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「世界一醜い女」と呼ばれた女性は、英語もスペイン語も流暢に話し、歌い、踊っていた――ジュリア・パストラーナ、死後153年かけて家に帰るまでの全記録

1860年3月、モスクワ。25歳の女性が死んだ。出産から5日後だった。産まれた男の子は、その前にもう死んでいる。生きたのはたった36時間ほど。ふつうなら、ここで話は終わる。悲しいけれど、19世紀にはいくらでもあった話だ。

ところが彼女の場合、ここからが本番だった。夫が二人の遺体を防腐処理させ、ガラスケースに立たせて、巡業を再開したからだ。そして彼女の体は、そこから153年間、家に帰れなかった。

名前はジュリア・パストラーナ。同時代の興行ポスターは彼女を「世界一醜い女」と呼び、「猿女」と呼び、「熊女」と呼んだ。でも実際の彼女は、英語とスペイン語を流暢に話し、メゾソプラノで歌い、ハイランド・フリングまで踊り、本を読む人だった。これは、その落差の話だ。

シナロアの山あいで、その子は生まれた

生年は1834年8月。場所はメキシコ北西部シナロア州の山あい、オコロニという小さな村だとされている。母親は先住民で、ヤキかマヨの血を引いていたという説が有力だ。ただ、この「出生」の部分こそが、彼女の人生でいちばん記録の薄いところでもある。なにしろ後年、興行主たちが商売のために出生譚を丸ごと捏造したからだ。

生まれつき、彼女の全身は黒く柔らかい毛に覆われていた。手のひらと足の裏だけが例外。そして歯茎が異常に厚く肥大していて、上下の唇が前に押し出されていた。身長は135センチちょっと。小柄だ。

村の反応は、地域の伝承と結びついた。ナワル。人が動物に姿を変えるという、メソアメリカに古くからある変身譚だ。赤ん坊のジュリアを見た村人の一部は、母親が呪いを受けたと考えた。母子は村を出た、あるいは追われた。どちらが先だったのかは、もう誰にもわからない。

のちに興行ポスターは、この空白に好き放題を書き込む。母親が「ルート・ディガーズ」という凶暴な部族に6年間さらわれ、洞窟で発見された、と。あるいは母親が熊や類人猿と交わった結果だ、と。全部でたらめだ。でもそのでたらめこそが、切符を売った。

州知事の家で、彼女は読み書きと歌を覚えた

はっきりしている数少ない事実のひとつが、彼女が少女時代をシナロア州知事ペドロ・サンチェスの家で過ごしたことだ。母を亡くし、叔父に引き取られ、そこから見世物小屋に売られかけたところを知事が引き取った、という筋が最も広く伝わっている。

ただし、これを「救出」と呼んでいいのかは微妙だ。当時の記録は彼女を家事使用人として扱っているし、一部の資料は身も蓋もなく「生きた慰み物」と書いている。つまり、屋敷という箱に入れられただけで、見られる側であることは変わっていない。

それでも、この州都クリアカンでの数年間が、彼女に決定的なものを与えた。教育だ。彼女は読み書きを覚え、英語を身につけ、フランス語もある程度やった。歌を習い、メゾソプラノの声域で歌えるようになった。ダンスを覚えた。裁縫と料理も上手かったと、後年ロンドンの記者たちが揃って書いている。

つまり、のちに「猿女」の看板の下でヨーロッパ中を回ることになる女性は、その時点ですでに、当時のメキシコの一般女性より遥かに高い教養を持っていた。この事実は、彼女の生涯を考えるときの土台になる。彼女は「無知な野生児」ではなかった。何が起きているかを、全部わかっていた側の人間だ。

1854年、ブロードウェイ316番地。すべてはここから

20歳になった1854年、彼女は知事の家を出る。ここから先が興行の世界だ。

経路には諸説ある。メキシコ国内で税関吏フランシスコ・セプルベダに身柄を買われ、グアダラハラ、メキシコシティ、ベラクルスで見世物にされた、という説。そこからニューオーリンズへ渡り、アメリカ人興行師と出会ったという説。一方、アメリカ側の資料では、J・W・ビーチという興行師、あるいは「M・レイツ」と名乗る男が彼女を口説き落として連れ出した、と書かれている。おそらく複数の男の手を経ている。

デビューは1854年12月、ニューヨーク。会場はブロードウェイ316番地のゴシック・ホールという小屋だ。看板には「ザ・マーヴェラス・ハイブリッド、あるいはベア・ウーマン」。彼女は赤いドレスを着て舞台に立ち、スペインの民謡を歌い、メキシコの踊りを踊った。

観客が見に来たのは歌でも踊りでもない。顔だった。これは当時の批評がはっきり示している。ニューヨークの新聞のひとつは、こう書いた。この「自然の戯れ」の目は知性に輝いているが、その顎と、ぎざぎざの牙と、耳はぞっとするほど醜悪だ、体のほぼ全面が長く艶やかな毛に覆われている、と。

読み返してほしい。「目は知性に輝いているが」。書いた記者本人が、彼女が賢いことに気づいている。気づいたうえで「が」で接続して、残りの400字を醜さの描写に費やしている。19世紀の見世物興行という商売の構造が、この一文にまるごと入っている。

