年生きた女性
アメリカ最初の症例は、コニー・カルプという女性だ。
二〇〇四年九月二十一日、オハイオ州ホープデール。彼女は夫が経営するバーの中で、その夫に散弾銃で顔を撃たれた。無理心中を図った末の犯行だった。夫も生き残り、翌年、殺人未遂の重罪で七年の実刑を受けた。
散弾はコニーの鼻、頬、口蓋、そして片方の目を破壊した。彼女は法的な盲人となり、固形物を食べられなくなり、首に開けた気管切開のチューブで呼吸するようになった。
そして、ここが多くの人の胸を打つところなんだけど、彼女は判決の場で夫を許すと言った。刑期が明けたら待っていると言った。だが二〇〇九年、テレビ番組でその考えを撤回する。娘にこう言われたからだ。ママ、自分の顔を吹き飛ばした男のところに戻るなんて、私にどんな見本を見せるつもりなの、と。
コニーは顔面移植の前に、三十回の手術を受けている。三十回だ。
二〇〇八年十二月十日、クリーブランド・クリニックで、マリア・シミオノフという外科医が率いるチームが二十二時間の手術を行った。顔の八割が、アンナ・カスパーという、一週間前に亡くなった別の女性の顔に置き換わった。
術後の彼女の描写は、美談を許さない生々しさがある。表情はまだ少し木のようにぎこちない。ほぼ盲目のままで、右目は義眼、左目も損傷している。話すことはできるが、聞き取りにくいときがある。顔はむくんで四角い。皮膚は襞になって垂れている。それでも、彼女は自力で呼吸し、固形物を食べ、匂いを嗅ぎ、味を感じ、そして笑うことができるようになった。点字も覚えた。
二〇一〇年に最後の顔面手術を受けたあと、神経が再生して、彼女は笑顔をつくり、話し、顔に感覚を得た。彼女はその後、火傷や外見の変形を抱えて生きる人たちの理解を広める活動に人生を使った。
二〇二〇年七月二十九日、コニー・カルプは五十七歳で亡くなった。死因は顔面移植とは無関係な感染症で、その感染は移植の十年から十二年前に受けたものだったという。
クリーブランド・クリニックの皮膚科・形成外科部門を率いるフランク・パパイは、彼女の死に際してこう言った。コニーは信じられないほど勇敢で、生命力にあふれた女性で、多くの人にとっての希望だった。彼女の強さは、これまでの顔面移植患者の中で最も長く生きたという事実に表れている。彼女は偉大な開拓者であり、時に恐ろしくもある手術を受けるという彼女の決断は、全人類に対する永続的な贈り物である、と。
移植された顔で十一年半。これは今のところ、この分野の記録のひとつだ。
二十一歳、「人生でいちばん長い昼寝」
ケイティ・ストゥーブルフィールドの話をする。取り扱いに気をつけながら書く。
二〇一四年三月二十五日、当時十八歳だった彼女は、銃で自らを傷つけた。恋愛の破綻、家族の困難、進路の不安。十八歳の人生には十分すぎる重さの出来事が重なっていた。彼女は生き延びた。
搬送先のテネシー州メンフィスの病院で、医師たちは奇跡的に彼女の命を救った。だが腹部から採った組織で顔の穴を覆おうとする試みは、うまくいかなかった。
五週間後、彼女はオハイオ州クリーブランドに運ばれてくる。最初に彼女を見たクリーブランド・クリニックの医師、ブライアン・ガストマンは、こう述懐している。ひどいものだった。彼女の脳が基本的にむき出しになっていて、痙攣も感染もあらゆる問題があった。顔面移植どころの話じゃない、生きているかどうかの話だった。体重はたった百五ポンド、四十八キロ足らず。この子に、再建に必要なだけの組織が残っているのかどうかすら分からなかった、と。
ケイティは額の一部、鼻と副鼻腔、唇の端を除く口全体、そして顎と顔面前部を構成する骨を失っていた。目は残っていたが、ひどく損傷していた。
三年かかった。その間に彼女は何十回もの手術を受けた。太ももの皮膚とアキレス腱の一部で顔をつくり直した。彼女はその顔を「私のシュレック顔」と呼んでいた。自嘲ではなく、たぶんサバイバルのユーモアだ。
移植リストに載ってから一年以上待った。ドナー候補が二回見つかり、二回とも条件が合わなかった。彼女の若さは不利でもあった。若い免疫系は強い。拒絶しやすい。しかも条件が厳しかった。女性で、年齢が近くて、肌の色が合うドナー。
ガストマンはこう言っている。彼女は本当の意味での女性としての人生を始めるところだった。子どもを持つこと、伴侶を見つけること、大学に行くこと、仕事を得ること、家を持つこと。そのどれも経験していなかった。顔を得られなければ、彼女は時間の中に凍りついたままになる。自分も同じくらいの娘を持つ父親として、若い人にとっての顔面移植の可能性を考えると、彼女こそふさわしい候補者だと強く感じた、と。
二〇一七年五月四日の朝、ガストマンは病室に飛び込んできた。前の晩はほとんど寝ずに、ダイエットコークで眠気を飛ばしながら最終調整をしていた。友人と家族でいっぱいの部屋に入るとき、彼はスタジアムのトンネルを抜けてフィールドに出ていくような気分だったと言っている。
今から始まるぞ、と彼は言った。
ケイティはそれを「人生でいちばん長い昼寝」と呼んだ。
