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「白い肌は富を呼ぶ」という噂だけで人が狩られた――東アフリカのアルビノ襲撃、二十年の記録と、腕を奪われた子どもたちの証言

夜中に扉が蹴破られる音から、この話は始まる

まず一つ、頭のなかに絵を描いてみてほしい。タンザニア北西部、ビクトリア湖のほとりにある小さな村だ。電気は来ていない。夜は本当に真っ暗になる。土壁と波トタンの家のなかで、母親と子どもが同じ寝床で眠っている。

深夜、外で足音がする。ひとつじゃない。複数だ。次の瞬間、扉が蹴破られる。灯りのない部屋に、マチェーテを握った男たちが踏み込んでくる。彼らが探しているのは現金でも家畜でもない。この家に住んでいる、肌の白い子どもだ。母親が叫んで子どもに覆いかぶさる。突き飛ばされる。子どもは引きずり出される。

こういう夜が、二〇〇〇年代の後半、東アフリカのあちこちの村で、何十回も繰り返された。襲われた側にとっては一生を変えられた夜で、襲った側にとってはせいぜい数千ドルの取引だった。しかもその取引の根拠になっていたのは、たった一つの噂だ。アルビノの体は魔法の薬になる。この記事は、その噂と、噂に体を削り取られた人たちの記録である。書き手はもちろん、削られた側に立って書く。

二〇〇六年、湖のほとりで何かが切り替わった

きっかけがどこにあったのか、実ははっきりしない。いちばんよく引かれる出発点は二〇〇六年十月、ムワンザ州の近くブンダで起きた殺人だ。ムワンザの障害者団体の関係者は、あそこから始まったと証言している。最初は単発の事件に見えた。次の年になって、似た事件が連続しはじめた。国連の独立専門家が後にまとめた報告書は、タンザニア国内でこの暴力が全国的な注目を集めたのは二〇〇六年、国際的に注目されたのはその翌年だ、と時系列を整理している。

被害が集中したのはレイクゾーンと呼ばれる北西部一帯だ。ムワンザ、シニャンガ、ゲイタ、カゲラ、シミユ、タボラ。地図で見れば、ビクトリア湖の南岸から西岸にかけての、金鉱と漁港が密集した地域である。これは偶然ではない。あとで詳しく書くが、この地理こそがこの事件の核心に近い。

大事なのは、これが「昔からある伝統」ではなかったという点だ。研究者のユーディット・シューレは、この噂には先例がなかったと書いている。二〇〇〇年代初頭にタンザニアのアルビノの人々に聞き取りをした先行研究では、自分たちが受ける偏見として「骨を狙われる」という話は一切出てこない。つまり、この殺人を引き起こした噂は、二十一世紀に入ってから生まれ、爆発的に広がった新しいものだった。よくある紹介のされ方、「アフリカの古い迷信」というまとめ方は、正確ではない。古いのは「白い肌は不吉だ」「あれは幽霊だ」という差別のほうで、「体を薬にすれば富が来る」というのは新品の噂だ。この二つは分けて考えないといけない。

世界がそれを知ったのは、一人の女性記者が潜入したからだ

二〇〇八年七月、BBCが一本の報道を出した。書いたのはタンザニア人記者のヴィッキー・ンテテマ。当時BBCのタンザニア支局長だった彼女は、前年の十二月からこの連続殺人の噂を聞いていた。警察に取材しても情報が出てこない。それで彼女は、自分で行くことにした。金持ちになりたい女性実業家のふりをして、レイクゾーンの呪術師のもとを次々に訪ねたのだ。訪問した相手は十人以上。最初は相手にされなかった。何度も足を運んで、少しずつ信用を得ていった。

後年のインタビューで彼女はこう振り返っている。ダルエスサラームを出て村に向かう車のなかで、いちばん最初はマイクを突き出して「あなたはアルビノの人を殺していますか」と聞こうと思っていた、と。でも道中で気が変わった。そんなことを聞いて、はいと答える人間がいるわけがない。だから友達になろうと決めた。

実際に会ってみると、相談の場は奇妙なものだった。生垣に向かって話しかけろと言われる。ヒヨコに向かって自分の悩みを打ち明けろと言われる。方角を指定され、そちらを向いて唾を吐けと指示される。彼女はそのすべてに従った。そして三度目、四度目の訪問のあたりで、相手が口を開いた。

彼女が録音と隠し撮りで押さえた内容はこうだ。二人の呪術師が、アルビノの臓器を混ぜた薬を用意すると持ちかけてきた。値段の下限は二千ドル。手のひらの骨、腕、脚、血、髪。前金として千ドル相当を置いていけば本気だと信じる、と言われた。ある一人は、客のなかには警察官もいると自慢した。あれは村じゅうの家にいる、手に入れるのは簡単だ、とも言われたという。ンテテマがのちに語ったところでは、彼らは対象者を「ゼル・ゼル」と呼んでいた。彼女はその言葉を使わず、「アルビニズムのある人」と言い続けた。

潜入は十一人目で終わった。呪術師の家の外で順番待ちをしていた私服の男が、実は警察官だった。彼はンテテマが警察本部で調査の話をしているのを聞いていた。その日のうちに、脅迫の電話とメッセージが来た。お前は何をした。背中に気をつけろ。彼女が滞在していた小さな町では、男たちが宿を一軒ずつ回って彼女を探した。BBCは彼女を国外に出した。ロンドン、そのあとケニア。潜入報道が放送された夜、ムワンザの警察からも電話が来た。お前は国を危険に晒した、訴えるぞ、と。

それでも彼女は後悔していないと言い切っている。たとえ今日死んでも、関わった連中は暴かれたのだから、と。二〇一〇年、彼女はBBCを辞めた。日々のニュースを追いながらこの問題を掘るのは無理だと判断したからだ。その後、彼女は支援団体アンダー・ザ・セイム・サンのタンザニア代表になる。取材者が当事者側の組織の実務責任者になるという、まれな移り方だった。

誰が買っていたのか――金鉱と漁網と選挙の話

ここがこの事件のいちばん気持ちの悪い部分だ。殺していたのは貧しい村の男たちだが、金を出していたのは彼らではない。研究者たちが一致して指摘するのは、需要が二つの産業に集中していたという事実である。手掘りの金鉱と、ビクトリア湖の漁業だ。

なぜこの二つなのか。どちらも極端に運に左右される仕事だからだ。ある鉱夫はドキュメンタリーのなかでこう語っている。自分は週給をもらっているわけじゃない、運次第なんだ、今日金を掘り当てて金持ちになることもあれば、何年掘っても何も出ないこともある、と。同じ鉱夫は、鉱山に潜る前には必ず呪術師のところへ行くのだと言う。悪い人間が自分の星を覆い隠している、それを祓ってもらうのだ、と。漁のほうも似ている。今日の網に何が入るかは誰にも分からない。地元経済がまるごと博打の構造になっている場所で、「運を買う」という商売が成立してしまった。