医者が書いた「証明書」は、要するに広告だった

ここで19世紀特有の、しかも一番たちの悪い仕掛けが出てくる。医学の権威を、興行の宣伝材料に使うやり方だ。

ニューヨークで彼女を私的に診察した外科医アレクサンダー・B・モットは、彼女は人間とオランウータンの交雑種であるという趣旨の見解を出した。モットは無名の藪医者ではない。当時のアメリカ外科学界の大物ヴァレンタイン・モットの息子で、それなりの肩書きを持った人物だ。クリーヴランドのS・ブレイナードという医師は、彼女を人類とは別の独立した種だと述べた。

これらの「所見」は、そのまま印刷されてパンフレットになり、小屋の入口で売られた。医者の名前とサインが入った紙は、切符の値段を上げるための最強の道具だった。つまり彼らは、科学の顔をした宣伝コピーを書いていたわけだ。

もちろん反論もあった。ボストン自然史協会の解剖学者サミュエル・ニーランド・ジュニアは、彼女を診たうえで、はっきりこう述べている。彼女は完全な女性であり、その性のあらゆる機能を果たしている、と。要するに「人間だ」と言い切ったわけだ。だがニーランドの冷静な結論は、モットの扇情的な「交雑種」説ほどには広まらなかった。当たり前だ。地味な真実は売れない。

そして忘れてはいけないのが、この診察がどう行われたかだ。医者たちは彼女の体を調べながら、質問は本人ではなく興行主に向けた。目の前に、英語で答えられる本人がいるのにだ。彼女は黙って立っていて、レントが横で解説をした。展示物は口をきかない、という前提が徹底されていた。

ロンドン、リージェント街。1日3回、シリング硬貨の音

1857年7月、彼女はロンドンに渡る。会場はリージェント街のリージェント・ギャラリー。看板は「ザ・ノンディスクリプト(分類不能なるもの)」、そして「世界の驚異」。入場料は1シリング。1日3回公演。

ロンドンの新聞は熱狂した。ただし熱狂の質が二層に割れているのが面白い。ひとつは当然、怪物としての見世物性への熱狂。もうひとつは、彼女の「予想外の上品さ」への驚きだ。記者たちは、彼女がきちんとした英語を話すこと、歌がうまいこと、ワルツを踊れること、針仕事ができること、そして自分の身の上をユーモアを交えて語れることを、繰り返し書いている。

このとき彼女を実際に診た人物のひとりが、動物学者フランシス・トレヴェリアン・バックランドだ。バックランドは博物学の人気著述家で、変わったものを見に行くのが趣味みたいな男だった。彼は自著の中で、彼女を「奇形のメキシコ先住民女性」と書いている。冷たい言い方に聞こえるが、これは当時としてはむしろ擁護に近い。交雑種でも新種でもなく、ただの人間の女性だ、と言っているからだ。そのうえでバックランドは、彼女の体つきは実に良く、優美で、声は甘く、音楽とダンスに素晴らしい素養を持っていた、と書き残した。醜いという言葉も同時に使ってはいるが、彼の記述には「見物人」ではなく「観察者」の目がある。

医学誌ランセットにも報告が載った。J・Z・ローレンスという医師が、彼女の毛は手のひらと足の裏を除く全身に生えており、とくに通常なら男性にのみ生える部位に濃い、と書いた。そして効いてくるのは、彼女の歯そのものは正常で、異常なのは肥大した歯茎のほうだ、という点をローレンスが正確に把握していたことだ。この一点が、のちに大物を躓かせる。

ダーウィンが書き残した数行と、その致命的な間違い

1868年、チャールズ・ダーウィンは『家畜・栽培植物の変異』の中で、毛と歯の相関変異を論じる箇所でジュリア・パストラーナに言及した。ダーウィンは彼女を「スペイン人ダンサー」と呼び、非常に見事な体つきの女性だったが濃い男性的な髭と毛深い額を持っていたと書き、写真が撮られ、剥製にされた皮が見世物として展示されたと記す。そしてここからが本題だと言って、彼女の上下の顎には不規則な二重の歯列があり、片方の列がもう片方の内側に並んでいた、パーランド医師がその型を取った、歯が過剰であるために口が突き出し、顔つきがゴリラのようになった、と続けた。

三重に間違っている。まず彼女はスペイン人ではなくメキシコ人だ。次に「剥製の皮」という表現は、実際に行われた防腐処理の実態からずれている。そして決定的なのが歯だ。彼女に二重歯列などなかった。ローレンスが11年前にランセットではっきり書いていたとおり、歯は正常で、肥大していたのは歯茎だった。ダーウィンは彼女に会っていない。歯科医パーランドが取ったという型と伝聞に頼って書いた。

この数行は、その後100年以上、彼女の医学的イメージを歪め続けた。同時に、これが当時の科学のやり方の限界も示している。目の前の一人の女性より、遠くから届く伝聞のほうが、理論に都合よく収まってしまう。ダーウィンを責めたいわけではない。ただ、19世紀最高の観察者ですら、彼女に関しては観察をしていなかった、という事実は記録しておく価値がある。

セオドア・レントは、夫だったのか飼い主だったのか

1855年11月10日、ボルティモアで、彼女はセオドア・レントというアメリカ人興行師と結婚した。以後、レントが彼女のマネージャーであり、夫であり、実質的な所有者になる。