手術室19号。ドナーの顔の採取から始まって、術野に三、四人の外科医が拡大鏡付きのメガネで覆いかぶさり、宝石商が石を検分するような姿勢で作業を続けた。周囲では研修医たちが、脚立に乗ってでも見ようとして、一挙手一投足に釘付けになっていた。合計十一人の外科医と多数の専門職が関わった。
三十一時間後の午後三時、外科医たちは皮膚の最上層を縫い終えた。顔が繋がった。手術室で拍手が起きた。
集中治療室に運ばれる彼女の頭を、研修医が動かないよう両手でそっと抱えていた。目を守るため、まぶたは糸で閉じられていた。
二十一歳。アメリカ史上最年少の顔面移植患者。世界では四十例目。クリーブランド・クリニックにとっては三例目であり、初の全顔面移植だった。
アドレアの祖母が、孫娘の唇を見つめた日
ドナー側の話をする。この記事の中で、いちばん書きたかった部分だ。
ケイティに顔を与えたのは、アドレア・シュナイダーという三十一歳の女性だった。薬物の過剰摂取で昏睡に陥り、回復しなかった。
アドレアの人生は楽ではなかった、と祖母のサンドラ・ベニントンは語っている。アドレアの母親、つまりサンドラの娘は薬物を使っていて、アドレアは生まれたときから体内に薬物があった。亡くなる前、アドレアは薬物依存のリハビリに入っていて、祖母との関係を取り戻していた。うちに遊びに来て、二人でげらげら笑ってバカなことをして、まるで姉妹みたいだった、とサンドラは言う。
アドレアは臓器提供の登録をしていた。彼女の心臓、肺、腎臓、肝臓はアメリカ各地の患者を救った。少なくとも七人が彼女の死によって生き延びた。
だが、顔は別だった。臓器あっせん機関の担当者から、顔はどうしますか、と聞かれたとき、サンドラは最初どうしていいか分からなかった。
彼女はこう答えたという。急に思ったんです。じゃあ、顔だってどうしていけないの、って。アドレアは誰かに自分の臓器を持っていてほしいと思っていた。だったら顔だってそうでしょう。それが私の答えでした。そうしてよかったと、心から思っています。
移植から八か月と二十二日後、二〇一八年一月の日曜日の朝、サンドラはケイティに会いに行った。肺の病気のせいで酸素ボンベを引きながら、ゆっくりとリビングに入っていった。
ケイティはソファにひとりで座って待っていた。新しいワンピースを着て、まだ損傷の残る目を隠すためにおしゃれなサングラスをかけていた。会う前、ケイティは緊張して泣いてしまっていた。サンドラも緊張していて、そんな自分を馬鹿みたいだと思っていた。
サンドラはケイティの隣に座って、手を握った。そして言った。会えて本当によかった。あなた、きれいね。
ケイティは答えた。信じられないような贈り物を、本当にありがとうございました。
サンドラは身を乗り出したが、まだ発達途上のケイティの発音が聞き取れなかった。母親のアリシアが、代わりに繰り返した。
サンドラはケイティの顔に触れた。かわいいわね、と言った。そしてもっと近くで見た。えくぼのある顎に、そして鼻に、アドレアが見えた。孫娘そのものではない。でも、確かにいる。
サンドラはケイティに、私のことをアンマと呼んでいいのよ、と言いたかった。アンマというのは、アドレアが彼女を呼ぶときの呼び名だった。でも、その日は言わなかった。
代わりに彼女は、かつて孫娘のものだった口を見た。唇を見た。唇が乾いてかさついているのに気づいた。そして、どうしようもなく、それを手入れしてやりたいと思った。
このディテールで、私は完全に持っていかれた。
ケイティはあとでこう言っている。あの人が自分のおばあちゃんみたいに感じた。とても愛されていると感じた、と。
現場に立ち会ったカメラマンのマギー・ステーバーは、こんなふうに書いている。サンドラはアドレアの何が残っているかを探していた。いくつかは見つかった。でも顔というものは、移されたときに別の何かになる。それはドナーの顔でもレシピエントの顔でもなく、新しい顔、それ自体の顔なのだ、と。
顔と両手を一度に、二十三時間
二〇一八年、ニュージャージー州の当時十八歳だったジョー・ディメオは、夜勤明けの帰り道で運転中に居眠りをして事故を起こした。車は横転して炎上した。彼は体の八割に三度の熱傷を負った。
四か月を熱傷ユニットで過ごし、そのうちの一部は人工的な昏睡状態だった。二十回以上の再建手術を受けた。指先は切断された。唇とまぶたも失った。それでも手と顔の機能はほとんど戻らなかった。
二〇一九年、彼はニューヨークのある大学病院に紹介された。顔面移植プログラムを率いるエドゥアルド・ロドリゲスのところだ。
二〇二〇年八月、デラウェア州でドナーが見つかった。数日後、百四十人を超える医療者からなるチームが、二十三時間の手術を行った。
やったことは、常識の外にある。両手を前腕の途中で切断し、ドナーの手をつけ直した。髪の毛ほどの細さの糸で、神経と血管と二十一本の腱を繋いだ。同時に、額、眉、鼻、まぶた、唇、両耳、そして顔の骨まで含む全顔面を移植した。
ロドリゲスは記者会見でこう言っている。過去の実績から見て、成功する可能性は低いように見えた。誰かが何度もやったことがあって、レシピがあるという類の手術ではないんです、と。
