生まれてすぐの赤ん坊が、硬い鎧を着ている。比喩じゃない。分厚い板みたいな角質が全身を覆っていて、その板と板の隙間が真っ赤な溝になって割れている。動くたびに割れる。呼吸するたびに割れる。これがハーレクイン魚鱗癬、日本語だと道化師様魚鱗癬と呼ばれる先天性皮膚疾患の、いちばん最初の光景だ。
正直に言うと、この病気を調べはじめたとき、俺は写真を直視できなかった。怖いというより、かわいそうという言葉が喉のところで詰まる感じ。でも調べていくと、話はそこで終わらない。むしろそこから先がめちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃ人間くさい。生きてる人がいる。四十年以上生きてる人がいる。子どもを産んだ人がいる。ラグビーの審判をやってる人がいる。そしてその人たちのコメント欄には、今日も知らない誰かが最低の言葉を書き込んでいる。
## 生まれた瞬間、赤ん坊は鎧を着ていた
まず、この病気で生まれた新生児がどう見えるかを、できるだけ正確に書いておく。全身が厚い角質のプレートで覆われている。プレートは規則的にひび割れていて、その割れ目が赤い格子模様になる。この見た目が「ダイヤ柄の道化師の衣装」に似ているから、ハーレクイン、つまり道化師という名前がついた。ひどい名前だと思う。でもこの名前が、この病気を有名にしてしまった側面もある。
顔はもっと独特だ。皮膚が張りつめているせいで、まぶたが外側にめくれる。医学用語で外反、エクトロピオンという。赤い粘膜がむき出しになって、眼球がずっと外気にさらされる。唇も同じように外にめくれて、口がぽっかり開いたままになる。これがエクラビウム。鼻や耳は、皮膚に押しつぶされて平べったくなるか、ほとんど形が分からなくなる。手足の指は角質に締めつけられて、血流が滞る。締めつけがひどいと、指先が自然に脱落することさえある。
これ、見た目の問題だけじゃないのが厄介なんだよな。皮膚っていうのは、人体でいちばん大きい臓器だ。水分を閉じ込めて、菌を防いで、体温を調整する。その皮膚が壊れているということは、水がだだ漏れになり、菌が入り放題になり、体温が保てなくなるということだ。新生児は脱水と高ナトリウム血症と敗血症で、あっという間に危険な状態に転がり落ちる。胸の皮膚が硬すぎて肺が膨らまず、呼吸ができない子もいる。口が開かず母乳が飲めないから、チューブで栄養を入れる。つまりこの病気は、皮膚の病気の顔をした、全身の病気だ。
## 1750年4月5日、チャールストンの牧師が書き残したもの
この病気の記録として世界最古とされているのが、1750年のアメリカ、サウスカロライナ州チャールストンのものだ。書き残したのは医者じゃない。オリヴァー・ハートという牧師だった。4月5日、彼はメアリー・エヴァンズという女性が産んだ赤ん坊を見に行き、その様子を日記に書いた。医学書でもなく、論文でもなく、聖職者の私的な日記。それが人類が持つ最初の症例記録になったというのが、もうそれだけで妙な話だ。
ハートの記述は具体的で、そして容赦がない。皮膚は乾いて硬く、あちこちがひび割れていて、魚の鱗のようだった、と彼は書いている。外に出た鼻はなく、鼻があるべき場所にふたつの穴が開いていただけ、とも。耳もなかった。目は異様に大きく飛び出していて、彼はそれを「凝固した血の塊のようだった」と表現した。そして赤ん坊は、低くて奇妙な音を出していた、と。
読んでいて背筋が寒くなるのは、この牧師が明らかに怯えながら、それでも目をそらさずに書いていることだ。十八世紀の聖職者にとって、こういう赤ん坊は神学的な難問だったはずだ。罰なのか、試練なのか、それとも意味などないのか。ハートはそこには踏み込まず、ただ観察を書いた。赤ん坊は生後おおよそ四十八時間で死んだ。二日。それが1750年の、この病気の寿命だった。
## アムステルダムとパリに、まだ「彼ら」がいる
十八世紀から十九世紀にかけて、この病気の赤ん坊はほぼ確実に数日以内に死んだ。だから医学文献にはほとんど残っていない。生きた症例を継続して観察できないんだから、論文になりようがない。代わりに残ったのが、標本だ。