この結婚については、当時から今日まで一貫してひとつの説が強い。レントは彼女を愛したのではなく、彼女という「商品」を他の興行師に横取りされないために結婚した、という説だ。根拠はいくつもある。

まず、レントは結婚後、彼女の生活を極端に囲い込んだ。移動中は必ずヴェールをかぶらせ、興行以外の場では人前に出さなかった。理由は保護ではなく在庫管理だ。ただで顔を見られたら、切符が売れなくなる。次に、レントが自分で書かせて配ったパンフレットの中身がひどい。彼女の母の部族は「執念深く統治しがたい」と書き、彼女の出生には類人猿や狒々や熊が関わっていると匂わせ、彼女は「女性の性質がオランウータンのそれを上回っている混血種」だと明記した。自分の妻についてこれを書き、印刷し、売った。

そして最大の証拠が、彼女の死後のレントの行動だ。それは後で書く。

ただ、単純な悪役として片づけるには、少し話が入り組んでもいる。彼女自身は、少なくとも表向きには、この結婚を否定していない。それどころか、彼女はある人物に対して、はっきりと「夫はわたし自身を愛してくれている」と語っている。その相手の話をしよう。

ウィーンの女優が見た、うっすらとした悲しみの霧

証言のひとつめ。フリーデリケ・ゴスマンという名前のウィーンの女優だ。当時のドイツ語圏で相当に人気のあった舞台女優で、興行の巡業先でジュリアと知り合い、友人と呼べる関係になった数少ない人間のひとりだった。

ゴスマンが書き残した印象は、簡潔だが刺さる。彼女の周囲にはうっすらとした悲しみの霧のようなものが漂っていた、という表現だ。悲惨だとも、哀れだとも書いていない。霧、という言い方を選んでいるところが効いていると思う。露骨な不幸ではなく、常時そこにある薄い層。舞台では明るく歌い、客と冗談を言い、質問に丁寧に答える人が、幕が下りたあとに纏っているもの。

そのゴスマンに向かって、ジュリアは自分から言った。夫はわたし自身を愛してくれている、と。この一言の解釈は、160年経った今も割れている。額面どおりに受け取る人もいる。孤立した環境で唯一の親密な相手を信じるしかなかった状況の産物だと読む人もいる。あるいは、友人に心配をかけまいとした社交辞令だと見る人もいる。

どれが正しいかは決められない。ただ確実なのは、彼女がその言葉を「言えた」ということだ。展示物ではなく、友人に向かって自分の結婚について語る一人の女性として。ゴスマンの証言の一番の価値は、悲しみの霧の観察ではなく、ジュリアが会話の主体として登場する数少ない記録だという点にある。

ドイツの興行師が書いた、いちばん公平な一文

証言のふたつめ。ヘルマン・オットーという、ドイツのサーカス・見世物業界の人間が残した文章だ。同業者であり、つまり彼女を商品として扱う側にいた人物だ。だからこそ、彼の書いたものは重い。

オットーはこう書いている。彼女は世界中にとって怪物であり、金のために展示された異常であり、訓練された動物のようにいくつかの芸を仕込まれた存在だった。ここまでは業界の身も蓋もない自己認識だ。だが彼は続けてこう書く。しかし彼女をよく知る数少ない者にとって、彼女は温かく、感じやすく、思慮深く、精神的に非常に恵まれた、繊細な心と知性を持つ人間だった、と。

この一文の構造がすごい。前半で見世物産業の残酷さを正確に記述し、後半でその産業の記述が現実の彼女を一ミリも捉えていないことを認めている。しかも書いているのは倫理的な批評家ではなく、業界の内部の人間だ。

オットーはのちに、防腐処理されて展示されている彼女を見た印象も書き残している。赤い絹のような、娼婦めいたドレスを着せられ、恐ろしい引きつり笑いを浮かべていた、と。生前を知る人間が、死後の彼女の見世物姿を見た。この二つの記述を並べたときの落差が、この物語のすべてだと言ってもいい。

モスクワ、1860年3月。36時間だけ生きた息子

1858年から59年にかけて、興行はドイツ、オーストリア、ポーランドを回り、そしてロシアに入る。モスクワ。ここが終点になった。

彼女は妊娠していた。1860年3月、モスクワで男の子を産む。赤ん坊は彼女と同じ症状を持っていた。全身が毛に覆われ、歯茎が厚かった。しかも頭部が大きく、難産だった。この子は生きて36時間ほどで死んだ。資料によっては35時間、あるいは3日と書かれているが、どれにしても、ほとんど生きていない。

そして5日後、1860年3月25日、ジュリア・パストラーナ自身が死んだ。25歳。死因は産褥期の腹膜炎とされている。19世紀の出産では珍しくない死に方だ。抗生物質もなければ、手を洗う習慣すら医療現場に徹底されていなかった時代の話だ。

彼女の最期の言葉として広く伝わっているのは、「わたしは幸福のうちに死にます。わたし自身のために愛されたと知っているから」というものだ。ただ、この言葉には注意がいる。出典が確定していない。同時代の新聞や興行のパンフレットを経由して広まった可能性が高く、興行側にとって都合が良すぎる美談でもある。感動的な最期の言葉は、その後の巡業の宣伝文句になる。実際、なった。