顔と両手の同時移植は、それまでにも試みられていた。だが成功と呼べたものはなかった。だから彼らは、術後に拒絶反応が出ないことを確かめるまで、半年近く発表を控えた。二〇二一年二月三日、ようやく世界初の成功として公表された。
ディメオは四十五日を集中治療室で過ごし、その後二か月近い入院リハビリを受けた。新しいまぶたを開けることを覚え、新しい手を動かすことを覚え、そして笑うことを覚えた。
ロドリゲスは彼をこう評した。今まで会った中で、いちばんモチベーションの高い患者だ。
ディメオ本人の言葉はシンプルだった。人生をもう一度やるチャンスをもらった。
顔を三つ持った男
不気味さの話に戻る。ジェローム・アモンというフランス人男性の症例が、この分野でいちばん想像力を殴ってくる。
彼は神経線維腫症という遺伝性の疾患を持っていた。神経に沿って腫瘍ができる病気で、顔面が大きく変形する。二〇一〇年、三十代半ばのときに、パリのジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院で、ローラン・ランティエリという外科医の執刀で顔面移植を受けた。ドナーは六十歳の男性だった。
うまくいっていた。ところが二〇一五年、彼は風邪をひいた。処方された薬が、抗拒絶薬と干渉した。それが引き金だった。
二〇一七年十一月、移植された顔の組織が壊死しはじめた。ランティエリは、その顔を摘出するしかなかった。
ここからの二か月間が、想像を絶する。
彼には顔がなかった。まぶたがない。耳がない。皮膚がない。しゃべれない。食べられない。聴力もほとんどない。表現できるのは、わずかに首を動かすことと、少し文字を書くことだけ。ランティエリはこの状態をこう表現した。歩く死人だった、と。
彼はその状態で、パリの病院の一室で、二つ目のドナーを待った。
二〇一八年一月、ドナーが見つかった。手術の前に、彼の体内の血液をすべて入れ替えるという一か月がかりの処置が行われた。前の顔に対して体が作った抗体を洗い流すためだ。そして、二度目の顔面移植が行われた。
同年四月、彼は記者の前に現れた。ブルターニュ地方で週末を過ごしてきたところだ、と言った。四十三歳。
最初の顔はすぐに受け入れられた。今回も同じだ、と彼は言った。
一度目のドナーは六十歳だった。二度目のドナーはもっと若かった。彼は冗談めかしてこう言った。今回で何十年か若返った、と。二十二歳に戻った気分だ、とも語った。
ランティエリの言葉が、この記事のテーマそのものを言い当てている。これは彼にとって二度目の移植だが、三つ目の顔だ。このことは、顔が他の臓器と同じように、移植でき、再移植できる臓器だということを示している、と。
顔が、臓器である。この一文を、ゆっくり噛みしめてほしい。フランスのメディアは彼を「三つの顔を持つ男」と呼んだ。
二度目の顔を選んだ女性
アメリカにも二度目を選んだ人がいる。カルメン・ブランディン・タールトンという元看護師だ。
二〇〇七年、別居中の夫に襲われ、体の八割以上に化学熱傷を負い、視力を失った。加害者は二〇〇九年に有罪を認め、三十年以上の刑を受け、二〇一七年に獄中で死亡している。
彼女は二〇一三年、ボストンのブリガム・アンド・ウィメンズ病院で、ボーダン・ポマハッチという外科医の執刀により顔面移植を受けた。だが六年後、移植された顔が機能を失いはじめた。二〇一九年には日常生活が成り立たなくなった。
ポマハッチは、二度目の移植には乗り気ではなかった。従来型の再建を勧めた。彼はこう説明している。臓器移植の経験から言えば、二回目は普通、一回目より長くはもたない。数年で、また同じ場所に戻ってくることになるかもしれない、と。
だが、カルメンが一回目の移植で人生がどれだけ変わったかを語るのを聞いて、チームは考えを変えた。彼女は本当にもう一度やってみたがっていた、とポマハッチは言っている。彼女はリスクとベネフィットを理解していると私たちは感じた。だから、妥当だと合意した、と。
二〇二〇年七月二十八日、四十五人以上の医療者による二十時間の手術。失敗した移植片を取り除き、首の感覚神経と血管を新たな接続のために準備し、そこに新しい顔を繋いだ。彼女はアメリカ初、世界で二人目の「二度目の顔面移植」の患者になった。
彼女の関心は、見た目じゃなかった。まぶただ。従来型の再建では、まぶたは再建できない。まぶたがないというのは、目を守れないということだ。
ポマハッチの正直な言葉が好きだ。今は楽観的だし、一回目より長くもってくれることを願っている。でももちろん、それは希望的観測で、推測にすぎない。分からないんです。彼女は本当に運がよかった、と。
で、手術って実際になにをどう繋いでるの
技術的な話を、なるべく分かりやすくいく。
顔面移植は、医学用語では血管柄付き複合組織同種移植と呼ばれる。皮膚、脂肪、筋肉、腱、軟骨、骨、神経、血管、そして骨髄まで、性質のまったく違う組織を「ひとかたまりの機能する単位」としてまるごと移植する。これがべらぼうに難しい。