アムステルダムのフロリック博物館には、十九世紀に保存されたハーレクイン魚鱗癬の胎児標本がある。パリのデュピュイトラン博物館にも別の標本がある。どちらも、もともとは医学教育のための奇形標本コレクションだ。ガラス瓶のなかで、二百年近く、鱗に覆われた小さな体が浮かんでいる。倫理的にどう考えるべきか、いまだに議論がある展示だ。ただ、事実として言えるのは、その標本があったから、後の医師たちは「これは同じ病気だ」と気づくことができた、ということでもある。
## 「道化師」という名前が、どうしてこの病気に貼りついたか
ハーレクインというのは、イタリアの即興喜劇コメディア・デラルテに出てくる道化のキャラクターだ。菱形のパッチワークの衣装を着て、跳ね回って、観客を笑わせる。その衣装の柄と、この病気の皮膚の割れ目模様が似ている。それだけの理由で、この名前がついた。
つまり、命名した人間は、この赤ん坊を見て「衣装みたいだ」と思ったわけだ。人間の皮膚を、衣装に見立てた。そこには当時の医学が持っていた、対象を人格から切り離して眺める視線がはっきり残っている。現代の患者団体のなかには、この名称を使いたくないという声もある。実際、英語圏では単にHIと略したり、重症型先天性魚鱗癬という枠でくくって呼んだりする流れもある。ただ、検索されるのは今も「ハーレクイン」なんだよな。名前が病気を有名にして、その有名さが偏見も一緒に運んでいる。
## 正体はABCA12――脂質を運ぶトラックが止まる病
この病気の原因が遺伝子レベルで特定されたのは、意外なほど最近だ。犯人はABCA12という遺伝子。常染色体潜性、つまり両親がそれぞれ変異を一つずつ持っていて、子どもがその両方を受け取ったときに発症する。両親は普通に健康で、自分が保因者だなんて考えたこともないケースがほとんどだ。だから多くの家族にとって、この病気は完全に不意打ちで来る。
ABCA12というのは、皮膚のいちばん外側の層に脂質を運び出すためのトランスポーターをつくる遺伝子だ。もっと雑に言うと、脂を運ぶトラックの設計図。皮膚のバリアというのは、角質細胞という「レンガ」と、その隙間を埋める脂質という「モルタル」でできている。ABCA12が壊れると、モルタルを現場に届けるトラックが動かない。モルタルなしでレンガだけが積み上がる。結果として、水も通す、菌も通す、そのくせ異様に厚くて硬い、最悪の壁ができあがる。あの鎧の正体は、届かなかったモルタルの代わりに積み上がった、無意味なレンガの山なんだ。
この仕組みが分かったのが大きかったのは、「なぜレチノイドが効くのか」の説明がついたからでもある。皮膚のターンオーバーを無理やり回して、積み上がったレンガを剥がし続ける。根治ではない。でも、生き延びるための時間は稼げる。
## 三十万人に一人か、五十万人に一人か
発生頻度は資料によって振れる。世界的には三十万出生に一人くらい、という数字がよく出る。アメリカの患者団体系の資料だと五十万人に一人、年間七人くらいが生まれている、という言い方をする。この揺れは、単に数え方の問題だ。死産や妊娠中絶を含めるかどうか、診断がついた例だけを数えるかどうかで、簡単に倍くらい変わる。
もう一つ、地域差の話がある。血縁婚の割合が高い地域では、劣性遺伝の病気は当然増える。だから中東や南アジアの一部では、統計上の頻度が世界平均よりかなり高く出る。これは文化を責める話ではなくて、遺伝学の単純な算数だ。ただ、この算数が現場では重い意味を持つ。一人目が生まれた家族は、次の妊娠でも四分の一の確率で同じことが起きる。そこにどう向き合うかは、医学だけでは決まらない領域に入っていく。
## 一九八〇年代まで、これは「生まれた瞬間に諦める病」だった
ここが一番きつい話かもしれない。ほんの数十年前まで、この病気の子は助からないものとされていた。生まれる、写真を撮られる、記録に残される、そして数時間から数日で亡くなる。医師にできることは、保温と鎮痛くらいしかなかった。だから病院によっては、積極的な蘇生をしない方針をとることもあった。今の目で見れば残酷に映るが、当時は「何をしても助からない」というのが臨床の常識だったんだよな。