信じたい気持ちはわかる。わたしも半分は信じたい。でも、この一文だけを彼女の人生の結論に据えるのは、たぶん彼女に対してフェアじゃない。

ソコロフ教授の六か月

普通ならここで終わる。終わらなかった理由が、モスクワ大学にいた。

ソコロフ教授。解剖学と防腐処理の専門家で、当時新しかった保存技術を研究していた人物だ。彼はレントから二体の遺体を買い取った。あるいは、レントが処理を依頼した。順序については資料が食い違う。どちらにせよ、遺体はモスクワ大学の解剖学教室に運ばれ、そこで六か月かけて処理された。

ソコロフのやり方は、ミイラ化と剥製術を混ぜたものだった、と記録されている。単に腐敗を止めるだけではない。生きているように見せることを目的にしていた。処理後の遺体は、血色があり、生きているように見えた、と当時の証言が揃って言う。

そして押さえておきたいのが、ポーズだ。ジュリアは寝かされなかった。立たされた。両手を腰に当て、足を少し開き、顔を横に向けた姿勢。舞台に立つダンサーのポーズだ。赤ん坊は棒に固定され、母の隣に、目を開いた状態で立たされた。

つまりソコロフは、遺体を「保存」したのではなく、「上演可能な状態」に加工した。この時点で、防腐処理は医学ではなく興行の作業になっている。六か月かけたのは、そのほうが商品価値が高かったからだ。

夫は、妻と息子を連れて巡業を再開した

レントの行動が、ここで決定的になる。

彼はいったん遺体を手放した。だが六か月後、処理が終わって出来上がりを見た瞬間、考えを変えた。買い戻したのだ。理由は明白だ。死んだジュリアは、生きたジュリアより手がかからず、しかも同じくらい売れる。食事も要らない。文句も言わない。病気にもならない。

1862年、ロンドン。彼は妻と息子の遺体をガラスケースに入れ、入場料1シリングで公開した。会場はピカデリー界隈のギャラリーだ。ロンドンっ子は列を作った。医学誌ランセットは、この防腐処理を技術的に「完全に成功している」と評価する記事を載せた。批判ではなく、称賛の記事だ。

生前の彼女を診たバックランドも、この展示を見に行っている。彼が書き残した感想は、顔が驚異的で、極めて出来の良い蝋の肖像そのままだった、というものだ。別の英国人博物学者は、巨大な変形した唇と平たい鼻は生前とまったく変わらず、顔とその周りの柔らかな黒い毛と髭も以前の姿から何ら変化していなかった、と書いた。

つまり、彼女を人間として見ようとしていた人たちですら、この展示に足を運び、感嘆した。19世紀という時代の倫理的な地平が、ここに露出している。

「ゼノラ・パストラーナ」という名の、二人目の妻

レントの商売は続く。そして彼は、恐ろしいことを思いつく。

1860年代半ば、彼はドイツでマリー・バーテルという女性を見つけた。ジュリアとよく似た多毛症の女性だった。レントは彼女と結婚し、「ゼノラ・パストラーナ」という芸名を与えた。触れ込みは、ジュリアの妹。もちろん血縁はない。

そしてゼノラを舞台に立たせるとき、レントは背後にジュリアと赤ん坊の遺体をガラスケースごと並べた。生きた「妹」が歌い踊り、その後ろで死んだ「姉」と甥が立っている。ヨーロッパ各地でこれを興行した。時期によっては、ゼノラとジュリアは同一人物であるという触れ込みまで使ったと伝えられている。

この構図を、少し想像してみてほしい。マリー・バーテルという女性は、自分と同じ症状を持って死んだ女性の遺体を毎晩背中に感じながら、舞台で笑って歌わされていた。自分の未来がそこに立っている。レントはそれを演出として使った。ジュリアの生涯を語るとき、この二人目の妻の存在は絶対に外せない。同じ罠が、同じ男によって、二度仕掛けられている。

サンクトペテルブルクの蝋人形館と、壊れた男

1880年代初め、レントは引退する。稼いだ金でサンクトペテルブルクに移り、小さな蝋人形館を買った。人生の上がり、のはずだった。

そこで彼は壊れた。引退して間もなく精神に変調をきたし、精神病院に収容される。伝えられるところでは、街路で服を破り、紙幣を川に投げ捨てるなどしていたという。彼は施設の中で死んだ。1884年ごろとされる。

因果応報だと言いたくなる。でも、その読み方はたぶん安っぽい。確かなのは、この男が死んだあと、ジュリアの遺体はもう誰の「妻」でもなくなり、純粋な物件になったということだ。マリー・バーテルはドイツに戻り、やがて遺体を売却した。ここから、ガラスケースの中の女性は、持ち主を転々とする長い旅に出る。

1895年、ウィーンの興行師の集まりで叩き売られた

記録によれば、1895年、ウィーンで開かれた興行師の集まりで、ジュリアと赤ん坊の遺体は売りに出された。誰の手に渡ったか、正確なところははっきりしない。以後、ヨーロッパの見世物市場を、彼女は所有者を変えながら移動していく。

ドイツの博物館に貸し出された時期がある。オーストリアの遊園地にいた時期がある。スウェーデンを回った時期がある。第一次世界大戦前後の混乱期には、記録そのものが途切れる。