そこに、新しい噂が乗った。鉱山の鉱物は精霊が握っていて、それを解放するには血がいる。脚の骨は金属探知機のように働く。切り取った手を使って網を引けばその日は大漁になる。ンテテマが呪術師から聞かされたのは、こういう理屈だ。当然だが、こんなことは起きない。それでも、当たった人間が一人でもいれば噂は強くなる。二〇〇七年のゲイタの金鉱は、人材の流出、露天掘り坑の壁面崩落、鉱体の品位低下と、経営側の報告書に書かれるほど不振だった。うまくいかない年ほど、人は理屈の外側に手を伸ばす。

そして買い手は鉱夫と漁師だけではなかった。タンザニア人ジャーナリストのエリック・カベンデラは、政治家も関与していると見られていると語っている。選挙に勝ちたい政治家が呪術師のところへ行く。だが事件が起きると、責任は漁師に押しつけられる。彼らはスケープゴートだ、と。

国連の独立専門家の報告書も、この点をかなり厳しい言葉で書いている。訴追の焦点は実行犯に偏っていて、首謀者、組織者、そして買い手、つまり最終消費者が起訴された例はない、と。抑止が効かない理由の核心はここにある。手を汚した者だけが捕まり、注文した者は誰かも分からないまま消える。

カブラ――「あの腕がどこへ行ったのか、今も分からない」

二〇一〇年のある夜、当時十二歳だったカブラ・ンカランゴ・マサンジャは母親と一緒に寝ていた。彼女が後に語った言葉は短い。部屋に、二人の男が入ってきた。

男たちは家族に金を要求した。この家に現金はなかった。母親は自転車を差し出した。男たちは断った。彼らが欲しかったのは自転車ではない。彼らはカブラを押さえつけ、三度斧を振り下ろして、右腕を肩の付け根から切り落とした。腕はビニール袋に入れて持ち去られた。去り際に男たちは母親に言った。別の男たちが戻ってきて、この娘の臓器を持っていく、と。その男たちは、結局戻ってこなかった。

彼女がその後に語った言葉のなかで、いちばん忘れがたいのはこれだ。自分の腕がどうなったのか、今もわからないのが辛い。どこにあるのか。あれで誰がどんな得をしたのか。それとも、ただ捨てられたのか。奪われた事実そのものより、奪われたものの行方が分からないことのほうが刺さる、という感覚である。

二〇一五年、彼女は他の四人の子どもたちと一緒にアメリカに渡り、フィラデルフィアの病院で義手を作ってもらった。滞在の世話をしたのはニューヨークの支援団体だった。三か月後、十七歳になっていた彼女は空港で泣いた。友達と、そして安全な場所と別れるのが嫌だったからだ。

彼女はこうも言っている。神は敵を赦せと言う。でも人間としての私は赦せない。あいつらはまた同じことをするから。将来の夢は人権弁護士。彼女はダルエスサラームのセーフハウスに戻り、試験勉強を再開した。義手は成長に合わせて作り直す必要があるので、その後も何度か渡米している。

五歳の腕、十三歳の舌、十歳の左腕

同じ時期に同じ病院で義肢を作った子どもたちの話も、一人ずつ書いておきたい。まとめて「被害者たち」にしてしまうと、この話は途端に嘘っぽくなるからだ。

バラカ・コスマス・ルサンボは、襲われたとき四歳だった。深夜、家に押し入った男たちが右腕の先を切り落とした。母親は息子をかばおうとして自分も負傷している。近所の人が聞いたのは、耳をつんざくような悲鳴だった。この事件では父親が逮捕された。のちに三人の男に合計六十二年の実刑判決が出ている。彼が義手をつけた日、支援団体の代表は、彼が両手で積み木を掴んで積み上げるのを見て、何度見ても慣れない、この子の頭のなかでは今、自分がもう一度ひとつに戻ったという感覚が起きているはずだ、と言った。

エマニュエル・フェスト・ルテマは、左腕を失い、右手の指も何本か失った。襲撃者は彼の舌を引き抜こうとして果たせず、傷だけを残した。前歯も奪われた。歯科で入れ直すことになった前歯である。ここを読み流さないでほしい。歯だ。十三歳の子どもの前歯を、幸運のために抜いて持ち去った人間が実在した、という話をしている。

ムウィグル・マトナンゲ・マゲサが襲われたのは十歳のときだ。学校からの帰り道だった。彼はこう語っている。学校から帰る途中だった。前を二人が歩いていた。一人が僕の顔を押さえた。もう一人が切りはじめた。一度目は外れた。二度目で成功した。そして僕の腕を持って走って逃げた。

四年以上たってから、六人の男にそれぞれ二十年の実刑判決が出た。彼は義手をつけたあと、記者に大統領になりたいと言った。理由も添えている。アルビニズムのある人の体を切ったり殺したりした人間は、その日のうちに死刑にする。十二歳の子どもが考えた国家構想がこれである。彼にそう言わせたものが何なのかを、我々は考えないといけない。

マリアム――両腕を失って、機を織る

マリアム・スタフォード・バンダバは大人の女性だ。彼女を襲ったのは男たちの一団で、両腕を切り落とされた。犯人のなかには顔見知りが含まれていた。BBCが後に彼女を取材したときの見出しは、彼女自身の言葉から取られている。隣人が私の手を切り落とした。この一行に、この事件の構造がほとんど全部入っている。

襲うのは基本的に遠くから来た人間だ。研究者の聞き取りによれば、実行犯は被害者と個人的な面識がないことが多い。ただし、近所の人間や遠い親戚が情報を流す役として関与する。誰の家に肌の白い子がいるか。何時に寝るか。家に男手はいるか。その情報に値段がついた。だから分業になっている。情報を流す者、実際に手を下す者、そして金を払う者。マリアムの証言が重いのは、その第一段階が「隣人」だったと名指ししている点だ。彼女は現在、織り手として働いている。両腕のない状態で機を織る技術を身につけたということだ。前向きな結末として消費されるべき話ではないが、事実として書いておく。

「ゼル・ゼル」と呼ばれた少女が、国会議員になるまで

アル=シマア・クウェイ=ギアは、二〇〇八年にタンザニア初のアルビニズムのある国会議員に指名された。当時四十八歳。大統領による指名だった。BBCの取材に彼女はこう語っている。学校へ通うバスに乗ろうとすると、道で罵られた。子どもたちが群れになって追いかけてきて、ゼル、ゼルと叫ぶんです。

「ゼル」はスワヒリ語でアルビノを指す言葉だが、タンザニアのアルビノ協会によれば、もともとは幽霊のような存在を指す語で、明確に侮蔑を含む。二回重ねて「ゼル・ゼル」と言う。人を呼ぶ言葉ではなく、何かを指す言葉だ。二〇一五年に義手を受け取った子どもたちを取材した通信社の記事にも、色素がないため彼らはほとんど白く見える、呪術師にとっては死者の幽霊だ、という説明が出てくる。この「幽霊」という言い方は、あちこちで繰り返されてきた。人ではないから殺しても殺人ではない、というところまで滑っていくのが、この種の言葉の恐ろしいところである。

議員になった彼女が最初に求めたのは、意外に地味なことだった。国勢調査だ。まずタンザニア全土に何人のアルビノがいるのかを知らないといけない。そうしないと教育も医療も届けられない。数えられていない人間は、守られない。彼女はそれを分かっていた。ちなみに二〇一二年の国勢調査でようやく出た数字は一万六四七七人。研究者が推計する実数よりはるかに少ない。