心臓移植や腎臓移植なら、繋ぐべき血管は数本で、しかも太い。顔は違う。顔の血流は、外頸動脈から枝分かれした無数のルートが、網の目のように重なり合ってできている。顔面動脈、浅側頭動脈、内顎動脈、後耳介動脈。移植する範囲によって、どの動脈を蒂として使うかが変わる。
下顔面と中顔面だけなら、左右の顔面動脈だけで血が行き渡ることが多い。だが額と頭皮まで含む上顔面が入ると、浅側頭動脈も一緒に持ってこなければならず、大元の血管としては外頸動脈そのものを使うことになる。
静脈のほうも一筋縄ではいかない。顔面静脈は目頭のあたりから始まって、顔面動脈の後ろを斜めに走り、下顎の骨の上を越えて内頸静脈に注ぐ。ところが、この走り方には個人差がある。外頸静脈が左右で二本になっている人は十七パーセント、前頸静脈が二本の人は三十パーセントいる。だから術前に、造影CTや時間分解MRアンギオで、その人の血管地図を徹底的に描く。
これがまた大変で、顔面移植の候補者というのは、たいてい何十回も再建手術を受けている。体の中に手術用のクリップや金属のプレートが入っている。銃創なら弾片が残っていることもある。ある研究では、候補者四人のうち三人が、吻合に使おうとしている主要血管の一センチ以内に金属を持っていた。金属はMRIで画像を乱す。だからCTで撮って、その空間的な位置関係をミリ単位で読む。
血流の速さも問題だ。外頸動脈系に造影剤が入って、外頸静脈から抜けきるまでの時間は、六秒から十四秒。この短さの中で動脈相と静脈相を分離して撮らないといけない。
そして手術当日。ドナー側とレシピエント側の手術が同時進行する。隣り合った手術室、あるいは同じ部屋の二つの台の上で。ドナーから顔を採取するのと並行して、レシピエント側では傷んだ組織を取り除き、繋ぐべき血管と神経を露出させておく。移植片が血流を失っている時間、つまり虚血時間を一秒でも短くするためだ。
繋ぐ順番は、だいたいこうなる。まず骨をプレートとスクリューで固定する。次に動脈と静脈を顕微鏡下で吻合して、血を通す。血が通った瞬間に、蝋のようだった顔に色が戻る。イザベルのときにドゥヴォシェルが感動したのは、この瞬間だ。それから神経を縫合する。感覚を司る三叉神経系の枝と、表情を司る顔面神経の枝。最後に軟部組織を整えて閉じる。
神経は、繋いだ瞬間に動くわけじゃない。切れた神経の断端から、軸索が一日に一ミリくらいの速さで、ゆっくり相手側へ伸びていく。だから顔面移植の患者が笑えるようになるまで、半年から一年かかる。感覚が戻るのは、もう少し早いことが多い。
手術時間は症例によって十五時間から三十一時間。出血量は多いときで三十五単位に達する。輸血のパックにして三十五袋分だ。
ちなみに、費用は日本円で軽く一億円を超える。パトリック・ハーディソンの症例は「百万ドルの手術」と報じられた。
消防士になりたかったドナー
そのハーディソンの話も書いておきたい。ドナー遺族の決断という点で、忘れがたい症例だから。
パトリック・ハーディソンは、ミシシッピ州セナトビアのボランティア消防士だった。二〇〇一年九月五日、燃えている家の中に女性が取り残されているという通報を受けて突入した。屋根が落ちた。ヘルメットが飛んだ。マスクが顔の上で溶けていくのを感じた。彼は目を閉じて、窓から飛び降りた。二十七歳、三人の子の父親だった。
顔と頭皮全体に三度の熱傷。まぶたがなくなった。まぶたがないということは、目を閉じられないということで、それは失明が時間の問題だということだった。彼は七十回以上の手術を受けた。
教会の友人が、二〇一二年にメリーランドで顔面移植を執刀した外科医、エドゥアルド・ロドリゲスに手紙を書いた。ロドリゲスは、力になると答えた。二〇一四年八月、ハーディソンは待機リストに載った。
理想的なドナーを探していた、とロドリゲスは言っている。拒絶リスクを最小化するための生物学的な適合だけでなく、肌の色や髪の色といった見た目の条件も合う人を。
一年後、ニューヨークの臓器あっせん機関が候補者を見つけた。デイヴィッド・ロデボーという二十六歳の男性。ブルックリンに住む自転車整備士でありアーティストであり、BMXの熱心な競技者だった。オハイオ州コロンバス近郊の出身。自転車の事故で頭部に致命的な損傷を負い、脳死と判定された。彼は臓器提供の登録をしていた。
だが顔は、家族の同意が要る。
母親は許可を出した。あっせん機関の代表が明かした理由が、胸に刺さる。デイヴィッドはずっと、消防士になりたいと思っていた。
二〇一五年八月、百人以上のスタッフが二チームに分かれ、二十六時間かけて手術が行われた。ハーディソンとロデボーは、それぞれ別の手術台の上にいた。移植されたのは頭蓋の広い範囲と首の大部分を覆う組織で、その量においては、それまでに成功した中で群を抜いて広範囲だった。
術後九十三日目、ロドリゲスは、拒絶反応が起きていないことを確認して、成功と呼んでいいと判断した。手術前、チームは成功率を五分五分と見積もっていた。