その常識をひっくり返したのは、劇的な新薬でも遺伝子治療でもない。地味な二つの積み重ねだ。ひとつは新生児集中治療室の性能が上がったこと。加湿された保育器で水分の蒸発を抑え、点滴で電解質を管理し、感染を疑ったら早めに抗菌薬を入れる。もうひとつが、経口レチノイドだ。イソトレチノインやアシトレチンといった、もともとニキビや乾癬に使われていた薬を、この病気の新生児に飲ませてみた医師がいた。
## 皮膚が剥がれ落ちはじめた二週間
レチノイドを使った症例報告を読むと、経過の描写がだいたい似ている。生後すぐに投与を始めて、一週間目あたりから皮膚の裂け目が塞がりはじめる。二週間もすると、あの板状の鱗がぼろぼろと剥がれてくる。下から出てくるのは、赤くて薄い、ふつうの皮膚に近いものだ。まぶたの外反も少しずつ戻る。目が閉じられるようになる。指を縛っていた角質が緩んで、手が開く。
これを最初に見た医師や看護師は、たぶん結構ぞっとしたと思う。良い意味で。何十年も「どうしようもない」とされてきたものが、錠剤ひとつで動いたわけだから。二〇一一年に四十五例をまとめた解析では、生存率が五十六パーセントという数字が出ている。半分より少し上。褒められた数字ではないが、かつてはゼロに近かったことを思えば、これは断層と言っていい変化だ。しかも早期にレチノイドを始めた群のほうが明らかに成績がいい、というのが繰り返し報告されている。
ただし、これは「治る」ではない。生き延びた子は、一生この皮膚と付き合う。毎日何時間も保湿し、体温調節ができないから夏は命がけで、汗をかけないから運動には制限がある。関節が拘縮しやすく、聴力を落とすこともある。角膜が乾いて視力に響くこともある。つまり致死的な急性疾患から、重たい慢性疾患へと引っ越しただけだ。それでも、引っ越し先には人生がある。
## ネリー・シャヒーン――四十年生きてしまった人
英国コヴェントリーのヌスリット・シャヒーンは、一九八四年生まれ。友人にはネリーと呼ばれている。彼女はこの病気を持つ人としては世界最年長級で、二〇二〇年代半ばの時点で四十代に入っている。生まれたとき、医師は両親に「この子は長くは生きられない」と告げた。彼女の兄弟姉妹のうち何人かも同じ病気で、幼くして亡くなっている。その家族のなかで、彼女だけが生き残り続けた。
彼女がすごいのは、生き延びたことそのものより、生き方のほうだ。スポーツコーチとして子どもたちを指導し、地元の新聞やテレビにたびたび登場する。あるインタビューで、彼女は雑誌の話をしている。雑誌をめくっても、そこに載っている顔のなかに自分に似た人はいない、と。「私の病気の人なんて、どこにも載っていない」。この一言、けっこう深いところを突いてると思う。彼女が戦ってきたのは病気だけじゃなくて、「自分に似た顔が世界のどこにも存在しない」という状況そのものだった。
## ステファニー・ターナー――「この病気の女性が母親になれるはずがない」を壊した人
アメリカ・アーカンソー州のステファニー・ターナーは、一九九三年生まれ。彼女がやってのけたのは、医学的にも心理的にもデカい仕事だった。二〇一三年、彼女はこの病気を持つ女性として初めて出産した。生まれた子は健康だった。その後、二人目も産んでいる。両方とも、この病気は受け継いでいない。
考えてみてほしい。皮膚のバリアが壊れていて、体温調節ができなくて、体表からの水分喪失が常に大きい体で、妊娠して十ヶ月お腹を大きくして、出産する。産科的にも皮膚科的にも前例がほとんどない領域だ。妊娠中の腹部の皮膚がどう伸びるのか、レチノイドは催奇形性があるから妊娠中は飲めない、そのあいだ皮膚をどう保つのか。全部が手探りだったはずだ。
彼女が朝の様子について語った言葉が残っている。目が覚めたとき、皮膚は極端に乾いてぱりぱりに突っ張っている。だから毎朝まず風呂に入らないと一日が始まらない。淡々とした説明だが、これが三十年近く一日も休まず続く生活なんだと想像すると、ちょっと言葉が出ない。彼女は二十三歳で、この病気に伴う合併症のために亡くなった。夫と、二人の子どもが残された。
## ハンター・スタイニッツと、ムイ・トーマスの笛
もう二人、名前を出しておきたい。ハンター・スタイニッツは一九九四年生まれのアメリカ人。二〇一〇年ごろの報道で「アメリカでこの病気を持って生きている十二人のうちの一人」と紹介されている。十二人。国全体で十二人だ。彼女はドキュメンタリーに出演した後、大学に進み、ペンシルベニアのウェストミンスター大学を卒業した。そして自分の病気をテーマにした戯曲を書いた。医学の対象として語られる側から、語る側に回ったわけだ。