で、結局何人が殺されたのか。誰も正確には知らない

数字の話をする。ただし、この分野の数字は全部「最低でも」という但し書きがつく。

支援団体アンダー・ザ・セイム・サンは、この問題の記録係のような役割を担ってきた。同団体が国連に出した報告書では、二〇一二年頃の時点でタンザニアの死者七十一人、それ以外のアフリカ諸国で三十五人、殺人未遂と切断がタンザニアで二十九件、墓荒らしがタンザニアで十七件と記録されている。二〇〇七年から二〇一〇年にかけては、月に三人ほどのペースで襲撃が起きていた計算になるという。二〇一一年以降は殺害が減る代わりに、切断が増えた。つまり殺さずに手足だけを奪って逃げる形に変わった。そして標的の中心は子どもになった。

二〇一六年、国連の独立専門家イクポンウォサ・エロは、二〇〇七年以降アフリカ二十六か国で六百件以上の襲撃があったと述べた。二〇一八年時点の同団体の集計では二十九か国で五百七十一件。二〇二六年に入ってからのアフリカ・アルビニズム・ネットワークの声明では、この十年あまりで三十か国以上、八百件超の報告がある、とされている。タンザニア一国に絞った最新に近い集計では、二〇二六年一月時点で二百十四件、うち殺害七十九件、生存者百二人、墓の掘り返し二十七件だ。

ここで面白い、というか、苦いのは、政府と市民社会で数字が合わないことだ。二〇一七年の独立専門家の訪問時、タンザニア検察庁が示した数字は襲撃六十六件。市民社会側はそれよりはるかに多いと反論した。国別行動計画をめぐる文書でも、タンザニア政府は六十件前後だと主張し、支援団体は二百件だとしている。三倍以上の開きがある。

なぜこうなるか。届け出られていない事件が大量にあるからだ。独立専門家自身が、当事者から通報されていない襲撃がかなりあると聞かされたと書いている。家族が関与している場合、誰も通報しない。それから、証拠の壁がある。二〇〇六年以降、遺体の一部を所持していた罪で記録された事件は、独立専門家が調べた時点でたった一件しかなかった。手足を切り取って運ぶ犯罪なのに、である。

呪術師禁止令、二百二十五人の逮捕、そして最初の死刑判決

政府が何もしなかったわけではない。むしろ、かなり派手に動いた。二〇〇八年三月、当時のジャカヤ・キクウェテ大統領が、儀式殺人に関わる者の一斉摘発を命じた。その年のうちに百七十三人が拘束されている。ンテテマの報道の直後には、二十三人の呪術師と実行役、さらに三十四人が追加で逮捕された。

ただし当時、誰も法廷に立っていなかった。警察は証拠が集まらないと言った。ンテテマの説明は明快だ。この地域には沈黙の文化がある。呪術師を告発すれば、その一族や雇われた殺し屋が自分のところへ来る。だから誰も証言しない。

最初の有罪判決が出たのは二〇〇九年九月だ。北西部カハマの法廷で、三人の男に絞首刑の判決が下された。殺されたのはマタティゾ・ドゥニアという十四歳の少年で、二〇〇八年十二月にブコンベ郡で襲われ、両脚を切断された。逮捕時、被告の一人は少年の両脚を所持していた。それまでに五十件を超える殺人が起きていて、これが初めての有罪判決だった。支援団体の創設者ピーター・アッシュは判決を歓迎しつつ、こう言っている。これは一件の有罪判決だ。あと五十二の家族が、まだ司法を待っている。タンザニアのアルビノ協会は、見せしめとして公開絞首刑にすべきだとまで求めた。追い詰められた人たちがそこまで言った、という事実のほうを記録しておきたい。

二〇一四年十二月、四歳の少女ペンド・エマニュエル・ヌンディが、ムワンザ州の自宅からマチェーテを持った集団に連れ去られた。父親を含む四人が、のちに十五人が逮捕された。彼女は見つからなかった。この事件がきっかけで、二〇一五年一月、政府は全国の呪術師を禁止する措置に踏み切る。内務大臣は、呪術師こそが人々にアルビノの体を持ってこいと言っている張本人だと特定した、と述べた。警察とタンザニア・アルビノ協会の合同タスクフォースが作られた。二月には一歳の男児ヨハナ・バハティが、母親をマチェーテで殴られたうえで連れ去られた。三月、警察は全国で無許可の伝統医と占い師二百二十五人を逮捕したと発表した。押収品として発表されたのは、トカゲの皮、イボイノシシの歯、ダチョウの卵、サルの尾、鳥の爪、ラバの尾、ライオンの皮といったものだった。

この禁止令には、当時から異論があった。ダルエスサラーム近郊の伝統医は、一部の悪いやつのせいで、まっとうな伝統医が全員迫害される、と反発した。実際、伝統医と呪術師の線引きは法的にも曖昧だ。タンザニアには一九二八年制定の魔術法があり、一九九二年には大統領委員会がこの法律は植民地法学に根ざしたもので廃止すべきだと勧告している。にもかかわらず現役だった。二〇〇二年の伝統・代替医療法で登録制度が作られたが、登録している施術者は少数派のままだ。つまり禁止令は、対象の定義が固まっていない状態で発動された。批判者が指摘するとおり、これは実行犯の需要側を放置したまま供給側の看板だけを叩く政策になりやすい。

守るために閉じ込める――ブハンギジャという場所

タンザニア政府がとったもう一つの手が、シェルターだ。名称は「一時保護施設」。実態は、既存の障害児向け寄宿学校の転用である。シニャンガのブハンギジャは、もともと聴覚障害と視覚障害のある子どものための寄宿学校だった。二〇〇九年、アルビニズムのある子どもの収容先に転換された。ムワンザのミティンドも同様だ。国連の独立専門家の報告によれば、こうしてシェルターにされた学校や施設は全国で三十二か所以上ある。

問題は、集め方だった。政府は地区長官と地域のリーダーに、管内のアルビニズムのある子どもを連れてこいと命じた。もし何か起きたら地区長官の責任だとされたので、現場は必死になった。ヒューマン・ライツ・ウォッチが二〇一七年に聞き取りをした若者の一人はこう語っている。殺しと襲撃が起きたとき、政府が僕をブハンギジャに移した。警官が家に来て父と話した。父はもっと詳しく知りたいからと最初は断った。警官は一度目はそのまま帰った。二度目は、僕を連れて帰った。

四歳のときに左前腕と右手の指を切られた少年は、バス停で教育担当官に拾われた。最初は誰も理由を説明してくれなかった。両親に会えなくて悲しかった。罰みたいだと思った。今は、悪い人たちから守るためだったと分かる。この「罰みたいだと思った」という一言が、この政策の性格をよく表している。

大学を出た両親を持つ女性の母親は、こう説明している。政府から学校に手紙が来て、アルビニズムのある子はブハンギジャに送るようにと通知された。指定された日時は二日後だった。いったん州の保護下に入ると、家に帰るのにも村長の書面と地区長官の承認が必要になった。休暇で家に帰るだけでも、である。