四十一歳のハーディソンは、二〇〇一年のあの火事以来はじめて、まばたきができるようになった。目を閉じて眠れるようになった。青い目は守られた。髪の毛が生え、眉毛が生え、無精ひげが生え、耳がついた。彼は感謝祭に間に合うように故郷へ帰った。
心臓や腎臓とは、何がそんなに違うのか
ここで一度、根っこの問いに戻る。
臓器移植は、もう珍しくない。日本でも心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸の移植が行われている。角膜も、皮膚も、心臓弁も、骨も、靭帯も、膵島も移植される。じゃあ、顔だって同じじゃないのか。
同じじゃない。理由は三つある。
一つ目。顔面移植は、命を救わない。
心臓移植をしなければ患者は死ぬ。腎臓移植をしなければ、透析に人生を縛られる。だから多少のリスクを取る合理性がある。だが顔がなくても、人は生物学的には生きられる。生きられるのに、そこに一生の免疫抑制という毒を投入する。癌のリスクを二倍から四倍に上げる。感染症で死ぬ確率を上げる。腎機能を削る。
つまり顔面移植は、命を延ばすのではなく、命を縮めてでも生活の質を取りに行く手術だ。これが従来の医療倫理の枠組みにまったく収まらない。まず害をなすなかれ、という古典的な原則と正面衝突する。
イギリスの王立外科医師会は二〇〇六年、顔面移植作業部会の報告書で「相当な留保」を表明した。フランスの国家倫理諮問委員会も当初は支持しなかった。彼らが挙げた懸念は、真っ当なものばかりだ。インフォームド・コンセントは本当に成立するのか。慢性拒絶が来たらどうするのか。長期成績がまったく分からないのに、どうやって同意を取るのか。
二つ目。顔は、アイデンティティを運んでいる。
心臓をもらった人が「自分が誰か分からなくなる」ことは、稀にはある。移植患者の体験談には、ドナーの人格が入り込んできたような感覚を語るものがある。だが顔は、その感覚が桁違いに強い。医療倫理の研究者たちは、顔面移植におけるアイデンティティの問題は臓器移植一般と同種のものだが、はるかに強度が高いと整理している。顔が個人のアイデンティティとあまりにも密接に結びついているからだ。
三つ目。ドナー遺族にとって、顔は他の臓器と決定的に違う。
心臓を提供した遺族は、その心臓を見ることがない。だが顔は、誰かの上で歩き回り、笑い、テレビに映る可能性がある。遺族が「あの人はまだ生きている」という感覚から抜け出せなくなる。喪の作業が完了しない。
イギリスで二千百人以上を対象に行われた大規模な意識調査では、この点が数字として出ている。回答者の多くが顔面移植そのものには肯定的だったが、いざ「自分の顔を提供するか」となると強い抵抗が出た。七十二人が、顔はあまりにも個人的すぎて提供できないと答えた。五十三人は、他の臓器は提供しても顔は提供しないと答えた。二十七人が、その理由を、顔は目に見えるし、個人的なものだから、内臓とは違う、と説明した。
そして、家族の顔を提供することについて聞かれると、抵抗はさらに強くなった。百十一人が「誰かを助けたい」と表明していたにもかかわらず、だ。百十三人が、その考えは動揺させる、耐えがたい、居心地が悪い、と答えた。
同じ調査で、もうひとつ興味深い結果が出ている。回答者の多くが「レシピエントがドナーに似てしまうこと」を心配していた。だがこれは、臨床的には誤りだ。似ない。骨格が違うから似ない。それでも人は、そう心配する。
「自分でやったんだろう」という視線
もうひとつ、あまり語られない残酷な数字を紹介したい。
さっきのイギリスの調査で、どういう場合に顔面移植が適切だと思うかを聞いたところ、襲撃、事故、疾患によって顔が損なわれた場合には、八十六パーセントが適切だと答えた。
自傷による場合は、四十五パーセントだった。
半分以下だ。五十五歳以上では三十六パーセントまで下がる。
つまり社会は、顔を失った理由によって、その人が新しい顔をもらう資格があるかどうかを無意識に選別している。
イザベル・ディノワールがまさにその視線を浴びた。彼女が薬を飲んで意識を失っていた状況が報じられた瞬間、世論の一部は反転した。自分でやったんじゃないか、ドナーの顔を受け取る資格があるのか、という言い方が出てきた。ケイティ・ストゥーブルフィールドも同じ視線を浴びている。
これに対する外科医たちの答えは、はっきりしている。フランスのある顔面移植医は、自著の中でこう書いている。医学の名誉というのは、患者の過去に対する道徳的な判断を持ち込まずに、すべての人を治療することにある。とりわけ、その外傷の原因が、限界まで達した精神的な苦痛に結びついている場合には、と。
ブライアン・ガストマンも同じことを別の言い方で言っている。彼女はこれから人生を築ける。それこそが今、彼女がやっていることだ、と。
視力を失っている患者に顔面移植をすべきかどうか、という議論もある。自分の新しい顔を見ることができない人に、この手術は意味があるのか、と。これに対する答えも同じだ。目が見えなくても、顔の感覚は戻る。話せる。食べられる。キスができる。呼吸ができる。これらを誰かから取り上げていい理由は、どこにもない。
日本ではどうなっているのか