ムイ・トーマスは一九九二年生まれ。香港で育ち、乳児のときに実の親から手放され、養父母に育てられた。彼女はラグビーのレフェリーになった。ハーレクイン魚鱗癬でラグビーの審判をやっている人間は、たぶん世界に彼女しかいない。汗をかけない体で、芝の上を走って、笛を吹く。日射しは天敵で、皮膚は常に裂ける寸前で、それでも笛を吹く。この絵面が持つ説得力に、うまい説明を足す言葉が見つからない。
## 娘の写真に、知らない大人が群がった日
二〇一九年十一月、ニューヨークのある母親が、SNSに投稿した娘の写真をめぐって大量の悪意にさらされた。娘のアンナは幼児で、ハーレクイン魚鱗癬を持っている。母親のジェニーは、娘の日常を記録し、この病気を知ってもらうために投稿を続けていた。それが、まとめアカウントに転載され、文脈を失ったまま拡散した。
そこから先はよくある地獄だ。「加工だろ」「作り物」「なんで産んだんだ」「見せ物にするな」。他人の子どもの写真の下に、平気でそういうものを書ける人間が、驚くほどたくさんいる。この件でジェニーが出した声明が、個人的にはかなり刺さった。この病気は誰にとっても生きるのが本当に大変なものだ、だから私は自分の心のなかに憎しみを置かないことを選ぶ、という趣旨のことを彼女は言っている。
強い言葉だと思う。同時に、こういう強さを毎回本人たちに要求している社会の側は、けっこう最低だとも思う。彼女たちが黙って耐えるか、聖人みたいに許すか、その二択しか用意されていない。怒っていいはずなんだよ、本当は。
## 「見せないほうがいいのでは」問題
この手の投稿には、罵倒とは別種の批判もついてくる。「本人が同意できない年齢の子の顔を晒すべきではない」というやつだ。これは罵倒とちがって、真面目に考える価値がある。実際、患者コミュニティのなかでも意見は割れている。
公開する側の言い分はこうだ。この病気は数十万人に一人で、写真がない世界では「化け物」としてしか想像されない。日常の写真が出回っていれば、次に生まれてくる子の親が検索したとき、絶望ではなく先例に出会える。実際、生まれた直後に医師から死を宣告された親が、ネットで生存者の写真を見つけて希望をつないだ、という話はいくつも報告されている。
一方、慎重派はこう言う。子どもの顔は一度出たら回収できない。まとめサイトやショート動画に切り取られ、本人が成長したときにはもう手に負えない量が出回っている。啓発のつもりが、子どもの人生の初期設定を親が勝手に決めることになりかねない。どちらも筋が通っていて、どちらかが明らかに正しいという話ではない。ただ、この議論が起きること自体が、この病気が「隠される病」から「見える病」に移行した証拠でもある。
## 英語圏で回っている「ネイサン」という名前について
英語圏でこの病気の生存者を検索していると、いくつかの名前がまとめ記事や動画の説明欄をぐるぐる回っているのに気づく。ネイサン・マッキューンという名前もその一つだ。ただ、正直に言っておくと、この名前について確認できるしっかりした一次報道に、俺は行き当たれなかった。まとめ系のサイトと動画の要約欄には出てくる。信頼できる報道機関の記事としては見つからない。
こういうことは、この分野ではしょっちゅう起きる。珍しい病気の生存者は数が少なく、話題性だけは異常に高い。だから一つの名前が拡散するうちに、事実と創作と別人の話が混ざる。ある生存者のエピソードが、いつの間にか別の生存者の名前で語られている。写真だけ入れ替わっている。そういう情報の劣化コピーが、まとめサイトとショート動画で無限に増殖していく。だからここでは、確認できた範囲の話だけを書いた。名前を出さないほうが誠実な場面もある。
## コメント欄はなぜ、あんなに残酷になるのか
考察界隈やSNSの反応を追っていると、この病気に対する反応がかなり典型的なパターンに分かれるのが分かる。第一に「これは加工/AI/フェイクだ」という否認。これがいちばん多い。人間の脳は、想定の外にある見た目を目にすると、まず「偽物だ」と処理しようとする。認めると自分の世界像を書き換えないといけないからだ。