現場の状況もひどかった。二〇一五年時点で、ブハンギジャの収容人数は前年の百七十人から二百九十五人に増えていた。もともと四十人分の寄宿設備しかない施設だ。校長は図書室も物置も建てかけの教室も寝室に転用した。三段重ねの鉄製ベッドに薄いマットレス。子どもは一つのベッドに三人か四人で寝ていた。年齢は二歳から二十五歳まで。食事は不安定な政府予算のせいで校長が配給制にしていた。ヒューマン・ライツ・ウォッチが二〇一七年に訪ねたときは二百二十六人が暮らしていて、うちアルビニズムのある子どもは百四十二人。研究者が見たのは、有刺鉄線を巻いた高い塀に囲まれた、木も遊具もない乾いた広場だった。日差しを避ける日陰がない。皮膚がんのリスクがいちばん高い子どもたちを集めた場所に、木がないのだ。夜は民間警備員に加えて武装警官が詰めた。守るためだが、要塞に住むということでもある。

アフリカ人権法学の論文や支援団体の調査は、施設内での体罰、理由のない殴打、そして言うことを聞かないと村に帰して殺させるぞ、という脅しの存在まで記録している。ここは保護施設だったはずの場所だ。

十二歳の女の子がヒューマン・ライツ・ウォッチに言った言葉がある。アルビニズムの子だけといるのは、よくなかった。みんな同じで、違いがないままだったから。混ざらないとだめだと思う。守るという名目で切り離すことの副作用を、当事者の子どもが一行で言い当てている。

近年は家庭復帰が進められているが、二〇一七年の時点で少なくとも六十五人が家族と再会した一方、多くは短期の帰省しか望まなかった。家が安全だと思えないからだ。七歳の女の子は、八十五歳の祖母のところへ何の相談もなく戻された。祖母の言葉。政府が私に押しつけてきた。事前に何の相談もなく。ただ子どもを置いていった。その子は教科書を買う金がなくて、学校に通えていない。

噂は国境を越える。ブルンジ、マラウイ、モザンビーク

いちばん薄気味悪いのは、この噂が国境を越えて広がっていった経緯だ。

ブルンジでは二〇〇八年九月から翌年三月までの半年間に、少なくとも十二人が殺害された。集中したのはタンザニア国境に近い東部ルイギ県だ。二〇〇八年十一月には六歳の少女が自宅で射殺され、頭部と四肢を切断された。武装した男たちが押し入り、両親を縛ってから撃った。国連児童基金が緊急の声明を出した事件である。ブルンジのアルビノ協会の代表は、はっきりこう言っている。隣国タンザニアで体の部位に高い値がつくと聞くまで、ブルンジのアルビノは差別すら受けていなかった、と。二〇〇九年五月に始まった裁判では十一人が起訴された。証拠不十分で殺人罪は取り下げられ、遺体の部位の運搬と、墓を暴いて部位を奪った罪、そして殺人未遂が争われた。被告のなかには政府軍の兵士も含まれていた。

生き延びた側の証言も残っている。ルイギの山中の穴に隠れて暮らしていた男性は、自分の兄弟が実の兄に殺されたと語った。売値は二百四十ドル。彼はこう述べている。弟の遺体を見た。手も足も、全部切り取られてなくなっていた。そのあと、兄と義姉が金の分け前をめぐって言い争っているのを人が聞いている。彼はこの状況をジェノサイドと呼び、東アフリカからアルビノが消し去られる前に止めなければならないと訴えた。

マラウイでは二〇一四年十一月頃から急増した。二〇一六年五月、国連の独立専門家エロはマラウイ訪問後に、この国のアルビノの人々は時間をかけた組織的な絶滅の危機にあると述べた。警察が記録しただけで六十五件以上の暴力事件。マラウイのアルビノの人々は自分たちの状況を、野生の絶滅危惧種にたとえて彼女に説明したという。彼女が特に衝撃を受けたのは、十七歳の少年アルフレッドとの面会だった。彼は一年前、眠っているところをマチェーテで刺され、血だまりのなかで発見された。それ以来、彼は一度も笑っていなかった。同年三月には南部で、群衆が「アルビノ狩り」の容疑者七人を私刑にして焼き殺す事件も起きている。警察のトップは、誘拐犯を見つけたら射殺しろと部下に命じた。暴力が暴力を呼ぶ段階に入っていた。二〇一八年のマラウイ警察と司法省の合同報告では、四つの州で百四十八件が記録され、そのうちいちばん多い類型は殺人ではなく「墓の冒涜」だった。

モザンビークでは二〇一四年末から急増し、二〇一五年半ばにピークを迎えた。震源はナンプラ州で、二〇一五年十月までに二十二人が殺害されている。ザンベジア州、ニアサ州、カボデルガド州も影響を受けた。二〇一七年にニューヨーク・タイムズが出した写真報道は、この地域で人が値付けされる現実を書いている。モザンビークではアルビニズムのある人一人に四千ドルから七万五千ドルの値がつく、と。売り渡そうとするのが家族であるケースが少なくない、とも。ある男性は、義理の兄弟によって売り飛ばされる寸前だった。路肩で何時間も買い手を待たされた。現れたのは警察だった。彼は助かった。

マラウイの十七歳の少年ダビスは、二〇一六年四月二十四日、友人とサッカーの試合を見に行くと言って家を出たきり戻らなかった。四人ほどの男に連れ去られ、国境を越えてモザンビークへ運ばれ、殺害された。両腕両脚を切断され、骨を抜き取られ、残りは浅い墓に埋められた。遺体が見つかったのは五月一日である。この一件は、被害が一国の問題ではないことを示す典型例として国際人権団体の資料に載っている。

そして、墓が掘り返される

生きている人間が守られはじめると、犯罪は死者に向かった。これがこの事件のいちばん陰惨な展開だ。

タンザニアだけで記録されている墓の掘り返しは、初期の集計で十七件、近年の集計で二十七件。マラウイでは、警察と司法省が記録した事件のなかで最多の類型が墓の冒涜だった。モザンビークでも二〇一八年時点で五件が記録されている。犯行は夜間に行われるので目撃者がいない。だから訴追率が極端に低い。ブルンジの裁判でも、被告の一部は墓地を荒らして埋葬された人の体を持ち去った罪で問われている。

家族の立場を想像してほしい。襲撃を恐れて生きてきた人が病死する。ようやく安全になったと思って埋葬する。翌朝、土が掘り返されている。だから一部の地域では、遺族が墓をコンクリートで固める。鉄柵を打ち込む。番人を置いて何晩も見張る。死後も護衛が要る人生というものが、この世に存在してしまった。

もう一人の敵は、空から毎日降ってくる

ここまで人間の悪意の話をしてきた。だが統計上、アルビニズムのある人の命をいちばん多く奪ってきたのは襲撃ではない。太陽だ。

二〇二五年十一月、国連の独立専門家ムルカ=アン・ミティ=ドラモンドは国連総会でこう述べた。皮膚がんはアルビニズムのある人の死因の最上位のひとつであり、儀式的な襲撃で死ぬ人よりも皮膚がん関連の合併症で死ぬ人のほうが多い、と。数字も示されている。アフリカでアルビニズムのある人が皮膚がんを発症する確率は、一般人口の最大千倍。そして日焼け対策をとらなかった場合、推定九十八パーセントが四十歳を超えて生きられない。その死のうち少なくとも五分の四が皮膚がんによるものだ。