ここまで一例も日本が出てこなかったことに、気づいているだろうか。
そう、日本ではまだ一例も顔面移植が行われていない。
理由は、いくつも重なっている。
まず制度だ。日本には臓器移植法があるが、そこで「臓器」と定められているのは心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、そして眼球で、顔面はそこに含まれない。じゃあ組織移植の枠組みかというと、組織移植については法律がなく、日本組織移植学会が定めるガイドラインと認定制度で運用されている。心臓弁、血管、皮膚、骨、靭帯、膵島、羊膜といったものが、そこで扱われている。
顔面のような複合組織移植、四肢や指の移植、気管移植、子宮移植は、海外では行われているが日本では診療報酬上も認められていない。つまり、やろうとしても誰も費用を負担できない。一億円を病院が自腹で被る話になる。
次にドナーの問題。日本の組織提供は、そもそも数が足りない。臓器移植法の改正以降、心停止ドナーの減少とともに組織ドナーはむしろ減少傾向にあるという指摘もある。この状況で、遺族に「顔をください」と切り出すハードルは、想像するのも苦しい。
三つ目に、文化的・心理的な要素。日本形成外科学会の学会誌には、二〇〇八年に日本人の顔面移植に対する考え方をアンケート調査した論文が発表されている。日本医科大学形成外科の小川令によるものだ。同じ小川令は二〇二二年、日本頭蓋顎顔面外科学会誌に「同種顔面移植手術 世界の現況と展望」という総説を書いていて、そこで二〇〇五年から二〇二二年三月までに世界で四十七例が行われたこと、レシピエントは生涯にわたって免疫抑制剤を服用する必要があること、平均寿命より若くして亡くなる症例が増えていること、拒絶により二度目の移植を受ける患者が増えていることを整理し、今後の発展のためには財政的な問題、患者のメンタルケア、移植組織の長期維持の改善が不可欠だと述べている。かなり冷静な、しかし突き放してはいない筆致だ。
まったく研究がないわけでもない。名古屋大学大学院医学系研究科形成外科学の橋川和信は、CSTつまり献体を用いた外科手技研修を活用して、日本における同種顔面移植の手技習得と開発に取り組んでいる。頭蓋顎顔面外科、頭頸部再建外科、美容外科が協働してのプロジェクトだ。誰もやっていないからこそ、いざその日が来たときに手が動くようにしておく。この地味さが、私はちょっと好きだ。
日本の再建外科のレベルは世界的に見ても高い。遊離皮弁を使った顔面再建の技術では、むしろ世界をリードしてきた歴史がある。だからこそ「移植までしなくても、うちならここまで戻せる」という自負もある。それは正しい。ただし、その技術をもってしても、まぶたと唇と鼻だけは、どうやっても代替できない。まぶたには、まぶたの代わりがない。
『フェイス/オフ』の想像力は、どこでずれるか
一九九七年の映画『フェイス/オフ』を思い出す人は多いと思う。ジョン・ウー監督、ジョン・トラボルタとニコラス・ケイジ。FBI捜査官とテロリストが顔を交換して、互いの人生に入り込んでいくというあの話。
面白いことに、現実の顔面移植は、この映画の八年後に始まっている。つまりフィクションが先で、現実が後を追った。
医学史や医療人文学の研究者たちは、この関係を真面目に分析している。イギリスの文化史家フェイ・バウンド・アルベルティは、イザベル・ディノワールの死を受けて「『フェイス/オフ』から顔面移植レースへ」という論文を書き、顔面移植をめぐる医学的な議論が免疫抑制剤のような話に集中する一方で、心理的な危険がずっと見落とされてきたと批判している。彼女はまた、患者の物語が語られるときのジェンダーの偏りも指摘した。イザベルは長い間、悲劇のヒロインとして、あるいは「自分で招いた」女として語られ、彼女自身の言葉はメディアの型に押し込められた。
映画と現実がずれるポイントは、大きく三つある。
一つ目は、さっきドゥヴォシェルが記者会見で言った通りだ。顔を移植しても、ドナーには似ない。顔つきを決めているのは、その下にある骨格だから。移植片が薄い軟部組織だけならなおさらだし、骨まで含む全顔面移植でも、頭蓋の全体を入れ替えるわけではないから、やはり別人になる。だから顔を交換して身元を偽装するという犯罪は、少なくとも現代の技術では成立しない。
二つ目は、交換ではないということ。映画では二人が顔を取り替える。現実には、顔をくれるのは常に死者だ。一方通行の贈与であって、取引ではない。そして贈与した側の家族は、その顔がどこかで生き続けていることを知りながら、それを見ることも触れることも、たいていはできない。
三つ目は、いちばん重要かもしれない。映画は「他人の顔になったら他人になれる」という前提で作られている。現実は逆だ。他人の顔をつけても、他人にはなれない。むしろ、自分でも他人でもない何かになる。これが現実のほうがずっと怖い理由だ。
映画的な想像力は、顔をマスクとして扱う。剥がして、つけて、また剥がす。だが現実の顔は、剥がしたら二度と元に戻らない。ジェローム・アモンが二か月間、顔のない状態でパリの病室にいたという事実が、それを容赦なく突きつける。