この空白の数十年間について、確かなことを言うのは難しい。ただ、ひとつだけはっきりしている構造がある。彼女はもう「誰か」ではなく「何か」になっていた。所有者が変わるたびに、彼女の名前と経歴を知る人間が減っていく。ガラスケースの中の毛深い女性は、やがて由来のわからない見世物の目玉になる。人間の遺体だという事実すら、興行の口上の一部として消費される。

ノルウェーへ。「人よ、汝自身を知れ」

1921年、ベルリンで、ノルウェーの興行師ホーコン・ルンドが大量の見世物コレクションを買い付けた。総数8000点と言われる「驚異の陳列室」だ。標本瓶に入った臓器、奇形の胎児、人体の一部。その中に、ジュリアと息子がいた。

ルンドはこのコレクションをノルウェー各地の巡業に持ち回った。彼が掲げた興行の標語は、「人よ、汝自身を知れ」。教育である、という建前だ。実際には、金を払って死体を見に来る娯楽だ。だがこの建前が、20世紀に入っても見世物興行を延命させた。医学教育、人類学的資料、公衆衛生の啓蒙。呼び名を変えれば、続けられる。

ノルウェーでの展示は数十年に及んだ。1950年代には倉庫に入り、1970年代に入って再び小規模な巡業が試みられた記録もある。アメリカへ持ち出されたこともある。

だが、時代が変わった。1973年、スウェーデンが営利目的の遺体展示を法律で禁じた。ノルウェーでも当局が展示を認めなくなっていく。ジュリアの居場所は、舞台から倉庫へ移った。

1976年、彼女をマネキンだと思った少年たち

1976年、オスロの倉庫に何者かが侵入した。少年たちだった。彼らはガラスケースの中の人影をマネキンだと思い、ジュリアの腕をもぎ取った。

そして赤ん坊のほうは、修復不能なまでに壊された。この息子の遺体は、この時点で回収を諦められ、廃棄された。名前もつけられないまま36時間だけ生きた男の子は、死後116年目に、ゴミとして処分されたことになる。

この事件は、ある意味でこの物語の中でいちばん静かに残酷な場面だと思う。悪意がない。少年たちはただの悪ふざけをした。彼らはそこに人間の遺体があるとは思っていなかった。100年以上ものとして扱われ続けた結果、彼女は本当に、見る人にとって「もの」になっていた。

1979年、彼女は消えた

1976年の事件のあと、コレクションはさらに管理が緩んだ。そして1979年、倉庫にまた侵入があり、ジュリアの遺体は行方不明になった。

盗まれたのか、当局が押収したのか、どこかへ移送されたのか。当時の報道も混乱している。とにかく、ガラスケースの中の女性はノルウェーの公的な視界から消えた。1980年代を通じて、彼女がどこにいるのかを知る人間はほとんどいなかった。

この11年間の空白が、のちに返還運動をやりにくくした一因でもある。所在が確定しない遺体について、どの国のどの機関に交渉すればいいのかがわからないからだ。

1990年、地下室のコンテナ

1990年、ノルウェーの犯罪専門誌の記者たちが、彼女を見つけた。場所はオスロの法医学研究所の地下室。封をされたコンテナの中だった。

見つかった彼女は、腕が失われ、防腐処理の状態も劣化していた。それでも、間違いなくジュリア・パストラーナだった。

このスクープをきっかけに、ノルウェー国内で議論が始まる。埋葬すべきだ、という声。医学史的・人類学的に貴重な標本だから研究のために保存すべきだ、という声。1990年代前半、政府レベルでも検討がなされ、埋葬が望ましいという判断が一度は示された。だが実行されなかった。研究界からの保存要求が強かったからだ。

1997年、彼女はオスロ大学に移された。基礎医学研究所の解剖学部門。管理者は解剖学者ペール・ホルク。彼女は封印され、大学の地下に置かれた。一般公開はされない。だが埋葬もされない。

これは進歩なのか。見世物としては終わった。でも彼女は今度は「標本」になった。展示されないだけで、依然として所有され、管理され、学術的な価値によって存在を正当化される物体であることに変わりはない。この状態が16年続く。

ラウラ・アンダーソン・バルバータという人

証言のみっつめ、というより、この物語を終わらせた人物の話をする。

ラウラ・アンダーソン・バルバータ。メキシコシティ出身の美術家で、シナロアにも縁を持つ。彼女がジュリア・パストラーナの存在を知ったのは2003年のことだ。きっかけは家族だった。姉妹のカティ・クレブロが、ジュリアを題材にした舞台作品に関わっており、衣裳のことでバルバータに相談を持ちかけた。

そこで話を聞いたバルバータは、この一件を知って、放っておけなくなった。彼女がのちに繰り返し語っているのは、こういう趣旨のことだ。ジュリアはメキシコ人で、カトリック教徒で、埋葬されるべき人間だった。150年経っても埋葬されていないという事実は、美術の主題ではなく、単純に片づけなければならない不正義である、と。

ここが効いていると思う。バルバータはアーティストだが、この件を作品にすることを最初の目的にしなかった。まず遺体を家に帰す。作品はそのあと、あるいは並行して。この順序を最後まで崩さなかったところに、彼女の運動が10年続いた理由がある。