この数字は嘘みたいに聞こえるが、臨床の記録が裏づけている。タンザニアでの研究では、アルビニズムのある人はほぼ全員が一歳までに慢性的な皮膚障害を起こしており、十五歳から十八歳までに複数の日光角化症を持つ。農村部では二十歳を超えた対象者の九十一パーセントに日光角化症が見られ、三十歳で百パーセントになる。比較のために書くと、同程度の日射量の地域に住む白人の場合、三十代の日光角化症の有病率は一割未満だ。一九八五年にダルエスサラームで行われた調査では、三百五十人を二年間追った期間に三十パーセントが皮膚がんを発症し、そのほとんどが二歳から四十歳の間だった。同じ調査は、ダルエスサラームでアルビニズムのある人が三十歳を超えて生きる割合は一割未満だと報告している。カメルーンの調査では、死因のほとんどが二十代から四十代の皮膚がんだった。

がんの種類は、大半が扁平上皮がんだ。次いで基底細胞がん。メラノーマは意外なほど少ない。皮膚に色がないから、黒色腫にならないという逆説である。扁平上皮がんも基底細胞がんも、早期に見つければ治せるがんだ。それなのに死ぬ。理由ははっきりしている。診断が遅れるからだ。金がない。病院が遠い。まず伝統医のところへ行ってしまう。そして差別されるので医療にアクセスしづらい。潰瘍化して大きく崩れた状態でようやく病院に来る。それが標準的なパターンだった。

ここに、貧困と職業の問題が重なる。視力が悪くて学校でつまずいた子は、学歴のいる仕事に就けない。すると屋外の肉体労働に回る。畑で、道端で、一日中直射日光を浴びる。皮膚がんの最大のリスク要因を職業として選ばざるを得なくなる。教育の断絶が、そのまま寿命の短縮につながる構造だ。国連の報告書は、この因果をきちんと書いている。学校をやめると、日なたで働くことになり、貧困のなかで暮らすことになり、それは往々にして安全でない家に住むことを意味する、と。

視力の話も、ちゃんとしておきたい

アルビニズムは肌の話だけではない。むしろ本人にとって日常的にきついのは目のほうかもしれない。メラニンは網膜と視神経の発達にも関わるので、眼皮膚白皮症の人はたいてい視力が弱い。眼振がある。眩しさに極端に弱い。赤道直下の強烈な日射のなかでは、目を細めていないと何も見えないことすらある。

これが教育を直撃する。黒板が見えない。教科書の文字が読めない。前の席に座らせてもらえない。それで「勉強ができない子」とみなされる。念のため書いておくが、アルビニズムは知能に一切影響しない。そういう研究は一つもない。必要なのは、拡大教材と、座席の配慮と、照明の調整と、拡大鏡だ。それだけで解決する問題が、器具がないという理由で放置されてきた。支援団体の一つは、タンザニアの九つの州でおよそ四千人に眼科ケアを届けるプログラムを走らせている。学校を回って教員に教え方を伝える活動もしている。地味だが、これが人生を変える。

生物学の話は、拍子抜けするほど単純だ

では、これだけの騒ぎの原因になった「白い肌」とは何なのか。答えは、メラニンを作る工程のどこか一か所が動いていない、というだけの話だ。

メラニン合成の中心にいる酵素がチロシナーゼである。この酵素は、アミノ酸のチロシンを水酸化してL-ドーパにし、さらに酸化してドーパキノンに変える。メラニン合成の最初の二段階を担っている。この酵素をコードするのが十一番染色体上のTYR遺伝子で、ここに変異があると眼皮膚白皮症一型、すなわちOCA1になる。チロシナーゼが完全に働かないOCA1Aでは、色素がほぼ完全に欠ける。活性が落ちるだけのOCA1Bでは、色素がある程度残る。

一方、アフリカでいちばん多いのはOCA2だ。原因は十五番染色体上のOCA2遺伝子、かつてP遺伝子と呼ばれたもので、この遺伝子が作るのは膜輸送タンパクである。チロシナーゼをメラノソームまで正しく運ぶ役割に関わっていて、これが壊れるとチロシナーゼが行き先を間違えて細胞の外に出ていってしまう。酵素はあるのに現場に届かない、という故障だ。

面白いのはここからだ。サハラ以南アフリカのOCA2の大半は、たった一つの変異で説明がつく。OCA2遺伝子のエクソン7をまたぐ二・七キロベースの欠失である。南部アフリカでは、この欠失が病因変異の七十八パーセントを占める。ザンビアでも約七十九パーセント。ハプロタイプ解析によると、この欠失は歴史上たった一度だけ起きたものらしい。しかもアフリカ諸集団が分岐する前、およそ二千年から三千年前に生じたと推定されている。つまり東アフリカと南部アフリカで生まれる白い肌の子どもたちは、二千年以上前にどこかの一人の体で起きた一回のDNA欠落を、共通の祖先から受け継いでいる。黒人集団の三十人に一人ほどがこの変異を持っている計算になる。

三型もある。TYRP1遺伝子の変異によるOCA3で、かつて「赤褐色白皮症」と呼ばれた型だ。赤銅色の肌に生姜色の髪、青か茶の虹彩になる。南アフリカの黒人集団では八千五百人に一人程度と推定されている。ちなみに日本を含む東アジアではSLC45A2の変異によるOCA4の比率が高く、日本の症例の四分の一を占めるとされる。同じ「アルビノ」でも、地域ごとに壊れている部品が違う。

有病率も地域差が大きい。ヨーロッパは概ね一万二千人から一万五千人に一人。サハラ以南アフリカは四千人から七千人に一人。タンザニアの推定は千四百二十九人に一人という数字が出ている。ナミビアでは千七百五十五人に一人。ジンバブエで二千八百三十三人に一人。南アフリカで三千九百人に一人。ナイジェリアのイボ社会では千百人に一人という古い報告もある。もっと極端なのが集団の隔離が強い地域で、パナマのクナの人々では百六十人に一人、アリゾナのホピの人々では二百二十七人に一人という値が報告されている。

要するに、生物学的にはただの劣性遺伝である。両親が二人とも保因者なら、子どもがそうなる確率は四分の一。それ以上でも以下でもない。この単純な事実を伝えるためだけに、アフリカ各地では「アルビニズム理解セミナー」が何百回も開かれてきた。二〇一五年七月、ムワンザ州クウィンバの野外の教室で開かれたセミナーには、六十人ほどの親が集まった。木の机にパンフレットが並べられ、チョークで書ける壁にポスターが斜めに貼られていた。一枚は世界中のアルビニズムのある人の写真を並べた地図。もう一枚は、白いワニのラミネート写真だった。人にも動物にも起きる普遍的な現象なのだと示すための道具立てである。その集まりが特にしんみりしていたのには理由があった。七週間の間隔をおいて幼児二人が殺されたばかりで、そのうち一人、ペンドはすぐ近所に住んでいたのだ。