第二に「かわいそう」という同情の形をとった距離取り。悪意はないが、本人たちがいちばん嫌がる反応でもある。かわいそうと言われた瞬間、その人は「不幸な人」という役に固定される。第三に、剥き出しの攻撃。これは匿名性と、相手が反撃してこないという読みが揃ったときに出てくる。標的が子どもだと、むしろ攻撃は増える。反撃されないと分かっているからだ。
そして第四に、意外と多いのが「勉強になった」系の反応だ。オカルト的な入口で見に来て、遺伝子の話まで読んで帰っていく人はけっこういる。この病気の情報は、まさにその怖いもの見たさの回路に乗って広がってきた。品のいい広がり方ではない。でも、広がらないよりはマシだったのかもしれない、とも思う。
## 「魚人」伝説と、この病気の奇妙な重なり
世界中に、鱗を持つ人間の伝説がある。日本には人魚の話があるし、ヨーロッパには蛇人間や竜の子の伝承がある。中世の記録に出てくる「鱗に覆われて生まれた子」の記述のいくつかは、現代の目で読むと魚鱗癬の症例そのものに見える。ハーレクイン型ほど重くない魚鱗癬なら、成人まで生きるから、村に一人「鱗の人」がいる状況は現実に起こりうる。
有名なのは、十八世紀イギリスの「ヤマアラシ男」ことエドワード・ランバートの話だ。彼は全身が硬い棘状の皮膚に覆われていて、王立協会で報告され、見世物として金を稼ぎ、その特徴を息子たちにも受け継がせた。彼の病気が具体的に何だったかは今も議論があるが、重度の魚鱗癬の一種だったとする見方が長く語られてきた。
つまり、怪物譚のかなりの部分は、診断名がつく前の病気の記録だった可能性がある。これは「伝説の正体は病気でした、はい終わり」というつまらない話ではない。逆だ。病気に名前がなかった時代、人はそれを物語で処理するしかなかった。神の罰、悪魔の仕業、海の生き物との交わり。名前がつくというのは、その物語を剥がして、代わりに治療の対象にするということだ。ABCA12という七文字は、何千年ぶんかの怪物譚を上書きした符号なんだよな。
## なぜこの病気の写真だけが、こんなに拡散されるのか
数ある希少疾患のなかで、この病気の情報の拡散量は突出している。理由はいくつも重なっている。まず、見た目の情報量が圧倒的に強い。説明ゼロで衝撃が伝わる。ショート動画の時代に、これ以上ないほど適合してしまっている。
次に、「赤ん坊」であること。人間は乳児の顔に対して、特別な保護回路を持っている。その回路が予期しない見た目に出くわしたとき、脳の中で強い不協和が起きる。可愛いと思うべき対象と、怖いと感じる反応が、同時に走る。この不協和こそが、忘れられなさの正体だと思う。
三つ目に、この病気には「一発で理解できる悲劇」と「一発で理解できる希望」が両方ある。生後二日で死んだ一七五〇年の赤ん坊と、四十代でスポーツコーチをしている女性。この落差がそのまま物語になる。だから記事にしやすいし、動画にしやすいし、コメントもつく。
そして最後に、これは怖い話として消費されている、という身も蓋もない事実がある。この記事だってその流れの上にある。それを自覚しないで「啓発です」と言うのは嘘だ。ただ、怖いもの見たさで開いた人が、ABCA12の話とネリー・シャヒーンの話まで読んで帰るなら、入口が怖いもの見たさでも構わないんじゃないか、と俺は思っている。
## 医学の外側で、この病気が突きつけてくるもの
最後に一つ。この病気の歴史を追っていて何度も引っかかったのは、「治療できないものを、人はどう扱ってきたか」という問題だ。一七五〇年、オリヴァー・ハートにできたのは記述することだけだった。十九世紀、医師たちにできたのは標本にすることだけだった。二十世紀後半まで、産科医にできたのは看取ることだけだった。
治療法がないとき、医療は対象を「観察物」に変える。それは冷たいけれど、その観察の蓄積があったからこそ、ABCA12にたどり着いた。標本瓶のなかの胎児は、二百年かけて自分の遺伝子の名前を手に入れた。この長さを、進歩と呼ぶべきか、怠慢と呼ぶべきか。俺にはまだ答えが出ていない。