彼女はまず、2004年から2005年にかけてオスロに滞在した。ノルウェーの現代美術支援機関を通じた滞在制作の枠組みだ。そこで大学関係者、政治家、活動家に片端から会い、管理者であるペール・ホルクとも直接やりとりを始めた。

2005年、オスロの新聞に載った死亡広告

バルバータの手口がうまいのは、法的な話をする前に、社会的な事実を作りにいったところだ。

2005年、彼女はオスロの新聞に、ジュリア・パストラーナの死亡広告を出した。1860年に死んだ女性の訃報を、2005年のノルウェーの新聞に載せたわけだ。そして同じ年、オスロの聖ヨセフ礼拝堂でカトリックの追悼ミサを行った。参列者は数百人にのぼり、その中にはサーカスや大道芸の関係者も多くいた。同じ稼業で生きている人間たちが、150年前の同業者の葬儀に来た。

この二つは、法的には何の効力もない。だが決定的だった。死亡広告とミサが行われた瞬間、ジュリアは「標本番号」から「死者」に戻る。死者には葬られる権利がある。この一点を社会的な既成事実として先に作ってしまえば、あとは大学がその事実に対してどう応答するかという話になる。

同じ2005年、彼女はノルウェーに新設されたばかりの委員会に、正式にこの案件の審査を求めた。人体遺存に関する研究倫理を審査する国家委員会だ。ジュリア・パストラーナの件は、この委員会が扱った最初の事案になった。

2007年から2011年、地味で長い時間

ここからが長かった。バルバータは当初、遺族を探す線を追った。遺伝学者に相談し、DNAで縁者を特定できないかを検討した。だがこれは行き詰まる。19世紀メキシコの山村の記録は、そもそも残っていない。

そこで彼女は方針を切り替える。血縁による返還請求ではなく、道徳的・倫理的な議論で押す。歴史家のリカルド・ミミアガと組み、シナロア各地の教会に残る洗礼記録や出生記録を洗い、ジュリアがシナロアの人間であることを文書で固めていった。

2011年、転機が来る。メキシコの大手紙レフォルマの記者シルビア・ガメスが、バルバータの10年近い活動を記事にした。この記事から火がつき、国際的な報道が連鎖した。それまで一人の美術家の私的な運動だったものが、メキシコの国民的な関心事になる。

2012年4月、シナロア州知事マリオ・ロペス・バルデスが、ノルウェーの委員会に対して正式に返還を求める書簡を送った。バルバータが用意した、道徳的・倫理的・社会正義上の論拠を並べた文書が添えられていた。個人の請願が、州政府の外交案件になった瞬間だ。

2012年6月、委員会が結論を出した。ジュリア・パストラーナ本人が、自分の遺体が標本として留め置かれることを望んだとは考えられない。彼女はカトリック教徒であり、その信仰に従って埋葬されるべきである。委員会は返還を勧告した。オスロ大学も、基礎医学研究所も、これを受け入れた。

2013年2月7日、棺が閉じられた

2013年2月7日、オスロ大学病院リクスホスピタレットの礼拝堂で、非公開の儀式が行われた。ジュリア・パストラーナの遺体が棺に納められ、封をされた。

立ち会ったのはバルバータと、オックスフォードの法人類学者ニコラス・マルケス=グラント。遺体の同定と状態の記録、そして正式な封印の手続きを踏むためだ。100年以上、誰の許可も要らずに開けられ、動かされ、売られてきた体に対して、初めて厳密な手続きが適用された。

その後2月8日から10日にかけて、棺はメキシコへ運ばれた。到着地はシナロア州都クリアカン。

2013年2月12日、シナロア・デ・レイバ

2013年2月12日。シナロア州シナロア・デ・レイバ。彼女が生まれた土地のすぐ近くだ。

公式の式典と、カトリックの葬儀ミサが行われた。棺の内側には、先住民の織り手フランシスカ・パラフォックスが織った儀式用のウイピルが敷かれた。オアハカの職人と組んで作られた、先スペイン期の様式を汲む織物だ。そして棺の中には、彼女の息子の写真が納められた。息子本人の遺体は、もう存在しない。1976年に捨てられている。だから写真を入れた。

参列者は白い薔薇を投げ入れた。学校の生徒たちが来た。市長が来た。州の関係者が来た。

墓は、厚さ1メートル以上のコンクリートで固められた。これは装飾ではない。二度と誰にも掘り返させないための処置だ。彼女の遺体は153年間、盗まれ、壊され、売られ、行方不明になり、地下室に置かれてきた。だから最後に、物理的に不可能にした。

1860年3月25日に死んだ女性が、2013年2月12日に埋葬された。その間、152年と324日。

そもそも19世紀のフリークショーとは何だったのか

ここで少し引いて、彼女が置かれていた産業の話をしておきたい。医学の話は別に譲るとして、興行の構造の話だ。

19世紀のアメリカとヨーロッパでは、身体的な差異を持つ人間を見せる興行が巨大な産業だった。ダイムミュージアムと呼ばれる常設の見世物館があり、巡業サーカスの付属興行としてのサイドショーがあり、万国博覧会に併設された「人間展示」があった。バーナムのアメリカン・ミュージアムはその頂点だ。