白いものは神の使いだった――日本と、それ以外の土地の話

さて、白い肌をめぐる物語はアフリカだけのものではない。人類はどこでも、白い個体に意味を読み込んできた。

日本を見てみる。日本では白い動物は基本的に吉兆だった。山口県岩国のシロヘビはアオダイショウのアルビノで、地元では古くから神の使いとして大切にされてきた。あまりに大切にされたので、自然界で白い形質が定着し、個体数まで増えた。一九二四年以来、国の天然記念物である。白蛇の脱け殻を財布に入れると金運が来る、納屋に住み着けばその家は栄える、という言い伝えが各地に残る。琵琶湖のナマズのアルビノは弁天様の使いとされ、白鹿は神話に登場し、七七〇年には赤い目をした白い亀が献上されて元号が「宝亀」に変わった。

では人間の白子はどう扱われたのか。ここが日本の面白いところで、扱いは一枚岩ではない。平安末から鎌倉初期の『病草紙』には、しろこといふものあり、をさなくよりかみもまゆも皆白く、めにくろまなこもなし、という記述がある。医学的というより見世物的な視線だ。『延喜式』の大祓祝詞に出てくる「国津罪」のなかの「白人(しらひと)」を白子のことだと読む研究者もいる。もしそうなら、それは祓うべき罪の一種として数えられていたということになる。

江戸期になると、肌が白く髪が赤い人が「猩々」として見世物になった。猩々は赤面赤毛の伝説上の動物で、見れば無病長寿のまじないになると宣伝された。京都の東福寺では「しろ子」の人が山姥に扮して興行した記録がある。天保期の江戸では「猩々兄弟」が舞を舞って人気を集めた。一方で、江戸の知識人のなかには猩々という生き物の実在を疑って文献を調べ、これは白子という体質の話ではないかと結論づけた者もいた。曲亭馬琴や松浦静山がそうだ。近世日本では、神格化と見世物化と博物学的説明が同時に走っていたことになる。

不老不死の話も日本にある。人魚の肉を食べて八百歳まで生きたという八百比丘尼は、別名を「白比丘尼」という。民俗学者の中山太郎は、彼女が伊勢の白子で生まれた、あるいは白ッ子と呼ばれる女性だったのではないかと書いた。藤澤衛彦は肉体は雪のように純白であったからだと解釈した。どちらが正しいかは分からない。だが「白い体」と「死なない」が結びつけられてきたことは確かだ。柳田国男の『遠野物語』にも、両親ともまさしく日本人にして白子二人ある家あり、髪も肌も眼も西洋人の通りなり、という一節がある。

世界を見渡すと、この結びつきはもっと露骨になる。パナマのクナの人々は、アルビニズムのある人を「月の子」と呼ぶ。妊娠中に親が月を見つめすぎたから生まれた、という説明だ。彼らは日食や月食のときに、太陽や月を呑み込む魔物を小さな弓矢で追い払う役目を負っていた。かつての首長は、白い子を必ず育てよと布告している。彼らは神に近く、霊的な世界で人々の助けになれるからだ、と。インドネシアのアンボイナでは明けの明星の子とされ、マレー世界では太陽の子とされた。マリのバンバラでは、太陽がいちばん強い正午に性交すると白い子ができると信じられていた。同じバンバラでは、セグーの王の即位に際してアルビニズムのある人が犠牲に捧げられたという記録がある。古代地中海世界でも、白い子の誕生は妻の不貞の証拠とみなされたり、母親が妊娠時に何を見ていたかで胎児が変わるという「母胎印象説」で説明されたりした。プリニウスは白い人々の住む土地について書いている。十七世紀末、ライオネル・ウェイファーはパナマの「白いインディアン」について、月の明るい夜になると彼らは急に元気になって森を跳ね回る、と記録した。

要するに、太陽・月・星と結びつける発想は世界中にある。神聖視も、忌避も、両方ある。同じ「特別扱い」が、ある土地では保護になり、別の土地では殺害の理由になる。そこの分岐が、この問題の本丸だ。

なぜ、この噂は死なないのか

理由をいくつか並べたい。ただし「アフリカ人が非科学的だから」という説明だけは採らない。それは何も説明していないうえに、事実と合わない。

第一に、経済だ。この暴力が集中したのは、一九九〇年代の経済自由化以降、一攫千金が「あり得る」ようになった地域だった。実現の確率は低いのに、可能性だけが目の前にぶら下がる。研究者たちが「カジノ資本主義」と呼ぶ状況である。そこに、噂が高速で行き交う空間ができた。鉱山と漁港は人の出入りが激しい。近い土地の話と遠い土地の話が混ざり、変形し、誰かがそれを商品にする。ある人類学者はこの空間を「噂の地形」と呼んだ。

第二に、証拠の非対称性だ。呪術の効果は反証できない構造になっている。金が出れば薬のおかげ。出なければ、やり方が悪かったか、敵の妨害があったことになる。負けようがない。だから経験による学習が起きない。

第三に、責任の分散だ。実行犯、情報提供者、仲介者、最終的な買い手。四層に分かれていて、それぞれが自分は主犯ではないと思える。買い手にいたっては、血に触れずに済む。二〇一七年の国連報告書が「首謀者が起訴された事例はない」と書いたのは、この構造の帰結だ。

第四に、沈黙だ。ンテテマの証言をもう一度引く。この地域には沈黙の文化がある。告発すれば報復が来る。加えて、家族が関与している場合がある。国連の資料は、被害者の家族が加害に関わっている事例の存在をはっきり書いている。子どもを守るはずの単位が、加害の単位になりうる。だから通報が上がらない。

第五に、法制度の混乱だ。一九二八年制定の魔術法は、何が「魔術」なのかを定義しきれていない。二〇二五年、アフリカ人権裁判所はこの法律の曖昧さを解消せよとタンザニアに命じた。二〇二五年である。百年近く手つかずだった。

第六に、これは案外重要なのだが、報道と支援の言語の問題がある。二〇〇九年の国際赤十字の報告書には、アルビノの体の「一式」が七万五千ドルで取引されるという記述があった。この数字は後に研究者から、根拠の薄い主張だと批判されている。センセーショナルな数字はよく拡散する。だが、値札を大きく報じることは、需要側に「そんなに価値があるのか」と教えることにもなりかねない。研究者のジェーン・サフィッツは、国際メディアが「アフリカ人は生物医学的知識を欠いているから白い体に人格を認めない」という単純な物語を繰り返してきたと指摘している。実際の現場はもっと入り組んでいて、殺しに反対する伝統医もいれば、家を焼かれた伝統医もいる。二〇一五年、北西部では二百人以上の施術者が魔術法違反で拘束され、ムワンザとゲイタでは数十軒の施術者の家が自警団に焼かれたと噂された。全国放送の討論番組では、伝統医の全国組織の会長が、暴力を起こしているのは一部の魔術師で、伝統医全体ではない、と発言して、場が怒号になった。単純化した物語は、単純化した対策と単純化した報復を呼ぶ。