なお、この記事は読み物であって、症状の自己判断の材料にするものではない。皮膚のことで気になることがあれば、ネットの写真と見比べるんじゃなくて、皮膚科に行ってほしい。それだけは真面目に書いておく。
## 怖さの中身が、この七十年で完全に入れ替わった
ここまで書いてきて、改めて整理しておきたいことがいくつかある。まず、この病気の「怖さ」の質が、この七十年ほどで完全に入れ替わっているという話だ。
一九五〇年代の怖さは、単純明快だった。生まれた子は死ぬ。それだけ。親にできることはなく、医師にできることもなく、病気の正体も分からない。恐怖の中身は「なすすべがない」という一点に集中していた。だからこの時代のこの病気は、ほとんど怪異と同じ場所に置かれていた。原因不明で、防げず、意味づけだけが後から貼りつけられる。前世の因縁だとか、母親が妊娠中に何かしたからだとか、そういう説明が真顔で語られる余地があったのは、医学の側が沈黙していたからだ。
いま、この病気の怖さは全然ちがうところにある。生き延びられる。だからこそ、生き延びた先の四十年、五十年をどう生きるかという問題が発生した。毎日二時間かけて全身に軟膏を塗る。夏は屋外に長くいられない。学校では必ずいじめの標的になる。就職活動では、面接に入った瞬間に相手の顔が変わるのを見る。恋愛をする。結婚できるのか、子どもは持てるのか、遺伝はどうなるのかを考える。ステファニー・ターナーが挑んだのは、まさにこの「生き延びた先」の全部だった。彼女が二十三歳で亡くなったという事実は重いが、彼女が二度出産したという事実のほうが、この病気の歴史を書き換えている。
もうひとつ、はっきりさせておきたいのが、レチノイドという薬の位置づけだ。これは魔法の薬ではない。皮膚のターンオーバーを強引に加速させて、角質の積み上がりを削り続けるだけの、いわば力技だ。副作用もある。長期使用では骨への影響が知られているし、催奇形性があるから妊娠可能な年齢の女性には厳重な管理が必要になる。それでも、この力技が新生児期の数週間を乗り切らせる。乗り切れば、体は成長して、皮膚以外の臓器がしっかりしてきて、生存の可能性が跳ね上がる。医学の勝ち方って、意外とこういう泥臭い形をしているんだよな。エレガントな根治じゃなくて、決定的な数週間を無理やり買い取る、みたいな。
そして遺伝子治療の話。ABCA12という原因が特定されている以上、理屈のうえでは修復の標的ははっきりしている。皮膚は体の外側にあるから、全身に薬を回す必要がなく、局所的に細胞を操作しやすいという有利さもある。実際、他の重症遺伝性皮膚疾患では、遺伝子を組み込んだ製剤を患部に塗る、という治療がすでに現実になってきている。ハーレクイン魚鱗癬にも同じ道が開くかどうかは、まだ分からない。ただ、この病気の子が生まれたときに医師が親に言える言葉が、七十年前の「残念ですが」から、いまの「まず新生児集中治療室に行きましょう」に変わったように、次の変化がもう一段来る可能性は十分にある。
最後に、情報の扱いについて。この病気を調べていると、事実と創作の境界が驚くほど曖昧な情報空間に入り込むことになる。実在の生存者の写真が、まったく無関係な作り話に添えられて拡散している。名前だけが独り歩きして、誰のエピソードだったか分からなくなっている。海外のまとめサイトが翻訳され、日本語のまとめサイトになり、そこからさらに動画になるあいだに、年号も人名も少しずつずれていく。この記事を書くにあたって、確認が取れなかった名前は書かないという方針をとった。地味な判断だが、実在の人間を扱う以上、そこは譲れないところだと思っている。
怖い話として消費されることを、この病気の当事者たちは長いあいだ強いられてきた。十八世紀には見世物として、十九世紀には標本として、二十一世紀にはコンテンツとして。形が変わっただけで、構造はあまり変わっていないのかもしれない。それでも、いま彼女たちは自分で語りはじめている。戯曲を書き、笛を吹き、コーチとしてグラウンドに立ち、SNSで自分の言葉を出す。語られる側から語る側へ。二百七十六年かかったが、この移動はたぶん、レチノイドの発見と同じくらい大きい出来事だ。
ハーレクイン魚鱗癬――1750年の牧師が「魚の鱗の赤ん坊」と書いた日から、SNSで戦う家族まで