なぜこの話は不気味で、それでも感動的なのか
不気味さの正体を、なるべく正確に言語化してみたい。
私たちは、自分という存在が身体の中のどこかに入っていると素朴に信じている。脳だと思っている人が多いだろう。でも実際には、日常生活の中で他人が私を認識する装置は顔だ。私が私であることを社会的に保証しているのは、脳ではなく顔だ。
だから顔が入れ替わると、その保証が壊れる。
しかも顔面移植は、脳を入れ替えるわけではない。中身は同じ人のまま、外側だけが別人の素材になる。この非対称性が気持ち悪い。中身は連続していて、外側は断絶している。SFがよく描く「脳を移植する」話よりも、この構図のほうがずっと直感に反する。
さらに気持ち悪いのが、その素材が「元は生きて動いていた誰かの顔」だという点だ。移植された皮膚は死体の皮膚ではない。脳死ドナーから採取された、生きた組織だ。血が通っている。神経が繋がれば動く。動いた瞬間、それは誰の表情なのか。
ケイティの顔で微笑むとき、それはケイティの笑顔だ。誰もそれを疑わない。だがその笑顔をつくっている口輪筋は、アドレア・シュナイダーの体で三十一年間動いていた筋肉だ。サンドラ・ベニントンが、孫娘の唇のかさつきを手入れしたいと思った瞬間、この事実は圧倒的な質量を持つ。
そして、ここが逆転するところなんだけど。
同じ事実が、そのまま感動の源泉になる。
顔面移植の患者たちは、判で押したように同じことを言う。鏡の中にいるのは、自分でもドナーでもない、第三の誰かだ、と。イザベル・ディノワールもそう言った。写真家のマギー・ステーバーも、ケイティとアドレアの顔を見て同じ結論に達した。
普通なら、これは喪失の言葉のはずだ。自分を失った、という嘆きのはずだ。ところが彼らは、そう言わない。イザベルは、落ち込んだときに鏡を見て、ドナーのことを考えて、あきらめてはいけないと自分に言い聞かせると語った。ドナーはいつも私と一緒にいる、と。
一緒にいる。これは呪いの言葉ではなく、伴走の言葉だ。
顔面移植は、人間がまだ整理できていない領域に踏み込んでいる。二人の人間が、一つの顔を通して、時間をまたいで同居している。片方はもう死んでいる。もう片方は生きている。生きている側は、死んだ側の顔で笑い、食べ、キスをして、そして薬を飲みながら、いつか来る拒絶反応の日を待っている。
これを不気味と呼ぶか、贈与と呼ぶかは、たぶん見る人の中にあるものによる。
私は、どちらでもあると思う。不気味だからこそ感動的なんだと思う。不気味さを引き算した感動なんて、たぶん最初から嘘だ。
成功したあとから、本当の勝負が始まる
ここまで書いてきて、どうしても言い足りないことがいくつか残っている。総括を兼ねて、もう少しだけ深いところを掘る。
まず、この二十年で明らかになった、いちばん重い事実から。顔面移植は「成功した」あとから本当の勝負が始まる、ということだ。世界初の症例であるイザベル・ディノワールは、手術そのものは見事に成功した。血が通い、色が戻り、彼女は食べられるようになり、しゃべれるようになり、休暇に出かけられるようになった。だが十年後、彼女の体は顔を拒絶しはじめ、唇の機能を失い、抗拒絶治療の副産物として二つの癌を得て、四十九歳で亡くなった。ジェローム・アモンの一例目の顔は、風邪薬との相互作用という、あまりにも日常的な引き金で崩れた。カルメン・タールトンの一例目は六年で機能を失った。二〇二二年時点の総説が指摘しているのは、まさにこの点だ。平均寿命より若くして亡くなる症例が増えている。二度目の移植を受ける患者が増えている。手術手技はもう確立した。確立していないのは、その後の何十年かのほうだ。
つまり顔面移植の本当の課題は、外科ではなく免疫学と、そして経済にある。免疫抑制剤を飲み続けるかぎり、患者は感染症と癌のリスクを抱え続ける。飲む量を減らせば拒絶が来る。この綱渡りに終わりはない。しかも、その綱渡りには金がかかる。手術費だけで日本円にして一億円超。そこに生涯にわたる薬剤費と、頻回の外来と、免疫抑制状態を前提とした感染管理と、リハビリと、心理支援が乗る。イギリスの研究チームが二〇二二年に発表した政策提言の中で強調していたのは、この長期コストの問題だ。患者や家族がそれを負担できるかどうかで移植の可否を判断すれば、経済的に恵まれない人が構造的に排除される。しかも、その排除はジェンダーや人種の線と重なって現れやすい。技術が成熟したあとに残るのは、たいていこういう問題だ。
次に、患者選択という名の門番の話をしたい。顔面移植の適応は極めて厳格に運用されている。銃創、熱傷、動物咬傷、そして神経線維腫症のような良性腫瘍による変形が、主な適応とされる。逆に、悪性腫瘍の切除後の欠損は、原則として適応外だ。理由は明快で、免疫抑制が再発リスクを跳ね上げるから。二〇〇九年にスペインのバレンシアで、口腔粘膜の扁平上皮癌を広範囲に切除した患者に対して顔面移植が行われた例があるが、初期の経過は良好だったにもかかわらず、腫瘍の再発で患者は亡くなっている。二〇〇三年に中国の南京で、進行した悪性黒色腫の切除後に頭皮と両耳の同種移植を受けた七十二歳の女性は、六か月後に転移で亡くなった。過去の苦い症例が、そのまま現在の適応基準になっている。