二〇二五年二月、アルーシャの法廷で

二〇二五年二月五日、タンザニア北部アルーシャに置かれたアフリカ人権裁判所が、一つの判決を出した。申立人は三つの団体だ。プレトリア大学法学部の人権センター、ガンビアに拠点を置く汎アフリカNGO、そしてダルエスサラームの法律人権センター。相手はタンザニア政府である。

裁判所の認定は厳しかった。タンザニアはアフリカ人権憲章第四条が保障する生存権を侵害した。拷問および非人道的・品位を傷つける扱いの禁止に違反した。児童の売買・人身取引・誘拐の禁止に違反した。差別されない権利に違反した。要するに、国は襲撃を防ぎ、捜査し、救済する義務を果たさなかった、という判断だ。裁判所は、アルビニズムのある人が儀式目的の標的殺害を受けてきたことに疑いはない、と明言している。

命じられた措置も具体的だった。まず補償基金を設立し、精神的損害への賠償として一千万タンザニア・シリングを拠出すること。これが基金の元手にもなる。次に法改正。アルビニズムのある人を狙った暴力を、加重事由のある犯罪として処罰できるようにすること。そして一九二八年の魔術法を改正し、魔術と伝統医療の境界の曖昧さを解消すること。さらに、アフリカ連合が二〇二一年から二〇三一年の期間で採択した行動計画に沿った国家行動計画を策定・施行すること。健康への権利の実現措置をとること。誤った信念を打ち消すための啓発キャンペーンを、少なくとも二年間継続すること。実施状況を二年以内に報告すること。

国連の独立専門家は判決を歓迎した。二〇二六年に出された国連人権理事会向けの共同提出文書は、この判決の完全な履行と、二〇二四/二五年度から二〇二八/二九年度の国家行動計画への十分な予算措置を求めている。同じ文書が、統計の不在も指摘している。日焼け止めの普及率、訴追件数、就学率について、一貫して公表される全国時系列データが存在しない、と。数えられていないものは、やはり守られない。

人を、名前で覚えておくということ

最後に、この二十年を動かしてきた人たちの名前を書いておきたい。

ヴィッキー・ンテテマ。潜入取材で世界にこの問題を知らせ、脅迫を受けて国外に逃れ、二〇一〇年にBBCを辞め、支援団体の実務責任者になった。二〇一〇年には国際女性メディア財団の勇気ある報道賞を受賞している。

ピーター・アッシュ。カナダ・モントリオール生まれ、本人もアルビニズムがある。二〇〇八年にンテテマの報道を読み、バンクーバーの自宅でこう考えたと語っている。もし自分がタンザニアでアルビニズムのある人間として暮らしていたら、夜眠るとき一度も安心できないだろう、と。その年のうちにアンダー・ザ・セイム・サンをカナダで登録し、翌年ダルエスサラームに事務所を開いた。同団体は襲撃の記録を集計し続け、その数字が国連や各国政府の議論の基礎データになっている。教育支援では、過密で環境の悪い政府施設から数百人の子どもを私立の全寮制学校に移した。

ジョセファト・トーナー。アルビニズムのある教員で、二〇〇六年に教職を捨てて活動に専念した。ウケレウェ島の当事者団体で働き、ドキュメンタリーの撮影で呪術師と直接対面した。二〇一一年八月八日、キリマンジャロの山頂に立った。理由をこう述べている。私たちにはできるのだと示したかった、だから守ってほしい、機会をくれ、スティグマを貼るな、隔離するな、暗い部屋に隠すな、道を開けてくれ、と。彼は生涯に二度、殺されかけている。二〇二〇年四月十二日、ムワンザで道路を横断中に車にはねられて亡くなった。四十二歳だった。

イクポンウォサ・エロ。ナイジェリア出身、本人もアルビニズムがある。二〇一五年、国連人権理事会が初めて任命した「アルビニズムのある人の人権に関する独立専門家」になった。マラウイでの「組織的絶滅の危機」という言葉は彼女のものだ。後任のムルカ=アン・ミティ=ドラモンドは、二〇二五年に皮膚がんを世界的な健康の緊急事態として国連総会に持ち込んだ。

シスター・マーサ・エドムンド・ムガンガ。一九六三年、タンザニアのマキバでアルビニズムを持って生まれた。家族からも教師からも虐待を受け、自ら命を絶とうとしたところを止められた。その後、ナイロビで教員養成と神学の教育を受け、聖公会の伝道師として叙任され、社会福祉の道へ進んだ。二〇〇五年に当事者支援の活動を始め、二〇一六年に正式なNGOになった。

ジョセフィン・アロン・ムワンクゥジ。タンザニアの法律人権センターの理事を務める人物だ。この団体は、二〇二五年のアフリカ人権裁判所の判決を勝ち取った三つの申立人のひとつである。教育とジェンダーの分野で長く仕事をしてきた人が、判決を引き出した組織の運営側にいる。法廷の勝利は、突然どこからか降ってくるわけではない。

そしてハリー・フリーランド。トーナーを六年間追いかけてドキュメンタリーを撮った映画監督で、その後、皮膚がん予防と視力ケアのプログラムを運営する団体を立ち上げた。この団体のプログラムは、タンザニアとマラウイの三百二十の病院・保健センターで一万三千六百六十五人をカバーしている。二〇二六年の一月から三月の三か月だけで、四千七百六人が皮膚がん検診を受け、一万七千七百七十二点の保護具が配られた。地元では日焼け止めが製造され、女性たちのグループがつばの広い帽子を年間一万八千枚以上縫っている。

二〇二五年、世界保健機関は広域スペクトルの日焼け止めを必須医薬品リストに加えた。申請を主導したのはグローバル・アルビニズム・アライアンスと、国連の独立専門家たちだった。塗る日焼け止めが「薬」として認定されたということは、政府に対して供給を求める法的な根拠ができたということだ。地味に見えて、これは大きい。

それでも、まだ終わっていない

数字だけを見れば、状況は改善している。タンザニアでの襲撃報告は明らかに減った。政府と市民社会の取り組みが効いた、と国連の報告書も認めている。だが同じ報告書が、その進歩は極めて脆弱だとも書いている。根本原因が消えていないからだ。シェルターがまだ使われているのが証拠である。人は安全になったから施設を出るのであって、施設が残っているということは、まだ安全ではないということだ。

二〇二一年五月、ザンビアで赤ちゃんが切断された。同月、タンザニアのタボラ州で五歳の男の子が切断され殺害された。二〇二三年から二〇二四年にかけて、ザンビアでは十件が報告され、そのうち法廷まで進んだのは四件だけだった。二〇二六年になっても、アフリカ・アルビニズム・ネットワークは、誘拐・墓の冒涜・人身取引が引き続き記録されていると報告している。

この記事を読んでいる人に、たぶん何かができるわけではない。ただ、一つだけ言っておきたいことがある。この二十年で被害者側がいちばん繰り返し口にしてきた要求は、罰でも金でもなかった。私たちは普通の人間だ、と伝えてくれ、である。ンテテマがインタビューで紹介したアルビニズムのある女性の言葉がそれだ。自分の仕事は社会に出て行って、見てください、私はここにいます、私たちはあなたたちと同じ普通の人間です、と言うことなのだ、と。