この産業には確立した文法があった。研究者ロバート・ボグダンが整理したところによれば、演出には大きく二つの型がある。ひとつは「高貴化」の型で、演者を貴族や名士に仕立て、洗練された教養人として売る。もうひとつが「異国化」の型で、遠い未開の地から連れてこられた野生の存在として売る。ジュリアに使われたのは後者だ。しかも徹底的に。

ここで嫌なのは、この二つの型が、演者の実際の人格とは無関係に選ばれるという点だ。ジュリアは教養があり、複数言語を話し、音楽の素養があった。高貴化の型で売ることは十分可能だった。だがレントは異国化を選んだ。そのほうが儲かるからだ。メキシコ先住民の女性という属性は、19世紀の白人観客にとって、「野生」の物語に流し込みやすかった。人種差別と障害の見世物化が、ここで完全に合流している。

さらに1859年、『種の起源』が出る。以後、見世物興行は「ミッシングリンク」という言葉を手に入れた。人間と類人猿の中間の存在。この売り文句は爆発的に効いた。ジュリアの興行も、そしてバーナムが売り出した「ホワット・イズ・イット?」の演者も、この文脈で消費された。科学的な議論の熱が、そのまま見世物の切符に変換されていく。彼女がヨーロッパを回っていた1857年から1860年は、まさにその転換点にあたる。

ネットと研究界隈で、今も割れている論点

この話がSNSやまとめサイトで拡散するとき、決まって出てくる論点がいくつかある。整理しておく。

まず「彼女は幸せだったのか」問題。最期の言葉を根拠に、彼女は愛されていたのだから不幸ではなかった、と言う人がいる。日本語のブログでもこの議論はある程度されていて、外見の衝撃度だけで人生を「不幸」と断定するのは乱暴だ、という指摘には確かに一理ある。彼女には歌とダンスという技能があり、それを披露する舞台があり、拍手を受けていた。技能に対する誇りがあった可能性は否定できない。

だが反証も強い。第一に、あの最期の言葉の一次資料が確認されていない。第二に、彼女は移動中ヴェールを強制され、興行以外での社会生活を持てなかった。これは環境の統制であり、その中で表明された感情をそのまま自由意志の産物とは扱えない。第三に、レントの死後の行動が、この結婚の性質を後から照らしている。愛していたなら、六か月かけて剥製にして切符を売らない。

次に「見世物は本人の生計手段でもあった」論。これは外せない論点で、実際に19世紀の障害を持つ人々にとって、見世物興行は数少ない稼げる職業だった。当事者研究の領域では、フリークショー演者を一方的な被害者として描くことへの批判が長くある。演者が興行主と契約交渉をし、高収入を得て引退した例もある。ただ、ジュリアの場合は当てはまらない。彼女は自分の興行の収益を管理していなかった。契約の主体でもなかった。夫が所有者だった。

三つめが「大学は間違っていたのか」論。オスロ大学が16年間彼女を保管したことについては、擁護もある。1990年の発見時、彼女はもっと悲惨な状態に置かれるおそれがあった。大学が引き取ったからこそ、破壊も売却もされずに残った。実際、返還後の彼女の状態が保たれていたのは保管があったからだ。この指摘は正しい。だが、それは「保護」の正当性であって、「保有し続ける」ことの正当性ではない。ノルウェーの委員会が最終的に出した結論も、まさにそこを分けている。

四つめが、返還運動と芸術の関係だ。バルバータの活動が、結果的に彼女自身の作品群を生んだことについて、批判がなかったわけではない。他人の遺体をめぐる運動を自作の素材にしたのではないか、という視線だ。これに対しては、時系列が反論になる。バルバータは2003年に知って、2005年に死亡広告とミサをやって、そのあと7年間、成果の出ない地味な交渉と資料調査を続けた。作品として発表されたものの多くは2012年以降だ。順番が逆だったら批判は当たっただろう。

なぜこの話が今も刺さるのか

彼女の物語は、19世紀の残酷な逸話として消費されがちだ。でも、刺さる理由はそこじゃないと思う。

刺さるのは、この話が「見る側」の問題だからだ。ジュリア・パストラーナに起きたことのほとんどは、彼女が何かをした結果ではない。彼女を見た人間が、見たものをどう扱ったかの結果だ。医者は所見を書き、記者は記事を書き、興行主は口上を作り、観客は切符を買い、ダーウィンは伝聞で数行書き、少年たちはマネキンだと思って腕をもいだ。誰も彼女に聞かなかった。

そして「見る側」の問題は、19世紀に終わっていない。今、身体的な差異を持つ人がネットに動画を上げると、コメント欄は一瞬でゴシック・ホールの客席になる。「勇気をもらった」という善意の消費も、露骨な嘲笑も、構造としては同じことをしている。相手の身体を、自分の物語の材料にしている。19世紀と違うのは、切符が要らないことだけだ。

もうひとつ刺さるのは、153年という数字そのものだ。この数字は「悪い時代があった」という話ではなく、「悪い扱いは自動的には終わらない」という話をしている。彼女の遺体は、時代が進歩したから解放されたのではない。2003年に一人の美術家が話を聞いて、それから10年、粘ったから解放された。誰かが具体的にやらない限り、地下室のコンテナは開かない。