小児への顔面移植は、今のところ一例も行われていない。ある国際的な倫理会議では、参加者の六十二パーセントが選択された症例には適応があると答えたが、実施には至っていない。親の同意をどう扱うか、免疫学的な合併症のリスク、そして何より、思春期を通じて顔の形は変わり続けるという厄介な問題がある。子どもの顔に大人の顔を移植したら、その顔はどう育つのか。誰にも分からない。
もうひとつ、あまり知られていない前史がある。同種移植ではなく、自分の顔を戻す手術だ。一九九四年、インド北部で九歳の少女サンディープ・カウルが、脱穀機の事故で顔と頭皮を失った。両親は、ビニール袋に入れた彼女の顔を持って病院に駆け込んだ。アブラハム・トーマスという微小外科医が、動脈を繋ぎ直して皮膚を再植した。手術は成功し、筋肉の損傷と縫合線に沿った傷跡は残ったものの、彼女は生き延びた。二〇〇四年には看護師になるための勉強をしていたという。一九九六年にはオーストラリアのビクトリア州でも、同じような事故で剥がれた顔と頭皮を氷で保存して再接着した例がある。他人の顔を繋げる前に、人類はまず自分の顔を繋ぎ直していた。この順番が、なんとも人間らしい。
さらに時代を遡れば、近代形成外科そのものが顔から始まっている。ニュージーランド出身の耳鼻咽喉科医ハロルド・ギリーズは、第一次世界大戦の英国で、砲弾に顔を破壊された兵士たちを相手に、現代の顔面外科技術の多くを開発した。ジュットランド沖海戦で負傷したウォルター・イェオという水兵は、一九一七年に皮弁移植を受けたことで知られる。ギリーズが立てた「似たものは似たもので置き換えよ」という原則が、いまも形成外科の背骨になっている。顔面移植は、その原則を極限まで押し進めた結果として現れた。他人の顔ほど「似たもの」はないのだから。そしてそこで、まず害をなすなかれという、もうひとつの古い原則と正面から衝突した。この衝突は、いまだに解決していない。
技術の未来については、二つの方向が語られている。一つは免疫寛容の誘導だ。イザベルの症例でリヨンのチームが試みたドナー骨髄由来細胞の注入は、その最初期の試みだった。移植された組織を「他人」ではなく「自分」として認識させることができれば、免疫抑制剤を減らせる。もう一つは再生医療だ。患者自身の細胞から、拒絶されない顔をつくる。二〇〇八年の時点でロンドンの会議でも、死んだドナーに頼らず顔を「育てる」ことで倫理的な難問の多くが解消されるのではないか、という期待が語られていた。あれから十八年経って、まだ実現していない。だが、もしそれが実現したとき、この記事で書いてきた不気味さと感動は、まるごと消える。誰かの顔を借りているという事実がなくなるからだ。それは進歩に違いないのだけれど、同時に、人類が一度だけ通り抜けた奇妙な二十年が閉じるということでもある。
最後に、この記事を書きながら何度も戻ってきた場面のことを書いておきたい。サンドラ・ベニントンが、孫娘の唇がかさついているのを見て、手入れしてやりたいと思った、あの瞬間だ。
彼女はそこで、二重の視線を持っている。目の前にいるのは、二十二歳のケイティ・ストゥーブルフィールドという別人だ。それは分かっている。同時に、その唇はアドレアの唇だ。それも分かっている。二つの認識が、矛盾したまま同時に成り立っている。祖母は混乱していない。彼女はただ、乾いた唇を見て、手入れしてやりたいと思っただけだ。
これが、たぶん答えなんだと思う。
移植された顔は誰の顔なのか、という問いに、論理的な答えはない。ドナーの顔でもレシピエントの顔でもない第三の顔だ、というのは、正確ではあるけれど、まだ問いを言い換えているだけだ。でも、乾いた唇に薬を塗りたいという気持ちの前では、その問いはたぶん重要じゃなくなる。誰の唇であっても、乾いていたら手入れしてやりたい。それだけのことだ。
顔面移植は、人間を「誰かの顔を着けた誰か」に変える。これはどう考えても不気味だ。でも同時に、それは死んだ人の体の一部が、まだ誰かの役に立ち、まだ誰かの人生の中で動いているということでもある。心臓や腎臓では見えないその事実が、顔においてだけは、目に見える形で世界に晒される。
死者が生者の顔の上で笑っている。
そう書くとホラーだ。でも、たぶんこれは、人類が発明した中でいちばん率直な弔いの形式でもある。イザベル・ディノワールが、落ち込んだときに鏡を見て、会ったことのない女性のことを考えて、あきらめてはいけないと自分に言い聞かせていたこと。あの習慣を、私は葬儀の一種だと思っている。彼女は毎日、鏡の前で誰かの葬式をあげていた。そして毎日、その誰かに励まされていた。十年半のあいだ、ずっと。
そういう関係の名前を、私たちはまだ持っていない。だからこの話は、不気味なままで、感動的なままで、宙に浮いている。それでいいのだと思う。名前がつく前の感情のほうが、たいてい正直だ。