もう一つ。ある集会でンテテマが聞いた発言がある。ある人が立ち上がってこう言った。もし科学的に、私たちの体に他人を金持ちにする成分が本当に含まれていると証明できるなら、タンザニアのアルビニズムのある人間は身を捧げよう、そうすれば同胞が豊かになり、この国から貧困がなくなるのだから、と。ンテテマはこの言葉に打たれたと語っている。一方では呪術師の主張への痛烈な皮肉であり、他方では、政府が何も言わないことへの悲鳴だった。当時、政府はまだ一言も発していなかった。彼女が呪術師のところへ潜入する決心をしたのは、その直後である。

「アルビノ狩り」という言葉が隠してしまうもの

ここまで書いてきて、どうしても腑に落ちないままの部分がいくつか残る。総括を兼ねて、そこを掘っておきたい。

まず、この事件をどう呼ぶかという問題だ。「アルビノ狩り」という言い方は分かりやすい。分かりやすすぎて、たぶん少し嘘をついている。狩りという言葉は、狩る側の狂気と狩られる側の無力を対にした図を作る。だがここまで見てきたとおり、この事件の中心にいたのは狂った人間ではなく、経済的に追い詰められた普通の人間と、その追い詰められ方につけこんで商品を作った人間と、汚れずに買った人間だった。研究者のシューレはこれを「ヒット・アンド・ラン式の医薬殺人」と呼んでいる。伝統への回帰ではない。むしろ新しい商売だ、と。

この見立てはきつい。なぜなら、これを「古い迷信の残存」として片づけられなくなるからだ。近代化が進めばいずれ消える、という慰めが使えない。金鉱と漁業がある限り、不確実性がある限り、噂は形を変えて再生産される。実際、噂は消えずに横に移動した。タンザニアで取り締まりが強まると、ブルンジで、マラウイで、モザンビークで新たに火がついた。取り締まりの成功が、隣国への輸出を意味してしまった局面すらある。ブルンジのアルビノ協会代表が、タンザニアで値がつくと聞くまで、うちの国ではそもそも差別すらなかった、と言ったのは、その意味で決定的な証言だ。彼らを守っていたのは啓発でも法律でもなく、たんに「そういう商売がまだ来ていなかった」という事実だった。

だとすれば、これは倫理の問題である以上に、市場の問題である。市場を潰すには、供給側ではなく需要側を叩くしかない。ところが二十年たっても、買い手が起訴された事例はほとんどない。そこが一向に動かないまま「襲撃件数は減りました」と報告されているのが現状だ。減ったのは事実だ。だが減った理由が、需要の消滅ではなく、標的の隔離と国外移転だとすれば、それは解決ではなく移動である。

次に、保護という言葉の重さについて。シェルターの話は、この記事を書いていていちばん考え込んだ部分だった。政府の対応を責めるのは簡単だ。だが、あの状況で他に何ができただろうか。毎月のように子どもが襲われている。警察は証拠を集められない。裁判は進まない。そのなかで、とにかく物理的に隔離すれば命だけは守れる。実際、シェルターから連れ去られた子どもの事例は報告されていない。政策としては、機能した。

ただしその代償が、家族からの引き離し、有刺鉄線、木のない校庭、三段ベッドに四人、体罰、そして村に帰して殺させるぞという脅しだった。守るために自由を奪うという構造は、どこの国でも同じ問題を起こす。ここで注目したいのは、その矛盾をいちばん正確に言葉にしたのが、十二歳の子どもだったことだ。アルビニズムの子だけといるのは、よくなかった。みんな同じで、違いがないままだったから。混ざらないとだめだと思う。安全のために同質な集団に閉じ込められた子が、混ざりたいと言っている。この子は、隔離が長期的には差別を強化することを、体感で理解していた。大人の政策担当者が二〇一〇年代を通じて議論してきたことを、一文で言い切っている。

復帰の過程もまた雑だった。八十五歳の祖母のところへ相談なしに子どもを戻し、教科書代がないから学校に行けない、という結末である。入れるときも出すときも、当事者に聞かなかった。国連の独立専門家が勧告のなかで「子どもと家族の意見が考慮されること」をわざわざ書かなければならなかった理由がここにある。

そして三つ目、いちばん重い話。太陽のことだ。この記事の前半で書いた襲撃の話は、確かに衝撃的だ。だが冷静に数を並べると、この二十年でアフリカ全体の記録された襲撃はおよそ八百件、殺害は二百数十件である。一方、日焼け対策なしなら九十八パーセントが四十歳前に死ぬという推計が正しければ、失われた命の桁がまったく違う。国連の独立専門家が二〇二五年に、儀式的襲撃より皮膚がんで死ぬ人のほうが多い、と国連総会でわざわざ言ったのは、この非対称を正すためだ。

ここには、ニュースの構造そのものの問題がある。マチェーテと呪術は記事になる。日光角化症は記事にならない。だが後者のほうが人を殺している。しかも後者は、圧倒的に安く防げる。日焼け止め、つばの広い帽子、長袖、サングラス、そして年に一度の皮膚の診察。それだけだ。扁平上皮がんも基底細胞がんも、早期なら治る。二〇二五年に世界保健機関が日焼け止めを必須医薬品に加えたのは、この単純な事実に制度上の位置づけを与えたということである。国が調達し、保健所が配り、無償で渡す根拠ができた。日焼け止めが薬になった。何十年も、それが「化粧品」だから公費で買えないという理屈で人が死んできたことを思うと、この変更の意味は大きい。同時に、教育の話も切り離せない。視力が弱い子が黒板を見られずに落第し、屋外労働に流れ、紫外線を浴び続けて四十歳前に死ぬ。この一本の線を断ち切る道具が、拡大鏡と前列の座席と大きな活字の教科書である。人権と技術のあいだの距離が、これほど短い問題も珍しい。

最後に、日本の話に戻る。岩国のシロヘビは、地域の人が神の使いとして大切に扱ったから個体数が増えた、と説明されている。ある土地では、特別視が保護として働いた。同じ「白いものには意味がある」という発想が、東アフリカでは殺害の理由になった。この差はどこから来るのか。おそらく、意味の内容ではなく、意味の向きだ。あれは神聖だから触れてはいけない、と、あれは特別な力を持つから使える、は、紙一重で正反対の帰結を生む。前者は距離を作る。後者は距離を消して、人を材料にする。

八百比丘尼の伝説は、白い体と不死を結びつけた。だが日本の伝説では、その体を切り取って食べようとする者は現れない。人魚のほうが食われる。人間には手を出さない。その一線がどこで引かれるかが、たぶん決定的なのだ。そして東アフリカでその線を消したのは、古い信仰ではなく、二十一世紀の噂と、それを商品にした人間と、その商品を買った人間だった。線は文化のなかにあるのではなく、そのつど誰かが引いている。だから消されもする。

この話を「遠い国の迷信」として読み終えるのがいちばん危ういのは、そのためだ。人を材料として見る発想は、条件さえ揃えばどこにでも生える。二〇〇〇年代のタンザニアで揃った条件は、極端な不確実性、格差の可視化、司法の不機能、そして責任が四層に分散した売買の構造だった。この四つは、別に赤道直下でしか揃わないものではない。

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