そして最後に、いちばん救いのない事実がある。彼女の息子は、まだ帰っていない。1976年に廃棄され、どこに行ったかもわからない。母の棺に入れられたのは、彼の写真だけだ。この物語は完全には閉じていない。

彼女の「声」は、なぜ二つしか残らなかったのか

改めて、この一件の全体を見渡して考えたいことを書いておく。

まず、ジュリア・パストラーナという人の「声」がどれだけ残っていないか、という問題だ。ここまでで、彼女自身の言葉として引けたのは実質二つしかない。フリーデリケ・ゴスマンに語った「夫はわたし自身を愛してくれている」と、出典の怪しい最期の言葉だけだ。英語とスペイン語を流暢に話し、読み書きができた人間が、25年生きて、確実な自分の言葉を二つしか残せなかった。この不在は偶然ではない。彼女の周囲にいた人間全員が、彼女について書く仕事をしていながら、彼女に書かせる仕事は誰もしなかった。医者は興行主に質問し、記者は看板を写し、興行主はパンフレットを捏造した。書く権限が、常に彼女の外側にあった。彼女の生涯を語るとき、我々が使える資料はすべて「彼女を見た人」の資料だ。この構造そのものが、彼女に何が起きたかの最も正確な記述になっている。

次に、ダーウィンの数行について、もう一度考えたい。あれを「大科学者のうっかりミス」として片づけると本質を外す。あの記述の問題は事実誤認ではなく、参照経路だ。ダーウィンは1868年にロンドンで、彼女の防腐処理された遺体が展示されていたことを知り得た。会いに行くことも、生前に会うことも、少なくとも理屈のうえでは可能だった。だが彼は歯科医が取った型の話と伝聞で書いた。11年前にランセットに載っていたローレンスの正確な報告も参照しなかった。なぜか。おそらく、彼女が「見世物」だったからだ。見世物の情報は、見世物の流通経路に乗って伝わる。学術的な検証を経ずに、逸話として学術書に流れ込む。19世紀の科学は、フリークショーから素材を仕入れていた。仕入先の品質を検査せずに。この構造は、彼女を人間と認めなかったモット医師の「交雑種」説と、根っこでつながっている。

三つめに、遺体の153年という時間の意味だ。この期間、彼女の体は一度も「無主物」にならなかった。常に誰かの所有物だった。夫、二人目の妻、ウィーンの興行師、ドイツの博物館、ノルウェーの見世物師、そして最後に大学。所有者の性質は、下品な興行主から権威ある研究機関まで幅広く変化した。だが所有されているという事実だけは一貫していた。ここが肝だと思う。彼女の状況が最も改善したように見えた1997年のオスロ大学移管ですら、所有関係は解消していない。展示から保管へ、娯楽から学術へ、変わったのは正当化の言葉だけだ。返還運動が最終的に勝ったのは、この正当化の言葉に対して「本人が望んだか」という一点を突きつけたからだ。ノルウェーの委員会の結論は、学術的価値の有無を論じていない。本人の意思の推定を論じている。判断の軸をずらしたことが、16年動かなかった状況を動かした。

四つめ。ラウラ・アンダーソン・バルバータのやり方から学べるものは大きい。彼女は最初、遺族探しという「正攻法」を試みて失敗している。DNAで縁者を見つければ請求権が生じる、という筋読みだ。だが19世紀メキシコの山村に戸籍はない。ここで多くの運動は終わる。彼女は終わらせず、論点を血縁から倫理に移した。同時に、死亡広告とミサという、法的には無意味だが社会的には決定的な行為を先に打った。ジュリアを死者として公的に扱う既成事実を、交渉が始まる前に作った。この二段構えは、他の遺体返還案件にも応用が効く発想だと思う。実際、南アフリカへのサラ・バールトマンの返還や、いくつかの先住民遺骨返還の事例と並べて論じられることが増えている。

五つめに、この物語の「終わり方」について。2013年2月12日の埋葬は、感動的な結末として報じられた。棺に敷かれた織物、白い薔薇、学校の生徒たち、1メートルのコンクリート。確かに美しい。だが同時に、あの日にできたのは彼女の体を土に返すことだけだ。彼女が経験した25年間は取り返せないし、153年間の扱いも消せない。息子は帰ってこない。埋葬は補償ではない。中断だ。150年以上続いていた不正義の連鎖が、そこで止まっただけだ。止まっただけでも大きい、というのが正直な感想でもある。人はどこかで止めない限り、こういうことを永久に続ける。

最後に、この話を書いていて一番引っかかったことを書く。彼女の興行を見た観客の多くは、たぶん悪人ではなかった。1シリング払って、珍しいものを見て、驚いて、家に帰った。それだけだ。ロンドンの記者たちは彼女の教養に感心し、好意的な記事すら書いた。バックランドは彼女を人間だと明言した。ランセットは技術を評価した。誰も、自分が加害の側にいるとは思っていない。この物語で最も恐ろしいのは、明確な悪意の欠如だ。レント一人が例外的に悪辣なだけで、あとは全員、その時代の常識の範囲内でふつうに振る舞っている。だからこの話は今も刺さる。我々がふつうに振る舞っている今日の何かが、150年後に同じように読まれる可能性を、この話は静かに示している。彼女は自分について何も書き残せなかった。だから、書けるほうが書いておくしかない。この文章はそのためのものだ。

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